【読者コメント】
2002.10.29 澤登浩聡
遅ればせながら、『ジャスティス』を見てきました。
ときに邦題の方が原題に優っている場合もありますが、この映画に
ついては、原題のまま『Hart's War』として欲しかったです。
なぜなら、この映画はそもそも正義についての映画でもなければ、
また戦争映画ですらないと思うからです。
この映画は戦争映画に見せかけた法廷劇であり、そして
法廷劇に見せかけた父子の葛藤劇であると思います。
この監督の以前の作品は『オーロラの彼方』しか見たことがないの
ですが、その作品の父親と息子の密着(しかも時空を超越した密着!)
した描き方をある意味で踏襲しているように思えます。
主人公のトーマス・ハート中佐は、出自の階級に守られていますが、
父親不在の典型的な現代の若者としてまず描かれています。
そして彼はドイツ軍の捕虜となり、自軍の軍事情報を自白させられ、
義務を遂行できなかったことで、おそらく父性としての軍・国家に
対して罪責感を抱いています。そして放りこまれた捕虜収容所で
二つに分裂した父親像に出会います。一人はオールド・アメリカン的な
タフ・ガイとしてのマクナマラ大佐であり、もう一人はナイーブさと冷酷さを
併せもつエリート官僚としてのビッサー所長です。この二人もそれぞれに
罪責感を負っているように見えます。マクナマラ大佐は軍属の名門の出自で
あるにも関わらず、戦闘をまっとうできず、また尋問に耐えられなかったことに
ついて、片やビッサー所長は息子を戦争で亡くしてしまったことについて、それ
ぞれ罪責感を負っているようです。そして二つに分裂した父子の関係が法廷劇の
中で描かれていきます。マクナマラ大佐はハート中佐とスコット少尉即ち我部下
=息子を犠牲にすることによって脱走を成功させ、軍人としての名誉を回復しよ
うとします。一方、ビッサー所長はハート中佐を支援することによって自分の息
子を復活させようとします。そう、極めて旧約聖書的でオーソドックスな犠牲と
復活の物語りが法廷劇の中で暗示されます。そしてクライマックスでハート中佐
がスコット少尉の身代わりを申し出たことで、大きく物語が転換します。
ビッサー所長は自分を裏切った息子を処刑しようとします。愛情が憎悪に転換
する瞬間です。そしてハート中佐が無実の罪を背負って銃殺されようとした瞬
間、マクナマラ大佐が登場し、全てを背負ってビッサー所長に射殺されます。
マクナマラ大佐は撃たれる間際にビッサー所長に「俺たちの負けだ」と告げま
す。すなわち旧世代の開拓者の土性骨をそのまま受け継いだような父性も、ある
いは冷たい官僚としての父性も、息子の自己犠牲の前に倒れるのです。ただし、
おそらくこの瞬間アメリカの大儀は完成し、マクナマラ大佐は自らを犠牲に
することによって、息子の中に蘇るのでしょう。ここでキリスト教的精神と
国家・軍隊への一体感が矛盾なく止揚されてしまっているのです。
だから、私は一言で言ってしまえばこの映画が好きではありません。
僕らが分裂している歴史と制度の申し子であると言うならば、潔く分裂したまま
苦しむべきではないでしょうか? あるいは分裂したまま笑いこけるべきでは
ないでしょうか? それが正直というものです。
【筆者返信】
澤登浩聡さん、
掲載のお願いをしたまま、そのままですみません。ちょっと、ばたばたしてしまって、9月のシネマノートも穴があいたままです。
11月はじめに、時間ができるので、「宿題」をすませます。澤登さんのご意見も載せさせていただきます。
『ジャスティス』に関して、「法廷劇に見せかけた父子の葛藤劇であると思います。」とは卓見です。鋭い指摘と思います。
いま、ざっと読ませていただいただけなので、いずれゆっくり。
粉川哲夫