粉川哲夫の【シネマノート】
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2002-07-30_2

●竜馬の妻とその夫と愛人 (Ryomanotuma to sono otto to aijinn/2002/Ichikawa Jun)(市川準)


◆会場は大きいが客がたった10人ほどというのは、どうしたことか? でも、この反応はけっこう正しかったかもしれない。
◆話は、江戸が終わって13年たち、ちょうど坂本竜馬の13回忌に時期ということで、勝海舟(橋爪功)、谷千城(嶋田久作)、菅野覚兵衞(中井貴一)らが集まって、竜馬の未亡人お龍(おりょう/鈴木京香)をどうするかということになる。彼女は西村松兵衞(木梨憲武)と再婚しているが、伝わってくる噂はよろしくない。そこで、お龍の妹を妻にした菅野が、横須賀の貧民窟に様子と見にいくことになる。実在の人物が出てくるので、あれこれ想像する楽しみはある。とりわけ、死後ますます「偉大な男」として神話化されたていく竜馬とはうらはらに、不遇な生涯を送ったとされているお龍は興味を引く。が、この映画は、史実を新解釈するものではないし、そういう新視点もない。
◆映像は、最初、いいなと思わせた。光の微妙な変化を捕えたいかにも映画的な質感をもって映像で、このぶんなら行けるぞと思わせた。松兵衞の住んでいる長屋の雰囲気もよく撮れている。が、結局、三谷幸喜の脚本がテレビ調であり、かつ演劇調なので、次第に映像は、ビデオ化を最初からねらったようなアップの多い画面になってしまった。木梨憲武は強烈なテレビのキャラクターだから、映画で力を発揮する中井貴一も、安手なコメンディアンの相手役のような感じになってしまった。鈴木京香は、さすが、見事な演技を見せているが、それを十分いかせていない。だいたい、「竜馬そっくり」(あくまでテレビ的な基準で)の人物(江口洋介)を出しておいて、あとで種明かしをしてしまうのでは、話が安くなる。三谷だからしょうがないといえば、それまでだが、その「安さ」が全然面白くないのだから、困る。
(東宝試写室)



2002-07-30_1

●ドールズ (Dolls/2002/Takeshi Kitano)(北野武)


◆予想通り、あっと言うまに満席。わたしの隣に息せきってやってきたおじさん。映画が終わるまで荒い息の調子が残ったのは、心配。心臓が悪いんではないでしょうか?
◆豊竹嶋大夫ほかによる文楽『冥土の飛脚』の上演シーンから始まり、それがかなり長い。そして、次に満開の桜の下を、腰に赤い紐を結び合い、放心したように歩く男女(西島秀俊と菅野美穂)の姿が映る。「道行き」の型を継承しているという暗示。二人はなぜそんな道行きをしているのか?
◆場面は教会に移る。そこでは、いま結婚式が行なわれようとしている。西島は、菅野と結婚の約束までしていたが、彼の勤める会社の社長と彼の親との強力な勧めに従って急に彼女との約束を破棄し、社長令嬢との結婚を決意したということが、友人たちのひそひそ話で告げられる。
◆この映画には、3組の「道行き」が描かれる。彼らに共通しているのは、「初心」(過去の思い)を通すということ、失われた「初心」を取り戻すことであり、それらが、突然の決心のなかで行なわれる点だ。
◆西島は、結婚式に来た友人に菅野が自殺未遂を起こし、いま療養所で放心状態にあるということを聞かされると、結婚式を投げ捨てて菅野のもとへ行き、何もわからない彼女を連れ出し、そのまま放浪の旅に出る。最初の方の赤い紐は、初め、彼女がどこかへ行ってしまうので結んでおいたものだが、やがてそれは、「つながり乞食」のスタイルとして他人の目には映る。
◆ヤクザの親分の三橋逹也は、体の衰えを感じたとき、ふと青年時代に好意をよせていた女友達(松原智恵子)のことを思い出す。二人は、集団就職で埼玉の鋳物工場で働いて(とは明記されないが、ちょっと『キューポラのある町』の雰囲気)いて、昼になると、公園のベンチで彼女が用意した弁当をいっしょに食べるのを常としていた。が、景気が悪くなり、主人が無理して彼を雇っているのを気にしてそこをやめ、東京に出る決心をする。「立派な人間になってまたもどってくる」(よくこういう台詞がありました)。それから半世紀がたったが、彼は、子分に車を運転させて昔の公園に行って見る。
◆武重勉は、アイドル歌手の深田恭子のおっかけのためにこの10年を暮してきた。おっかけができるように定職につかず、コンサートやサイン会には必ず姿を現わした。競争相手もいて、あせりを感じていたある日、道路工事のアルバイトをやっていて、ビルの電光ニュースに、深田が交通事故を起こしたことを知る。彼女は、顔面を怪我し、再帰不能になる。そのとき、彼女の写真集を見ながら彼がやったことは、目をカッターナイフで突くことだった。
◆菅野/西島組よりも、三橋/松原組と武重/深田組のほうが印象深いのは、過去との関係の強度のちがいによる。菅野/西島組を構成する過去は、決して強烈なものではない。2人が西島の裏切りによって切断した過去をたぐるとしても、その過去は、決してユニークなものではない。だから、2人の「道行き」は、西島が自分の裏切りの罪をつぐなっているようなモラリッシュな雰囲気を帯びてしまう。
◆三橋/松原組は、松原が、土曜になるとかかさず弁当を2つ持って公園のベンチにやってくるということを30年もやっていたということがわかるとき、その過去は、猛烈に輝く。松原は、痴呆でも狂気でも思い込みの趣味でもない、ある種形而上学的なスタンスを見事に演じている。(菅野もうまいが、彼女は、病気を見事に演じているにすぎない)。
◆醜くなったスターの顔を見ないために盲目になることと、見えるものと見えないものとも向こう側にあるものを見出す深田とが手をつないで真っ赤な薔薇の園を歩く「道行き」。このシーンはなかなかいい。谷崎の『春琴抄』を思い出した。
◆直感的に絵を描くように、色、衣装、小道具を次々に飛躍させていくアンチ・リアリズムの手法は成功している。衣装は、山本耀司で、彼は、この映画を「ヨウジヤマモトのファッション・ショウにさせていただく」と言ったとか。だから、あんなファッショナブルな服をどうして着られのかと疑問に思うのは、ばかげている。2人を結びつけている紐も、最初は、どこにでもあるようなロープだった(ただし赤いのはあまりない)が、やがて、古典的に布で編まれた太い紐になる。
◆子分をつれて、三橋に小遣い銭をもらいに通って来るホーキング青山の役は、あまり意味がない。彼が電動の車椅子で走っているかたわらを紐に結ばれた2人が通るのだが、ホーキングの個性が中途半端に使われている。
◆この映画に出てくる「友人」は、みな意地が悪い。スィートな感じの人間がほとんどいない。これは、北野の人間観から来るのだろうか? 欠落と障害のなかでしか人と人は愛し合えないという彼の思想。
◆冒頭から海外の映画祭を意識した作りだが、今回は、『HANABI』ほど嫌みでなない。
◆映画を見ながらふと思ったが、日本は、過去をいいかげんにせざるをえず、そのツケを払おうとすると現在を否定せざるとえないというパターンで出来ている社会であり、そういう歴史なのではないか。「道行き」が基本になっている。しかし、それは、過去をとりもどすことではない。
(松竹試写室)



