●ゼロ・ダーク・サーティ(キャスリン・ビグロウ)

Zero Dark Thirty/2012/Kathryn Bigelow  ★★★★★★

◆ビン・ラディン暗殺の話なので、公開まえから話題が沸騰した。アルカイダのメンバーを拷問するリアルなシーンがあるというので、見るまえから〝人権侵害〟だとさわぐ者、国家の安全のためには拷問してでもテロ情報を吐かすべきだからこれでいいのだとする〝愛国主義者〟見るべきはリアルでクールな映像であるとするアート派、はては、本当の拷問の例を引証し、場面の〝まちがい〟を批判するくそリアリスト等々、さまざまな反応があった。

◆映画には、たとえどんなにフィクショナルな設定と映像をもってしても、身体的〝現実〟と抵触する部分があるし、また、どんなに肌で触れうる〝現実〟を映そうとしても、所詮は映画であるという部分がある。だから、この映画を、純粋なサスペンスとしてとらえることも、また、CIAが行使したビン・ラディン暗殺事件の資料映像としてとらえるのも、どちらもまちがうことになるだろう。

◆描かれているドラマ内ロジックで判断しても、ひとつの国家が別の国家にひそかに侵入し、そこに住む人間(外国人であれ)を殺害するのは、国際法違反である。しかし、そういうことをアメリカはこれまで世界中でやってきたし、ほかの国々も同様である。だから、この映画のクライマックスは、そうした技術の現在がいかなるところまで行っているかを見る資料にはなる。

◆そこでふと思ったのは、2000年12月に起こった〝世田谷一家殺害事件〟である。もし、CIAの判断にあやまりがあり、ビン・ラディンの一家だとみなした人々が、ビン・ラディンとは何の関係もないひとたちだったらろうだろう? それはありえることだが、もしそうだとしたら、〝世田谷一家殺害事件〟でターゲットとなった宮沢家は、実は、まちがったターゲットだったということもありえるわけだ。つまり、どこかの国の秘密警察かあるいはなんらかの組織または個人がある一家(ないしはその特定の人物)の殺害を計画して、プロの殺し屋を送り込む。が、殺し屋は、まちがって別の家に行き、計画を実行してしまう。もし、この推測が正しいとすれば、<世田谷区上祖師谷3丁目・・・>の現場の住所とまちがいやすい別の家を探すべきである。そして、その一家ないしはそのメンバーがそうした攻撃を受ける可能性があったかどうかを調べるべきである。

◆話が飛んだ。この映画をビン・ラディン殺害との関連で論じることはかぎりなくある。しかし、この映画そのものに即して論じるとすれば、ジェシカ・キャスティンが演じるマヤという女性のキャラクターが一番面白い。彼女は、CIAのスタッフであるが、それをこえて、キャリアウーマンの行きついた形態を示唆するという点でも面白い。恋人も友人もファミリーもいない(かのように見える/そうふるまっている)彼女の〝感情を欠いた〟無表情の雰囲気は、今後ますます増殖するであろう個人を表徴してもいると思う。

◆マヤがパキスタンのアメリカ大使館内のCIAオフィスに着任し、テーブルをあたえられたとき、まずやったのが、さりげなく机上の埃を指でぬぐうことだった。彼女は決してこの土地を好いてはいない。同僚はおろか他人もいらない。そういう彼女の気質と体質がこのシーンでずばりあらわされている。

◆彼女は気難しいのではない。他者に関心がなく、他者との交流を必要としないのである。それは、利己主義や孤立とはちがう。彼女の場合、他者関係は、ヴァーチャル(〝仮想的〟ではなく、・・・実質的)にある。コンピュータ、携帯電話、PDA、通信衛星、DVD映像などがヴァーチャルに構築する人工的な他者でいいのである。

◆マヤは、入手したデータを駆使してほとんど独力でビンラディンの隠れ家を推理する。友達も恋人も趣味もない、というよりも、そういう〝社交的〟なものを必要としない彼女の孤独な性格と生き方は、病的といえば病的だが、アメリカの戦争の時代が生んだ典型的人物像のひとりだと言ってよい。監督キャスリン・ビグロウの前作『ハート・ロッカー』の軍曹(ジェレミー・レナー)と対をなす人物像である。

◆いまの時代、もうデジタルデータだけでいい、生身の肉体はいらないという思いが強まっている。しかし、その一方で肉体性はかえっておどろおどろしい形で残されるというジレンマもまた深まっている。
 ビグロウの構成と映像が非常にいま的だと思うのは、データと一体になったかのような、いわば肉体性を欠いたマヤと、テロリストの疑いのある者への残酷な拷問や人肉の破片が飛び散るテロの現場という生々しい肉体性との極端な対置である。

◆爆発の起きるイスラムバードのマリオットホテルのシーンで、同僚のジェシカ(ジェニファー・イーリー)が待っていて、そこにマヤが携帯を見ながらやってくる。すると、ジェシカは、優しげな表情でワインをつぐのだが、二人の雰囲気のちがいが対象的だ。ジェシカは、〝古典的〟な女性であり、その皮膚に〝人間的〟な情感をみなぎらせるタイプである。これにくらべるとマヤは爬虫類――いや、「アバター」の皮膚をしている。

◆マヤにとって他者は、目のまえにおいてよりも、空想や構想のなかでのほうが強度を持つ。その意味でビンラディンは、彼女の理想とする最高の他者となる。ビンラディンの探索と追及は、彼女にとって他者への愛であり、他者との情交であり、さもなければ欠落してしまう他者性を補完するのである。が、ビンラディンが消されたとすれば、今後、彼女は新たなビンラディンを必要とするだろう。ヒキコモリ系、双極障害系、アスペルガー系のマヤは、身体的レベルでは孤立を好むが、その分、ヴァーチャルな権威や〝父性〟を求めることになる。そうでない可能性がこうしたキャラクターにはあるのだが、この映画では、集団と組織と父性が依然として支配的である社会のなかでこのようなキャクターの人間が生きるときに示すことになるパターンがヴィヴィッドに見えるのだ。

[以上は、雑誌『キネマ旬報』2013年2月上旬号の「ハック・ザ・シネマ」に書いた文章に加筆したものである]

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