粉川哲夫の【シネマノート】
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2002-09-26

●8人の女たち (8 femmes/2002/Francois Ozon)(フランソワ・オゾン)


◆老いからこましゃくれた子供までの女たちの「カラオケ」大会的な雰囲気だが、楽しめる。
◆2階建ての家があり、そこに夫と妻(カトリーヌ・ドヌーヴ)、その娘2人(ヴィルジネー・ルドワイヤンとリュディヴィエーヌ・サニエ)、妻の妹(イザベラ・ユペール)、夫の妹(ファニー・アルダン)、妻の高齢の母(ダニエル・ダリュー)、それから黒人のハウスキーパー(フィルミーユ・リシャール)と新入りのメイド(エマニュエル・ベアール)が住んでいる。夫は2階におり、一度も顔を出さない。出せない事情があるのだが、それは見てのお楽しみ。ドラマは、次々に雪の外から登場人物がやってきて、この家の一階で展開する。非常に演劇的な構成。後半は、アガサ・クリスティ風のサービス。
◆ほとんどフランス映画史を通底するような女優たちが一同に会する。ダニエル・ダリューなんて、わたしがリアルタイムで見たのは、『ロシュフォールの恋人たち』以後だったが、「名画座」やテレビで見た50年代の映画ではジャン・マレー(『ルイ・ブラス』、『忘れえぬ慕情』など)との演技が印象に残っている。ジェラール・フィリップ(『赤と黒』)とか「美男」俳優とは大体共演しているはずだ。
◆イザベラ・ユペールは、本ばかり読んでいて人嫌いのメガネ女を演じるが、いかにも芝居がかった演技がおかしい。ハネケの『ピアニスト』のくそまじめに偏屈な女よりも、こちらのほうがいい。いっそのこと、『ピアニスト』でもこの感じでやったらよかったのではないか。地味な服を来てサエない彼女が後半で一変するところも楽しめる。
◆ドヌーヴも、レオ・カラックスの『ポーラX』ではバイクなんかに乗って夜の山道をぶっとばしてわたしをびっくりさせたが、今回は、かなり太り、パーティに気軽に遊びに来た感じで演技している。とにかく、ミュージカル調で進み、全員がある種のシャンソンを歌う。ダリューの歌い方は、文字通りの50年代風シャンソン。
◆憎たらしい感じを巧みに演じるベアールは、『美しき諍い女』でヌードになって話題を呼んだ。この作品のタイトル(「美しきイサカい女」と読む)を付けたのは、コムストックの市川篤さんだが、当時、この日本上映をめぐって官憲が動くのではないかというので、渋谷のオーチャード・ホールでは、カメラの持ち込みをチェックするという厳重なマスコミ試写をやった。無修正で上映したからなのだが、いまから考えると、おかしいでしょう? 無修正で上映するということが、それほど大変だったのだ。その後、ザナデゥーという配給会社を立ち上げ、『踊るマハラジャ』などのヒットをとばした市川氏も、今年、退社したというハガキをもらった。あっと言う間の10年。わたしに始めて「映画専門誌」に映画評を書かせたキネマ旬報の植草信和さんも辞めたというし。
◆冒頭のタイトルのところで、画面の真ん中に古いフィルムにあるような縦線の傷がちょっと映るのだが、これは、わざとか、それとも、たまたまついてしまったのか? それは、すぐにハデハデなオープニング・クレジットになる。
(ギャガ試写室)


2002-09-24

●ゴスフォード・パーク (Gosford Park/2001/Robert Altman)(ロバート・アルトマン)