2002-07-26

●アバウト・ア・ボーイ (About a boy/2002/Paul Weitz)(ポール・ウェイツ)


◆なかなかいい。基本に「少年愛」があると思うが、それは、単なる制作の推進力にし、ポスト・カップル時代の意識を形にしている。
◆イギリスでは、もうカップル関係は古いという意識が強まっているのだろうか? そもそも、近年のローナー指向は、カップルを形成できない、カップルになっても壊れてしまうのではないかという恐怖間からもそうすることができないところから生じた自己防衛でもある。「人間は孤島(アイランド)である」と言い他者(とりわけ女性)と永続的な関係を避けるウィル・フリーマン(ヒュー・グラント)は、クリスマスには「レンタルビデオと酒とクサ」ですごすように、人と真正面からつきあうのはごめんだと思っているローナーである。ところが、その彼が、ひょんなことからのっぴきならない関係になってしまった少年マーカス(ノコラス・ホルト)を通じて、自分が無(ナッシング)だから他者に距離を取り、それを「自由」と錯覚する自分に気づく。「人間は孤島ではない」、「孤島の時代」は終わった、と。が、だからといって、かつての「カップル」関係を復活させようとするのではない。そこが、この映画の見どころだろう。
◆最近、ヴェネチア市長をつとめる哲学者ましーも・カッチャーリが来日したりして、「群島」( isola)という概念がよく話題にされる。別にカッチャーリをまつまでもなく、すでに1960年代以後、時代は、「多様体」や「リゾーム」や「多数の歴史」の時代に入った。こうした動きは、テクrノジーの基盤が情報へシフトしていくのと深い関係があるが、人間は、時代の風が変わっても、そう簡単にはその風に乗ることはできない。身体が周囲環境に慣れてくるのには30年ぐらい必要だからだ。(日本は300年ぐらいかかるか?)
◆登場人物の内的独白がかぶるスタイルはめずらしくないが、ウィルとマーカスの2人の人物の内的独白が交互にかぶるスタイルはめずらしい。それでふと思ったが、この「内面」はたがいにどう関係しあうのだろう? 「内面」は平行線をたどるのだろうか? それとも、この映画的空間を通じてその2つの「内面」は混じりあい、交錯し、交流しあっているのだろうか? このへんが、この映画の面白さでもある。
◆『ハイ・フィディリティ』はDJオタクの話だったが、同じ原作者ニック・ホーンビーのこの原作でも音楽が重要な意味をもっている。映画では、ロバータ・フラックの「キリング・メ・ソフトリー」がキー・ソングになり、マーカスを学校で孤立させ、そして、同じソングが彼とウィルとを深く連帯させる。
◆ここでは、親子関係のなかでの「父親」の陰はない。マーカスの母親フィオナ(トニ・コレット)は、いつも滅入って泣いてばかりいるが、ポストパンクといった雰囲気の彼女でも、マーカスの「父親」がほしいとは思っていない。トニ・コレットは、子供のほうが困ってしまう親を見事に演じている。ある意味で、いまの親は、子供を困らせることが多い。そのために子供は老成する。
◆もっとも、ウィルは、街で見たSPAT (Single Parent Alone Together)の広告で、シングル・マザーの集まりに参加して、彼女らの気を引くことを考える。会の女たちのなかには、自分の子供に最適の「父親」をさがしている者もいる。そこで知り合ったスージー(ビクトリア・スマーフィット)も、そんな一人。彼女に、いもしない「息子」と「二人を捨てて出て言った妻」のでっちあげ話をして女たちの同情を買い、スージーとデートに成功したまではよかったが、そこで彼女の友達のレイチェル(レイチェル・ワイズ)を紹介され、そしてその息子のマーカスを知ることになる。
◆基本に、シングル・ペアレント・ファミリー以後の家族の問題があることはたしかである。それは、イギリスでも大きな関心事である。が、シングル・ペアレント・ファミリーというのは、もはや、本来そうでないこととはみなすことはできない。それは、新しいファミリー形態の一つと考えなければならない。だから、この映画は、そうした70年代には新しかったファミリーが、第2のステージに入り、それが積極的に他と新しい関係をもとうとしはじめたということとの関係で見たほうがよい。
◆マーカスは、ある種のフィリーターなのだが、けっこう広いフラットに住み、そこそこの蔵書棚があり、マックでネットサーフィンをやっている。
(UIP試写室)



2002-07-25_2

●スズメバチ (Nid de Guepes/2002/Florent-Emilio Siri)(フローラン=エミリオ・シリ)


◆変な予感がしたが、やはりつまらない作品だった。悪行のかぎりをつくしたアルバニア・マフィア(!)の最高幹部がドイツで逮捕され、裁判に処せられるにで、それをフランスに護送するという名目はあるものの、外的設定をしてはでな銃撃戦を見せることが目的という作り。それは、ゲーム的なのだろうが、映画はゲームではない。ゲームをかたわれでながめているようなもので、ばかばかしい。
◆冒頭、本当のスズメバチの映像が映ったのでヤバイと思った。別にスズメバチそのものの映画ではないから、こういう出し方は、メタファーなのだ。つまり、やがてスズメバチの〈ように〉襲ってくる集団が出現するだとうということが原始的なやり方で暗示されるのだ。そんな単純なスタートをする映画は、大体おそまつである。

(渋谷東急)



2002-07-25_1

●ロード・トゥ・パーディション (Road to Perdition/2002/Sam Mendes)(サム・メンデス)


