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ミッキー・ローク

『ダイナー』を初めて見たとき、そこに登場する一人の役者の名前がひどく気になってしかたがなかった。この、決して新人には見えない役者は一体誰なのか? 完璧なアメリカ語をしゃべっているが、ヨーロッパの劇壇から抜擢された演劇人なのか? キャストの名前のなかに、「ミッキー・ローク」という文字を発見したとき、わたしは前年に行ったメルボルンのメイン・ストリートである「バーク・ストリート」を思い出した。両者は、頭のRとBが違うだけだったからである。そこで、わたしは、この俳優がひょっとしてオーストラリア出身なのではないかという勝手な妄想をいだいた。オーストラリアの映画界は、すでに過熱しはじめており、すぐれた俳優が続々現われていたから、そのへんが、バリー・レヴィンソンのアメリカ映画に出ていても不思議ではなかったからである。
 そのためか、わたしは、それ以上ミッキー・ロークについて調べてみようとはしなかった。そのときわたしは、ニューヨークに滞在していたのだから、調べようと思えばいくらでも方法はあっただろう。気になったとはいっても、その後にこの俳優にひどくほれこんでしまったのとくらべれば、まだ一時的な関心にすぎなかったのかもしれない。
 それから二年がすぎ、日本で『ランブルフィッシュ』を見た。すべての記憶がよみがえってきて、今度は少し本気になってミッキー・ロークについて調べてみたが、わたしの手持の資料には、彼の名は見当たらなかった。が、ただ一つだけ、ニューヨークでほとんど機械的に切っていた『ニューヨーク・タイムズ』の切り抜きのなかに、ヴィンセント・キャンビーの『ダイナー』評があり、そこでミッキー・ロークが激賞されているのを発見した。
 それは、一九八二年四月一日の日曜版からの切り抜きで、わたしはこの時ニューヨークにはいなかったから、たぶん、友人がニューヨークから送ってくれた切り抜きのなかに混じっていたのだろう。あるいはひょっとして八三年に行ったとき、数年間の不在を埋めようとして、友人から古新聞をもらって読みあさっていて偶然切り抜いたのかもしれない。この切り抜きには、『ダイナー』のケヴィン・ベーコン、ダニエル・スターン、スティーヴ・ガッテンバーグ、ポール・レイザー、ティモシー・ダリー、そしてミッキー・ロークがタキシードを着て(ロークだけネクタイをはだけ、髪をやや乱している)カメラにポーズをとっている写真が載っている。
『ダイナー』で、ミッキー・ロークが気になったのは、一九五〇年代のボルチモアを舞台にしていることになっているこの映画のなかで、ロークだけが全然五〇年代的ではなく感じられたからである。むろん、この映画が封切られた一九八三年には、アメリカでは一九五〇年代ブームが始まっており、わたしはこの映画も、そういうブームの一端に属するものとして見た。そしてそのときロークは、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のマーティ(マイケル・J・フォックス)のように、八〇年代から五〇年代に迷いこんだ人間のように見えたのである。
 いまにして思えば、この映画は、五〇年代を五人の青年が演じてみせる映画なのだ。テレビのクイズ狂で、ポップ・レコードに関しては、製作年度からパーソネルまで全部データを暗記しているエディという人物のように、バリー・レヴィンソンは、再構築された〈過去〉をひけらかすことを映画自身の手法にしたのである。それは、いつの時代にも若い世代が前世代の歴史に関わるときに見せる背のびした姿勢であり、その点がこの映画を単なる五〇年代ノスタルジア映画ではなく、もっと普遍的な青春映画にしている。
 しかし、それにしても、この映画でミッキー・ロークは、決して〈若者〉らしくはない。映画のなかでは、同世代を演じているはずだが、どこか大人びており、年齢不詳で国籍不明なのだ。この点は、『ランブルフィッシュ』のザ・モーターサイクル・ボーイ(バイク・ボーイ)についても言える。彼には悟りきったところがあり、マット・ディロンの演ずる、決して悟りきることのないキャラクターとの対比で、それがますます強く感じられる。
 ロークが放火魔を演じている『白いドレスの女』は見ていないのだが、彼はどんなキャラクターを演じても〈役になりきる〉ということはない。これは、初期のロバート・デ・ニーロにも言えることだった。ロークのポートレイトを表紙にしている『ザ・フェイス』(一九八五年五月号)でジェイムズ・トルーマンは、ロークが『ダイナー』で新しいタイプの主人公を作り出したと言い、それを「優しく純粋で、早熟で聡明な兄貴=父親的人物」と表現している。わたしには、ロークのなかに「父親」的なものは全く感じられず、むしろ、七〇年代にピークに達したゲイ・カルチャーの名ごりのようなものを感じる。それは決して弱々しさのようなものではなく、男性−−女性というセクシズム的対立をこえたセクシャリティをもつ新しいキャラクターなのだ。