◆一つの劇(アルトマンが得意とする「アンサンブル・プレイ」)としては、完成度が高く、役者もうまく、面白いのだが、いまなぜこういうドラマを作るのかがよくわからない。はっとするシーンがないのだ。アルトマンは、『ザ・プレイヤー』(1992)あたりから、いや、すでに『ニューヨーカーの青い鳥』(1986)でもすでにドキっとするような政治性が薄れてしまった。人が他人の悪口を言い、口でいじめるドラマに頼りすぎ。シニカルな感じしかアッピールするものがなくなってきた感じ。
◆1932年という時代設定が重要かもしれない。まさにナチス台頭の、ヨーロッパのみならず世界の転換期。にもかかわらず、この館に集まった連中は、つまらぬことで時間を費やしている。いまの時代も同じかも。アルトマンの批判。
◆場所はイギリスの郊外にあるカントリー・ハウス「ゴスフォード・パーク」。そこに住むマッコードル卿(マイケル・ガンボン)と夫人(クリスティン・スコット=トーマス)が主催するパーティのために客が集まって来る。それぞれに癖の強い人々。招待客のなかにアメリカ人の映画プロデューサーのワイズマン(ボブ・バラバン)がいるが、彼の目からすると、みなイケスカナイ奴ばかり。とりわけ、最初の画面で紹介されるトレンサム伯爵婦人(マギー・スミス)などはその最たるもの。館への道すがら、豪雨のなかで彼女の車が停っているので、通りかかったワイズマンが、「どうしましたか?」と尋ねると、〈見ず知らずの人間にいきなり声をかけられ、迷惑だ〉といような態度をする。
◆アルトマンは、アメリカ人の目からイギリスの階級構造を批判しているのだが、そうした差別化が、貴族のあいだだけにあるのではなく、召使の世界にもあることをあばく。トレンサム伯爵婦人の新入りの召使イザベル(カミーラ・ラザフォード)は、召使の世界の階級性に直面するのははじめてだ。頂点には、執事のジェニングス(アラン・ベイツ)が立ち、そこでは、召使は、自分の名ではなく、使える貴族の主人の名で呼ばれる。孤児の召使ロバート(クライヴ・オーウェン)は、何かと皆からイジワルされる(口先のイジワルだが、それがこたえる)。メイド頭のミセス・ウィルソン(ヘレン・ミレン)と料理長のミセス・クロフト(アイリーン・アトキンス)とのあいだには確執がある。料理長の意識のなかには、自分はメイドなどではないという気位がある。この世界を達観したかのように横断的な態度をとっているのは、エミリー・ワトソンが演じるメイド、エルシーである。彼女は、へまをやるイザベルを助ける。
◆アルトマンの目は、イギリスの貴族がこの映画のように集まる映画『チャーリー・チャンのロンドン冒険』を作るというので、「実地見学」にやってきた「アメリカ人」のワイズマンと「従者」(実はそれに化けている)のヘンリー(ライアン・フィリップ)、ワイズマンの友人でマッコードル卿の従弟、したがって「イギリス人」俳優には、シンパシーがあり、彼らの目から他の連中をシニカルに見ている。
◆それぞれの欲や利害があらわになるのは、定番。マッコードル卿「お楽しみ」のキジ撃ちのシーンが醜悪に見えるのは、この階級の戦争好きをミクロに批判しているのか? そして、最後に、アガサ・クリスティ風の殺人事件が起きる。
◆イゾエル・マコードルは、最初から、アルトマンのお気にいりという感じで撮られている。マギー・スミスはイヤ味な感じを見事に演じる。ジェレミー・ノーザムは、「イギリス人」ばなれをした「イギリス人」を演じるのだが、ほとんどアメリカンだった。彼は、アメリカの俳優だし。クライブ・オーウェンは屈折したキャラクターをそつなくこなす。ヘレン・ミレンは、秘密を押し殺している女の表情ををそれらしく。従者頭・金庫係のジョージを演じるリチャード・E・グラントは、顔だけで決まり。
◆いま、世界中のホテルで(日本語で言う)「バイキング」方式がはやりだが、この映画でも、マッコードル邸に泊まった客たちは、朝食をそういうやり方で食べていた。時代は1932年だが、すでにこういう方式があったのか? 結局、世界は、1時代まえの貴族や金持ちがやっていたことを遅れて模倣しているにすぎない。
◆体のことを言って失礼だが、なぜかわたしの両側に「巨漢」が股を開いて(仕方がないわけでしょうが)座っていて、落ち着かない。大きな身体から発する熱とアウラにやられそう。そのうえ、ひんぱんに座りなおすので、そのたびに横につながっているイスが大揺れする。そのうち、わたしのすぐ左のバンダラさんは、鼻をほじり鼻クソをぱっぱっと捨て始めた。わたしは、環境に左右されやすいので、この映画の感想も、このことで相当歪むのではないか?
(UIP)



2002-09-19

●K-19 (K-19: The Widowmaker/2002/Kathryn Bigelow)(キャスリン・ビグロー)