◆映画がはじまってしばらくして、わたしは、一瞬、ウディ・アレンの『カイロの紫のバラ』のようにスクリーンから突然、人間が飛び出してきたのかと思った。それは、遅れて来た女性が、空き席を見つけ、頃合いを見計らってパッと座席に滑り込んだのだったが、急だったので、びっくりしましたわ。
◆実にスタイリッシュ。親子の関係がテーマだが、街路や室内の臭いや質感が直接伝わってくるような奥行きと厚みと高い質感の映像。
◆殺し屋の父親マイケル(トム・ハンクス)と息子たち(マイケル・ジュニアとピータ)。父親を雇っているギャングのボス・ジョン(ポール・ニューマン)は、発作的に人を殺す出来の悪い息子コナー(ダニエル・クレイグ)に悩み、マイケルを息子のように可愛がる。が、そうなればそうなるほどコナーはジョンに嫉妬し、たまたま父親の仕事を不審に思い、父親がコナーと「仕事」に行くときその車のボックスに忍び込み、父親の仕事を知る。このときも、マイケルは、もしコナーが狂ったように銃を発射したために、手荒い「仕事」をしなければならなかった。が、コナーは、父親にこのことを叱責されると、かえってマイケルを恨み、彼の妻と息子を殺す。このとき、コナーは、自分の汚点を盗み見たマイケル・ジュニアを殺すつもりが、ピータの方を殺してしまう。
◆この映画でも、ハリウッド映画の基本要素としての家族が要になっている。一人の「悪」によって追いつめられる父子家族、もはや更生不能の悪と知りながらその息子との家族関係を断ち切れない父親。どちらの家族が生き残るのか? それは、ハリウッド映画だから、前者に決まっている。
◆最初のシーンは、成長したマイケルが、海岸に背を向けて回想する。この物語は、彼の回想によって構成されているわけだが、それは、なき父への想いでもある。父を慕い、回想や想像のなかで再構成するタイプの父親復権映画は、いま、アメリカでは受ける。
◆シンジケートのフランク・ニッティ(スタンリー・トゥッチ)の紹介で、マイケル殺害のための刺客が差し向けられるが、その役をやっているのが、ジュード・ロウ。「スピグラ」(Speed Graphic)を放さないプロのカメラマンだが、死体写真が専門で、本当の専門は殺しという人物。設定はなかなか面白いが、ちょっとこの映画のプロットのなかでは飛びすぎで、ロウが浮いてしまう。だから、彼が登場するあたりから、映画は、スタイルのためだけの映画のような趣を呈する。殺し方が「おしゃれ」なのだが、それまでに深刻な物語展開を壊してしまう。ジュード・ロウとこの役で一本作れたし、そのほうがよかった。この映画の殺し屋は、顔を見せず、不気味な感じだけでよかったはず。
◆ニューマンが車の傍らに立っていて、そのそばに子分たちがいる。そこへ、トム・ハンクスが離れて所から姿をあらわす大詰めのシーンなんか、うなりたくほどうまい。スタイリッシュな方向としては、こちらの線にとどめ、ひと味違うジュード・ロウ的なスタイリッシュネスは、別枠にしたほうがよかった。
(FOX試写室)



2002-07-24

●CQ (CQ/2001/Roman Coppola)(ローマン・コッポラ)


◆タイトルは、アマチュア無線などで「どなたか応答願います」という意味だが、実際にこの映画は、「CQ, CQ, CQ」(_ . _ . _ _ . _)というモールス信号の音ではじまった。わたしは、中学生のときモグリのアマチュア無線をやっていたので、「CQ」という略号にはなじみがある。が、わたしは、この略号を使いながら、その背後にある心理に気づかなかった。どうやら、ローマン・コッポラは、「CQ」によって、「だれかわたしの相手をしてください」「恋人募集」といった意味を示唆しているらしい。たしかに、「どなたか応答願います」と言う以上、そこには、他者とのコミュニケーションの期待やある種の孤独がつきまとっているはずだ。そういえば、『コンタクト』のなかに、主人公の女性がその少女時代にアマチュア無線をやっているシーンがあり、それは、父親から宇宙人をカバーする他者へのコミュニケーション的欲求を示唆するシーンでもあった。
◆スタイルは、ゴダール時代のヌーベルバーグ・スタイルを素朴になぞったよう。ゴダールは、自分が登場するプライベートフィルム的なものと、『軽蔑』のようなドラマのある作品とを区別したが、コッポラは、両者をまぜあわせる。
◆ゴダールは、映画をつくっている自分を描くことはしたが、プライベート・フィルムを作っているのを正面から描くことはしなかった。この映画は、1969年のパリ(5月革命の終わった時代)で、自分の日常を撮影し、鈴木志郎康のように映像日記を撮っているアメリカ人青年ポール(ジェレミー・デイヴィス)の話。仕事は、B級映画の編集者だが、イタリア人のプロデューサー(ジャンカルロ・ジャンニーニ)は、こんな監督(ジェラール・ドパルデュー)じゃ、売れないとして、売りだし中の軽薄を絵に描いたような「天才監督」(ジェイソン・シュワルツマン)と首をすげかえる。が、ジェイソンは、女と遊びまわっていて仕事をしないばかりか、あげくのはてに車の事故を起こし、(それを口実に)下りる。結局、監督のしごとは、ポールのところにまわってくる。
◆パリのわびしいアパルトマンでいっしょにくらしているパリジェンヌ(エロディ・ブシェーズ)とのいかにもヌーベルバーグっぽいサエない関係とか、主役の女子大生女優(アンジェラ・リンドヴァル)に傾斜していく過程とか、ヌーベルバーグっぽい雰囲気はあるが、企画からはずされたドパルデューが、本気の「左翼革命」の信奉者で、最初の路線からどんどんナンセンスに傾いていく映画に、怒り狂い、撮影所に忍び込んでフィルムを切り裂いたりするのを経験して、ポールは、彼の「革命」の理念を映画の基調として守ろうとする。
◆ヌーベルバーグの監督は、自分の映画で主役を演じさせた女優を自分の女房にする(しかし、あまりかっこうよくない)というのがパターン(日本の「ヌーベルバーグ」だった大島渚もその線を追った)だから、この映画は、ヌーベルバーグの基調をおさえているといえるが、「革命」うんぬんは何とも1960年代らしくないし、また、ヌーベルバーグ的でもない。当時の「革命」は、こんな茶番ではなかった。ウディ・アレンの『バナナ』がキューバ革命やチリの革命をパロディ化したときは、もっとしっかりした視点があったが、ここには、同じ時代区分の平面の上でカタログ化された事象のひとつとして「革命」がとりあげられているにすぎない。
◆しかし、水槽の水に絵の具を垂らして、それをカメラで撮る(これは、CGが猛烈高い時代にCGまがいの映像をつくるテクニックだった)シーンとか、1965年生まれのローマン・コッポラは、この時代にあこがれと思い入れがあるのだろう。ゴダールだけでなく、フェリーニ、アントニオーニ、バディム、ロージーなど、60年代中期から後期にかけての映画の「引用」(正直言うと「引用」にまで届いていない)を意図してシーンが多々ある。しかし、60年代願望だったら、ヴィンセント・ギャロなんかのほうがいいのではないか?
(アミューズピクチャーズ・スクリーニングルーム)



