●フライト(ロバート・ゼメキス)

Flight/2012/Robert Zemeckis      ★★★★

◆2012年12月に試写を見てすぐ、iMDbのボードに、デンゼル・ワシントンのアカデミー主演男優賞ノミネートに値する演技だと書いたら、「ほかに誰も候補がいなければね」と嫌味な一蹴を受けた。が、その直後、ゴールデン・グローブ賞の最優秀男優賞にノミネートされ、さらに今年1月、アカデミー賞にの最優秀男優賞にもノミネートされた。わたしは、デンゼル・ワシントンの演技がこの10年、ますますよくなってきたのに感心していた。だから、今回のパイロット役で、それがまた一段上質の演技を見せたので、アカデミーへのノミネートは確実だと思ったのだった。結果的に受賞はかなわなかったが、彼がすばらしい演技を見せたことにはかわりがない。

◆公開まえに書こうと思いながら、3か月も足踏みしてしまったのは、思ったことをそのまま書けば、必ずや《ネタバレ糾弾委員会》が騒ぐだろうと思ったからだ。が、すでの公開され、ヒットしているのだから、そういう気づかいは無用だろう。ここでわたしが書くのは、ひとつの解釈であって、それでこの映画のすべてが明かされるわけではない。映画の映画たるところは、文字では表現できない部分にある。それは、どんなに努力してもバラすことなどできないのだ。

◆オープニングで、空港のホテルの一室が映り、ベッドから裸の女が起き出してくる。隣にはデンゼル・ワシントンが寝ている。女はマリュワナに火を点けて一服する。寝起きが悪そうに起きてきたワシントンは、テーブルのコカインを広げ、吸う。いったいこのふたりは何なのだ、ギャングと情婦かと思うと、次の瞬間、パイロットの制服を着た彼が、フライトバッグを持ってさっそうと空港の廊下を歩いている。

◆オープニングで、この主人公は、アル中であり、飛行機を操縦する前日でも酒をしたたか飲み、しかもマリュワナをやってセックスをするような生活をしており、(ケータイの会話でわかるように)妻とは別居状態で、子供のことでもめている。操縦には頭をシャキッとさせておく必要があるから、それは、コカインで処理する。金がなければできないが、エリートで仕事をバリバリやっているアメリカ人にはありがちなパターンである。

◆この映画のすばらしいところは、この一見酒やドラッグや女に溺れている男が回心する話ではない点だ。仕事についたウィップ(デンザル・ワシントン)が、機体のトラブルであわや墜落しそうになるのを天才的なテクニックで回避し、不時着に成功するシーンはサスペンスとしても見ごたえがある。そして、負傷した彼が入院中の検査で体内からアルコールとドラッグが発見され、マスコミからもたたかれる。そして、刑事犯罪としての容疑をかけられ、査問委員会にのぞむシーンも、スリリングである。しかし、そういうある種のエンターテインメント性と切り離されない形で、<責任を取る>ということはどういうことなのか、善悪の基準はどこにあるのか、欲望とは、ヘドニズムとは、依存症とは、といった、いまの時代に生きる際に避けては通れない問題が、啓蒙や教訓やご宣託などとはまったく異なるアプローチで表現されている。

◆ウィップにドラッグを調達する〝悪友〟ハーリン(ジョン・グッドマン)の存在が、この映画をそうしたご宣託的陥穽に陥るのを防いでいる。彼は、商売でドラッグを提供しているのかもしれないが、それだけではない。ふたりは、ある種の60年代的カルチャーを共有している。飲酒、喫煙、淫乱などを〝不道徳〟とは言わなかった――というよりも、それらに寛容でありえた――時代である。この映画は、決して、そういう時代を否定してはいない。ハーリンは、この映画のなかでは最後までウィップにドラッグを売り、悔いはしない。ウィップと会社の弁護士は、彼が査問委員会に出席しなければならない日にアルコールに手を出してしまったのをごまかすためにウィップを呼ぶ。彼は、まるで名医のように、洗練された手つきで調合したコカインでウィップの酒の酔いを取り去る。こういう技術は、善悪を越えて存在するのであり、それに善悪のレッテルを貼るのは、それぞれに内部事情のある国家や組織なのである。

