粉川哲夫の【シネマノート】
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2002-12-24

●黄泉がえり (Yomigaeri/2002/Shiota Akihiko)(塩田明彦)

◆男と女が年令をとわず対面してしみじみと語るようなシーンに塩田らしさがあるが、低予算で映画を作ってきて急に大きな映画を作るはめになりポイントを失う典型。一体、RUI(柴咲コウ)のプロモーション映画なのか、それとも草 剛主演の映画なのか、はっきりしない。とにかく、もってまわっている。リズムがたるい。
◆屋敷のなかのグランドピアノの黒いカバーがずり落ち、ピアノが姿をあらわし、鍵盤の上を女の指の爪がかすっていく。一つの鍵をたたくと、男の指が別の鍵をたたく。女の手にも男の手にもタトゥーが見える。すぐに女は柴咲コ ウだとわかるが、わざとはっきりさせず、別のシーンに飛ぶ。もってまわった思わせ振りなイントロ。勘の悪いわたしは、最後までこの「カリスマ歌手」の役割がさっぱりわからなかった。
◆厚生労働省の役人川田(草 剛)は、異変の調査のために故郷、九州の阿蘇にやって来る。北林谷栄の、森で行方不明になった息子が当時の姿で「よみがえる」という現象が起きたというのだ。彼の調査をバックアップするのは、海で死んだ親友のフィアンセだった竹内結子。彼女は、市役所に勤めている。二人が再会するシーンの(セックスレスの友情関係――それでいて好き合っている)感じが塩田らしく――なんでこういう線を全面展開しなかったのか?
◆そのうち、よみがえり現象が、阿蘇地区の全域で起こりはじめる。1000人単位のよみがえりのなかで、喧嘩をとめに入って殺された哀川翔、弱い体で娘を生み、夭折した、田中邦衛の妻、哀川の妻に思いをよせる山本圭壱の兄。彼らがそれぞれに死者と再会し、彼らの人生を語るシーンは、塩田の本領が発揮され、悪くない。
◆草 剛と竹内結子が、最後に抱き合おうとして、竹内が雲散夢消するシーンは美しい。
◆塩田としては、死の方から生きるとは、出会いとは、時間とは何かを考えようとしたにちがいない。それが、ボタンのかけ違いになってしまった。
(東宝試写室)



2002-12-19_2

●13階段 (13 Steps/2002/Nagasawa Masahiko)(長澤雅彦)

◆中盤まではいい。が、後半、サービス過剰。格闘シーンのようなサスペンスなどいらない。これでは、せっかく死刑や冤罪への問をなげかけながら、推理ドラマに終わってしまう。まあ、原作がそうなのだから、仕方ないか。が、それではおしいと思うのだ。
◆さしあたり「クラブで喧嘩をふっかけられ」、防御したら、相手が倒れて死んでしまい、3年の刑に服した三上を演じる反町隆史がなかなかいい。三上の家は、先端技術を持った町工場だったが、その事件のために、見る影もない。
◆死刑を執行したことが心の傷になっている刑務所主任・南郷を演じる山崎努は、あいかわらず渋い演技。
◆弁護士の杉浦(笑福亭鶴瓶)は、ある人物から13年まえの殺人事件をもう一度洗い直してくれという依頼を受け、それを南郷に頼む。その事件で老保護士夫妻が惨殺され、犯人として当時保釈中でその保護士のもとに通っていた男・榊原(宮藤官九郎)が逮捕され、死刑が確定していた。南郷は、助手として三上を誘い、事件を洗い直していくと・・・。
◆当然、事件を追っていくうちに、事件そのものだけでなく、三上自身の秘密もあきらかになる。その過程は、推理ドラマとしては面白い。が、面白くなればなるほど、映画の冒頭で力んだ死刑への疑問などはどこかにとんでしまう。
(東宝試写室)



2002-12-19_1

●T.R.Y.(T.R.Y. /2002/Omori Kazuki)(大森一樹)

◆これは何だ? 映画か? 映像の見世物か? 織田裕二流の軽さといいかげんさで、『スティング』の上海版をねらっても、無理というもの。全然そんな緻密さも『スティング』の「反体制」意識もない。
◆出演者は、みな、それぞれに帽子をかぶっている。ペテン師も権力者もカブリものが好きらしい。役柄もたかだかかぶっては投げ捨てる帽子程度のもの。
◆こういうのが当たるからまいる。映画も終わり。
(東映試写室)



