粉川哲夫の【シネマノート】
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2002-06-28

●セレンディピィティ (Serendipity/2002/Peter Chelsom)(ピーター・チェルソム)


◆ホールに行ったら25分まえなのに人影がない。日時をまちがえたかと、試写状を見る。とざれたガラスドアーの向こうに、人がいる。プレス資料も積まれている。もうすべて入ってしまたのか? ときどき姿を見る女性がいた(その人が到着第1号?)ので、尋ねると、「なかに入れてくれないで」と。「関係者入口」というのからなかへ入って「どうしたの?」ときくと、え?という顔で、「開場は6時半です」という返事。そりゃわかっているけど、人がいなくて、大丈夫なの? ドアの外にもどったら、人の数が4人になっていた。このとき6時20分。それからぞろぞろと関係者がやってきた。配給元のアミューズの因藤さんがこちらを向いて笑顔。が、彼はそのまま2階にあがってしまった。プレスが置いてあるテーブルのまわりにいる人たちは、いまごろ名刺交換をやっている。ジョイント配給なのか? が、開場の時間には、一応列はできた。開場の入りは半分ぐらいだったが。
◆そのわりに、映画自体はけっこう面白かった。あまり金がかかっているとはいえない作り(時間の経過を時計の針の早回しや雲の鈴木志郎康的な早い流れで表現したりする)にもかかわらず、そして単純な偶然と符合をくりかえすだけにもかかわらず、最後までひきつけてしまう。
◆タイトルのserendipityとは、「偶然何かを発見する才能」「偶然見つかったもの」(そこから幸運の意にもなる)そしてニューヨークの225E. 60St. にあるカフェの3つをかけているというが、ブルーミングデールズで偶然、同じ靴下に手が延びて、「あ、失礼」といった感じで知り会い、そのときはあっけなく別れたジョナサン(ジョン・キューザック)とサラ(ケイト・ベッキンセール)とが、その出会いをいつまでも忘れられず、数年後にそれぞれにその想いを加速させ、探しあうなかで起こる出来事の総称。偶然的な出来事を積み重ねていくというのも、たしかにハリウッド映画の定型であり、この映画はその定型を誇張することによって成功している。
◆映画的に気を引く仕掛け/アイデアが色々ある。「連絡したい」と接近してくるジョナサンに、サラが、5ドル紙幣に自分の名前と電話を書き、近くの新聞スタンドで新聞を買ってしまう。あなたがこの紙幣に出会ったら、そのとき会いましょうというわけだ。ハリウッド映画というのは、こういう偶然を必然に変えることによって観客に快楽を与える装置である。だから、当然、この紙幣はジョナサンの目に触れるときが来るのであり、観客としては、それが楽しみなのである。
◆別れてから数年たち、それぞれに結婚の相手がおり、いよいよ結婚するというときになって、二人は、離れ離れの環境(サラはサンフランシスコで)でそれぞれに相手を想う。そして、二人は、それぞれに行動を開始する。ジョナサンが、あのとき、色々あって、サラが買った靴下が、ジョナサンの手元に残ったのだったが、その袋を数年ぶりに開けてみると、そこからレシートが出てくる。そこに打たれているクレジットカードのナンバーから彼女の住所がわかるのではないかと思ったジョナサンが、ブルーミングデールズに駆けつける。
◆映画にはときどき、主役を食ってしまうような脇役が登場する。この映画で、ブルーミングデールズの老店員をやっているユージン・レヴィがそうだ。いかにもユダヤ系という感じのしつこい感じをよく出し、キューザックを相手にお笑いを展開する。
◆ジョナサンにもサラにも、献身的に助ける友人がいる。とくにジョナサンの場合は、ニューヨーク・タイムズで「死亡記事」を書いているというディーン(ジェレミー・レヴェン)が、献身ぶりを示す。これは、潜在的なホモセクシャリティというよりも、ハリウッド映画でくりかえし出てくるメイトシップのパターンだろう。とにかく、この映画は、ハリウッドの定石を意識的に使ったところを見るべきだ。ちなみに、監督のピーター・チェルソムは、イギリスの監督である。
(ヤクルトホール)



