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イレイザーヘッド

 デイヴィッド・リンチの『イレイザーヘッド』が公開される。これは朗報と言うべきだ。このフィルムは、アメリカン・フィルム・インスティテュート(AFI)の資金援助とリンチの個人的な資金でつくられた実験映画で、もし『エレファント・マン』のあれほどの成功がなかったら、うまくいっても自主上映でひっそり公開されるにとどまったろう。公開されずに終わることもあったはずだ。製作開始されてからすでに九年もたっている。が、とにかく映画らしい映画が公開されるのはよろこばしい。
 折りしも、ルイス・ブニュエルの『皆殺しの天使』(一九六二)がフランス映画社の手でやっと初公開された。同時上映の『ビリディアナ』も十五年ぶりの再公開だ。ブニュエルとリンチのフィルムがあい前後して公開されるのは全くの偶然だが、『イレイザーヘッド』とブニュエルとは決して無関係ではないはずだ。『エレファント・マン』にはシュールリアリスム的な技法はみられなかったが、『イレイザーヘッド』はブニュエルの『アンダルシアの犬』の技法をひきついでいる。
『イレイザーヘッド』の関心は、ブニュエルよりももっと意識の〈内面〉に向かっている。この映画の世界は、誰かの〈内面〉を透視したものであるようにもみえる。知覚と空想、夢と妄想、不安と強迫観念などが無秩序にいりまじる〈内面〉的世界をありのままに映像化しているようにもみえる。しかし、この映画では、〈内面〉的世界と〈外面〉的世界とを区別するのはむずかしい。ブニュエルの『哀しみのトリスターナ』では、教会の鐘の鐘舌が、トリスターナの眼に、自分の憎んでいる男の首にすりかわるシーンがあったが、ブニュエルは空想的・シュールリアリスム的なイメージは、概して、特定の登場人物の意識の〈内面〉を表わしている。が、『イレイザーヘッド』の場合は、そのような区別にあまり頓着しない方がよいだろう。言いかえれば、慣習化され硬直化したわれわれの日常的な論理をこの映画にもちこんでも無意味だろう。ここで展開されるのは、日常的現実を越えた(シュール)世界であり、A=B、B=C、ゆえにA=Cといった形式論理の通用しない世界なのである。
 このような映画に対しては、大なり小なり形式論理に立脚している批評のスタイルは、何とも分がわるい。映画にさまざまなスタイルがある以上、映画批評もワン・パターンの文体でよいはずもないが、一人の批評家はだいたい同じ一つの文体で通しており、その文体は論理的な散文調である。しかし、『イレイザーヘッド』に関しては、あえて一貫した筋書きのようなものを抽出してみても、それはこじつけになってしまうから、その雰囲気も伝えようとすると、さしずめアラン・ロブ=グリエ風の記述をするしかあるまい。たとえばこんなぐあいにである——
 ・・・男が人通りのない街を歩いている。工場街だ。古い建物がある。男は建物に入る。〈風の音がしている〉メイルボックスをのぞいてエレベーターに向かう。〈エレベーターのドアーが開く音〉男はエレベーターのなかに入るがドアーはなかなかしまらない。〈ドアーの閉まる大きな音。モーターの音が急に大きくひびく〉廊下で電灯が点滅している。男は自分の部屋のドアーに向かい、カギをあける。隣室のドアーから女が声をかける。「ヘンリーさん」。美しい女だ。いわくあり気な眼をしている。
 ・・・男が一軒の家を訪ねる。出むかえた女が「おかえりなさい」と言う。〈汽車の蒸気の音〉居間に初老の女がいる。「ああ、いらっしゃい」冷やかな態度だ。犬に子がむらがって乳をのんでいる。初老の女が言う。「ヘンリーだったわね?」出むかえた女の母親らしい。ソファに三人で腰を下ろすが、白けた雰囲気が流れる。女が突然発作をおこして苦しみはじめる。
 ・・・初老の男がオーブンから料理を出して食卓にはこぶ。それはロースト・チキンらしい。「腕がマヒしてね。毎日もんでいたらよくなったんだが、最近またシビれちゃって」初老の男がヘンリーにナイフとフォークをわたす。ヘンリーがチキンにナイフを入れようとする。突然その鉄皿のうえのチキンの足がゆっくり動きはじめる。食卓の母親はそれをみて、急に性的に興奮したような表情をうかべてうめく。チキンの尻から血のような液が流れはじめ、皿のうえにひろがる。
 ・・・「ヘンリー、ちょっと」母親が恐い目付でヘンリーをにらみつける。娘はドアーのところで泣いている。部屋のライトが点滅する。「あんたメアリーと性交したの?」母親は〈セクシャル・インターコース〉という言葉を使う。が、詰問しながらヘンリーに近づいてきた母親はいきなりヘンリーの唇にディープ・キッスをし、あえぎはじめる。娘がとめに入り、母親はわれにかえる。「メアリーが未熟児を生んだんだよ。ひきとっておくれ」ヘンリーはとまどう。
