電子国家と天皇制



1
忘却の政治学 
「天皇論」から「天皇制論」へ 
「戦後」のミクロ・ポリティクス 
天皇制文化装置のしたたかさ 
監獄と戦後的「自由」 
2
気になる言葉 /電子的ロマン主義/国家の理性と狂気
/監獄は芸術家を育てられるか?/誘拐ごっこの階級差
/「ポルノ」の国家主義をこえて/「運動コンプレックス」
の必要 
3
現状確認のための八つの断章/電子国家論の必要/「天
皇制はなぜ良いのか?」/鋳物師の連帯の象徴/「宇宙モ
デル」の機能と宿命/天皇制は民衆のものか?/日の丸
は菊の紋を消せるか?/「日の丸」のネットワーク作用/
天皇制のポストモダン化/遼巡する「劇場国家日本」/
「劇場国家」の否定と肯定/情報資本主義時代の「天皇」像 
4
ヘーゲル的近代国家と象徴天皇制 
あとがき 
初出一覧





1
忘却の政治学



 四〇年という歳月はすべてを忘却してしまえる時間単位なのだろうか? 戦後四〇
年たった今日、「天皇制って、どこが悪いんだ?」、さらには「天皇制は意外といいも
のではないか」といった意見が一見何のためらいもなく、出はじめている。
 これは、いわゆる「右傾化」がますます進んだためだろうか? それとも、かつて
は天皇制に一応の抵抗感をいだき、それを無視するという形で拒否してきたリベラリ
ストたちがいっせいに転向を開始したからであろうか? また、ひょっとして、天皇
制自身が変質し、それがかつてもっていた抑圧的な特質と機能をみずから弱体化し、
天皇制を「よい」ということも「悪い」ということも、ともに無意味であるかのよう
な「記号とシミュラクルの戯れ」の状況が全般化したためであろうか?
 それは、天皇制をどのようなものとしてとらえるかによって異なるであろう。天皇
制を民俗学的、あるいはコスモロジー的、あるいはまたニューサイエンス的にとらえ
るならば、天皇制を拒否する思想や行動は、単なる政治的選択の問題に綾小化されて
しまうかもしれない。
 民俗学的な観点からすれば、天皇制は日本の民衆のうえにのしかかってきた政治シ
ステムではなくて、民衆自身が加担しながら構築してきた歴史的システムである。ま
た、コスモロジー的な観点によれば、天皇制は日本人の思考と生活の構造を規定して
おり、日本人のあらゆる思考と生活は、そうした構造のヴァリエイションである。そ
して、最後に、ニューサイエンス的な観点によると、天皇制とは、「『政治的ゆらぎ』
を可能にした弱い政治的統合形態」であり、「無原則なまでに柔軟な」「自己組織的シ
ステム」である一清水博「ホロンとしての人問」、『ミクロコスモスヘの挑戦』、中山書店)。
 こうしたどのみち超越論的な観点は、最初から個々の具体的《実践〉(政治、経済、
文化、日常生活におよぶ諸活動)のレベルを捨象してしまっているので、そこでは天
リ否定したりする批判や運動のレベルが占める余地は全くない。
 しかし、天皇制を超越論的に論ずるのではなく、具体的現実のなかで問題にしよう
とする際には、その批判は不可避的である。というのも、具体的現実としての天皇制
は、何よりもまず第一に、日本国家を最も基礎的に規定している国家システムだから
である。日本国憲法第一条によれば、「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象
徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」。憲法が国家によって
実際に守られているかどうかは別として、国家の存立の基本的条件を規定している憲
法は、国家活動を陰に陽に規定している。
 近年、天皇制に対する一般的な意識が薄れ、それにともなって、天皇制批判者は最
初から天皇制を否定さるべきものとして前提しているがそれはおかしいといった論議
があたかも当然のようにくりかえされている。このような論議は、少なくとも三05
四〇年まえまでは民衆的記憶となっていた天皇の戦争責任問題によって、大手をふっ
て歩くことをはばまれていた。戦前の天皇が「陸海軍を統帥」一大日本帝国憲法第二条一
し、「戦を宣」一第二秦一することによって起こした戦争とその犠牲者に対する責任
を、「象徴」になりかわったとはいえ同じ肉体と人格をひき継いでいる人物がいささか
も表明していないということへのわりきれない感情がまだ支配的だったからである。

しかし、こうした民衆的記憶は、時間がたち、戦争の記憶が薄れるとともに失われて
いった。
 それは、ある意味では当然であろう。象徴天皇制とは戦前の天皇制の責任をうやむ
やにするためのシステムであり、「戦後処理」は、戦前の天皇の責任を人格レベルにふ
り向けずに回避するための処理であったからだ。戦後の四〇年間は、この処理が見事
に成功していくプロセスであった。
 象徴天皇制をこのようなものと考えるならば、それに対する反対理由として、天皇
の戦争責任を前面に押したてるこれまでのやり方はあまり有効ではないし、現に有効
ではなかったと言わざるをえない。戦前は「戦を宣」したとはいえ、「神聖にして侵す
べからず」一大日本帝国憲法第一、一条  原文は旧カナ一の存在  つまりは人格を欠いた存
在で、戦後は「象徴」どしてふたたび人格を欠いている天皇に対しては、人格を
もった個々人がもっている責任を先天的にまぬがれているという言いわけが可能だか
らである。
 しかし、戦前においても戦後においても、天皇制はつねに国家形態を規定する制度
****であり、そbフ髄歌る.というよりも,天皇笥批判は、つねに天皇制国家批判としてしか毛効僧をもつこ
とができないのである。
「天皇制のどこが悪いのか?」という議論は、より正確には、「天皇制国家のどこが悪
いのか?」と言いなおさなければならない。それに対して、このような問いを発する
記憶喪失者は、「それでは、一体なぜ国家が悪いの?」と問いかえすかもしれない。国
家に反対することは、あらゆる解放思想の出発点だと思うが、それは、決してその根
拠を示すことのできない宗教的なウアドクサ(原信懸)ではない。国家は、個々人の
唯一性つまりは自由を拘束し、統合するかぎりにおいて拒否される。たとえ、そうし
た唯一性と自由を完全に保障する「国家」がいつか出現するとしても、これまであり、
現にある国家で、個々人を統合しないものは一つとしてなかった。とりわけ戦前の天
皇制は言うにおよばず、戦後の天皇制の場合にも、個々人を統合し、拘束する国家機
能はいささかも失われてはいない。それゆえに天皇制は拒絶されなければならないの
である。
 天皇が日本国家の「象徴」であるということは、国家が「象徴」を必要とする非〈自
律〉的な存在であり、国民が直接国家を構成しているのではないということを意味し
ている。また、天皇が「日本国民統合の象徴」であるということは、国民が「統合」
されることを自明の前提にしているとともに、その「統合」が人格(生ま身)をもっ
た存在によってではなく、「象徴」というわけのわからぬ幽霊的な存在によって行な
われることを前提にしているということだ。これは、要するに、日本国家は、民主主
義的な近代国家ですらないということである。
 近代国家は、超越的な王権の廃絶によって一つまりは法制度や経済システムとい
う非人格的・物的なものに支配をゆだねることによって1形式上〈自律〉した個人
11市民を生み出した。このく自律vが非人格的・物的なシステムに従属するプロセス
をマルクスは疎外と物象化のプロセスとして記述することになるが、こうした〈自律
的〉市民による国家は、市民自身が、硬直したシステムを解体・変革することによっ
て、廃絶される可能性をもつ。これに対して、象徴天皇制国家は、こうした可能性を
最初から禁じている。
 戦後へ天皇制は、たしかに、王権をたくみに消去してはいる。しかし、その王権は
廃絶されたのではなく、いわば無数のミクロな要素一ただしその諸要素はクーロン
のように同一である−に分割され、バラまかれた。それらは、単に諸制度のなかに
だけでなく、個々人の無意識レベルのなかにも分泌・分配されているのだが、天皇は、
王権の消去を王権のミクロな反復的複製化へたえず移しかえる運動のメディアとして
存在する。
 日本国憲法によると、日本国家は「主権在民」を保障している。が、それにもかか
わらず「民」は、天皇によって「象徴」的に「統合」されることが同時に規定されて
いる。これは、大統領制とは異なり、決して国民が天皇の地位につくことができない
ということを前提とすれば背理である。現憲法は必ずしも、国民が天皇になることが
できないとは明記していない。ただし、第二条で、「皇位は世襲のものであって、国会
の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する」とされ、さらに現行の
皇室典範第一条で、「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する」と明記さ
れているので、「皇統」以外の民間人が天皇の地位につくことは合法的には不可能であ
る。むろん、現行の皇室典範が国会によって現在のものとは別のものとして「議決」
されるならば、その可能性もないわけではない。が、現行法のなかでは、天皇の地位
を「主権の存する日本国民の総意に基く」という一項は、全くの空文であり、「主権在
民」が保障されることはない。
 主権が民衆の側にあるのならば、「国民統合」は、民衆自身の手で行なわれるはずで
あり、上から1先験的にi与えられた「象徴」を使う必要はない。民衆がみずか
ら行なう「統合」は、むしろ連帯というべきだが、そのような連帯のなかで形成され
る国家は、民衆自身の選択によって解消され、廃絶される余地を残しているはずだ。
ところが、最初から天皇H象徴によって行なわれる「統合」は、民衆の意志や選択を
超えたものであり、日本国家はこのような超国家性によって、原理上決して廃絶され
ることのない恒久性を保障されているのである。
 制度や組織のなかにその実行考としての民衆の意志や選択を超えた先験性を宿し、
しかもそれを中心としてこの制度や組織が統合されているという超国家制は、われわ
れの日常生活のなかにさまざまな形をとって存在する。そして、その屈折が、日本の
あらゆる制度や組織の特徴として現われ、タテマエとホンネの二重構造を強化してい
る。
「戦後政治の総決算」を目論む中曽根首相の新国家主義キャンペーンによって、「国
民」と「国家」への意識が社会の表層で高まってきた。この国家主義は、一見国民の
自発的な自己「統合」によって国家的結東を再強化しようとするかのようなよそおい
をもっている。国家が厳然と存在するところで国民が自己意識をもつのは悪いことで
はないというわけだ。ここでは、国家がまるで民衆によって自律的・自発的に組織さ
れた地域コミュニティか何かのようにカモフラージュされているわけだが、国家は現
状ではまだ地域コミュニティの延長線上にあるものでは全くないという点においてだ
けでなく、日本国家はそういう可能性を全くもつことのない天皇制国家であるという
点において、新国家主義は、必然的に新天皇制国家主義にならざるをえない。これが
日本の国家主義の陥穿である。
 中曽根首相は、このことを十分に承知しながらその新国家主義計画を推し進めてい
る。靖国神杜の公式参拝を敢行した際、中曽根は、参拝の神道的要素(たとえば「玉
串拝礼」)を極力払拭し、靖国神社があたかも天皇制とは無関係な「無名戦士の墓」の
ようなものであるかのごとく印象づけようとした。そして、閣僚や国民が参拝するよ
りも、むしろ外国から訪れた元首や首相が戦没者を追悼するための場所として靖国が
必要であるかのようなイメージ操作を行なった。むろん、これは中曽根の戦略である。
公式参拝の背後には確実に天皇問題が連動しており、天皇制を表面化させずにそれを
機能させる手口が採用されている。これまで天皇は、一度も靖国神杜を公式参拝して
おらず、一九八五年一一月二一日の参拝を含む計六回の参拝は、すべて「天皇の純粋
に私人としてのお立場からなされたもの」とみなされてきた。これは、「象徴」として
の天皇には「私」は存在しない以上、奇妙な理由づけである。が、いずれにせよ閣僚
の公式参拝が違憲ではないということになれば、いずれは天皇の公式参拝も合憲だと
いうことになるだろう。
 天皇制と同様に、最近では日の丸の掲揚や君が代の斉唱も、「そんなにこだわる問題
ではない」という主張がマス・メディアのなかでさほど抵抗もなく浮上しつつある。
これは文部省が全国の公立小・中・高校に対して、「国旗と国家の適切な取り扱いの徹
底」を求める通知を出すという形で急速に強まった日の丸・君が代キャンペーンに対
応したものだが、通常ならば、国民の連帯のメディアにもなりうる国旗と国家が結局
のところ、天皇による上からの統合の旗印  この指トマレ  になってしまうとこ
ろが、天皇制によって規定されている国の必然である。
 国家から天皇制が抜き取られたとき国旗が単なる国民統合のシンボルにはならない
例としては一九五〇年代から一九六〇年代後半の約一〇年間に沖縄で展開された「日
の丸掲揚運動」の例がある。言うまでもなく沖縄は、一九五二年から一九七二年まで
アメリカ合衆国の施政権下に置かれ、天皇制をはじめとする日本国的なものの一切を
武装解除されていた。こうした状況のなかで、沖縄の民衆は、強制的に上から否定さ
れた「日本人」としての権利の回復を要求する表現として日の丸の掲揚運動を組織し
その運動が大きな高まりを見せた。
 この運動は、今日、日の丸の掲揚を推進しようとする連中によって曲解されている
が、それは、中曽根政権が進めている日の丸掲揚キャンペiンとは、本質的なちがい
をもっている。そして、このことは、文部省が発表した調査結果で、沖縄の小・中・
高等学校の日の丸掲揚率が全国ではケタはずれに低い(卒業式の掲揚率は、小学校で
六・九%、中学校で六・六%、高等学校は○%)ことの理由を説明するだろう。新崎
盛曄は、「沖縄はなぜ『日の丸』を掲げられないか」一『世界』、一九八五年一一月号一のな
かで次のように言っている。
 「沖縄の民衆が『日の丸』を『抵抗』や『解放』のシンボルとして選択していたの
 は、『日本人としての権利』が日本という国家のシンポルとともに否定されていた時
 代に・おいてであった。公共建物への『日の丸』掲揚が祝祭日にかぎって許可される
 ようになったのは、一九六二年のことである。その後もしばらくは、『日の丸』に嫌
 悪感を抱く米兵が、これを引きずり降ろしたり、引き裂くといった大事件が頻発し
 た。何らかの緊張感をともなうことなしに『日の丸』を掲揚することができなかっ
 た時代、『日の丸』は、多くの思想的問題をはらみながらも、かろうじて民衆の旗た
 りえたのである」
「本土」ではこのような機能を日の丸がもつことはできないし、「復帰」以後の  天
皇制をふたたび強制された  沖縄がもつことも不可能である。民衆レベルで見れば、
沖縄は天皇制の伝統から比較的自由であったし、そのような自由は、東北地方や北海
道にも見出すことができるであろう。また、天皇制的な制度にどんなにがんじがらみ
にされている人でも、そのミクロ・レベルでは、天皇制的伝統から自由であるという
ことは決してめずらしいことではない。しかし、制度と法律のレベルで、日の丸の掲
揚が天皇制の支持につながらないということは不可能であり、それはどのみち権力へ
の抵抗や権力からの解放とは反対のものになってしまう。いわば、日の丸は、その赤
丸の下に菊の紋章を隠しているのであり、必要なときには日の丸が菊の紋に変身する
のである。
 日本国籍を有する者に発行される日本国発行のパスポートの表面には菊の紋が金色
のインクで印刷されている。外国との関連で国家が前面に出るときには、日の丸では
なく菊の紋になるところに、日本という国の本質が現われている。海外の日本領事館
でも、日本を記号的に代表しているのは菊の紋であって、日の丸ではない。領事館の
建物では、ドアーやアーチのところに金色の菊の紋が必ず付けられており、日の丸は
目につかない。
 このことは君が代についても同様で、この曲の背後には皇室の伝統音楽である雅楽
が隠されているのであって、君が代が、さまざまな家と地域を背景とする日本人の自
発的な集合をシンポライズすることはない。一九五九年四月一〇日に皇太子の結婚式
が行なわれたとき、NHKは午前八時一五分から「特別番組皇太子殿下ご結婚皇太子
おめでとう」を放映したが、そのオープニングは越天楽の演奏だった。それは、雅楽
が天皇家の継承文化であり、天皇家を音楽記号的に代表しているからにすぎないとい
う解釈も成り立つが、この結婚式は単なる天皇家の式典ではなく、国家的イベントで
あったのだから、その−一しかもテレビ番組の  オiプニングは、君が代ではじま
ってもよかったはずだ。
 しかし、ホンネにおいて菊の紋や越天楽が現われ、ふだんは日の丸や君が代が姿を
現わすというこの構造は、日本の国家現象のすべてにあてはまるのである。いずれに
しても、日本では日の丸と君が代は、近代国家における国旗と国歌の機能を果たすこ
とはないのであり、日の丸が掲揚されればされるほど、また君が代が斉唱されればさ
れるほど、国家の天皇制的要素は強まるのである。
 天皇制は、日本国家の《無意識》すなわち国家のミクロ・レベルの主要な一部を構
成している。「天皇制など無関係」と思いながら国家活動に参加しても、それは立派に
天皇制を機能させているのである。このことは、国家の《無意識》が「国民」の側に
ある西欧的な近代国家とはちがって、天皇制国家では天皇が、民衆の《無意識》の独
占的な〈窓〉になっていることを意味する。
 とはいえ、《無意識》をどんなに独占しようとしても、《無意識》自身はつねに民衆
のものである。それは、たえず民衆自身によっても顕在化され、独自の自己運動を形
成してもいる。それは、決して、国家的な規模と持続性において顕在化されることは
ないので、民衆の歴史は、日本では、もっぱら無言のミクロ・レベルにしか見出すご
とができないのである。
 西欧的近代国家一民主主義国家)においては、国家による民衆の抑圧・管理は、民
衆の《無意識》を余すところなく顕在化させること  つまりはフロイト流の精神分
析の方法  で行なわれる。ここでは、自己表現が国家への奉仕と服従であり、国家
の忘却と無視は国家への抵抗と反逆を意味する。これに対して、天皇制的日本国家に
おいては、国家へ向けての自己表現は民衆が行なうのではなく、天皇が行なうという
形式をとる。民衆はいわば死者ないしは眠れる被験者の位置に置かれており、天皇が
霊媒、国家官僚がこの儀式の依頼者と進行係の役割を果たすのである。民衆は、その
《無意識〉を提供してはいるのだが、みずから口述する必要はない。それゆえ民衆は、
国家を忘却することによって国家を支持するのであり、国家は、民衆に国家を忘却さ
せ、国家への無関心を徹底させればさせるほど、その権力を増強したことになる。
 が、そうだとすると、中曽根康弘が、「いままでバラバラであったり、扱わなかった
りしたことを、あえてさわり、合意を形成して、国家としてのしまり、まとまりをつ
け、二一世紀に向かって、日本国家、日本民族として世界に堂々と歩み、国家の発展
に資するvそういう屈曲点にきた」二九八五年七月二七日「第五回自由民主党軽井沢セミナ
1」での講演一と称して「戦後政治の総決算」をめざす中曽根政権の新国家主義は、明
らかにこれまでの天皇制国家とは異なる方向をめざしていることになろう。しかし、
その際、中曽根首相は、すでに見たように、いささかも天皇制を解消するつもりはな
いのだから、中曽根首相の新国家主義によって変わるのは、民衆のく無意識》と天皇
との関係である。しかし、それは、成功するであろうか?
 戦後四〇年間の政治は、民衆の《無意識》とそのく霊媒V役の天皇との関係を単な
る形式として用いてきた。つまり《無意識》の操作を実質的に行なったのは進行係の
方だった。民衆の《無意識》は、そこから情報が引き出されるべき記憶野としてより
も、外部からどのようにでも操作可能な素材とみなされた。天皇も、ここでは、その
〈霊媒〉能力によってではなく、そのような役割を演じているという単なる役割機能
において重視された。それゆえ、国家と天皇との関係はまさになれあいであり、この
ヤラセのく霊媒V儀式のシナリオはつねにまえもって外部で設定されているのであっ
た。戦後め日本の「繁栄」は、こうしたヤラセの儀式のなかで達成された。民衆は国
家に煽動されて大いに働いたが、重工業を中心とする産業の時代には、民衆が働く夢
遊病者となることは好ましいことであった。
 しかし、産業の重心が次第に情報や文化に移行するにつれて、軌道の修正が必要に
なってきた。どのみち生産力の源泉は民衆の《無意識》にしか貯えられていないのだ
から、新たに生産力となることを期待される情報も、民衆の《無意識》から取り出す
しかない。しかしながら、天皇制国家システムーつまりは、民衆と国家とかく霊媒
者Vとしての天皇を介してしかコミュニケイトできないシステム  においては、天
皇1−霊媒者が変わらぬかぎり、民衆の《無意識》をいままでとは別様に活用すること
ができないのである。言いかえれば、これまで、ただ形のうえだけの〈口寄せ〉をや
ってきた  勤勉と実直さの身ぶりだけを媒介してきた  天皇H霊媒者では国家活
動を全く活性化することができないのであり、より実質的な媒介を行なう天皇が必要
とされるわけである。
 こうしてみると、中曽根政権の新国家主義と並行して皇太子キャンペーンが次第に
強まっていることの理由がわかるだろう。中曽根首相の「戦後政治の総決算」とは、
むしろ、明仁の時代への総手配である。最近、「皇太子の世紀」という特集を組んだ『知
識』二九八六年一月号一の巻頭対談のなかで、草柳大蔵は次のように言っている。
 「聖徳太子から今上天皇まで、日本文化の統合原理としてあったと思うんですね。
 統合原理を具体化された、象徴化されたものが天皇だと。今の皇太子殿下に果たし
 て日本文化の統合原理としての存在感があるかというと、皇太子殿下の認識のされ
 方が、むしろ原理の拡散として認識されてきた。これを今度もう一回インチグレー
 ションさせるのはたいへんなことです。別の意味の新しい原理を求めてお立ちにな
 らないと、存在感がなくなると思うんですね。だから、皇太子の体現される統合原
 理というのは何だろうと、ときどきフッと思うことがあります」
 これに対して梅原猛は、「私は、天皇の存在を感じさせないような天皇がいちばんい
いんじゃないかと思います。今の天皇はそういう意味で、別に存在を感じさせない。
けれど、世の中はよく治まっていて、これはやっぱり名君の条件だし、日本の天皇制
はまさにそうだと思います」と言い、皇太子もその意味で「存在を感じさせない天皇」
になってほしいと言っている。
 いまここでは、「日本文化の統合原理」として天皇制が一貫した機能をもっていた
かのように言っている草柳大蔵の短絡した天皇制観や、戦後の日本が天皇のもとで「よ
く治まって」いるとうそぶく梅原猛のあっけらかんとした現実観に対する批判は保留
するとして、象徴天皇制の支持者であるこの二人の発言から総合されることは、新天
星としての明仁は、その「霊媒」機能において、分散化的統合の方向をめざすだろう
ということである。そしてこのことは、新天皇の時代における民衆の《無意識》は、
以前にくらべるとはるかに饒舌で多彩な反応を要求されるということである。
 しかし、これは、決して《無意識》の解放ではなく、《無意識》レベルのより、、㌧クロ
な植民地化であり、その細部にわたって収奪の手が伸びることを意味する。《無意識》
は、《媒介》を通じて外化されるかぎり、決して解放されることはない。《媒介》がど
んなに精密なものになり、《無意識》のひだのすみずみの変化に対応できるような多様
さをもっとしても、《媒介》にできるのは予測的な対応1つまりはプログラミング
  でしかなく、そのため、この対応は、結局のところ相手の動きを誘いこむ操作に
なってしまうのだ。それゆえ、新天皇の時代における天皇制批判と天皇制廃絶の努力
は、こうした分散化的統合、ゆらぎをはらんだ組織化、多元的なパラメーターによる
秩序形成としての「ハイパーループ」化的支配のミクロ・ポリティクスを批判と攻撃
の主タドゲットにすることになる。
 新国家主義と新天皇主義のミクロ・ポリティクスは、中曽根とその同伴者の「政治」
発言のなかによりも、むしろ梅原猛の聖徳太子論や清水博のバイオホロニズムのなか
により明確な形で現われていることに注意しよう。
 天皇制が今日、このような変革を迫られているのは、必ずしもXデイが近づいてい
るためではない。むしろ、それは、資本主義の変化との関連で考える方がよい。天皇
制も資本主義も、ともに多元主義へ向かおうとしている。資本主義は、それが情報資
本主義の段階に進むにつれて、それ自身の延命のためにもともとは排除してきたとこ
ろの多元主義をみずから復活しなければならなくなった。日本国家は、あくまでも天
皇制国家であるが、同時に資本主義国家である。従って、資本主義の情報資本主義化
や多元主義化から無縁でいることはできない。このことは、軍事における日米関係に
おいてはっきり現われている。いま日本の軍事は、これまで米軍の単なる従属部分で
しかなかった段階から米国の世界戦略(多元主義化された資本主義システムの一現象)
の一環に位置づけられつつある。
 資本主義にとって多元主義は、その延命のためにいわばしぶしぶ導入したものであ
って、多元主義が極限まで進むならば資本主義は解消される危険をはらんでいる。多
元主義は唯一性や特異性の線のうえを進むのに対して、資本主義は統合や同一性の線
とどこかでつながっていなければならないからである。しかし、資本主義が情報テク
ノロジーと結びつくことによって多元主義をとりこんだようなぐあいに、天皇制は首
尾よくその分散化的統合への転身をとげられるだろうか?
 資本はその《身体》を不在化させることによってみずからを一応「多元化」できる
が、天皇は、つねに人問的身体を排除することができない点で、そのような「多元化」
すらはかることができない。その意味において、資本主義が、多元主義的資本主義の
方向をとりはじめている国々でやがてはその終焉をみずからに迫るときよりも早く、
「多元主義的」な新天皇制は致命的な困難にみまわれるであろう。資本主義の高度化
は、資本主義の危機よりも天皇制の廃絶のために貢献するだろう。
 いずれにしても、より重要なことは、単に天皇制の廃絶にとどまらず、国家そのも
のを廃絶することであり、民衆を国家の《無意識〉に閉じこめておくシステムを解除
することであるから、民衆の《無意識》を国家とは別の回路で顕在化する運動が展開
されなければならないだろう。それは、抽象的には、民衆11無意識∬天皇H媒介∬
国家とは別の回路を創設することであり、とりわけそのような情報回路を創設するこ                       
とである。そのような回路をつかのまであれ実現する場があり、そこでいささかな
りともわれわれの《無意識〉が媒介なしに解放される経験を蓄積する以外に、〈無意識》
の変革は不可能であろう。問題は、「多元化」し社会のあらゆる部分に触手を伸ばす国             
家のまえで、そこからはずれた場をいかに創設するかである。それには、国家システ
ムがどんなに「多元化」しても、そこではどうしても欠漏してしまうようなミクロな
単位の多元性のみを問題にする回路をつくることだ。





