粉川哲夫の【シネマノート】
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2003-05-27

●恋愛写真 (Collage of Our Life/2003/Yukihiko Tsutsumi)(堤幸彦)

◆堤の作品は好きな方だが、この作品は海外進出へのねらいが見え過ぎて(それが成功していればともかく)面白くない。広末という役者もあまり堤向きではない。松田も、ここでは普通の役者になってしまった。話がニューヨークへ移ることが暗示されながら、なかなか移らないのでいらいらする。それぐらい日本のシーンは退屈なのだ。
◆広末という役者は、どうしていつも「ありがち」なしゃべり方(「・・・しまし」を「・・・スェました」、「いちばん」を「エィちばん」、「独りぼっち」を「ひとりぼツイ」と発音する)と「ありがち」なタイプの女しか演じないのだろうか? いつも自分を別に見せているようなキャラクターを演じており、それがいまでは肉づきになってしまった。
◆スチルカメラのレンズのアップから始まり、チャカチャカいうシャッター音とともにスチル写真が入れ替わる。ニューヨークで名をなしたカメラマン「シズルサトナカ」(松田龍平)が、へたな英語でインタヴューに答える声が聞こえる。時間がバックし、大学を卒業して商業写真を撮っている瀬川誠人(松田龍平)へ。ほんのちょい役で出る大杉漣が演じる社長のもとでやっている仕事は大したものではなさそう。すぐに場面は学生時代バックし、そこで知り合い、すぐに同棲をはじめた里中静流(シズル)(広末涼子)との話に多くのショットが費やされる。
◆一見「思い切ったこと」をやって見せる(実はよくいる)女の静流。写真部員の誠人から教わり、すぐに「ユニーク」な写真を撮るようになる。そして、2人で仲良く写真雑誌のコンテストに投稿した結果は、写真歴の長い誠人を抜いて、入賞。このことから、誠人は彼女を避けるようになり、2人は別れる。彼女の方は、その気がなく、悲しげに去っていく。
◆唯一堤らしいショットがある。それは、いつも「意外性」をねらったかのようにことを運ぶ(たとえば、「料理する」と称してカップヌードルの上にマヨネーズをかけ、「わたしのマヨヌードル」としゃあしゃあと言うとか)静流が、口に水を含んで吹くと虹が見えるシーン。堤調をねらって空振りに終わったのは、静流が投げ捨てた空き缶が通りがかりの自転車の男に当たると、男がいきなり包丁を抜くシーン。
◆誠人が静流のことを思い出したのは、彼女の名でニューヨークから一束の写真が送られてきたからだった。その写真は、どれもこの街の「いま」を切りとっていた。そして、近く個展をやるので来てほしいという手紙がそえられていた。彼女の気持ちはいまでも変わっていないという暗示とともに。が、その直後、いやいや出たクラス会で、テレビ会社に勤めたかつてのクラスメートから、静流がニューヨークで殺されたらしいという話を聞く。誠人は、ほとんど準備なしにニューヨークへの飛行機に乗る。
◆ニューヨークに着いてタクシーに乗ってマンハッタンに入るシーンで急にカメラのピントが甘くなる。現地で雇ったカメラマンがダメだったのだろう。
◆海外で困ったときに必ず救いが現れるというのは、ありがちなパターン。「いまどきニューヨークで強盗にあうやつはめずらしい」と笑いながら助けてくれる黒人のカシアス(ドミニク・マーカス)は、日本大好き人間。(こいつを見てふと思ったのだが、この映画のニューヨーク・シーンの撮影にはデーブ・スペクターが一枚かんでいるのではないか、と)。
◆探しあてた静流のアパート(「Avenue C Loisida」と「E9」の表示が見える――イーストリバーに近いアヴェニューCのナインス・ストリート)には、静流はおらず、アヤという女がいる。ちょっと下品そうでパワフルな、ニューヨークなどにはよくいタイプの女を小池栄子がなかなかいい感じで演じている。しかし、せっかくの小池の持ち味が、全然活かされずに終わる。それは、後半、「犯罪都市ニューヨーク」といったパターン化された通念に合わされたつまらぬ犯罪サスペンスに落ち込んでしまうからだ。
◆ニューヨークから静流の写真を送ってきたのはアヤだった。彼女は、チャイナタウンの闇の組織とつながりがあり、そういう形で日本人をニューヨークにおびき寄せ、着服詐欺のようなことをやっている。静流を殺したのも、アヤだということになる。イーストリヴァー沿いの通りの倉庫のなかから銃で狙撃したらしい。理由は妬みとか。それをたどって行った誠人も、彼女に銃口を向けられる。この辺になるとつや消し。
◆銃口をむけられた誠人が、昔見た映画の真似をして、つきつけられた銃口に指をあて、「撃ってみろ。お前の頭も吹っ飛ぶぜ」と言う。相手はひるみ撃てないのだが、ばかな話。堤流ギャグも落ちたもの。こんなの、一歩下がって引き金を引けば簡単ではないか。
◆モルグで静流の遺体を見て、(頭を撃たれて顔はわからないのだが)手にいつもメモ書きしている癖のある彼女の手にメモ書きを発見して、泣き崩れる。広末を使うのなら、こういう結末にはしたくない。
◆彼女の写真が、なぞめいた中国人のギャラリーで評価され、誠人が、撮ったとまちがえられ、そのときから「シズルサトナカ」と名乗ることにしたというのだが、これって、経歴詐称ではないのか?
(松竹試写室)



