粉川哲夫の本    anarchyサイト
ニューヨーク情報環境論/晶文社/1985年

4 情報環境の“南北間題 "




   ニューヨークとマンハッタンは同義語になっている。これは、日本においてだけでなく、ニューヨークでもそうだ。ニューヨークと言えば、まずマンハッタンを指す。たしかに、一六六四年にオランダ治下のニュー・アムステルダムがイギリスの支配するところとなり、ニュー・ヨークと名を変えたとき、その領土はマンハッタンだけで、ザ・ブロンクス、ブルックリン、クイーンズ、スタテン・アイランドがニューヨーク市に帰属するのは、一九世紀末になってからである。しかし、ニューヨークについての記述や情報がマス・メディアでとりあげられることの多い日本で、ブルックリンやクイーンズについて語られることはあまりに少ない。
   もっとも、それは当然と言えば当然で、日本において一般に問題なのは、生活環境としてのニューヨークではなくて、情報としてのニューヨークだからである。この点は、親戚、兄弟姉妹、友人の誰かが大抵ニューヨークで働いているといったことの多いイタリアやプェルト・リコの人々の場合には、事情が異なるだろう。そこでは、ニューヨークについてのニュースは、単なる情報である以前に、親しい者たちの安否を告げる生きた、つまり生活環境的な "声" なのだ。
   情報とは、それがどんなにショッキングなことを伝えるものであれ、できるだけ多くの人々によって所有されることをその本性にしている。それは、所有が問題なのであって、伝えることや知ることが第一に問題なのではない。ニューヨークに住み、生活するということは、それぞれの個々人による唯一的な経験だが、情報としてのニューヨークは、そういうこととは関係がない。情報価値とは、無限の「複製可能性」であり、万人による所有の可能性であり、だからこそそれは独占によって「稀少性」を生み出すことができるわけだ。あなたしか知らない情報が情報価値をもつのは、それが万人の所有的利害と関心にかかわるものであるときである。しかし、あなたしか生きることのできないあなたの生活は、決して他人による所有の対象にはなりえないものだ。それが他人にとって問題となるのは、それを他人が共生するときでしかない。他人は、あなたの生活を所有するのではなく、あなたとともに生きるのであり、さもなければ、あなたは他人の奴隷になってしまう。
   ところが、情報は、そうした「唯一性」をもった個々人の生活や経験をも所有の対象にする。あなたがニューヨークに住んだということは、あなたにもわたしにも、もはや反復することができない。それは、新たに生きなおすための手がかりであって、反復のためのモデルではない。しかし、ニューヨークでの生活が情報として伝達され、受けとられるとき、それは幾度でも「反復」・「複製可能」な "生活" のモデル、つまりはいくらでも同じ製品の在庫があることを示唆している商品カタログの一種となる。
   その意味では、マンハッタンの生活は、情報化されやすいし、また、マンハッタンの生活そのものがすでに情報であることが多い。日本からニューヨークヘ来て、『ニューヨーク・タイムズ』を読むと、非常に新鮮な感じがする。それは、地域とくにマンハッタンの身近なニュースが小まめに報道されるからであり、日本の新聞のニュースよりも非常にローカルであるからだ。しかし、非常に地域的なミクロなニュースが『ニューヨーク・タイムズ』のような非常にマクロなメディアによってとりあげられるということは、ここでは非常にミクロなものもマクロな規模で複製されるということである。「ジェントリフィケイション」は、まさにそういうやり方で広まっていったのだった。最初はマンハッタンの一部のとりわけウェスト・ヴィレッジの住人の生活環境であったものが、こうしたメディアによって情報として複製されて、ニューヨークの外部にまで波及していったのである。