「天皇論」から「天皇制論」へ



 今日の象徴天皇制が問題であるとき、天皇と天皇制とは厳密に区別されなければな
らない。天皇制とは、まず第一に国家システムであるが、天皇は、少なくとも今日の
国家以前の存在であり、それ自体としては今日の国家システムのなかに吸収しつくさ
れるものではないからである。
 天皇制について語っているつもりの議論の多くは、天皇制が規定している天皇につ
いてではなく、天皇そのものについて語れるかのような錯覚に陥っている。むろん、
天皇がいまどのように存在しているか、歴史的にはどのような存在であったか、また
天皇が今後どのような存在であるべきかについて語ることはいくらでも可能である。
しかし、そのような議論は、必ずしも天皇制の議論につながっていかないのである。
 これは、今日の天皇制が、天皇を無規定1「匿名のX」一にしておくことによ
って成り立つシステムであるからであり、そこではあらかじめ、天皇は「君主」から
アンドロイドにいたる多様な「存在可能性」を与えられているために、天皇が何であ
るかを定義しようとする天皇論的試みが、単なる形而上学的遊戯として空転してしま
うからである。
 その点で、柄谷行人が天皇を「ゼロ記号」と定義しているのは一応正しいと言える
だろう。「ゼロ記号」とは、定義の限界地平であり、それを〈定義〉することは言語ゲ
ームの遂行としてのみ可能である。それは、すべての記号的差異のレフェレンシャル
な「ゼロ点」であり、それとの関係においてすべての「記号」が意味づけられる。
 しかし、天皇を「ゼロ記号」にしているのは、とりわけ今日の象徴天皇制であって、
天皇そのものではないし、天皇制一般でもない。わたしはかって、天皇をドイツ観念
論から現象学にいたる「超越論的主観」の概念的な変遷のなかでとらえ、象徴天皇制
のもとでの天皇をカントにおける「匿名のX」とみなしたことがある一本書六六ページ
以下一。ドイツ観念論の定式からすれば、超越論的主観は、それ以上越えることのでき
ない絶対者であり、「匿名のX」を規定することは不可能であった。しかし、フッサー
ルにいたって露わになったことは、超越論的主観の「無規定性」も、実は歴史的な制
約を負っており、のみならず「超越論性」ということそれ自身がすでに歴史の産物で
あるということであった。
 天皇が「ゼロ記号」ではなく、人格的存在であった時代もあるのであり、また、現
在の象徴天皇制のもとでも、天皇家にとっての天皇、宮内庁にとっての天皇は、必ず
しも「ゼロ記号」ではない。むしろ、天皇に「ゼロ記号」であることをかつてないほ
ど強度に要求するのが象徴天皇制であり、このシステムは、天皇自身に対しても自己
をアンドロイド化せざるをえないような〈非人問化〉を強制するのである。右翼天皇
主義者が象徴天皇制に反対し、君主天皇制の復活を唱える理由もここにある。君主天
皇制は、天皇の人格  つまり身体をともなった《超越論的主観》  を保持したま
ま、その主観のもとにすべてを統括できるようなシステムだと考えられるからである。
しかし、そのようなシステムが今日の電子情報化社会の資本主義的論理に適合するこ
とは、不可能である。というのもここでは、個々人の人格を限りなく無化することが
電子テクノロジーに求められているからである。
 その意味では、象徴天皇制は、これまでのいかなる天皇制よりも電子情報資本主義
のある段階における要求をみたすであろう。そしてこのことは、戦後の短期問に日本
社会が高度にマス・メディア化され、シミュラクル化された有力な理由の一つを説明
する。しかしながら問題は、この電子情報資本主義がより後期の段階に達したとき、
象徴天皇制はその推進のためには役立たないどころか、その阻害要因になるだろうと
いうことである。というのも、資本主義システムは、電子情報テクノロジーの高度化
と浸透のなかで、単一な中心をもったシステムから無数の中心をもったシステムヘと
マルチプル化しようとしているのに対して、天皇を唯一の「ゼロ記号」つまりは「空
虚な中心」とするシステムは、決してこのマルチプル化を果たすことができないから
である。
 象徴天皇制は、個々人の「ゼロ記号」化にモデルを提供し、そのあらゆるレベル
(まさに竹内好の言った「一木一草」)を記号学的なシステムに変換する点では非常に
効率がよい。しかし、モデル・システムが有効なのはある段階までであって、「啓蒙期」
(戦後がまさに象徴天皇制にとってのく啓蒙時代Vだった)以後の段階ではモデル・シ
ステムを発展的に解消しなければならない。ところがそれにもかかわらず、象徴天皇
制は、そうしたモデル・システムが不要になった段階でも、そのままの形で居すわら
ざるをえないのである。これがまさしく、今日の天皇制が直面しているディレンマで
あり、一見先進工業社会と同じようなマス・メディア化を推進しながら、サミットや
Xデイにおいては、抑圧的な独裁政権下とも何ら変わりのない管理体制に逆もどりし
てしまう今日の日本の矛盾である。
 天皇制は、明治のそれも、戦後のそれも、支配体制の要求に基づいて再編成され、
強化された。ところが、今日、支配体制にとって天皇制を解除しなければならないよ
うな事態が生じつつあるのである。重要なことは、南北朝時代以来の危機に直面して
いるのが支配体制であって個々人ではないということだ。
 こんなことを言うと、竹田青嗣のような書生気質の天皇論者から批判を受けるかも
しれない。というのも彼は、これまで述べたことを圧縮した形で言っているにすぎな
いわたしの一文一「一頁批評」、『文璽』、一九八五年二一月号、本書=ハミページ一を取り上
げ、「〈戦後〉左派の〈天皇制〉観」の典型を示す「言説」としてそれに批判を加えて
いるからである(「〈天皇制〉という禁忌」、『文塾』、一九八六年夏季号)。
 戦後、天皇制を批判的に論じてきた者たちを「〈戦後〉左派」というような形でくく
れるのか、またそういうくくり方自体が極めて天皇制的であるのではないかというこ
とはおくとして、わたしのテキストに対する彼のアプローチは、それを読み解くこと
を最初から拒絶している。「〈戦後〉左派」に対するイメージとメッセージとが最初に
あって、それをディスプレイするためにわたしの文章が呼び出されたにすぎない。さ
もなければ、「〈天皇制〉を、わたしたちの思考や行為の根を知らず識らずのうちに規
定しているようなもの、と受け取り、それを対象化することが重要な問題だという感
触に身を置く限り、先に見たような言説は、問題を掘り進める足場を全くもっていな
い」などといった言い分は出てはこないであろう。
 天皇制が、「わたしたちの思考や行為の根を知らず識らずのうちに規定しているよ
うなもの」とみなすのは、もはや俗論であり、常識である。わたしも、そのようなも
のを「対象化」しようとしてきたし、そのことが重要であることは言をまたない。し
かし、わたしは、そうしたミクロな政治の分節化とともに、ミクロ・レベルの天皇制
を再生産し、流通させているシステムの解体的批判が必要だと思うし、それが天皇制
論の第一問題だと考える。それは、批評のポリティクスに対する見解の問題である。
竹田青嗣はおそらく、批判のポリティクスをもっと射程の大きなものと考えているの
だろう。しかし残念ながら、批判とりわけ思想批判の射程はそれほど広くはない。だ
からこそ、批評は、手数を多く、たえず撃ち続けなければ有効性を発揮できないのだ
と、わたしは考えた。
 われわれの無意識に沈殿するミクロな天皇制ということで言うならば、言語と身ぶ
りの問題は最も重要である。鈴木孝夫は、「日英高級語彙の意味論的比較」という
講演のなかで、英語では「ハード」、「ファースト」、「タイト」、「クロース」、「ストロ
ング」、「アダアント」、「ファーム」、「タフ」などの言葉で表わされる意味が日本語で
は「かたい」という一語で表現できるように、「大和言葉というのは、実は意味構造が
非常に抽象的で分析性の高い言語だ」と言い、大和言葉のもつ強度の統合作用と差異
の消去性を示唆している一要旨、円朝日ジャーナル』、一九八六年六月;一日号一。鈴木は言っ
てはいないが、ここには、天皇制のもつ統合と消去の作用をミクロ・レベルでささえ
るものが見出せるだろう。しかし、大和言葉が必然的に天皇制を要請するわけではな
く、むしろ大和言葉の統合・消去作用をより一層強化するのをタテマエとするのが近
代天皇制というシステムなのだ。
 憲法か一ら天皇条項を取り除けばあらゆる抑圧的統合や消去の権力が解消されるわけ
ではないことはむろんである。「左翼天皇制」という言葉は誰でも知っている。法体系
や狭義の制度を変えるだけでは何も変わらないことは歴史の示す通りである。その逆
に、ミクロ・レベルでの変革が進んでいる社会では、たとえば最近のフィリピンのよ
うに、その法体系や国家形式がたとえCIAのバック・アップで変わるだけでも、一
つの革命を意味するような場合もある。いずれにしてもミクロ・レベルの変革がなけ
れば、何も根底から変わったことにはならないだろう。そんなことはあたりまえのこ
とだ。
 しかし、ミクロ・レベルを一つの方向に意味づけようとしている制度に対して、そ
の解体をミクロな政治にだけまかせておくことができるのだろうか? というよりも、
竹田青嗣やわたしが遂行しているような「論文」風の言語形式での批評は、一体どこ
までそのようなミクロ・レベルに到達できるのだろうか? わたしがこうした形式を
用いるのは、天皇制に対する批判を制度批判のレベルに戦略的に限定しようとするた
めである。
 かつて、山手線や、市電の乗客が宮城に近づくたびごとに脱帽させられる制度があ
った。それは強制であり、脱帽したからといってその当人が天皇主義者になってしま
うわけではない。脱帽しながら天皇や天皇制から全く自由な人問もいたにちがいない。
戦争以前にはそうした制度はなかったのだから、この身ぶりが突然強制されるように
なった当座は、大抵の人がこの身ぶりと天皇制との関係を意識しなかったであろう。
しかし、やがてこの身ぶりは、天皇と天皇制への恭順を再生産し、確認する身ぶりと
して人々の無意識のなかに沈殿してゆき、そうした制度が解体された戦後になっても、
宮城のそばを通ると思わず手を帽子に持っていってしまうような持続性を獲得した。
 わたしが天皇制を竹田青嗣ほど「高尚」なレベルで批判しようとは思わないのは、
わたしが日々、明らかにこの国の国家形態(それは天皇制的国家形態ではないと言う
のか?一から帰結すると思われる制度のために不快さを味わわされたり、恐怖を感じ
たりしており、そうした不快さや恐怖から脱したいと思っているからにすぎない。
 日本を離れて成田や羽田の空港の入国審査の窓口を通過するたびに、わたしは自分
が在日日本人であるということを強制的に味わわされ、反日感情つまり天皇制的国家
への嫌悪をおぼえる。というのは、日本の国際空港の入国審査の窓口は、「日本人」
(』岩彗①ω①)と「外国人」一≧一8一とに分かれており、それまで世界の他の空港では
一度も問われなかったエスニシティの差異を露骨に問われ、そのうえ、他の民族をは
っきりと民族差別しなければならないはめに陥れられるからである。なぜこの国は、
その最初の窓口で民族差別をしなければならないのか? 国家主義的な国家において
すら問題なのは国籍を所有しているかいないかであるのに、この国は、「日本人」であ
るかどうかをあわせて問題にするのである。
 しかも、この「日本人」は、天皇制に従属させられている日本人であって、日本人
一般ではない。厳密には、「日本人」はエスニシティを指すのではなく、菊のマークの
付いたパスポiトをもっているか否か、つまり日本国籍を所有しているか否かを意味
する。が、それならば、これは日本国人と言われてしかるべきだ。その場合、日本の
国際空港の入国審査窓口が「日本人」と「外国人」という区別を「日本国人」と「外
国人」というように改めるとしてもまだ問題は残る。入国する者を国籍の有無で区別
するということは、ひどく国家主義的なことだからである。
 その点ではアメリカ合衆国のイミグレイションの方が納得がいく。その窓口は、
弓ω・寄ω己①巨と乞。箏−9ω・零ω己gけに分かれており、国籍の有無ではなくて、永住
権の有無で入国者を区別する。むろん、市民としての永住権を許可するのは合衆国で
あり、それを得るためには一応、ダグラスニフミスが「アメリカ革命ではなくて、そ
の後にやってきたマイルドな反革命を制度化している」一『日本の平和と民主主義を語
る』、桐原書店一と言う合衆国憲法を受け入れなければならない。しかし、市民とは、国
家への不服従の可能性をもつ国民以前的な単位であって、 「日本国人」といった統合
から原理的にまぬがれている。日本国家は、すでにその入口において、国民  天皇
制的国民  以前の市民という単位を認めないのであり、国民以外はいずれも反日
  反天皇制  の可能性をもつ在日外国人なのである。
 入国審査窓口の「日本人」と「外国人」という標示は、単に入国手続きの事務的な
レベルにおいてだけではなく、この国が国民の統合ということにおいていかにめちゃ
くちゃなことをやっているかを見事に露呈させている。ここでは、たとえあなたが
「帰化」して日本のパスポートをもった朝鮮人であるとしても、あなたは「日本人」で
なければならないのであり、そしてあなたがアメリカ国籍を取った日本人であるとし
ても、あなたは「外国人」でなければならないのだ。まるでこれはイヨネスコの『授
業』に出てくる教授のせりふみたいではないか。こんな不条理が国家の名においてま
かり通っている状況下で「いまエスニック料理が新鮮」もないものだし、天皇制のミ
クロ・レベルの「対象化」に専念するのもあまりに優雅すぎることだと思うのだ。ま
して四方田犬彦のように「天皇制の内側に住みついて、寄生虫のように天皇制から養
分を授かりながら、内部の腐敗を進めていく以外にはない」一『文蓼』、一九八六年夏季号一
などと言うのは覇晦である。
 一体いつ天皇制はその内部の有害な「寄生虫」に養分など与えてくれたのだろう
か? それを食い破るような「寄生虫」がいた場合にはたえず駆除してきたのが天皇
制の歴史ではないのか? そのなかに生き延びるものがいたとしても、それは天皇制
から「養分」を得たためではなくて、天皇制の下に統合されている社会一や天皇家)
から密かに「養分」を与えられたからにすぎない。「戦略」を云々するのならば、天皇
制と社会、天皇制的文化と天皇家的文化ぐらいの区別はしてほしい。
 四方田は言う、「天皇の姿は見えない。見えなくなってしまった」と。たしかにそれ
が、すでに述べたように、象徴天皇制における理想的な天皇機能である。しかし、天
皇は見えなくなったかもしれないが、天皇制はまだよく見える。従って天皇制に対す
る批判的一言説は、天皇の不可視性のなかに天皇制を溶かし込むわけにはいかない。
 戦後、知識人のあいだでそれほど一貫した天皇制批判が出されたわけではないにも
かかわらず、天皇制に対する批判をも2言説を「〈天皇制Vという禁忌」として相対化
してしまうのは性急すぎる。それは、「〈戦後V左派」を総括してしまうのが性急すぎ
る以上に性急なことだろう。というのもここでは、いま最もリアリティをもつ天皇制
批判の担い手たち一つまりは海外に進出する日本の多国籍企業の日本人幹部や「海
外帰国子女」たちの潜在的な天皇制批判はすっぼり抜け落ちているからである。
 憲法で明記されているように天皇制がこの国家の形式を規定しているにもかかわら
ず、天皇制を不可視なものとする傾向があるのは、国家を見えにくくしているのがこ
の国家の特徴でもあるからだ。これは、この国家がタテマエでは民主主義国家を標構
しながら、国家も国民もまたその原則に慣れていないということを意味する。しかし
このことは、日本が人民の権利を認める点で他国より遅れているなどということを言
おうとしているわけではない。むしろ、民主主義国家においては国民の行なったこと
に関する最終責任は国家がとらなければならないこと、国民は原理的に自己に対して
無責任であることが保障されているということ  このことがまだ浸透していないと
いうことだ。映画『ゴッドファーザー』のなかに、ドン・コルレオーネが、敵対する
マフィアのボスに対して、「もしわしの息子が雷に打たれて死んだとしても、それはお
前らの責任だと考えるからな」と言いわたすシーンがある。が、これは、実はマフィ
ア同士ではなく、われわれ一人ひとりが国家に対して言いわたすべきせりふなのであ
る。
 それは、ある意味で、無責任を徹底化させることである。こんなことを言うと、そ
れは「無責任の体系」にすっぼりはまり込むことになるのではないかという懸念を示
す人がいるかもしれない。たしかに天皇は第二次大戦の「責任しをとらなかった。が、
天皇の戦争責任の問題は、実は、天皇が無責任に徹することができなかったというこ
とだ。裕仁は、「象徴」になってからも、一度として、「あの戦争の責任はもはやわた
しにはない」とは言わなかった。もし彼がそう言ったとしたら、彼は国家の側にでは
なく、国民の側に急速に近づくことができたろう。そして国民も、いっせいに彼にな
らって、戦争のツケを国家のために清算することをやめて、それをすべて国家に背負
わせただろう。それができなかったのは、天皇・国家・国民の三者が癒着しているか
らである。無責任があるならば、責任の領界があるはずだが、その両者が不分明に融
合しているために、誰も徹底して無責任ではいられないのである。そして無責任では
いられないために国家は  とりわけ天皇制国家は  なかなか露出してこないわけ
だ。
 フーゴi以来、あるいはハイデッガー以来、権力を法体系や国家制度に求める以前
に、無意識や身ぶりのなかに沈殿したミクロなもののなかに求めるやり方が一般化し
た。天皇制との関係ではこの方法は、「権力を外在的なものとしてとらえると必ず負け
る。権力がまずこちら側に内在しているものとして天皇の権力というものを考えなく
ては、もはや天皇をとらえることはできないのではないか」という山口昌男の言葉
一「歴史の想像力」、門思想』、一九八五年五月号一に端的に現われている。しかし、こうした
実存論的ミクロロジーは、必ずしも制度批判を排除するものではない。山口昌男にし
ても、彼はここで、「権力がまずこちら側に内在しているものとして」と言っている
ように、彼は、天皇制的権力を「内在的」なものとしてとらえて事足れりとしている
わけではない。「まず」と言う以上、その次にはこの「内在しているものとして」とら
えられたものを外に送りわたすことが前提されていると考えることができる。従って
この内在化は、内在しているもののうち権力に属するものをことごとく権力自身に送
り返すための第一段階なのである。もっとも、山口昌男の不幸はこうした「まず」が
読まれずに来たことにあると言うことができる。
 いずれにしても、天皇制という概念は、この数十年間の思考の歴史のなかで、フイ
シカルなレベルから無意識や沈黙のレベルをも規定するものとして拡大された。これ
は、天皇制の遍在ということに対する認識が深まったことを意味すると同時に、天皇
制が狭義の制度のなかでは見えないものとして姿をくらますことに成功したことを意
味する。従ってこれは、一見いかにも目くばりのきいた学問的、理論的な成果と引き
かえに、天皇制の全面的な支配を容認することにも通じている。こうした事態におい
ては、天皇制を論ずる視点をたえず狭義の制度的なものからはずさないようにするこ
とがどうしても必要である。





「戦後」のミクロ・ポリティクス 丸山真男再読



「大日本帝国の『実在』よりも戦後民主主義の『虚妄』の方に賭ける」と丸山真男が
書いたのは一九六四年のことだった。それから二〇年たった今日、この言葉はもはや
ジョークの効果すらもちえないだろう。
 しかし、丸山真男が『増補版 現代政治の思想と行動』一未来社一の後記のなかでこ
のように言ったとき、丸山はいささかも戦後民主主義を妄信してなどいなかった。む
しろ、「戦後民主主義を『占領民主主義」の名において一括して『虚妄』とする言説」
が台頭している危険な状況をおさえたうえで、その新たな「戦後神話」をいささかで
もうちくだこうとして丸山はあえてこのように〈豪語〉したのである。
 丸山の危慎は、その後確実に現実化した。戦後民主主義の「虚妄」に賭けるという
姿勢にひそむ批判精神や否定的弁証法は、あっけらかんとした絶対肯定の精神に攻囲
され、思想活動の視界から姿を消していった。丸山は、本書の後記のなかではっきり
と、「こうした過去の忘却の上に生い立つ、戦後思想史の神話化を防ぐ一つの方法は、
戦後にさまざまの領域で発言した知識人ができるだけ多く、自らの過去の言説を、資
料として社会の眼にさらすことだろう」と述べたが、その後の二〇年間はむしろ「戦
後」をいっそう忘却する過程であった。
 天皇制という巨大な忘却装置  民衆の記憶を独占的に保管してしまうメモリー.
バンク  の存在のうえに、忘却によってのみ進展しうる高度経済成長の忘却過程が
加わった。丸山の危倶と警告を正しく継承していた藤田省三は、のちに、「戦後議論の
前提−経験について  」一『精神史的考察』、平凡社一という文章のなかで、「『もう一
つの戦前』が次々と姿を現わし、一つ又一つと発見されて行く過程が戦後史なのであ
った」という鋭い洞察を与えたのち、この「『もう一つの戦前』が終わる時すなわち
『戦後』一その経験と思考)が終わる」のだと言っている。藤田によれば、「戦後経験の
第一は国(機構)の没落が不思議にも明るさを含んでいるという事の発見」であり、
その「第二の核心はすべてのものが耐数性のふくらみを持っていることの自覚であっ
た」が、その「第三の核心は『もう一つの戦前』、『隠された戦前』の発見であり、同
時に『もう一つの世界史的文脈』の発見でもあった」。
 時間と時代がつねにそうした「もう一つの要素」をはらみ、 「複合的な時間意識と
『未来を含む歴史意識』がそこに躍動して」いること  高度成長はまさにこうした要
素を単なる「過去としての歴史への関心」にすりかえたわけだが、このような関心が
全般化している現状では、藤田の批判すらもが、一つのノスタルジアとみなされかね
ない。が、藤田にとっての問題は、エルンスト・ブロッホの「具体的ユートピア」で
あり、トニ:平グリの「いまここで実現可能な共産主義」であった。
 藤田省三は、「国家から投獄され社会から忌避されて、囚人として、又石もて追われ
た者として徹底的に『没落』しながら、しかも自らは在るべき社会を認識していると
いう確信を持つことによって、精神的指導者の誇りを内面に満たしていた社会主義者
とくに共産主義者が、監獄の中から発した『人民への訴え』は『もう一つの戦前』の
一つの極点を提示していた」と言う。「マルクス主義者だけが戦前の理論的蓄積の上
に立ってへ如何に『農地改革』が当然のことであり、かつ又必要な緊急事であるかを
説明することが出来た」のであり、また「占領軍の政策の正しい側面を認識したhで
占領軍の政策を根拠を挙げて批判した者は、日本において彼等だけであった」。
 しかし、こう言うことによって藤田は決して古典左翼のノスタルシックな礼讃を行
なっているのではない。藤田は、「以後、戦後マルクス主義はそのような認識と実践の
力を発揮したことはない。むしろ逆に、『戦前』の蓄積を賢い果たし続けるに従って、
個々の例外を除けば全体としては次第に単なる政治的イデオロギーとなり、組織団体
の観念的統制手段と化するような場合さえ時に現われる種となった」と言っているが、
依然としてそのような〈闇夜〉が続いている現時点においてすら、新たな「もう一つ
の戦前」の蓄積が続けられていないとは言うことができない。 「戦前のマルクス主義
者」は、「戦後」になってはじめてその批判的思考を現実化できたのであり、それまで
まさに「個々の例外」として孤立化され、文字通り幽閉されていたものが解放され、
つかのま力を得るのである。
 それゆえ、「戦後」精神とはミクロなもの(決してメイジャーになりえぬ極マイナー
なもの)についての歴史的・社会的批判意識であり、「戦後民主主義」を「虚妄」だと
してしりぞける断定は、そうした批判意識はたえざる批判的実践のなかでしか獲得さ
れないという暫定性を完全に忘却しているのである。歴史は、ミクロなるものをうや
むやにすることによって書き替えられる。社会は、ミクロなものをやがてはメイジャ
ーなものに統合可能なマイナーなものへとすりかえることによってまがいの「民主主
義」と「多様化」を実現する。
 丸山真男が前述の「後記」のなかで提起したことも、つまりは、こうしたミクロな
ものの批判的な採掘作業であり、ミクロなもの同士が形成しているアンサンブルのダ
イナミズムを正しくとらえることだった。実際、『現代政治の思想と行動』に収めら
れている二〇篇の論文は、丸山自身によるそうした作業の実践にほかならない。不幸
にして、丸山の思考は、安田講堂攻防戦二九六九年一月一で破損された学術資料を惜
しんだ丸山の姿勢が批判されて以来、次第に「左翼」思想のあいだから排除されるよ
うになり、今日では現代思想のなかからさえもほとんど締め出されている。
 しかし、天皇制が忘却のシステムであり、われわれがそのなかに依然として閉じこ
められているとすれば、すべての忘却に対して警戒するのでなければならないだろう
し、まして天皇制批判にも少なからず寄与したはずの丸山真男の思考をもはや用済み
のものとして排除することはできないだろう。そこで、以下において丸山のミクロロ
ジi的思考の一端を、主として『現代政治の思想と行動』に即しながら、若干検討し
てみようと思う。
 一九五二年という日付のある「『現実』主義の陥穿」を読むと、近年になって「戦後
民主主義」否定論者たちがあたかもこと新たな発見であるかのように言っていること
に対する正当すぎるとさえ言える批判がすでにこの時点でなされているのを発見する
ことができるし、この時代からいまにいたるまで「戦後民主主義」否定論の論調は少
しも変わっていないことがわかるだろう。丸山はここで、「昨日の言動を今日翻して平
然たる風景が我が国ほど甚だしく見受けられるところがあるでしょうか」と言い、終
戦からわずか五年にして早くも警察予備隊が設置され、のちの警察法、防衛庁設置法、
白衛隊の成立一一九五四年一へ向けて動き出した反憲法的な動きに対して、「例えば新憲
法の精神を百パーセント講え宣伝した学者が今頃になってあれは占領下に押しづけら
れたもので、そんなに有難がる必要はない、などと急にいい出したり」するのは全く
おかしなことだと言っている。
 新憲法が制定された時点では米ソの冷戦がはじまっていなかったからあのような楽
天的な戦争放棄条項を盛り込むことができたのだというのは全くの鰯晦なのであって、
チャーチルが一九四六年三月に「バルチック海のステッティンからアドリア海のトリ
エストに到るまで、大陸を縦断する鉄のカーテンが降りている」という有名なフルト
ン演説を行なっているように、「殆んど第二次大戦の終了と同時に冷戦の火蓋は切ら
れていた」ではないか、と丸山は異議をとなえている。従って問題は、「こうした情勢
にも拘らず敢て非武装国家として新しいスタートを切ったところにこそ新憲法の劃期
的意味があった」ということなのであって、新憲法の戦争放棄条項は、「現実」に無知
な楽天主義の産物などではないのである。
 こうしたミクロロジカルな批判的思考は、今日でも完全に忘却されてしまったわけ
ではない。ダグラスニフミスは、丸山の思考を1当面丸山を意識しているわけでは
ないが1「国家権力から国民の権力へ」一『思想の科学』、一九八三隼一月号一のなかで、
よりミクロロジカルにたどりなおしている。ラミスは、日本国憲法の「原典」である
英文を検討しながら次のように言っている。
 「この憲法はしばしば、力で公布されたものだと批判される。これを否定するのは
 おろかしいと私には思える。憲法は権力の奪取であり、カで公布されたのはいうま
 でもない。だが、そのことをどう評価するかは、政府の立場からみるか国民の立場
 からみるかによる。憲法が行なっているのは、政府から権力を奪い、それを国民に
 引き渡すことである。そして権力の奪取を日本国民は支持し、それに参与した。こ
 の意味で、この憲法は米国憲法よりもはるかに民主的な法律文書である」
 ラミスによれば、革命ではなく反革A叩II「王からではなく各州からの権力の奪取」
   を制度化している米国憲法の「反革命」的性格とは対照的に、「日本国憲法は、中
央政府とくに天皇からの奪権を体現」しているのであり、この権力奪取において占領
軍当局が「少なくとも憲法が書かれ発布された時期の重大な一年目では、日本の国民
を同盟者とみなしたこと」こそが最も重要なのだ。アメリカ政府が、日本帝国の権力
を打倒するために太平洋戦争を闘い、その目標を新憲法のなかに制度化したことは言
うまでもないことだが、新憲法は、結果的に天皇が占有していた権力を「国民」の側
に奪還す。ることになっている点を評価すべきだとラミスは主張する。
 この主張は、日本国憲法の英文「原典」を読むかぎり極めて正当であり、新憲法が
もっている逆説的なラディカルさをえぐり出している。ラミスによれば、憲法第九条
は、そこに盛り込まれている「偉大な実験」を一度として実際に試みてはいないのだ
が、それは「日本国民が世界の平和運動の指導権を行使しうる原理」なのであり、「第
九条から始まる運動は国際化されねばならない」。
 言うまでもなく、こうした第九条のラディカル化には、憲法の最終テキストが、ラ
ミスのミクロロジカルな分析の対象となった英文ではなく、それをたくみに改訳した
日本文であるという問題が残されており、ラミスもそのことを知らないわけではない
一「思想の科学』の同じ号には、室勝による「私訳日本国憲法の試み」も掲載されてい
る一。実際、ラミスの提唱する「第九条から始まる運動」が日本で空転せざるをえない
のも、日本語としての日本国憲法がたくみにその潜在的なラディカルさをおおいかく
すことに成功しているからである。しかし、新憲法が米軍から押しつけられたもので
あるからとして「改正」を主張する改憲論者の観点はそんなミクロなレベルにはない。
もし、そうした改憲論が理性の光に照らした正当さをいささかでももつことができる
ためには、そのまえに、「米軍が押しつけた」英文の「原典」と、最終的に制定された
日本文憲法とのあいだにある重大な誤差  たとえば、「民衆の連帯の象徴」(艘①
堵冒σ〇一〇二訂昌岸<O{穿①潟名一①)と訳されるべきところが「日本国民統合の象徴」
と訳されている点1が問題にされなければならないであろうし、現憲法が米政府の
「押しつけ」からもズレていることが明確にされなければならないだろう。その意味
では、改憲論者が、日本文として与えられている新憲法には、米国政府の陰険な操作
によって現行のような矛盾の多い法制度をつかまされてしまった(逆に言えば、米政
府は、その英文「原典」が現行のもののように改訳・改訳されることを十分に承知し
ていて最終的な日本文を容認した)という根拠にもとづいて改憲を主張するのである
ならば話はわかる。むろん、そうではなく、改憲とは、目先の都合に法制度を適合さ
せようとする試みにすぎない。
「虚妄」に関して言えば、新憲法は、それが「虚妄」であることによってラディカル
な理念をいささかなりとも保持することができた。それは、「虚妄」であることを失う
ことによってその理念性をも失う。丸山真男も、このことを百も承知のうえで「大日
本帝国の『実在』よりも戦後民主主義の『虚妄』の方に賭ける」と言ったのだった。
彼は、「ある自由主義者への手紙」のなかで、「僕は少なくとも政治的判断の世界にお
いては高度のプラグマティストでありたい」と書いている。それは、いかなるイデオ
ロギーや勢力に対しても、「その具体的な政治的状況における具体的な役割によって
目疋非の判断を下す」ということであり、「内在的先天的に絶対真理を容認」するような
ことをやめることだ。
 丸山は「戦後民主主義」が一つの既存の反権力的伝統として信頼にたるものだとは
考えていない。丸山は、「ある自由主義者への手紙」のなかで、日本社会の非民主主義
的な伝統を厳しくこきおろしているが、ここできっぱりと「日本社会のどこに『防衛』
するに足るほど生長した民主主義が存在するのか」と述べている。「当面の問題は、既
存の民主主義の防衛ではなく、漸く根の付いたばかりの民主主義をこれから発展伸長
させてゆくことなのだ」、と。丸山は決して「ミクロ・ポリティクス」という言葉を使
ってはいないが、彼が、「政治意識という意味は何らまとまった体系的なものを言うの
ではなく、むしろ無意識の世界で我々を規制している政治的なものの考え方を意味す
る」(「日本人の政治意識」、『戦中と戦後の間 一九三六−一九五七』、みすず書房一と言うと
き、丸山の「政治学」を、ミクロ・ポリティクスについてのミクロロジーとしてとら
えなおすことは十分可能である。
「ある自由主義者への手紙」では、丸山は、このことをより明確に述べている。丸山
にとって、当然のことながら、「現実の社会関係はつねに具体的な人問と人問との関
係」であって、現実を「抽象的なイデオロジーや図式から天降り的に考察して行くこ
と」はできない。従って、狭義の「政治的」活動に加わっていない「非政治的」大衆
というものは、「現実の政治的状況の形成にネグリジブルな要素ではなくして、むしろ
直接には非政治的な領域で営まれる彼らの無数の日常的な行動が複雑な屈折を経て表
面の政治的舞台に反映し、逆にそうした政治的舞台で示された一つ一つの決定がこれ
また複雑な屈折を経ながら、日常生活領域へと下降して行く。この二つの方向の無数
の交錯から現実の政治的ダイナミックスが生まれてくるのだ」。
 マクロ・ポリティクスよりもミクロ・ポリティクスを重視するがゆえに丸山は、「政
治の方向を目につきやすいハデな『政治』現象−国会の討論とか街頭のアジ演説や
デモとか学生運動とか署名運動とか1だけから判断したり、狭いインテリのサーク
ルだけに現われた傾向をさも支配的な動向のように思い込んだりすると、現実からと
んでもないしっぺ返しを食うことになる」と言っている。
 では、。丸山真男は、こうしたミクロ・レベルでの変革がどのように行なわれうると
考えているのか? 丸山によれば、「日本の歴史は階級闘争の歴史よりもむしろはる
かに多く、被抑圧者が、蔭でブツブツいいながらも結局諦めて泣寝入りして来た歴史
である」。しかし、だからといって丸山は、ここで「被抑圧者」のいくじなさを嘆いた
り、批判しているのではない。彼は、別のところで、「自らの地位を非政治的に粉飾す
ることによって最大の政治的機能を果すところに日本官僚制の伝統的機密がある」
一「戦争責任論の盲点」、『戦中と戦後の問 一九三六−一九五七』一と言い、その「機密」を最
も集約的に表現しているものとして天皇制をあげている。ちなみに、そこで丸山は、
「天皇のウヤムヤな居据りこそ戦後の『道義頽廃』の第一号であり、やがて日本帝国
の神々の恥知らずな復活の先触れをなしたことをわれわれはもっと真剣に考えてみる
必要がある」ときっぱり言い切っている。しかし、その天皇制は狭義の「天皇制」を
越えて機能しており、天皇制権力と被抑圧者との関係は悪循環をなしている。丸山は
これを「大衆の自発的能動性の解放が執鋤に阻まれて、その結果として生じたレヴェ
ルの低さとか自暴自棄とかがまた逆に解放尚早の根拠づけにされるという恐るべき悪
循環」と表現している。
 こうした悪循環のなかでは、解放闘争も妥協的な形態をとりがちだ。丸山は、日本
の左翼運動が、えてして「ボス」に依存する形で組織されてきたことを強く批判する。
「社会党及びその勢力下の諸団体が戦後の急速な勢力膨脹の際に白治体のボス的分子
を少なからずかかえこんだことが、その後いかに大きなマイナスとして同党に作用し                       
たか」一この丸山の言葉は、三五年後の今日、もはや何人も否定しがたいものにな
っている。日本型の「ボス」は、独裁者とはちがって、無言の圧力や「にらみ」を実
質的な暴力にする。「独裁者は民主主義を、いわば外から公然と破壊し、ボスは家族関
係の擬制とか成員の心理的塑性を利用して支配するから、露骨な権力的強制は伝家の
宝刀として背後に秘めておくことができる」と丸山は言っている。鋭い指摘である。
直接的抑圧を加えたり、「宣伝」や「アジ」を必要とするのは独裁者であって、「部下
や被支配者が意のままにゆかない場合」、日本の「ポスは小出しにいびり或いは『江戸
の仇を長崎でとる』」。
 かくして丸山真男は、こうした「ボス」や「和」の精神と徹底的に手を切った運動、
つまりは「言葉の真実の意味での内部からのトータルな革命」の必要を主張する。と
いうのも、「よし一時的にはむしろ古い意識や人問関係を利用することが手っとり早
く見えても、間もなくそれは運動にとって  とくに反動期に入ると共に1手痛い
復讐となってハネ返って来る」一「ある自由主義者への手紙」一からである。
 丸山真男が「ボス」的機能をもった知識人たちによって左翼ジャーナリズムから強
引に埋葬されたのち、久々に発表した論集の題名  『戦中と戦後の間』は、その「あ
とがき」によると、ハンナ・アーレントの『過去と未来の問』に「題名なりともあや
かりたいという気持が籠められている」という。しかし、このことは、彼が「戦後」
に「未来」を見たということではなくて、「戦後」のなかに「未来」をもたらすことを
つねに主題としてきたということを示唆している。むろん、この「未来」は、現在に
向かって自動的に到来するような未来ではなくて、ミクロなレベルでの変革が生じた
ときにのみただちに現在のなかに姿を現わすような未来であるのだが。





