粉川哲夫の【シネマノート】
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2002-10-28

●戦場のピアニスト (The Pianist/2002/Roman Polanski)(ロマン・ポランスキー)


◆主役のエイドリアン・ブロディがすばらしい。映像も古典的ながら、パワフル。
◆ナチスの残虐さが執拗に強調される。それが事実通りであるかどうかよりも、ドイツがそういうことをやってしまった以上、それがくり返し、映画や小説で描かれ、批判され続けざるを得ないだろう。それは、少なくとも、ドイツが2度と同じようなことをくり返すことができないようにする。
◆時代は、ナチスによる1939年のワルシャワ陥落から、ゲットーへのユダヤ人強制収容(1940年)、ゲットーのユダヤ人を強制収容所へ移動(1942年)、ゲットーのワルシャワ蜂起(1943年と1944年)をへて、1946年にワルシャワが解放されるまで。ナチの侵攻で、ユダヤ系の友人も自分の家族も収容所に送られてしまったにもかかわらず、はからずもナチの手を逃れた実在のピアニスト、ウワディスワフ・シュピールマンの数寄な物語。
◆シュピールマンは、映画のなかで、殴られたり、怪我をしたりするが、自分で誰かを傷つけたことは一度もない。彼の非暴力的な姿勢、ピアノを演奏することによって人を楽しませたいという真摯な信仰が、彼をナチスの魔手から守っているようなところがある。
◆ポランスキーは、他面で、シュピールマンを一つの視点として使ってもいる。ナチスの暴虐、ワルシャワの破壊、廃墟と化した町並みは、すべてシュピールマンの眼を通して描かれる。これは、単に技法的にそうしているのではなく、シュピールマンという人物自身が、世界を傍観できる人物だから、そうなったのである。他人が嫌いなわけでも、他人を無視しているのでもなく、それどころか、他人のために全力を尽くすようなところがあるにもかかわらず、他人とのあいだに見えないガラスの膜のようなものがある(マックス・ブロートがカフカについて言っている)人物というものがいる。シュピールマンは、そういうカフカ的な人物だったにちがいない。
◆ちなみにポランスキー自身、はなはだカフカ的な人物であり、彼は、そのためか、スティーブン・バーコフ演出の『変身』(1988年)に出演している。わたしは、その舞台をパリで見たが、見事な演技だった。
◆アーノルド・シェーンベルクの作品に「ワルシャワからの生き残り」というのがあるが、そこで語られる人物は、シュピールマンとは違い、死に物狂いで地下道を逃げる。おそらくシュピールマンも死に物狂いで逃げたはずだが、そうは見えない。
◆映画のなかで、彼を逃がしてくれた「警官」(ユダヤ人だが、ナチにすり寄って、ユダヤ人を取り締まる)が、走ろうとする彼を見て、「走るな!」と警告する。以後、かれは、危険に直面したとき、すう~と歩いてその場を去るようになる。これは、たしかに、逃げるときの基本かもしれない。
◆冒頭、スピールマンは、ワルシャワの放送局のスタジオでショパンを演奏している。そのとき、突然空爆があり、スタジオの壁が破壊され、ものすごい爆風が吹き込む。しかし、彼は、恐怖におののきながらも、なかなか逃げようとしない。演奏を続けたいという気持ちが強いからだ。ようやく逃げ始めたとき、彼のファンだという女性(ルース・プラット)から声をかけられる。彼女は、ポーランド人の歌手ヤニナで、彼女は、のちに彼の危機を救う。連続したシーンで、彼は、ポーラン人の親友の妹ドロタ(エミリア・フォックス)に遇うが、彼女も、彼の決定的な危機を救う。
◆ポーランドにも、ポーランド人によるレジスタンス運動があり、そのなかには、ユダヤ人を匿ったり、救出したりすることが行なわれていた。ワルシャワゲットーの蜂起には、ゲットー内のユダヤ人と外のポーランド人との連帯があった。それは、この映画でも、さりげなく(芋の袋にピストルを忍ばせてゲットー内に持ち込むなど)描かれている。
◆おそらく、ワルシャワのゲットーを描いた映画のなかで、この作品が最もリアルだろう。死にゆく幼児、老婆のスープの容器を奪おうとして、地面にこぼしてしまい、地面に流れたスープをなめる老人、法外な闇値のキャラメルを一個買って、ナイフで6つに切って分けあうシュピールマン一家。
◆全編せりふは英語だが、『シャーロット・グレイ』のときのような違和感が全くないのはなぜだろう?
◆エイドリアン・ブロディは、実際に曲を弾き、十分見るに耐えうる指の動きがアップで映されるが、音そのものは、ヤーノシュ・オレイニチェクが演奏しているという。
◆30分まえに行ったのに、誰もおらず、待つ列のトップになってしまった。入口で会ったアミューズ・ピクチャーのIさんに、「少ないですね」と言ったら、「映画祭がありますんでね」と辛そうな顔をした。座席は、3分の2ほど。もったいない。
(ル・テアトロ)