2002-12-18_2

●おばあちゃんの家 (The Way Home/2002/Lee Jung-Hyang)(イ・ジョンヒャン)

◆話は単純。最初から予測がつく物語だが、物語を追うための映画ではない。前近代的なものがそこはかとなく伝わってくるのを受けとればよい。
◆失業中の母親が、次の仕事を探すあいだ、7歳の息子サンウ(ユ・スンホ)をソウルから故郷の母(トン・ヒョフィ)に預けに行く。そこは、やっとバスが通るだけの辺鄙な村。商店もない。テレビは壊れていて見えない。スンウは、最初からすね、口の聞けない老祖母をばかにする。祖母を無視し、持ってきたポケットゲーム機で遊び、カンズメのおかずを食べるが、すぐにゲーム機の電池が切れてしまう。電池を買いにいくにも店がない。村の人にきき、やっと行った町でも、電池は見つからないばかりか、帰り道がわからなくなる。しかし、そこは、村。通りがかりの老人が自転車に乗せて村まで送ってくれる。
◆わたしは、1940年代に東京の足立区にいたことがある。そこでは、まだ牛や馬が飼われており、バスが開通したのも大分たってからだった。むろん、商店もしばらく歩かないとなかった。トイレは汲み取り式で、近所の農家が定期的に汲みに来た。道路端には肥溜めがあり、わたしは、自転車の練習をしていて、頭からそこに突っ込んでしまったこともある。この映画に出てくる村はそんな感じだ。前近代の生活を全く知らないサンウは、マクドナルドやケンタッキーフライドチキンを懐かしみ、祖母が作ってくれた素朴な食事に手をつけない。祖母は、チキンが食べたいのだと思い、町まで出かけ、鶏を買ってきて、つぶし、料理を作る。しかし、サンウには、気持ち悪いばかり。
◆孫は、祖母にとっては、どんなクソガキでもかわいいものなのだろうか? ドラマのためにかくも寛容にしているのだろうか? 老婆は、サンウのどんなわがままにも怒らない。老婆は、サンウを連れ、バスに乗って、町にカボチャを売りに行き、その金の大半を使って孫に麺(2300ウォン)を食わせる。自分はお茶を飲むだけ。このシーンで、隣の席の女性(ニンニクのにおいをただよわせている)は、大泣き。
◆最初いやいや針に糸を通してやるぐらいしか祖母のためにしなかったサンウがだんだん色々なことを自分でし、他人のことがわかったいくプロセスは、ビルドゥングス・ロマン(教養小説)のよう。この手の映画は、えてして啓蒙的・倫理的になりがちなのだが、この映画は、そういう臭みがない。
◆映画に出たことはむろん、見たこともない老婆を主役級に持って来て北林谷栄顔負けの演技をさせてしまったのは、すごい。この老婆のリアリティと比較すると、『阿弥陀堂だより』の北林がうそっぽく見える。
(メディアボックス)



2002-12-18_1

●抱擁 (Possession/2002/Neil LaBute)(ニール・ラビュート)

◆邦題は、不適切だ。タイトルのpossessionは、「取り憑かれること」を意味している。19世紀の詩人の肉筆の手紙を手に入れた研究生ローランド(アーロン・エックハート)が、その詩人の隠された恋に気づき、その詩人の研究者モード(グウィネス・パルトロウ)の助けを借りながらいっしょに調査をするうちに、その恋が乗り移ってくるという話。また、「取り憑く」という意味では、肉筆の手紙が二人に「取り憑く」。パルトロウが、実にいい役を演じていて、不思議なムードにひたることができる。
◆問題の詩人ランドルフ・ヘンリー・アッシュは、原作者A・S・バイアットの創作だが、ロバート・ブラウニングがモデルになっているという。彼がパーティで見そめる女性詩人クリスタベル・ラモットは、クリスティーナ・ロセッティなどをモデルにしているという。この女性は、レズを表明し、パートナー(リーナ・ヒーディ)がいるのだが、それが急速にアッシュに傾く。アッシュのほうは、「わたしはあなた様には分不相応な妻です」というような意識を持った妻がいる。アッシュは、家で公然と女詩人の手紙を受け取るが、妻とは悶着はない。アッシュは、クリスタベルに、「君を愛しても妻は傷つかない。たくさんのタイプの愛があるんだから」と言う。いい気な感じがするが、時代の係数をかけて判断しないといけないのかも。
◆詩人たちの19世紀のシーンとローランド/モードの現代のシーンとが交互に出て来るが、違和感はない。ロランドとモードは、詩人たちが逢い引きをした旧跡をたづねるが、アッシュとクリスタベルとが立っていた同じ場所に二人がいるシーンを映しておいて、そのまま人物だけロランドとモードにすりかわるような映しかたが何度か使われる。
◆異なる時代を同じスクリーン上で交互に映すと、たいていの場合、どちらかが負けるものだが、この映画ではなんとかレアリティの説得力を保っている。それは、クリスタベルを演じたジェニファー・エール(あごの長いメリル・ストリープといった風貌)がいい演技をしているからだ。アッシュ役のジェレミー・ノーザムも悪くない。
◆いくつかの愛の形が描かれるわけだが、ローランドとモードが、愛で壊れることに極度に神経質になっている男女として描かれる。こういう内面の距離のある役では、パルトロウは抜群の巧さを見せる。
◆アッシュの手稿を収集している学者や、ローランドの上司などがからんだ生臭い話もからみ、最後は、ミステリーまがいの展開を見せたりもするが、このへんはサービス過剰。このへんが、イギリスを舞台にしながらも、アメリカ人監督が作るとしかたがないか?
◆全編、イギリス英語の皮肉や醒めた感じがあるが、古田由紀子の字幕はその感じが弱い。impulseを「つい」(ついしてしまったのつい)と訳していたのはうまいと思ったが。
(ワーナー試写室)