2002-07-23

●アイリス (Iris/2001/Richard Eyre)(リチャード・エア)


◆題名は、イギリスの女性作家アイリス・マードックからとられている。マードックといえば、わたしは、かつてこの作家を「遅れて来た実存主義作家」という印象をもって読んだ。実際に、彼女には、最初の評論集として『サルトル――ロマンティックな合理主義者』(1953)があるように、サルトル哲学に共鳴する点を見出していた。わたしのように実存主義がまだ生き残っている時代に学生をやっていた者には、マードックの処女小説『網のなか』(たしか白水社から翻訳が出た)の情感はすぐに共有できた。小説を読んだわたしの印象では、この映画で描かれているような同伴者ジョン・ベリーがいるようには見えなかった(家族の欠如は実存主義系の小説の特徴である)が、やはり彼女はポスト実存主義の人であったのだ。
◆いつも思うのだが、ケイト・ウィンスレットという女優は、裸になるのが好きであり、それによってセクシーさを出すのがうまい。この映画でも、夫とともに素裸で水泳をするシーンでそれを見せる。この映画では、水にもぐるシーンがたびたび出てくる。映画の冒頭も、ウィンスレット演じる若き日のアイリスと若きジョン(ヒュー・ボナヴィル)とが水のなかを泳いでいて、そのシーンが老いたアイリス(ジュディ・デンチ)と老ジョン(ジム・ブローベント)の同じシーンに重なりあう。
◆アイリスの栄光が、母校オックスフォード大での講演のシーンでちらりと描かれたのち、ドラマは、アイリスが次第にアルツハイマー病にむしばまれていくさまと、それを限界までささえるジョンとの日常が、過去との並行的な対比のスタイルで描かれる。トーンは、アイリスの小説のように、細部のリアリティがしっかりおさえられ、映画としての質は高い。
◆しきたりや常識にとらわれず奔放に生きた才気にあふれた一人の女性が、ある日、ありふれた言葉が思いだせなくなり、愕然とする。言葉で生きている人間が言葉を失う恐怖。そして、やがて、いま言ったことも忘れてしまい、身の回りのことができなくなるだけでなく、自分が誰であるのかもわからなくなる。内から破壊されていく肉体と精神。この映画は、アイリス・マードックの伝記と切り離して見ても、考えさせるところが大だろう。
◆記憶喪失は、『メメント』でも『マルホランド・ドライブ』でも『マジェスティック』でも重要な鍵だったが、それらは、ドラマのための操作的(オペレーショナル)な設定でしかない。
(松竹試写室)



2002-07-19

●リターナー (Returner/2002/Yamazaki Takashi)(山崎貴)


◆映画が始まるとき、隣の爺さんが、椅子の背から30センチぐらい離れて腰掛けていて、落ち着かなかったが、映画に引き込まれるうちに忘れた。が、1時間ぐらいして、すごいいびきがするので見ると、今度は完全に背もたれに沈没して深い眠りに陥っているのだった。劇場関係の人のようだったが、これじゃあね。
◆意外にいい。映像とそのテンポのレベルは、ハリウッドや最近の韓国に劣らない。鈴木杏が、すばらしい出来で、金城武はもとより、岸谷五朗をも完全に食ってしまった。男優2人は、どちらもワルを演じるのだが、極ワル役を演じなければならない岸谷には、荷が重すぎた。とにかく、わたしは、鈴木杏の眼の天才的なばかりの演技に惚れた。『ヒマラヤ杉に降る雪』でも、小さいのになかなかの演技をしていた。
◆これまでの日本の映画で「特撮」を使うと、ハリウッドで1、2年前に使ったテクニックのおこぼれを遅れて使っていた。この映画でも、ツール自体は、独自に開発したものよりも組み合わせて使っているが、その使い方のレベルが上がり、独特の表現ができるようになった。単に空間を華麗にするためにCGを使うのではなく、時間操作のために使うのがいい。全体として役者の台詞は稚拙だが、わたしは、大いに楽しんだ。終わり方がちょっともってまわっているが、それも大目に見よう。
◆なお、未来に起こる全地球規模の厄災を、過去にさかのぼって操作しようというテーマは、目新しいものではないが、過去にもどってわかるのが、岸谷五朗が演じる人物のほとんど一人の「悪」が諸悪の根源だったという発想は、見かけ以上に面白いし、歴史的現実と個人との関係、歴史に対する個人の「責任」の問題を考えさせる。
(東宝試写室)



2002-07-18_2

●スコルピオンの恋のまじない (The Curse of the Jade Scorpion/2001/Woody Allen) (ウディ・アレン)


