「俺は最悪に輝いている」

『クラム』(Crumb, 1994, USA)

不思議なことに、この映画を見てから、評判の高いある大作の試写をハシゴしたところ、作品そのものが空虚に感じられ、全然その世界に入っていけないのだった。 といって、この『クラム』は、ギラギラした作りの映画ではないし、映像が衝撃的なわけではない。が、ロバート・クラムとその周辺の人々の一見日常的な仕草と回想的な語りとを淡々と撮ったかに見えるこのドキュメンタリーが、映画のもつ本来の迫力と表現の力を発揮するのである。
ロバート・クラムについては、小野耕世氏の早い時期の紹介があったと記憶するが、一般には、ハレンチ漫画アニメ『フリッツ・ザ・キャット』の原作者として知られている程度である。(《ビギナーズ・シリーズ》の『カフカ』のイラストも描いていて、その邦訳――心交社――もあるが、それがあのクラムであるということは話題にならなかった)。
しかし、クラムは、いまや、六〇年代のアングラ・カルチャーのカルト・ヒーローの一人として伝説化されており、その作風自身の影響のみならず、彼がいるということ自体が、慣習に従わない生き方やアナーキーな感覚の(いまでは非常に乏しくなった)存在意義を保証してくれるような存在になっている。
こういうと、クラムという人物は、いかにも存在感にみちた風格のある人にように思われるかもしれないが、映画で見る彼の姿は、安っぽい背広と中折帽をかぶり、チョビ髭をはやしたサエないおじさんである。
通常、このような場合、この一見平凡そうに見える人が、次第にスゴみを見せていくというプロセスをとるが、この映画は、決してそういう方向をとることもない。全編、ロバートと彼の兄チャールズ、弟マクソン、母のベアトリスはみな楽しそうであり、友人たちも別れた妻もごく自然にクラムについて語っているように見える。
クラムを有名にしたコミック『ミスター・ナチュラル』は、一見どこにでもある家庭や家族がその実、暴力や残酷さや性的抑圧と隣リ合わせあることを異化し、露出させたが、この映画の監督テリー・ズウィゴフは、いわば、『ミスター・ナチュラル』の逆を行った。つまり、決してどこにでもいるとは言えない人々(しかし、それは、彼らが慣習や制度の奴隷ではないからだ)をあたかもどこにでもある平凡な家庭の団欒風のスタイルで撮ったのである。
このことは、逆に言えば、「なごやかさ」や「平凡さ」というものは、メディアの産物であり、社会性とメディアとが不可分離の関係にあるということである。
クラム家の生活は、五〇年代のアメリカを体現しているような虚構的な「ノーマル」志向の父親との激しい葛藤のせいもあって、悲惨であった。弟たちは、いずれもすぐれた芸術的才能の持ち主でありながら、青年期以後に早くも世を捨てた生活に入った。映画の撮影の時点で、チャールズは、入浴は六週間に一度、外出は一切せず、哲学書の乱読とマスターベーションにふけるという生活をしている。マクソンは、安ホテルで絵を描いているが、おびただしい釘の立った台に坐り、紐を口から肛門まで通すといった「修業」に励んでいる。母は、チャールズといっしょに住んでいるが、窓を開けておくと、何か闖入してくるという妄想をいだいている。
なにかに憑かれている彼らや彼女が、カメラのまえでは、あたかも「普通の」家族であるかのように団欒し、過去を回想しては笑い合う。見ているわれわれは、つられて笑ってしまうが、次の瞬間、自分のなかでその笑いが凍りつくのに気づくのだ。
実際に、この映画の最後は、色々あったにせよ、いまでは肯定しているかに見えたアメリカをクラムが捨て、フランスに移住する引っ越しのシーンで終わる。そして、最後のクレジットで、われわれは、兄チャールズが、撮影の翌年、自らの命を絶つたことを知る。これは「カフカ的ユーモア」の極みである。

週刊金曜日、1997年3月28日、p.42