「トゥルーマン状態」の時代へ

これは、傑作である。一九七九年に公開されたハル・アシュビーの『チャンス』は、八〇年代のアメリカであらわになったさまざまなメディア症候群を鋭く予見した映画であったが、この『トゥルーマン・ショウ』は、まさに九〇年代にあらわれつつあるメディアの動向と病理をいささか皮肉に描きつくしている。
『チャンス』は、もしテレビだけで育った人間がいたとしたらどうなるだろう――というシミュレーションをし、その人物が、偶然(チャンス)につぐ偶然の痛快なドラマの果てに、最後は、アメリカ大統領になるらしいというところで終わった。
おもしろいことに、この映画の公開直後に、レーガンが大統領になり、この物語との符合がとりざたされたこともあった。そして、時代は「ニューメディア」への夢にうかれ、コンピュータにはまり込む「ハッカー」や「オタク」(ナード)が社会現象になり、また、ビデオカセットや都市型ケーブルテレビが普及し、テレビ中毒の「カウチポテト」が話題になるようになった。これらは、おおむね、『チャンス』が示唆した動向であった。
『トゥルーマン・ショウ』のシミュレーションは、『チャンス』よりももっと過激で、一見、空想的すぎるようにみえるかもしれない。一人の人物が生まれるところから、その生活のすべてを隠しカメラで全世界に実況中継されるような番組が早晩登場する見込みはないからである。しかし、この映画のようにドラマティックには展開はしないとしても、現実には、部分的な形で、このようなことは起っており、それは今後ますます激しくなるはずである。
いま、子供の成長をビデオに撮る親は相当数いる。なんらかの形でテレビに映ったことがある人も増えている。まだ数は少ないとしても、インターネットでテレビ「放送」をやっている個人もいる。クレジットカードの情報やさまざまな個人情報の多くがコンピュータに入力されているので、それらを密かに寄せ集め、分析することは、技術的には可能であり、アメリカのNSA(国家安全保障局)などは、現にやっている。
こうした動きをつなぎあわせてみると、トゥルーマンのようにすみからすみまで監視され、密かに公開されているということはないとしても、部分的には、現代の個人は、みなすでにトゥルーマン状態に置かれているのである。
映画のように、島全体を「セット」化し、四季から天候まで自由にコントロールできるような条件をととのえることはできないにしても、われわれをトゥルーマン状態に置く技術はととのっている。実際、和歌山の「保険金詐欺」事件の主役たちは、ひと月以上にわたって「トゥルーマン・ショウ」を演じるはめになった(今後もその続きをやらされるかもしれない)。
この映画で、とりわけ印象的だったのは、トゥルーマンが、自分の置かれている状況を認識し、島から脱出をはかり、死にそうな目にあいながらようやく向こう岸にたどり着くシーンだ。映画の観客の目には、初めは、トゥルーマンが、必死で彼の脱出をくい止めようとする「ディレクター」(エド・ハリス)の攻撃をふり切ってようやく静かな海面に乗り出したかに見えるのだが、そのはるかかかなたまで延びているように見える海面と空が、実は、人工島のへりの壁に描かれたヴァーチャルな映像であって、その一部には、外部に出るドアーさえついていることがやがてわかるのである。まさに幻影の装置としての映画とドラマの内実とが切れ目なく重なりあい、まさにヴァーチャルな現実性をかもし出すわけである。
映画は、トゥルーマンが、このドアーをくぐって、その外に行くところ終わるのだが、はたして、そのドアーの先にある現実が、トゥルーマン状態と無縁の「真の現実」であるかどうかは、保証のかぎりではない。問題は、こうしたヴァーチャルな現実が、かぎりなく世界をおおい、もはや、ヴァーチャルを「仮想」などと言って距離を置くことが難しくなっていることである。

(週刊金曜日,1998年11月6日・242号,58 p.)


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