2002-10-25

●スウィート・シクスティーン (Sweet Sixteen/2002/Ken Loach)(ケン・ローチ)


◆家族や仲間を維持したいという願望、母親への愛が、ことごとく裏切られていくのを悲痛な気持ちで見る。貧しさ(単に金がないというだけではない)の故の不幸と悲劇。ケン・ローチの一貫したテーマでもある。
◆したたかに見えるが、孤独を押し隠している少年リアム(マーティン・コムストン)は、児童養護施設の親友ピンボール(ウィリアム・ルアン)と街の喫茶店などでタバコを売り、したたかに暮している。母親ジーン(ミッシェル・クルター)は刑務所に入っており、その父親ラブ(リアムの祖父)とジーンの恋人スタンとの3人で暮している。ラブとスタンは、ヤクの売人をやっており、そのためにジーンは捕まった。にもかかわらず、彼らは、リアムを使って刑務所でジーンにヤクを渡し、刑務所内で密売させて、商売にしようとする。面会まではうまくいったが、母のことを思ってリムが2人の言うことをきかず、失敗したとき、2人はリムを手痛い目に合わせる。ここでは、完全に家庭は崩壊しているのだが、リアムの母への思いは強い。
◆祖父の家を飛び出したリアムは、姉シャンテル(アンマリー・アバークロンビー)の家に行く。彼女は、母とも決別し、「まとも」な生活をしている。彼女の断絶は、もう親和的なファミリーなどもてっこないという絶望感に裏打ちされている。しかし、リアムは、その夢を捨てない。だから、ピンボールと祖父とスタンが隠し持っているヤクを盗み、売って母や姉といっしょに暮すキャンピング・ハウスを買おうと思う。
◆街のマフィアの親分ビッグ・ジェイが、リアムたちを巻き込んで本格的な密売をやらせるようになるところは、よくある話である。最初はじゃまに思ったが、若くて使いみちがあると見たのである。車や家を与え、ちやほやする。家を持てたリアムは、有頂天で、丁度出所した母を連れて来るが、母は喜ばない。リアムの夢はすれちがいだった。そして、悲劇が起こる。
◆ケン・ローチの作品は、救いがない。彼が舞台にするスコットランドの町に救いがないからだ。会話は、スコティッシュで、英語を話す者にもわかりにくいので、英語の字幕がつく。リアムを演っているコムストンは、ときどきシド・ヴィシャスのような表情をする。
◆ここでもケータイの普及度はすごく、その日の生活にも困るはずのリアムがケータイを持っている。
(シネカノン試写室)



2002-10-24

●壬生義士伝 (Mibugishiden/2002/Takita Yojiro)(滝田洋二郎)