2003-05-22

●ファム・フェタール (Femme Fatale/2002/Brian De Palma)(ブライアン・デ・パルマ)

◆井筒和幸の『ゲロッパ』の試写と重なったせいか、客数は少ない。わたしも迷ったが、井筒が最近食い物番組にばかり出ているのでタイトルから「ゲロ」を思い起こし、やめた(なおこのタイトルは、ジェイムズ・ブラウンの「セックス・マシーン」の歌詞Get up!のことらしい)。しかし、デ・パルマはやはり面白かった。デジャヴュ的技法の快楽。未来を見てしまうということの快楽を味あわせてくれる。
◆最初にフィルム・ノアール系のモノクロの映画が映る。本を読むような意識で映画を見てこなかったわたしにはとっさにそのシーンが誰の映画のものかわからない。『マルタの鷹』の終わりの方のシーンに似ている。女が男に責められているが、男はボガードではない。調べたら、ビリー・ワイルダーの『深夜の告白』(Double Indemnity/1944) の1シーンだった。カメラが引くと、ロール(レベッカ・ローミン=スティモス)がホテルの一室でプラズマ画面のテレビで映画を見ていたことがわかる。いらいらしたスキンヘッズの黒人(エリック・エブアニー)が入って来て、女をしかる。これから大仕事があるという布石。そして、男が窓のカーテンを乱暴に開く。すると、そこは、カンヌ映画祭2001の会場の真ん前で、俳優たちのきらびやかな姿が遠くに見える。デ・パルマらしいしゃれたイントロ。
◆映画祭の会場ル・バレのトイレでヴェロニカ(リエ・ラスムッセン)が身に着けているダイヤだらけの大げさなさ装身具をロールが偽の同形のものとすりかえようとやっきになっている。ヴェロニカは、映画祭のゲストで、その高価な宝石を身につけるチャンスを手い入れたのだろうが、2人のやりとりは明らかにレズビアンぽく、2人がグルであることが想像できる。
◆ロールが宝石を持ち逃げしたことは確かだが、その後に展開するドラマが連続的な時間のなかでのものか、それとも長い時間の隔たりがあるのかは明確ではない。また、さらに、ロールとそっくりの女性「リリー」を設定し、ロールを自分たちの娘だと思って追いかける老夫婦がいる。
◆だから、ロールが逃げ込んだ家にあとから彼女に似た女性リリーが帰って来て、いきなり自殺し(ローラはものかげで見ている)、そのあとローラともリリーとも受け取れる女性が飛行機に乗るシーンがあるが、これは、ローラが「死んだ」リリーになりすましたのか、それとも、リリーの自殺自体がローラの「白昼夢」で、彼女は死なず、飛行機に乗り、隣の席にいる男(ピーター・コヨーテ)と知り合うのか――はすぐにはわからない。
◆ローラとつるんで逃げたヴェロニカが組織の男たちに捕まり、通りかかったバンのまえに突き飛ばされ轢かれる映像と、ヴェロニカが組織の男たちに捕まるが、とっさの機転で逃げ出す映像とが、時間のへだたりをもって映される。後者が「本当」で前者が「夢」だとみなすのは単純すぎる。そういうすっきりした結論めいたものをデ・パルマは与えてくれるように見えるくだりがあるが、それを無視して見るのもデ・パルマ映画の楽しみ方。
◆さらに翻弄する小道具としてアノトニオ・バンデラスが演じる売れないカメラマン、ニコラスのカメラがある。ローラは、彼に写真を撮られたことを深読みし、逃げ、そのときあの老夫婦に出会い、また追われる。ニコラスも、ただのデクの棒ではなく、「大使夫人」の謎をあばいて特だねにしようと彼女を追い回す。追い/追われることもこの映画の基本ファクター。
◆デ・パルマの映画を最後の謎解きで納得することもできるが、最後がふたたび最初に反復するような見方が可能ならば、錯覚、他人の空似、誤解、思い込み、隠蔽、詐称・・・といった二元論的な認識をこえるパラノイド的知覚のドラマとして見ることも可能だろう。幻想・夢・妄想・記憶ちがい・・・をそのまま映像にする方法は、デ・パルマではめずらしくはない。
◆デ・パルマらしい「スプリット・スクリーン」がたびたび出てくるが、これは、この技法でなけらば表現できないから使われたというよりも、デ・パルマの映画であることを明確にするために使われている感じ。
◆この映画でも、目に入るパソコンは、みなMac。映画の世界ではMacがIBMコンパチをはるかに凌駕しているのは、アップルとピクサーを支配するスティーヴ・ジョブズの近年の努力のたまものか?
(みゆき座)