◆この映画は、冷戦体制の1961年にソ連の原子力潜水艦K-19が実際に直面した事故をめぐるスリリングな(そういうシーンがあるたびに後ろの客がわたしの椅子の背を蹴ったから、そうとうスリル効果はあったのかな?)ドラマである。同時に、その組織とその時代の外側にいる者には、命を無駄にするバカな時代があったのだなという思いにかられる。
◆アメリカへの戦力の誇示のために急造されたK-19は、300メートルの深海から氷の張る洋上への急上昇→原子力ミサイル発射という危険なテストには成功したが、その影響で原子炉が炉心溶融を起こし、自爆の危機に陥る。戦艦が自爆すれば、搭載している核ミサイルの破裂で、ヒロシマの2倍の爆破が起きる。しかも、その地点は、バルト海沿岸のNATOの基地から遠くない。核ミサイルの爆発は、「自由主義諸国」への攻撃と受け取られ、アメリカはただちにソ連への核攻撃のボタンを押すだろう。なにせ時代は、ベルリン封鎖の年、キューバ危機の前年である。そのとき、艦長はどうしたか?
◆K-19の艦長は、ミハイル・ボレーニン(リーアム・ニーソン)が勤めるはずだった。彼は、乗組員チームの深い信頼を集めていたが、党の監督官乗り込みの厳しいテストにひっかかり、副艦長の地位に甘んじることになった。だから、新艦長アレクセイ・ボストリコフ(ハリソン・フォード)への風当たりは強かった。彼の力を示す上でも、彼は、NATO基地の近くの海上でミサイルを発射実験をするという党の命令を300メートルの深海からの急上昇の後に行なうというボレーニンなどには無謀と思える賭けを行なう。映画を見ていると、ボレーニンが、単なる党の指示に忠実なだけの官僚ではないことがわかる。彼の父は、英雄としてたたえられたが、のちに強制収容所に送られた。
◆硬い組織のなかでは選択肢はない。とりわけその長には。原子炉が暴走してほかに止めようがなければ、兵士に命令し、命をかけて暴走を止めることを命令せざるをえない。が、そんな組織のほうがおかしいのだが、人間の歴史は、そういう組織の歴史でもある。それで死んで、「君は英雄だ」と言われてもね。そんなことして守る組織なんかあるのか?
◆結局、こういう話を聞かされると、組織というもののばかばかしさだけが感じられる。人間は、組織なしに生きられないわけではないのに、組織を作り、そのがんじがらめになる。誰もしたくないことを求めるだけでも組織というものが自己矛盾していることがわかる。
◆ビグローは、ロシア人が冷戦体制をささえた感性に興味があったらしい。必ずしも国家への盲従ではなく、独特の同志愛、上官や上司への尊敬心、誰でも同じ愛する家族や恋人への愛・・・。しかし、5年まえから開始されたこの映画の製作が、いま実現した背景には、組織ではないとしても、戦争的体制の現場を守る軍人たちを肯定的に描いているということ――9.11以後高まった臨戦的・国土防衛的ムードの高揚がある。
◆エンド・タイトルに In Memory of Hank Palmieriとあるが、監督のキャスリン・ビグローは、K-19についてのドキュメンタリーを製作した『ナショナルジオグラフィック』のプロデューサーのハンク・パルミエリにリサーチ段階で多くを負っているらしい。彼は、その間に世を去った。
(有楽町スバル座2)



2002-09-18_2

●刑務所の中 (Keimusho no naka/2002/Sai Yoichi)(隹洋一)

◆映画は、花輪和一のコミックにもとづいているが、原作は、花輪がかつて銃砲刀剣類不法所持と火薬類取締法違反で懲役3年を食った経験をもとにしている。冒頭、山崎努が演じるハナワとその拳銃仲間がアーミー衣装に身をかためてバトルごっこをやっており、ハナワが、愛用の拳銃を水の入ったペットボトル(緩衝と消音の効果がある)の口に試し撃ちし、恍惚の表情をするところから、一転して刑務所の場面に移る。花輪和一のことを知らないと、ちょっと飛躍しすぎの展開だ。というのも、冒頭のシーンは、明らかに、ハナワの銃マニアぶりを紹介しようとしているのだが、それがうそっぽく見えるからである。マシーンであれひとであれ、何かに淫している人の目と身ぶりは、つけやきばの演技では無理であり、山崎努をもってしても、(彼がおそらく銃マニアではないために)その手つきや目つきにウソが暴露してしまった。
◆モティーフ的には、いまの日本社会の異化である。刑務所の囚人たちが、すべて命令と許可のなかで動き、そのくせ、食事もそれなりで、シャバのホームレスなどよりはよほど生活が安定している。そこには、(命令と規則を順守していさえすれば)安全きわまりないという異様さと滑稽さ。これは、考えてみると、いまの日本社会の閉塞さそのものではないのか、というのが社会派の崔監督の言いたいところだろう。(彼は、大島渚のあとを引き受けた朝のテレビ番組で、よくそんな憤懣をくりかえしていた)。
◆崔洋一は、刑務所をいまの日本のある種の縮図として描こうとしたはずだが、逆に、日本に社会というのは、どうせなら、こういうふうに徹底してしまえば、実にユニークな社会になれるのではないかと思ってしまった。
◆いちいち許可を受けなければ、床に落ちた消しゴムも拾ってはいけないという規則社会。それに全く反発せずに順守する囚人たち。よく見れば、ジャンクフードにすぎないものを、正月には「オセチ料理が出る」、「映画鑑賞には菓子まで付く」のだった(ハナワのナレーションで)と喜びを隠さない。しかし、これは、アイロニーであり、彼らは、本当に満足しているわけではない。とはいえ、もし、彼らが、この世界をそういう(抵抗せずに)受け入れるならば、なにごとも「平穏無事」に進むのである。
◆ここで、観客は、ふと考えざるをえないだろう。はたして、この生活はいいものなのか、それともやめるべきものなのか?
◆日本の「平和」なんて、所詮は「檻」のなかの「平和」にすぎないという意見がある。が、他方で、「平和」なんてそういう条件のなかでしか可能ではないのだから、それでいいじゃないか、という意見もある。少なくとも、日本という国に住んでいる者は、そこそこの文句はいうが、この映画の獄中のハナワやその仲間たちと同じように、その壁の外へ本気で出る気はない。
◆刑務所のなかの工場で監視する刑吏を演じる斉藤歩がうまい。いちいち許可を求める囚人に、声の上がる方を向き、鋭く指さし、リンとした声で「よし!」と叫ぶのだが、悪意も善意も感じない妙な、ある種機械的な感じが面白い。その点で、医官を演じる椎名桔平は、わざとらしい。
◆予想に反しみな危険なことはしない松重豊、田口トモロウ、大杉漣、香川照之。やや冗長なパターンの演技をくりかえさせられた村松利史。とぼけたおかしさの長江英和。ちょっとヤバイ感じもしのばせる木下ほうか・・・。
(松竹試写室)