 ・・・メアリーが台のうえの生きものにスプーンで流動食をたべさせている。〈人間の乳児のような弱々しい泣声〉その頭部はナスのような形をしている。その両側に魚のような眼がついている。頭部と胴体は細くて長い首でつながり、その胴体は包帯でしっかりとおおわれている。手も足もない。
 ・・・〈乳児の泣声がはげしい〉〈雷の音〉「おだまり!」メアリーがどなる。彼女はヒステリックになっている。「もういや、ねむれなくて狂いそう。一晩ゆっくりねむりたいのよ!」メアリーはヘンリーのベッドを出る。「帰ってこなくてもいいさ」ヘンリーが投げやりに言う。メアリーはベッドの下に手をつっこんでトランクをひき出そうとする。ヘンリーの横たわっているベッドが大きくゆれる。
 ・・・〈乳児の笑い声〉〈ドアーのしまる音〉〈蛍光灯の音〉窓の外はあらしのようだ。ドアーの外で隣室の女と中年の男がだきあっている。女がヘンリーをみる。ヘンリーの頭があの奇形児の頭とすりかわる。ヘンリーはひき出しからハサミをとり出す。奇形児の胴体の包帯を静かに切ってゆく。が、パックリひらいた包帯のなかには蠢く臓器があり、それがじわじわと外にあふれ出てくる。ヘンリーは捨てばちになり、ハサミで臓器の一つを突きさす。するとその切口から白い流動物がふき出し、みるみるうちに奇形児の体のうえにあふれてくる。
 以上は、わたしの記憶をたよりに再構成したショットのスケッチだが、これでも想像できるように、この映画のなかに一貫した筋のようなものを求めるのはバカげている。筋があるとすれば、見方の数だけあるだろう。すでにわたしがいま行なった記述のしかた自体が一つの解釈になっている。ただし、この映画で終始一貫しているのは音響のあつかい方だ。『エレファント・マン』でもリンチは音響を一種のライトモチーフに使い、それによって映像と観客との心理的距離を操作したが、『イレイザーヘッド』でも、音響は観客をその非日常的・シュールリアリスム的な世界にひきこみ、ひきとめておく機能を効果的にはたしている。リンチにとって音響は、一種の語り手のような役割をもっている。以前、『エレファント・マン』の評(前掲)を書いたとき、わたしは『イレイザーヘッド』にふれ、それを「消去ヘッド」と訳した。映画には、ヘンリーの首が切り落とされ、路上にころがり、それをひろった子供が鉛筆工場にもってゆくと、それがただちに鉛筆の頭の消しゴムの材料になるというシーンがあるので、〈イレイザーヘッド〉は直接的には鉛筆の頭の消しゴムを指すのだろう。しかし、音響へのリンチのただならぬ執着を思うと、『イレイザーヘッド』というタイトルには、どうもテープレコーダーの〈消去ヘッド〉の意味もこめられているのではないかと、わたしはいまでもあの訳語にこだわっている。
 シュールリアリスム的な技法で撮られた映画は、何かハイブラウのものと受けとられがちだが、この技法は、〈シュールリアリスム〉の芸術が出現する以前から近代以前のカーニバルや見世物のなかにその潜在形態をもっていることを忘れてはならない。ブニュエルやフェリーニはむろんだが、フリーク(奇形人間)に対するリンチの執拗なまでの関心をみると、リンチもまた近代以前のそうした民衆文化の伝統を意識しているにちがいない。フリークは、カーニバルや見世物小屋では欠かすことのできない出しものだったが、日常世界のなかに非日常的なおどろおどろしい世界をつくり出すこのような出しものは、映画が普及する以前の時代には、大衆の夢をみたす重要な娯楽の一つだった。ある意味で映画は、見世物のこのような技法に学び、それを奪い、そしてそれをいつのまにか失ってきたのだが、ブニュエルやフェリーニはそれを知的なやり方で継承しているのである。アメリカでは、一九六〇年代以降、ヒッピーや反体制派が自らを〈フリーク〉と名のったり、トッド・ブラウニングの『フリークス』(邦題は「怪物団」)が再評価されたり、また、近年では、〈脳縮少症〉のフリークが主人公であるビル・グリフィスのコミックスが評判になるなど、フリークや見世物に対する新たな関心が高まっているが、ひょっとしてデイヴィッド・リンチは、そうした民衆文化の源流に根ざす新たな大衆映画の作り手になるかもしれない。

監督・脚本=デイヴィッド・リンチ/出演=ジョン・ナンス、シャーロット・スチュアート他/77米◎81/ 8/ 5『キネマ旬報』




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