◆またしても、ウディ・アレンの衰退を見せられてしまった。こういうのは悲しい。スーザン・E・モースが去ったあと編集を担当したアリサ・レセプターもだめなのだろう。とにかく、二番煎じも、催眠術にかかるシーンで『ニューヨーク物語』(こちらは「手品」のシーンだったが)で使ったのと同じ音楽が(しかも)くりかえし使うなんて凡庸なことはしてはならない。冒頭のクレジットのバックで鳴るジャズも、音量がやや低く、スタートとともに「ウディ・アレンだ」と感じさせる響きと情感がない。アレン自身も、疲れて老い方が目立つし、声も風邪あがりのよう。
◆隣の兄さんが、缶コーヒーを一口すすっては、床に置くので、かがむとき、わたしの体に触る。そのうちコーヒーが切れたら、今度はガム。ツーンという安い臭い。トルシエ(サッカーの監督)のそばにいたらいつもこうなのだろうか?
◆ウディ・アレンは、70年代の爆笑的なもののあと、ニューヨークのユダヤ人インテリを主人公にした新しいタイプの映画を創造した。それらを見ていると、かつての爆笑に代わって、音楽と都市のイメージとサビとユダヤ的ユーモアのきいたせりふとが絶妙な味を出し、終わったあと、「うまいなぁ」という満足感が内に拡がっていくのを感じたものだが、そういう感じは、『世界は女で廻っている』(1997)で終わった。スーザン・E・モースが最後に編集を担当した『セレブリティ』(1998)にもかなりその味は残っていたが、バランスが悪かった。
◆最近の二番煎じは、全盛期のアレンを見ていない観客には、彼や彼女らが、70年代のスタンダップ・コメディ的な要素をたっぷり含んだ作品をあらためて見る機会を与えるという点ではいいかもしれない。が、アレンが、下層階級の学歴の低い、滑稽な人物から、ニューヨークの神経症的な知的キャラクターを描くようになったのは、一つには、アレン自身の生活の変化だけでなく、彼自身が体を張ってスタンダップ・コメディを演る歳ではないと思ったからだ。それは、成功し、だからこそ、80ー90年代の作品は、面白い。いまになって、昔やっていたことをやられると、何か痛ましい感じがしてならない。
◆女優の選択はあいかわらず見事。会社の合理化のために入社した、ばりばりの「キャリアウーマン」ベティ=アンを演じるヘレン・アント、金持ちの娘だが(がゆえに)スネクレて悪ぶっているローラを濃艶に演じるシャーリズ・セロン。
◆保険会社の同僚の誕生パーティで集まったクラブで、催眠術のショウがあり、サエないC・W(ウディ・アレン)と、彼をいつもばかにしているベティ=アンが舞台に引き出されて催眠術をかけられる。このシーンは、『ニューヨーク物語』で、息子(アレン)が閉口しているユダヤママが、舞台に引き出され、剣を刺す箱に入ったまま忽然と消えてしまうというシーンと、設定は多少異なるがほとんど同じ発想で作っている。ここでは、C・Wとベティ=アンは、ふだんは罵詈雑言を言いあっているのに、催眠術をかけられて、突如たがいに愛を告白しあうようになる。
◆やがて、まずはC・Wのところにそのときの魔術師から電話がかかってきて、ショウのとき使ったサインの言葉「コンスタンチノーブル」が告げれれ、C・Wは、言いなりに富豪の家に忍び込み、宝石や貴金属を盗み出す。これが、みな予測できるから、全然面白くない。さらに、この手口が、ベティ=アンにも向けられるはずだと思っていると、案の定、そうなる。
◆アレンは、すでに『泥棒野郎』(1969)でも催眠術を使っており、催眠術には関心が深いし、『カメレオン・マン』(1983)でも、ゼイリークは、催眠術の治療を受ける。今度の映画には、最初に「1940年」という時間指定の表示があるところを見ると、アレンは、含みとして、1940年という時代が、ある種、集団「催眠」の時代と考え、そういう側面も暗に示したかったのかもしれない。この映画が何かを触発するとすれば、この問題だけだ。
◆ハリウッド映画では、催眠術は、実に安易に用いられる。そんな簡単に催眠術にかかり、「無意識」を語り出すなら、苦労はいらない。これは、頭を花瓶で殴られると、すぐに昏倒するハリウッド映画のパターンと同じものだ。
◆ベティ=アンは、外向きの顔とは裏腹に、妻のいる社長(ダン・エイクロイド)の隠れた愛人として苦しんでいる。2人が彼女のアパートで離婚問題を話合っていたとき、C・Wは、たまたま、彼女が窃盗の犯人ではないかと疑い、彼女のアパートに潜入している(これもありがちなパターン)。そして、優柔不断の社長に絶望し、彼を追い返したあと、ウオッカをあおって窓から飛びおりようとする。あわてて飛び出すC・W。ちょっとグっとくるシーンだが、ちょっとトーンがちがう。本来のアレンなら、そのとめ方がもっとこっけいな感じになったろう。普通にとめたので、観客はグっと来てしまい、笑えない。
◆しかし、このあたりから若干、テンポがよくなる。ジョークも、ただの皮肉の言いあいではなくて、深いアイロニーのこもったものになる。「鼻炎の大熊みたいないびきをかいて寝ていたよ」。「頭じゃなくて心で判断しなけりゃだめだ。脳細胞より、血液は、体中を旅しているから視野が広いんだ」。「そんなことは、multiple stupidityだ」。
(ヤマハホール)



2002-07-18_1

●釣りバカ日誌13 (Tsuribaka-nisshi/2002/Katsuhide Motoki)(本木克英)


◆シリーズ12のときも、前から2列目に老夫婦がいて、それが、およそ映画関係者とは異なる雰囲気で、しばしば映画の最中に声を出して話し合ったりし、周囲の顰蹙を買った。たぶん、同じカップルと思われる2人が、同じ席にいたので驚く。今回は、映画が始まったら、静かだった。一体どういうカップルなのだろうか?
◆前にも似たようなことを書いたが、天皇制の日本で相対的に「自由」に生きたければ、この映画のハマちゃんのように生きるしかない。が、ハマちゃんは「自由」でも、彼の課長(谷啓)はいつも胃薬を飲んでいなければならないように、また、彼の友人の釣り船屋主人の太田八郎(中本賢)は、ボリビア人の奥さんに逃げられ(エクアドルの芸人と出来てしまった)、今回の主要ゲストスター鈴木京香が演じる設計部の才媛桐山桂の家には、医師の仕事を終えると、一人ビールを飲むしかない父(杉浦直樹)と引きこもりの弟がいる。まわりは、決して「自由」ではない。つまり、この世界には、平均的な「自由」はほとんどないのだ。「まれびと」だけが「自由」になれる天皇制社会。
◆三國連太郎が演じる鈴木一之助は、「象徴天皇制」下の「天皇」である。彼は、鈴木建設の長であるが、釣りの世界では、ハマちゃんと階級を越えたつきあいをしている。これは、「銭湯に行ける天皇」という鶴見俊輔が理想とする「象徴天皇」像を体現している。
◆今回のもう一人のゲストスターは、富山の老舗薬問屋「天狗堂」の会長黒部五郎(丹波哲郎)である。彼は、鈴木建設に建築を依頼した美術館のデザインを自ら描き、その通りに建てろと言ってきた。そのデザインのひどさに驚いた設計部の桐山桂は、設計デザインは、鈴木建設側でやらせてほしいと会長に「直訴」する。これでわかるように、黒部五郎は、いなかの「天皇」つまり古いタイプの「天皇」なのである。剣が好きで、部下(岡本信人)も、いつでも切腹できるように短刀を用意している。
◆ハマちゃんは、黒部をたずねるときも、「会長いる?」と敬語を使わない。彼は、階級を超越した存在だ。つまり「まれびと」なのである。
◆建築現場で職員が、動画カメラのついたケータイで現場を映し、その映像を会議室でプロジェクターで映し、議論するシーンがある。最近のあらゆる動向にも関心を示すこの映画は、定見がなく聞き書きする新聞のトレンド欄より、日本の動向の概略をつかむのに、はるかにいい。
◆桐山桂の家の2階の自室にあるコンピュータは、みな、SotecのPCだった。
◆鈴木建設の社員は、会長以外は、ハマちゃんまでも、みな首からネームカード(要するに名札)を下げているが、最近、わたしの大学でも、教員が、そういう名札を下げるべしという「お達示」がまわっているらしく、嬉々として実行している教員がいる。名札をつけなければ誰だかわからないほど、いまの組織は、個人を無個性にしてしまうのだろうか? そういえば、名札をつけないわたしの名を、「桜川哲夫」と書いた学生がいた。同僚の「桜井哲夫」とわたしとの合体である。
(松竹試写室)