2002-09-18_1

●たそがれ清米衛 (Tasogare Seibei/2002/Yamada Yoji)(山田洋次)


◆山田洋次の初めての「時代劇」だというが、山田の映画は、すべて出来上がり、終わってしまっている世界を描いた「時代劇」たっだのではないか、という半畳を入れるのはやめよう。最後に出てくる井上陽水の主題歌をのぞけば、見どころはいくつもある秀作。とりわけ、舞踏家田中゚。を起用し、真田広之と対決させたのは特筆に値する。田中の立ち回りと死に様は見事。声もサビがきいている。映画というのは、どこかに一つ(たとえば、『バニラ・スカイ』の冒頭の「夢」のシーンとか、『オースティン・パワーズ ゴールデン・メンバー』のやはりトム・クルーズがカメオ出演する最初のシーンとか)あれば、それで見る価値があるとすべきだ。
◆しかし、山田の作品がすべて「時代劇」だということにもう少し言及しておきたい。時代劇には、時間のフィルターがかかる。時代をいまとして描くことは難しいし、そうなれば、「時代劇」の体裁をとっていても、現代劇だ。パゾリーニとかテロ・アンゲロプロスのものがそうだ。しかし、山田洋次は、どんなに「いま」的な現代をあつかっても、たとえば、「下町」という時間のずれた場所を設定することとか、いまの時代に背を向けているタイプを重視するとかいうやりかたで、時間をずらすので、観客にとっては、「いま」とは直接関係のない時間空間として「安心」して見れるわけである。
◆ナレーションが岸恵子であることはすぐわかる。「わたしが5歳のとき」で始めることでもうすうすわかるが、最後のシーンでそれがはっきるする。ドラマのなかで登場する幼い娘が歳をへて、この時代を回顧しているのである。時代は幕末で、幕府が崩壊寸前の時代だから、岸は、明治の時代からこの時代を語ったいるわけである。
◆庄内のある藩のお蔵役(蔵の米や所蔵品を管理する会計係のようなもの)をやっている清兵衛(真田広之)は、蔵の仕事を終わると仲間たちとのつき合いをすべて断り、家に帰る。家には、幼い娘が2人とボケが来ている母親がいる。妻は、労咳(ろうがい)で亡くなった。早く帰るのは、家族の世話をするためだけではなく、50石の禄では生活できないので、おもちゃを作る内職をしているからだった。
◆一見剣の腕などたちそうにないように見える清米衛が無類の達人であることがわかるのが、時代劇のパターン。それと、一方に、主人公を慕う女がいるのもパターン。宮沢りえが(今回はまあまあに)演じる朋江という(夫が酒乱で出戻った)女性がそれ。朋江の夫(大杉漣)に決闘を申し込まれ、しぶしぶ闘ったのだ。
◆その腕のほどが藩の上役に知れ、藩の命令(一種のリストラ)に従わず家に立てこもる馬廻り役の余吾善右衛門(田中゚。)を討つことを命じられる。
◆この映画には、封建性の無情なところはあまり強調されない。お蔵の仕事場のトップ(小林捻侍――ちょっと見にはわからない3枚目のメイキャップ)など、山田洋次がサラリーマンを撮ればこうなるであろうようなキャラクターに仕上がっている。結局、この映画、真田と田中の立ち回りを唯一の見せ場にして、あとは、山田がとらえる「現代の」サラリーマン、貧しくても助け合って生きる山田流「家族」の雰囲気を適度にブレンドした話だ。
(松竹試写室)



2002-09-17

●小さな中国のお針子 (Balzac et La Petite Tailleuse Chinoise/2002/Dai Sijii)(ダイ・シージェ)