2003-05-20

●フリーダ (Frida/2002/Julie Taymor)(ジュリー・テイモア)

◆尾長鳥が歩く庭、動物がいる室内、庭のような部屋がうつり、それから、仰々(ぎょうぎょう)しく「召使」のような人たちがベッドを運ぶシーンが映る。そこに乗っている女性。歩行が不自由なフリーダ・カーロ(サルマ・ハエック)。何か貴族的じゃないかという印象を残しながら、若きフリーダのシーンにさかのぼる。(この冒頭のシーンは、円環状に終わりのシーンにつながる)。
◆フリーダ・カーロといえば、若くしてメキシコ共産党に入党し、ディエゴ・リベラ(アルフレッド・モリーナ)と知りあって結婚し、1930年代には2人でニューヨークに住み、多くの知識人やアーティストと交流し、話題を作り、また、メキシコに亡命した(ディエゴがアレンジして自宅に夫妻をおいた)レオン・トロツキーとも恋をし等々・・・とかく話題の多い、そして「左翼好み」の女性だが、こういう映画を見ると、こういう人はどこにでもいるという気がしてくる。映画や物語にしてしまうとそうなるのかもしれないが、「炎のような情熱」とか「波乱に満ちた人生」とうような形容を聞くと、それがどうしたという気がしてくるのだ。もう「偉いひと」の伝記的ストーリを聞いたり見たりして元気づく時代ではないし、「モデル」が通用しない時代だから、そういうときは、むしろ脱神話化(・・・と崇められていたが、実は・・・というような批判的描写)の方が面白い。
◆この映画は、どちらかというとフリーダが「情熱」のおもむくままに延びていったような描き方をしているが、ドラマのあいだから透けて見えるのは、彼女の人生がいかに他人に負っているかということだ。彼女のマルクス主義の理解は、ディエゴに会うまえのアルハンドロ(ディエゴ・ルナ)に負っている。彼は、彼女の身体を一生不自由にしたバス事故(メキシコのバスの運転はいまでもクレイジーだが、その感じがよく出ている)以後、彼女から去っていく。彼女が絵の才能を持っていたとしても、ベッドで多くの時間をすごしていた彼女がコルセットに絵を書き続けるのを見て、「もう描くところが一杯だろう」と言い、彼女の父がキャンバスと絵具をあたえなければ、絵描きとしての彼女はいなかったかもしれない。そして、彼女がディエゴに自分を「売り込む」こともなかっただろう。
◆ディエゴが、知りあってすぐのフリーダをパーティに連れて行くと、そこにアウラの強い女がいて、フリーダにレズ的な挑発をする。誰が演じているのかと思ったら、アシュレイ・ジャドだった。あいかわらずうまい女優。
◆ディエゴとフリーダがニューヨークへ渡るシーンを、絵はがきなどのコラージュでつくっている。これは、低予算で済ませる方法でもあるが、やり方としてはわるくない。
◆全編英語というのも気になる。ある種の「吹き替え」を見ているのだと思えばそれでいいのだが、映画技術の「良心」としては、原語でやってもらいたかった。
◆実在の人物を映画で描くと、大体はこっけいな感じになる。この映画のトロツキーがいい例。ばかじゃないのと思わせる。決して批判的に描こうとしたわけでないのにそう描かれてしまったかぎりでばかみたいなのだ。その点、フリーダの父親(ロジャー・リーズ)の描写は悪くない。