大皇制文化装置のしたたかさ



 文化的コードの支配が今日の権力形態であることを承知している組織にとって、日
本文化ほどその基本コードを一挙に掌握し、文化装置へと組織しやすい文化はあるま
い。というのも日本は、マス・メディアの高度な発達以前から、極めて効率の高い決
定的な文化装置すなわち天皇制文化装置による支配の歴史をもっているので、組織は
そこからたやすく国民意識、消費コード、広告コード、マーケッティング・コード等々
の新たな。文化装置を構築することができるからである。
 すでに藤田省三は、一九五四年に発表された一文のなかで、「アメリカニズムの流行
は、それが日常生活の回転を容易にし、また生活の便宜化をもたらすかぎり、平穏生
活の一つの手法として歓迎され、街や村における『天皇制』と日常生活におけるアメ
リカニズムとが相互に補強しながら、社会の深部において結合している。この両者の
結節点は戦前どことなることなく、無数の小生活集団の長、つまりいわゆる『中問層
第一類型』である。買弁天皇制の足場はここに定着する」一『天皇制国家の支配原理』、未来
社、一九五ページ一と述べ、戦後の大量消費社会における天皇制の新たな機能と、天皇制
的文化と文化装置の不死鳥的性格を示唆していたが、明治から戦後の昭和にいたるま
で天皇制は、たえざる構造変換を行ないながらも文化と文化装置の最高形態(従って
それは国家の一形態となる一として一貫して機能しつづけている。
 しかし、文化装置はそれ固有の文化のなかでそれ特有の機能を発揮するとはいえ、
両者の関係は決して必然的・決定的なものではなく、あくまでも作為的、二者択一的
なものであり、日本文化が天皇制以外の何ものでもないがゆえにその文化装置が必然
的に天皇制的となったのではなくて、日本文化の天皇制的側面が天皇制的文化装置と
して意図的に構築されたのであることはくりかえし明記しておかねばならない。
 吉本隆明によれば、「すくなくとも現在の古典研究の水準だけからいっても、わたし
たちは〈臼本人〉的という概念を、歴史的な〈天皇(制)〉以前にさかのぼって成立さ
せることができる」にもかかわらず、そしてしかも「わたしの当時のく天皇のためV
には、天皇個人の人格がどうであるかという問題はふくまれていなかった。また天皇
が現人神であるということを科学的に信じていたわけではない」にもかかわらず、わ
れわれは「日本人的であるということと天皇(制)にたいする感性とを同一のものと
みなす」錯覚を犯してきたのであり、「戦争期に頭から全身的にのめりこみ、その体験
に挫礁し、それをひきはがすために悪戦してきた」のである一「天皇および天皇制につい
て」、『国家の思想』、筑摩書房一というが、まさしく天皇制とはこうした擬制を意図的に組
織する装置以外の何ものでもないとみなさないかぎり、天皇制批判はいささかの有効
性ももちえまい。
 他面、松浦玲が「日本人の大多数は、戦争期に、吉本が考えたような意味で天皇を
絶対感情の対象とすることはなかった」一百本人にとって天皇とはなんであったのか』、辺境
祉、一〇一.ページ一と言っているように、戦前の天皇制はつねに吉本が言っているほど、
〈効率〉よく機能していたわけではなく、今日の文化装置とくらべればその洗練度にお
いて劣り、それゆえにこそそれは、その弱さを補強するために一7一ロルを行使した側面
に留意しておく必要があるだろう。さもなければ、戦前の異民族(とりわけ朝鮮人一
支配において本来その民衆文化とは無関係の文化から勝手に構築されたものである天
皇制文化装置を異民族に強制し、当然のことながらそれは文化装置としては「円滑」
な機能を発揮せず、非道な桐喝と暴力の単なる装置と化していった側面が見落とされ
かねないからである。
 ところで、文化装置を捜造するしかたは、民衆の公的な関係を規定しているコミュ
ニケイション回路を独占的に管理・統合することによって行なわれるわけだが、戦前
の天皇制文化装置においてはそのコミュニケイションの回路が、家父長的な家族関係
を範型とするそれであったのに対し、戦後のそれは、言うまでもなく高度化したマス・
コミュニケイションである。が、重要なことは、文化装置の中核を占めるこうした戦
前のコミュニケイション回路と戦後のそれとのあいだには本質的な共通性があり、前
者は決して伝統的な家族制度と村落共同体の崩壊とともに消滅したわけではなく、後
者によって継承され、拡充されたのだという点である。戦前の天皇制文化装置がマス・
コミュニケイションの高度化以前の時代にありながら大規模な効果を発揮したことと、
戦後のマス・コミュニケイションが短期間に極めて均質的なマス・コミュニケイショ
ン回路を構築しえたこととは連関しあっているのである。ここでは、戦前の家族関係
的コミュニケイションと戦後のマス・コミュニケイションとのあいだにある本質的な
共通性を、試みに、「超越論的主観一性)」という哲学の専門概念を発展的に使用して
考えてみよう。
 「超越論的主観」一円帝大系の哲学者の習慣では「先験的主観」)の哲学史的な意味に
ついては、九鬼周造「西洋近世哲学史稿』下一特に四〇∫四四ページ一の周到な説明にゆ
ずるが、ドイツ観念論の枢軸概念として知られるこの用語が含意していることは、決
して哲学に−ましてドイツ観念論に1とどまるものではなく、近代の知と文化の
領域におよんでおり、近代史をこの概念の変化史としてとらえることも不可能ではな
いほどだ。というのも、超越論的主観とは要するに、普遍性を統括するもののことで
あり、近代の知と文化を特徴づける最大の変化の一つは、普遍性の根底的な変化であ
ったからである。周知のように、デカルトにおいて普遍性一つまりはく真理性V)を統
括するのは「コギト」であるが、この「コギト」はまだ人問的主観(つまり主体)と
しての一具体性をとどめていた。が、カントにいたると普遍性の統括者は、「超越論的主
観」という含蓄ある命名にもかかわらず結局のところ、「匿名のX」として無規定なも
のとなり、極めて抽象的なものになって行く。しかし、この変化は実は、主体に根ざ
していた普遍性がその主体を追放してオートマティックな論理の束と化し、そのよう
な過程のなかで抽象的真理を至上とする近代科学とその論理によって構築された物象
化世界とを成立させる変化に対応しているのであり、人問的理性からフランケンシュ
タイン的理性への変化を意味している。
 それゆえ、二〇世紀になってやっとフッサールがその現象学的思考において、なぜ
超越論的主観が近代において無規定なものとなってしまったのか、普遍性というもの
がなぜ近代数学や近代科学におけるような主体なき抽象的普遍性、数学的理性だけを
意味するようになってしまったのかをラディカルに問いはじめたとき、ここでは哲学
のみならず文化全般における近代の超克の課題が一歩踏み出されたのだとみることが
できよう。フッサールによれば、超越論的主観とは決して「匿名のX」などではなく、
それは「生ける現在」のなかで存在する具体的な主観、われわれ自身がそれであるよ
うな「相互主体的」主観であり、近代の知が至上としてきた抽象的普遍性は、その思
いこみとは逆に、われわれの身体性を拠点とする具体的普遍性から派生したもの、「生
ける現在」のいわば澱みにすぎないのであって、近代は具体的普遍性と抽象的普遍性
との関係を倒錯し、前者を後者へ一義化、一次元化してきたのである。フッサールの
生涯の仕事はもっぱら、身体性のレベルで超越論的主観性を救い出し、再・人間化す
る作業に向けられたが、それは単に知覚や行動の研究ではなく、物象化された文化を
批判し、超克する積極的な試みとしてもとらえられるであろう。
 さて、このような試みを前提としてコミュニケイションの構造を「超越論的主観
一性)」の視点から記述すれば、コミュニケイションの基軸は超越論的主観であり、そ
れによってわたしと他者とのあいだに〈われわれ〉という普遍性が保たれる、と言う
ことができる。その際、一対一のヴァーバル・コミュニケイションから電子的なマス・
コミュニケイションのレベルにいたるにつれて、その普遍性が一義化、一次元化して
行くが、これは、コミュニケイションの普遍性を統括する超越論的主観が、特定の具
体的な主観から誰でもない不特定多数の「大衆」一マス)という無規定な超越論的主観
になって行くこと、と言いかえることができる。
 ところで、問題は戦前の家族関係的コミュニケイションにおける超越論的主観(性一
の特質である。それははたして、今日のマス・コミュニケイションのそれに通じるよ
うな無規定的なものであろうか? 問題の超越論的主観が、具体的に誰かといえば、
それは「家父長」である。というのも、戦前の家族関係的コミュニケイションの「公」
的性格を保障するのが家父長ないしは家父長を範型とする何者かであるからである。
むろん、「家父長」は一個の生ける具体的人格である。だが、家父長的コミュニケイシ
ョン回路の統括者としては決してその人格を代表するのではなくて「世間」一「世間様
に申し訳がない」などという表現がある)を代表するのであり、マス・コミュニケイ
ションにおける「公衆」や「公共性」が人格としては本来誰一人としてそれらを体現
できないと同様に、程度の差はあれ、もともとみずからをもってみずからを代表しえ
ぬもの、つまりは無規定な超越論的主観である。しかも、家族関係的コミュニケイシ
ョンの方には今日でも、こうした無規定な超越論的主観に依拠する特質が残っており、
たとえば、ハリー・H・L・キタノが次のように言っているようにこの特質を日常的
に再生産しているのである。
 「アメリカのしつけ方で「お母さんを愛しているのだったら、言うことをききなさ
 い』というよりも日本の子供は、『あなたの務めだから、お母さんの言うことをきき
 なさい』という方が聞きいれやすい。おそらくは、このような早期の教育において
 非個人的な相互作用を強調することが役立って、日本人は、アメリカ人よりも容易
 に官僚政治制度のような機構に入って行けたのである」一向崎以佐味訳『アメリカのなか
 の日本人」、東洋経済新報社、二一八ぺージ)
 ここではこれ以上、日本的コミュニケイションの構造を超越論的主観の現われかた
として考察する余裕はないが、高取正男一『神道の成立』、平凡社、百本的思考の原型』、講
談社一も指摘しているように、家父長制的天皇制が明治政府による極めて近代主義的
な構築物であることを考えるとき、近代において「匿名のX」と化した超越論的主観
をフッサールのように再、人間化しようとするのではなく、それを「無」や「絶対者」
の方に収敏させようとした西田幾多郎や田辺元の哲学が、必然的に家父長制的・天皇
制的文化を擁護し、さらに近代科学的論理の敗肩と物象化的近代世界の存続とを一
その宗教的なよそおいにもかかわらず、石そのゆえに1封印助してきた点を想起する
ならば、超越論的主観一性)の観点から日本文化を論ずることが、単なる概念的操作
や思いっきではないことがわかるだろう。
 このように考えてくると、戦前の家族関係的コミュニケイションにおいて超越論的
主観としてその最高位に位置していた「現人神」天皇が戦後の日本国憲法で「日本国
の象徴であり日本国民統合の象徴」であると規定しなおされたことは、一「象徴」とは
エドガール・モランの簡潔な定義をかりて、「それ自身ではない何か他のもの、あるい
はそれ以上のものを示唆したり、含意したり、顕示したりするすべてのもの」と解せ
ば)、少なくともその超越論的主観としての機能に関してはより純化されたことを意味
し、国家的規模のコミュニケイション回路を統括する超越論的主観としての十分な資
格をととのえたことを意味する。
 一見すると、戦後のマス・コミュニケイションは天皇(制)からほとんど自由であ
り、あれほどマス・コミをさわがせた「ミッチー・ブーム」にしてもあれは所詮、マ
ス・コミュニケイションが天皇家の一族を単なる「出演者」として利用しているにす
ぎないかにみえる。そしてその限りでは、吉本隆明が言うように「皇太子の結婚パレ
ードに血道をあげようがあげまいが、そんなことは、大衆のなかに天皇制的な発想が、
どの程度のこっていて、日常社会や政治感を支配しているか、という問題とはなんの
かかわりもない」(「大皇制をどうみるか」、門吉本隆明全著作集』13、勤草書房、
かにみえる。それに、マス・コミュニケイションを通じて民衆のまえに姿を現わす天
皇白身は「タレント」としての魅力はおろか人問としての魅力にも欠け、極めて消極
的な存在でしかないようにみえる。村上兵衛はこの点に関して次のように言っている。      
 「私の兄は供奉将校として、また宮城の守衛隊将校として頻繁に天皇に接する機会                  
 を持ったのだが、彼も天皇の印象を『木偶のような感じ』と率直に語っている。外
 国使臣の接見の時でも、相手の手を握る瞬間はニコニコ表情が崩れるが、握手し終
 った途端に彼の表情は、能面の無表情のなかに吸いこまれてしまう。外国使臣の接
 見の際にはこれこれこうせよ、と誰かに指図されて、それを忠実に果している感じ
 が、つねにつきまとうのである。人間の感情の交流などは、少くともその所作から
 は感ぜられない。このことは戦後のニュース映画などによって、国民の前に広く明
 らかにされた。映画に天皇が現われると、きっと失笑が起るのは、そのためである
 う」一「天皇の戦争責任」、『中央公論』、一九五六年六月号、『国家の思想」、筑摩書房、三〇一ぺ
 ージ一
 だがそれにもかかわらず、天皇のイメiジは文化装置として極めて効果的に機能し
ている。今日のように天皇が「やさしいおじいちゃん」といったやや積極的なイメー
ジをもたれる以前から、天皇は、むしろぶざまなアンチ・ヒーローとして戦後のマ
ス.コ、、、ユニケイションのなかにしっかりと再定着され、それによって天皇は逆説的
なポピュラリティを回復していた。
 実際、一九四五年八月一五日の「玉音放送」は1その当事者の意図、その聴取者
の直接的な印象はどうあれ  天皇をぶざまなアンチ・ヒーローとしてマス・コミュ
ニケイションに浸透させる発端をなすものであり、以後マス・コミュニケイションは、
それを強固なものにすることにますます加担して行くのである。一九六〇年一一月に
『中央公論』一二百号一に発表された深沢七郎『風流夢謹』がまきおこした波紋は、天
皇をアンチ・ヒーローとして受け取る傾向の地盤が日本のマス・メディアのなかには
まだ十分ではないことを露わにしたが、他面、われわれの日常的意識のなかには天皇
や天皇家の人々をここまで侮辱し瑚笑することを欲する欲求が根強くあることを範例
的に示しもした。
 それは、一九七〇年一一月の三島由紀夫の割腹自殺事件で明確になる。そこでは大
衆は天皇のために殉じようとした(あるいはそう演技した)三島の死をもはや天皇と
の関連では深刻には受けとらなかった。潮笑されるアンチ・ヒーローとしての天皇が
もっている普遍性にくらべると忠誠の対象としての旧・天皇像は、もはや普遍性をも
っていないことが裏書きされたのである。一九七五年一〇月三一日の天皇「世紀のテ
レビ出演」も、こうした「新しい」天皇像が着実に定着しつつあるという当事者側の
自信と確信のうえに可能になった。ここでは、たとえば佐伯隆幸が、天皇を茶化した
芝居の濫造を批判して、「エムペラiのみが先験的に笑うべき商品であるという帝国主
義文化の『喜劇昭和の世界』は悲しい」一『日本読書新聞』、一九七七年二月二一日号一と
言っているように、社会批判的身ぶりの演劇や文学、漫画において天皇が、瑚笑とく
すぐりの欲求を満たす格好の素材となるという事態も起きる。
 むろん、このような状況はわれわれが「天皇制の呪縛」から自由になったことを意
味するどころか、むしろ天皇制文化と天皇制文化装置の新たな呪縛のなかにより深く
繋縛されたことを意味する。というのも、〈天皇1−ぶざま〉をあたりまえのこととみな
す傾向が生ずるということは、《天皇1−ぶざま》が日常的な文化コードと化すにいたっ
たということであり、その際文化コードというものはその許容範囲のなかではその最
初のモチーフとは無関係にいかようにも変換されうるものであるから、《天皇Hぶざ
ま〉という文化コードは、天皇とは無関係の意味作用のなかでも機能しうるものとな
り、あらゆる矛盾を吸収してしまう文化装置として機能するようになるからである。
 高度資本主義のシステムはその本性上、公的なものをうさんくさいとすることがそ
のうさんくささの真の批判とはならずに、そのうさんくささの元凶に対する保安装置
の機能を果たしてしまうような屈折した文化装置を育成するが、一九七〇年代後半か
ら八○年代前半にかけてマス・メディアを支配した「しらけ」、「ナンセンス」、「軽薄
短小」といった文化は、まさに《天皇1−ぶざま》というこの天皇制文化装置のヴァリ
エイションであった。そして、一九八○年代の後半には、ここから逆に、天皇に対す
る「親近感」さえもが生み出され、この装置自身のさらなる変化が生じはじめるので
ある。