◆昔「ガスホール」というと「試写」という印象の強いスペースだった。いまは、ややうらぶれた小ホールである。上映装置も古くなり、スクリーンの映像も鮮明ではない。
◆冒頭、山の細い道を列をなして登る都会のにおいのする若者の列。「われら毛沢東の紅衛兵」という子供の歌声がきこえる。若者のなかには、つまづいて転んでしまう者もいる。時代は、1971年。「ブルジョア思想」に染まったとされる者は、地位、年令にかかわりなく、田舎に強制的に身をあずけられ、それまでやったことのない労働につかされた。これを「下放」という。すぐにナレーションで始まるところをみると、この時代から時間が経過してからこの時代をながめるという設定なのだろう。
◆17才のマー(リュー・イエ)と18才のルオ(チェン・コン)は、下放を命じられ、チベットの国境沿いの鳳凰山に送り込まれる。彼らは、そこで「お針子」と呼ばれる娘(ジョウ・シュン)に遭う。彼女は、仕立屋の祖父(ツォン・チーチェン)に育てられ、彼の仕事を手伝っている。彼らは、2人に密かに手に入れたバルザックやフロベールの小説を読んできかせる。ルオは彼女に恋し、シャイなマーも密かに彼女を愛する。話は、三角関係に発展するのではなく、彼女が次第に自分にめざめていく過程を描く。文化大革命の時期の屈折が、単なる文革批判とは異なる視点で描かれている。
◆しかし、現実にはそうだとしても、バルザックを読んで「文明」の価値を自覚するというのは、古すぎるのではないか? そういう話があったということなら、それ以上は言えない。が、どんな時代劇も、それが製作され、公開される現在と関係を消去することはできない。監督のシージェは、この映画の時代設定と同じ時期に「下放」させられ、1984年以後フランスに渡った。そうした彼としては、下放を認めることはできないし、僻村の現実を肯定するわけにもいかないのだろう。が、気のせいか、村育ちのはずの「お針子」の身ぶりも、非常に「西欧的」に見えた。
◆映画を見てきて、話をするシーンはメディア論的に面白い。
◆ユーモラスな感じを出すためとはいえ、村長の歯を手製のドリルで治療するシーンのうそ。
◆ぽーんと27年後に飛ぶシーンの唐突さ。マーはフランスのジャーナリストになっており、ルオは上海で医者になっている。
◆昔の村に戻って来たマーが、村人たちが紙の船を水に流す祭りに参加するシーンは美しい。この村は、ダム建設で水没することになっている。記憶を暴力的に消すのが「文明」。
◆ホウ・シェンの表情や仕草が、非常に「西欧的」な感じがするのはなぜなのか? 場数を踏んでいる女優だが、西欧の映画には出ていないと思う。
(ガスホール)



2002-09-13

●群青の夜の羽毛布 (Gunsei-no-Yoru-no-Hanemofu/2002/Yamamoto Fumio)(山本文緒)


◆ある種の「マザコン」、心身症的な「困った」状態を秘めている20代後半の女性さとる(本上まなみ)とひょんなことからつきあってしまった青年鉄男(玉木宏)の目から描かれる奇妙な世界。最初、平凡に進んで行くが、後半は過激。ただ、娘の心身症の要因が母親(藤真理子)の厳格さに帰せられているのは、やや説得力がない。母親の「厳しさ」で娘がおかしくなるとすれば、要因はもっとほかにもあるはず。あとから登場する父親も、何か不自然。むしろ、わたしは、やけに素直で明るく「感じがいい」鉄男にいまの若者の平均像を見た。この方がよほどあぶないのではないか?
◆母親が、鉄男を訪ね、車で2人きりになったとき、娘の彼なのに、彼にせまり、家に連れ込み、「なんだか疲れちゃった」と言って、玄関で激しく抱きつくシーンの藤真理子は実力発揮。といっても、そのシーンがエロティックだったというだけのこと。
◆最初に、いかにもベットタウウン的な街を俯瞰するところを見ると、この映画には、「いまの日本の家族は・・・」といった視点があるのではないか?
◆本上がベットの上で耳をおおうので、なぜかと思ったら、ムンクの少女の絵と重ねているのだった。スチル的に決める映像。
◆ナマ音を多用し、音で観客をある種の意識状態に追いつめるところがある。それと、映画を見ているまわりの人の息づかいや絹づれが気になる。
◆ここでも、事実上父親不在なのだが、いまの日本は本当にそうなのか? 大学で学生を見ていても、そういうことを感じるが・・・。
◆すぐ横の女性が上映直前に息せきって席についたと思ったら、1時間ぐらいしてカバンを置いたまま席を立つ。ケータイのぶるぶるを感知したのか、あるいはテンポがちょっとダレたところで見切りをつけたのか? 終わる20分ぐらいまえに横隣のおやじがケータイ(明るいよ)を見ていたから、退屈だたのかな?
(ギャガ試写室)