◆まあ、力作である。映像の存在感、俳優の充実さ、物語映画の定石を満たしている。映画らしい映画。「義」に生きるということを「かっこよくなく」描いているのも、悪くない。文句をつけるとしたら、大きなクライマックスのあとで、やや説明的なシークエンスが続き、それまで主に佐藤浩市のナレーションでやってきたのに、それが村田雄浩のナレーションになり、視点の不統一がある点だ。が、これも、好き嫌いの問題だだろう。今回は、中井貴一も映画俳優らしく演技している。気難しいニヒリストを演じる佐藤浩市は、はまり役である。老け役を演じるとき、佐藤は父親の三國連太郎によく似てきた。東北弁の台詞が多いのだが、所詮は人工的な東北訛とはいえ、それが気にならず、登場人物の気質をうまくあらわすのに役立っている。
◆冒頭、子供をおぶい、足を引きづるがっしりした体躯の老人の後ろ姿が映され、「明治32年東京府」の文字が出る。1899年、19世紀の終末の年である。ナレーションの声は、明らかに佐藤浩市である。場面変わって、束ねられた本や家財道具が散乱する家のなかで、村田雄浩が妻に引越しの準備を早くするようにせがまれている。戸口を叩く音がして、村田が戸を開けると、先ほどの老人が佐藤浩市であることがわかる。孫が熱を出したので診察してくれという。この家は、医者だったのだ。子供の診断は妻の役目だと言われ、子供が奥に導きいれられたとき、佐藤は、散乱する荷物のあいだに一枚の額に収められた写真を発見する。新撰組の衣装をつけたその男の顔は、どこか中井貴一に似ている。
◆この映画の形式は、かつて新撰組で出会い、非常に屈折した形で「友情」を結ぶ佐藤浩市と中井貴一との物語である。
◆原作(浅田次郎)がそうなのだというだけでなく、監督・滝田洋二郎はなぜかくも東北へにこだわったのだろうか?「義」というものに最後までこだわり、徳川に「忠義」をつくした典型が、南部藩の人々だったからだ。それは、ある意味で、日本の「滅私奉公」の伝統の典型的な表現でもあった。とすれば、「滅私奉公」という伝統は、「反体制」(明治以後の体制に対して)なのか?
◆滝田は、以前から、日本の「社畜」とそういうものを生み出す日本を批判してきた。徳川末期の東北といえば、その飢饉の悲惨さは想像を絶するものであったにちがいない。滝田が生まれた1955 年でも、東北はむろんのこと、茨城県でも、「口減らし」のために売春まがいの店に売られる女がいた。この映画で、中井の妻が、子供たちを生かすために自分が「口減らし」になると言って、入水自殺をとげようとするシーンがあるが、それは、決して誇張ではなかった。滝田は、一方に極貧の状態を置き、その一方に「義に生きる」人間を置く。しかし、わたしに言わせれば、「義」などというものは、極貧の状況を解決できない支配者が考え出した支配の技法であって、被支配者たちは、まんまとその技法にはまり、それがあたかも気高いモラルであるかのごとき信仰をいだいてしまったのだった。
◆むろん、滝田の視点のなかには、そういう「義畜」としての日本人への批判があるだろう。中井の妻は、中井の遺髪をだきしめて言う。「だんさま、わしらのために銭子をかせいでくれてごくろうさんでごさんした」。犠牲をかして「義」に生き、消耗しきって死ぬ日本人という視点は、この映画にも生きている。が、この映画では、それが批判という形をとらず、ひとつの生き方として提示されているところが、ちがう。原作者浅田次郎の現実感?
◆中井のキャラクター、吉村甲貫一郎がちがうのは、彼が一見、功利と義の両方に分裂的に生きたように見えながら、そうではないということだ。結局、日本人がかつて信仰してきた「義」は、家族のために犠牲になるという現実と表裏をなしていた。そして、義を描く物語は、その一方だけを生きる主人公しか描かなかった。それに対して吉村は、家族をぎりぎりのところまで犠牲にしないように努力し、かつ「義」に生きる。そのために、彼の犠牲の度合いと家族を思う愛との両方が浮き彫りになるのである。
(松竹試写室)



2002-10-22

●シャーロット・グレイ (Charlotte Gray/2001/Gillian Armstrong)(ジリアン・アームストロング)


◆『オスカルとルシンダ』(1997)以来、ジリアン・アームストロングの久々の作品なので、期待したが、ケイト・ブランシェットの演技力のすばらしさを目のあたりにする以上の映画ではなかった。わたしは、彼女が好きなので、それでもよかったが、テレビやビデオにも流用しようという制作側 (Film Four) の要求下での妥協作だったのかもしれない。しかし、ケイトの感情を高めていく演技、感情を爆発させる演技はすばらしい。ジリアンは、彼女の表情をしばしばアップで撮るが、それは、テレビ版を想定した制作者側の要求だったかもしれないが、さすがアームストロングは、それを逆手に取り、思いきり、ケイト・ブランシェットの実力を見せつける効果にしている。とくに最後のアップがいい。
◆シャーロット(ケイト・ブランシェット)は、ロンドン行きの列車のコンパートンメントのなかで出会った中年男リチャード(ジェイムズ・フリート)がさりげなく置いていった名刺(その裏にパーティへの招待が書かれている)が縁で、彼のパーティに行き、そこで初めて会った空軍のパイロット、ピーター(ルバート・ペンリー・ジョーズ)とたちまち恋に落ちる。
◆リチャードが彼女を誘ったのには、魂胆があり、彼は、フランスのレジスタンスと関係をもっており、彼女に、レジスタンスに加わらないかと誘う。ところが、それからすぐフランスに飛び立ったピータが行方不明になったことがわかる。彼女は、これがきっかけで、フランス行きを決心する。空路フランスに飛び、パラシュートで村に落下し、ラジスタンスに加わるのだ。
◆少しひねったドラマなら、ピータの「失踪」は、シャーロットをレジスタンスに参加させるためにリチャードが仕組んだ操作であるというような示唆をするものだが、この映画には、そういう気配はない。シャーロットが、フランスの村に行き、コミュニストのジュリアン(ビリー・クラダップ)の仕事を手伝うようになり、次第に彼に惹かれていき、レジスタンスに深くコミットしていくが、レジスタンス、スパイ、ナチなどの諸テーマは表面的な素材であって、結局、この映画は、ケイト・ブランシェットのファンのために彼女の表現力を存分に見せるためのだけの映画である。
◆ただ、一つ政治的な意味で面白いと思ったシーンがあった。あるとき、ジュリアンらが、空からパラシュートで降りてくる仲間を誘導しようとして、ナチの急襲を受ける。ジュリアンは、彼女が方法を漏らしたのではないかと疑い、身におぼえのないシャーロットは、その情報を受けた連絡員を疑う。しかし、彼が示唆するところでは、イギリスの方針が、すでにナチの撲滅からコミュニズムの牽制へ向かいはじめていたからだと。それは、たしかだろう。これで映画を1本できる。
◆最初の恋人ピータが言った言葉、「戦争はひとを別の人間に変えてしまう」は、この映画のテーマである。彼が、シャーロットに、「信念と希望と愛」のうち一つを取れと言われたら、どれを取る、訊くと、彼女は、少し考えて、「希望」と答えた。
◆この映画の致命傷は、フランスの村を舞台にしながら、かなりいいかげんなフランス語なまりの英語一本で通してしまったことだろう。これも、テレビでの流用を考慮しての処置あるいは低予算のしわ寄せだろうか?
(UIP試写室)



