粉川哲夫の【シネマノート】
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2003-01-24

●007/ダイ・アナザー・デイ (Die Another Day/2002/Lee Tamahori)(リー・タマホリ)

◆マドンナのテーマソングがすばらしい。が、彼女の歌は、この映画と切り離して聴くと、なかなか意味深長。「いまみたいな時代に死ぬのはやめた方がいい」という反戦の歌にも聞こえるのである。DJミックスやエレクトロニカのテクニックをばんばんいれている。
◆北朝鮮のトップの息子が「悪役」になっているというので、気にする向き、興味を持つ向きもあるが、所詮は007シーリズ。目くじら立てる映画ではない。『ロード・オブ・ザ・リング』などよりよっぽどまし。こちらは、金を浪費することと観客を動員することしか考えていない。
◆「北朝鮮」は、東洋でもアフリカでもどこでもいい父権国家の一例ぐらいのとらえ方だ。親父は立派だが、息子はダメというパターン。「西欧が息子を堕落させ、祖国を裏切らせた」とは、父親の弁。
◆ハリウッド的(一応イギリス製ということになっているが)な無意識の政治操作という面はむろんこの映画にもあるが、007シリーズというのは、その(政治的コンテキストに関する)おおざっぱさと娯楽サービスとで、逆につまらぬ政治にかかわり、知ったような床屋政談に時間を浪費するのを免れるのではないか? いつも疑問に思うのは、政治や経済の研究者などが座談会などで、まるで自分らが世界の政治を動かせる立場にいるかのような論調でものを言うことだ。そのくせ、彼らの予言は全く当たらない。
◆北朝鮮の海岸という設定の浜にボンド(ピアース・ブロスナン)ら3人の諜報員がサーブボードで侵入する導入部がいい。こんなことできっこないところがいいのだ。
◆北朝鮮には、息子の手下をやっているザオ(韓国人俳優リュック・ユーン)がの映画で「怖さ」を売るのだが、彼は、高度なケータイを使っているのが印象的。他人になりすませてやってきたボンドの顔をそのケータイで映し、センターに送ると、すぐにバックグラウンドが暴露する(このぐらいはJ-Phoneでもできるか)とか、爆破兵器のリモコン装置にもするとか。
◆ボンドは、いつでも、他国の国境を平気で踏み越えるが、これは、国民国家の時代には「侵略」行為だが、ネグリやハートの言う「帝国」の時代には、あたりまえのこととなる。が、007シリーズは、グローバル・ネットワーク国家(「帝国」とはそういう意味であって、「帝国主義」とは何の関係もない)の話にまで広げてみることはできないだろう。今回、アメリカのNSA(国家安全保障局)と協力して(その課長をマイケル・マドセンが演じている――彼も老けたね)ボンドが動くが、これは、古典的図式。
◆キューバにボンドが飛ぶが、そこの保養地のようなところのバーで、男が大声で新聞を読んで聞かせているシーンがある。これは、前近代の慣習だ。
◆キューバのロス・アルガノス島にある病院では、DNA治療をやっており、顔つきを東洋人から西洋人に変えることもできるという設定。
◆アイスランドに豪邸を持つ謎の人物グレイヴス(トビー・スティーヴンス)は、アフリカ産と同じ組成のダイヤモンドをアイスランドで合成できるとして急速に財をなした。この人物の謎が後半で解ける。
◆今回のボンド・ガールを演じるハル・ベリーは、まあまあ。わたしは、『ブルワース』と『チョコレート』の彼女がよかった。そんなに強くないのは、NSAの系統だからか? おっと種明かしはいかんよね。
◆過去の作品のもじりがニヤットさせるのも楽しみ。言葉遊びも愉快。北朝鮮で捕まり、14カ月拷問された末、イギリスがテロリストして捕まったザオと交換され、MI6に監禁される。そこからからくも脱出したボンドは、パジャマのままいきつけのホテルへ。色々あったすえ部屋に落ち着いたところは、女が来る。ボンドがくどくと、「そういうサービスをやる者じゃないわ」と言った瞬間、ボンドの手が女の股間からピストルを取り上げながら、「こっちも普通の客じゃないんだよ」とボンドが言う。
◆グレイヴスとボンドがフェンシングでカケをするシーンで、「あなたもごらんになる」とグレイヴスの秘書から言われ、「男のコック・ファイト(ちんぼこの闘い)なんて興味ないわ」と言って立ち去るだけの女を演っているのはマドンナだ。ちょっと出てもサビがきいている。
◆「睡眠は死ねばたっぷりとれるから、睡眠より夢をたっぷりとりたい」とはグレイブスの言葉。彼は、宇宙船に巨大なレーザー銃を装置し、南朝鮮と日本を威嚇する。
◆イカロスの神話を意識している部分。
◆笑わせるといえば、MI6のQ(ジョン・グリース)が開発したVRシステムで想像の世界を楽しむシーンを解説なしで映し、観客を驚かせ、笑わせるシーンが2か所ある。
(FOX試写室)



2003-01-21

●ロード・オブ・ザ・リング 二つの塔 (The Lord of the Rings: The Two Towers/2002/Peter Jackson)(ピーター・ジャクソン)