監獄と戦後的「自由」



 外では雪が舞い、時折寒風がガラス戸を鳴らす。しかし、氷点下に近い外の寒さは、
ストiブのあるこの部屋を脅かしはしない。わたしは、コーヒiを畷りながら、読み
かけの新聞に目を落とす。夕方から集まりがあるので出かけなければならないが、そ
れまでわたしは「自由」だろう。眠ることもできる。何かを食べることも、飲むこと
もできる。入浴することもできる。そして、誰かに会いに外出することも、電話をか
けることも、ラジオを聴くことやテレビを見ることもできる。
 だからどうしたのだ、と人は問うかもしれない。そんなことはあたりまえじゃない
か、と人は言うだろう。この程度の「自由」は、いまの日本では、もはや自由の部類
には入らないのだ。一晩に何十万トンもの食品が「残飯」として捨てられるほど「豊
か」な東京には、もっと果てしない「自由」があるというわけだ。
 しかし、そのような「自由」は、いささかもあたりまえのものではなく、非常に特
権的なものであるにもかかわらず、このことが見えにくくなってきたのはごく最近の
ことなのである。高度経済成長とは、御仕着せの「豊かさ」や「自由」というものが、
権力の強さの相関物であることを見えなくさせる過程であった。戦時中、人々は、「戦
争のおかげで」、つまり戦争を遂行している権力のおかげでひもじい思いをさせられ
ていることを知っていた。そして、少なくとも戦後一〇年間は、「アメリカのおかげ
で」生活が「向上」したことを知っていた。しかし、その後、人々は、自分たちが享
受している日常的な「自由」が、みずからかちとられたものではなくて、権力によっ
てあてがわれたものであり、それはわれわれ白身の自由(解放)ではなく、権力の自
由(放縦)でしかないことを忘れはじめた。が、それは、われわれの意識が怠慢であ
ったためではなく、むしろ権力がわれわれの意識をそうした問題からそらせる装置
  均質的なマス・メディアや教育  を拡充させていったからである。
『明けの星を見上げて』一れんが董房新社一の著者大道寺将司は、死刑の判決を受けて、
いま東京拘置所にいる。彼が一〇年以上入っている監獄は、通称「自殺房」と呼ばれ
る独房であり、ここには冷房も暖房もない。ここが「自殺房」と呼ばれるのは、自殺を
防止するためと称して一切の突起物をなくし、窓を隠蔽したこの特殊房が、その実、獄
中者を極度の拘禁と孤立の状態に追いつめ、その精神を破壊にいたらしめるからであ
る。大道寺は、「このような自殺房は、通常の独房に比べて暗く、寒く(夏は暑い)、ノッ
ペラボウな部屋なので、最初は穴倉に入り込んだような気分になります」と書いている。
 自殺房に入れられるのは、懲罰のために取り調べを受ける人、懲罰の執行される人、
「精神障害者」、反抗精神が旺盛な闘士、死刑や無期刑の判決のあった人またはそれら
が予測される人たちであると言われるが、この自殺房よりもさらに拘禁度の高い独房
がある。すなわち、大道寺が監獄内監獄と呼んでいる保安房である。
 「これは、通常の舎房から離れた、独立した建物の中にある隔離房で、本当の密室
 です。コンクリートの床と壁の上にリノリュームが貼りつけられ、天井にはテレビ
 カメラ。が音をたてて作動しており、四六時中煙々とライトが照っているという、何
 ともおぞましい独房です。広さは六畳ぐらい。わめこうが泣こうが声は外に届かな
 い。当局は、房内に設置されたスピーカーを通してぼくらを威嚇し続けます。さっ
 き自殺房はノッペラボウと書きましたが、保安房こそまったくのノッペラボウです。
 何もない。隅に便つぼ(ただの穴)があるだけ。そして、その穴はあっても自分で
 水を出すことはできない。コンクリート製の密室だから、冬はシンシンと冷えるし、
 夏はじっとしていても汗が吹き出るほどに暑い。そして、ここにぶち込まれるとき
 には、何人もの看守にボガスカと殴られ、蹴られるから大抵ケガをすることになる」
 このような環境での生活がいかに非人問的なものであるかは、想像を絶する。アン
トニオ・グラムシは、『獄中書簡』のなかで、入獄以来の五年間をふりかえって、「身
体器官を監獄の条件にまで低下させるのに五年かかった」と書いているが、監獄の理
念は、人間の身体器官を一個のメカニズムにしようとすることにある。それは、最も
幼稚で野蛮な権力の理念であり、そのような理念に立脚する権力が存在するかぎり、
権力が「犯罪」のレッテルを貼る一切の暴力は決して消滅することはないし、また実
際に、そのような権力は暴力的な闘争によってしか打倒されないだろう。
 しかし、権力のより進んだ形態は、そうした暴力的な反権力の台頭を回避し抑止す
るために、過剰な「自由」をみずからつくり出すことに専念する。そうすることによ
って権力は、本来は権力から暴力的に、あるいは非暴力的にかちとられなければなら
ないはずの自由を所与としての「自由」とすりかえようとする。その結果、市民の一
人ひとりが自分で消費するために生産したり表現したりすることの自由はいささかも
保障されていないにもかかわらず、出来合いの商品を限りなく消費できることが自由
のすべてであるかのような幻想が普遍化することになる。
 その意味では、高度経済成長期を通じて発展した日本の消費社会は、権力とりわけ
天皇制的な国家権力をおおい隠す仮面の役割を果たした。その表情は「多様」であり
「自由」なので、人はその仮面性を見失う。現在の日本社会に依然として天皇制的な国
家権力がいかに陰微な形で浸透しているかは、たとえば、ある人が犯罪の容疑者とな
ったとき、国家機関やマス・メディアがただちにその人の敬称を取り除くことのなか
に現われている。
 ここで言う敬称とは、ある人に対して人格的な親しみを表現するためのものではな
い。また、容疑者や犯罪者を国家機関やマス・メディアが呼びつけにするのは、たと
えばわたしが『明けの星を見上げて』の著者を人格的な個人的主体としてではなく本
書を書いた客観的な主体としてあつかうために敬称なしで呼び表わすのとは全くちが
った理由のためである。その世界の人々が意識しているか否かは別として、現在の日
本の国家機関やマス・メディアは、個々人が天皇制社会の一員であるかぎりにおいて
彼や彼女に敬称  天皇制を最高のモデルとする上下関係の指標  を付け、彼や彼
女が天皇制社会の一員に値しないと判断される身ぶりを示したとき、その敬称を剥奪
し、彼や彼女を天皇制社会から放逐するのである(これは、われわれが日常、「外人」
に対して敬称を用いないことが多いという無意識の行為のなかにも潜在している)。
 しかし、このようにして放逐される〈非国民〉には、非天皇制的社会での生活が保
障されているのではむろんなく、逆に、以前よりも数百倍も天皇制的な社会すなわち
監獄の生活しか許されていない。そして、そのような懲罰としての天皇制の強制によ
っても「更生」の見込みがないと判断された者には、いかなる社会での生活をも禁ず
る処置すなわち死刑が宣告されるのである。大道寺将司は、その意味で、殺人に加担
したがために死刑を求刑されたのではない。死刑囚はみな殺人を犯しているとしても、
殺人を犯した者がすべて死刑になるわけではない。が、国家権力に対する反逆が結果
として殺人を招来させたとき、その反逆者は確実に死刑を宣告される。そこでは、大
道寺が、・獄中生活のなかで深めた次のような重要な反省も、酌量の条件にはならない。
 「いますぐに撃つべき敵は誰であるのかを明確にできなかったが故に、いつの日に
 か結びつくべき人々、そして権力の弾圧から防衛すべき人々を見失い、殺傷してし
 まった……。ぼくらは、人民という生きている具体的な存在を、人民あるいは大衆
 という概念でのみ理解していたのです。つまり、一人一人違った顔、名前、ぬくも
 りを持ち、違った生活を営んでいる人たちを、人民、あるいは大衆という概念で一
 括りに規定して、それでいいものと思っていたのです」
 国家権力にとって、その最大の関心はその権力の増殖と維持であり、権力を体制内
の個々人の意識と身体のすみずみにまで浸透させることである。国家権力は、その権
力を貫徹させるためには殺人をも辞さない。死刑とは、まさに国家権力が遂行する公
然たる殺人である。そして、国家権力がこのようなものであり続けるかぎり、犯罪と
しての殺人は存在し続けるであろうし、また、すべての自由は、国家権力に対する闘
いのなかからかちとられざるをえないだろう。
 それは、決して国家権力の仮面の最も挑発的な側面である法権力装置との闘いにつ
きるものではなく、日常生活のすみずみにひそむすべての国家権力との闘いをも主要
なものとして含んでいる。その点で、大道寺の獄中生活は、まさに国家権力の侵入に
対するマクロなレベルとミクロなレベルとにおける闘いであり、『明けの星を見上げ
て』は、そうした獄中闘争のすぐれた記録でもある。
「ぼくらの喜怒哀楽の一切を、さらに呼吸までも管理支配しようとする監獄当局」に
対しては、獄中生活がとりもなおさず闘争にならざるをえない。さもなければ、獄中
者は、人間としての生活を放棄しなければならなくなる。が、そのような闘争は、講
にでもできることではない。大道寺は、「ぼくらは、闘う者として、意識的に鍛えるこ
とこそ獄中での重要な任務であるということでしょう」と書いているが、このような
姿勢は、自由と解放の場が、「社会主義社会」や「共産主義社会」の到来後の遠い未来
においてではなく、むしろわれわれ一人ひとりのいまここの場に求められなければな
らないという洞察によって裏うちされている、とわたしは考える。
 一九八三年二月二五日付の「イレiヌ・アイアンクラウドさん宛」の手紙を読むな
らば、大道寺の闘いがいかにミクロなレベルまで貫徹されているかがわかるであろう
し、獄外のわれわれがその「自由」な日常生活のなかで忘れがちな闘争をよびさまし
てくれるだろう。彼は、看守とのながい闘いの末に、房内で腕立て伏せや腹筋運動、
ヨガなどを行なう事実上の権利を獲得する。有害な薬品の入っているはずのハムもど
き、魚肉の練製品、けばけばしい着色をほどこされた食品を食べないこと。主食を大
体麦だけとし、支給されるおかずのなかから野菜だけを選んで食べ、また差入れの花
一春菊、菜の花、食用菊など)を生で食べ、菜食を実践すること…−・。
 獄外にいる者にとって本書は、獄中と獄外との厚い壁を取り払う一つの役割を果た
すはずである。それは、獄外にいるわれわれが獄中者の悲惨な生活を理解する、とい
ったメロドラマ的なことではなく、むしろ、この獄中者の眼を通しでわれわれが自分
たちの周開を見なおすということである。 「太平の世」にまぎれて見えなくなってい
るすべての不自由が監獄のなかに最も顕在的な形で大手をふって生きているとすれば、
国家権力の強化も再編も弱体化も、すべてその変様は、獄中から発せられる声によっ
て最も敏感に指摘され表現されるにちがいない。国家権力が、監獄法を改悪し、検閲
や面会の管理を強化して獄中者と外部とのコミュニケイションを強力にコントロール
しようとするのはこのためだが、そうだとすれば、われわれが獄中者の声にどこまで
近づくことができるかということが、この社会のなかに相対的に自由な場を実現させ
る尺度になるだろう。





2
気になる言葉



 このごろ、「やはり」という言葉が気になってしかたがない。気のせいか、この言葉
が特に頻繁に使われるように思うのだ。
 ロッキード事件の田中判決のあとでテレビが街頭の声を拾ったときも、感想をきか
れて、「やっぱりあれでいいんじゃないですか……」、「やはり公職の身にある人が
…・−」といった風に、「やはり」という言葉から話をはじめる人が多かった。視聴者参
加番組でこのような例に出会うことは、いまでは全然めずらしいことではない。
 早い話、自分自身がこの「やはり」を連発していることを発見して驚くのである。
わたしはまだ一時代まえを回顧して「昔は……」というような歳では全然ないと思っ
ているのだが、昔は話もこれほどこの語を多用しなかったように思う。アドルノは、
「歴史は言語に影響するだけでなく、言語のまっただ中で生起する」一『ミニマ・モラリ
ア」一と言っているが、もし「やはり」という語が今日極度に多用されているというわ
たしの印象が単なるパラノイアでないとすれば、それは、何らか歴史上の変化と無関
係ではないはずである。
「やはり」という言葉は、今日では、ほとんどどんな文脈でも、どんなシチュエイシ
ョンにおいても使われる。それは、やはりそれだからこそ多用されるわけであり、そ
れはやはり表現にある種の効果を与える。この言葉を使うと、何を言っても、それが
すでにある程度コンセンサスをもったものとして通ってしまうようなところがやはり
あ■るのである。
  うまでもな/\この語白体の起源は古い。が、その語法は、ほんの二〇年ほどま
えでもいまとは大分異なっていた。『広辞苑』一一九五五年版一によると、この語の項に
は、「もとのまま。前と同様に。なお、やっぱり」とあり、『新潮国語辞典』一.九六五年
版一には、「○もとのまま。依然。◎思った通り。案の定」と記されている。とすると、
一九五五年から一九六五年にいたる一〇隼間に、この語に「思った通り」と「案の定」
といった意味が付加されたのだろうか? ある意味では、今日頻繁に使われている
「やはり・」のなかにはやはり「案の定」のニュアンスがある。しかし、「依然」と「案
の定」とのあいだには、やはり相当の距離があり、もともと考えていたとおりになっ
たことに対して「やはり」が発せられるというのはわからないではないが、今日の「や
はり」の使われ方は、やはりもっと非合理な飛躍を含んでおり、別にこの語の使用者
がそれ以前にそのことを全く考えてはいなくても、「やはり」と言うことによって、何
か超越的なものを肯定するアリバイを担造してしまうようなところがやはりあるのだ。
 ひと昔まえに「やはり」がどのように使われていたかを思い出そうと思い、一九五
五年発行の和英辞典でこの語がどのように英訳されているかを調べてみた。ここで訳
語を検討する必要はないのであげないが、「やはり」はやはり「又、同様に」、「依
然」、「にかかわらず」という意味に使われていた。用例にあげられている日本文には
次のようなものがある。
「彼は今でもやはり勉強家です」
「やはり本郷にお住いですか」
「暖かく一ともやはり冬は冬だ」
「彼は病気でもやはり勉強を続けている」
 ここで用いられている「やはり」は、今日それらを再解釈して「案の定」という意
味にとることもできなくはない。しかし、これらの用例が引きあいに出された時点で
は、「やはり」にはそのような主観的なニュアンスは希薄で、むしろそれは、「依然」
とか「同様に」という意味を強くもっていたのである。これは、明らかに今日の用法
とはちがう。というのも、今日では「やはり」は、超越的な対象を握造してしまうほ
ど能動的な主観作用のなかで用いられているからである。
 少なくとも、昔の用法では、「やはり」が「思った通り」や「案の定」というニュア
ンスを含むとしても、なぜ「思った通り」であり「案の定」なのかを論理的に納得さ
せる使われ方がされていた。
 坪内追逢は『當世書生氣質』のなかで書生食瀬連作に次のように言わせている。
 「兎角世の中には、嘉落を粗暴と取違べたり、不轟を放縦と間違べたり、はねツか
 へりを活渡だと思ったり、ずるいのを大膳だと思ふやうな料簡ちがひがあるには困
 るヨ。しかし、然いふ御自分さまが、やっぱり世故にはお暗い方だテ」一傍点引用者一
 この「やっぱり」は「思った通り」というよりも、むしろ「依然として」の意味だ
ろう。
 山本周五郎は、戦前に書かれた『小説日本婦道記』中の一篇「二十三年」のなか
で、「−…・一旦は家へ帰ると申しましたが、本心はやっぱり御奉公がしていたかったの
でございましょう」一傍点引用者一という言い方を多助という人物にさせている。この場
合も、「やっぱり」の意味は、「依然として」であると考えることができるが、この文
章に付随した「多助は哀れな妹の姿から眼を外らせながら云った」という地の文を読
むと、この「やっぱり」には、それだけではなく、「案の定」というニュアンスがなく
もないという気がしてくる。というのも、ここで多助は、「こんなにもお供をしてまい
りたかったのでございましょうか」と言ったのち、ふと言葉をつまらせて、右の言葉
を発するからであり、この「やっぱり」には、「−…」で記された多助の沈黙の重みが
籠められているからである。しかし、それにもかかわらず、この「やっぱり」の用法
は極めて論理的であろう。
 その点で、「やはり」を今日の語法に近い用い方をしている例として、芥川龍之介の
「歯車』のなかの次の一文をあげることができる。
 「電燈の光に輝いた、人通りの多い往来はやはり僕には不快だった。殊に知り人に
 遇ぶことは到底堪べられないのに違びなかった。僕は努めて暗い往来を選び、盗人
 のやうに歩いて打つだ」一傍点引用者一
 ここでも、「やはり」を「依然として」の意味に解すことができるが、それではなぜ
そういう往来が依然として「僕には不快」なのかは、明快ではなく、「僕」の極めてイ
ディオシンクラティックな(体質特有の)理由によるとしか理解できない。つまり、
「僕」が主観的に「不快だ」と思うから不快なのであり、この極めて主観的な「不快さ」
を強調するために、「依然として」ではなく、「やはり」が用いられているわけである。
 しかし、前掲のアドルノの言葉をもう一度ここで思いおこすならば、この「僕」の
単なるイディオシンクラシーとみえる「不快さ」も、やはり歴史の不快さであったの
である。事実、「僕」の不快さは、やがて日本国家が新たな天皇主義にのめり込んでゆ
くという形で、時代の不快さとなっていったからである。
一やはり」は、やはり所やはり」では遅すぎるのである、



      *



「うち」という言葉が気になりだしたのもここ一〇年ぐらいのことである。「うちに来
ませんか?」という場合には気にならないのだが、「うちの部長が:・…」とか「うちの
クラスは……」とかいうように、自分が属している組織や比較的大きなグループを
「うち」という言葉で呼ぶのが、わたしには異様に感じられてならない。
 いつからこうなったのだろうか? 昔は、こういう使い方をしなかっただろう。む
ろん昔使わなかった用法が出てくることには異存がない。わたしは、過去をすべてよ
しとしているわけでは全くない。しかし、これまで「身うち」とか「うちわの話」な
どというように、家族や小集団に属することや、「身のうち」のように個人に属するこ
とを表わす場合に多く使われていた言葉が、それまでは決して「うち」とはみなされ
ていなかった領域にまで拡張して使われているとすれば、ただごとではないと思うの
である。
 一体、日本ではいつから会社や学校が身うちや身のうち同様にファミリアルなもの
になったのだろうか? 海外で日本の会社組織の「家族的性格」が強調されているに
もかかわらず、実際には、日本の会社は、以前より家族的ではなくなっている。学校
の場合には、もはや家族的な要素などさがそうにも見つからない。が、それにもかか
わらず、会社や学校を「うち」と呼ぶ人が増えているのは、なぜだろう?
 わたしの印象では、「うち」という言葉は今日では、「身うち」というような意味で
よりも、会社組織のようなものへの帰属を表わす場合により多く用いられ、家族や自
分のことを「うち」と呼ぶことは逆に減っているように感じられる。これは、ある意
味では、現実にかなっている。家庭や家族は、もはや「うちうち」の場では必ずしも
なくなっているからである。多くの時間を家庭でよりも学校や塾ですごし、家ではテ
レビ、ラジオ、ヴィデオ、電話、パソコンなどとすごすことが多い子供が増えている
とすれば、子供の「うち」なる場は、家庭ではなく、学校や塾やエレクトロニックス
の場であ。ろう。そうだとすれば、家庭が「うち」ではなくなっただけ、学校やクラス
が「うち」と呼ばれるようになっても不思議ではない。
 言葉には、吸血蠣蝿のような性格がある。家庭に生血がなくなると、それは会社や
学校という生血にあふれた若々しいく体〉の方に飛んで行くわけである。しかし、〈生
血〉が失われているのは、会社でも学校でもそう大差がないのだから、わたしは、「う
ち」という言葉を聞くと、生血をすっかり失いかけて蒼白になった体にくらいついて
いる吸血蠣蟷を見るようで、ひどくめいってしまうのである。
 ただし、わたしの主観的な記憶によると、会社や学校に対して「うち」という言葉
が使われるのをはじめて聞いたのは、関西の人の会話からだった。関西では、以前か
ら「うち」をこのような用法で使っていたように思われる。しかし、これは、単に関
西語が東京に流入したといったような問題ではあるまい。いくら流入しようとしても、
それを受けいれる地盤がなければ、定着しようがない。
 たとえば、「うち」という言葉が組織に対して用いられるのとほぼ同じ時期に東京語
のヴォキャフラリーに入ってきた「いっしょ」については、その受けいれ地盤の変化
を指摘することが比較的楽だ。東京語では、一九六〇年代でも、「いっしょ」が、「性
能はいっしょですよ」というように、「同じ」という意味で用いられることは少なかっ
た。「いっしょ」は、もっぱら、「いっしょに行こう」、「いっしょにしないで」という
ように、≒ともに」の意味で用いられた。今日、「同じ」という意味での「いっしょ」
が東京語としてもポピュラーになってきたのは、微妙な差異を容認したうえで何かと
何かの同一性を認める地盤が出来たからである。
「いっしょ」とは、文字通り「一所」であり、そこに集まっているものは、個々のレ
ベルでは異なるが、全体としては大同小異であるということを含意している。それに
対して、何かと何かとが「同じ」であるという場合には、その両者が溶けあって一体
になってしまっているような響きがある。つまり、「同じ」という発想は、どちらかと
いうと統合の発想であり、個々の差異を認めないのである。男と女が「いっしょ」に
くらしたからといって、二人が「同じ」になってしまうわけではない。
「ごたごた言わんかて、いっしょやないかい1」とは、要するに小異を認め、大同に
つけということだ。この点では、「同じ」という表現がはやるよりも、「いっしょ」が
一般化する時代の方が、生き苦しくないかもしれない。
 しかし、問題は「うち」の方だ。「うち」という以上、「そと」がある。家族や家が
主として「うち」だったときには、他の家が「そと」であり、「そと」とのちがいが問
題なのだった。店で品物の所在をたずねて、「うちにはありません」ときっぱり言われ
ると、「よそでたずねなさい」と言われた感じがするだろう。「うち」には、「よそ」や
「そと」への強い意識が隠されている。
 ひょっとして、かつて関西の人が東京で「うち」という言葉を使ったとき、そこに
は、東京の世界から区別されたかぎりでの白已への執着や自己集団への暗黙の帰属が
表明されていたのかもしれない。
 しかし、今日、多くの人が  そしてとりわけ東京語を話す人が一「うち」を連
発するとき、そこでは何から自己や自己の属する集団が一「そと」として)区別されて
いるのだろうか? いま日本では、「柔らかい個人主義」が伸張し、規制緩和で企業間
の競争が激化してきたと言われるが、この「うち」「そと」関係は、そうした「個人」
や企業のなかにはないと思う。むしろ、みなが「うち」と言う傾向があるのだとすれ
ば、それは、他の国々から自分の国を区別しようとする欲求  つまりは国家主義的
な欲求−の目立たぬ現われではないか、とも思うのである。





電子的ロマン主義



 ほとんどあらゆる「主義」について言えることだが、「主義」の意味は、テキストや
それに関与する「主体」の側にではなく、むしろそれらのく外部Vつまり政治的現実
のなかで生きつづける。それは、ある主義に属していると考えられている思想家や文
学者のテキストと、その主義を理論化したり批判したりする言説との相乗作用のなか
でいわば気化し、雲のように上空に浮遊することによって、そうしたテキストや言説
が存在しなくても生きつづけるようになる。たとえば、実存主義は、「実存主義」の思
想家と呼ばれるハイデッガーやヤスパースやサルトルのテキストのなかに必ずしもそ
の十全的な意味を見出すことができないばかりか、サルトルのようにみずからを「実
存主義者」と規定し、「実存主義とは何か」を理論化した者のなかにすら、決して住み
つくことはなかった。実存主義は、だからこそ、ハイデッガiもサルトルも読まない
人々のあいだでも生き延び、ひろまることができた。
「主義」とはつねにく外的Vなものであり、政治的なものなのである。そして、それ
だからこそすべての「主義」は、そのイデオロギー的な方向のなかよりも、さまざま
な文化的・社会的潮流に属する人々を媒介し、相互交流させることのなかに、その積
極的な機能を発揮するし、実際に或る主義についての議論は、そのもとに結集した人
物の知的交流史として論じられるときにおもしろいものになる。
 ロマン主義は、そうした知的交流史の対象として見た場合、実存主義はもとより、
表現主義やロシア・アヴァンギャルドとくらべてもはるかに複雑で多様な事例を提供
する。しかしながら、ここでは、ドイツ・ロマン主義のそうした側面についてではな
く、その全体としての政治的機能の側面について考えてみたい。というのも、ドイツ・
ロマン主義のなかで顕在化した《政治》は、今日でも形を変えて生きつづけていると
思うからである。
 カール・マンハイムは、フランツ・オッペンハイマーが、ロマン主義を「知的な反
革命」だと言っているのに留保を加え、ロマン主義は、単に中世や宗教や非合理的な
ものを生の基盤として再構築しようとしたのではなく、「そうした諸力の反省的、認識
的な理解」に到達しようとしたのだと言っている。しかし、ドイツ・ロマン主義が果
たした政治的機能は、フランスの啓蒙思想とフランス革命への反動であり、人々を政
治的現実から観念的現実へかぎりなくひきはなす忘却とパラノイア至几進させること
だった、と言わざるをえない。ドイツ・ロマン主義の運動は、次第に、世界を二兀化
し、その〈外部〉を必要としなくなるところまで突き進む。
 ドイツ・ロマン主義が、啓蒙思想への反動として位置づけられるのは、カントの思
想が啓蒙思想へのラディカルな呼応であったことと大いに関係がある。カントの理性
批判とは、言ってみれば、世界u理性の〈外部〉をどこに見出すかということの限界
確定であって、その姿勢は、世界の閉塞へではなく世界の解放へ向かっていた。彼は、
決してすべての距離を世界の内部に閉ざしはしなかった。『純粋理性批判』のなかで彼
が「超越的」(R彗ωS邑SCと「超越論的」(膏彗竃彗α8訂一)とを厳密に区別してい
るのもこのためだ。
 超越的なものと超越論的なものとが混同されるとき、思弁界の出来事と現実界の出
来事の区別は解消する。観念や幻想が現実となり、現実が観念や幻想と等価になる。
意味は、現実と意識とのあいだにではなく、それ自身を差異づける意識ないしは存在
そのもののなかにあることになる。
 ノヴァーリスは、国家を「美しき個体」と呼んだ。この点でヘーゲルは、ロマン主
義の影響下にありながらも、より現実的である。彼が、『法の哲学』のなかで「即自か
つ対自的な国家は倫理的全体であり、自由の実現態である。そして自由を現実のもの
にするということこそ、理性の絶対的目的なのである」と言うとき、彼は国家の超越
論的な「有機的統一性」を一方で想定しながら、同時に、それが超越的な経験のレベ
ルではまだ実現されていないことを強調しようとしている。しかし、この場合に、へ
ーゲルも結局はロマン主義に与していると言わざるをえないのは、国家が人問の意志
の所産ではなく、人間の意志の自由になるものではないと考えられているからである。
超越的なものと超越論的なものとをつなぐのは弁証法なのだが、それは、絶対精神が
みずから行なう自動運動であって、個人の実践や意志とは無関係であった。
 カッシーラーは、『国家の神話』のなかで、へ−ゲルの国家論ほど、彼の擁護した原
理とはうらはらに、「ファシズムと帝国主義とを準備するのに貢献したものはない」
奮出光雄訳、創文社一と言っているが、実践の契機を欠いた理性が、まさにホルクハイ
マーとアドルノが『啓蒙の弁証法』のなかでその過程を絶望的なまでに論述した「道
具的理性」ないしは「理性なき合理性」に頽落してしまうのは不可避的なことだった。
ただし、ファシズムの時代よりも、ある意味ではるかに国家権力の力が全般化してい
る今日の状況のなかでは、「実践」などという概念をもち出すことの方がはるかにロマ
ン主義的だとみなされるかもしれない。しかし、存在と意識であれ、絶対精神と個人
的意志であれ、超越的なものと超越論的なものとを区別し、後者に「主体性」を求め
ようとすることは、思弁的な論議の側からすれば、二元論を一歩も越えていないとい
うことになろうが、現実に関わる政治学の側からすれば、あらゆる場面に「主体的な
もの」を見出し、あらゆる場に「主体的なもの」をねじ込んでゆくことこそ、現実的
なことなのである。
 このことは、言語について考えるとき、より明瞭になるだろう。ハイデッガiは、
『言葉への途中』のなかで、「言葉は自分自身についてしか関心がないというまさに言
葉の特有なるものを人は知らない」というノヴァーリスの一文を取り上げ、これを、
「言葉が語る」のであって、「人問は、その言葉に応答するかぎりで語る」というハイ
デッガi自身の言語論の方へひきいれる。たしかに、ハイデッガiの言語論は言語の
深いレベルに照明をあてたし、デリダや一連のティコンストラクショニストに多大な
影響を与えた。しかし、言語の政治学のレベルでは、言葉が語っているのに、人問は
それに正しく応答していないというのでは、何も言ったことにはならない。もっとも、
ハイデッガーに言わせれば、言葉はもともと何も言いはしないのだということになる
のだが、現実の世界は、道具化され、何かを言おうとする言語がいりみだれ、言語は
ことごとく政治化しているのだとすれば、このよう空言語論は、それによってまさに
ハイデッガーが言わんとすることとは全く異なる方向へ言葉をおし流す政治権力に助
力してしまうことになるのである。
 現に、今日の電子的なメディアニァクノロジーによって伝播される情撰言語は、ハ
イデッガーの言語論の文字通りの意味を実現しつつあるかのようである。それは、ま
さに人問が語るのではなく、言語がみずから語るのであり、人問は、それに受動的に
応答するしかないというよりも、存在する必要すらない。SFの世界でなくても、み
ずから語り、みずから答える自動運動をかぎりなく続けるAI一人工知能一の出現を想
定する一」とは、いまではさほど困難ではないからである。その意味では、今日のハイ・
テクノロジiは、ドイツ・ロマン主義の精神を継承しているのであり、超越論的なも
の、つまりは意識・身体的なものと、超越的・電子的なものとの差異を取り払う地球
的規模でのロマン主義運動を展開しているのである。





国家の理性と狂気



 国家が一個人を死刑に処するということはどういうことを意味するのか?
 殺人は、それがどんなに計算されたものであれ、狂気のなかで行なわれる。殺人と
は、理性の自己破壊であり、理性の破滅的な終末形態である。理性内存在としての
個々人は、従って、いずれも狂気と殺人の可能性をもっている。愛する者を殺された
者がその殺害者をみずからの手で殺すとき、彼または彼女は、「正義」の名において復
讐をしているのではなく、狂気の名において自己を理性の終末的地平に晒すのである。
そのような殺人がまた新たな殺人を生み、それが屋上屋を架して行くとき、世界はま
さに狂気の世界へ向かって行く。
 国家は(それが必要であるとすれば)、こうした狂気をたかだか「教育」し、「治療」
するものとして存在すべきである。ところが、現実にはこの国家が、個々人に死を言
い渡し、その生命を抹殺している。
 もし理性が、その終末的地平において狂気を含んではおらず、かってそう信じられ
ていたように、単なる「計算的理性」でしかないとすれば、狂気とは、そうした「理
性」の敵対者となり、「理性」の代弁者としての国家は、「計算的理性」をもって狂気
に対応し、いささかの狂気をも含まぬ一次元的世界の実現、つまりは一切の狂気の根
絶を正当化することができるだろう。死刑はまさにそのような論理のなかにある。
 しかし、理性は狂気であり、狂気は理性であり、そうした理性の所持者である個々
人を、国家がある意味で超越している(さもなければ国家は国家である必要がなかろ
う)とすれば、国家が狂気のなかに身を置くことはできない。国家が個人を処刑する
ということは、国家が狂気に陥ることであるという点で、それは、国家がもはや、い
つ狂うかもわからぬ個々人と同じレベルに身を置いており、個々人の反国家的な攻撃
を期待していることになる。実際に、国家はいまや、そこまで身を落としており、個々
人を抑圧し、逆に個々人の反撃をくらい、ますます抑圧的となっている。それは、む
しろ狂える個々人よりも狂っており、個々人に対して狂える模範を提供しているのだ。
 東アジア反日武装戦線の「被告」に対する控訴審の判決公判で、二人の「被告」に
死刑の判決を言い渡した裁判長・内藤丈夫は、異議をとなえる傍聴席の声にニヤリと
笑いながら、死を宣告する判決文を読みあげた。天井のペンキがはげて垂れ下がる東
京高等裁判所の法廷で笑いをうかべた裁判長が個々人を死に追いやる。これは、ヒー
タi・ブルック演出の円マラー/サド』の一シーンではなく、日本国家が演じつづけ
ている狂気の演劇の一シーンなのである。



      *



「私にとって一九六七年から一九八二年という時代は、デッチ上げ弾圧をぬきには語
れない」、と土田・日石・ピース缶事件の被告にでっちあげられた前林則子さんは書い
ているく「くたばっちまえアーメン」、『インバクション』二一号)。
「二・一一反天皇制・反靖国集会」における講演「天皇制下における治安弾圧と総動
員体制−1一九三〇年代と現代」で天野恵一が鋭く指摘したように、「思想犯」を裁く
論告や判決を文学的なジョークとしてではなく、レッキとした裁判言語として受けと
る場合、それは、今日、全くのデタラメとしか言いようのない状態に陥っている。一
九三〇年代から戦中にいたる「思想犯」弾圧のすさまじさは、年を追ってエスカレイ
トされたが、それは、はっきりと思想の弾圧を表明した反民主主義的国家体制のもと
でなされたのに対して、今日では、「民主主義」をタテマエにした国家体制のもとでこ
うしたデタラメが行なわれている。
 たとえば、「土・日・P」の一九八二年一二月七日の論告では、「各般の証拠につき
徒らに枝葉にわたる部分にとらわれることなく、大局的見地に立って全体的に観察す
る」一つまり事実の具体的なディテールは無視して直観的に判断する1などとい
うことが平気で言われ、そのあげく、「全証拠を経験則及び合理的推定に基づいて総合
的に判断する」などという、要するにこの論告に「推定」が含まれていることを暴露
しているのである。
 一九八二年六月一八日の「連合赤軍事件」の一審判決にいたっては、たとえば、「女
性特有の執鋤さ、底意地の悪さ、冷酷な加虐趣味」といった女性差別丸出しの表現が
なされ、さらに、「(私刑が)あくまで永田の個人的資質の欠陥と、森の器量不足に大
きく起因し」といったように、要するに両人が「ブス」だったから事件がひき起こさ
れたかのような論理が一「民主主義」国家の法廷で堂々とまかり通っているのである。
 総理大臣に就任したとき中曽根康弘は、法律というものは人問が作ったものだから
当然不備な点があるわけで、それがはっきりしたときには改正するのがあたりまえだ、
といった意味のことを言って憲法改正をほのめかした。それはそうだろう。検事や裁
判長までが理念的な法(これは同語反復だ)を無視して実利的な「法」一法の物象化形
態一に従い、デタラメな論理をふりまわしている以上、法を理念体系ではなく、単な
る実利的規則の体系に下落させてしまった方がよいという考えに行きつくのも、体制
の理念なき番人としてはもっともなことである。
 しかし、国家はそのとき、ただでさえ躁鰯してきた一切の理念を振り捨てて、抑圧
専門の装置になり下がる。高度経済成長を通じて、あまりに実利的なものばかりを追
求してきた支配体制は、その行きつくところの姿を徐々に現わすのである。





監獄は芸術家を育てられるか?