   こういうことは、ブルックリンやブロンクスの場合には、ちょっと考えられない。たしかにブロンクスは、世界に "都市の荒廃" を(情報として)輸出したかもしれない。ダニエル・ペトリー監督の『アパッチ砦ブロンクス』の冒頭のシーンのように、瓦礫だらけの通りにうさんくさい黒人少年や売春婦たちがたむろしているというシーンをみれば、まだブロンクスに足を踏み入れたことのない者でも、それがサウス・ブロンクスだということがすぐわかるくらい、ブロンクスは情報としてステレオタイプ化されている。しかし、ペトリーの映画がブロンクスの住人から猛烈な非難を受けたように、 "都市の荒廃" や "白昼堂々の犯罪" が生活環境としてのブロンクスを現実に特徴づけているわけでは決してない。
   これがブルックリンとなると、情報価値がぐっと落ち、日本ではかのケネディ空港がブルックリン地区にあることすら忘れられがちだ。それは、ブロンクスには、たとえば "マンハッタンよりも危険なところ" として、マンハッタンとの対比のなかで情報化できるものがあるのに対して、ブルックリンには、そういうものを簡単に見出しにくいからである。なるほど、近年は、ブルックリン・ハイツ、コブル・ヒル、パーク・スロープといった地域でシェントリフィケイションが進み、マンハッタンと似たような現象が起きている。しかし、そうした地域は、アメリカ合衆国で第四番目に大きな都市であるブルックリン全体からするとほんの一部分でしかなく、残りの部分にはマンハッタンとは全くちがう文化と生活環境がひろがっている。



   『アップ・アゲンスト・ニューヨーク』(一一九七一年、ウィリアム.モロウ社、ニューヨーク)のなかで、ラリー・メイはブルックリンについてこう書いている。

ブルックリンは、ボロ・パークでタルムードを勉強している、黒いカフタンを着、サイドの頭髪をたらし、あごひげをたくわえた老人である。ブルックリンは、ジャッキー。ロビンソンやジル・ホッジスの気高い伝統のなかでバッティングをしようと、身をかがめて母親のホウキを握りしめ、カナルジー(ブルックリンの東部)で『さあ、投げろよ』と叫んでいる八歳の子供である。ブルックリンは、ベンソンハースト(ブルックリンの西部)のキャンディ.ストアーのまえでたむろしている一〇代のグループである。ブルックリンは、フラットブッシュの "ダブロウの店" でコーヒーをのみながら友達と会っている老人である。ブルックリンは、ベイ・リッジ(ブルックリンの最西部)の中国レストランで毎日曜の午後四時に家族六人で夕飯をガツガツ食っているトラック運転手である。

   わたしが一九八三年に七〇日ほど生活したのは、ブルックリンのプロスペクト・パークの東側にあたる地域だったが、そこは、マンハッタンとは対照的な、完全に郊外都市の雰囲気をもった住宅地だった。一九一〇~二〇年代に建てられた二~三階だてのタウン・ハウスがたちならぶその地域の住人は、ウェスト・インディアンを中心にした黒人たちで、それだけでもマンハッタンのヴィレッジなどとは全く異なる雰囲気をもっている。このあたりは、もともとは黒人の街ではなく、一九一〇~二〇年代にサラリーマン社会が膨張してゆくなかで、新興の給与所得者階級が自分の持家を求めて移り住んだ土地だった。いまでは、統一のとれた歴史的街並みとみえる一連の建物は、一種の建売りなのであって、どの家をとってみても、みな同じようなつくりになっている。
   平均的な構造は、だいたい次のようなものだ。玄関は地上より一段高くなっており、階段がついている。地下は半分地上に出ていて、通りに面した明りとりの窓とドアーがあり、通りから直接、地下に入ることもできる。玄関を入ると、すぐ二階へ通ずる階段があり、その片側の廊下をはさんで、外に面した部屋があり、通常、応接間に使われていることが多い。廊下を進むと台所があり、その窓から中庭がみえる。それは、数十個の建物がとりかこむ形で形づくっている共同の中庭で、向かい側にみえる建物の向こう側には別の通りが平行に走っている。二階には、いくつかの部屋があり、寝室や子供部屋として使われる。地下には、ボイラー室、洗たく室、物置きなどがある。ボイラーは、家によって重油式のものとガス式のものとがあり、洗たく室には日本のコイン・ランドリーにあるような自動の洗たく機と乾燥機が設置されている。
