【読者コメント】

2006/12/26 0:20 谷合佳代子さん

 さて、今日メールを差し上げましたのは、「王の男」について、 この映画のラストを事実誤認されているのではないかという 危惧を抱いたからです。
 この映画の最後に王宮に人々が押し寄せるシーンがありますが、 あれは民衆蜂起ではなく、クーデターです。旗を押し立てている 人々の服装も軍人のものかもしくは高級官僚のものであり、 どうみても民衆蜂起ではありませんでした。また、史実でも ヨンサングンはクーデターによって王位を追われています。
 ですから、芸人二人が民衆蜂起を先導したかのような記述もしくは 解釈は間違いではないでしょうか。もちろん、チャンセンが反権力を 最後まで貫き通したことは間違いなく、そこがこの映画のキモだと思い ます。一介の芸人が宮廷の政治劇に巻き込まれ、「巻き込まれ型」では あるとはいえ、最後は「主体的に」その中で自分の役割を全うしようと したことは、近代人から見てたいへん胸のすくものであり、面白かった です。であるからこそ、結局は彼らも高官の政治に利用されただけの 存在であったという悲劇性が最後に浮かび上がるのではないでしょうか。


【回答】

  2006/12/26 3:48

メールありがとうございました。面白く拝読しました。

>> この映画の最後に王宮に人々が押し寄せるシーンがありますが、
>> あれは民衆蜂起ではなく、クーデターです。旗を押し立てている
>> 人々の服装も軍人のものかもしくは高級官僚のものであり、
>> どうみても民衆蜂起ではありませんでした。また、史実でも
>> ヨンサングンはクーデターによって王位を追われています。

なるほど、「クーデタ」と「民衆蜂起」はちがいますね。ただ、「クーデター」 の解釈によると思うのですが、政権の内部から権力を倒しながら、反動的になっ てしまう場合をわたしは、「クーデター」という言葉で言い、圧制を倒した場合 は、そうは言いたくないのです。あくまで言葉を使う場合の好みとしてです。実 際には、両方の意味で使われています。

映画ですから、歴史上の「ヨンサングン」はひとまず括弧に入れましょう。そう してあの映画を見た場合、最後のシーンは、わたしのコンセプトでは、「クーデ ター」とは言い難いのです。

たしかに「民衆蜂起」と書いたのは、誤解をまねくかもしれません。ただし、わ たしの考える「民衆蜂起」は、「民衆」の自発的な意志にもどづくようなもので はありません。そう見える場合でも扇動があるし、仕掛けがあります。フランス 革命も決して、完璧自発的・内発的なものではありませんでした。

それと、これは、韜晦ではありませんが、たとえ軍人でも、その内部には「民 衆」の要素をはらんでいますね。わたしが言う「民衆」は、階級概念ではありま せん。

「旗を押し立てている人々の服装も軍人のものかもしくは高級官僚のものであ り」というシーン、いずれ、よく見直してみます。

言いたかったのは、「民衆蜂起」を「王政権の打倒」と改めれば明解になること です。

>> チャンセンが反権力を
>> 最後まで貫き通したことは間違いなく

わたしは、あの映画を前近代の話とはとらなかったのです。風俗、物語の設定は そうでも、所詮、映画はいつも現代を描きます。チャンセンに「反権力」を求め るのは、60年代的でしょう。彼は21世紀的であり、個で闘っていると思いま す。「貫き通した」というのも近代主義ですが、あえてそういう言い方をすれ ば、「個を貫き通した」のでしょう。
ですから、

>> 結局は彼らも高官の政治に利用されただけの
>> 存在であったという悲劇性

というのは、センチメンタルすぎるのです。政治は、利用されるも、されない も、アメーバの増殖状に動きます。映画のなかのチャンセンは、そのことを知っ ていたかどうかはわかりません。でも、彼の最後は決して「悲劇」的ではなかっ たと思います。

わたしは、「王ヨンサングン(チョン・ジョニン)は、単なる暴君ではない」と 書きましたが、あの映画の王・官僚関係は屈折していて、いろいろな解釈ができ ます。権力とセクシャリティの問題が渾然と一体をなしており、フーコーの権力 論なんかの影響を受けているのではないかと思えたほどです。このへんに関して は、あのノートでは、全然展開が未熟です。