2002-09-12

●容疑者 (City by the Sea/2002/Michael Caton-Jones)(マイケル・ケイトン=ジョーンズ)


◆オヤジというのは、「親父」とも「爺」ともは関係ない。だから、その女版は「メヤジ」である。最近メヤジが増えてのではないか? えらくタバコくさい女が隣に座った。スラックスの股を大開きにしてバッグの整理をやっている。このひと、そのまえに10分ぐらい立ったままバッグを座席に置いて整理をしていた。柱が突っ立っているようで落ち着かないと思ったら、今度はこれ。映画が始まったら、ガムの連続摂取。どうやら、タバコが吸えないので、ガムで紛らしているらしい。
◆古典的な作り。大詰めの、デニーロ(父親ビンセント役)とジェームズ・フランコ(息子ミッシェル役)との台詞対決は、『カサブランカ』の大詰めを思わせる。暗唱してくり返し反復するやつが出てくる可能性があるような「名台詞」。
◆この映画では、息子が引き起こすことがすべてを動かしていくのだが、ドラマの根底には、2代にわたって、息子が父親を許し難いとおもっていることを最終的に許すことがある。「いつまでつぐなったらいいんだ?! アンジェロ(ビンセントの孫)もつぐなうのか?」というビンセントの悲痛な叫び。このへんは、いまはやりの父を息子が許すというテーマそのもの。
◆[続]
(みゆき座)



2002-09-06

●凶気の桜 (Kyoki-no-sakura/2002/Sonoda Kenji)(薗田賢次)


◆ヒキタクニオの原作の映画化。音楽をK DUB SHINEが受け持ち、映像的にも実験的だ。現代の日本社会のある側面を照射しており、主役の窪塚洋介が体現する「ウルトラナショナリスト」のキャラクターが増殖していくかもしれないという危惧を示しているようでいて、たとえそんなキャラクターが登場しても、結局は、もっと強力な資本と営利のロジックにまきこまれてしまうという認識が根底にある。
◆日本の将来を危惧し、「非国民、売国奴、右も左も金次第」という憤りを持っているらしい青年山口進(窪塚洋介)が主人公。舞台はいまの渋谷。彼は、古本屋に通い、天皇制、ナチスなどの本を読みあさっている。オウムの「制服」のような白い特注服を着て、市川勝也(RIKIYA)と小菅信也(須藤元気)と3人で「浄化運動」をやっている。街のあちこちで、群れた「軟弱」な若者や学生を襲い、仕打ちを加える。市川と小菅の方は、必ずしも山口と同じ意見で「浄化」をやっているわけではなく、仕打ちを加えながら奪う金品の方に興味があるようだ。
◆3人の暴力と同時描写的に、〈消し屋〉三郎という殺し屋(江口洋介)の仕事ぶりが描かれる。3人の描写が渋谷という街にフィットしているので、江口が登場すると、急にフィクション臭くなるのは否めない。映画のリアリティというのは、実際にそういうことがあるかどうかで決まるわけではなく、その演技がいかに一回的に行なわれたかどうかで決まる。江口の演技は、達者なものだが、ストーリー自体はいかにも映画にありがちなパターンである。
◆3人と〈消し屋〉三郎との接点に原田芳雄が演じる右翼青田修三がいる。彼は、山口らを取り込み、車を渡して便利に使おうとするが、青田は、必ずしも「元気のいい若造」を予備軍にしておこうという魂胆からだけ取り込んだのではなさそうに見える。その点、2番の兵藤(本田博太郎)は、明らかに功利的だ。山口は、青田の誘いを拒むが、次第に彼のなかに自分の「父」を見出していく。が、他の2人はそうではないし、青田の結社も伊達や粋狂でやっているのではないので、やがて、彼ら3人は、ヤクザビジネスの世界に巻き込まれていく。
◆山口は、肉を食わず、菜食主義を通しているらしい。青田に極上のミノを薦められても絶対に食わない。他の仲間が次第に金儲けとしての「浄化」に傾斜していくのを疑問に思っている。そういう山口に、青田は、自分の若い時代を重ね合わせて、かわいく思っているように見える。父なき息子と、家族から疎外されている親父との出会い。
◆山口が、喧嘩の最中に街で出会って、たがいに惹かれるようになる女・遠山景子(高橋マリ子)がいる。高橋は、1984年生まれだそうだが、高校を卒業したばかりの娘役としては、老成し、ちょっとアウラがありすぎる。が、映画はそういうキャラクターを求めて彼女を抜擢したはずだ。だから、彼女の存在は、この映画を、江口の存在と同様に、空想的なものにする。つまり「夢」の部分を代表している。
◆この映画は、山口の生き方や思想を肯定しているようには見えない。青田は、結局、内輪の陰謀で滅びる。最後まで不死身なのは、一匹狼〈消し屋〉三郎と、たぶん彼がくら替えした組織暴力団・小西組であることを考えると、群れる者は滅び、強い個(「大人」)と機械仕掛けのような組織のみが生き残るというのがこの映画の認識論のように見える。が、このへんを、明確に主張しないで描き、判断を観客にまかせるような作り方をしているのがいい。
◆とはいえ、一方で、誰かに同化しながら映画を見ることに慣れている観客は、山口のあせりと呪詛、行動(「暴力こそ正義」)への焦燥感に気を取られるかもしれない。彼を愛するようになる景子は言う。「日本人は腐っているわよ」、「日本という国は好きだけど、最近の日本人は嫌い」。彼女は、電車のなかで、老人に席を譲らずに音楽を聴いている若者を非難の目で見ていた。
◆社会とは、決して、個の綜合でも平均値でもない。それは、理想的には、個の「避難所」であり、個の欲動を実現させるネットワークである。一時代まえにくらべれば、いまの日本社会は、はるかにそういう場になっている。抱き締めたり、叱ってくれはしないが、「避難所」の機能は果たす。つねに危険はともなうとしても、さまざまな関係を作るきっかけを与える場にもなっている。いまの社会と、動員し、強引に集団にくくって一定の価値観や関係を教化し、強制する社会とどちらがいいかといえば、前者のほうがマシなのだ。山口進の甘えやナルシシズムは、くたばった方がいい。
(大映試写室)