   こうした構造の建物は、マンハッタンでもみることができるが、同じ構造の建物が延々と建ちならんでいるというのは、やはりブルックリンの特徴である。一九二〇年代にアメリカは大量消費社会に突入した。フォード自動車台杜が導入したオートメイション・システムは、あらゆる商品の大量生産の先がけとなり、すべてのものが大量に複製され、大量に消費されるようになっていった。すでに述べたように、複製とは情報化なので、複製技術の進歩と大量生産/消費の社会の進展、情報化社会の出現とのあいだにはたがいに切りはなすことのできない関係がある。事実、大量生産/消費の時代のはじまりであった一九一〇~二〇年代は、同時に、情報化時代の幕あげであり、グラビア雑誌、ラジオ放送、レコードなどが一般化しはじめる。
   ものが大量に複製され、情報化されるとき、生活もまた、複製的・情報的とならざるをえない。一九四〇年代にはアメリカ全土に広まり、やがて他国にも輸出されることになった "アメリカン・ウェイ.オブ・ライフ" は、まさに複製化・情報化された生活であり、だからこそそれは、情報としてヨーロッパにも日本にも波及したわけである。終戦とともに日本に入ってきた "アメリカ "のイメージは、こうした "アメリカン・ウェイ.オブ・ライフ" の "アメリカ" であり、いまでもその影響は根強くわれわれの生活のなかに残っているようにみえる。むろん、その間にアメリカでは  "アメリカン.ウェイ。オブ・ライフ" は凋落していったが、情報というものは、いつも、発源地点からはるかに遠い地点で蓄積され、生き残るものなのである。
   "アメリカン.ウェイ.オブ・ライフ" は、マンハッタンの生活にも影響を与え、それは、一九一〇~二〇年代以降にたてられたアパートメント・ハウスの間どりの画一性や、形態は一九世紀の建物であってもその後に改造されたトイレやバス・ルーム、台所などの構造の画一性のなかに、はっきりとその均質化の力をみることができる。しかし、すでに一九世紀にその都市形態が一応定まってしまったマンハッタンよりも、二〇世紀に入ってから出来あがったブルックリンの住宅地の方が、 "アメリカン・ウェイ.オブ・ライフ" の画一化がひじょうに明確な形であらわれるということは、容易に理解できるだろう。その意味では、一九四〇年代には、ブルックリンは、アメリカで最も "現代的" な都市の一つであったはずだ。
   ブルックリンを歩いていると、ふと一九四〇年代のアメリカに帰ったような気がすることがある。むろん、わたしは一九四〇年代のアメリカを知ってはいないのだが、本や映画から想像できる "アメリカン・ウェイ.オブ・ライフ" のアメリカである。道路が大きくて、歩くよりも車で通行するのに向いているということもその一つだ。
   ブルックリンで生活してみて、マンハッタンと大いにちがうと思ったのは、すべての生活を計画的にやらなければならないということだ。マンハッタンでならば、深夜に何か食べたいと思って外に出ればどこかの店が開いている。とくにイースト・ヴィレッジあたりならば、(全体として店の閉まる時間が早くなったとはいえ)深夜に開いている本屋もある。しかし、ブルックリンではそうはいかない。ここでは、一週間分の食料品をハイパー・マーケットでどさっと買いこんでくるといったライフ・スタイルがまだ有効なのだ。むろん、ジェントリフィケイション化されたパーク・スロープのような所では、多少事情が異なる。しかし、ブルックリンの大部分の場所は、夜になると、ひっそりと静まりかえり、深夜に路上を歩いているのは野犬だけしかいないということになる。第一、商店のない通りというのがいくつもあり、昼間でも、ちょっと好みをうるさく言えば、車でひとっ走りしないと何も手に入らない。そこで、あらかじめ生活をプログラムするということが日常となる。これは、ある意味で、サラリー生活者にとっては好都合なことであるかもしれないし、アメリカ経済が上昇の一途をたどっており、ケインズ的な計画経済の国家体制が強固であった時代には、きわめて自然なライフ・スタイルであったと言えよう。
