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あんなに愛しあったのに

 本誌(?嚮至ァイメージフォーラム』jの「ベストワン」に対してこれまでわたしがとってきたスタンスからいくと、今年はさしずめ天皇即位式か大嘗祭のテレビ映像ということになるが、あれらの映像は、映像としてほとんどいかなる不快感も嫌悪感も、ましてや感動も与えないおざなりの映像で、映像に関してはこじつけと韜晦を得意とするわたしといえども、いかんともしがたいしろものであった。むろん、天皇儀式がああいう形で出てくること自体は、おもしろい問題ではあるが、それにしても、全くドライヴがかからないものをとりあげてもしかたがない。
 そこで、今年は、一挙にミーハー路線に転向することにする。
 ということは、映像環境や映像のコンテキストのなかで特筆すべき映像を選ぶのではなく、あえて「作品」と「観客」という二元論に逃げ込んで、「ああ、あれはよかった、あれはひどい」という感傷をめぐらして一つの「作品」を選ぼうというわけである。
 で、「作品」は? エットーレ・スコラの『あんなに愛しあったのに』である。
 この「作品」は、いわゆる「映画好き」のあいだで評判がいい。まあ、映画好きの登場人物が出てきたり、デ・シーカやフェリーニへのオマージュがあったり、また、『無防備都市』ではスマートだったアルド・ファブリツィが見かけも役柄も正反対のキャラクターで登場し、ステファニア・サンドレッリが『イタリア式離婚狂想曲』や?囓U惑されて捨てられて?寰梠繧フ雰囲気(男にほれっぽい)で登場したり、色々と楽しませてくれるのだが、わたしが感動したのは、スコラがこの映画で一貫して六〇年代から七〇年代に受け継がれるイタリアの左翼ラディカリズムの路線を目立たぬ形で押さえ、支持していることだ。
 この点は、一見、こうした運動とは無関係に見える大著『薔薇の名前』や『フーコーの振子』を書いたウンベルト・エーコも変わりがない。以前わたしは、本誌でその映画化作品を評し、「薔薇の名前はアウトノミア」と書いたことがあるが、いまでは「アウトノミア」(自律・自主)という言葉で総称される七〇年代の運動との関連で読まなければこれらの作品の含蓄は半減するだろう。
 スコラが、アウトノミア運動に対してどのような関わりをもっていたかは知らなかったのだが、この運動がピークに達した一九七七年に発表された『特別な一日』を見ても、その後の『革命輪舞曲』や『ル・バル』を見ても、アウトノミアと反対の立場に立つ人とは思えない。
 しかし、『あんなに愛しあったのに』では、スコラが、すでに一九七四年という時点で、熱くアウトノミアを支持していることがわかってうれしかった。
 それが一番はっきり出ているのは、終わりの方のシーンである。駐車場に車をとめたジャンニ(ヴィットリオ・ガスマン)がばったり旧友のアントニオ(ニーノ・マンフレーディ)に再会する。二人が会わないあいだに、ジャンニは、富豪になっている。アントニオの方はあいかわらず活動家まがいのことをやっている。
 再会したとき、たまたま憔悴していたジャンニを見たアントニオは、彼がその駐車場で配車係をやっているものと勘違いする。そして、「ロッタ・コンチヌア(ポテーレ・オペライアだったかな?)の活動家をやっている尼さんを知ってるから、仕事をたのんでやろうか」というようなことを言う。もちろん、ジャンニは、その必要はない。
「ロッタ・コンチヌア」も「ポテーレ・オペライア」も、七〇年代の初頭ごろから出てきた「党に依拠しない」ネットワーク的な組織であり、七〇年代後半から活気づくアウトノミア運動を支えたのだった。
 さりげないせりふだが、ここには、スコラ(そして、もちろん脚本のアージェとフリオ・スカルベッリ)の状況認識が明確に現われている。
 この映画は、「イタリアの三十年の映画史を総括しようとする試み」だと評されるが、同時にこの映画は、戦中のレジスタンス→戦後の共産党→七〇年代のアウトノミアと進むイタリアの左翼ラディカリズムの歴史を「総括」してもいるのである。
 それにしても、食べるということ(を撮った映像)と政治とが決して分断されないイタリア(映画)は、すばらしい、うらやましい。
監督=エットーレ・スコラ/脚本=エットーレ・スコラ、アージェ・スカルペッリ/出演=ニーノ・マンフレーディ、#ヴィットリオ・ガスマン他/74年伊◎90/12/29『月刊イメージフォーラム』




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