2002-09-04

●プロフェシー (The Mothman Prophecies/2002/Mark Pellington)(マーク・ペリントン)


◆ワシントン・ポストの記者ジョン(リチャード・ギア)が、会社のパーティを、「妻と約束があるから」と断り(誘った仲間は、「カモーン!」[よせやい!]と引き止める)、妻のメアリー(デブラ・メッシング)と、新居を見に行って、そのクローゼットでむつまじく抱き合ったりして、熱々の夫婦関係を見せつけるところから始まったので、この関係はいずれ壊れるなと思っていると、案の定、メアリーは、ジョンと同乗した車を暴走させて、負傷する。が、入院後、彼女はあっけなく死んでしまう。原因は脳腫瘍だった。息を引き取るとき彼女が残した言葉は、「あれを見た?」だったが、彼には何のことかさっぱりわからない。
◆2年後、仕事でリッチモンドに車を走らせていたジョンは、突然、オイル切れに気づく。ようやく一軒の家を見つけて電話を借りようとドアをノックすると、男(ウィル・パットン)が血相を変え、銃を持ってドアを開ける。「おまえは何で三晩たてつづけに同じことをするんだ!」と言うが、ジョンにはおぼえがない。女性の警官(ローラ・リネイ――『トゥルーマン・ショウ』でジム・キャリーの「妻」役をやっていたな)が来て、何とか事なきをえたが、ジムは、この地域で最近奇妙なことが起こっていることを知らされる。
◆原題の「モスマンの予言」の「モスマン」とは、「蛾人間」であり、「モスラ」の「蛾」である。「モスマン伝説」というのがあるらしく、モスマンは、大事故を予言するとも、それを引き起こすとも考えられているという。この映画では、おおむね、事故や厄災の預言者と見なされているが、賢明にも、映画のなかに実の姿を現わすことはない。
◆誰かが常に覗いているような視点からの映像は面白いが、最後まで何が問題なのかわからない。ある種のスリラーなのなら、あまりスリリングではない。すべてを知っているらしいリーク博士(アラン・ベイツ――『結婚しない女』の色男が最近はムサイ役ばかりだなぁ)の話も煮えきらない。伝説を信じない女警官も、最後は信じるらしいが、「理性派」が屈服するのはつまらない。大詰めの橋の崩壊シーンは、やりすぎ。かえって、現実感が薄れる。
◆ジョンと女警官との間には、愛情関係が芽生えるが、明確な形では示されない。ハリウッド映画ならはっきり型を示したらどうか。とにかくすべてあいまいで後味が悪い。深遠な部分に触れているために曖昧にならざるとえなかったというわけではないのだ。
(ソニー試写室)



2002-09-02

●マイノリティ・リポート (Minority Report/2002/Steven Spielberg)(スティーヴン・スピルバーグ)


