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マックス・ヘッドルーム/マッドマックス

 電子テクノロジーに対するマクルーハンの見解は、つねに戦略的である。多くのマクルーハン解釈は、この点を見過ごしているのではないか?
 マクルーハンによると、電子テクノロジーの発達によって「われわれは中枢神経組織を全地球的規模に拡大し、あらゆる人間経験を瞬時に相互関連させることができるようになる」(『人間拡張の原理』竹内書店)。その結果われわれは、「いまだかつてなかったほど遊牧民的になり」、電子的な「地球村」を形成するという。
 このアーギュメントは、いまでは受験参考書にすら登場しかねないほど有名だが、マクルーハンは、こうした言い方で脳天気なメディアのオプティミズムを開陳しているわけではない。それは、彼が『人間拡張の原理』の一つの章のなかでラジオについて論じながら、ラジオ・メディアがヒトラーの第三帝国において果たした作用、すなわちラジオが「世界を村落規模に縮め、ゴシップ、噂、個人的恨みといった、飽くことを知らない村落的嗜好をつくり出し」てしまったことを指摘しているのを見ても明らかである。
 マクルーハンが、それにもかかわらず電子メディアの積極的な機能を強調するのは、彼の目に映るメディアの使われ方が、まだまだ旧メディアの応用の域を出ていないと感じたからであろう。ラジオに関して、「古代の風習や、太古の記憶を復活させるものとしてのラジオの影響は、ヒトラーのドイツにはかぎらない。アイルランド、スコットランド、ウェールズでは、ラジオの登場以来、それぞれの古い母国語の復活をみている」と言っているように、彼は電子テクノロジーの両面を押さえたうえで、戦略的にその積極面を強調するのである。
 リアリティのレベルでは、マクルーハンは、むしろこの両面がたがいに対立しあう状況を想定していたように思われる。彼は『地球村の戦争と平和』(番町書房)のなかで「すべての新しいテクノロジーは、ちょうど古いテクノロジーが消え去った後に幻覚痛が引き起こされるように、文化的憂鬱状態をもたらす」と言っている。「新しいテクノロジーは、個別的にも、総体的にも、その社会のイメージを乱し、その結果として不安が生まれ、自己独自性に対する新たな追及が始まる」というわけだ。従って、テクノロジーと戦争とは切り離すことができないのであり、またそれだからこそマクルーハンは戦争の「教育」の側面と「退屈な」側面とを明確にしようとするのである。
 こう考えてくると、〈マクルーハン的な〉世界というものは、実際には、キーボードとヴィデオ・スクリーン、電子装置とあらゆる人工物の充満した初期SFの世界であるよりも、高度の電子装置と廃墟とが共存・対立するような世界であることがわかる。
『マックス・ヘッドルーム』(日本公開題名『電脳ネットワーク23』)は、その意味で極めて〈マクルーハン的〉である。というのも、そこでは個々人がいつでもテレビ電話で話ができ、ハッカーたちはパソコンでアンドロイドの合成に熱中しているが、街路や建造物はほとんど廃墟の風情であり、路上ではホームレスのような人々が捨てられたテレビに見入っているからである。
『マックス・ヘッドルーム』が出現してからすでに大分たち、アメリカではG・B・トゥルドューがその発想を政治風刺のコミックに使うほど一般化したが、こうした傾向が映像世界で顕在化しはじめたのは、『ブレードランナー』においてではなく、むしろ『マッドマックス』においてである。
『マッドマックス』を初めて見たとき、わたしは車と男の文化を軸にしたその世界にうんざりした。が、その一方では、荒野/廃墟と奇妙にマッチしたパンク・ファッションが気になりもした。だんだんわかってきたのだが、この映画は、五〇年代流のカー・チェイスやマチズモ(男性至上主義)に執着する者よりもむしろコンピュータやゲイ・カルチャーの理解者たちのあいだで意外に人気があるということだった。
 おもしろいことに、わたしが『マッドマックス』をもう一度見てみたいと思ったのは、オーストラリアに行ったときたまたま街の本屋で買った『ザ・ベスト・オブ・メルボルン』という本を読んでからである。この本は、メルボルンのコーヒー店や映画館など、街のおもしろい場所をリストアップし、短いコメントを付したガイドブックなのだが、扉にヴォルテールとオールビーの言葉が記してあることでもわかるように、実にいいセンスでまとめられているのだ。一体この著者は何者だろう?