◆しかし、この世には、善悪がないわけではない。ある国家では善で、他の国家では悪となるような相対的な善悪ではなく、絶対的な善悪がある。この映画はその問題に触れようとする。ある時点まで、ウィップは、パイロットの位置と会社の利害を守るために、査問委員会の追及をかわそうとする。もし彼がアル中であることが明らかになれば、5、6年の実刑を受けることになる。社会的地位も失う。だが、事故機の操縦席のなかから発見されたウオッカの空のボトルが誰のものかを追求されたとき、迷い、決断する。真実を語ろうと。

◆メリッサ・レオが演じる査問委員長は、ボトルを空けた人間は絞り込まれ、最後に残ったのはウイップと不時着のときに犠牲になったカテリーナ・マルケス(ナディーン・ヴェラスケス)の2人だった。カテリーナとは、映画の最初のシーンに素裸で出てきた女性である。ウィップは、フライトアテンダントの彼女と情交をかわしていた。愛してはいないかもしれないが、ただの友人以上の相手だ。査問委員長の追及をかわして、「わたしがその瓶を空けたのではない」と言えば、残りは、カテリーナしかいない。会社側は、死人に口なしをいいことに、ウィップがそうすることを教唆してきたし、てっきり彼がそうすると期待していた。おそらく委員長ですら、そう憶測していただろう。所詮は、査問委員会とて会社の利益を壊す気はない。が、ウィップにとっては、それは、カテリーナへの裏切りである。それは、国家や組織の相対的な善悪を越えた悪そのものである。

◆自分をいつわること、他人に嘘をつくことが悪であるという信仰は、どのように生まれたのだろうか? それは、どのような根拠にもとづいて真実なのだろうか? それは、キリスト教信仰だろうか? 映画のなかで、ウィップが裏技で最悪の事態だけは逃れて不時着する飛行機は、草原のぽつんと建ったプロテスタントの教会の尖塔をなぎ倒して着陸する。これは、ある意味で、反キリスト教的暗示である。そして、その後のシーンに見えるのは、反キリスト教的な態度であり、そうした彼を癒すニコール(ケリー・ライリー)という女性である。彼は、偶然、暴力をふるう夫から彼女を救った。彼女もまたアル中だったが、AA(Alchoholics Anonymous)に通い、酒の依存症を絶とうとしている。彼女は、彼をAAのミーティングに誘うが、彼は身を入れることができない。

◆しかし、自己と他者を偽ることが悪だとする信仰・信念がキリスト教的だとしても、それは、西暦や近代科学の起源がキリスト教的だという程度の意味でしかないだろう。それは、身体が右左上下といった概念を真理として前提するのと同じ基礎的な身体的真実であり、これを前提としなければ、身体が存在する世界は存続しえない。人を殺すことが悪であるのも、それが身体の存在を前提とした世界を否定するからだ。実際、自らの命を絶てば、身体世界は消滅する。人間世界とは、身体の存在を無条件に前提としている。それは、キリスト教の信仰にもとづくのではなく、エドムント・フッサールが「地平」という概念で論じた「原信憑」(Urdoxa ウアドクサ)にもとづいている。

◆この映画で、デンゼル・ワシントンは、まさにフッサール的な「原信憑」を再確認する人間の姿を生き生きと演じた。人間は、信憑(信仰や信念よりもより根源的なのでこう言う)に目覚める瞬間があるのだし、その姿は美しい。

◆この映画の最後は、収監されたウィップを息子が面会にやってきて、言う。「Who are you?」と。これに対して、父親は、「いい質問だね」と言いながら、考え込む。彼には、答えることができないとしても、息子にとって彼が父であることは明快だ。映画は、彼がとまどいの表情を見せるところで終わるが、もしこの映画があと10秒続いたとしたら、彼は、「君の父親だ」と答えただろう。結局、わたしの実存は、他者によって保証されるのだが、それは、他者とは身体であるからだ。



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