    しかし、アメリカが「計画国家」から「危機国家」へ移行し、安定した "マイ・ホーム" よりも婚やハップニングに満ちた "劇的" な生活が日常になる今日では、こうしたライフ・スタイルは、時代おくれのものとならざるをえない。ブルックリンが、ある意味でつまらなく感じられるのはそのためであり、ブロンクスがアンチ・マンハッタンとして反情報的価値をもっているのに対して、ブルックリンがそうした情報価値すら欠如しているのも、そのためである。
   ブルックリンの住宅街がとくに "おもしろかった" のは、一九五〇年代かもしれない。この時代に、ブルックリンの白人住宅地に、少しずつ黒人が入ってきて、白人たちは露骨な拒絶反応を示した。結局、ハーレムと同じように、白人たちは外へ逃げ出し、現在みられるように多くの黒人コミュニティが出来あがった。このことを情報環境論的に考えると、 "アメリカン・ウェイ.オブ・ライフ" という均質的な情報システムと化していた環境が、この時代に異質なものの侵入を受けて、危機に陥るわけだが、やがてそれは、黒人たちを主体にした別の情報システムにとってかわられるのである。
   しかしながら、この情報システムがどこまでそれ以前の情報システムと質的に異なっているかというと、それは相当疑問である。ブルックリンには、ベッドフォード・スクイブサント地区のような恐るべきスラムもあるし、ウィリアムズバーグ地区のように "ハシディム" 派のユダヤ人特殊地帯もあるが、わたしが住んでいたフラットブッシュ・アヴェニューに近い住宅街に代表されるような黒人コミュニティの住人たちは、みなサラリー生活をしている中流階級で、そのライフ・スタイルは、エスニック的であるよりも、むしろアメリカ的 "アメリカン・ウェイ.オブ・ライフ" 的なのである。つまりここでは、一旦はその情報環境の均質性がゆさぶられはしたものの、やがてもとの均質性をとりもどしてしまったわけである。それゆえ、ブルックリンのこのような地帯が情報価値をもたないのは、そこが情報化されていない生活環境であるからではなくて、すでに徹底的に情報化されつくされた環境であるからなのだ。



   徹底的に情報化されつくされた環境とは、 "死の街" である。それゆえ、情報環境とははなはだ危険な環境なのであり、生活環境の一つの終末形態だと言えるかもしれない。このことは、マシハツタンが活気を失ってきたこととも無関係ではなく、マンハッタンがおびただしい情報のネットワークによっておおわれているというだけでなく、マンハッタンの生活がどれもこれもシェントリフィケイションを新しいライフ・スタイルとして、つまりは情報として採用することによって情報化されつくし、生活環境のもつハップニングやパフォーマンスの要素を枯渇させてきているということと関係があるのである。
   ニューヨークの歴史は、いわば情報化と生活環境化とのあいだをゆれ動いてきた。マンハッタンに住もうがブルックリンに住もうが、人はどのみち生活環境に関わらざるをえないのだが、 "アメリカン・ウェイ.オブ・ライフ" とか "シェントリフィケイション" といった情報化された流行生活を生きるのと、たとえば新参の移民者が新しい生活場で必死に生きるのとでは意味が異なる。一〇〇年まえのマンハッタンは、情報化された流行生活の場であるよりも、むしろ新しい移民者の生活場であった。ヨーロッパやアジアからトランク一つでやってきた多くの人々が、ひとまず新しい生活を開始するのはマンハッタンにおいてだった。むろん、その時代にも、移民の流入と流出の激しかったロワー・イースト・サイドのようなところと、ある程度成功した者たちが住んだミッド・マンハッタンとのあいだには、生活環境化とある種の情報化の関係が存在し、後者は、たとえば建物の前面がブラウン・ストーン(褐色砂岩)で出来ているアパートメント・ハウス(一八七九年にアパート建築の標準プランが成立する)に住むことが流行したといったことのなかにその事例を見出すことができる。
   ブラウン・ストーンの建物というのは、もともと上流階級のあいだで流行したものであり、それがこの時代に複製化・情報化され、中流階級のあいだにひろまるのである。上流階級の方は、そのころにはブラウン・ストーンに見切りをつけ、フレンチ・シャドウ風の建築に傾いていった。まさに上流階級はヨーロッパの上流階級の生活環境を、中流階級は国内の上流階級の生活環境を情報化しできたわけであるが、その規模は、移民の "無産階級" がいわば裸一貫でやってきて与えられた環境に住みついてしまう生活環境化の規模とダイナミズムにくらべると、はるかにおとなしいものだった。