 いわば、ミッキー・ロークは、七〇年代のサブ・カルチャーを基礎にして八〇年代に跳び出してきた役者であり、そこにはゲイ的なもの、フェミニズム的なもの、そしてミィイズム的なものが全く新しいものへ向かって統合されているように感じられる。とりわけ、彼の微笑は、七〇年代にデ・ニーロが見せた笑顔以上に多くのことを語る。それは、優しく、男にも女にもアピールするセクシャリティをもち、そしてどこかさめきった〈白いニヒリズム〉をたたえている。この微笑のまえで、人は誰しも彼を好きになるが、彼自身の方は、集団のなかでどこかなじめないものを感じているかのように振舞う。それは、シャイというのでもなく、またデイヴィッド・ボウイのようなエイリエン的よそよそしさでもない。
 ミッキー・ロークは、一九七〇年代のはじめに、七歳のときまでいたニューヨークに再びもどり、ひょんなことから俳優の道に入る。マイアミからニューヨークへ出たのは仕事を得るためで、役者になる気は全然なかったらしい。グリニッジ・ヴィレッジのエイス・ストリートにあるマールトン・ホテルに宿泊し、タイムズ・スクウェアのマッサージ・パーラーのビラ配りを路上でやっていた。彼が芝居に興味を持つようになるのは、マールトン・ホテルのマネイジャーと友達になり、彼から芝居の話をきいてからだった。それまで全然読んだことのない芝居の本を読みあさり、深夜放送のテレビにかじりついて古い映画を見はじめたのも、このマネイジャーと会ってからだった。
 わたしは、このマールトン・ホテルをよく知っているが、ロークは、ある意味で、ニューヨークが最もおもしろかった時期にニューヨークで青春時代をすごしたことになる。このホテルは、相当スラム的な安ホテルだが、ここには、売春婦、乞食、社会保障で生活している老人、そして芸術家や役者志望の若者が住んでおり、今日のニューヨークが失いつつある雑多性と創造的なクレイジーさにあふれていた。
 この街でロークは、やがてアクターズ・スタジオに通い、役者として身を立てる決心をする。そして六年後に、ようやくテレビ映画のなかの精神異常の殺人者の役を得るのである。それは、最初から数えると七十五回目のオーディションのあとだった。
 今年の五月にシドニーのシネマティック〈ショヴェル〉で、ロークが主演している『グリニッジ・ヴィレッジの法王』(一九八四年)を見た。この映画の原作は、ヴィンセント・パトリックが一九七九年に発表した小説で、行間からあのクレイジーでうさんくさい、わたしの愛するニューヨークが生々しくただよってくる。この本が出た時、わたしは、それをヴィレッジの(いまはなき)ブレンターノ書店で買った。七〇年代のニューヨークの雰囲気をヴィヴィッドに伝えるというある種の幻想を味わわせてくれる小説には、何冊かの愛読書があるが、パトリックのこの本は、リチャード・プライスのものとならんで、特に愛読してきた。
『グリニッジ・ヴィレッジの法王』では、ウエスト・ヴィレッジのカーマイン通りにあるコーヒー・ショップが主な舞台だ。そこでは、エリック・ロバーツがボーイとして働いており、そこを根城にしているマフィアの親分がもたらした情報から、グリニッジ・ストリートのロフト・ビルの事務所に隠された大金の存在を知り、兄貴分に当たるミッキー・ロークにこれを盗み出すことをもちかける。金庫の鍵を開けるのは、ブロンクスだかに住む時計屋のおやじであり、彼も昔はこの世界で鳴らしたらしい、したたかな雰囲気をただよわせている。
 この作品でも、ロークは、エリック・ロバーツの何とも頼りにならない、軽薄で、うそつきで、卑怯なキャラクターに対し、それとは対照的なキャラクターを演じる。しかし『ランブルフィッシュ』のコッポラとはちがい、監督のスチュアート・ローゼンバーグは、この映画を主人公の死で終わらせない。一度は、金を盗んだことがマフィアの親分にバレ、ロバーツは、指をつめさせられるのだが、ロークは、逆にマフィアをおどす手を知っていく。マンハッタンや、街に埋もれて暮らしているひとくせもふたくせもある人物の描写がすぐれているし、この作品では、『ザ・フェイス』の特集記事で、「『法王』を見ると、彼〈ミッキー・ローク〉が将来、〈マーロン・ブランド〉の魔術的な能力と等しい力をもつであろうことが期待される」と言っていることも、まんざら誇張ではない気がする。
 ただし、ミッキー・ロークのユニークさは、マーロン・ブランドのような男くささや尊大な権力を思わせるものが、ほとんど感じられない点にあり、それは、七〇年代のゲイ・ムーブメントと、フェミニズムと、パンク・カルチャーをくぐりぬけてきたロークと、そうではないブランドとのちがいなのである。
[ダイナー]監督・脚本=バリー・レヴィンソン/出演=ミッキー・ローク、スティーヴ・グッテンバーグ他/82年米[ランブルフィッシュ]監督=フランシス・F・コッポラ/脚本=フランシス・F・コッポラ、スーザン・E・ヒントン/出演=ミッキー・ローク、マット・ディロン他/83年米[白いドレスの女]監督・脚本=ローレンス・カスダン/出演=ミッキー・ローク、キャスリーン・ターナー他/81年米[グリニッジ・ヴィレッジの法王]                            ◎85/ 9/30『SWITCH』




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