 監獄とは、犯罪を犯す者がいるから存在するのではなくて、犯罪者と非犯罪者との
差別を社会から絶やさないために存在する。「監獄法改悪とたたかう獄中者の会」編
『全国監獄実態』 一緑風出版一を読みながら、こんなことを思った。
 少なくとも、日本の監獄の機能は、既存の法律的・文化的枠からはずれた者を懲ら
しめることであり、そういう人間をいかなる命令にも従順なロボットに改造すること
である。獄中者が手紙に当局の望まぬことを書いたり、何らかの要求を当局に対して
行なったり、また、獄中者の日常生活が「悪い」とみなされたりしたとき、獄中者は
幹部職員から呼び出され、「面接」を受ける。その際、監獄当局の幹部職員は、次の
ようなことを平気で言う。
「刑事施設は自由を故意に制限して苦しめるのが目的であり、再犯する奴は苦しみが
足りないからである。もっと懲りるように苦しめねばならない」
「バカと言われて暴言だという奴はダメな奴、バカと怒鳴られてもハイハイと従順な
奴に対しては我々も仮釈を多くやろうという気持になる」
 本書は、四弁護士会の人権擁護委員会に獄中から発せられた「申立書」をまとめた
ものであるが、一部に「ヌリツブシ」(当局による検閲・抹消一による伏せ字個所
(×××:・…)があるように、当局の「厳重」な検閲を受けたものであるから、その記
述の正しさは当局の保証済みである。
 近年、西欧諸国の監獄の条件は、日本にくらべれば飛躍的に改善された。監獄外で
購入できる図書が監獄内で制限されることは少ない。しかし、日本では、朝鮮人・韓
国人を収容している刑務所でも、朝鮮語・韓国語の図書を一冊も置いていない。
 一般にはあまり知られていないことだが、日本国籍の獄中者が外国語の図書や文書
を読むことは許されず、獄中者が翻訳料(日本語の訳文で四〇〇手あたり三千∫五千
円)を負担して翻訳で読むしかない。これは、獄外にいるわれわれにとってすら並た
いていのことではない。犯罪人なのだから、そのくらいの苦労はあたりまえだという
のだろうか?
 日本の憲法は、個人の信仰、思想、言論、出版、集会、職業、身体等の自由権と生
存権を「永久の権利として」保障することをうたっているが、監獄はこうした基本的
人権を全く認めないわけである。本書によると、獄中者に差入れされる文書のうち、
「獄中者の人権や団結、監獄に対する闘いを呼びかけたりするもの」は、必ず「ヌリ
ツブシ」や閲読不許可の対象になるという。むろん、ヌード写真のあるものなどはだ
めだが、わたしがささやかな序文を書いている『大道寺将司獄中書簡集・明けの星を
見上げて』一れんが書房新型のような文学的な香りの高いものですら閲読不許可であ
るという。
 監獄にできることは、せいぜい獄中者を「治療」するぐらいのことだ。しかし治療
を徹底化させるならば、それは単なる回復にとどまらず「患者」の解放をめざさざる
をえない。つまり、監獄がやるべきことは、獄中者を懲罰したり、国家に従順な人問
にロボット化したりすることではなくて獄中からすぐれた芸術家や思想家を生み出す
ことなのだ。もっとも、そうなったら、獄外の芸術家や思想家の多くが失業すること
はうけあいである。





誘拐ごっこの階級差



『金塊巻』一主婦の友社一を読んで、まず思い出したのが数年まえに見た中村幼児監督の
『ウィークエンドシャフル』の一シーンだった。小ましゃくれた子供たちが「誘拐ご
っこ」をして遊んでいるところへ、風采のあがらない子がやってきて仲間に加わろう
とすると、代表格の子が、「君んちは貧乏だからダメ!」と言って追い払うのである。
 このような排除自体は、貧富の差ゆえの「不幸」や「屈辱」を強調するメロドラマ
ではおなじみのものだが、この映画シーンでは貧富の差が経済的な格差ではなくて、
情報価値の差になっている点に注意する必要がある。誘拐ごっこをやる子供たちにと
って、誘拐される役を演ずる子供の家が金持であるかどうかは、実際のところどうで
もよい。しかし、それにもかかわらず彼が「貧乏人」の子供であってはならないのは、
金持の子が誘拐されるということの方が、一般性から言って情報価値が高く、リアリ
ティがある、と考えられるからである。
 言いかえれば、彼らは「誘拐ごっこ」という情報遊びにリアリティをもたせるため
に、既存の経済的な階級差をもち出してくるのである。そのためには、情報のリアリ
ティを外挿するにたるだけの確固たる物質力をもった経済格差が何らかの形で存在し
なければならないから、このような遊びは、高度経済成長以後に確実に形成された経
済的な階級格差の持続と伸張のなかでこそ、市民権を得るだろう。
『金塊巻』の㊥と㊤の差別遊びは、まさに『ウィークエンドシャフル』の子供たちが
やった「誘拐ごっこ」の一般化である。ここで㊥と◎とに階級差別されるのは、エデ
ィター、医者、弁護士、ミュージツジャンといった「アiバン・プロフェッショナル
ズ」であり、より正確には、わたしが「情報依存型中間層」と呼ぶところの人々であ
る。彼や彼女らは、既存のマス情報によって自己をアイデンティファイしているとい
う点です」べて情報依存の階級であり、それが本書では㊧と◎の二階級に区分されてい
るのである。
 人々をいくつかのパターンに分類することは、この数年一つの流行になってきたが、
それらはまだ単なる情報遊びにとどまっていた。そこでは、情報としてのファッショ
ンや持ちものを変えれば「階級」を選びなおすことができたのであり、階級の下部構
造はほとんど無規定だった。しかし、これが『金塊巻』では、カゴ、、、とイラストによ
って最低限一人は実在すると思われる㊥と◎のモデルを想像できるようになっており、
両者の経済格差も明確に例示されている。むろん、この経済的な規定は、「下部構造」
               てい
が「上部構造」を規定するといった体のものではなく、いくら金があってもそれだけ
では㊧にはなれないし、また意図的に貧乏になっても◎であることにはならない。し
かし、また、㊥と◎の情報的な規定だけをいくら模倣しても、収入や家屋などの経済
的規定がそれにともなわなければ㊥にも◎にもなれないのである。
 それゆえ、情報と経済とが補完しあって現状を固定させているこの『金塊巻』が教
えるのは、新しい階級闘争の形態ではなくて、現に定着しつつある階級制を温存した
ままで現状を楽しむ階級闘争ゲiムのやり方である。しかし、今日の階級闘争は、情
報価値が既存の経済価値によっていちいち保障されたりしないようなところで起こっ
ているのであり、その意味ではたとえば、一種の「誘拐ごっこ」から始まったグリ
コ.森永.ハウス事件でどのような階級と階級とが闘っているのかを考える方が、㊥
と◎の差別ゲームにふけるよりも、今日の情報的階級闘争をもっと可視的なものにし
てくれるだろう。





「ポルノ」の国家主義をこえて



 海外から成田空港に到着して、荷物を受け取ったあと、やや騰踏した面持ちでトイ
レに向かう人をよく見かける。この人がトイレに行くのは、生理的な用を済ませるた
めではなくて、せっかく海外で高い金を出して買ってきたカラーの写真雑誌を捨てる
ためである。空港の方もよく知ったもので、それ専用の投入箱を用意している。その
大きさから見て、毎日相当数の人がこのもったいない行為をくりかえしていると思わ
れる。
 言うまでもな/\彼らがこんな行為に走るのは、バッケイジ・クレムの次にひかえ
る税関チェックで、その雑誌が「ポルノ」としてひっかかり、係官からあれこれ文句
を言われた後、それを取り上げられてしまうからなのだが、考えてみると、これは民
主主義国家の市民のやることではない。われわれは、憲法第二一条にもあるように、
「表現の自由」を保障されているはずなのに、「ポルノ」を個人的にながめることも許
されないのである。
 しかし、いまかりに、日本が民主主義国家ではなく、憲法を守らないファシズム的
な国家だと仮定した場合、それに全く抵抗せずに従ってしまうというのは、市民とし
てハレンチなことである。いま、「ポルノ」が女性の権利を侵害するものだといった議
論はひとまずおくならば、あなたが「ポルノ」を見たいという欲求は、市民の権利と
して保障されるはずだ。
 それに、当局は、女性の権利を保障するというような〈高尚〉な理由で「ポルノ」
を取り締まっているわけではない。第一、あなたは、「ポルノ」を当局が勘ぐるような
「狼嚢」な目的で使用するのではなく、性風俗や女性差別の研究のために使うのかも
しれない。あなたが「学者」の看板をかかげていないにしても、あなたは憲法第二三
条にある「学問の自由」を保障されているはずではないか。またしても、日本国家は
憲法違反を犯しているわけだ。
 そこで、税関であなたの持ちものが「ポルノ」だと指摘されたときには、「それがど
うしましたか?」と応えることにしよう。あなたは表現の問題に関わっているのだか
ら、あなたの欲求を表現することに臆することはない。すると、税関の係官は、一瞬
とまどった顔をしたのち、居丈高に、「あんたのやってることがどういうことだかわか
るだろうη」と言うはずだ。しかし、そんなおどしに気を弱くしてはいけない。あな
たは、ロバート・テニ一i口のような笑いをくずさずに、「ですから、これがどうして
いけないんですか?」と言ってみる。もしあなたが、民主主義的な法治国家の市民で
あるという確信を決して失わないとすれば、あなたは最終的に、係官に対して、問題
の印刷物を輸入できない法的根拠を提示することを求めないではいないだろう。
 それは、十分に試みがいのあるパフォーマンスだ。「こいつ頭がおかしいんじゃねえ
か?」といった顔で係官があなたに提示するのは六法全書であり、そのうちの関税定
率法第二一条第三項であり、そこには「風俗を寄すべき物品」を輸入することはでき
ないと記されている。文書を見せられるとついつい納得してしまいがちなわれわれは、
ここでよく考える必要がある。一体、「風俗を害する」とはどういうことなのか、と。
むろん、それは大問題だ。そこで、その問いを税関の係官にぶっつけてみる。「そんな
の常識じゃないの」などという答がかえってきたら、あなたは半分以上勝利したこと
になるだろう。法律の番人が法の施行を「常識」にゆだねてはならないからである。
 ここまでくると、係官は面倒臭くなって、「とにかくこちらのやり方に文句があるの
なら、『異議申立』をしてください」と言いだす。しかし、ここでも若干の注意を要す
る。「ポルノ」を所持した旅行客が、型通りの威嚇で落ちないとみると、税関の係官
は、用紙を出してそれに署名させようとするが、そこには、①廃棄②次の出国まで保
管③異議申立の三つの選択があり、「ポルノ」でひっかかった者は、どのみち、この
書類にサインさせられることになる。が、これは向こう側の都合であり、こちらには
その義務はないのだから、これは断固として拒否しよう。それに、あなたの所持晶を
「ポルノ」だという言いがかりをつけたのは税関の側なのだから、それを前提としたう
えでつくられた三つの選択の一つを選びサインすることは、相手の言いがかりを認め
てしまうことになる。こんな汚いやり口にひっかかる手はないではないか。
 まあ、忙しいあなたは、こんな青くさいパフォーマンスを演じている暇はないかも
しれない」が、やってみると当局の意外な弱点と矛盾が暴露されて痛快である。





「運動コンプレックス」の必要



「全共闘」に関する書籍がたてつづけに出版された。マス・メディアでは早くも「学
生運動の再燃」をとりざたする者もいる。むろん、そんなものは起きてはいない。
 広告の専門家に言わせると、日本のように情報のチャンネルが多様化し、しかもそ
れが中央集権的に統合されている社会では、ブームをひき起こしたり、スターやアン
チ・ヒーローをでっちあげたりするのはさほど難しいことではないという。
 しかし、このような発想には、マス・メディアヘの過信とともにそのオーディエン
スに対する侮辱が横たわっている。どんなに仕掛けようとしてもブームが起きない例
はいくらでもある。「ジャパネスク」は、広告宣伝企業とマス・メディアがかなり熱心
にキャンペーンをはったが、さっぱりブiムにはならなかった。ニーズや無意識の欲
求が全く潜在しないところでブームを起こすことはほとんど不可能だろう。
 笹川良一氏のテレビ・コマーシャルの例を見るまでもなく、メディアにたびたび登
場するからといって、それがブームであるということには決してならない。最近出た
全共闘関係の本の大半は、ブームに便乗して出されたものであるよりも、むしろ全共
闘の歴史とドキュメントをまとめておきたいという編著者たちの情熱から生まれたも
ののように思われる。しかも、いまわたしの手元にあるそうした本のうち、『イラスト
レイテッド全共闘』一KKベストブック一、『全共闘グラフィティ』薪泉社一、『生きいそぎ
の青春』一講談杜一、『銃撃戦と粛清 森恒夫自己批判書全文』薪泉社一、『新左翼理論全
史』一新京杜一には、編者や著者として高沢皓司の名が見え、全共闘関係の本がごく限
られた人々の努力で世に出たものであることがわかる。
 全共闘の活動家たちが街頭で展開した闘争の写真を収めた『全共闘グラフィティ』、
『全共闘イマジネイション』一現代書林一、『月刊近代麻雀』二月二九日増刊号「命燃ゆ青
春 ザ・全共闘」が続けて書店に姿を現わしたとき、ある知人は皮肉な口調で、この
種の写真集は「元全共闘の活動家が、子供をひざのうえにのせながらページを開き、
『ここにおとうさんがいるんだよ』って言うためのものなんだってね」と語った。し
かし、これらの本を一度でも手にしてみればわかるように、現物自体はあまりそのよ
うな目的には向いていない。
 高沢皓司は、『全共闘グラフィティ』の「後記」で、「全共闘運動は個の主体性によ
って支えられた運動であった。だからどのようなかかわり方があったとしても、それ
はそれでよい。ただ十何年かがたって、無用のおしゃべりをする者たちがやたらと目
につきはじめた。面白いじゃないか、しばらくのあいだなら耳をかしてやろうじゃな
いか、という思いがどこかにある。おしゃべりは、ものの見事に十何年かがたって、
語り手とあの時代とのかかわりをさらけだしてくれる。《敵》が見つけやすくなった」
と言っているが、さいわい、これらの本−上記のほかには、植垣康博『兵士たちの
連合赤軍』一影流社一、『全共闘 解体と現在』一増補版、田畑書店一をあけておく一は、
決して全共闘についての「無用のおしゃべり」ではない。これらの本は、全共闘運動
について全く知識のない者に対しても、その経過を通観させ、その歴史を追体験する
手がかりを与えるはずである。
 ただ、」あえて難空言えば、これらのドキュメントでは、全共闘運動の文化的側面が
ほとんどあつかわれていない点であろう。全共闘への新たな関心が、単なる「ブーム」
や風俗に終わらないためには、この運動が広く一般の生活や文化に与えた影響につい
ても十分に論じられなければなるまい。
 全共闘関係の本が続々と現われたのは、ある意味では、全共闘についての「無用の
おしゃべり」が激しくなったことへのリアクションだったかもしれない。が、同時に
「無用なおしゃべり」は、これらの本が出るにつれて一層激しくなっていることも事
実である。全共闘への率直な関心が少しずつ深まる一方で、全共闘に対する明確な拒
否反応も強まっている。それは、「拒否反応」という言葉に含まれる嫌悪や反発を露
骨に出さない点で、むしろ全共闘の歴史の忘却ないしは無視と言いなおされるべきか
もしれない。いずれにせよ、全共闘がある程度ふたたび社会化しはじめていることは
たしかであり、これを社会現象としてとらえることによって今日の日本の状況を照ら
し出すことが可能だろう。
 全共闘への関心の復活は、高度経済成長の終焉と管理社会の固定化がいよいよ明確
になってきた状況で、現状の打破を願望する体制自身と市民との両方の隠れた欲求に
根ざしているという解釈がある。いまでは企業の組織の中堅となっている全共闘世代
が、新入社員や学生に、「デモやってドンパチするぐらいの根性がなけり平どうしよう
もないよ」と言ったり、市民の側も、演出された祭りではなくて、自然発生的に起こ
った反乱で街の二部が、一つの解放区のようになってしまうようなハプニングでもな
ければ、生活が退屈でやりきれないといったムiドが蓄積されつつあるというのであ
る。
 たしかにそのような動きはないわけではない。市民が造反や反乱を求めることは、
管理や支配が存在し、それが決して手を抜く方向へは向かっていない以上、決して衰
えることがないし、かつて杉本良夫が英文の『戦後日本における大衆反乱』(ユイシア
ン・リサーチ・サiビス、香港一のなかで指摘しているように、他国に比して日本では大
衆反乱が少ないというのは誤りで、全共闘運動以後にもたえずさまざまな大衆反乱が
起こっており、大衆は決して「太平の眠り」をむさぼっているわけではない。個別的
な反乱が単なる偶然的な「トラブル」として孤立化され片付けられ、それらが社会の
大きな文脈のなかに関係づけられて政治化しないだけのことであり、また今日の管理
はそうした孤立化と分断の技術を相当程度高度化しているわけである。
 が、同時に、全共闘運動の「正常化」に成功した管理体制が、いまになってその管
理技術に限界を感じはじめていることもたしかである。それは、単に管理のレベルに
おいてだけでなく、経済活動全般に見られる傾向であり、たとえば通産省がまとめ役
になり稲山嘉寛(前経団連会長一をはじめ日産自動車、日本電気、新日鉄、三菱重工
などのトップ経営者を理事にすえた「企業活力研究所」が設立されたのもそのためで
ある。ここで行なわれる研究テーマに「全共闘」が入っているかどうかは不明だが、
こうした動きが、いままさに日本の社会経済システムがある種の内部活力を必要とす
る段階に達していることの一つの兆候であることは容易に理解できる。
 しかし、全共闘運動は、高度経済成長と歩調を合わせて発展し休止したことが事実
だとしても、それははじめから日本経済の活性剤として開始されたのではないし、今
後そのようなものとして活用されることを待っているわけではない。全共闘運動は、
ベトナム反戦、日米安保条約反対、大学の管理体制と学問の権威主義への異議申し立
てとその解体、日本列島とアジアを経済的・文化的に侵略する企業への批判とその主
導原理をなす天皇制への反対、そうしてこのような体制のなかで生きている学生と勤
労者の自己確認、さらにはこのシステムのなかで制度化しているのとは根底的に異な
る共生の方向(コミュニズム)、等々を求めた未完の運動であった。
 それは、たしかに,高度経済成長かつくりありつつ麦一一た一隻カち祖姜Lカそホと
ひきかえに尤進させた諸矛盾の欝積を一挙に放出させるとともに、来るべき社会にお
いて大衆にある程度の放縦を許した場合、体制がそれにどこまで耐えることができる
かをチェックする耐性実験の役割を果たしもした。が、重要なことは、この運動が決
して体制の挑発や操作のなかから出てきたものではなく、体制の意志に反して増殖し、
体制はそれを弾圧し、とりこむなかではからずもそこから活力を得ることになったと
いう点である。
 その意味では、全共闘運動はそれ自身の論理によって自動的に武装闘争や爆弾闘争、
さらには「私刑」や内ゲバに向かっていったのではなくて、それが権力によって抑止
され弾圧されるなかで、そのような孤立化に追いこまれたのである。むろん、全共闘
運動にはさまざまな運動体と方向があり、この運動への人々の関わり方も多様であっ
たわけだが、「権力」とか「反権力」という言葉を使うことがひどく時代遅れであるか
のようになっている今日、とくに強調しなければならないのは、全共闘運動が反権力
の運動であったということである。つまり、権力がまずあり、しかるのちにそれに対
する異議申し立てと反対運動が生じたのだということである。
 国家や管理が存在するかぎり権力はつねに存在するが、もし今日、権力というもの
が見えにくくなっているとすれば、それは、反権力の運動が脆弱であるからであると
同時に、それを脆弱にできるほど権力が洗練され、したたかになっているからである。
 しかし、他方において、反権力の運動は  たとえ目立った形では現われないにせ
よ  つねに存在していることを忘れてはならない。それは、権力が存在するかぎり
存在するのであり、あなたが何らかの権力一それが、男性の女性に対する権力、大人
の子供に対する権力、自動車の歩行者に対する権力といったものであれ)を発見する
とき、それがすでに潜在的な反権力運動なのである。
 そうしたミクロで個別的な運動が集団的に組織され、通常の意味での「運動」とな
るにつれて、そこに反権力の運動ではなくて、もう一つの権力  実体としての権力
  を生んでしまうことがある。連合赤軍事件は、まさにその一例であり、この事件
は、「企業爆破」や党派の内ゲバとともに、全共闘運動の批判につねに格好の素材を
提供してきた。
 しかし、全共闘運動の批判は、それが権力化したことへの批判であるならばなおさ
らのこと、権力への批判として行なわれなければならない。権力は、その全体を根底
から批判されるのでなければ決してゆらぐことはない。権力は、その力を分権化し、
その批判を個別化することによって批判を骨抜きにするからである。
『兵士たちの連合赤軍』には、ほんの些細な言葉を発したことから「私刑」にエスカ
レイトしてしまう信じがたい世界が克明に描写されている。それは、たしかに恐るべ
き「権力」の世界である。しかし、これを単に「狂気集団」の行為として批判するの
では、そこに権力の存在を見出すことはできないし、ましてそこで行なわれた反権力
の運動(そんなものは最初から存在しなかったと言うことは背理である一を抽出する
こともできないだろう。
 その点で、『兵士たちの連合赤軍』は、それが小説風の散文で淡々と事実を報告し
ているため、読者はそこに「兵士」たちの「敗北」とはちがったプロセス  つまり、
権力が彼や彼女らをどのようにとりこみ、孤立させていったか  を読みとることが
できる(実際に、警察は、連合赤軍の「兵士」たちが山越えのなかで同志を「処刑」
していることや、彼らがやがて浅間山荘に到達するであろうことをあらかじめ察知し
ていた)。
 全共闘運動への関心が高まることは、それを無理やり「総括」(粛清)して忘れ去る
よりもはるかに好ましいことである。三浦雅士は、「これまでどのようにも総括されえ
なかった全共闘運動」が浅田彰によって「はじめて総括されうる」と言い、浅田自身
も、全共闘運動に遅れて来た「若者」がそれにコンプレックスをいだくのは無用なこ
とだとくりかえし述べているが、なぜ三浦はそんなに「総括」を急ぐのだろう? 全
共闘運動が単なる党派の占有物でも、また狭義の「活動家」にとってのみ意味のある
活動だったのでもなくて、これからもたえず追体験され、再把握されるべき歴史的出
来事だとすれば、そのことをまだ経験(体験ではない)していないことにうしろめた
さをおぼえることは、むしろ歴史感覚の繊細さの表われである。
 その意味では、われわれは「コンプレックス」をあっさり振り捨てるよりも、むし
ろ、全共闘運動にだけではなく、全学連運動にも、また六八年のパリ五月革命にも、
七〇年代後半のイタリアのアウトノミア運動にも、「コンプレックス」をいだく必要
があるのであり、さもなければ、われわれは、われわれ自身の歴史を失い、わが身を
権力に同化させて全くの自律性を失ってしまうのである。
 連合赤軍の最高指導者で、逮捕後、東京拘置所で縫死した森恒夫は、その自己批判
文のなかで、「私自身が共産主義者としての広い、深いプロ人問性を持っていなかった
事、にもかかわらず、この事を根底的に総括  自己批判せずに、政治上の総括一表
面的なぞれ)に全てを還元して、その中に安住し、自らの小ブル的、非同志的なサイ
キ心を拡大していった事が、最も中心的な誤りなのである」と書いているが、連合赤
軍事件は、そのような「自己批判」だけでは、決して「総括」されないだろう。この
「自己批判」は、「自己」をそのような状況に追いつめていった権力総体の批判にまで
達するのでなければ、「自己」を権力から解放することはできない。