2002-10-18

●バティニョールおじさん (Monsier Batignole/2002/Gerard Jugnot)(ジェラール・ジュニョ)


◆ナチスに占領された1942年のパリ。ユダヤ人刈りが始まり、ユダヤ人の隣人たちが次々に収容所に送られる。人々は、それを、ユダヤ人は利益を独り占めにしてきたとか、前から好きではなかったとか勝手な理由をつけて、黙認する。が、すべてのフランス人がナチのユダヤ人迫害を黙認したわけではないし、はからずもそれに抵抗してしまった「普通」の市民もいた。
◆肉屋兼惣菜屋を営むバティニョール(ジェラール・ジュニョ)は、第1次世界大戦でドイツ軍と闘った経験を持つが、反ナチといった政治意識はない。だから、泥棒に食品を盗まれた朝、同じビルの上階に住むバーンスタイン一家がそれぞれにトランクを持ってどこかに出かけようとしているのを見て、てっきり彼らが犯人だと思ってしまう。娘マルグリッド(ミッシェル・ガルシア)といっしょに住んでいるピエール=ジャン(ジャン=ポール・ルーブ)が警察に通報し、バーンスタイン一家がゲシュタポに連行されたのにも、特に気にとめなかった。そして、親ナチのピエール=ジャンが、コネを使って、空家になった(ゲシュタポが家具をごっそり持って行った)バーンスタインのアパルトマンをバティニョールのものにしたとき、少し気がとがめたが、単純に喜ぶ妻に抵抗しなかった。マルグリッドだけが、浮かない顔をし、自分の劇作が全く認められない腹いせにどんどん親ナチに傾斜していくピエール=ジャンに不快さを示すのだった。
◆広くなったスペースでバティニョール家のパーティが開かれる。降ってわいた「幸運」に夫人は有頂天だが、バティニョールは、シャンペンや料理を持って給仕のように走り回る。明らかにパーティは彼の意思ではない。ドアのベルが鳴り、バティニョールが出て見て、驚く。そこには、強制収容所に送られたはずのバーンスタイン家の長男シモン(ジュール・シトリック)の姿がある。駅で父親の言うままに、逃げ、後ろを見ずに3日間歩いて来たという。疲れてはいるが、事の深刻さを知らない様子。バティニョールは、仕方なく、少年を屋根裏の小部屋に隠す。
◆この映画の面白さは、ピエール=ジャンのような絵に描いたような卑劣な日和見主義者や野蛮さと貪欲さをむき出しにしたナチの大佐も登場するが、どこにでもいそうな人々のなかにある反権力の意思や意識を気張らずに描いているところだろう。バティニョールを演じるハゲ頭のジュニョがうってつけだ。彼は、手に汗を握るような危険の連続のなかで勇敢にナチに抵抗するのではなく、ふりかかってきた偶然のなかで、夢中で、幼い子供へのあたりまえのいたわりの気持ちの延長線上のなかで不当な権力に抵抗する。だから、そこでは、「憎々しい」ナチの将校が殺されたり、ナチの本部が爆破されたりするようなことはない。
◆色々あったあげく、バティニョールは、シモンとその2人の従姉妹を連れて、スイスの国境地帯までたどり着くが、彼の意識は、すでに「逃亡するユダヤ人」に同化されていく。どこにも、ナチの手先がいたが、すべてがナチの言いなりになっていたわけではなく、彼らを助ける。食事を求めてたどりついた農家の主婦(夫はレジスタンスで独軍に囚われている)とのシーンが印象的。
◆ジュニョは、1951年生まれだから、第2次世界大戦を知らない世代である。が、彼がこの映画を作ったモティーフには、歴史を伝えたいという教育的なねらいがあったらしい。アメリカ映画には、ラディカルなデモクラシーを忘れないようにしようというマティーフが、何らかの形で残っている。フランス映画やイタリア映画にも、ナチズムの不当さとそれへの抵抗をモティイーフとしたものがおりおりに作られる。日本の場合、歴史の過ちとしての天皇制や官僚制に対する警告をモチーフとする映画がくりかえし作られてもいいはずだが、そういう伝承はなされなかった。歴史に学ばなければ、歴史の過ちはくり返される。
◆画面は、かなりアップが多い。これは、低予算(背景を省略できる)だからだろうか、それとも、テレビで流すことを最初から意図しているからだろうか?
◆席は大分空いていたが、背中に強い圧力を感じて後ろののぞいたら、わたしのイスの背すれすれに膝がついている大きな脚があった。バティニョールと密航仲介人とが話しているシーンで、ケータイの呼びだし音が聞こえた。最初、ケータイとは思えず、シーンのなかで電話が鳴っているのかと思った。試写室へ来るとき地下鉄を待っていた駅で、不自然に大きな高音が聞こえたので見ると、男が首に大きなヘッドフォンをかけたまま音量をあげて「聞いて」(?)いるのだった。スペースは、いまや、他者なき「極私的」な場になりつつある。映画館は、それでは成り立たないが、この分でいくと、映画館の未来は暗い。
(映画美学校)



