「雑記」
Thursday 09 Feb 2023 (Update)  -TK-

◆例によって、年末から新年にかけて、気になりながら放置してきたことに専念した。これもある種の「整理」かもしれないが、「整理」というより「なおす」ということかもしれない。「整理」には、「整」、「理」という、正道に従わさせるようなニュアンスがあり、また、「断捨離」という廃棄のが類縁語もあって、しっくりしない。その点、「なおす」は、「直す」でありながら「治す」であるからやや救われる。
◆そのうち、一番手まどったのは、アップルのでない「非純正」マシーンにmacOSしかもその最新ヴァージョン Venturaを入れる作業だった。すでに10年前、Hackintoshの活動に惹かれ、AT互換機にSnow Leopardを入れるなんてことをやり、その「すったもんだ」をリポートしたことがあるが、その後、VirtualBoxやVMwareの性能が向上し、Linux上でmacが走ることを知った。しかし、実際にやってみると、そううまくは行かない。
わたしは、macを使いたいからこんなことをするのではない。いまやコンピュータ作業はLinuxですべて済むと思っている。ただ、Windows 11ですらヴァーチャルに走らせられるのだから、macのあいかわらずの閉鎖性はぶちやぶりたいと思うだけだ。最終的に、Snow Leopard以後の全ヴァージョンをヴァーチャルに走らせようという今回の試みは成功し、「すったもんだ」はむくわれた。
◆「整理」に抵抗があるのは、ここには殺しの欲望が潜在しているからである。ジャン=ポール・ベルモンドの映画 Un Nommé La Rocca (1961)が1962年に公開されたとき、邦題は『勝負をつけろ』だった。「勝負」に「かた」というルビがふってあったが、いまでは『勝負(かた)をつけろ』と表記されている。だが、「かた」には、「勝負」をこえて「カタづける」、抹殺するという含みがある。ギャング映画で「カタをつけろ」とは、殺すという意味である。ちなみに、この映画は、当時のフランス映画らしく、スカッとした「カタ」はつかないで終わる。
◆物であれ、電子データであれ、「片付ける」ときには、既存のそれらを部分的にであれ、抹消したいという欲望が働いている。「身辺整理」なんてのも、まさに「身辺」を殺すわけだが、「身辺」だけではなく、「身」そのものを「整理」してしまうこともふくまれる。「断捨離」は、英語で"Death Cleaning"というそうだ。やっぱり「死」がからむ。そういえば、映画『サンシャイン・クリーニング』(Sunshine Cleaning, 2008)のアラン・アーキン演じる爺さんとふたりの娘の一家の仕事は「デス・クリーニング」だった。
◆ジャン=リュック・ゴダールは、まさにフランソワ・オゾンの『すべてうまくいきますように』(Tout s'est bien passé, 2021)が予告したかのような介護付きの自殺を遂げたが、その命日に ミシェル・ド・モンテーニュの9月13日を選んだのは、ブッキシュで思想史に精通したゴダールらしい。
◆モンテーニュは、病死したのだが、『エセー』(または『随想録』)のなかで老衰よる死なんてものは、「異常な死」であり、「不自然な死」である、と書いている。彼は、病死や事故死のほうが「自然な死」であると書いたが、疫病で急死した親友エティエンヌ・ド・ラ・ボエシへの想いもあったかもしれない。そもそも彼の時代は激動のさなかにあり、老衰なんぞで死ぬのは贅沢であった。
◆戦争や疫病の時代には、殺されたり、病死するのが「自然な死」である。21世紀はまさにそんな時代になっているが、死についての意識は、文字通り「意識」の問題であって、身体は死を意識しはしない。意識を括弧に入れれば、死は存在しないわけである。死を迎える「身辺整理」などは、身体の知ったことではない。身体は、意識にはおかまいなく、生き、そして死ぬ――というより、身体は「死ぬ」ことも「生きる」こともない。意識が観察する「肉体の死」は、身体にとっては、位相の変化にすぎず、土や大気のなかで別の位相で生成しつづけるだろう。肉体をいくら破壊しても、分子レベルまで抹消することは出来ない。