   生活環境の大規模な情報化は、一九一〇~二〇年代にはじまるが、その端緒は、ブルックリン橋の竣工にまでさかのぼる。マンハッタンとブルックリンを結ぶブルックリン橋が開通するのは、一八八三年五月二四日で、一九八三年の一〇〇周年には、盛大なフェスティヴァルが開かれた。わたしは、そのまえにニューヨークをはなれてしまったので、フェスティヴァルを見聞することはできなかったのだが、すでに数カ月まえからブルックリン・ミュージアムで「ザ・グレイト・イースト・リヴァ・ブリッジ」という展覧会が開かれたり、ブルックリン橋にちなんだ映画、講演、ショーなどが開かれ、五月二四日の当日に行なわれる花火大会やパレードの準備風景が報道されたりした。かつてアメリカの先進テクノロジーと産業の象徴であったブルックリン橋も、今日では観光的な情報価値しかもっていないようにみえる。以前、日本のテレビのコマーシャル・フィルムで、スティックをもった一人の若者がこの橋のスチールの欄干をドラム代わりにしてジャズのドラミングの線習をしており、欄干にぶつかるスティックの乾いた音が静けさのなかをひびきわたるというシーン・があった。それをみて、わたしは、なるほどブルックリン橋は海外ではまだまだロマンティックな情報価値をもっているのだなと思った。
   というのも、一度この橋を徒歩で渡ってみるとわかるのだが、ここから見渡せる日の出時のニューヨーク港やマンハッタンの夜景はなかなかのものだし、こんな建造物が一〇〇年もまえに出来上がったことには驚かされるとしても、遊歩道の下を猛烈ないきおいで走る自動車の騒音と排気ガスのために、こと音楽的な環境に関しては、ブルックリン橋のうえは最低だし、イヤー・マスクかウォークマンでも耳にかけないことには、とても橋の一個所にとどまってはいられない状況なのである。車で渡る場合にしても、鉄板の道路と車のタイヤがすれあういやな音のために、一刻も早く橋を渡ってしまいたい気持にさせられる。橋のうえをのろのろ走り、ときには三〇分もストップしてしまう地下鉄のことはすでに他所で書いた通りである。
   しかし少なくとも、開通してから一九五〇年代までのブルックリン橋は、大量生産と大量消費の社会を成熟させるための文字通りのかけ橋だった。それは、マンハッタンの産業規模やそこで働く労働者のベッドタウンを拡大しただけでなく、もともとは上流階級の保養地だったコニー・アイランドをニューヨーク市における最大の大衆的レジャー・ランドにする要因となった。コニー・アイランドがレジャーの大量生産・消費の場所として本格化するのは、マンハッタンとブルックリンを結ぶ地下鉄BMT(ブルックリン・マンハッタン・トランジット会社)ラインが一九二〇年にコニー・アイランドまでのびてからだが、ブルックリン橋が開通してから急速に交通の便がよくなったことは、レジャー・ランドとしての形態をととのえてゆくプロジェクトを軌道にのせた。一八九七年には、コニー・アイランドのメインをなすスティープルチェイス・パークが、続いてルナ・パークが、それぞれオープンし、一九〇五年にはドリームランド・パークで、「創造」、「世界の終わり」、「ポンペイの没落」といった催しがひらかれた。
   ブルックリン橋の機能は、一九〇三年に開通されたウィリアムズバーグ橋と一九〇九年のマンハッタン橋によってさらに補強されることになる。その主要な機能は、ブルックリンにおける生活環境の情報化への道をひらくことであったが、これらの橋はそれと同時に別の機能をもはたすことになる。すなわち、マンハッタンからの交通の便がよくなることによって、貧しい移民たちがマンハッタンからブルックリンのウィリアムズバーグ、フラウンスヴィル、レッド・フックといった地域に移り住み、そこにスラムが出来あがったのである。これらのスラムには、ユダヤ系、イタリア系、ドイツ系、スカンディナヴィア系、ポーランド系、アラブ系、シリア系などの移民が住み、レッド.フックはアル・カポネの育った場所として有名である。
