2022/06/05
久しぶりに映画評を書きたくなった。
「3号雑誌」になった『発作のウトポス』の初号で、劇場映画よりも「 ケーブル映画」の方が面白いと書き、ジェレミー・レナー主演の『Mayor of Kingstown』を取り上げたが、「ケーブル映画」という言い方は適切ではないかもしれない。
iMDbやRottenTomatosでは、「TV Shows」というジャンル分けにしているが、「TV」ではないのではないか? ネットワークを通すことは基本だから、むしろ、「ネット映画」の方がいいのではないか? ここでは、当面、そう呼ぶことにする。
さて、その「ネット映画」をあれこれ見ているなかで、最近、『Shining Girls』に出遭って、確信を新たにした。これは、ローレン・ビュークス原作 (The Shining Girls/2013) (邦訳、早川文庫)にもとづく、連続女性殺人事件の物語で、最初TIMEで映画化される予定であったが、それから5年してやっとApple TV+で実現した。
プロローグ全8回限定のエピソードを昨日やっと見終わったところだが、ある意味では映画化しにくい原作を活かしながら、これまでの映画ではあつかわなかった領域へ踏み込んでいるような出来に感嘆した。原作は、ドアーを開けると90年代から70年代に飛ぶといった過去へのタイムスリップではなく、文字通り章ごとに時空を飛びながら、同一人物の身に起こる出来事を描いている。これをそのまま映画化したら、タイムトラベルの話になってしまう。
そもそも、タイムトラベル映画というのは、時間性そのものには問いをなげかけない。通常われわれが信じている継起的な時間性を前提にしている。が、『シャイニング・ガール』は、そこにどどまらず、時間性へのわれわれの通念・常識をぐらつかせる。
最初、わたしは、雑に読むとタイムトラベル的にも見える原作が、時間の移動を客観時間の移動として描いているのに対して、映画は、被害者で「唯一の生き残り」という設定のカービー(エリザベス・モス)の主観的な時間スリップとしてとらえなおしたのかと思った。これは、単純には、アルツハイマーの変種のような症状にも見えるが、むしろ、記憶の病が、単にある記憶の喪失/復活といった単純なものではないということを示唆しているような創意に満ちていると思ったのだ。
カービーは、殺されそうになった後、PTSDを負い、時空軸が混乱を起こす。アパートメントの「3B」に住んでいるのだが、「2B」と思い込んで鍵を開けようとする。これは、似たようなドアが連なる建物では誰でもが経験しがちなことだが、ネコを飼っていると思っていたら、実は犬だったというような「混乱」は「普通」ではない。が、カービーの場合、それが常時起こる。
しかし、こういうとらえ方は、この映画のうわつらしかなぞっていないことが、エピソード07と最終の08でわかった。それについてはゆっくり、ジクジクと書いていくことにして、まず、エピソード01を4月に見たときに感心した点について書こうと思う。
コンピュータへのこだわり
エピソード01を見てまっさきに感心したのは、登場するコンピュータの機種へのこだわり方だった。
エピソード01の最初は、幼少時のカービーのまえに初めて登場する、「のちの」殺人者ハーパー(ジャミー・ベル)とのシーンで、時代設定は1964年と表示される。ハーパーの性格を示唆する短いエピソードののち、場面は1992年に移り、本編が始まる。かつては記者だったが、事件のショックで窓際的な仕事についている彼女の職場はシカゴ・サン・タイムズの事務所だが、どうも様子がおかしい。彼女のまわりのコンピュターのモニタースクリーンがみなグリーンなのだ。
これは、HPが1987年に発売しはじめた700/96 Terminalシリーズで、これは、当時、技術者でなくても使え、しかも実用に耐える最新の機種で、シカゴ・サン・タイムズぐらいの一流の新聞社は、いっせいに導入したのだろう。
しかし、一流の会社で1992年になってもこんなものを使っているところはめったになかったはずだ。80年代末という時代はコンピュータにとっては大転換の時代で、1年ちがっても、性能が飛躍的に向上した。だから、カービーにはグリーンに見えるモニター画面は、それを使っている者には、モノクロに見えるはずである。90年代には、事務用コンピュータは、すでにモノクロ画面になっている。
つまり、このシーンが即座に示唆するのは、すくなくとも彼女の目には周囲の風景が、事件以前の時代つまり1980年代後半のフィルターで見えるのであり、この映画の視点が彼女の主観的な意識と知覚であるということだ。
ただし、この解釈は、最終のエピソード08を見て、ぐらついた。これは、考えすぎかもしれない。新聞社のような用途を特化した使い方をするところでは、1992年になってもHPの700シリーズを使い続けていたかもしれない。つまり、グーリーンのモニターは、1992年のものと考えたほうがいいかもしれない。この点も、のちのち考えていこう。
NeXTstep
わたしが、カービーのPTSDによる主観的なフィルターという点を考えたのは、カービーが登場しないシーンで見られるコンピューターが、ニクいくらい同時代の先端に合わせていたからである。カービーとならんで、ハーパーに狙われているもう一人の女性ジニー(ジン=スーク)(フィリッパ・スー)が使っているコンピュータは何とNeXTstationなのだ。
プラネタリウムに務めているジニーがコンピュータを操作するとき、マウスのシーンを見て、ん?!と思った。これってNeXTのマウスじゃないのか? NeXTは、わたしにとって、1990年以来、さんざん使い、コンピュータの醍醐味を初めて味わった機種なので、マウスを見ただけでピンと来る。
事実そのとおりで、本体とモニターが映るシーンで、彼女の使っているのがNeXTstationであることがわかる。
NeXTstationというのは、スティーブ・ジョブズが1990年に、当時の最高のコンピュータ技術とデザインを文字通り満を持して投入し完成したUNIXコンピュータ、NeXTcubeの姉妹的マシーンである。1976年にみずから創業したアップルコンピュータ・カンパニーを1985年に追われるようにして退社したジョブズが新たに立ち上げたNeXT, inc.(のちのNeXT Computer, Inc.) でまさにアップルへのリベンジとして作り上げ、テキストや画像処理をいまではあたりまえのWYSIWYGのグラフィカルインターフェースで可能にしたワークステーションである。当時の別名「落ちないマック」。
わたしは、NeXTの熱狂的なユーザーのひとりだったので、NeXTの話は始めたらキリがないのでやめる(UNIX Magazine やMacPowerのバックナンバーにはさんざん書いた)が、今日のコンピュータは、ほとんどNeXTが先鞭をつけたことを発展させているとすら言える。
面白いのは、いま「ネット、ネット」と言っているもの、WWW (World Wide Web) は、ティム・バーナーズ=リーがそのシステムを最初にプログラムし、走らせたのがNeXTstationだったことである。これについても書きたいことは多々あるが、詳細は彼の『Webの創成 World Wide Webはいかにして生まれどこに向かうのか』(毎日コミュニケーション、2001)に譲る。
とにかく、1990年代の初頭としてはメディアの先端機器をそろえたと思えるプラネタリウムにNeXTstationを配置しているのだから、この映画のディテールは、ゆるがせに出来ないだろうと思ったのである。NeXTの話だけで終わるのは、大山鳴動して鼠一匹の感がしないでもないが、第1回目は、このへんにしておく。