◆冒頭に出る20世紀フォックスのロゴ映像がモノクロで出ることは珍しいので、次を期待すると、やはり、スタートはモノクロだった。映像の密度は非常に高い。さすがスピルヴァーグ。が、テーマは、いまはやりの父と子の関係が核にある。とはいえ、これも「さすが」スピルバーグで、結局は「父」は「子」を裏切る。シュピルバーグには、父への不信がある。父を決して許さないようなところがある。最近はやりの父子関係は、そういう父を息子が許し、受け入れるというパターンだ。おそらく、シュピルバーグにとっては、父的なものは、家父長的なものであり、その延長線上には権威主義や官僚制があり、ファシズムがあるようだ。
◆時代は2054年。首都ワシントンD.C.の警察には、「プリ・クライム」というセクションがあり、犯罪を予知し、まえもって可能的犯人を逮捕・拘禁する。そのシステムは、コンピュータだが、基本情報を出すのは、3人の「プリコグ」(プリ・コグニッション・・?)で、彼女らは、特殊なプール状の容器のなかに浮かされており、夢遊病者のように「未来」を夢見、その信号がコンピュータで解析され、具体映像としてスクリーンに投影される。
◆このシステムを開発したはのは、ラマー・バージェス(マックス・フォン・シドー)であり、この局長に「息子」のようにかわいがられ、主任刑事をしているのが、ジョン・アンダートン(トム・クルーズ)である。ジョンは、最愛の息子を誘拐され、犯人が捕まらないという経験をしたことがこの仕事の原動力になっているが、ストレスに悩み、密かに(この監視社会にそんなことが可能なのだろうか?)不法の薬物を常用している。
◆50年後の社会をシミュレートしたさまざまな物、交通機関、都市を目にすることができる。電車のなかで乗客が読んでいる雑誌のグラビアは、動画である。ジョンが操作するコンピュータは、指先にセンサーがついた手袋をパフォーマーのように動かすことによって作動する。映画の効果をねらって、いささか大げさにできているが、実際にあと10数年もすれば、手袋などはめないでただの指先や顔・頭、さらには目の動を読んで作動するインターフェースが日常化するだろう。いまのキーボードは確実に古典的なものとなる。
◆街やビルには、いたるところに監視カメラと網膜感知システムがあり、個人のプライバシーはない。最近、日本では「住基ネット」をめぐって、それがプライバシーをあやうくするものだという批判の声が上がったが、いまでも、プライバシーなどというものは思い込みと自己満足のレベルでしか存在しない。少なくとも、「住基ネット」やクレジットカードが知っている程度のプライバシーは、すでに完全に侵されている。もしそのような意味での「プライバシー」の侵害を恐れるのなら、生まれたときから戸籍登録をしないことであり、ポイントカードなんかも持たないことである。すでになんらかの登録をしてしまったら、プライバシーなど捨ててかからなければならない。
◆いまの時代のプライバシー侵害とは、相手の心の中に侵入しようとすること、相手の心をわかったような態度をとることだろう。肉体も脳にもプライバシーはないが、心、つまり個々人の無意識の中にはまだある。そのプライバシーは、わたし自身にもまるごとはわからないという点で、依然として「守られている」。だから、それをあたかもまるごとわかったかのようにふるまうことが、侵害になるわけだ。その意味で、「住基ネット」やその延長線上にあるビッグブラザー的な情報管理システムの問題は、それが、単に個々人の生活情報(どこに住み、何をしているか等々)を把握しているということではなくて、その情報をもって個々人のすべてを知っているかのような判断をすることにエスカレートするである。これは、「住基ネット」がなくても起こりうるし、「住基ネット」が即それを起こすわけでもない。ただ、個人の多くの情報を統合的に蓄積すると、それをもって個人の全てが分かったかのように思いやすいということも事実だ。実際には、生年月日や家族構成、購買傾向などがわかったとしても、その個人の何もわかったことにはならないのだが。
◆自分にも他人にもわからないことがあるということが否定されることが、プライバシーの最も根源的な侵害である。他人に見せたくないことが暴かれることが、必ずしもプライバシーの侵害ではなく、「あなたのことはすべてお見通しである」という姿勢で相手に接することが侵害なのだ。
◆この映画が描く2054年の世界には、たしかに、プライバシーはない。自分が殺人を起こす気(意識)などなくても、「プリ・クライム」は、その無意識の底を予知し、起こりうる犯罪をあらかじめ映像として見せてくれるからである。
◆ジョンは、毎日見ている犯罪予知のスクリーンに、自分の殺人予告が映しだされるとは予期もしなかった。そんなことは思ってもみなかったことだからである。そのときから、彼の闘いがはじまる。それは、システムの誤動作か、何かの陰謀か、あるいは、その両方が入り乱れた結果として彼が起こすことになる宿命か?
◆警察官が所持している虫のような網膜感知ロボットが怖い。隙間をくぐり抜け、熱を発する物体を感知し、執拗に目を探す。指名手配も、街中のモニタースクリーン、車中で読まれる「雑誌」の「グラビアページ」上に軽やかなCMとソフトなアナウンスとともに流れる。
◆シドーがやや息切れしてしゃべるシーンがある。必ずしも息切れしなければならないシーンではない。老齢の名優の健康を祈る。
(FOX試写室)



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