2002-07-15

●猫の恩返し (Nekonoongaeshi/2002/Morita Hiroyuki)(森田宏幸)


◆「付録」で同じスタジオギブリ制作の短編『ギブリーズ epsode2』(百瀬義行)が上映された。これは、『猫の恩返し』を作ったスタジオギブリとどの程度の共通性がるのかどうか知らないが、同名のアニメーション制作会社の面々のコミカルな行動と生活のつかのまを描いている。今回は、主人公「野中くん」(声:西村雅彦)、「ゆかりさん」(声:鈴木京香)、「奥ちゃん」(声:古田新太)の3人が、「トシチャン」(声:小林薫)のせこい激辛カレーショップに行く話。すっとぼけたペーソスと一時代昔へのナルシスティックな執着とが一つの情感と雰囲気を作り、手作り的なテクスチャーにこだわりながら、ときにはキレのよい、スピーディな動きをともなう映像が面白い。電車が走っていくシーンを映し、画面が車両のなかに早いスピードでズームしていくシーンなど印象に残っている。
◆猫は記憶に執着しない動物で、「恩返し」とは無縁の動物だと思うが、たしかに、この映画でも、本当の恩返しをするのは、猫の国でも「下積み」のユキ(声:前田亜季)であって、最初に出てくる「恩返し」は、自分勝手な欲望を満たすための口実にすぎないことがすぐ暴露する。人間の世界に、恋人のためにお忍びでプレゼントを買いに来た猫国の王子ルーン(声:山田孝之)が、車に轢かれそうになったのを助けたハル(声:池端千鶴)のところへ、猫国の王(声:丹波哲郎)が家来をともなってやってくる。それは、礼にかこつけて(だんだん昂じてか?)人間の血を猫の王族のなかに迎え入れ、猫族の再生をはかろうというこんたんがあった。
◆猫王が夜中に輦台(れんだい)のようなものにのって、家来をたくさん連れてハルの家にやってくるシーンは、狐の嫁入りの行列を真似ている。
◆原作は、柊あおいの『バロン 猫の男爵』。柊は、少女マンガの「伝統」でもあるロマンティックでかっこいい世界への夢としての階級制願望がある。猫王国は、完璧な階級社会だが、それに反抗する「バロン」は、人間の国で「猫の事務所」を開いている「亡命者」である。バロンことフォンベルト・フォン・ジキンゲン男爵という名の通り、高貴な血筋を暗示している。つまり彼は、ある種、貴種流離譚の主人公である。
◆猫王国からの招きに頭を悩ますハルのところに、ある日、どこからともなく、「猫の事務所」を訪ねるようにという声が聞こえる。そして、やがてその声の主は、猫王国で城に勤めているユキであることがわかる。王子ルーンは、父親とは反対の性格で、ひそかにユキを愛している。彼が、人間の街に買いにきたユキへのプレゼントは、魚の形をしたクッキーなのだが、ユキがこのクッキーに執着する理由には、実は、ハルとの関係があった。ハルは、幼いとき、街で捨てれれて子猫に魚の形をしたクッキーを与えていたのだった。このシーンは、泣かせる。
◆が、この映画は、宮崎駿流の「教養小説」(ビルドゥングスロマン)ないしは啓蒙主義の路線で作られている。猫の国は、「労働の拒否」の社会であり、働くことが価値ではない。が、この映画は、ぜんぜんいいことではないということを「教え」ようとする。こうした基調のために、ドラマ的に「感動」させるユキとハルとの関係も、結果的に、さりげない小さな親切の大切さを「教える」といったいやみな表現になってしまう。
◆階級社会がダメなことはあたりまえだし、その醜悪さとダメさかげんは、猫王やその側近たちのドタバタで十分表現されているが、ハルは、やはり「高貴」な存在=バロンに助けれれ、そこを脱出するだけであって、そこを変えはしないのだ。このへんの構造は、『千と千尋の神隠し』とそっくりである。
◆原作/脚本は、全体を少女ハルのベッドの上での「夢」と受け取れるような構造にもなっている。その線で映画を作れば、啓蒙主義は出なかっただろう。昔、知りあいに風情のある場所を紹介しようと、わたしの仕事場の近くにある無量寺という真言宗の寺に行ったら、あちこちに猫がいた。住職の奥さんが餌をやって集めているらしいが、ながめているわたしたちに、「猫は女の生まれ変わりです」と言った。このことを拡大解釈すれば、少女ハルが捨て猫のユキに共感を持つのは当然で、両者のあいだには、運命的なつながりがある。ユキは、ハルの別世界のアイデンティティであり、人間世界がどんなりに無階級制になっても、彼女は、王国をゆめ見、そして恐れるのである。なお、この映画の世界でも、父親の存在はほとんど無である。
(東宝試写室)



2002-07-12

●命 (Inochi/2002/Shinohara Tetsuo)(篠原哲雄)