2002-10-17_2

●デュラス 愛の最終章 (Cet amour-la/2001/Josee Dayan)(ジョゼ・ダヤン)


◆66歳のマルグリット・デュラス(ジャンヌ・モロー)が、5年まえから文通をしていた38歳年下の青年ヤン(エーメリック・ドゥマリニー)[ハリー・ポッターに似ている]と初めて対面し、その日から彼をほとんど強制的に彼女の家(トゥルーヴィルの海辺にある)に住まわせる。彼には、パリに女友達がいたのだが、そんなことは無視。
◆作家やアーティストが自分勝手な人間であることは、身をもって承知しているので、こういう映画を見ても新鮮味がない。もっとわがままでもいいのではないかと思うくらい。
◆しかし、この映画は、「老い」と「若さ」を対比するつもりはない。むしろ身体性を排除したリモートなコミュニケーションの物語だ。2人は、一緒におり、肉体的に近くにいても、2人のあいだには無限の距離がある。2人を結ぶのは徹底的に言語である。映画は、書かれた文章を読む2人の語りを交互にオーバーラップさせる。しわがれたモローの声と未熟さを残したドゥマリニーの声とのインタープレイ。そこには、年令や性を越えた言語的な「インターコース」のみが現象している。
◆スクリーンでジャンヌ・モローを見るのは久しぶり。彼女が、デュラスの原作にもとづく『雨のしのび逢い』(1960)で若いジャン=ポール・ベルモンドとの屈折した恋を演じたのを思いだした。当時わたしは、モローが好きだったが、『黒衣の花嫁』(1968)あたりから厭きてきた。もったいつけた年増のセックスアッピールのようなものを強調してばかりいるような感じがしたのだ。彼女にとって、デュラスは非常に重要な人だったので、この映画でぱモ身の演技をしている。つくりも「そっくり」にし、たしかに似ている。最初の方で、モローの眼が、白内障にかかったような老人の眼をしていたので、心配したが、次第に生き生きとして行く。
◆デュラスがヤン会ったのは、1980年だというが、作家やアーティストは、自分が創造した時間やドラマを自分に当てはめ、追体験しようとする傾向がある。デュラスとヤンの関係は、『雨のしのび逢い』の2人と似たパターンが発見できる。
◆デュラスが車を運転してヤンと遠出するとか、自分で作ったスープやジャムを食べさせるとか、ずっと一人で暮してきただけのことがあるが、ヤンは、車の運転も料理もできない。食事をしながらタバコを吸うほどニコチン中毒。
◆ヤンは、デュラスの口述を二本指でタイプに打つのが習慣となる。このへんを見ると、デュラスは、ヤンを恋人というより秘書として使っていたのだという思いが強くなる。ヤンは、どの程度デュラスの創作活動に影響を与えたのだろうか? かつてポール・ヴァレリーは、デカルトをサポートしたメルセンヌ神父に関して、「天才の身辺に、また大事件の小さな生きた原因の間に、いつもわれわれの見かける、このような助手、世話人、話の聴き役、とりもち役の人々を、歴史の中から特にとりあげて調べれば、相当目新しい研究となるであろうし、ずいぶ有益であろうと私は考える」と書いた。映画を見るかぎり、ヤンは、メルセンヌ神父の役をしたとは思えない。
◆デュラスは、眠れないと言ってワインを飲み、アル中になる。それは、そう簡単なことではないはずだが、不眠とアル中に悩むシーンは、あっさりしすぎている。記憶を失うところも、『アイリス』よりもさらりと描かれる。このデュラスには、老醜が感じられない。そういう要素はすべて描写の外に置かれる。身体性を排除すること、諸器官からではなくて、言語から規定された身体のみを問題にすること。
◆開場まえの受付で、何人かの人がコムストックの(たしか以前はヘラルドのひとだった)X女史にケジメをつけられていた。この試写会はマスコミ試写なので、代理の人は原則的に困るというのである。彼女らが入場できたのかどうかわからないが、上映が始まったとき、席はかなり空いていましたな。
(映画美学校)