◆基本的にこの映画は、人を批判的には描かない。ディエゴの「いいかげんさ」もおおらかさのあらわれのように描く。ネルスン・ロックフェラー(エドワード・ノートン)がディエゴ・リヴェラにロックフェラー・センターに壁画を描かせたが、そこにレーニンの顔が描かれているのが問題になり、結局、金を払って破壊させてしまうというスキャンダル・シーンでも、ロックフェラーはそれほど批判的には描かれてはいない。『クレイドル・ウィル・ロック』にもネルスン・ロックフェラーとディエゴ・リヴェラとのエピソードが描かれていた。そこではロックフェラー(ジョン・キューザック)は、リヴェラといっしょにマリワナを吸ったりして深くつきあうが、この映画では、そういうシーンはない。それにしても、ノートンとキューザックはどこか似たところがある。この2人がロックフェラーを演じるということは、ロックフェラーが2人に似ているのだろうか?
(松竹試写室)



2003-05-15

●マトリックス・リローデッド (Matrix Reloaded/2003/Andy Wachowski, Larry Wachowski)(アンディ+ラリー・ウォシャウスキー)

◆前作『マトリックス』以来、期待をかきたてつづけてきた続編がついに完成・試写というので、遠方から時間を気にしながら試写会場に駆けつけた。今回は2会場を使っての大がかりな試写。そして明日には一般向けの先行上映というのをやるという。プロモーションは過熱している。が、期待が大きすぎたせいか、たいしたことはないという印象を受けた。ワイヤーワークが売り物のはずだが、『HERO』があまりにすごいことをやってしまったので、何か凡庸に見える。
◆冒頭、ネオ(キアヌ・リーブス)が見る「夢」のシーンでトリニティ(キャリー=アン・モス)とエイジェント・スミス(ヒューゴ・ウィービング)とのシュールな闘いがあるが、あいかわらずキャリー=アン・モスは魅力的。
◆前回は、描かれる物的な世界がヴァーチャルな世界と紙一重である感じがよく出ていたが、今回は、薄れ、両者が二重に存在するかのような平凡さに陥っている。「マトリックス」というのは、電子的に構築された「回路網」であり、それは、操作次第で瞬時に消滅可能である。そういう世界に住んでいるヴァーチャル人間と生身の人間との闘いがテーマ。しかし、今回の「マトリックス」は実体感を強め、両世界を一方から他方へ移動する面白さが薄れた。その結果、話はエイリアンと人間との闘い、あるいは『ロード・オブ・ザ・リング』風の話に近づいてしまった。
◆通常、身体世界から電子ネットワークの世界に「入って」も、身体世界の方はある程度安全だが、この世界では、電子ネットワークの世界(によって構築されたヴァーチャルな世界)で起こることがこちら側に死をもたらすことがある。しかし、今回は、そういう相互作用があまりうまく描かれてはいない。
◆ すでに「マトリックス」という言葉が流布していたので、それを引き継がざるをえないのだが、matrixは「メイトリックス」と発音するのが正しい。こういう無責任なズラしのために、日本人の英会話がいつも無駄な困難に陥る。「マッカーシズム」なども、「マッカーシーイズム」と発音しなければ、英語圏では通じない。
◆イラク戦争まえに撮られたわけだが、この間の戦争加速の気分は確実にこの映画のなかにも出ている。「戦いはじき終わる」、「この100年ずっと戦ってきた」といったモーフィアス(ローレンス・フィッシュバーン)の言葉が象徴的。
◆ドアーを開くと予想を裏切る世界が展開しているというのは、『アンダルシアの犬』以来、それほど目新しい技法ではないが、この作品ではけっこううまく使っている。
(渋谷東急)