2002-12-12_2

●過去のない男 (Mies vailla menneisyytta, The man without a past/2002/Aki Kaurismaki)(アキ・カウリスマキ)

◆カウリスマキ独特のユーモアと底辺に生きる人間に執着するまなざしが濃厚に出ている。町の時計台の4面の時計の時間がみな違うのもオトボケ。長距離列車から降り、ヘルシンキの町に入った主人公(マルッキィ・ペルトラ)は、公園で3人の若いパンク風の若者にバットでさんざんなぐられ、昏倒し、金や身分証明書を奪われる。暴漢は、意識のない彼の頭に、持ち物のトランクから取り出した溶接用のヘルメットをかぶせる。男は溶接工で、この町に出稼ぎに来たのだろうか? 意識をとりもどして必死で近所の店にかけ込んだが、そのまま倒れてしまう。病院で心電図の線がフラットになるが、次の瞬間すたすたと歩いて、ドック付近のホームレス・コミュニティに迷い込む。このへんのすっとぼけた感じ(映画は映画なんだという)がいかにもカウリスマキらしい。
◆コンテナに住む夫婦者ニーミネン(ユハニ・ニュミラ)とその妻に救われ、彼は、しばらく居候をするが、過去の記憶がもどらない。翌日、ニーミネンは、ネクタイをしめ、男に、「金曜だ。ディナーに行こう」というので、レストランにでも行くのかと思うと、行った先は、救世軍で、そこで無料スープと一かけらのパンをもらうのだった。男は、スープをよそってくれた女イルマ(カティ・オウティネン)に一目惚れしてしまう。イルマは、かなり歳がいっている。悲しげな目。
◆カウリスマキは、音楽が好きだ。バンドは、ある種「コンヴィヴィアリティのための道具」(イリイチ)になっていて、この映画でも、警官が有料(アルバイトにしている)で世話したコンテナーに、ニーミネンの友人が拾ってきて直してくれたジュークボックスがあり、それを聴きに、救世軍のバンドの連中が遊びに来る。そして、街頭でも、ポピュラーな音楽を演ることになる。救世軍のマネージャー(アンニッキ・タハティ)は、「わたしも若い頃は歌っていたのよ」と乗り気になる。実際に、彼女の歌は半端ではない(彼女はフィンランドの「イスケルマ」の有名歌手)。「イスケルマ」とは、フィンランドの歌謡曲を呼ぶ総称である。
◆会社が倒産し、預金を凍結された老社長が、銃を持って銀行を襲い、預金を引き出し、昔の従業員退職金を払うエピソード。銀行でその老人のホールドアップを食い、女性行員といっしょに金庫に閉じ込められた男。これがきっかけで彼のことが新聞に載り、故郷の妻が連絡してくる。しかし、その間に、彼はイルマを愛しはじめていた。
◆救世軍のスープのシーンにしても、男が自分のコンテナー・ハウスでイルマを初めて招待して作る一皿料理にしても、貧しいながらうまい感じがするのはなぜか? 食べ物のシーンをないがしろにする映画はダメだと思う。
◆この映画では、みんなよくタバコを吸う。
◆イルマは、救世軍で働いているが、男に会ったとき、「そんなひどい格好じゃ職安に行っても仕事をもらいないわね」と言い、「この世は、神の慈悲でではなく、自分で生きなければ」と言う。
◆カウリスマキの『ラヴィ・ド・ボエーム』でも、金のない仲間が助けあって生きるわびし~い話と、音楽(日本語の「雪の降る街を」)の使い方が独特だった。この映画でも、妻と別れてヘルシンキにもどる列車のなかで寿司をつまみ、日本酒を飲むシーンで、日本語の歌が使われる。
(映画美学校)



