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2022/06/19

シャイニング・ガール(Apple TV+/2022) 【2】 映画の時間性へ

ローレン・ビュークスの原作を読むと、映画ほど時間性に関する果敢な挑戦は感じられない。シュールレアリスムの時間的飛躍や映画の常套手段である「フラッシュバック」を応用しただけのように見える。おそらく、原作自身に実はそういう挑戦があるのかもしれないが、それを映画で具体化したのは、クリエイターのシルカ・ルイザ(Silka Luisa)(画像クリック→インタヴュー)の知性である。

一言でいえば、映画『シャイニング・ガール』は、映画にドゥルーズ/ベルクソン的な時間性をよびさました。

映画は、どのみち、ジル・ドゥルーズが『Cinema』(邦訳、法政大学出版局)で明らかにした時間性にもとづいて作られている。それが、継起的な時間(時計時間)で作られているかのように思うのは、時間性への認識の誤謬ないしは誤解にすぎない。

だが、このことは、これまでの映画が時間性を取り違えていたということではない。取り違えていたのは映画論の方であって映画自体ではない。

映画は理論で作るものではなく、製作関係者の経験や勘で作るものだ。いっとき、「ドゥルーズ理論で撮ってます」なんてシネアストがいたが、ばっかじゃなかろうかと思った。実際、ドゥルーズは未来の映画のために『Cinema』を書いたのではなく、映画の見方を変えるために書いたのだ。だから、彼が例に挙げている作品は「古典」ばかりである。

ここでドゥルーズやベルクソンを蒸し返すつもりはないので、簡単に言うと、映画は時間性を創造するのであって、空間を作るのではない。空間は、新たな時間性から生成するのだ。映画に映る場所の移動は、空間の移動のように見えても、その本質は時間のそのつど新たな生成なのである。

これは、夢を考えてみればよくわかる。夢を見る者は、たかだかベッドの上の移動のとぼしい空間を移動するだけである。が、にもかかわらず、夢はミクロな世界から宇宙までのさまざまな場所に移動させてくれる。それは、さまざまな時間がさまざまな空間を生成させるからなのであって、睡眠中の身体が、体外離脱して、さまざまな場所を徘徊するわけではない。

映画『シャイニング・ガール』は、そうした生成的・空間創造的な時間性に立脚しているがゆえに、フラッシュバックのような技法とは決別する。フラッシュバックは、同一であると前提された主観の意識のなかで「過去」のあるファイルが開くのだが、そもそも記憶は、データを集積したフォルダーではない。

過去の記憶がイメージとして「ありありと浮かぶ」なんてことはないのであり、それは、小説や映画の技法にすぎない。技法であるかぎりでは、それはそれでいいのだが、その仕組みを記憶そのものに重ね合わせるのは誤りだ。

アルツハイマー再考

シルカ・ルイザの『シャイニング・ガール』では、画面でときおり年代が表記されるが、それは、空間化された時間におつきあいをして見せているにすぎない。

「アルツハイマー」という言葉が出てくる(エピソード05)が、この映画は、アルツハイマーの概念自体の再認識をせまっているようなところがある。認知症や記憶喪失とは、あるデータが消えてしまうことではない。イメージ=データつまりは恒常的な空間的事象としての「記憶」を常態化する時間性が変質し、「日常」というのっぺりした、空間化された時間を構築する能力が変化してしまうことだと言ったほうがいいかもしれない。

だから、逆に、アルツハイマーの方が、空間化されない「生きた流れる時間」(フッサール)を生きているとも言える。

エピソード01で、カービーが、自分の目には「3B」と見えた部屋の表示が実は「2B」だったというような例とか、ハーパーに切られた傷を検査してもらっていて、医者が女性から男性に変わってしまうというようような例は、「錯覚」として見過ごすことも出来るが、カービーにつぎつぎにふりかかる「タイム・ホッピング」のすべてを錯覚とみなすことはできない。

存在論的に、部屋や建物や都市は、それぞれの物体としての時間性のうちにある。それらに対応する人間の時間性とは異なる時間性である。それらも、時間の生起のなかでそれらの空間性を構成しているのだが、人間は、物体の「恒久性」の長い時間性につきあって日常生活をしている。だから、部屋自体が、突然別の時間性にホップするということは少ない。つまり、上述の個所で、タイム・ホッピングが起こったとは言い難い。