 裏扉の著者紹介を読んで驚いた。この本の著者テリー・ハイズは、何と『マッドマックス』の原作者だったのである。しかも彼は、長年ニューヨークに住み、「コアラや羊」よりも都市の文化に精通した人物なのであった。とすれば、『マッドマックス』は、一見、田舎くさい世界を描いているようで、実はもっと別の世界に抵触しているにちがいない。
 実際、『マッドマックス』は、『マックス・ヘッドルーム』やサイバー・パンクにつながる要素を持っているのであって、それがニューヨークでコンピュータ・マニアやゲイたちのあいだで人気を博したのは決して偶然ではなかったわけである。
 コンピュータと廃墟の組み合わせは、『マックス・ヘッドルーム』に至ってほぼ一つのパターンと化してしまったが、『マッドマックス』では、まだ、映像の「外」の暗黙の前提になっている。マクルーハンが示唆するところでは、こうした傾向は、アメリカではすでに一九六〇年代に始まっていたらしい。彼は、先の『地球村の戦争と平和』のなかで、アメリカの「テレビ時代」の若者のあいだでヘルマン・ヘッセの『シッダルタ』が爆発的なリバイバルになっていることを取り上げ、この物語で描かれているのは、「自己否定の苦行」であり、それは「戦争あるいは教育と同様に、暴力の一形態であり、自己の内的な領域と限界を発見するためのひとつの方法である」と言っている。
 その際、主人公シッダルタが目指す究極の苦行者「沙門」の「戦略」とは、マクルーハンによれば、「いかなるテクノロジーによっても侵害されず、したがって、感覚器官にいかなる入力もなく、だから、経験あるいは感覚的〈閉鎖〉を意味するようないかなる入力の処理も起こらないような環境を作り上げることにある」。
 そのような環境が制度として成立することは不可能であるが、だからこそマクルーハンは電子テクノロジーの発展が逆にそうした「宗教的」世界への願望と欲求を昂進させるのだと考えるわけである。
 そう言えば、『マックス・ヘッドルーム』で前面にでてくる連中はすべて電子機器で武装しており、事実上の《電子戦》をやっており、そこからはじき出されている連中はみな「苦行僧」のような風体で街をさまよっている。
 その中間には、人を襲って肉体銀行に死体を売りつける奴、ミニエンジンの付いたスケート・ボードで走り回る若者、車で海賊放送をやっている老パンクなどなどがおり、こちらは、肉体のにおいが鼻につく。
『マックス・ヘッドルーム』の世界は、それをリアリスティックに受け取った場合、SFの世界よりもニューヨークのような《ポストメディア的》な都市の世界に近い。日本で、このようなヴィデオがテレビに登場しないのは、日本が、幸か不幸か、まだ全面的にはそのような状況に直面していないからである。
 すべてが電子映像と廃墟の緊張関係のなかで展開するというのは、はなはだしんどい世界ではあるが、「沙門」を目指す以外にはもう何もないぎりぎりの世界であるという点で、それはスリルに満ちた世界ではある。そういう世界からいつも保護されている意味で、日本はやはりつまらないとわたしは思う。
[マックス・ヘッドルーム]監督=ロッキー・モートン、アナベル・ヤンケル/脚本=スティーヴ・ロバーツ/出演=マット・フリューワー、アマンダ・ペイズ他/85年英[マッドマックス]前出◎87/10/23『広告』




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