3
現状確認のための八つの断章



1 日本国憲法第一条によると、天皇は「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」
であるとされている。ということは、日本国および日本国民は、「象徴」の存在なしに
は「統合」されえないように定められているということである。しかし、「国家」や
「国民」は必ずしも「象徴」による「統合」や「管理」を必要とはしない。国家と国
民が存在するかぎり、統合と管理が存在しつづけることは言うまでもないが、そのた
めに「象徴」を用いる統合・管理のなかでは、民衆や人民が「国家」や「国民」とい
うものがもつ自己閉塞性や均等的拘束性をみずからうち破る可能性はむろんのこと、
国家自身が−「進んだ」国家管理に見られるように−そうした自己閉塞性や拘束
性を自己延命の活性化のためにつかのま〈武装解除〉する可能性も、あらかじめきっ
ぱりと排除されている。
2 国家や国民が存在するかぎり、統合・管理は不可避的であり、国民が何らかの象
徴をつくり出すことを避けることはできない。実際、マス・メディアとともに国民が
生み出す「国民的スタi」というものは、まさにそうした象徴である。しかし、どん
なにマス・メディアに操作されたとはいえ、依然として自発性のレベルが存在するこ
のような国民的象徴作用と、あらかじめ定められた象徴11天皇によって象徴作用が行
なわれるのとでは全く意味が異なる。ここではあらかじめ一方的に「国民的シンボル」
が定められてしまうのであり、象徴作用に国民の自発性が介入する余地が排除されて
いる。そのため国民は、この象徴作用に無抵抗に屈従するか、憎悪、軽蔑、忘却といった
屈折したやり方で《自発性》を発揮しながらこの象徴作用に従うことになる。
3 資本主義システムが電子テクノロジーという新しい生産手段を掌中にすることに
よって、国家と国民の概念が変わらざるをえなくなった。これまで国家と国民は、前
者が国土とともに、後者が民族とともに表象されることも可能であったが、いまや国
家や国民は、地理的国境を越えて飛びかう電波や経済活動のように、電子的な時間持
続のなかで実存する。国境は電子情報化し、その国境線は、世界の軍事通信システム
やテレコミュニケイション・システムのなかで明確にされる。肉眼にとって可視的な
軍事行動や経済活動も、肉眼には不可視な電子領域の結果となり、可視的な戦闘のま
えに電子的国境をめぐる熾烈な闘いが火ぶたを切る。こうした電子国家や電子的国家
主義にとって、電子的に持続するのではない諸制度は姪桔となる。国家の終身的な元
首や永世的な「象徴」は、次第に国家そのものの阻害要因になるだろう。というのも
彼らは、いかにその人格性を抽象化されたとしても、どこかに生ける人格を浅さざる
をえないから、いわば電子操作によってその有効領域を必要に応じて拡大・縮小する
ことができないからである。
4 その意味で、いま天皇制の問題を最も深刻に受けとめているのは、天皇を君主と
して再人格化しようとする天皇主義右翼でも反天皇主義左翼でもなく、むしろ軍と企
業の「先進的」部分である。軍にとって重要なのは、国土であるよりも防空帯域であ
る。彼らは、たとえ国土が核爆発で消滅しても自己の防空帯域だけは死守しようとす
るだろう。多国籍企業にとって、国益とは、国境を越えた活動を保障するための方便
にすぎな。い。こうした状況のなかでは、旧来の天皇主義的国家主義や国益優先ナショ
ナリズムは、「自由」な軍事活動や企業活動の邪魔になる。このことは、ますますエス
カレイトする軍拡と経済侵略にもかかわらず、天皇主義がそれらと明確に結びついた
形で社会の前面に出ることが少なかったことを説明するだろう。とはいえ、このこと
は、日本の国家権力にとって天皇制が不要になったということを意味しない。それは、
非常の事態にはいつでも動員できる国民統合の装置としては依然有効である。
5 つねに可視的なものとしての天皇制は電子国家主義を阻害するが、電子的に持続
する天皇制は権力の現在に逆行しないばかりか、電子国家主義が機能しなくなったと
きにいつでもその代わりができる統合手段に国民を普段から慣らせておくために、む
しろ必要である。テレビは、一九五〇年代に放送を開始して以来、こうした機能を純
化させてきた。いまや、Xデーにおけるテレビの見方は完全に学習された観がある。
Xデーには、テレビとラジオは天皇問題の報道だけに終始するはずだが、その報道に
対して無関心でいるような「非国民」の数を最小限におさえるXデーの教育が日常化
しつつあり、それは、ロッキード事件や「疑惑の銃弾」事件に見られるように、確実
に効果をあげている。
6 Xデーにおけるファシズム的報道管制は、放送局を不幸な闘争場にする可能性が
ある。しかし、放送局を占拠することは、右翼クーデタiの発端であり、国民H視聴
者がテレビを「御真影」と化し、いかなる番組のなかにも「われらの天皇」を象徴的
に知覚するほどテレビ天皇制に毒されてきている現状では、たとえXデーにテレビ放
送が途絶するとしても、国民1−視聴者はブラウン管のなかの  番組の全く映ってい
ない1走査線のなかに「天皇」を知覚してしまうだろう。また、xデーの当日に、
Xデiをはるかにうわまわる大事件が起こり、その報道のためにXデーの「メディア
戒厳令」が解かれるというようなことがあるとしても、国民がこぞってテレビを見る
ということ自体がテレビ天皇制である以上、国家はそれによってメディア戒厳令以上
の効果をあげることになる。
7 象徴天皇制が文化として日常性のなかで全般化するにつれて、左右両側で、現存
する文化装置の一切を破壊しなければならないとする冒険主義が台頭する。放送や出
版の装置の破壊と否定がその最も考えやすい形態であり、その一部は  たとえば右
翼天皇主義者による言論介入などの形で  すでに現われつつあるが、今日の国家は、
左右の反対勢力をここまで追いこんでいることを十分に承知しているだろう。むしろ、
国家は、一左右の冒険主義者たちが、メディア装置をあたかも決戦場と考えて激突を敢
付することをひそかにうながし、両者を相殺することを計算に入れているだろう。そ
して現実には、それによって抹殺されるのは天皇制に反対する左翼の方である。その
ために、国家はいま天皇主義者を援助して強化する一方で、反天皇主義者をもあの手
この手で不毛な〈冒険主義〉に追いつめようとしている。
8 XデーがXデーとして機能しないためには、日本国憲法からその第一条がなくな
る必要がある。それは、国民投票によっても不可能ではない。しかし、そのような運
動が生ずるためには国民がテレビ天皇制から解放されなければならないだろう。天皇
家とは、日本の多くの家のなかの特権的な家柄であるが、それが単なる特権的位置に
とどまらず、さらに超越論化されることによって、天皇は人格を剥奪され  という
よりも多人格化され1まさにテレビのブラウン管のなかの芸能人と同じように、崇
拝、同情、同化、軽蔑、憎悪、潮笑……つまりはあらゆる客体化の対象となるように
なる。日本では、芸能人であるということは、客体化できる部分はことごとく視聴者
の目のまえに晒すことができる象徴的存在であるということを意味するが、天皇制は
まさにこうしたテレビ芸能文化を基礎づける形而上学であり、天皇制は芸能文化によ
って自己をたえず再生産しているのである。





電予国家論の必要



 ラジオを聴きながらヨーロッパを歩きまわると、そこには地理的な国境とは別に、
電子的に形成された国境があることに気づく。たとえば、ベルリンには厳然と東西を
分ける国境線が視覚的な形で存在するが、ラジオの世界ではそのような区画は全く意
味をなさない。また、ルクセンブルグという地理的には非常に小さな国から放送され
るラジオ・ルクセンブルグの放送は、パワーが強力なこともあり、五、六カ国にまた
がる多数のリスナーをもっている。
 ということは、今日の国家概念を問題にする場合、こうした情報環境論的な視点も
必要だどいうことであり、今日のように電子的な〈越境〉が複雑に進んでいる状況で
は、そうした視点なしには国家の実存がつかめないと思うのだ。
 ある意味では、二〇世紀の国家はラジオによってつくられてきた。『言語』二九八五
年一月号一の「大特集・昭和語小辞典」には、この六〇年間にマス・メディアのなかに
現われては消えていった流行語が六〇語ほど集められており、その選択がなかなかク
リティカルでおもしろいのだが、一九二八年の項に「全国のミナサン」というのが挙
げられている。これは、同隼一一月一日からNHKラジオの全国ネットが完成し、そ
のレギュラi番組で江木理一が「全国のミナサン、お早うございます、朝のラジオ体
操をご一緒にいたしましょう」と毎日くりかえして言っているうちに定着したものら
しい。
 ラジオ放送は、すでに三年まえの一九二五年から始まっていたが、その規模はまだ
全国的ではなく、ラジオがつくる情報環境は地域的だった。全国ネットのプロジェク
トの大義名分は、一九二八年一一月一〇日に京都の紫寝殿で行なわれる昭和天皇の「即
位大礼式」を全国に中継放送することであり、いわば大礼式典をラジオが利用した形
になっている。
 しかし、現実には、この放送によって「全国」という観念が実体をもつようになっ
たのであり、その回路を通じて天皇が全国的なイメiジをもつようになったのである。
 前述の特集の「大日本帝国」という項で平明に述べられているように、「大日本帝
国」や「天皇」という言葉が国際条約や大公使信任状のレベルで統一的に用いられる
ようになるのは、一九三〇年代になってからのことだった。外務省は、一九三六年四
月一八日、これらの語を「国号と御称号」として用いる旨を公式に発表する。「全国の
ミナサンしによると、『大日本帝国憲法』と同時に発布された「皇室典範」では、前文
で「日本帝国」が、第一条で「大日本国」が使われ、まだ統一が保たれてはいないと
いう。
 現行の「放送法」第七条には、「日本放送協会は、公共の福祉のために、あまねく全
国において受信できるように放送を行うことを目的とする」一傍点引用者一とされてお
り、NHKが国家・メディアであることを明確に規定している。すでに政府は、放送
法を含む電波法全体の改正を目標にした再検討をはじめた。
 これは、テクノロジーの〈発展〉によって変化しつつ一ある経済・情報環境に対応す
る処置だと一座言うことができるが、これは、同時に、六〇年続いてきた昭和天皇国
家体制の再編ないしは変革が、いま具体的にはじめられようとしているということで
ある。はたして、エレクトロニックニアグノロジーは、現天皇制の統合的性格を変え
ることができるだろうか?





「天皇制はなぜ良いのか?」



「ニュージャパノロジー』一五月社一の巻頭座談会(笠井潔、中沢新一、小阪修平一を読
んでいたら、中沢新一が「いままで、天皇制悪いということで来てたけどそんなもの
もう通用しないよ」と言っているのが目をひいた。
 このごろのアメリカ映画を見ていると、反共がなぜ悪いの、性差別がなぜ悪いの、
家族や結婚がなぜ悪いの、「マテリアル」であることがなぜ悪いのといった、丁度一九
六〇∫七〇年代のひっくりかえしの発想が続々と現われて、時代の推移を感じさせる
が、中沢新一の発想も、こうしたニュー・ライトやネオ・コンサーヴァテイズムと
く横断的yに連動したポップな発想なのかもしれない。
 しかし、アメリカの新右翼や新保守主義にくらべて、天皇制の擁護につながって行
く日本の新右翼や新保守主義は、はるかに根が深く、一旦登場すると、行くところま
で行く。とすれば、すでに中沢的な発想が現われた以上、それは行くところまで行く
だろうと思われる。状況は、おもしろくなってきた。
 わたしは、天皇制と天皇主義とを区別すべきだと主張した。天皇制とは、天皇家文
化と天皇主義を素材にして近代的なやり方で構築された国家体制である。従って、天
皇制を古代や中世の天皇家文化や天皇主義と連続したものとして論ずることはできな
い。とりわけ戦後の天皇制は、天皇家文化や天皇主義にとっても不利な側面をもって
いるわけで、天皇主義右翼が象徴天皇制に反対する理由もここにある。
 この辺の問題を中沢は明確にしていない。そのため、象徴天皇制の問題を全く無媒
介に、網野善彦が『日本中世の非農業民と天皇』一岩波書店一で論じた天皇家文化や天
皇主義に短絡させてしまう。これは、中沢の戦略かもしれないが、そうだとすれば、
天皇制が日本文化の民俗学的・宇宙論的構造に根ざしていることを強調することによ
って、天皇制の否定を無意味にしようとした民俗学者の天皇制擁護と何ら変わるとこ
ろがないだろう。
明のように日本文化の〈原流〉を天皇家文化以前のあるいはそれからはずれた1た
とえば弥生時代や南島の文化  に求める発想があるが、どちらも現にある天皇制か
ら目をそらさせる社会機能しか発揮しない。天皇家以前にどんな文化があろうと、ま
たそのかたわらにどんな文化があろうと、天皇制が天皇家文化を地盤にして再構築さ
れたことには変わりはない。
「天皇制は戦争したから悪いとかさ、そういうこっちゃないと思うね」と中沢は言う。
しかし、戦争した天皇制は、やはり「悪い」のではないか? 「良い」「悪い」を超歴
史的に問うことはできない。問題の天皇制は、あくまでも歴史的な概念だ。中沢は、
いまごろになってあたかも「天皇制が悪い」ということが戦後民主主義のなかで前提
されてきたかのように言っているが、事実は、「天皇制は良い」としてきたのが戦後
民主主義の《無意識〉であり、天皇制の戦争責任をまともに問わずにきたのが戦後民
主主義なのである。
 それゆえ、論じられなければならないのは、「天皇制はなぜ悪いのか」や「天皇制は
なぜ良いのか」ではなくて、日本国家はなぜ天皇制である必要があるのかであり、民
俗学者は、むしろ天皇制が天皇や天皇家文化をいかにダイナシにしてきたかを明確に
しなければならないと思う。





鋳物師の連帯の象徴


 歴史を一度徹底的に技術ないしはテクノロジーの側からとらえなおしてみたいとい
う欲望をつねに感じている。
 細野善彦の『日本中世の非農業民と天皇』一岩波書店一によると、中世前期に農具、
鍋、釜などの生産に従事していた鋳物師は、同時代における最先端のテクノロジーの
専門家であった。たしかに、鉄の鋳造技術がヨーロッパで普及するのが一四∫一五世
紀以後であることを考えると、鋳物師が自由にしていた技術は、今日のコンピュータ
ー技術者のそれをはるかにしのいでいるはずだ。
 内藤正徹によると、山伏は単なる呪術集団ではなくて、山中の資源を握る技術者集
団だったという一『ミイラ伝説の研究』大和書房)。その場合、金属資源もさることなが
ら、古代から中世までは少なくとも、樹木は最上の資源であり、ある時期には樹木が
最も新しい「素材」であるということもあったにちがいない。今日のニュiメディア
よりもはるかに大規模なブームであったはずの仏教が伝来したとき、仏像や寺院を建
立し、都市を造営するために必要だったのは木材であったが、それは、今日のプラス
ティックであり、半導体であり、光ファイバー・ケーブルだった。
 こうしたテクノロジーの歴史状況を顧慮すると、網野が指摘しているように、「古代
以来手工業者が多少とも賎視の対象とされてきたというこれまでの見方」とは反対に、
鋳物師が天皇家とのつながりを少なからずもっていたという指摘が、歴史的な事実で
ある以前にすでにリアリティをもってくる。というのは、歴史的に天皇家はつねに技
術的に最先端の部分に敏感であったし、そのような部分をいち早く取り入れてきたか
らである。
 ただ↓、鋳物師は、それがやがて「職人」となり、その技術が「芸能」と呼ばれる
ものになる以前には、天皇に対して比較的自律した位置に身を置いており、近代の天
皇制においてテクノクラートが天皇に完全に従属してしまうのとはいささか趣を異に
したと思われる。
 むしろ彼らは、諸国を広範囲に遍歴し、行商するために、「交通路に対する支配権を
もつ天皇」を利用したのであり、だからこそ、彼らの売りものにするテクノロジーが
時代とともに古びてきて、「先端技術者」としては後退しはじめたとき、天皇への依存
をより強めてゆくのである。網野によると、室町・戦国期に入るにつれて、天皇に関
する「職人」の所伝には、「正当な文書に姿をみせる天皇自体が神話・伝説上の人物に
なってゆく傾向」と、「天皇、皇族に仮託した偽文書が作られるようになる方向」が強
まるという。つまり、「職人」はいまや、超越的な存在としての天皇をいただいて説話
を仮構する「芸能」者となるのであり、時代の先端からとりのこされつつある自分た
ちの過去の「栄光」と「その生業の起源を天皇の名において正統化しようとする」わ
けだ。
 ここで唐突にも思いうかべるのは、現憲法における天皇は「日本国民統合の象徴」
というくだりにおける日本文とその基礎となった英文との重大な食い違いである。英
文では昌一q(連帯)となっているところが、巨富宵凹巨昌にあたる「統合」になってい
るわけだが、「連帯」が人々の自律的な意志によってのみ可能なのに対して、「統合」
は、上から有無を言わせずひとまとめにする響きをもつ。それゆえ、中世の鋳物師に
とって天皇が、当初、「統合」の象徴ではなく、「連帯」の象徴だったことを思うと、
彼らはわれわれよりもはるかに自由な位置にいたことをうらやまないではいられない
のである。





「宇宙モデル」の機能と宿命



 出がけに届いた『思想」二九八五年五月号一に網野善彦と山口昌男の対談「歴史の想
像力」が載っていたので、旅先まで持ってきた。いま、それをシドニーの或るコーヒ
ー・ショップで読み終わり、この原稿を書いている。横のテーブルからオーストラリ
アなまりの英語がきこえ、うしろからは抑揚の激しいイタリア語がきこえる。ガラス
越しに見える路上には、中国人が三人立ち話をしている。
 国語を排し、多言語主義を推進しようとする動きすらあるオーストラリアで天皇制
のことを考えるのは、いささか馬鹿らしい気もするが、この対談には、天皇制の根本
的な問題について考えさせる部分が随所にある。
 ただし、ディスカッションというとすぐ「劇的」な対立が起きやすい環境にいまわ
たしがいるせいか、明らかに相反する天皇制観に立っている両人が、一見和気あいあ
いと話を進めているように見えるのが、幾分歯がゆかった。別にトゲトゲしくやる必
要はないが、もう少し「劇的緊張」の演出があればおもしろかったろう。
 さり気ないやりとりのなかには、むろん、重大な「対立」と差異が存在する。それ
を明確にしようとする点では、網野の方が「挑発的」である。
 網野は、これまでの天皇論が「バフォiマンスをする天皇こそ天皇の本質」だとす
る立場と、「権力をもつ専制的な天皇こそが天皇の本質」だとする立場とに区別される
とし、山口が前者の立場に立っていることを山口自身に認めさせている。そして、山
口自身にその天皇Hバフォーマー論を展開させたうえで、「いまの山口さんのお話は、
象徴天皇制のあり方を解明する上には有効だし、いま天皇護持論者はもっぱら不執政
論、儀礼主催者の側面を前面に押し出して、来るべき『代がわり』にそなえて必死に
なっているわけだから、その足元をすくうためにはもっと天皇のパフォーマンスの深
部を白日にさらす必要がある」と言う。これは、結果的に痛烈な山口批判である。
 山口昌男の天皇論の新しさは、山口自身が言っているように、「権力がまずこちら側
に内在しているものとして天皇の権力というものを考えなくては、もはや天皇をとら
えることはできない」という点を洞察したことだった。その結果、天皇制は、「一人の
王の体の中で宇宙の原理が体現されているという」「一つの文化における宇宙モデル、
世界モデル」として論じられた。
 しかし、問題は、このような天皇論によって、ある時代にばく権力者〉であり、他
の時代にばく遊行者〉でもあった天皇の機能の一貫性が明らかになりはしたが、同時
にこの理論が天皇制を、超えることのできないものとして普遍化することにも役立っ
た点だ。
 それは、モデル化ということ自身がもっているアポリアであり、数学的自然科学に
対してフッサールが投げかけた批判と疑問の根底をなすものだった。フッサールの場
合、彼自身もモデル化を行なったが、彼は、自分の作ったモデルをみずから次々に解
体することで、それが一つの「権力」となることに対して彼なりの「責任」をとった。
 モデルは説明原理であって、応用原理ではないということ、モデルが解明されたシ
ステムは、一つの終末を示していること一山口昌男の天皇論が、もしこのような方
向からと」らえられるならば、事情は全く異なるものになるだろう。





夫皇制は民衆のものか?



 色川大吉著『天皇制と民衆』一一九八五年一を読む。この本は、東京経済大学内色川研
究室を発行元とする自費出版なので、普通の書店ではほとんど出会うことがないが、
力強い本だ。行間から色川の熱っぽい、しかも明快な主張がビンビン伝わってくる。
 本書で色川がくりかえし、くりかえし説いていることは、近代天皇制がいかに周到
に組織された支配システムであり、それがいまなお  色川によれば、ますます
効力を発揮しているという事実である。
 天皇制が日本人の民衆信仰の自然な延長線上に出来あがったものだなどというのは
全くのウソっぱちであり、「日本人の氏神信仰  これは祖先崇拝であって、ある意味
皇室の信仰や国家神道と全く関係のないものであった」、と色川は言いきる。関係のな
いものがあたかも関係のあるもののようになってしまったのは、そこに手のこんだ操
作があったからである。
 天皇制批判の多くは、このシステムの作られ方を見くびってきた。それは、明治の
支配構造を見くびることであり、今日の支配構造を甘く見ることだ。支配と被支配と
いった構図はもはや成り立たないなどとうそぶく者がいるが、そんな人は、千鳥ヶ淵
公園のベンチに一五分ぐらい坐っていてはどうか? あなたが、望遠鏡や長い筒のよ
うに見える何らかの物体を所持していないとしても、すぐ警官が近づいて来て、あな
たに職務質問をするだろう。
 近代天皇制の形成過程の舞台裏には、日本が「祖先教」の国だという認識から、こ
の特徴をつかんで国造りをしなければならないと説く穂積八束のような「優秀」なイ
デオローグが何人もいた。その「優秀」さは、最近、ニューサイエンスの側から天皇
制を論理的に正当化しようとしている清水博の比ではない。むろん、今日には今日で、
清水などよりはるかにく優秀Vな天皇制イデオローグがいるわけではあるが。
「天皇制は真の意味で日本人の心をとらえきることはできなかったしと色川は言って
いる。心をとらえきることができなかったにもかかわらず、あたかもとらえきってい
るかのようにしむけてしまうところには、当然矛盾が蟹積される。
 それは、国旗に対する誰でもが無意識に感じている抵抗感(これは、菊の紋が日の
孔より先の存在になっているところからくる)、海外で日本人同士が顔を合わせたと
きに一様に示すとまどい(これは、無理矢理天皇家の末端的〈一員〉にされてしまっ
ている日本人u日本国家人が別の社会的コンテキストのなかに入れられたときにいだ
く自己意識の素直な反応だ)などの形で現われることもある。





日の丸は菊の紋を消せるか?



 日の丸掲揚と君が代斉唱を国が国民に強制する動きが高まってきた。むろん、その
背後には、国家の再編成(その意味での新国家主義)があることは言うまでもないが、
ここには日本を「先進国並みに」しようとする意図も動いている。国旗を掲げ、国歌
を歌うのは、「国際的に見て」常識ではないかというのである。
 しかし、日本で国旗と国歌の問題がいつもすっきりしないのは、日本人が「国際常
識」を欠いているからでは全くない。そもそも、日の丸と君が代は国旗および国歌と
して憲法や法律で決められているわけではない。それらは、まだ国旗でも国歌でもな
いのである。
 そこで、自民党とその同調者たちは、それらを法的に国旗および国歌として定めよ
うというわけだが、おもしろいことに、それは、単に反国家主義者や大衆の反対によ
ってではなく、この国家の内的論理によって不可能となる公算が強いのである。
 口の丸と君が代の歴史については、『季刊教育法』一一九八五年九月臨時増刊号一のすぐ
れた特集に詳しいが、そこでも触れられているように、一九三一年という本来ならば、
日の丸の法律制定には好機と思える時期に、帝国議会に上程された「大日本帝国国旗
法案」が廃案となっている。君が代に関しても、歴代の政府は、結局、それを国歌と
して法制化することをネグレクトしている。なぜだろうか?
 端的に言って、日本で日の丸と君が代の問題がいつもすっきりしないのは、天皇制
がそこに介在しているからである。天皇制の側からすると、日の丸も君が代も、二次
的なものでしかない。天皇家は、それ自身の側から出てきたものしか認めないから、
天皇家にとっては、そのシンボルは菊の紋であって、日の丸ではない。日本国民であ
ることを証明する政府発行のパスポiトの表には、日の丸ではなく菊の紋が金色でプ
レスされている。国家のシンボルとして、政府自身が日の丸を無視しているのに、ど
うして国民がそれを尊重したりできるだろうか?
 そこで次の問いが生ずる。もし、政府の希望通り、日の丸が国旗として法的に定め
られた場合、パスポートの表の菊の紋は日の丸になるのだろうか? かつてのパスポ
ートの表紙は、紺色だったが、一九七〇年代の終わりごろから赤色になった。赤地に
金色の菊の紋というのは、天皇の自動車に付けられている旗と全く同じ配色である。
つまり、パスポートのうえでは、国家の天皇制化は強まっているのである。日の丸は、
それを逆転することができるのか?
 また、現在のところ、日の丸などどこにも見あたらぬ日本領事館の入口に光り輝い
ている菊の紋は、そのとき日の丸に変わるのだろうか?
 またさらに、君が代が国歌になったときには、君が代の「君」を天皇ではなく国民
と解釈し、先輩が後輩に向かって「君らの時代が永久に平和であれ」と呼びかける反
戦の歌として君が代が歌われてもかまわないのだろうか?
 日の丸の国旗化と君が代の国歌化のなかには、その推進者の一おそらく)意図しな
い逆説が含まれている。それらは、その意味で、もし徹底化されるならば、菊の紋を
国旗にしようなどという動きよりは、はるかにましな面をもっている。
 しかしへ他面では、国旗や国歌を制定しないということは、より未来的な国際常識
から考えれば、極めて先進的なことであろう。国家なんかにしがみついていると、国
家白体がこの先行きづまるだろうことは、はっきりしはじめているからである。





「日の丸」のネットワーク作用



「日の丸」の最も基本的な問題は、その赤い円のうしろに金色の「菊の紋」が隠され
ており、「日の丸」を振ることが「菊の紋」を振ることになってしまうことだろう。
 もし「日の丸」からこの隠れ「菊の紋」を取りはずすことができれば、「日の丸」の
機能は根本的に変わってこざるをえない。
 この点で一つの示唆を与えるのは、アメリカ合衆国の統治下にあったかつての沖縄
で、一九五〇年代半ばから一九六〇年代半ばまで進められていた「日の丸掲揚運動」
である。これは最近、新崎盛暉「沖縄はなぜ『日の丸』を掲げられないか」一『世界』、一
九八五年一一月号一によると、「日の丸」1−「菊の紋」掲揚推進派が沖縄−卒業・入学
式に「日の丸」を掲揚した公立校の数が最も少ない県1に「日の丸」掲揚を浸透さ
せるネタを提供したらしい。すなわち、「昭和四七年の復帰前には日の丸掲揚が大きな
高まりをみせた」のに、「現在ほとんど行われていないのには理解しかねる点がある」
(松永文相)というわけだ。
 しかしながら、沖縄は、周知のように、天皇家的文化とは一線を画するエリアであ
る。天皇制を強制されはしたが、それが「民族的エートス」と不可分であ■るといった
論理の成り立たないエリアである。それゆえ、国家は天皇を沖縄に「訪問」させ、天
皇家的文化のウイルスを最終的に定着させようとし、沖縄の人々はそれに反対してい
る。
 沖縄にとっては、「日の丸」の赤丸の下には「菊の紋」はないのであって、「日の丸」
は、国家のではなくて、民衆の旗になりうるものである。この点は、「本土」とは決定
的にちがうところである。そのような場所では、民衆の権利が他の国の権力によって
躁踊されるときには、「日の丸」が民衆的抵抗のシンボルになりうるのである。
 新崎盛暉が言うように、「沖縄の民衆が『日の丸』を『抵抗』や『解放』のシンボル
として選択していたのは、『日本人としての権利』が日本という国家のシンボルとと
の「日の丸」の掲揚が禁止されていた。
 旗とは、つねに何ものかについてのシンボルである。その図柄には、必ず別の図柄
が付託されうる。沖縄の「日の丸掲揚運動」のなかで「日の丸」を振った人々は、そ
の「日の丸」の図柄の下に沖縄の民衆の諸図柄を見、表象した。これは、アメリカ合
衆国で、その民衆が「星条旗」の下に、自分たちの州や出身地の文化的諸図柄をかい
ま見るのと同じである。
 問題は、この種のシンボルが、そうした民衆的な個々の図柄1つまりは文化1
をネットワークするのではなく、一つに統合してしまう働きをする点だ。シンボル自
体はネットワークの機能をもちうるものだとしても、これが国家という中央組織のシ
ンポルとなるときには、シンボルは統合機能しか果たさないことが多いのである。
 まして、この国家が天皇制という極めて中央集権的なシステムによって構築され、
しかも天皇を決定的なシンボル(象徴)として固定しているようなところでは、すべ
てのシンボル作用は何ものかについてのではなくて、あるもの(天皇)についての中
央集権的なシンボル作用とならざるをえず、それは決してネットワーク機能などもち
えないのである。
 ネットワーク機能をもちうるシンボルは、その「背後」をつねに空白にしておかな
ければならないからである。