◆整理できるのは意識の世界だけである。しかも、意識は、意識を失う死を意識・知覚することができない。目が自分の視線を見ることができないのと同じだ。が、この不可能性があるがために、われわれはものを見ることが出来るのであり、意識もまた、死を現在形で意識できないからこそ、生きる、生きるしかないのである。そして、意識は、その不可能性のために、「整理」を欲し、死についても語り、とどまることを知らない。身体の居候(いそうろう)である意識は、たえず更新するしかない。発作主義(パロキスムス)とは、既存の意識を殺して殺して殺しまくることだ。
◆だが、意識を過剰に起動させるよりも、意識を極限まで萎縮させ、無力にする方が身体にあっているような気がする。「死んだふり」なんかはその一法だろう。昨年わたしは、ドタキャンの言い訳のような行きがかりから「肉体を持った粉川哲夫は死んだ」という戯文を『なnD 9』に書いてしまった。意図はなく、発作(パロキスム)である。が、マイナーな雑誌とはいえ、公表は公表だから、これは事実上の「宣言」である。以後、わたしは、「遁世」の身になった。「遁世」といっても、環境は無住の『沙石集』の時代とはちがうから、いわば「デジタル遁世」である。
◆昨年、スペインのアグネス・ペイにたのまれて「ラジオアートの現象学」なるテーマで録音を送ることになっていたが、マイクにむかってしゃべりはじめてから、ふと、「肉体を持った粉川哲夫は死んだ」という「宣言」をしてしまったことを思い出した。肉体とその要素を世間にさらさないことにしたのだから、声の録音を公開するのは違反である。そこで、声を出すのはやめ、文字読み取りのツールText-to-Speech(TTS)を使うことにした。すでにベルリンのダイアナのときも、その方向で彼女の企画につきあった。
◆アグネスは、肉声にこだわっていたので途中でテキストを送るからそちらでText-to-Speechにかけてくれと言ったら怒るかなと思ったが、実は逆だった。彼女は、TTSのサウンドアートでの可能性についてすでにいろいろの実験をしており、逆にわたしの「ドタキャン」(声の録音の代わりに原稿を渡す)を歓迎してくれた。「どんな声がいいですか?」と言うので、アルトーの「器官なき身体」の声かな、などと無責任なことを言いながら、そういえば、放送用に録音し、生前放送されることのなかった彼の "Pour en finir avec le jugement de dieu" は、アルトーにとっては声をかぎりなく「器官なき身体」に近づける実験だったのだということが浮かび、いまではYouTubeにも載っているアルトーのその声の録音をさらに「ジェンダーレス」にしたものがいいと勝手なリクエストをした。
◆いまTTSの技術は、「AIアナウンサー」のような身近な例を聞くまでもなく、かなり高度化したとはいえ、わたしが30年まえにNeXTコンピュータでSPIELというTTSを使っていたときとくらべて、革命的な変化を遂げたとは言い難い。が、それは、技術の問題ではなく、TTSをどういう方向で動かすかという「思想」が混乱しているからである。「ジェンダーレス」という選択肢を持ったTTSもあるが、それは、「男」と「女」の声の中間を取ったような無難な平均値でお茶を濁している。が、ジェンダーレス・ヴォイスという観念は、ジェンダーそのものにゆさぶりをかける。
◆先日亡くなったブルーノ・ラトゥールをはじめとして、ヴァンシアンヌ・デプレ、ニック・ランド等々、「動物になる」というテーマが語られることが多い昨今だが、それは、動物には外側つまりその肉体からしかアプローチできないという「臆念」を利用した意識の極小化の一法ではないか? が、動物に身をすりよせても無理だと思うわたしは、意識の極小化の一法として、ロボット化を選ぶ。つまり、ロボットや人工心身になる、実際には、身体はそのまでそういう人工意識として振る舞うのである。これが、いま考えている「デジタル遁世」の方法である。
◆そんなデジタル遁世のなかで、「雑日記」のフォーマットにカタをつけたいという衝動が起こった。そもそも、〔粉川哲夫の「雑日記」〕の「粉川哲夫」には早々に死んでもらいたい。そこで、今度のヴァージョンでは単純に「雑記」とした。日替わりでは書かないし、深夜生活で2日にまたがった生活をしているから「日」にはこだわれないので「日」をはずした。遁世なら何も形にしないほうがいいのかもしれないが、デジタルの環境には振動がうずまいていて、静寂や虚無の余地はない。


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