2003-05-13

●HERO (Hero/Ying xiong/2002/Yimou Zhang)(チャン・イーモー)

◆CG技術に頼らず、体をはった演技の力がひしひしとつたわってくる。『グリーン・デスティニー』や『マトリックス』で多用されたワイヤーワークをさらに洗練された形で使っている。出演者がみな「武侠映画」の実績をもているので、格闘シーンはもう一つの美学になっている。
◆ジェット・リーの猿的獰猛さ、トニー・レオンのロマンティシズム、マギー・チャンの濃艶さ、チャン・ツィイーの一途なエキセントリシー、ドニー・イェンのナルティシズム、チェン・ドミンの意識的な「大根役者」性。
◆秦の始皇帝を、残忍な暴君としてではなく、7つに分裂して抗争をくりかえしていた諸国を統一し、人民に生活の安定をもたらした王として描く。これでいくと、アメリカのブッシュも肯定されてしまうのかな?
(ワーナー試写室)



2003-05-09_2

●アダプテーション (Adaptation/2002/Spike Jonze)(スパイク・ジョーンズ)

◆好きなことがやれる条件があっても才能がなければ好きなことはできない。スパイク・ジョーンズは、アルトマンのように、そういう境地を楽しめる数少ないフィルムメイカーの一人。
◆実在の人物(チャーリー・カウフマンと『マルコヴィッチの穴』の関係者)、実在の本(『蘭の魅せられた男』)とその関係者(スーザン・オーリアン/『ニューヨーカー』のライター、ジョン・ラロシュ/同書の張本人)、それらを「アダプテイト」した諸人物に、その彼や彼女らの空想・妄想がごたまぜに現れる。シュールレアリズムとカフカの流れを組む独特の世界。才気煥発を見せつけようとして、『マルコヴィッチの穴』ほどの驚きはない。
◆ウディ・アレンとの類似。
◆チャーリー・カウフマン(ニコラス・ケイジ)もスーザン(メリル・ストリープ)もジョン・ラロシュ(クリス・クーパー)も、何かを求めている人間である。現状を投げ捨ててしまうことに願望がある。
◆一番興味を惹かれたのは、ジョンを愛しはじめたスーザンが、ジョンに電話をかけ、サウンド・アート・パフォーマンスまがいのことをやるシーン。電話で「ふ~ん」とある一定の周波数の音を出し、相手もそれに合わせると、ある種のドップラー効果のようなレゾナンス現象が起こることを実演する。ジョンが送ってきた自家製のドラッグを吸ったスーザンが思いつく。映画で使われている音のほうは、たぶん合成していると思うが、うまくやれば、実際に可能だと思う。
(シネマライズ)



2003-05-09_1

●ノボ (Novo/2002/Jean-Pierre Kimosin)(ジャン=ポール・リモザン)

◆『メメント』に似た「前向性健忘」で5分間しか記憶を維持できない主人公。しかし、「前向性健忘」とその患者そのものを描こうとしている『メメント』にくらべると、記憶喪失をドラマの道具・材料にしているにすぎず、奥行きがない。だから、この主人公は、最後に記憶を取り戻す。安易すぎる。
(メディアボックス)



2003-05-02

●二重スパイ (Ijung gancheob/2003/Hyeon-jeong Kim)(キム・ヒョンジュ)

◆韓国映画も、次第に韓国臭が抜け、「アメリカ映画」のようになってきた。舞台は、ベルリンからブラジルのリオまで拡がったが、それだけ、韓国臭は薄れた。
(ギャガ試写室)


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