天皇制のポストモダン化



 一九八五年には、たしかにさまざまな「右傾化」が進行した。たとえば、軍事費が
GNPの実質一%を超えたり「スパイ防止法」が国会に提出されたりして、あやしげ
な雰囲気がただよい出したと思ったら、「終戦記念日」に問に合わせたかのように、海
底に沈む戦艦大和のヴィデオ撮影が行なわれ、そしてついに首相と閣僚の靖国神社公
式参拝が実現してしまった。
 このままで行くと、やがて日本はふたたび「軍国主義」への道をつき進むだろうと
いうのば、しかし、単純すぎる発想だ。
 中曽根康弘が首相に就任してからやりはじめたことは、日本を戦前型の帝国にする
ことではなく、アメリカ型の帝国にすることだった。そこでは、決して天皇制や皇国
思想は否定されないが、それらが「モダン」の要素と対立しない「ポストモダン」の
レベルに位置づけしなおされている点が大いに異なる。
 こうした操作は、一方でハイテクノロジーというポストモダンの要素を重視し、他
方で「スパイ防止法」や靖国神社公式参拝を合法化しようとするという一見矛盾して
いるように見える政策のなかに発見できるだろう。
 靖国問題では、中曽根は、以前から「神道」的要素を排することを主張しており、
今回の公式参拝でも、玉串奉呈や御祓いなどの儀式は行なわず、本殿で深く、礼する
にとどめた。いわば、外国人観光客が浅草寺で手を合わせるような意識で靖国神杜に
参拝することを制度化したわけだ。
 しかし、それは、靖国にからみついている天皇制を脱することにはならないだろう。
宗教や制度は、フォルムのなかで生き残る。日本人が頭を下げるあいさつを続けてい
るかぎつ、それがどんなに簡略化されたとしても、儒教的な上下関係、タテマエとホ
ンネ、ミウチとヨソモノといった日本文化は決してなくならない。キリスト教の教会
を作るときも地鎮祭をやるから、神主の御祓いは宗教ではなくて「民族的行事」のよ
制の拘束を受けていなければ教会がそんなことをやる必要もないのである。
 天皇制国家のポストモダン化は、天皇よりも皇太子を支持する論調が最近目立って
増えてきたことのなかにもその徴候を見出すことができる。千家紀彦は、『皇太子即位
の日』一大陸書房一で大嘗祭の歴史をたどりながら、それが五穀豊穣一農耕的生産)と子
孫繁栄(セックス)への祈願が一体となったプリモダンな儀式であって、それが今日、
もはや「必要欠くべからざる祭事」ではないということを明らかにしている。
 しかし、「宮内庁という徹底した事大主義者の集団は、それが天皇の神格形成のため
の秘儀であったことを承知のうえで、おそらく今後も大嘗祭をとり行おうとするだろ
うし、たぶん次なる天皇もそれに無下に反対はしないにちがいない」、と千家は言う。
が、千家が心配するのは、それによって天皇制が強化されることではなくて、逆に天
皇制が時代にとりのこされることである。それゆえ彼は次のように言う。「筆者は大嘗
祭は行うべきではないと考える。葵祭り、祇園祭りほどの意味で行われるのならいい
だろうが、天皇一代の大祀は即位の礼だけで充分ではないだろうか。それこそ、筆者
もいましばらく長生きしてテレビでなりと華麗な盛典を見たいものである」、と。
 なるほど、時代に敏感な者ならば、その延命の糧をプリモダンなもの  大嘗祭
一に求めるよりも、ポストモダンなものーテレビ  に求めるだろう。そして中
曽根は、言うまでもなくポストモダンに賭けている。





遼巡する「劇場国家日本」



 レiガンの演説のなかに「革命」 (レボルーション)という言葉がしきりに現われ
るのに気づいた。革命とは下からの変革であり、上からの変革は「改革」一リフォルメ
イション)というのではないかといった「正論」はもはや通用しないようだ。もっと
も、ヒトラーも「革命」という言葉を好んで用い、彼らの国家事業は、 「国家社会主
義革命」であるということになっていた。
 その意味でならば、一九八○年代は「革命」の世紀であるかもしれない。いたると
ころで上からの変革が進められている。そのテンポはあまりに速いので、それとは別
に1あるいはそれに対立して一進められている下からの変革の努力や試みは、そ
うした上からの変革に対してまさに毒にも薬にもならなくなってしまうかのようであ
る。とくに、テクノロジーのレベルでの上からの変革は、一九六〇年代にはまだあっ
た「とりこみ」 (下からの変革を上からの変革にとりこむこと一をほとんど不必要な
ものにする勢いである。
 このような状況下で依然として下からの変革に執着する者は、現在上からの変革の
先端部分で何が起こっているかをリアルに把握しなければならないだろう。さもなけ
れば、すべての試みは、「革命趣味」や「社会主義芸能」の域を出られないだろう。
 天皇制に関していえば、体制1つまり現在の社会・経済システムの延命を望む勢
力1の内部にたがいに相反する方向が現われはじめている。
 矢野暢の『劇場国家日本』一TBSブリタニカ一は、国境を越えた日本企業が近年痛切
に感じているはずの日本国家の限界について社会科学の側からラブ・コールしたよう
な本であると言えなくもないが、日本近代のあらゆる矛盾を天皇制のなかに見、その
超克を示唆している点で注目に値する。
「日本が《劇場国家》であるかぎり、日本にとって天皇は不可欠な存在であるかのよ
う」であり、「天皇家あるいは天皇制抜きの『模範的中心』というものを日本人は
を越えた、まったく新しい次元になった国家的存在をめざすべきなのである」という
のがこの本の主張だからである。
 こうした方向に対して、天皇制を政治制度としてではなく、信仰形態として救い出
そうとする手のこんだ試みも現われている。それは、密教のタントリズムや「ニュー
サイエンス」のよそおいをこらした新宗教の方向であり、中沢新一などはその有力な
イデオローグ候補といったところだが、これは、考古学的にも歴史民俗学的にも、も
はや「絶対性」を保持できなくなった天皇制(実は天皇家文化)の民衆的信仰基盤を
再活性化することによって、からめ手から天皇制の安泰をはかろうとするむなしい試
みであると言わなければならない。





「劇場国家」の否定と肯定



 意見の対立がなかなか表面化しにくい風土のなかで、最近、矢野暢と中村雄二郎と
が『朝日新聞』紙上で行なったつばぜりあいは、あれだけで終わらせるには惜しい重
要問題をはらんでいた。
 発端は、ギアーツの「劇場国家」という概念を曲解していると中村が矢野を批判し
た一『術語集」、岩波新書一のに対して、矢野が「しごとの周辺」というコラム一一九八五
年一月二二日一で、「ギアツの概念を準用するかたちで、たわむれに『劇場国家日本』を
書いた」のは「実はすべてギアツとの相談のうえでやったことなのだ」と居直ったと
ころからはじまった。
 二戸一一一Eと一一戸一王Eにぞホそ加拝奄さ幻たヰ村と矢蜀のやりとりは、日本の儀
礼志向の風潮を反映してか、あまり歯切れのよいものではないが、平静をよそおう二
人の議論の底には、単なる学問的な対立ではなく、二人の政治的姿勢の相違にもとづ
く対立がさかまいている。
 中村は、「ことは根深くかつ拡(ひろ)がりの大きい主題にかかわるので、物わかり
よくならないで、問題点の所在をはっきりさせることにしたい」と言いながら、議論
はギアーツと矢野とのあいだの概念的なズレを批判することに終始し、一向にその
「主題」も「問題点の所在」も明確にしないのだが、中村がなぜこのようなズレを許す
ことができないかを考えてみると、二人の対立が意味している最も重要なポイントが
明らかになる。
 矢野にとって「劇場国家」という概念は、天皇制と切り離しては存在しない。彼は、
『劇場国家日本』のなかで、「劇場国家」とは、「いわば、自前のシナリオで自国を運営
できない国のことである」とズバリ規定したのち、この国家概念がアジアの国家の特
性を在来の国家論よりも明確にする説明原理であり、そしてとりわけこれが日本の国
家形態にあてはまる、と主張する。
 中国文明を受けいれて律令国家を作り、明治維新には西洋文明を、戦後はアメリカ
ニズムをそれぞれ「国家運営のシナリオ」にできたのは、日本が「劇場国家」である
からだが、天皇制は、まさにこのような国柄のなかで生き延びてきたと矢野は説く。
 「日本が《劇場国家》であるかぎり、日本にとって天皇は不可欠な存在であるかの
 ようである。祭祀の支配者として、あるいは『劇場』の持ち主として、天皇は《劇
 場国家》の中核に立つ」
 おそらく、中村は、矢野の主張がこの段階にとどまっていたならば、彼がギアーツ
の概念をどんなに〈曲解〉しても苛立ちはしなかったろう。というのも中村は、『術語
集』のなかで次のように書いているからである。
 「このような〈劇場国家〉のあり方は、誰しも容易に気づくように、祭祀性が国家
 の中枢部分でいまなお大きな意味をもっている〈天皇制〉の問題と大きくふれ合っ
 ている。〈天皇制Vが不在あるいは空の中空的な権力構造をもっていることとの関
 連はとくに重要であろう」
 では、なぜ中村は矢野を認めることができないのか? それは、矢野が、「日本はい
ま、《劇場国家》という国柄から脱皮して、新しい固有の”かたち。をもつようになる
歴史の分岐点に立っている」と考えるのに対して、中村が、「劇場国家」を「上から下
への支配を前提とする権力システムでないような国家の仕組み」の可能性とみなし、
むしろ「劇場国家」H天皇制を肯定的にとらえなおそうとするからである。
 アカデミックな議論も、もはや天皇制問題ぬきには考えられなくなったのはおもし
ろい。





情報資本主義時代の「天皇」像



 一九八五年になって、予想したように、天皇や天皇制を支持する論調の記事や書物
が急に増えてきた。特集をする雑誌も目につく。
 しかし、そうした論調も、注意してみると、必ずしも一様ではない。天皇制に反対
するものは、一般誌にはほとんど現われないが、「天皇制のありうべき姿」の点で微妙
なニュアンスが発見できるのである。
 これは、天皇制肯定派のあいだに意見の相違が生じているということであり、それ
だけ天皇制が変革の必要を迫られていることを意味する。これは、単に教条的な反天
皇制ムiドが高まるよりは、はるかにおもしろい。
 一九八四年に韓国の全斗煩大統領が来日したとき、一天皇の元首化」か冑建にな一一
だ。「象徴」が事実上〕兀首」になっているというのである。それは、一理ある批判で
あり、実際に天皇制を立憲君主制のような方向へ逆転しようとする動きはある。
 しかし、現実問題として、そのような逆転は、日本の資本主義システムを犠牲にす
ることなしには不可能であり、象徴天皇制のもとでの1状況に応じた1便宜的な
政治操作としてしか有効性をもちえない。
 にもかかわらず、天皇制の肯定者のあいだには、依然として元首としての天皇とい
う時代遅れのイメージを捨てきれない者がいる。明治天皇への新たな関心は、このよ
うな傾向と無関係ではないだろう。が、元首11天皇への執着は、情報資本主義へ変貌
しつつあるシステムから確実にとりのこされる者たちのあがきでしかないように思わ
れる。
 急速に変わりつつあるシステムを現状肯定する者たちの天皇制肯定論は、明らかに、
「人間天皇」の路線を支持する方向に向かっている。それは、具体的には、ポスト・ヒ
ロヒトのイメージをムツヒト(明治天皇)ではなくアキヒト(皇太子)のそれによっ
て定着させようとする路線であり、ここから、週刊誌レベルでは「天皇の退位」がと
りざたされたりもする。むろん天皇は退位することができない。それがディレンマで
ある。
「皇室ジャーナリスト」河原敏明の「『人問』天皇の四〇年」一門プレジデ一ノ一ト』、一九八五
年五月号一は、天皇制を否定しているわけではむろんないが、天皇制の現在のあり方に
は批判的であり、ポスト・ヒロヒト時代に期待を託している。
 河原敏明は、「あと二〇年経つと、国民の九割が皇室に無関心と思われる戦後教育世
代になる。皇室ジャーナリストとして三〇年余、天皇制は維持すべきであると考える
私だけに、現在の皇室のあり方がなおのこと気になるのである」と言う。
「皇室の古い体質」は、河原によると、天皇に「肉親の情味に疎」い「”非人間的慣性”」
をうえつける結果となった。これは、天皇の再神格化、菊のカーテンの強化と相関関
係にあり、一九七七年に記者会見で天皇が、人問宣言を〕一の一次の一問題」とした
ことも、これまでの皇室の論理からすると、至極当然であった。
 しかし、このようなやり方は、もはや通用しないだろうというのが河原の意見であ
る。その意味で、河原は、「少年期から『新しい天皇像』の下で薫育された皇太子が即
位するとき、日本史上初めて名実兼ね備えた『人間天皇の出現』となるのではなかろ
うか」と言う。
 そもそも天皇を「人問」化できないのが天皇制ではなかったか、ということはいま
は問うまい。天皇制は、そんなディレンマにもっと深刻に直面すべきなのだから。





4
ヘーゲル的近代国家と象徴天皇制 国家のく終末》へ向けて



 1
 日本に住んでいると、えてして「国家」と「民族」と「国土」とがあたかも一体の
ものであるかのような意識をもちやすい。それは、日本が島国だからではなく、そう
した一体化が一つの制度として存在し、それが日本国家の特性にもなっているからで
ある。
 日本人の多くは日本国籍の所有者であるが、日本人であるということと、日本国籍
の所有者であるということとのあいだには何ら必然的な関係はない。世界中に散らば
っている中国人やイタリア人は、民族的には中国人、イタリア人であっても、さまざ
まな国籍をもっている。日本人の場合、海外に居住する日本人の数は増えつづけてい
ても、居住国の国籍を取得する日本人はまだそれほど多くはない。これは、日本人の
民族的性格ではなくて、日本国家がこれまで行なってきた支配様式の結果であり、日
本人以外の国内居住者にはなかなか国籍を与えないという日本国家のこれまでの方針
と相関関係をなしている。
 先日見たジム・ジャームッシュの映画『ストレンジャー・ザン・パラダイス』にお
もしろいシーンがあった。ニューヨークに住んでいるウィリiという青年のもとにハ
ンガリーから従妹のエヴァが訪ねてくるところから始まるこの映画のなかで、ウィリ
ーの親友のエディが、「おまえがハンガリー人だってことは初めて知ったよ。ずっと
アメリカ人だと思っていた」と語るシーンだ。映画の論理のなかで推察するところで
は、ウィリーはハンガリーからの移民者であり、アメリカで教育を受けているはずで
ある。が、おそらく彼はまだアメリカ国籍を取得してはいないのだろう。この場合、
「ハンガリー人」というのは彼の民族性を指してはいない。ハンガリー人にも民族的
には大多数のマジャール人のほかに、さまざまな少数民族が含まれているからである。
ウィリーは、ハンガリー国籍の外国人としてニュiヨークに住んでいるのである。彼
が、エディにはてっきりアメリカ人に思えだということは、彼がアメリカ生まれに思
えたということか、あるいは、国籍を得るほど長くアメリカに住んでいると思えだと
いうことである。
 言うまでもなく、民族的な「アメリカ人」というものは存在しない。アメリカ人と
は、厳密にはアメリカ合衆国人であり、さまざまな国からやってきたさまざまな民族
の総称である。だからアメリカ人になるということは、一種の「故郷喪失」をみずか
ら受けいれることであり、多民族からなる国家形態を是認することである。『ストレン
ジャー・ザン・パラダイス』のなかでも、ウィリーは、伯母や従妹がハンガリー語を
使うのをひどく嫌い、英語でしゃべることを求める。彼のような姿勢は、知識階級よ
りも食うや食わずの下層階級のあいだにはよく見られるスタイルである。新生活を求
めてやってきたのに、故郷のことを思い出させられるのはまっぴらだと言うのである。
これは、移民ということをしばしばロマンチックなイメージでとらえることの多い日
本では理解しにくいことかもしれない。アメリカヘの移民者の多くは、政変や天災の
ために祖国を捨てざるをえなかった者か、祖国の生活を呪うがまでに嫌って脱出した
者である。イタリア映画『父/パードレ・パトローネ』のなかに、サルディニア地方
からドイツヘ移民しようとする若者たちが、移民船に向かうトラックに乗るとき、故
郷の大地にツバをはきかけるシーンがあった。アメリカヘの移民者のなかにも、もう
二度と故郷の言葉を使いたくないと思っている移民者は少なくない。
 アメリカは一九世紀以来、そうした〈脱藩者〉を統合する政策を推進してきた。メ
ルティング・ポット政策である。この語は、しばしば、アメリカを象徴するために使
われるが、日本語で「人種のルツボ」と言う場合には、原語とのあいだに相当のズレ
がある。ルツボとは、高温でさまざまな金属を溶かし、合金を作る容器である。従っ
て、メルティング・ポット政策とは、さまざまな国々からやってきた多様な人種をア
メリカ合衆国というルツボのなかに入れ、それを単一なアメリカ人(正確にはアメリ
カ国人)にしようというポリシーである。
 これに対して、「ニューヨークは人種のルツボである」という言い方が日本語でされ
る場合に・は、そこに多様な民族がひしめきあっているという意味であって、ルツボと
してはうまく機能していない状態を指している。もし、ニューヨークが「人種のルツ
ボ」だとしたら、そこにはさまざまな民族がひしめく余地などなく、のっぺり。とした
アメリカ匡入しかいないは.すて麦る.二二一ーヨiクはノ種¢八ツオ大Lと言う彦雀
誰もそのようなことを意味しているのではないところを見ると、この表現は、メルテ
ィング・ポットという語の誤訳のうえに成り立つと言うことができる。
 しかし、現実には、アメリカ近代史は、メルティング・ポット政策の失敗の歴史だ
った。アメリカ史は、実際には、マイケル・チミノが『天国の門』で映像化したよう
に、さまざまな民族の等しい統合ないしは、アメリカ国人への止揚というよりも、先
住民族による新参者の支配と抑圧、民族間の血みどろの闘いの連続だった。だから、
一九六〇年代になって、少数民族の解放闘争が激しくなり、体制側からも、ネイサ
ン・グレイザーとダニエル・P・モィニハンによる『メルティング・ポットをこえて』
一一九六一二年一といった本が現われて、従来の政策を軌道修正する動きが出るのは必然
的なことだった。六〇年代後半のアメリカでは、メルティング・ポット政策に代わっ
て、人種的差異を国家支配と国家経済にどのように役立てるかが主要な関心になって
行く。
 これは、産業構造とも密接な関係がある。権力は、決して一枚岩的なものではなく、
そのうちにさまざまな偶然要因をはらんでいる。たまたま起こった事件から一つの体
制がゆらぐことはある。しかし、そうしたゆらぎをも含んだ総体として権力を考える
とき、権力自身の変質が起こらなければ、〈偶発事〉も起きえない。アメリカの民族解
放闘争は、たしかに、パンアメリカニズムを志向する統合化権力を変質させる一因と
なった。また、国家犯罪としてのベトナム戦争に対する反対運動は、国民を戦争にか
りたてる国家に対する反援を人々のあいだによびおこし、統合化権力としての国家の
限界を露呈させた。しかし、このことは別様にも考えることができる。アメリカ合衆
国は、六〇年代の民族解放闘争やベトナム反戦運動によって政治革命を経験したわけ
ではなく、憲法に何らの変化も見られなかったのだから、むしろそうした反体制運動
は、アメリカ合衆国が生き延びることに役立ったのだという考えだ。これはいささか
ヘーゲル主義的な見方であるとしても、実際に、産業構造と支配的テクノロジーの変
化から考えるとき、きわめて現実的なことである。
 重工業にもとづく産業体制では、文化的・民族的差異を均質化し統合化する国家形
態が不可避的である。そこでは、同一化と量的所有の規模がその体制の権力の大きさ
を決定するからである。そして、同一化の論理は中心を措定し、量的に巨大な所有を
求める論理はその中心を単一化する。反権力的なものは、従って、中心から極力遠く
へだた一一たマージナルな屑繕に追いやられ、ヰ、心への影響力も遮断される〔しかし、
情報やサービスにもとづく産業体制では、逆にこうした形態がシステムの機能を阻害
してしまう。単一な同一化はもはや権力とはならず、固定した所有に対して、つねに
暫定的であるような投機的な所有が支配的となる。権力は一つの中心に向かって集中
するのではなくて、多数の中心に分散し、それまで反権力とみなされていたような組
織や力も、分散権力の一つに組み入れられる。中心と周縁の権力関係はもはや成り立
たない。国家はこうして、スタティックな組織から流動的なネットワークにならざる
をえなくなる。
 これは、従来型の国家の弱体化ではあっても、国家そのものの弱体化ではない。む
しろ、資本主義システムの規制装置1あるいは《超越論的統覚》の装置  として
は、高度化され、洗練されたことを意味する。情報とサービス優先の時代になっても、
重工業が完全になくなるわけではなく、後者が前者の論理で再編成された形で生き延
びる。従ってそこでは、国家は一面で、同一化と巨大所有の論理をひきずっており、
軍隊や警察権力はそうした国家権力を代行しつづける。それとセットになって、犯罪
や従来型の「反権力」も存在しつづけるわけだが、それとは別に、全く異なる権力が
増殖しはじめる。そしてそれは、軍隊や警察がそれに対抗するものに対して行なう弾
圧や抑圧、両者のあいだでくりひろげられる闘争をも一つの国家利益として吸収でき
るほどにしたたかなものになって行く。
 日本の場合、アメリカのメルティング・ポット政策にあたるものが、明治以来の近
代天皇制である。それは、日本に存在した民族的差異を抹消し、地域的.文化的差異
を同一化してきた。アイヌ人をはじめとして細かく調べれば日本人のなかにも存在す
るエスニシティを無視することはもとより、朝鮮人や中国人をも日本国人のなかに統
合しようとした。この日本型メルティング・ポット政策は、アメリカのそれにくらべ
ればはるかに明瞭な「成果」を得た。日本人は日本国人化し、単一の言語と単一の思
考、さらには単一の身ぶりを行使するかのような国民が作られた。
 こうしたパン・ジャポニズムが工業化を志向するシステムにとっていかに効率のよ
いものであるかは、戦前と戦後の短期問になしとげられた近代化がその証拠となる。
戦後の経済発展は、戦前・戦中に軍事レベルで達成した近代化を敗戦による中断にも
かかわらず社会の全域に拡大したものである。戦前の軍事面での総動員体制は、戦後
になって日常生活の全域に拡大され、青年・中年男子だけでなく、幼児から老人にい
たる全男女が消費、受験、就職、労働の戦場にかりたてられることになった。
 しかし、一九七一年のニクソン・ショック一ドル/金交換停止、ブレトンウッズ協
定の事実上の崩壊)、一九七三年のオイル・ショック以来、日本の産業構造も自己変革
を迫られるようになった。というよりも、これらの事件は、日本の産業構造が公的な
形で変化しはじめるための儀式となった。従ってこの時期は、また、産業システムの
規制装置としての国家が自己変革を模索しはじめなければならなくなる時期でもあっ
た。
 八○年代に入って政府の明確な路線となった「民営化」(ディレギュレイション)を
さらに進めることは、明らかに、従来の国家形態のもとでは不可能な方向である。そ
のため、情報とサービスを中心とする産業体制にふさわしい国家形態に向かって飛躍
しようとするとき、日本国家を先験的に規定している天皇制が一つの障害となってた
ちはだかる。日本社会は、文化や情報が直接関わることの少ない分野では「自由化」
(つまりは、国家権力の多中心化一が可能であるが、ひとたび文化や情報に関わる領
域の「自由化」が問題になるとにっちもさっちも行かなくなるのである。それは、天
皇制が、同一性と単一的な統合化の論理のなかを動いており、それにもとづく国家は、
その本性上、分権的な多中心的規制装置とはなりえないからである。
 このあたりのディレンマが教育、人権、エスニシティなどの問題に集中的に現われ、
今後ますます必要とされる情報的創造性の未来に不安を与えている。日本国の国民で
あるためには、彼または彼女が単に国籍を所有しているというだけでは不十分である。
彼または彼女は、みずからを他者と同一化する「統合の象徴」としての天皇を受けいれ
なければならない。日本国家は、法的な統合とともに(あるいはそれに先立って)天皇
を「統合の象徴」として無条件に受けいれる文化的ないしは宗教的な強制を行なうの
である。人は法のまえに平等でありえても、文化や宗教のまえで平等ではありえない。
 天皇を「国民統合の象徴」とみなすためには、国民の一人ひとりが「天皇の赤子」
であることを前提とするか、□□本の国家体制が民主主義体制ではなくて、独裁体制で
あることを前提としなければ不可能である。かくして、天皇制国家としての現代日本
は、原理的に、文化や情報レベルでの「自由化」を徹底的には達成できないというこ
とになる。このことは、文化や情報が直接関与するマス・メディアや教育のレベルで
分権化什多様化が一向に進まず、先進産業国において七〇年代から大なり小なり始ま
ったマス・メディアと教育制度の変革に比して、日本のそれが極度に遅れている理由
を説明するだろう。この最終的な帰結は、世界資本主義の情報資本主義化が単に先進
産業国のものではなくなりはじめる一九九〇年代になって、はっきりした形で与えら
れるだろう。情報資本主義化がこのまま続き、日本が依然として天皇制に執着してい
るならば、日本が現在エンジョイしている「繁栄」は、二〇〇〇年までに完全に終息
するはずである。
 * 《情報資本主義》については、『メディアの牢獄ご晶文社、とくに、七七ページ以下一および『情
  報資本主義批判』一筑摩書房一を参照。