◆アメリカ映画のように、「これはすべて実話にもとづいている」とは出ないが、登場人物は、原作に従ってすべて(?)実名である。そのなかには、わたしが知っているひともいて、ちょっと違和感を感じる。実名小説というのはあるが、小説や映画は、決してその実在を包含することはできないし、紙やフィルムに描かれた人物は、それぞれの回路で一人歩きする。その結果、物語は、「実在」の人物とは関係ないと割り切らないとがまんがならなくなる時点が必ず来る。この映画も、「実在」の世界をよく知っている者には、相当の違和感があるだろう。
◆しかし、柳美里は、決して「私小説」作家ではない。たぶん、「私小説作家」とカテゴライズされる作家たちも、決して「実生活」をそのまま描こうとしたのではないはずだ。柳の場合は、自分の体と私生活の諸現象を原稿にするという形で現実を構築しなおすパフォーマンスをしているのだという自覚があるはずだ。彼女=身体や私生活がまずあり、そのあとで原稿表現が出てくるのではなく、原稿表現によってはじめて、彼女=身体や私生活が存在しはじめるという強迫観念。これは、いま、大なり小なり広まっている社会風潮だが、多くの人は、「自己中」、「オタク」、「ひきこもり」という消極的な形で表現するが、柳は、それをマスメディアで公開し、社会化し、金にもする。ナルシシズムの一つの形態としての、ナルシシズムを社会化する方法としての執筆。
◆映画は、柳のそうした屈折を出すにはいたっていない。それは、彼女が脚本を書いていないというだけでなく、彼女の役をする江角マキコは、あくまでも役者としてその役をしているのであって、柳のようなナルシシズム・パフォーマンスとして演技しているのではないから、当然である。これは、単なる「モデル」映画にすぎない。
◆映画は、原作から引きづっている「事実」を意識すると、柳美里(江角マキコ)と東由多加(豊川悦司)の共犯的なマゾキズムに立ちあうことを求められる。というのも、柳は愛してもいないように見える男の子供を生み、東はその子をいっしょに育てることを引き受けることによって、自分の来たるべき死(末期ガン)に意味を与えると同時にもっと生きていたいという生への執着に苦しみ、柳もその苦しみを共有するからである。それは、自分たちで自分らを追い込んだ結果であり、他人が共感できるものではない。が、映画は、見ているうちに、そうした「事実」をだんだん忘れ、あたかも、子供が生まれると時を同じくして「夫」の死を宣告された「夫婦」が、限られた時間を懸命に生きる話のように見えてくるという仕掛けで作られている。
◆前提的な「事実」を凝視すれば、2人は「悲劇」演じているのである。が、演劇を再現して撮った映画は、喜劇ではないか? 演技的には、豊川悦司は、ラッセル・クロウなみにがんばった。いい演技をしたと思う。
◆とはいえ、こういう生き方も、生の奔放さ(子供の生は奔放である)を処理する方法、また、死の恐怖と闘う方法としては、意味がある。柳は、子供を単に育てるのではなく、死に行く男に「父親」を演じさせ、自分のパートナーとすることによって(さすが男の介護者としての「献身さ」は演じていない)育児を通常とは別のもの(彼女はあたりまえのことは嫌う)にすることに成功した。他方、東の方も、子供の育ての親になることによっと、さもなければ、より死を早めるような投げやりな生活を続けたではずだが、それをあらため、ニューヨークに治療に行ったり、誠実に向きあう医師(平田満)とは別のアクの強い(普通なら絶対に東が嫌う)医師(江守徹が実にねちっこい感じを出している)を訪ねたりして、生きようという気になる。これは、西井一夫の生き方にも通じ、ある種世代的なものがあるのかもしれないが、わたしなんかから見ると、子供を生み、育てるのせよ、死と直面するのせよ、他人を巻き込まないでやればいいじゃないかという気がする。
(東映試写室)



2002-07-11

●タイムマシン (The Time Machine/2002/Simon Wells)(サイモン・ウェルズ)


◆マリオンの階段で列を作って待っていると、いつもながら、いろいろな話が聞こえてくる。おもしろいのは、このごろ話題の多くがメールに関することであることだ。こんなこと、わたしがメールをはじめたころには想像できなかった。
◆冒頭、アレグザンダー・ハーデゲン(ガイ・ピアース)が、黒板に向かって無数の数式を書いている。例によって、一時代まえの科学やテクノロジーの専門性を表現するパターンである。いまならさしずめコンピュータを登場させる。いずれの場合も、安易なパターンである。
◆ハーデゲンが、タイム・マシーンを開発するきっかけは、恋人エマ(シエナ・ギロリーが魅力的に演じている)の不慮の死だった。結婚寸前の逢い引きの日、彼女は、ワシントン・スクウェアで強盗に遭って殺される。愛する者を取り戻したいという願望は、過去を取り戻そうという努力に一般化される。が、完成したタイム・マシーンで最初に飛んでいった少し前の過去の世界では、エマは、今度はブリーカー・ストリートで馬車に轢かれて死んでしまう。過去は取り戻せないのか?
◆2030年代に飛んだハーテゲンは、パブリック・ライブラリーでホログラムのガイド(オーダンドジョーンズ)に会う。彼は、AIの人格であるが、これが、80万年後の世界で、唯一人間の記憶をとどめている「人格」となる。
◆2030年や2037年への飛躍は何ら驚きではないが、80万年先の時代へのタイム・スリップは、なかなかスケールが大きくて面白い。しかし、そうした先の時代のイメージが、「神」化した人間(ジェレミー・アイアンズが薄気味悪く演じる)が、遺伝子操作されたような怪獣を使って他の人間集団を襲わせるという否定的世界なのは、月並みである。未来に明るいイメージは持ちにくいとしても、別にこう判で押したような不幸が描かれなくてもいいだろう。人間が全部「神」になったような世界はなぜ描けないのか?
(丸の内ピカデリー)



2002-07-05_2

●阿弥陀堂だより (Amidado-dayori/2002/Koizumi Takashi)(小泉堯史)