時間性のからみ会い

しかし、エピソード04で、殺された女性の体内にあった遺品の裏を取るために、「 LANDRYLAND」という表示のひと気のない建物に忍び込むと、そこに殺人者ハーパーが現われ、格闘になるシーンがある。ここで、殺されそうになりながら、からくも建物の外に飛び出すと、建物の表示は、「BEE HAPPY BAR」に変わり、なかには客でごったがえしている。このシーンは、タイムスリップとかフラッシュバックといった月並みな既成概念では説明ができまい。

世界は、決して、人間が約束事にしている時計時間で規定されているわけではない。さまざまな時間性の存在者がいりくみあった時間性のもとで共存したり抗争したりして「リアリティ」を構築している。そうすると、何かの事情で、人間の時間性と他の存在者との時間性の組み合わせに変動が起こり、時計時間では判断できない事態が生じるということもありえる。というよりも、『シャイニング・ガール』は、そういう事態を映画化したのである。

プラネタリウムに務めるジニー(ジン=スーク)は、カービーに、素粒子論的な説明をする。カービーとジニーとハーパーは、素粒子同士のような作用をしあっており、それは時空(つまり時計時間)を超えた作用をするのだと(エピソード05)。たしかに物質の最小単位である素粒子のレベルの話なら何とでも言える。逆に言えば、そういうことを言うのはあまり意味がない。ただし、分子レベルでの「カップリング」ということは、すでに分子生物学では論じられている。

エピソード05には、重度のアルツハイマーを主に収容しているケア施設が出てくる。ここでは、「患者」が覚えている時代の室内環境を用意している。ここに収容されている、ハーパーの「戦友」レオ(クリストファー・デナム)は、第1次世界大戦のガリポリの勲章を飾り、スタンリー・キューブリックの『突撃』(Paths of Glory/1953) ばかり観ている。アルツハイマーは、時計時間とのつきあいが切れてしまうことだとみなすなら、この「療法」は、(「普通」の世界との関係を維持するためには)有効だろう。しかし、レオの場合は、そのレベルを飛び越えている。

ロバート・モンローの「体外離脱」

エピソード06になると、第1次世界大戦の戦場を生き延びたハーパーとレオがシカゴに帰還する。軍服のハーパーは、従軍まえから惚れていたクララ(マデリーン・ブルーワー)と会い、街をさまよったあげく、一軒の家にしのび込む。このへんは、映画のセット的に1910-20年代の雰囲気と人々の衣装を維持しているが、その家でハーパーは、液晶時計を発見する。また、半生記後に印刷されたはずの20ドル紙幣も、古い紙幣にまじってそこにある。

LCD時計が一般化するのは1970年代に入ってからだから、このシーンは、どう説明すればいいのか?

この謎に関しては、この家の持ち主の老人の説明がある。どうやらこの家がタイム・ホッピングの(あるいは「体内離脱」の)特殊な場になっているらしい。ハーパーとクララとレオは、こののち、ドアーを抜けて、「現代」に飛び出してくる。これは、いささかSF的な展開で、がっかりさせるが、この問題については、いずれ別の回で考察しよう。

ところで、わたしは、先に、「睡眠中の身体が、体外離脱して、さまざまな場所を徘徊するわけではない」と書いたが、ロバート・モンローは、『体外への旅』(邦訳、ハート出版、2007)のなかで、「ほとんどの人間は、程度の差こそあれ、眠っている間に自分の肉体を抜け出している」(p.273) と言い、後半で「体外離脱」の意識的な方法を説いている。それは、身体を「振動状態」に置き、それを軸にして言うなれば、身体の時間性を変革するということらしい。

空間的な「移動」ではなく、振動(オッシレイション)つまりは時間性の様態であるから、モンローは、離脱する身体を「第二の体」と呼ぶ。「第一の体」がそのままどこかに移動するわけではないのだ。とすれば、映画『シャイニング・ガール』は、ロバート・モンロー的な発想を利用しているとも言えなくない。