2002-12-12_1

●ボーン・アイデンティティ (The bourne Identity/2002/Doug Liman)(ダグ・リーマン)

◆政治サスペンスのはずだが、ここで描かれている政治は1時代まえのもの。原作(ロバート・ラドラムの『暗殺者』)が古い(1980年)からそうなるのかもしれないが、設定された時代も、映るコンピュータ・システムなどからそう古い時代ではなさそうだが、あまり定かではない。政治的にはあいまい。CIAの内部の陰謀と組織の非情さだけが骨子になっている。ただし、アクション/サスペンスとしては、マット・デイモンの力演のために、いい仕上がりになっている。
◆最前列のわたしのとなりのおじさんは、しかし、ほとんどの時間、すやすやと眠っていた。映画が始まるまえは、知りあいらしいひとと大声で元気にしゃべっていたんですが。
◆意識不明で海から引き上げられたマット・デイモンが、息を吹き返すと、いきなり猛烈な攻撃姿勢をとる。それでこの映画が、ランボー的に訓練された特殊工作員の物語であり、主人公が死ぬということはないのだという予感がする。
◆船の医者が、蘇生の処置をほどこしていたとき、デイモンの尻にある傷をメスでさいて小指の先ほどの円筒物を取り出す。その一端を押すと壁に数字と文字が投射される。超小型のレーザープロジェクター。
◆この映画、無名の登場人物を演じる役者たちがなかなかいい。デイモンを助けた船の乗組員の一人など、あとで再会し、なにか重要な役を演じるのではないかと思うほど、存在感がある。
◆回復したが、記憶が消えてしまったデイモンは、レーザープロジェクターの教えるスイス銀行に行き、貸金庫を開ける。自分の名前もわからないのにどうやって手続きをとるのかと思ったら、銀行は掌紋システムでアイデンティティを確認しているのだった。
◆アメリカ大使館に行ったら、組織から手が回っていて逮捕されそうになったデイモンは、たくみに脱出する。女に出会い、巻き込む形になるのはお定まりとしても、この映画は基本的に『ジャッカルの日』的なエイターテインメントなのだから、それでいい。その女(フランカ・ポテンテ)は、スペイン、アムステルダム・・・・とヨーロッパを転々としていて、スイスのアメリカ大使館でビザの発給を断られていた。
◆某国の要人(アドウェール・アイノエ・アグバエ)を暗殺するプロジェクトがうまくいかなかったことを知り、CIA本部の実行課長(クリス・クーパー)は機嫌が悪い。クーパーという役者は、『アメリカン・ビューテヒ』でも『遠い空の向こうに』ででも、むっつりした役がうまい。彼は、ヨーロッパ全土に「トレッドストーン」という暗殺ネットワークをもっており、その上にブライナ・コックス演じる長官がいる。
◆『ジャッカルの日』では、スパイの非情さというようなものが政治的に感じられたのだったが、この映画でも出て来る組織の「非情さ」があまりインパクトを持たないのは、いまの時代がもはや固い
組織が個人を非情に抑圧して済む時代ではないからである。そういうことをすれば、個人が「テロ」(ハードな方法とソフトな方法とがあるにせよ)で組織に歯向かうのが「あたりまえ」になり、組織にとっては得にはならないからである。
(UIP試写室)



2002-12-06_2

●歓楽通り (Rue des Plaisirs/2002/Patrice Leconte)(パトリス・ルコント)