◆映画が終わって出口で、配給会社のひとが、出てきた糸井重里に「いかがでした?」と訊くと、「時代劇みたいだったね、ハハハ、面白かった」と一言。鋭い。これでこの映画の本質は言い尽くされている。
◆冒頭、樹木と清流が強調された「自然」の豊かな山沿いの道を寺尾聡と樋口加南子が歩いてくる。「自分の意思で何でも出来ると思ったけど、そんなことないのよね」と樋口が語り、信州の新生活を賛美する。この、東京で病院勤務のエリート女医(樋口加南子)と新人賞後ヒットが出ない作家(寺尾聡)は、彼女の神経疾患の発病を機に、寺尾の故郷の信州に移り済んだばかりであることが段々わかる。村には、96歳の老婆(北林谷栄)が阿弥陀堂を守って、そこに一人住んでいる。彼女のところに通い、「阿弥陀堂だより」という聞き書きを書いている聴唖の女性(小西真奈美)がいる。寺尾の中学時代の教師(田村高廣)は、末期ガンの身にもかかわらず、自宅で妻(香川京子)とともに、淡々と暮している。すべてが、絵に描いたような「自然」で「まっとう」な暮し。これに対して、樋口が発作を起こすシーンで、1度だけ挿入される東京は、無味感想な場所として否定的に描かれる。
◆老婆を演じ続けてきた北林の演技のなかでも最高のレベルというべき「うますぎる」ほどの演技(最後の方で寺尾と樋口が北林と話しているシーンがあるが、寺尾と樋口が北林を見る目には、作中人物へのではなくて、はからずも役者北林への畏敬の念が出てしまっている)をはじめとして、小西の無言の演技がすばらしいし、他の役者たちもほとんどベストの演技をしている。映画としても、よくまとまっているといえるだろう。が、それにもかかわらず、ちょっと視点をずらすと、全体が極度に欺瞞にみちた、都合のよい、「信州観光」映画に見えてしまうのはなぜだろう? 人間も「自然」はこれほど単純ではないというのが一つ。舞台となっている場所では、折々に季節の祭りや行事があり、パソコンもCATCVや衛星テレビとも無縁の生活を送っている。寺尾/樋口のい夫婦に家には、プロパンのガス台も電気洗濯機も水洗便所も見当たらない。彼は、万年筆で原稿を書き、田村は、(死を予期して蔵書を売り払いがらんとした家――当然冷暖房装置もみあたらない。外との仕切りはガラス戸と障子だけだ)書に親しむ。こういう生活は、不可能ではないが、いまの信州では、およそ現実味がない。ポストモダン趣味というのは、モダニズムから遅れてきた者が、モダニズムをプリモダンの常態と錯覚して模倣することだが、田舎の「自然」に憧れる東京者のなかには、こうした人工的な自然主義に憧れる者もいるかもしれない。そういえば、映画のなかで北林は、「この歳まで生きていると、せつねぇ話は聞きたくない。いい話だけ聞きたいですよ」と言う。なるほど、この映画は、東京人が、つかのま幻想の「田舎」にひたり、癒されるヴァーチャル・スペースなのだ。
◆田村は、死期がさまったとき、香川に向かって、「色々世話をかけたな。先に行くからね」(香川の応えは「長くは待たせません」)と言い、樋口に脈をとられながら逝く。周囲には、村の人たちが彼を見守っている。「寺田先生は、ご自分で息を止めたような気がする」とあとで樋口が述懐するが、畳の上では死ねない時代の「死に方」の夢がここで描かれている。
(東宝試写室)



2002-07-05_1

●ドニー・ダーコ (Donni Darko/2001/Richard Kelly)(リチャード・ケリー)


◆色々思わせぶりな事件と話を出しながら、最後に「何じゃこりゃ」と思わせるクワセモノ作品と断じてしまうと元も子もない。ここには、一つの前提(監督の思い込み的な嗜好)がある。映画で語られることを綜合的にまとめると、それは、宇宙と外宇宙のあいだには、ホーキング流の「ワームホール」、ポータルがあり、人間はそこをくぐり抜けるタイムトラベルをしている。「事故」や「死」は、人がそうした「穴」をくぐり抜ける出来事なのだ、と。
◆ドニー(ジェイク・ギレンホール)は、しばしば「幻想」を見る。ウサギのような耳のある銀色の「悪魔」の面をかぶった人物が登場し、「世界の終わり」を予告する。が、この映像が何とも安っぽく、全体を壊す。もっと安っぽいのは、CG(80年代には斬新だったが、いまではPCで操作できるような)を使って作られたゼリー状のトコロテンのような流体がドニーの体からヘビのようにのびていくやつ。こういう安っぽい映像を使いながら、それでも最後まで見せてしまうのは、面白い。
◆映像が全体にだるい感じがするのは、ドニーの意識に合わされているからだし、観客は、ドニーと同化した形でこの世界とつきあうことにある。ドニーがセラピーを受けているシーン(医師役はキャサリン・ロス)がたびたび出てくるが、セラピー、精神疾患、形而上学的啓示とが入り混じった形で映像化されている。
◆グラアム・グリーンの小説『破壊者』とか、大統領候補デュカキスとブッシュとが、中南米の政策をめぐってテレビで対立意見を述べるとか、『タイム・トラベルの哲学』を書いたことのある老婆(いつも車道で車に轢かれそうになる)(パティエンス・クリーブランド)の存在等々、意味ありげだが、これらがそれほど有機的関係を持っているわけでも、十分活かされているわけでもない。
◆ドリュウー・バリモアは、この映画の脚本にぞっこん惚れ込み、プロデュースを引き受けたそうだが、何が彼女を引きつけたのか? 彼女は、ドニーが火曜学校の教師をしているが、学校の方向を牛耳っているのは、体育教師のキティ・ファーマー(ベス・グラント)で、彼女は、ダン・クエールを支持し、宗教山師のジム・カニングハム(パトリック・スウェイジ)に心酔しているという反動主義者。彼女は、カニングハムのワークショップに入れ込み、生徒を統合的に教育しようとする。バリュモアが演じるのは、そういう傾向を冷笑的に見ている(しばしばファーマーから攻撃を受ける)リベラリストである。
◆カニングハムもファーマーも、要するに白人至上主義的なプロテスタント的価値観の信奉者で、しばしば、生徒に対し、「恐怖」からの脱出を説く。恐怖は悪なのである。ワークショップ(といっても要するに学芸会の練習)のシーンで、ファーマーが抱えている大きな本(たぶんカニングハムの本という設定)の表紙に"Attitudinal Beliefs"(気取った信仰?)という文字が見える。
◆監督のリチャード・ケリーによると、この映画は、最初に80年代の音楽があって、それから映像を考えたある種の「ミュージカル」だとのこと。ま、そう言われてしまうと、何も言えなくなる。
(松竹試写室)


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