電子と「自然」のあいだで

粉川哲夫


シンセサイザーは、ピンキリのキリのほうならいまでは量販店のおもちゃコーナでも買えるほどポピュラーな「音声合成装置」(と一応言っておく)だが、その最も有力な源流の一つはロバート・モーグが一九六四年にプロトタイプを開発し、翌年に「MOOG-III」という名で発表・発売したものだと言われている。これは、それまで「現代音楽」や「実験音楽」の狭い領域に閉ざされていた「電子音楽」をポピュラー音楽の世界に解放するきっかけをつくった。モーグは、一九七〇にキーボードのついた「MiniMoog」を発表し、「量産」(といっても手作りだから数はかぎられていた)するようになるが、これらがなければ、ヴァンゲリスもスティーヴィー・ワンダーもYMOも別のスタイルで仕事をすることになったはずだし、一九六五年以後のポピュラー音楽シーンは、まったくちがったものになっていたはずなのである。
ハンス・フェルスタッドのドキュメンタリー『MOOG〈モーグ〉』は、開発にまつわる歴史的な映像とともに、それを見るだけでも驚きのミュージシャンやDJへのインタヴュー、モーグと彼らの対話、モーグ自身の回想を共体験させてくれる。フェルスタッドは、カリフォルニア大学サンディエゴ校でジョージ・ルイス(凄いトロンボニストにして現象学者)に作曲とインプロヴィゼイションを学んだというだけあって、このドキュメンタリーは、ロバート・モーグが彼のシンセを開発した過程を歴史的にたどるだけでなく、その背景にあるモーグの思想や思念を引き出すことに成功している。
この映画を見ると、モーグという人物は、電子テクノロジーとともにはじまる、文化と社会をまきこんだ大きな変化を早くから見すえていたし、いまどき「メカに弱くて」などとヤニさがるオジサンよりもはるかに若いという感じがする。ちなみに彼は一九三四年生まれである。
電子テクノロジーが変えつつあるのは、有機的なものを金属や電子回路の無機的な「メカ」にしてしまうというような単純なことではない。当面そういう「メカ」が増えるとしても、電子テクノロジーがその基本において、またその究極において変えつつあるのは、コミュニケーションの様式である。物に対して直接身体を接触させるコミュニケーションから、物に対して「距離」をとりながらも「生々しく」感じることのできるようなコミュニケーションへの移行、あるいは、拡張だ。
モーグは、インタヴューのなかで、手にした緑色の電子基盤の上のチップを触りながら、「こうしながら、わたしは、電子機器の部品の内部で何が起こっているかを感じることができるのです」と語る。
これは、三〇年まえだったら、単なる比喩か、あるいは、「電波系」の人にありがちな思い込みにすぎないと一笑に付されるたかもしれない。しかし、いまでは、ケータイ、コンピュータ、さまざまな家電製品に囲まれ、電子環境の都市で暮らしているわたしたちは、そうならざるをえないし、さもなければ、この現実を前面否定せざるをえなくなるのを知っている。DJや電子テクノロジーを使ったアーティストへの憧れや賛美が高まるのも、そうした文脈のなかで考えると、納得できる。
モーグにとって、電子テクノロジーと「自然」とのあいだには断絶がない。ノースカロライナの自宅の菜園でさまざまな野菜や果物を栽培する彼は、電子基盤を触るのと同じ手つきでハーブやペッパーを手にする。彼は、「地球の複雑なエコシステムも、よくチューニングされたマシーン(これは、当然彼の「モーグ」シンセサイザーのこと)のように、大切にあつかわれなければならない」と言う。実際、彼は、そのシンセサイザーによって、音を「合成」(シンセサイズ)しようとしたというよりも、むしろ、音たちを解放したのである。

(週刊金曜日、2005/2/11、No.544、pp.50-51 のための原稿)

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