   この場合、ブルックリン橋(およびウィリアムズバーグ橋、マンハッタン橋)は、マンハッタンにおける上流階級の特権的な生活環境と、中流階級の情報化された生活環境が危険にさらされるのを防ぐ役をはたしたと言わざるをえない。というのも、もし、マンハッタンに上陸した移民が、すべてマンハッタンのなかだけにその生活環境の場を限定されたとしたら、マンハッタンの中流・上流階級の生活は、侵食されかねなかったからであり、上流階級の特権的な優雅な生活環境も、その複製(情報化)としての中流階級の生活環境も、移民たちの裸一貫の、むき出しの生活環境によって侵略されるおそれがあったからである。ブルックリンは、いわば、社会の "危険分子" をわき道にそらせる役目をはたしたのであり、スラムも、マンハッタンのものとはちがい、孤立的な性格が強い。それは、土地の広さがそれぞれのコミュニティの孤立化を可能にするためにそうなったのであろう。



   かつて移民者は、ニューヨーク港につくと、一旦検疫のためエリス島に泊められ、それからマンハッタンに上陸した。だから、もし彼や彼女らがブルックリンに住むとしたら、マンハッタンからブルックリン橋を渡ってブルックリンにやってきたわけである。たいていの場合、彼や彼女らは、マンハッタンのロワー・イースト・サイドやヘルズ・キッチンの親戚宅か安宿に一旦仮の宿をとり、それから他所へちらばっていったり、そこに定住したりした。
   移民者が生活環境を定めるやり方は、今日、大幅にちがってきている。まず、今日の移民者は昔とちがい、船ではなく、飛行機でやってくるため、他国から直接ニューヨークに移民しできたとしても、マンハッタンではなくブルックリンのケネディ空港に着く。ニューヨークにいるとき、わたしは何度か客を出むかえにケネディ空港に行ったが、東アジアから来る飛行機の客が出てくる通関出口には、おびただしい数の中国人、韓国人、ベトナム人がいた。そして彼や彼女らは、明らかに故郷から呼びよせたと思われる家族や友人たちとこの通路で感激的な対面をくりかえすのである。わたしが成田からケネディ空港に着いたときにも、飛行機便がソウル経由であったということもあって、非常に多くの韓国人移民といっしょに通関をすることになった。そのとき、通関のゲートには、韓国語の通訳をする女性職員がおり、彼女は、移民のためのぶ厚い書類をさし出すだけで全然英語をしゃべることのできない老人や、通関職員の質問の意味がわからず立往生している女性たちのあいだを飛びまわって、忙しく立ちはたらいていた。
   今日の貧しい移民者にとって、マンハッタンは、全く生活の場とはなりえない所だ。手間ひまかけてさがせば、まだドヤ的な安ホテルはあり、たとえば四六ストリートのウェスト・サイドには、まだうさんくさいルーミング・ハウスが何軒も残っている。しかし、わたしがかつて住んでいたチェルシーのルーミング・ハウスも、すっかり内装を変え、外からみえる様子では、個人の持家か何かになってしまった。右も左もわからない難民や移民がころがりこむようなところは、マンハッタンにはほとんどなくなったと言ってよい。
   そこで彼や彼女らは、別の地域に避難所を求めることになるが、ブルックリンでは、プロスペクト・パークの南側のパレイド・グラウンヅという地域がアジアからの貧しい移民たちの集まる所として有名であり、そこにはひじょうに安いアパートメント・ハウスがたちならんでいる。ここには、一九八三年現在一五〇人ほどのインドシナ難民が住んでおり、空室はほとんどない。彼や彼女らの生活は決して楽ではなく、八人家族が月三三〇ドルの社会保障と三〇〇ドルの食事手当で生活しているといったことがごくあたりまえになっている。そのうえ、彼や彼女らは、強盗やかっぱらいからも身をまもらなければならない。信じがたいことであるが、こういう人たちをおそう強盗がいるのであり、一九八三年三月に起こった事件では、カンボジアの難民がパレイド・グラウンヅの安アパートで、ピストルをもった二人組の強盗におそわれ、とどいたばかりの社会保障の小切手から、金と名のつくもの一切をうばわれた。それは、まるで、ここでは交換価直・情報価値にもとづく生活は許されず、ただただ生活環境にはいつくばって生活するしかないかのようだ。