◆ヤマハホールの試写会場は「安い」。が、この日はそれが功を奏した。開映まえに舞台に黒シャツに赤ネクタイのフランス人が手回しオルガンを操作しながらポピュラーなシャンソンを歌ったので、わびしいヤマハホールが、ちょっとパリの場末の劇場風になったのだった。しかし、客の集め方が適切ではなかったらしく(フランス文学者とかの「活字人間」が多く、映画関係者が少なかった)、ルコントの挨拶まであったのに、反応にサエがなかった。わたしは、ルコントの話がきけてハッピーだったが、ルコントの誰であるかも知らないような「インテリ」が多かったようだ。1階中央の席はあらかじめそういう人たちのためにリザーブされており、わたしは、ふと思いついて2階の再前列に席をとった。これは、いつもと違った角度から映画を見れるのと、客席を見下ろせるのとで新鮮な印象を得ることができた。ルコントもいっしょに見てくれたのに、スタンディング・オベイションもなさそうな感じだったので、大げさに拍手をしてやったら、つられて拍手が起こった。
◆IMDなどの評ではあまり評判がよくないが、わたしは面白かった。たしかに、レティシア・カスタのシャンソンはひどい。あの歌で、ラジオ局のオーディションに受かるという設定は無理というものだが、映画は事実を模倣する必要はないのだ。終戦の知らせと同時にパリの空にいっせいに花火が上がるとか、カスタが「運命の男」と出会って抱擁すると、とたんに雷が鳴り、雨が降り始めるとかを、「わざとらしい」などと非難する者は、(ルコントの)映画を見る資格がないのである。
◆時代はよくわからないが、少なくとも1945年よりあとの時代 にパリの路地で雨に降られ、客のない3人の売春婦が、昔を回想する。かつて「オリエンタル・パレス」という娼婦館がはややかなりしころ、娼婦の父なし子プチ=ルイがいた。彼は、「大勢のママ」に育てられ、成人し(パトリック・ティムシットが成人したルイを演じる)、同じ娼婦館の雑用係をやる。娼婦館は、終戦後の改革で廃止寸前の危機にあるが、そんなある日、一人の若い娘マリオン(レティシア・カスタ)が新人娼婦としてやってくる。一目見たときから、ルイは、彼女に惚れてしまう。が、その愛は、普通の愛とは違っていた。
◆明確な描写はないが、最初ルイは、マリオンと肉体関係があったのだろう。が、やがて、彼は、「ぼくは君を笑顔にできない」と言い、彼女のために最愛の人をさがしはじめる。あまり必然性がない形で選ばれた(これもルコントのユーモア)男ディミトリ(ヴァンサン・エルバズ)との3人生活は、『炎の恋 ジュールとジム』の男2人に女1人の関係に似ている。その男が、「嘘つきで臆病で泥棒」なのは、型にはまっているが、これも、ルコントの引用。カスタの容貌がどこかアンナ・カリーナに似ているので、わたしは、ゴダールの『女と男のいる舗道』を思い出した。ルコントは、当然、娼婦の物語であるこの作品を意識しているだろう。
◆娼婦のあいだで育ったという設定からすると、女役でもなく、セックスレスで、女に尽くす男というキャラクターは納得がいくが、実は、映画のディレクターは、いつもこういう役割をになっている。ひょっとして、脚本家のセルジュ・フリードマンは、ルイのなかにルコントを重ね合わせているかもしれない。
◆マリオンとディミトリが危機に陥ったとき、ルイが、全パリの売春婦からカンパを集めるシーンのコンヴィヴィアリティ。コンヴィヴィアリティという言葉は、イヴァン・イリイチによって、集団の能動的な解放性を規定する概念となったが、最近、イリイチが逝去した。
(ヤマハホール)



2002-12-06_1

●ストーカー (One Hour Photo/2002/Mark Romanek)(マーク・ロマネク)