2002-06-21_2

●ウインドトーカーズ (Windtalkers/2002/John Woo)(ジョン・ウー)


◆『STAR WARS』が押して、わずか10分程度の間をおいただけで始まるので、はしごをする。観客はそれほど多くはなかった。サイパンで日本軍がやられる話でもあるからだろうか? 戦闘シーンは「サービス」をしてしまうジョン・ウーだが、彼にしては、単なるエンターテインメントにとどまらない域に達している。
◆サイパンの戦闘で、ナバホ・インディアンの言葉が暗号に使われたという話は知らなかった。冒頭、ナバホのリザベーションから男たちが出征していくシーン。妻と子供と別れを惜しんでいるのは、アダム・ビーチが演じるベン・ヤージ。幼い子供が泣く。最後は、足を引きづる彼が、壮大な高原で家族と祈りの儀式をしているシーン。その意味では、ベンがこの映画の主人公。
◆ベンが暗号通信兵(コード・トーカー)として入隊すると、シーンは、ニコラス・ケイジに移る。彼は、命令を厳守し、部下を全員死なせてしまったのが心の深い傷になっている。退院後、彼にゆだねられた命令は、暗号通信兵を守り、いざというときは彼らが敵に囚われて秘密をばらさないように殺すことだった。
◆『パール・ハーバー』のときもそうだったが、「敵」に対する憎しみを描かないというのが、最近のハリウッド戦争映画の特徴になっている。この映画でも、日本軍は、闘わなければならないという戦争のロジックに従って闘っている。日本語も聞こえるが、しっかりした日本語で、表現的な「公平」をまもっているように見える。これは、今日の戦争が憎しみの延長線上では遂行不可能である(9.11以後でも)からであり、そういう認識に立って戦争を肯定するには、内部のにはないということを
◆【読者コメント】2002-08-17
(FOX試写室)



2002-06-21_1

●STAR WARS エピソード2 クローンの攻撃 (Star Wars:Episode II - Attack of the Clones/2002/George Lucas)(ジョージ・ルーカス)