2002-10-17_1

●ショウタイム (Showtime/2002/Tom Dey)(トム・デイ)


◆デニーロは楽しんでいるが、マフィーはどこか白けている――これは、近年のマーフィーの特徴か? これまでの二番煎じ的な笑わせ方が目につくのである――が、メディア論的には(後半でぽしゃるが)面白いところがある。テレビのコップもののパターンを笑うところ。たとえば、「本当」の麻薬捜査官は、コカインの袋を見つけても、ナイフで穴を空けて、粉を指に着けてなめたりしない(「青酸カリだったらどうする?」とデニーロが言う)。
◆一人は、真面目一方の刑事ミッチ(ロバート・デニーロ)、他方は、テレビの警察ものに出たくてオーディションを何度も受けている警官トレイ(エディ・マーフィー)。2人の出会いは、ミッチとその相棒が麻薬の囮捜査をしているところをトレイが見つけ、てっきりミッチらがワルだと勘違いし、捕まえようとする。丁度そのとき、トレイをマークしていたテレビ局(逮捕劇を突撃的に撮影し、報道する)がその様をバッチリとカメラにおさめる。それが放映され、2人はテレビの有名人になる。これに目をつけたテレビ局のプロデューサーのチェイス(レネ・フッソ)(狡猾で獰猛なテレビ屋をリアルに演じている)は、2人に密着した番組を立ち上げる。
◆あまり深みはないが、既存のコップもののパロディや、「昔刑事役で人気を博したTV監督」という設定のウィリアム・シャトナー(実名)が、細かくテレビでの刑事役の定石を実演して見せると「本物」の刑事のミッチがいちいち水を差すところが楽しめる。
◆映画が終わって、出口で、X氏が品田雄吉氏に「面白かったですね」と話しかけたら、多摩美教授の品田氏は、無言のままだった。プロとしては、もろ手を挙げて「面白かった」とは言えないでしょうね。
(ワーナー試写室)



2002-10-12

●REM(レム)(Chasing Sleep/2000/Michael Walker)(マイケル・ウォーカー)


◆この映画は、邦題のつけかたで失敗している。カナダ、USA、フランスの共同製作であるこの映画の原題は、Insomnies、つまり「インソムニア」である。フランス語版は、このタイトルを使い、フランス語の字幕付きで上映されたが、最初にアメリカで封切られたときは、Chasing Sleepというタイトルになった。普通なら、当然、邦題は『インソムニア』になったはずだが、クリストファー・ノーランの同名の映画(2002年)が先に封切られてしまったので、使えなくなった。しかし、英語の「チェイシング・スリープ」では、日本では、何のことかわからないので、「レム睡眠」から取ったREMという邦題を捻出したというわけである。しかし、ちょっとちがうのではないか?
◆映画は、まず、眼球のアップと水がしたたり落ちるバケツをだぶらせた映像から、ふたたび眼の超アップになり、カメラが引いて行くと、短い睡眠から目覚めたか、ずっと眠れないかの男エド(ジェフ・タニエルズ)がベットの上に寝ているというはじまりかたをする。朝方の6時なのに、妻がいないことに気づき、妻の友人に電話するが、わからない。市内の病院の緊急入院センターに問い合わせたが、妻らしい患者はいない。警察に電話し、やがて警官が来る。なぜか、警官は、話を聞きながら、薬を飲む(あとから来る別の刑事も同様に薬を飲む)。エドも、睡眠薬らしい薬を神経質に飲む。時間はどんどんたち、昼間になる。
◆大学から、エドが講義を無断で休んだと大学から電話がかかる。授業がないので心配したという女子大生が電話をして来る。彼女は、彼の本をよく読んでおり、売れない彼の詩も暗唱できる。彼女は、彼のためにスープをテイクアウトしてやってくるが、トイレに行って、倒れてしまう。妙な音が聴こえたと言う。服が鼻血で汚れたので、彼は、妻の服を貸す。(教授が教え子にひっかかるよくありがちなパターンを想像させるが、それほど深刻は結果は生まない)。
◆妻の車が、どうやら妻が不倫しているらしい男の家のそばで見つかったという知らせが警察から入る。やがてその男がエドのところへどなり込んで来て、彼は殴られる。その男は警察の尋問を受けたのが、エドのせいだと言う。その知らせを聞いた警察は、その男を逮捕するが、保釈で出てきて、ふたたりエドのところへ怒り狂ってやって来る。
◆警察が来て、妻の部屋を調べたり、妻の秘密の日記(不倫のことが書いてある)が見つかったり、妻が殺されて、森の中で遺体が見つかったとか、家族が犯罪の被害に遭った人を専門にケアする精神科医が訪ねてきたり、色々あるが、明確なことは何もない。
◆映画中に、明らかに「妄想」と思われるシーンが2つある。だから、この映画で描写されるシーンの大半は、不眠のなかのエドが見た白昼夢のようなものと考えていいのだろうが、じゃあ、それがどうしたというようなところがある。妻がいないのは、実は、彼が自分で殺し、森に埋めたからであり、その強迫観念が沸き起こっているのだととれるところもある。しかし、このどっちつかずのところがこの映画の見どころなのだろう。わたしは、ときどき、昔住んでいた家の床下に死体があって、それを知りながら隠していていることが不安でたまらないというような夢を見る。むろん、わたしは誰も殺してはいないし、そんな事実もない。しかし、こういう夢を見ると、自分は、知らないうちにそういうことをしているのではないかというような不安にかられる。この映画は、そんな中間状態の意識を描写しようとしている。
◆いま、わたしは、大学の講義(「ハリウッド映画の現象学」)で、映画のなかの電話の機能についてしゃべっているのだが、この映画では、エドが電話するときは、相手の声が聞こえるのに対して、たとえば刑事が来て、電話を借りてしゃべっているときは相手の声は聞こえない。
◆トイレや浴槽の水抜きの流れの悪さは、心理的にプレッシャーを起こさせる小道具である。この映画でも、急に流れが悪くなる水洗トイレや浴槽が出て来る。舞台として使われているアパートメントは、薄汚れており、シャワーもバスタブもトイレの便器もぴかぴかではない。そういえば、エドの爪も割れていた。天井には水漏れのしみがあり、やがてそこがぱっくり空く。心理的な不安をもたらす環境はそろっている。
◆このアパートメントで唯一解放的なのは、天井に青空が描かれているピアノのある部屋で、そこからくりかえしメンデルスゾーンのピアノソナタが聞こえ、最後は、妻らしい人がピアノに向かった弾いているシーンで終わる。が、なぜか、どこか音程が狂っている。
(映画美学校)