◆『インソムニア』のロビン・ウィリアムズはいただけなかったが、今度は悪くない。このような屈折したキャラクターは、これまで、ハリウッド映画にはあまり出てはこなかった。「プライバシー」の問題を家族写真と関係づけているのも面白い。
◆警察の尋問室で、黒人の刑事(エリック・ラ・サンラール)からロビン・ウェイリアムズが、「どうしたあんなことをしたんだね?」と問われる。ウィリアムズのアップから、回想シーンに移る。ナレーションはウィリアムズ。彼は、大きなスーパーマーケットの一角にあるDPEカウンターの係。コニー・ニールセンが子供連れでDPEを頼みに来る。彼女は常連らしい。うやうやしいう対応するウェイリアムズ。彼の名はサイ・パリッシュ、女は、ニーナ・ヨーキン。一転して彼女の家のシーンになると、夫はコンピュータ(マック)に向かい(画面に3D)、子供は、テレビゲームに夢中。とりあえずは、平均的な「平和な」家庭。
◆映画が始まって20分ぐらいたっているのに、一人の男が入ってきて隣の空席に座る。そして、しばらくのあいだケータイとにらめっこ。明るいじゃねえか! 大体、途中で客を入れる会社もどうかと思う。たぶんテレビ局の関係者かなんかなのだろう。そういうのには弱いし、そういう人はさわりだけ見れば、取り上げるかどうか判断できるし。だから、この人、それから30分後に、やけにケータイの光が点滅すると思って覗くと、居眠りしているのに、手が自動的に二折れのケータイを開いたり閉じたりしているのだった。ちょっと恐ろしいものを見た。閑話休題。
◆サイには家族がいない。外食し、青白い壁のいかにも寒々しいアパートに帰るとテレビを見るか、Deepak ChopraのThe Path to Love: Spiritual Strategies for Healingを読むぐらいしかしない。孤独な初老の男。が、部屋の壁には、びっしりと写真がはってある。それは、彼にとっては特別の意味があるのだった。彼は、ヨーキン家の人たちと対等の関係でつきあいたいとは思ってはいない。彼は、しばしば夢想するように、ヨーキン家に、あるいはその家族写真の片隅に加わりたいと思っているだけだ。実際には、この映画の後半でわかるように、写真とは裏腹の家庭であるのだが。
◆サイは、ニーナに好意を持っており、ストーカーのようなことをして彼女と偶然出会ったような機会をつくり、彼がチョプラの愛読者であることを知らせる。彼は、おそらく、ニーナがその本を読んでいることを知っていたから自分も読み、彼女の世界の一部を共有しようとしたのだろう。しかし、この部分は、もっと単純に、彼と彼女が偶然チョプラの愛読者であったにすぎないと解釈することもできる。映画を見終わって、あれってどっちだったのかとかんがえさせる個所を持っている映画は良質の映画である。
◆また本筋からそれるが、わたしの友人がよくたのむ街のDPEラボは、現像とプリントを頼むと、そのなかでよく撮れたとその店が判断した1枚を引き延ばして無料サービスする。この話を聞いたとき、わたしはイヤな気がした。なぜなら、その店は、個人が撮った写真を全部点検していることが明らかだからである。そうなれば、その店は、常連の家族構成から住んでいる部屋の様子、インテリアから細々した家具まで全部知っていることも可能だ。
◆自分のことを隠したい人に暴けとは言わないが、「プライバシー」などというものはなくなった方がよいと思う。が、「プライバシー侵害」の問題は、間接的、とりわけメディア・テクノロジーを介した間接的な方法で他者に接近する点にある。いっしょに(つまり身体を触れあいながら)生活していて「プライバシー侵害」は意味がない。そこでは「プライバシー」(という言葉を使うとすれば)はたがいに共有されるべきものであって、個人がひたかくしに独占するものではない。いずれにしても、「プライバシー」は、テクノロジーの合成物として存在するので、それは、テクノロジーのロジックで自動的に増殖していく。サイが共有していると思ったヨーキン家の「プライバシー」も、そうした合成物であるから、彼がヨーキン家の人間とフェイス・トゥ・フェイスのレベルでコミュニケートする度合いが多くなればなるほど、ズレが生まれざるをえない。
◆重ねて言っておけば、「プライバシーの侵害」の問題は、モラルの問題であるよりも、技術の問題である。他者を表象/再表象できる技術が高度化し、それへの盲信が深まることが、問題なのだ。だから、もし、「プライバシーの侵害」が裁かれなければならないとすれば、それは、そういう技術を開発した者とそれを盲信する者であろう。
◆写真は、その意味では、初歩的な「プライバシーの侵害」技術である。が、サイにとっては、写真は普通以上の表象/再表象能力を持っている。彼は、フリーマーケットで古い写真を手に取り、ポートレイトの人物は、見られることによっていまによみがえるのだとつぶやく。あたかも古い写真のなかの人物が、そうされることを待っているかのように。
◆スーパーでニーナの夫(ミッシェル・ヴァルタン)を見つけ、サイは、いかにも前から知っていたかのように話かけるが、相手は動揺を隠せない。それが初対面だからだ。こういうことは、テレビタレントとファンとがメディアの回路の外で出会うときにしばしば起こる。
◆音楽は、Tim Heintzのものが多かった。
◆家族写真の現像・焼き付け者、そしてその鑑賞者にとどまっていたサイが、撮る者に回るとき、「スナップショット」=スナップ写真が「一発で仕留めること」(それがsnapshotの最初に意味だとサイがつぶやくくだりがある)に変わる。
(FOX試写室)



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