 2
 国家のより重要な問題は、一国家の盛衰を占うことよりも、国家の本質を問うこと
である。国家とは個人を支配する権力としてしか存在しえないのか、情報資本主義化
したシステムにとって国家は今後どのような機能をになうのか、国家が廃絶されるべ
きものだとしたら、そのためには何が変わらなければならないのか、これらの問いは
国家の本質に属している。
 国家の本質を問うということは、国家の起源を問うことではない。国家がなぜ生ま
れたかがわかったところで国家白体が変わるわけではない。たとえば、国家は、共同
体が解体し、孤立化した個人が生存の必要から国家を形成したといった岸田秀11吉本
隆明的な起源論は一体何の役に立つだろうか? 国家は「共同幻想」として生まれた
と言ったところで、国家の存在は微動だにしまい。本質とは起源ではない。本質的な
問いのまえでは、起源自身の本質が問われなければならないだろう。本質が起源だと
すれば、起源は起源自身の起源を問われざるをえないだろう。起源の本質を問題にす
るならば、起源を問うという思考自身が歴史的なものであることがわかる。それゆえ、
本質を問うということは、ある事象の生起から終末にいたる動向そのものを問題にす
ることにほかならない。
 国家を経済システムの規制装置、個人の抑圧機関、個々人の平和な生活を保障する
「夜警国家」等々とみなすにせよ、グラムシが国家を「教育者」としてとらえる観点
は、今日の国家を含む国家の本質の一面をついている。
 「現実には、国家は、新しい型、または新しい水準の文化をつくりだそうとするか
 ぎりにおいてのみ、”教育者”として理解されるべきである。国家が本質的な作用を
 経済諸力におよぼし、経済生産の機構を発展させ、下部構造を革新する、という事
 実から、上部構造の諸事象は、それ自体、その自然的発展、その偶然的突発的発芽
 のままに放っておくべきだ、などという結論をひきだしてはならない。国家は、こ
 の分野においても、合理化、加速、能率化のための道具であり、一つのプランにし
 たがって作用し、圧力をおよぼし、かり立て、刺激をあたえ、そして”処罰する”」
 一『グラムシ選集」1、合同出版、一九九ページ)
 教育装置としての国家という観点は、グラムシの場合、当面は、「上部構造」に関し
て言われているが、グラムシは、このことを『獄中ノート』に記したとき、やがて文
化産業が経済レベルでより大きな比重を占めて行くだろうことを予知していた。今日
では、経済と文化とを厳密に分離することはできず、物質生産と情報生産とは分かち
がたくなっているということは自明である。それゆえ、逆に、「教育」という文化概
念によって経済システムを論ずることもできるのであり、むしろその方が事態の本質
を明らかにするのである。
 しかし、グラムシのこのく国家H教育者Vという発想には、この発想自身の終末へ
の目くばりはないようにみえる。グラムシは、国家の本質を「教育者」と見ることに
よって、それを抑圧的・強権的な「教育者」から「新しい、より高い文明をつくりだ
し、もっとも広範な人民大衆の”文化”と道徳を生産の経済機構に適合させ、その結
果新しい型の人間を、肉体的にすらも、つくりあげる」一前掲書、一九五ページ一ような
創造的・民主的な「教育者」へ転換することを考えた。が、それは、ファシズムが支
配するグラムシの時代においては極めて革新的なことであったとしても、多中心化し、
ネットワーク化しようとしている今日の国家のもとではむしろ現状肯定的な発想であ
る。
 むろん、今日の国家も、抑圧的・強権的な「教育者」としての側面を失ったわけで
はない。むしろ、創造的・情報生産的な「教育者」としての側面を今日の国家は是非
とも所持したいと願っている。国家が情報生産の独創性を高めるために、創造的で自
由な個人を育成しなければならなくなっていることが事実だとしても、国家が道具化
しない純粋な「文化教育」を行なうことは決して多くはないし、日本の場合には、と
くに限られている。
 しかし、そうした「文化教育者」としての側面を強化して行かなければ、情報資本
主義の段階に達したシステムがこの先行きづまるであろうことは想像に難くない。
 そうだとすれば、問題はその先である。「教育者」としての国家にはどのような終末
があるのかが問われるのでなければ、国家についての問いはまだ本質的であるとは言
えない。その点でグラムシの国家論は、国家の機能の記述に重点を置きすぎている。
が、それは、国家の終末形態に関してはグラムシがヘーゲルの国家論に依存している
からではないか?
 ヘーゲルの国家論は、あ・まりに終末論的であ・り、そのために多くの誤解を生んでき
た。しかし、それをグラムシの国家論と組み合わせることによって、現実の具体的国
家に短絡させる誤解をまぬがれることができるだろう。ヘーゲルにとって問題は国家
の理念、「客観的精神」としての国家であり、まさに歴史の終末の日における国家なの
である。従ってヘーゲルは、次のような問題は「同家の理念そのものとは無関係であ
る」と言っている。
 「すなわち国家一般の、あるいはむしろ各特殊国家の、史的起源や、国家の諸法お
 よび諸規定の史的起源は、どういうものであり、どういうものであったかというこ
 と、国家は最初は家父長的関係から生じたのか、恐怖あるいは信頼から生じたのか、
 それとも職業団体などから生じたのかということ、そして国家のこうした諸法が基
 礎としているものはどうして意識において、神法や実定法として、もしくは契約や
 慣習などとして捉えられ、固定されたのか、ということなどは、本書でもっぱら問
 題にしている学的認識という点からすれば、単なる現象であり、史的な問題なので
 ある」一『法哲学㎞、竈寓、『世界の名著㎞44、中央公論社、四八Oページ一
 歴史の終末の日において現成する  それ以前においてはつねに隠れた形で機能す
る  国家は、ヘーゲルによれば、「倫理的理念の現実性」であり、「おのれを思惟し、
おのれを知り、その知るところのものを知るかぎりにおいて完全に成就するところの
もの」としての「実体的意志」である一前掲書、鴛署、四七八s四七九ぺ−ジ一。そしてさ
らに、ヘーゲルは、「国家意志の究極の自己」を「君主」と呼ぶ。「国家の人格性はた
だ一人の人格、すなわち君主としてのみ現実なのである」一前掲書、竈轟、五三一ぺ1
 この「君主」は、《超越論的統覚》の機能をもち、いわば「われ意志す」の純粋形態
である。理性、力、エネルギー、モナド、情報……あらゆる現象の総体が集約的に自
己を表わす究極的主体が「君主」である。ヘーゲルは、次のように言っている。
 「しっかりした秩序をそなえた君主制においては、客観的な面は当然法律にだけ帰
 属し、君主はただこの法律に主体的な『われ意志す」を付け加えさえすればいいの
 である」一前掲書、ω墨O、五三八ぺージ)
 ヘーゲルの「君主」は、理念的存在であって、どこかに具体的に存在する君主とは
さしあたり無関係である。この点が、しばしば誤解を生んできた。ヘーゲルを理解す
るためには、フッサールがのちにあますところなく解明した「超越論的自我」の諸性
格を知らなければならない。ヘーゲルの「君主」は、必ずしもいかめしい衣装をつけ
た生身の君主として現象するとはかぎらないのであり、場合によっては、オーウェル
的な「ビッグブラザー」や、さらには国家精神としての人工知能一AI一としてより
本来的に現象するかもしれないのである。ヘーゲルの「君主」論が、決してプロシャ
の君主政体などとは直接関係をもたないことについて、シェロモ・アヴィネリは、す
ぐれた分析を加えている。
 アヴィネリは、国家に関する章でまず、「ヘーゲルの理論は、何らかの実在の国家に
関連あるものと解釈することは決してできないということが指摘されなければならな
い。つまり、ヘーゲルが論じているのは国家の理念であって、実在する国家はたんな
る理念の近似値以外のものではないのである」一高柳良治訳刊ヘーゲルの国家論」、未来社、
二七六ページ一と言い、「国家の理念はどんな所与の国家とも同一視しえない」という
ことを強調する。
 ヘーゲルにとって、国家は「理性の象形文字」であるべきであり、「人問の世界に浸
透する理性的なものは、国家において初めて目に見えるものとなる」、「国家の領域に
おいてのみ、理性は自己を意識するに至る」一前掲書、一、七七ページ一。それは、あくまで
も理念であるから、「現実生活」は、そこからの疎外が、あるいはそれへ向かっての
「生活の政治化」とならざるをえない。ヘーゲルにとっては、国家はまだ現われてはい
ない。それは、個々人や集団が随意に解消しうる「契約」ではないのであり、それゆ
づノ払まレてに巨室σ一彦縦ちととしうことに弔建に右岸一ちレ 逆に巨歩に
個々人の自由1「理性的なもの」1を保障し、それへ向かっての諸活動を基礎づ
けるものである。
 そうだとすれば、ヘーゲルが立憲君主政体を支持しているからといって、それをヘ
ーゲルの同時代のヨーロッパのどこかに現存した立憲君主政体とみなす必要はない。
アヴィネリによれば、ヘーゲルの場合、「近代国家は主体性に、自己規定に立脚するの
だから、国家の客観的諸制度のうちにはこの主体性を表現するものがなければならな
い」一前掲書、二八九ページ一というかぎりにおいて「君主」が要請されるにすぎない。
アヴィネリは次のように言っている。
 「ここにヘーゲルの君主政体論の逆説がある。君主政体の伝統的な形式は保持しつ
 つも、ヘーゲルは王権を自己規定の象徴に変えることによって、君主その人からと
 んな実質的な権力をも奪い去るのである。ヘーゲルは、昔の絶対主義的な君主政体
 の観念や復古期の正統主義的諸理論に対抗する唯一の効果的な方法は、君主政体の
 形式を、主体性や自己規定という近代的な観念の象徴として保持することであろう
 と考えたように見える」一前掲書、二九〇ページ一
 これは、鋭い解釈である。ヘーゲルはむしろ現存する君主制の空気を抜いてしまう
ために君主をもち出すからである。『法哲学』の二八○節の補遺の部分でヘーゲルは、
君主が「無教養」な場合、あるいは「国家の頂点に位するのに値しない」場合に関し
て、「完成した国家組織にあっては、形式的決定を行なう頂点だけが大事なのであ
り」、「君主に客観的性質を要求するのは間違っている。君主はただ『然り』と言って、
画竜点晴の最後のピリオッドを打ちさえすればいいのである」一『世界の名著』44、五一一八
ぺージ一と言っているが、これは、たしかに生身の君主自体にとっては痛烈なパロディ
化である。それは、事実上、どうでもよいものになっている。



 * 情報資本主義の先進状況がまだ十分に展望できない時点で、わたしはここで論じているの
  よりもやや〈楽天的〉なグラムシ解釈を展開したことがある。それについては、『主体の転
  換』一未来社、とくに七㌔八ぺージ)、『批判の回路』一割樹社、とくに「支配の、、一クロロギ
  一」、七五ページ以ド一を参照。



 3
 君主を「国家の一体性の象徴」にすぎない、とみなすことは、アヴィネリによると、
「ヘーゲルが定式化した時期には、ヨーロッパのどこでも到底実現されえなかった君主
政体論である一『ヘーゲルの国家論』、二九一ページ一。おもしろいことに、日本の象徴天皇
は、へiゲルの国家論をこのように解釈した場合、極めてヘーゲル的な「君主」に近
いものとなる。象徴天皇も、明治以来の天皇がもっていた権力を奪取されており、そ
れは、「憲法の定める国事」にただ「黙り」と言って、「画竜点晴の最後のピリオッド」
を打っているにすぎないからである。
 このことは、ある意味で、日本の象徴天皇制が、ヘーゲル的近代主義の日本的亡命
形態であることを示唆している。ヘーゲルにとって「君主」が、アヴィネリも指摘し
ているように、近代主義的な主体性をぎりぎりのところで維持するために導入された
ものであるとすれば、象徴天皇もまた、近代主義的な主体性の残りカスである。が、
問題は、。ヘーゲルの「君主」は、主体性が依然カをもっている状況下で戦略的に要請
せざるをえなかったものであるのに対して、象徴天皇は、ハイデッガー流に言えば、
西欧形而上学が完結し、主体性が消去される電子テクノロジiの過程が支配的となる
時代においては、ただただ時代を逆行させる機能しか果たさないということである。
 他方、日本の象徴天皇制が現在さまざまな形で露呈させている矛盾は、亡命し、生
き延びたヘーゲル主義の特殊日本的な問題ではなくて、ヘーゲル主義的国家自身がも
ともと内包した問題でもある。国家に「君主」を付加したことが、国家をヘーゲル自
身が考えた「現実的形態と一個の世界の組織とへおのれのカを展開する神的意志」
一『法哲学』、鴛ぎ、前掲書、五〇〇ページ一にすることをはばむのである。
 マルクスのヘーゲル批判の一点は、根本的にこの問題に関わっている。そしてま
た、このことは、「日本国憲法は、中央政府から、とりわけ天皇から権力を奪取するこ
とを体現している」**************急募.ミ言§も§§
§〜完§§§、桐原書店、二二ページ一とダグラスニフミスが鋭く指摘しているデモクラ
シー的な側面を象徴天皇制が原理的にもちながら、実際には決してそのようなものと
しては機能しないこととも関わっている。
 マルクスの『法哲学』批判は、これまで行なったヘーゲル解釈の見地からすると、
■貝茅利すぎるように具える。たとえはマルクスかくーケルを拙半して汝のように一青
うのは単純すぎる。「ヘーゲルの法の哲学においても、また近代国家においても、普遍
的な事項の意識された、真の現実性が、形式であるにすぎないか、または形式的なも
のだけが現実的な普遍的な事項であるか、である」。従って、「ヘーゲルがとがめられ
るべきなのは、彼が近代国家の本質をあるがままに描写したからではなく、むしろ彼
が現にあるものを国家の本質と称したからである」一『マルクス・エンゲルス全集』第一
巻、大月書店、三〇二ぺージ一。しかし、このような批判が必ずしも不当なものではなくな
るところがヘーゲルの国家論の限界であり、ヘーゲルが近代の終末の端初になってい
たことを示している。
 ヘーゲルとマルクスとを分かつものの一つは、主体性のとらえ方である。ヘーゲル
は主体を超越論的なものとみなす。彼は近代主義者としてデカルトのコギトを継承し、
近代の終末を予感した最初のポストモダニストとして、カントを越えてさらに、コギ
トの超越論性を極限にまでもって行く。そこでは、デカルトのコギトにおいても、カ
ントの「純粋理性」においても超越論的なものと分かちがたく残されていた身体的な
ものや対象的なものが、すべて超越論的自我や絶対精神のなかに包含されてしまう。
 ただし、このことは、ヘーゲルの洞察カや思考力の限界とみなすべきではない。思
考は、すべて歴史表現である。思想家は、その思想がたとえ何かを誤解しているとし
ても、歴史の言葉を語っている。へiゲルは、近代の歴史の終末を語ったにすぎない。
同様にマルクスのヘーゲル批判は、ヘーゲルの時代−近代一を越えようとする試
みの点で問題にされるべきだろう。実際にマルクスは、たとえば主体性に関してもヘ
ーゲルとはちがい、それを超越論的なものとして純化する近代主義の方向に背を向け
る。
 フッサールが五〇年後に確認したように、超越論的なものは身体的なもの、相互主
体的なもの、つまりは「生世界」を忘却してきた。この忘却は、決して個人的・集団
的な錯誤ではなく、テクノロジーの発達の代償であり、近代の帰結である。従ってそ
れらは、これまで忘却されてきたからこれからは忘れずにとりもどそうといったたぐ
いのものではない。この忘却なくしては近代の歴史はありえなかった。
 マルクスのヘーゲル批判は、いわばこの忘却の不徹底さに関わっていた。近代の歴
史過程は超越論的なものの全般化としてあることをマルクスは洞察していた。しかし、
マルクスは、そうした過程だけが歴史過程のすべてではないことをも洞察している。
そ幻は 単なる一理論」的な洞察ではなくて、現にあるものについての洞察である・
 マルクスにとっては、超越論的なものには絶対精神だけが属しているのではなくて、
身体的なものや相互主体的なものも属している。マルクスの目から見れば、ヘーゲル
が近代の本質動向だとして記述するものは矛盾に満ち満ちている。たしかに観念的な
意味での超越論性は増殖しつづけているが、そこから振り落とされたものも増殖して
いるのである。それは、なによりもまず、へ−ゲルの論述それ自身のなかにある。彼
は、すでに見たように、人問的には無能であってもかまわない「君主」を論述した。
そしてそれは、一二〇年後、日本の象徴天皇として具体的なものとなった。しかしな
がら、それは、へ−ゲルの国家理念の現出ではなく、理性の「一次元化」一マルクi七一
と「腐食」一ボルクハイマ↓以外の何ものでもない。
 ヘーゲル的な理性は、人類史の終末の日にしか現出しえないのである。それ以外の
ときには、この理性は、すべてを徹底的に一次元化し、観念化し、デジタル化するテ
クノロジカルな合理性としてしか機能しないだろう。
 日本国憲法が、ラミスの言うように、天皇の権力を奪取しつくしているとしても、
それが依然として圧倒的な権力であるのは、第二条によって明確に皇位の世襲が規定
されているからである。世襲とは、血から血、肉から肉への継承であって、身体性な
き世襲はない。このように身体性が露骨な意味で問題であるようなプリモダンな制度
が、極めて超越論的な「象徴」という概念のなかに観念化されている。これは矛盾で
ある。象徴天皇制がプリモダンな王制ではなく、日本国憲法第一条のポストモダニズ
ムー近代の終末過程1を現実化するものであるためには、天皇家はアンドロイド
でなければならなくなる。
 マルクスがヘーゲルの「君主」を批判するくだりもこの矛盾を共有している。ヘー
ゲルにおいて「君主」は、あたかも「理性の本質」から規定されているかのような体
裁をとっているが、ヘーゲルが「理性の本質」に照らして当然のことと考える君主権
の世襲や土地貴族の長子相続権は、それ自体において矛盾を起こしているとマルクス
は考える。世襲や長子相続を前提とするかぎり、君主性一君主であること)や国家性
は理性の本質から規定されているとするのはペテンである。
 そもそもマルクスの観念論批判は、「主体」が現実にはいささかも超越論的なもの
ではなく、フィジカルなものによって規定されているという洞察にある。現実には「唯
物論」を是認しながら行なわれる超越論的観念論の欺嚇−これこそがマルクスの観
念論批判の核心である。
 マルクスは、ヘーゲル的な近代世界の「主体」が「精神」ではなく、「土地所有」で
あることを洞察する。君主権の世襲も長子相続権も、土地所有から帰結するのであっ
て、その逆ではない。マルクスは皮肉をこめて次のように言っている。
 「ヘーゲルはいたるところで、彼の政治的唯心論から、もっとも粗雑な唯心論に転
 落している。政治的国家の頂点には、いたるところに、一定の個人を最高の国家使
 命の体現たらしめるところの、出生があるのだ。動物の住む場所、その性格や生活
 の仕方等々が直接動物に生まれついているのと同様に、最高の国家活動は出生によ
 って個人にむすびついているのだ。その最高の機能における国家は、ある動物的な
 現実性を得ることになる」一『マルクス・エンゲルス全集』第一巻、三四八ぺージ一
 しかし、現実に王や貴族をそのようなものたらしめているのは「出生」ではなく、
世襲財産や所有地の永続性である。「実際には長子相続は、純然たる土地所有の帰結で
あり、石化した私有財産である」一前掲書、三四二ぺージ一とマルクスは言っている。
 このことを象徴天皇制について考えてみると、それは、土地所有の「石化」からさ
らには情報所有の永続化11実体化というより洗練された形でのヘーゲル的「君主制」
にもとづいていることがわかる。新憲法のもとでは、皇室財産の大半は国有化され、
戦前の天皇家における土地所有の優位は失われている。しかし、それは、いまや天皇
と国家とが戦前以上に一体化したことを意味すると同時に、天皇の機能が、日本国の
通時的情報を独占的に世襲する者としての機能の方に重心を移されたということでも
ある。この情報所有の権利と合法性を失えば天皇は天皇であることができなくなる。
 むろんヘーゲルにおいて君主や貴族の財産世襲権が極めて窓意的なものであるのと
同様に、この歴史H情報世襲権も極めて春意的なものである。情報の主権は、具体的
民衆の一人ひとりにある。社会の合意なしにそれが天皇の独占下に置かれるのは不当
である。また、どんな合意がなされるにしても、象徴的主体に民衆一人ひとりの記憶
を総括・保管させることはできない。
 ヘーゲルの国家論で「君主」を要請せざるをえなかったのは、「君主」が世襲という
形式で恒久的な時間性を保障するからだった。近代の主体性が土地所有から情報所有
へと移行するなかで、世襲制度においては何が世襲されるかよりも、いかに  つま
りは恒久的に  世襲されるかが重要であるということが明白になる。世襲制度にと
ってく血Vが重要なのは、それがあくまでも恒久的な時間を保障するかぎりにおいて
でしかない。〈血〉は土地の永続性に合わせて要請されたのである。その意味では、も
し、所有の永続性を保障するものが必ずしも〈血〉や〈家柄〉ではなくなれば、それ
らは別のものにすり替えられるだろう。情報所有の永続性は、必ずしも〈血〉や〈家
柄〉ではなく、今や明らかに高性能のコンピューターによって保障されるというとこ
ろに、今日の国家論の中心問題があり、また日本の天皇制のディレンマも、究極的に
この問題に行きつく。



 4
 現代国家は、依然としてヘーゲル的な国家の本質をひき継いでいる。それは、「君主」
が存在しなくても変わりがない。グラムシはすでに、「新しい君主論の主人公、神話−
君主は、実在の一人物、具体的な個人ではありえない。それは、一つの組織でしかあ
りえない。:・…この組織は、歴史の発展によってすでに与えられている。それは政党
である」一『グラムシ選集』1、八三ぺージ一と言っていた。政党は「現代の君主」であ
る。現代国家は、「勝利」した  つまり一定の持続性を確保することのできた  政
党を超越論的主体としている。その際、この超越論的な主体は、(ヘーゲルの「君主」
自体がそうであったが一強権的であるよりも啓蒙的である。国家を「教育者」と見る
グラムシの発想はここにもとづいている。ヘーゲル的な国家理性は、もともと「啓蒙
的理性」であった。
 しかし、アドルノとホルクハイマーの『啓蒙の弁証法』が鋭く露呈させたように、
「啓蒙的理性」はナチズムの宣伝技術とアウシュヴィッツに帰結することが明らかと
なったいま、「君主」を党として世俗化したグラムシ的国家にも未来はないのではない
か? グラムシは、「ある一つの新聞(または一群の新聞)、ある一つの雑誌一または
一群の雑誌一、こういうものもまた『党』であり、『党分派』であり、『党機関』である
という観点」一前掲書、一〇八ぺージ一を推し進めようとするが、このような「党」とし
てのメディアと文化が国家の超越論的主体として機能する状況は、一九八○年代の日
本の現実においても、決してめずらしいものではない。
 むろんグラムシは、「階級分化を絶滅することを望む党にとって、その完成は、存在
をやめることである」、「つまりその存在が歴史的に無意味になるときだ」一前掲書、二
二ぺージ一と言っているように、党を恒久化すること、絶対的な超越論的主体とするこ
とをよしとしているわけではない。むしろ、たえず解消することができる、アンサン
ブルとしていつでも組み替えることのできるネットワーク的な党こそ、グラムシの考
える党である。「政党というものは、みずからの力で存在することができる」ところ
に特徴がある一前掲書、一一五ページ一とグラムシは言っている。とはいえ、そのような
党は、国家の廃絶のもとでしか存在しえないだろう。
 国家の廃絶は、「君主」や「党」といった《超越論的主体》の存続を段階的に非持続
化する  デジタル化する1ことによっては決して達成することができない。それ
は、まさに、現象に対して《超越論的主体》を措定しないという脱近代主義のなかか
らしか生じえないのである。かつてハイデッガーは、「主体・主観(ω⊆亘①ζ一」の語源
をラテン語の豊亘8巨ヨ、さらにはギリシア語のξ君き一ヨ8昌へたどりながら、近
代以前には、たとえば大地のような「下に横たわっているもの」という意味であった
語が世界を基礎づける意識や精神を意味する語に変化していった点に言及していた
一「世界像の時代」、『形而上学入門』等参照一。これは、すでに見たように、現実には土地や
移動可能な土地としての貨幣がすべてを基礎づけているにもかかわらず、「絶対精神」
や「理性」が主体(下に横たわるもの一であるかのように進行する近代のプロセスに
ほかならない。近代国家の本質は、まさに、《なぜ超越論的なものであって存在ではな
いのか》という問いのなかにある。そのつど存在する存在が、なぜか意識されたかぎ
りのもの  超越論的なもの  になってしまうプロセス。これが越えられないかぎ
り近代国家は決して止揚されることがない。
 かくして、国家の本質についての諸問題は、《存在論がなぜ形而上学になってしまう
のか》という問題に抵触してくる。そしてまた、国家問題は、形而上学が存在の代わ
りに超越論的なものを理論的に措定するだけではなく、そうして措定された超越論的
なものへ向けて存在をプロジェクトするテクノロジーの問題とも抵触してくる。電子
テクノロジーは、理念を虚構という形でしか現実化できない機械テクノロジiとはち
がい、理念を一それをあらかじめパターン化しておけば)そのまま現実化できるような
技術である。このようなテクノロジーの出現は、形而上学の完結・終末的事態である。
 かつてマルクスは、「《解放〉は、歴史的事業であって、思想の事業ではない。そし
て解放は、歴史的な諸関係によって、すなわち工業、商業、農業、交通……の状態に
よって実現される」一花崎皐平記『新版ドイツ・イデオロギ⊥、四六ページ一と言った。しか
し、今日の電子テクノロジーは、シュミレイトしたく思想Vや理論をただちにく現実
化Vし、「歴史的事業」を骨抜きにすることを可能にしようとしている。とはいえこ
のことは、《解放》が「円心想の事業」になったということではない。そうではなくて、
思想史上の諸理論を積み上げることによって担造した諸理論を「実践」にあてはめる
といったやり方が、解放のためには最終的に無効になったということにほかならない。
解放が歴史的事業以外の何ものでもなくなったのである。
 必要なことは、従って、すべての思想や理論をテクノロジーに従属させること、そ
れらをテクノロジーがもたらす歴史的事態の反省装置とみなすことである。
 今日の国家は、電子的なネットワiク国家へ向かっている。そのような国家を必要
とする電子テクノロジーは、形而上学の完結形態である。従ってこの国家は、永劫に
回帰する以外に生き延びる道はない。それは、終局に達しているからである。それゆ
え、この電子テクノロジーのゆらぎのなかには国家を越える何かがたえずかいま見え
ることになる。国家は、いまや、まったく変わらぬ形式で永久に持続するか、それと
も死滅す・るか、という一つの瀬戸際に向かおうとしているのである。





 あとがき



 国家と天皇制の問題は、一九八○年代後半になっていよいよ、学術研究や批判の対象としてよ
りも、むしろ日本の資本主義システムそのものの、決して避けて通ることのできない重要問題に
なってきた。
 それは、先進資本主義の情報資本主義化が急速に進むなかで、日本の資本主義システムも、雷
アテクノロジーを中心とした産業構造の変革を行なわなければならなくなったからであり、その
激変するプロセスのなかで資本と国家の関係が必然的に問いなおされざるをえなくなったからで
ある。
 国籍法と戸籍法の改正、男女雇用機会均等法の成立、靖国公式参拝問題、「藤尾発言」、「中曽根
門人種差別』発言」といった事件は、まさにこのプロセスのなかから出てきたのだが、これらが
明確な「変革」としてではなく、どこかに不徹底さと不明瞭さを残しているのは天皇制のためで
ある。
 日本の国家形態は依然として天皇制国家であるから、国家形態の変革には必ず天皇制の問題が
つきまとう。その際、今日の問題は、資本の「多角化」と国家の「国際化」のなかで資本の論理
と天皇制の論理とが齪蠕を起こしはじめたことだ。このことは、おそらく、多国籍化した日本の
大企業のただなかにいる人々や「海外帰国子女」が日々痛切に感じていることだろう。
 資本の「非情」な論理に従えば、今後の日本の社会・経済システムは天皇制を解消せざるをえ
ない。さもなければ日本の資本主義は二国資本主義」にとどまらざるをえないからである。し
かし、実際には、日本の資本主義はすでに「国境」を越えてしまっており、「一国資本主義」にと
じこもることは不可能である。
 それにもかかわらず、天皇制が政府や企業の明確な主題にならずにいるのは、資本がその発展
過程のなかで生み出す矛盾を忘却させる文化装置の機能を、天皇制が依然としてもっていると思
われているからである。
 たしかに、天皇制と天皇制的な文化装置(「天皇制」という名を忘却させながら機能する文化装
置〕は大東亜戦争を「聖戦」に、二八O万人の死を「殉死」と「事故死」にすりかえる忘却装置
として機能したし、戦後においては組織への忠誠と「滅私奉公」の矛盾を忘却させる作用をした。
そしてそのおかげで、日本資本主義は「高度成長」をなしとげたわけである。
 しかし、このとき一時的に忘却され、われわれの無意識のレベルに深く沈殿した諸矛盾は、や
がて教育・文化・コミュニケイションのレベルで顕在化しはじめた。また、情報資本主義が進む
につれて、」天皇制の論理の根底をなす統合化がむしろ反生産的なものであることをさまざまなレ
ベルで暴露しはじめた。「働きすぎ」への反省、「分権化」や「ネットワーク」への強い志向は、
まさにこうした文脈のなかで現われる。
 本書は、天皇制が国家装置としても文化装置としてもすでに時代遅れなものになろうとしてい
ることを資本の論理の側からながめようとしている。従って本書は、資本の現実を冷静に見つめ
ている読者の側からすれば、ほとんど自明の理を説いているにすぎないと言ってよい。むろん、
すべてはこの自明の理以後にある。
 本書は、『文襲』編集部の高木有氏と阿部晴政氏の企画で出来上がった。両氏の挑発と協力に心
から感謝したい。
 考えてみると、本書で展開されている思考の出発点は、森下紀夫氏が編集していた『国家論研
究」二九七八年、六号一に「天皇制文化の消費構造」(その一部は書きかえられて本書に収めら
れている)を書いた時点にまでさかのぼる。本書を仕上げるためには、ここで逐一名前を挙げる
ことのできない多くの方々のお世話になったが、資本の具体的な諸現象のなかに国家と天皇制を
読みとる思考方法は、森下氏の挑発なしには明確な方向性をもちえなかったと思う。遅ればせな
がらお礼申し上げる。
 一九八六年一〇月一六日                          粉川哲夫