2002-10-10

●オールド・ルーキー (The Rookie/2002/John Lee Hancock)(ジョン・リー・ハンコック)


◆1度捨てたプロのベースボールプレイヤーの夢を35才で実現し、しかもメジャーリーグのピッチャーとして活躍する男ジム・モリスの、彼の自伝にもとづく映画。
◆才能はあり、マイナーチームでは名を上げたことがあるが、肩を痛めてプロの野球選手の夢を断念した男ジム(デニス・クエイド)がいた。彼の父(ブライアン・コックス)は、息子の才能を知りながら、子供のころからジムの気勢をそぐような態度ばかりしてしまう。軍人の彼は、基地を転々とするので、ジムには友達ができない。だから、ジムは、野球をあきらめたのも、子供時代の不幸もみな父親のせいでもあると思っているところがある。
◆軍人の父の仕事場に遊びに行くあどけない少年ジムに対して、かわいくないわけでもないのにそっけない態度をする父親。彼は、やがてジムの母親ともうまくいかなくなり、引退後は一人で住んでいる。その家の壁には、ジムの活躍ぶりを記録した写真やトロフィーを家にきちんと飾っている。そんなことなら、もっと息子を励ませばよかったのにと思わせる。これは、一方でがんばり物語の要素を持ちながら、実は、またしても父と息子のテーマをあつかっているこの映画の布石。引き離しおいて最後に近づけるという手だ。実際、ジムがメジャーリーグで成功をかちえたとき、球場に来ないと思っていた父親が来ていて、涙の再開をするクライマックスへとつながる。息子は父親を許すのだ。
◆冒頭、妙なエピソードが語られる。むかし、テキサスのその地に、石油の鉱脈を探し続ける男がいて、そこを通りかかった修道院の尼さんが、その男のために投資した。が、石油は出ず、尼さんは損をしたが、それを許し、放置された採掘柱にロザリオ(?)のようなものをひっけけて去った。この聖章を、メジャーリーグで成功したジムがもらうのだが、このキリスト教的テーマと石油と野球との関係がよくわからない。が、テキサス/石油/キリスト教信仰/野球というのは、なんとなく今のアメリカらしい組み合わせだ。
◆ある意味で、この映画は、いまのアメリカの状況との密接な関係を意識して作られている。高校の野球チームの選抜大会では、まず、国歌の詠唱があり、家では、ジムがマイナーリーグからのオッファーがあり、妻(レイチェル・グリフィス)に相談したとき、最初は反対したが、思い直し、「わたしは西部の女だから、なんとかやってくわ」と言う。フェミニズム全盛の時代には出て来なかった台詞である。
◆とはいえ、この映画の感動的な部分は、高校の野球サークルの学生たちが、ジムの超速球(156キロ)を知り、彼をプロにしようと励ますプロセスだろう。彼らは、自分たちが選抜大会で優勝すれば、プロチームへの入団テストを受けることを約束させ、実際に優勝する。ジムがテストを決断することよりも、それまで全然いいかげんだったチームが、急に真剣になるところが、なかなかいい。
(丸の内ピカデリー2)



2002-10-08

●トリック―劇場版― (Trick/2002/Tsutsumi Yukihiko)(堤幸彦)


◆地下にみゆき座、4階に芸術座がある東宝東和のビル。ロビーに入ろうと思ったら、おばさんの大群。どうやら、芸術座で大きな公演があったらしい(あとでポスターを見たら、沢口靖子、大空真弓、篠田三郎、樫山文枝などが出る『仁淀川』のマチネーがあったのだった。エレベータには、いつになくエレベータガールがいて、8階の試写室には1台のエレベータしか使えない。下りてきたエレベータからもおばさんがどっと出てきた。
◆映画評論家はあまり評価しないようだが、わたしは、堤幸彦のユーモアのセンスを買っている。『ケイゾク/映画』も『溺れる魚』もよかった。今回も、〈へ理屈の現象学〉が横溢。謎はすべて説明されるが、明らかになるほど、世界のおかしさがあらわになる。
◆冒頭、セピアの絵が出て、世紀の奇術師について書いた本が紹介される。その空とぼけた感じが、デイヴィッド・ブレアの『 WAX』のビデオ版の冒頭に似ていると思った。これは、さえない手品で客が集まらない山田奈緒子(仲間由紀恵)の愛読書であった。
◆山田は、ある日、糸節村というところの青年団の「団長」神崎(山下真司)と「副団長」南川(芳本美代子)の訪問を受ける。村に来て、「神」を演じてほしいというのだ。他方、彼女の友人で物理学者の上田(阿部寛)は、学友が突然の死のなかで残した「暗号」が示唆しているらしい徳川の秘宝探しと、アルバイトのルポものの執筆のために糸節村に向かう。山田は、村に着き、ちゃちな手品で村人をたぶらかそうとすると、村長の長曾我部(伊武雅刀)は、この村には自分を「神」と名乗っている神001(竹中直人)、神002(ベンガル)、神003(石橋蓮司)がいるから、彼らと対決し、それに勝たないと神とは認めないと言う。
◆001と002のちゃちなトリック(実際、ひどくちゃちなのがまた笑える)を見破った山田だが、003は手ごわい。トランプを2枚づつ並べ、色が同じになったペアーだけを残して捨てていき、赤のカードが多ければ003の勝ちだというトリックは見破れなかった。牢屋にいれられてしまった山田を救うのは、上田だ。彼は、数学に強い論理能力を駆使して、003のトリックをあばく。山田もまた、秘宝のありかを告げるとする謎の言葉「トイレツマル」を紙に書き、裏から縦読みすることによって「イトフシムラ」だと解読する。以後、2人は協力して、村長と村人の追求に対決する。
◆2人の暗号は、伝えるべき文章をまず紙に改行を多くして書き、それを左から縦読みするというの。たとえば、「これは/あかい/たまだ」だと、「こあた れかま はいだ」というわけだ。これも、実にひらめきのある論理の逆転手法のユーモアだ。
◆若手の役者は全体に台詞まわしは下手だが、伊武にまじめくさった絶妙の台詞を吐かせておいて、いきなり、「どの箱に笑い鬼と泣き鬼が入っているか当てられないときは、「苺」を飲んでもらう」と言うが、カメラには、「毒」という文字が見える。ばかげているが、おかしい。
◆ファニーなシーンの数々。山田が神崎と南川に呼び出された店では、周囲が老人ばかりで、みなスパゲッティ・ナポリタンの大盛りを食べている。中年の制服を着たウエイトレスは韓国語で挨拶する。上田の学友(みな財務省、国土交通省、警視庁などのエリート)は、料亭で自分の持っている名刺でカードゲームをする。肩書きがすごいのが勝つ。
◆監禁された山田は、そこで絵模様の描かれた紙を渡され、それを離れた場所に「念写」して超能力をためされたとき、石造りの亀の首に縄をまき、そこに絵柄を描き、その縄をこっそり上田に渡す。上田は、それを別のところにある同じ形の石造りの亀の首にまき直し、その絵柄をコピーする。これはFAXの原理だという。大笑いしながら、感心する。
◆最後に神崎と南川(実は夫婦)の悲しい話が明らかにされる。山に火が放たれ、大火事になる。そこへ、突如、書を売るこれもかなりインチキな商売をやっている岡田の母親(野際陽子)があらわれ(この村から高額のお札書きの注文があったので届けたという)、村人を魅了する。彼女は、まず「火」という字を書き、「火」が二つになると「炎」、3つになると「火炎」、これを静めるには、「水」(シ)を「炎」にかける。それすなわち「淡水」なり・・・とシャーマン風の演説をぶつ。パフォーマンス的にも妙な説得力があるからおかしい。
(東宝東和試写室)



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