◆完全予約制の社内試写。それも、N氏がすべての采配を握っていて、彼に予約しなければならない。受付の感じは悪くないが、一時のUIPみたい。UIPは、最近、精彩がないが。が、今回の作品は、配給が試写の観客を選んでもいいくらいの出来だった。わたしは、『スター・ウォーズ』シリーズに一度も入れ込んだことはないが、本作は、一番、わたしに近づいてきた。
◆わたしは、STAR WARSシリーズの「世界観」とロマンティシズムが嫌いだが、今回は、砂漠や「宇宙」よりも「都市」(『ブレードランナー』的なカオス的都市)に舞台のウエイトが置かれているのに救われた。あやしげでキッチな「動物」や機械との共存的世界も、映像として本作が一番有機的に描かれているような気がする。
◆「未来都市」、欧米人が保養地として好みそうなロマンティックな「自然」に満ちた環境(水、草原、屋敷)、それから典型的な第3世界的環境としての砂漠と未開生活の場――「自然」/「人工」/「野蛮」――これらが、花鳥風月よろしくバランスよく配分される。
◆宇宙船や一人乗りの「スター・ファイター」のスピード感も、今回が一番いい。100年まえでも、いまの高速道路の車のスピード感を実感することは難しかっただろうが、1000年後、人間は、この映画のなかのようなスピード感で生活するのだろうか、などという思いが浮かんだ。
◆『スター・ウォーズ』は、一方でカリフォルニア的非暴力の「ラディカル民主主義」的解決をはかる姿勢を見せながら、結局闘争や戦争が見せ場になる。ここでも、「共和国軍」の創設に反対するジェスチャーが最初に示されるが、最後は、クローン人間で軍隊を製造し、販売する「カミーノ連中」からクローン部隊を買うことになる。兵士は、もはや、「バトルトロイド」ではなく、バトルクローンなのだ。
◆この物語でいつもうんざりするのは、世襲制や王権へのアメリカ的コンプレックスである。どうせそんなものをやってく気も、土壌もないくせに、変に年齢差や階級差を意識し、カッコつけてみるうすぺらさ。だから、ドラマのなかに、「大きくなった」、「変わった」、「成長した、いや美しくなったという意味ですが」(you grow up, you are beautiful, I mean)といったせりふ、和服をモデルにした衣装、東洋的なおじぎなどが出てくる。しかし、アメリカでは、どういうのがウケる。
◆9.11以後、アメリカ映画が「国」や「政治」を問題にするとき、この事件を無視してはいかなる映像も作れなくなった。どこかに、その影響が発見できる。今回は、冒頭、ゼム・ウェセル(リーアナ・ウォルスマン)という「テロリスト」によって女性議員が暗殺される。そのゼムが、(気のせいか)鼻から下を覆うスカーフのようなものがムスリムの「ベール」をふと想像させる。「共和国」の「自治」が侵されたときにどうするかということも、それは、あっさり、闘って「敵」を倒すというのがあたりまえになった。
◆クローンを兵士にするというのは、今後実用化されうるアイデアだろう。アンドロイドは、既存の技術の延長線上では実現不可能だったが、人間が意識のうえで(たとえばローナーやオトクのように)アンドロイド化するという仕方で具体化された。この20年、ひとの意識は、アンドロイド化した。が、クローンは、一挙にそうしたヴァーチャルさ(実質的な現実性)を乗り越える。
◆この映画でもあるのだが、「敵」を捕まえ、口をわらせようとしていると、どこからともなく銃弾や凶器が飛んできて、「敵」がたちまち息を引きとってしまい、秘密をばらせないというパターンは、一体、誰が創始したものなのだろうか?
◆衣装は歴史的ミックスなのに、食事は単純。パドメ(ナタリー・ポートマン)とアナキン(ヘイデン・クリステンセン)が滝あり草原(そこでは巨大な動物がのんびりと歩いている)あり水辺あり(花鳥風月の)の「別荘」で食べる食事は、プラスチックのような器に果物が1個あるだけ。まあ、未来の食事が果物中心になるというのは、いまの流行りであり、アメリカ人の現在の価値観を示している。ヴェジタリアンから「フルータリアン」(?)へというのが、いまのスノビッシュな流れである。
◆母さがしのプロットには、わたしは、どうしても、両親の離婚で辛酸をなめたアメリカの世代の意識を思い起こしてしまう。
(FOX試写室)



2002-06-20

●MIB II メン・イン・ブラック2 (Men in Black II/2002/Barry Sonnenfeld)(バリー・ソネンフェルド)


◆終わり近くの出来事だったのでパニックにはならなかったが、上映システムの音声機能が停止し、音が途切れてしまった。ときどき、「ウ」「ガガ」「キキ」というようにノイズサウンドが出て、観客は大笑い。わたしの隣には、業界のひとらしい3人組がいて、しきりに、「専門的」な用語を使いながら、事件を揶揄していた。「怒られるぞ、こいつは」。たしかに。もう、この劇場も、限界に来ているのではないか?
◆エーリアンとの共生があたりまえになっている世界。が、これは、ニューヨークのような都市のアナロジーとメタファーをねらっている。最初の方でジェイ(ウィル。・スミス)が「親しくしている」巨大な怪獣が地下鉄の線路の上を猛進するが、ホームの人は気づかない。
◆ウィル・スミスは、あいかわらずだが、ケイ役のトミー・リー・ジョーンズが、そういうキャラクターを演じることになっているとしても、むっつりした無表情に気のなさが出ていて、しっくりしなかった。
◆前作から継承された「記憶」操作の問題は面白い。歴史は、ある意味で、記憶消去装置のアリバイとして書かれる。この映画の世界は、通常は、ジェイのような特殊任務を負っている者しか知らない世界である。普通の者がこの世界のことを知ると、ジェイは、世界記憶消去装置「ニューラライザー」を使ってその記憶を消去してしまう。
◆音の事故とともに、「ニューラライザー」をあてられたかのように、すべてを忘れてしまったので、もう一度見てから書くことにする。
(渋谷パンテオン)



2002-06-18

●インソムニア (Insomnia/2002/Christopher Nolan)(クリストファー・ノーラン)


◆ノルウェーのエーリク・ショルビャルクの同名の作品(1997年)のリメイク。場所は、アラスカに移されている。刑事ウィル・ドーマをアル・パチーノ、犯人ウォルター・フィンチをロビン・ウィリアムズ、ドーマを尊敬し、助手役をつとめる地元の女刑事エリー・バーを、『ギフト』のヒラリー・スワンクが演じているが、ウィリアムズは、今回は、いつもと違うキャラクターで力が入っているというふれこみだったが、どこかしっくりしない。やはり、悪役は彼には向かないようだ。うまくこなしているという技巧性が目立つ。
◆アラスカの小いさな町で女性が殺される。ロスから派遣された刑事ドーマは、同僚のエクハート(メーティン・ドノバン)とともに捜査を開始する。何度も血がしたたり、粗い目の繊維の上に染み出していくショットが出る。これは、やがて、ドーマの過去の体験のイメージであり、彼を襲う強迫観念であることがわかる。それは、彼が、内務局の調査を受けていることと関係があり、同僚のエクハートは、その秘密を知っている。このことが、あとでドーマが、犯人を追う際に、突然霧のなかに現れたエクハートを過って(と映画では見える)射殺してしまったことが、彼を追いつめる。
◆ドーマは、「事故」をフィンチのせいにすり替えるが、逆にフィンチにこの点をつかれる。ここで、われわれは、はたしてあの「事故」は、故意なのかどうかを考え直すことになる。その意味では、この映画は、猟奇殺人事件の物語ではなくて、本意でなく起こしてしまった2つの出来事に悩む一人の初老の男の内面の物語である。
(丸の内ピカデリー1)



2002-06-16

●海は見ていた (Umiwamiteita/2002/Kumai Kei)(熊井啓)


◆日曜に見せてくれるというので行ったら、見るのはわたし一人だけだった。わたしのためだけに(他よりは)広い試写室を開けたのだった。恐縮。昔、よみうりホールで、キューブリックの『フルメラル・ジャケット』を2人だけで見せてもらったことがあったが、こういうことはめったにない。
◆冒頭、川が見えるロングショットで、明らかにCGで作った深川が俯瞰され、カメラが近づくと、(CGからセットへの切り替えは自然)色町の路地に人が一杯いて、やり手ババアや娼婦が客を引いているのが見える。笑いながら客を追いかけているお多福顔の女が、ミディアムショットのときから目立つのが不思議。舞台は、最後までこの色町。なお、プレスシートには、「舞台は壮大な文化都市 "江戸"。日本発 "粋" が世界を駆けめぐる」などと書いてあるが、深川の岡場所は、江戸では2流の色町であり、ここで商売をする女たちは、吉原あたりから流れてきたはずなのだ。
◆最初と最後(洪水に浮く家のミディアムショット)を除けば、この映画の舞台は、「芦の屋」という3流の遊廓の内部とその店の前の路地。ここで働く女郎は、野川由美子演じるおかみのもと、武家の生まれと称し、後輩に詩文の古典を講釈する菊乃(清水美砂)、つみきみはが、清水よりずっといい演技(この店にあった汚れが出ている)をしているお吉、ちょっとオバカな感じを出している河合美智子の女郎、そして遠野凪子が熱演するお新の4人である。つみきを除くと、みなあまりそれっぽいリアリティを感じさせない。
◆市中で刃傷(にんじょう)沙汰を起こしたとかの若侍(吉岡秀隆)が、「葦の屋」に逃げ込んできて、お新がすぐに惚れてしまうというストーリが始まると、こいつは、そういう「純愛」路線でいくのかと思いきや、そういう単純な期待をあっさり裏切ってくれるのは、見事。が、こういう商売をしていて簡単にウブそうな男にまいってしまい、さらに、その女が若侍ために「操」を通せるようにと、仲間の女が、彼女のために仕事をし、上がりを女にやるなどというくだりが、うそっぽい。
◆別に絵に描いたような「汚れ」とか「すさみ」を演じてくれなくてもいいが、こういう世界に流れてきた(しかも清水の場合は、奥田瑛二が演じるヒモに転々と売っぱらわれてきたという過去をもっている)屈折が全然感じられない。つみきを除くと、清水は清水、遠野は遠野のままなのだ。その点、野川、永瀬(親に捨てられ、犬と食い物を分けあって寺の境内で成長した)、奥田、それから、やぼったい常連を演じる石橋蓮司は、それなりの屈折を出している。
◆この世界は、女郎とは関係ないのだ、そういう世界を利用したにすぎないと考えれば、話は簡単。そう考えれば、遠野凪子は、なかなかいい演技をし、ひきつける。北村有起が演じる火消しが女郎遊びをして見せる踊りと唄は、幇間(ほうかん=たいこもち)芸の継承者、悠玄亭玉八の指導を受けたそうだが、なかなかの見物。
◆先日、川本三郎に会ったら、山本周五郎は、江戸時代の物語のなかで「・・じゃなくてよ」という明治以後の言いまわしを使っていると笑っていたが、この映画でも同じ言いまわしが出てくる。これは、黒澤が山本の文章をそのまま使ったためだろうか? まあ、こんなことを言ったら、時代物は、現代人には理解不能は会話で綴らなければならなくなるだろう。山本周五郎がディテールにいいかげんなのは、わたしも知っている。以前、山本は、「さんまの煙に涙したことのない者には人生の意味がわからない」とゲーテが言ったと書いたが、むろん、ゲーテは「さんまの煙」などとは書いてはいない。
(ソニー・ピクチャー試写室)


2002-06-13

●バイオハザード (Resident Evil/2002/Paul W.S. Anderson)(ポール・アンダーソン)


Hack the Classrooms! の出演者たちを送り出し、会場の後片づけをしたら6時半だった。「ハック・・・」とは、もう普通の「授業」をやってもつまらないので、パフォーマンス・アーティストを大量に呼んで教室を「パフォーマンス・スペース」に、「授業」をイヴェントにしてしまえという企画である。やばいかなと思ったが、ちょっと気分を変えたくもあり、駅に走った。幸い「特快」に乗り継げたので、7時40分の開映時に飛び込んだ。しかし、しかし、映画を見ているうちに、無理をして有楽町までやってきたのを後悔した。ほとんどが『ゾンビ』ものの焼き直しなのである。
◆ときは21世紀、場所は、アメリカ中西部の「ラクーン・シティ」。そこに政府のコントロールを越えた製薬企業「アンブレラ・コーポレーション」があり、巨大な地下都市で秘密の実験を行なっている。
◆最初、幾つかのハプニングが映され、大分たってその意味が説明される。ロビーを歩いていた男にぶつかってくる男がいて、白いシャツを汚す。遺伝子操作をやっている研究室で危険なウェイルスが入っていると思われるカプセルが宙に舞い、落ちてくだける。その瞬間、あちこちでさまざまな破壊的な事故が起きる。
◆ドラスティックなシーンが続いたあと、いきなり画面は、大きな屋敷のなかのバスルームで倒れている女を映す。『ジャンヌ・ダルク』のミラ・ジョヴォヴィッチが演じるこの女は、目をさまし、立ち上がる。一瞬、この場所が先ほどの地下都市のなかなのではないかという気がするが、そうではないことがやがてわかる。この女は何か? 突然、物音がし、完全武装をした一隊が入ってくる。そのなかには、『ガールファイト』のミシェル・ロドリゲスの顔もある。隊長役は、コリン・サーモン。
◆この地下都市で行なわれていることを暴くために妹を潜入させた男マット(エリック・メビウス)、妹を内部でサポートしていたアリス(ジョヴォヴィッチ)、アリスの手引きで問題のTーウィルスを盗み出すが、それを海外に売りさばくことを考え、裏切るスペンス(ジェイムズ・ピュアフォイ)、これらがいりみだれて、脱出のドラマが展開する。
◆宙を舞ったカプセルは、逃げるときにスペンスが研究室のなかに向かって投げつけたものだった。最初にサインを出しておいて、あとから謎解きをするのはいいが、それがかなり単純。
◆原作はカプリコン(日本)のゲームソフト。監督は、「この映画はゲーム版の前日譚だ」というが、どうも、作りがゲーム気取り。空間から別の空間へウォーク・スルーする画面の多用。ほんとうに、映画とPCゲームの違いを意識しているのだろうか? 映画はPCゲームではない。
◆ジョヴォヴィッチが、浴室で倒れたまま、ほとんど着替えをする暇もなく、外に連れ出されるとはいえ、最後まで肩と太腿丸出し。それで水や火をかぶり、ゾンビの急襲をうけて闘ったりするのだから、こいつはほとんどアンドロイド。彼女がゾンビを飛び蹴りするのは、なかなかいい演技だったが。どうも、想定している観客のレベルが低過ぎる。
◆体にどろどろに血のようなものをまぶした格好のドーベルマンとか、『エイリアン』まがいの怪物とか、地下都市全体をコントロールしているレッド・クイーンというAI(それがホログラフの女の姿と声で姿を現わす)とか、爆笑もののアイデア。
◆ゲーム的な設定でドラマを進めるために記憶喪失にしたり、怪物を出して行く手をはばんだりするのはやり方としてはいいだろう。が、遺伝子操作なり、トータル・コントロールなりへのしっかりした考えがないので、ただのジエットコースター・ムービーになってしまった。最後に、アリスが見る無人の街の廃墟風景も、意図した力をもたないのも、そのためだ。
(丸の内ピカデリー1)



2002-06-11_2

●トータル・フィアーズ (The Sum of All Fears/2002/Phil Alden Robinson)(フィル・アルデン・ロビンソン)


◆9.11のあとでは、テロリストが仕掛けた核兵器をようやく見つけ、安全装置をはずして危機を回避するといったサスペンスでは誰もリアリティを感じなくなった。この映画は、明らかにポスト9.11を意識したサスペンス映画であり、その意図は成功している。映画は、一応、ハリウッド的に一つの解決を迎えて終わるが、ふとその先に来るものを考えると、恐怖が走る。核の汚染はどうなるのか?
◆原作がトム・クランシーだから、スケールが大きいだけ、話が粗いのだが、ハリウッド式サスペンスとしてはうまく出来ている。1973年の第4次中東戦争のときならあっても不思議ではない雰囲気(イスラエル軍の戦闘機がゴラン高原でエジプト/シリア軍に打ち落とされて、搭載していた核弾頭が不発のまま砂漠に埋もれる)、ゴルバチョフ/エリツィン/プーチンと変わるロシアの大統領とその(やはり)あっても不思議ではない状況(軍が大統領命令を無視して動く)、オーストリアの(自由党ハイダー党首の「ナチス・ドイツ礼賛」にまつわるネオナチ的環境(アラン・ベイツ演じる富豪のオースリア人実業家レスラーが、チェチェンのテロを煽り、同時にチェチェンに化学兵器を使用し、アメリカを刺激し、ロシアとの対立を煽り、最終的にアメリカに核を仕掛け、それをロシアの仕業と思わせ、米ロを闘わせ、その一方で第三帝国の再建を画策する)、等々、たくみな符合操作でリアリティを生み出す。
◆ロシアの状況を的確にリサーチしていた若いCIA要員ジャック・ライアン(ベン・アボット)が、CIA長官キャボット(モーガン・フリーマン)に目をかけられるようになるプロセスがアメリカらしくて、わたしなどはすぐ感動する。おもしろい、いい、と判断すると地位とか評判といった外的要因を気にせずに抜擢する習慣がアメリカにはある。これは、わたし自身経験したことなので、実感がある。
◆ロシアの大統領の真意を見抜いているジャックが、なかなか政府の中枢にその意見も情報も伝えられない。次々と起こる出来事でじらす作り。ロシアの大統領は、彼を理解しているレポートを書いた人物がCIAにいることを知っている。情報局は、情報を密かに収集したり、隠すと同時に、密かにバック・チャンネルを通して流す。こっちは、このぐらい知ってるということを示唆するためだ。ロシア大統領は、そういうバック・チャンネルを通して自分の評価を知ったのかどうかはわからない。彼らの独自の諜報活動によって得た情報かもしれない。が、いずれにしても、このへんのやりとりは映画として面白い。
◆2度ほど、キーワードとして、「Back channel is open」という言葉が出てくる。国家と国家とがどんなに対立しているときでも、バック・チャンネルは開けておかなければならない、という意味だが、それは、たしかに国家政治の鉄則である。そして、実際のところ、政治の変化はそうしたバック・チャンネルで起こり、やがて表舞台に出て来て、「歴史」に記録される。むろん、記録されないことの方が多いわけで、その意味で歴史は無意識の歴史なのだ。
◆ドラマにすぎないにせよ、体制の違う側に属する者同士が、たがいの体制の違いを十分承知しながらコラボレーションをするというプロセス、やりとり、かけひきというものは、どこか(ドラマ的にも)魅力がある。それは、大人のコミュニケーションであり、そういう形でしか、異なる文化や条件のなかにいる者同士が共存することはできないからである。
◆【読者コメント】2002-08-17
(よみうりホール)



2002-06-11_1

●ザ・ロイヤル・テネンバウムズ (The Royal Tenenbaumus/2001/Wes Anderson)(ウェス・アンダーソン)


◆最初、図書館のシーンで、映画と同名の本に「2001年11月7日」という貸し出し印を押す。なかなかしゃれたスタート。だから、ストーリーには、「章」(チャプター)の区切りがある。
◆アメリカ版「父帰る」であるが、いまアメリカでは、60-70年代にいいことだと思ってやったことのツケの帳じりを合わせ、ツケを返そうとしている状況があり、この映画は、それを反映してもいる。
◆70年代に大人だった世代から見ると、いまの親は子供を叱らず、子供に反抗や「いたづら」や無茶("recklessness"という言葉が出てくる)を薦めないし、むろん、教えもしないと見えるらしい。ハックマンが、自分の孫に、走ってくるゴミ車の飛び乗ったり、タクシーにものを投げつけるテクニックを教えるシーンがあった。
◆映画の流れが、マリワナを吸ったようにタルいのは、70年代のレイジーなカルチャーを押さえた上で、そこからの乗り越えをテーマにしているからか?
◆グウィネス・パルトロウが、ふてくされたツゥイギーみたいな顔で出てくるのがいい。70年代ブームの感覚でとらえなおした70年代の反抗娘。
◆70年代的なナルシシズムを代表するのは、元天才テニス・プレイヤーだった次男リッチー(ルーク・ウィルソン)。彼だけでなく、テネンバウム家の子供たちは、みな「天才」ということになっている。長女マーゴ(パルトロウ)は、12歳で脚本を書いた「天才」。長男チャス(ベン・スティラー)は、10代で不動産業を起こした。「天才」とはナルシシストである。基本的にこの映画の登場人物はナルシシストだ。
(ブエナビスタ試写室)



2002-06-07_2

●エス (Das Experimant/2001/Oliver Hirschbiegel)(オリヴァー・ヒルシュビーゲル)

◆新聞の募集記事で大学の心理学実験の募集知り、それをネタにジャーナリズムでひとはたあげようと、タレク(モーリッツ・ブライプトライ)が、メガネに仕組んだ送信機内蔵のビデオカメラを持って、現場におもむく。が、参加してみると、カメラどころではなくなる。(しかし、映画なのだから、せっかく用意したカメラがストーリのなかで何の意味も持たない――「入所」寸前に知り会った女ドラ(マレン・エッゲルト)が映像を新聞社の友人に渡すらしい暗示がるが、あやしげな男からビデオ装置を買う最初の方のシーンのわりに、あとは放棄した感じ。
◆大学の心理学研究所に「刑務所」を作り、そこに一般からの志願者を閉じ込めて「収監」状態を試す。閉じ込められた「囚人」たち、「看守」役の人間たちが次第に、それぞれ看守に対する敵意、それに対する看守側のサディスティックな反応がエスカレートしていく。そのプロセスはスリルがあり、ぐいぐい引っ張って行くテンポはなかなかなのだが、前提や背景が安い。そういう設定をすれば必ずそうなるといったあたりまえのことが起こるのを見せられるわけだから、見どころは、ディテールとテンポしかない。
◆このプロジェクトを密かにレポートするために軍から派遣された人物(クリスティアン・ベッケル)の、エド・ハリスに似た抑えた演技がいい。この映画に、ドイツ社会に潜在するナチズム的特質を指摘する批評もあるが、むしろ、この軍人の存在の方が、今日の社会における「笑顔のファシズム」なのだということに注意する必要がある。
(ギャガ試写室)



2002-06-07_1

●アイス・エイジ (Ice Age/2002/Chris wedg)(クリス・ウェッジ)


◆試写室というのは、みな偏屈な人間ばかり集まるところだから、席を動いてくれなとどいうことは、誰も(恐ろしくて?)言わない。座っているほうも、好みの席というのに座るために30分以上も早く来る。それでも、たとえばわたしとOのように、席が競合したりする。有名テレビタレントなんかのためには、別の日に見せるのだが、普通の試写のとき、会社側があらかじめ席を確保しておくこともある。これは、評判が悪い。社内の小さな試写室の場合、わたしは、最前列の右から3番目が好きだ。が、この日、開映5分まえになって、ゴルフ焼けしたおっさんが、香水ぷんぷんの若い女性をしたがえてやってきて、「右か左にうつってもらえます?」とのたまった。社内試写をデートに流用しているのがみえみえのカップル。やめてほしい、こういうひと来るの。
◆ピクサー(『モンスターズ・インク』)ともPDI/ドリームワークス(『シュレック』)とも異なる感触の映像を作ったのは、ブルースカイ・スタジオ。鋭さはないが、心なごむタッチ。映画も異種交流の「協調と融和」の物語。
◆いま時代は、「氷河期」へではなく、「温暖期」へ向かって進んでいる。どちらも「世界の終わり」、転機である。
◆動物を殺し、皮を剥いで生きている人間。そのみなしごを動物たちが助ける。動物と人間とが全然異なるコミュニケーション体系をもっているという前提に立てば、こういう物語はくだらない。動物の側からすれば、動物の「人間化」である。が、それにもかかわらず、こういう物語になんらかの「郷愁」のようなものを感じるとしたら、それは、かつて動物と人間とが不分明であった太古の時代へのメタ記憶のせいだろう。
(FOX試写室)



2002-06-04

●イン・ザ・ベッドルーム (In the Bedroom/2002/Todd Field)(トッド・フィールド)


◆最初は、青年とちょっと年上の女性との「いま恋してます」のようなシーンからはじまるが、この映画のメインは、この青年の父親で医師マット(トム・ウィルキンソン)とその妻ルース(シシー・スペイセク)の物語。息子のフランク(ニック・スタール)は、暴力をふるう夫リチャード(ウィリアム・マポーザ)を退け、二人の子供を育てているナタリー(マリサ・トメイ)を愛している。秋から新入の大学が始まるので学費かせぎに船に乗って漁を手伝っているが、進学を遅らせてナタリーと生活しようと思っている。両親は心配だが、父親は自由主義者で、干渉しない。その間に、子供に面会しに来るリチャード(まだ正式の離婚はしていない)は、ナタリーとよりをもどそうとせがみ、暴力をふるい、フランクもその被害に遇う。そして、ついにある日、フランクはリチャードに撃たれて死んでしまう。
◆映画では、銃の音がし、飛んでいくナタリーの目に血に染まって倒れているフランクとかたわらのキッチンテーブルに呆然と座っているリチャードの姿が映り、のちの裁判でリチャードが主張するように「故殺」と見えるような描きかただが、裁判が「故殺」の方向で進み、リチャードが保釈で出てくるにいたると、マットとルースは、息子を失った喪失感と怒りをどうしてよいかわからなくなる。二人の生活はもはや昔のようにはいかなくなる。たがいに責任をなすりあう言い争いをしたりもし、いっそう深い悲しみに落ち込む。
◆この映画は、子を失った親がその悲しみをどうするかという話であるよりも、それがさらなる不幸を生んでいく話である。父親の選択は、決して解決にはならないことが示唆されている。最終シーンは、ベットの上で 眠れない父親マットと、ややさばさばしているナタリーとを対照的に描く。このあいまいな表現は、もう一度見てみようという思いを与えるというよりも、何か後味の悪いものを感じさせる。それは、マットの意識を共有させられることなのだ。
(UIP試写室)



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