◆前作のときも批評をいいかげんにしてしまったが、今回も、そんな感じになりそう。わたしは、基本的にこの手の映画が嫌いなのだろう。もったいをつけていても、結局、命を捨てて闘う男の話である。作中、「この世には命をかけて闘う尊いものがある」といった台詞があるが、わたしに言わせれば、その「命」が生物学的生命という意味なら、そんなものはないと断言する。命を捨ててまでやるべきことなどない。むろん、わたしとて、それにもかかわらずひとは、命を粗末にする存在であることも知ってはいる。
◆映像は見事だが、なんで刀や弓で人を物のようにあぶっ殺すというより破壊するシーンしかないのか? 戦争が美しかったことは一度もないが、虚しさを強調しているようでいて、この映画は戦争を賛美している。闘うことの必要をこれでもか、これでもかと強調する。最初闘うことに否定的だった森の大木たちまでもが、最後には、人間同様の闘い方をしてしまうのにはがっかりした。
◆クリストファー・リーが演じるサルマンが、実際にオサマ・ビン・ラディンにそっくりなのはいかがなものか? 最初の映画化は2001年だから、9.11よりあとであり、そのことを意識しなかったはずはない。そして、「闇の勢力」が、衣装から見て、アラブ系を思わせるところもある。とにかく、「善良」でサルマンの攻撃を受けるのはみな白人なのである。こういう、ファンタージーめかしながらえらく「政治的」な映画というのもある。これなどその手の作品。
◆権力はつねに象徴的な機材をそろえる。ここでは指輪だが、日本神話では三種の神器だ。
◆(付記)前作のところへ付記したが、この映画が「ニュージーランド」のピーター・ジャクソンが作ったということ、そしてアメリカで「二つの塔」(WTCを思わせるといういかにもアメリカ人のバカさかげんを象徴するような)というタイトルを変更せよという騒ぎがあったことを思うと、この映画を別様に見ることもできる。



2003-01-09

●新仁義なき戦い/謀殺 (Jinginaki-tatakai/bousatsu/2002/Hashimoto Hajime)(橋本一)

◆CMタッチのイントロは、ナレーションを除くと、かなりいい。街の出し方や個物のショット、ハイスピード撮影のタッチなど、新鮮。しかし、本編になるとだれる。
◆ナレーションがよくないのは、深作欣二のシリーズをへたにまねているからだ。その点は、小林稔侍(尾田組組長)が明らかに金子信雄のキャラクターを模倣しているのだが、それが、小林の芸風とは合わないので、落ち着かない。最初の方で無口にふるまっておいて、次に、尾田組の上にいる佐橋組若頭・杉浦(隆大介)の前に出て、急にうわずった声で下手に出るシーンでは、小林さん、やめてくださいという感じがした。小林には、金子のねじれた演技はできない。実直できまじめな役をくずせない。
◆小林以外は、そこそこにこなしている。臭みがないと『仁義』の役はできない。隆大介は、「近代化」したやくざ組織を仕切るが、こういうやつが日本の暗部をささえているんだろうなという感じをよく出している。尾田組を支える武闘派の藤巻役の渡辺謙、暴れまくる藤巻を最後まで「愛」する知闘派(?)の矢萩を演じる高橋克典、名古屋のくさ~いやくざ・前田茂一役の渋い志賀勝、黒っぽい役なら何でもやれる石橋蓮司、藤巻の猛烈にえげつない妻役の夏木マリ、矢萩の愛人としてときどきしか出ないが手堅く情感を出す南野陽子――中堅の役者をそろえ、条件は悪くない。
◆一方(藤巻)が直情的にあばれ、殺しまくるのに対し、他方(矢萩)は、冷静に全体を見通し、しかも、任侠道に忠実に兄貴を立てる。だが、「仁義なき戦い」が進行するなかで、矢萩の努力は崩されていく。藤巻は、尾田の挑発にのり、矢萩に猜疑心をいだく。
◆矢萩は、「極道は結局暴力だ」と言いながら知闘派として活動してくるが、最後には銃を取る。深作のシリーズにもあったパターンだが、いまこれをくりかえしてもリアリティがない。映画の現実感としては、こういう極道がもう終わりになり、自分では絶対に手を下さない佐橋組みの杉浦(隆大介)のようなやつが、狡猾だが鵺(ヌエ)のように捕えどころがない尾田のようなやつを使いながら動いているということなのだろう。
◆やくざや極道というのは、身体と情報との関係のように、切れるようで切れない。いくら情報化しても、身体を捨てられないし、高度に情報化したシステムは、身体を人工的に仮構する。そして、その人工身体は、ふたたび、切れば血が流れる条理をくり返す。
◆毎日新聞の岸井成格が、プレスで「任侠道はゼニ侠道に堕した」などと書いているが、バカじゃなかろうか。任侠道ほど金と切れないものはない。武士道だって、「武士は食ねど高楊枝」などと言って、欲しいのにやせがまんするのを正当化しているにすぎず、こういう武士ほど金が欲しくてしかたがないやからはいないのだ。
◆この映画には「経済やくざ」という言葉が出てくるが、やくざは、一方で情報としてのカネを動かしながら、他方で、物としての金(札束)への執着を捨てられない。上の組に下の組が恭順を示すためには、札束をど~んと積むことなのだ。むろん、情報経済・権力のシステムのなかでは、札束としての金は形骸化している。だが、だからといって、札束が持っていた金の「汚らしい」部分がなくなるわけではない。やくざが、これまでそういうダーティな部分を専門的に処理してきたのだとすれば、情報経済・権力の時代のダーティな部分は、札束のような中途半端のもの(記号)においてではなくて、文字通りダーティな身体そのもののレベルに移る(というよりようやくあらわになる)。さて、そうだとすると、最も今日的な「やくざ」の役割は、誰がやっているのだろうか? 身体も人工化されているとしたら、情報の最もカオス的な部分に関わる者が新しい「やくざ」なのかもしれない。とすると、それは、カルト集団かな? 旧やくざとカルト集団との融合は起こっているのか?
(東映試写室)


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