   マンハッタンには、すべての生活環境を交換と情報に帰してしまうようなところがあるとすれば、ブルックリンにはすべての生活環境をまる裸の生活環境に、つまり文字通りの裸一貫に追いやってしまうようなところがある。従ってブルックリンには、いわば "裸と裸" の人問関係が可能であるようにみえるが、現実の動向が徹底的な情報化に向かって進んでおり、何らかの形で情報化されていないような生活環境はないという状況のなかで "裸" にされるということは、生活環境の破壊にひとしいのである。しかも、この "裸" は、みずから裸になるのではなくて、他から強制されて裸になるのである。
   それにしても、ブルックリンは盗難の多いところで、わたしが泊まっていた友人の家も、すでに三回もどろぼうに入られており、一度は、二階で寝ているあいだに、一階においてあったステレオ一式をそっくりぬすまれた。ところが、警察に電話しても、盗難の多発地区とかで、警官は指紋の一つもとりには来ず、電話で調書をとっただけだった。そうなると、地域住人が何らかの形で自衛するしかないが、中流階級の一般的な自衛方法は、警備会社への依託という形をとることになる。その点でおもしろいのは、移民自身による結束であり、排他的なコミュニティを作ることによって "外敵" の侵入をくいとめる自衛の方法である。これは、たとえばイタリア人移民のコミュニティが、マフィアに警備を依頼することによってその安全を保ってきたというようなやり方である。これは、今日では、マンハッタンでそうした閉鎖的なコミュニティを作ることはむずかしくなったためと、エスニック・コミュニティ自身がマンハッタンの外に排除されがちなために、マンハッタンではあまりポピュラーではない(ただし、中流階級のシェントリフィケイション化されたコミュニティの閉鎖性をこうした自衛手段だと考えることもできなくはない)。
   その点、ブルックリンにはそういう可能性が残っているわけだが、今日、そのような意味で比較的自律したコミュニティを作っているのは、ブライトン・ビーチのロシア人コミュニティであろう。ここにはもともとユダヤ人のコミュニティがあったが、現在ここの住人たちの多くは、一九七二年以降にソ連からやってきたユダヤ系のロシア人である。現在ここには、二万五〇〇〇人のロシア人移民がいると言われているが、かつてここに住んでいたユダヤ人たちとちがって、彼や彼女らは、ユダヤ人ではあってもイーディツシ語ではなく、ロシア語を日常語としている。
   コニー・アイランド行の地下鉄Dトレインでマンハッタンから四〇分ほどゆくと、ブライトン・ビーチにつく。そこはすでに地上駅で、改札を出ると、高架線にそった道路に物売りの声がこだまし、下町の市場的な風景が展開する。たちならぶ商店のたっぱはあまり高くなく、メイン・ストリートをブロックごとに切っている横道には、実にカラフルなペンキを塗ったコッテージ風の住宅がならんでいる。ユダヤ人のためにコーシャの食品を売る店もあるが、ケーキ屋やパン屋の店先にならんでいるケーキやパンは、明らかにロシア風であり、店のなかで働いている大柄の女性の着ているものはロシアの民族衣装なのである。ウィンドウに山もりになっている田舎くさい菓子がおいしそうだったので買うことにし、金を払うときに、その名をたずねると、メリー・ストリープをたくましくしたようなその女性は、レジスターを押しながら、「シュトゥルードル」と言ったが、 「トゥルー」 のrの発音には、ロシア語の遠く奥深いひびきが感じられた。
   ブライトン・ビーチのメイン・ストリートのにぎわいは、一キロも歩くととだえてしまうが、オレンジと黒砂糖の香りの強いシュトゥルードルをかじりながらこの通りを歩いていると、ここがニューヨークであることを忘れる。ここは海がすぐ近いので、黒海に面したオデッサ出身のロシア人移民が好んで住むというが、うわさでは、ここのブラック・マーケットではピストルでもニセの旅券でも手に入るという。しかし、この "うさんくさい" 街は、ニューヨーク市内とは言っても、ブルックリンの大西洋側に思いっきり押しやられた "辺境" なのである。


初出: