粉川哲夫の【シネマノート】
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2004-05-31_2

●ハリー・ポッターとアズカバンの囚人 (Harry Potter and the Prisoner of Azkaban/2004/Alfonso Cuaron)(アルフォンソ・キュアロン)

Harry Potter and the Prisoner of Azkaban
◆今月はミュンヘンで開かれたラジオアートのイヴェントに招かれ、ワークショップとパフォーマンスをやったりしたので、あまり映画を見ることができなかった。見る前は、今月はハリポタでしめるのかぁと思ったが、これまでのクリス・コロンバスの2作にくらべて、はるかにいいと思った。わたしは「ファンタジー」というやつが嫌いなのだが、今度は映像に鋭さがあって、見ていて飽きなかった。
◆「ピカデリー1」と「ピカデリー2」を使った「マスコミ試写会」というふれこみだが、普通の試写会よりも若い女性が多いのは、それだけ、「マスコミ」で働く人員がそうなっているからなのか、それとも、ハリポタなので、「ねえねえ行かない?」という調子で普段は試写には来ない(忙しくて来れない?)スタッフの女性もやってきたのだろうか? で、長い列(「わるい~!」とか言いながら割り込む――悪いのは並んでいるひとに対してなのだが)のすえ、席についたら、あちこちから食べ物のにおいがたちこめた。わたしの隣の女性2人は、ニンニクソースのにおいが強いチキンの唐揚サンドウィッチを頬張っていて、おしゃべりの最中にそれを床に落してしまった。ところで先日、このサイトを読んでくれた高崎俊夫さんが、「粉川さんが書いてるように、試写室のモラルはひどいもんです」と言っていたが、しかし、わたしは、試写室のモラルをただすためにこんなことを書いているのではない。映画は家でビデオやDVDを見るのとはちがって、生身の人間が介在する。その部分をいささかでも記録しておきたいと思って書いているにすぎない。わたしは、むしろ、劇場にはもっと「猛烈」なやつがいてもいいと思っている。
◆例によって、両親のいないハリー(ダニエル・ラドクリフ)が、えげつない叔父(リチャード・グリフィス)と意地悪な叔母(フィオナ・ショー)にいじめられるシーンから始まるが、今回は、最初から、ハリーは叔父の妹の嫌みに魔法で復讐し、彼女が風船のようにふくらんで空に登ってしまう。最初からブラックユーモアなのだ。頭に来て、トランクを引っ張って叔父の家を出ると幻のような3階建てのバスがやって来るが、そのディテールは非常にリアルであり、グロテスクだ。しかし、音楽は、あいかわらず「巨匠」ぶったあのジョン・ウィリアムズが担当しているので、キュロンの新演出が殺されてしまうところがある。ジョン・ウィリアムズは、エンド・クレジットの終りでオーケストラ演奏がぴたりと終るような「まとも」な作りをする御仁だから、張り切れば張り切るほど聞く方は眠気をもよおす。
◆いくつかの新しいキャラクターがなかなかいい。すでにホグワーツに向かう列車のなかで登場する「デメンター」という吸魂鬼は、空を飛ぶ黒いぼやけた浮遊物のように見えるが、急降下して来て人を襲う。襲われた者は、日々を後悔するだけの不幸な人生を送らなければならなくなる。もう一つは、頭が獰猛な鳥で、体が馬のような怪獣「ヒッポグリフ」。超デブのハグリッドは、学園の子供たちを、この怪獣を使った教育するが、うかつに近づくと食いついてくるところが怖い。が、その怪獣が、慣れたハリーとハーマイオニー(エマ・ワトソン)を背に乗せて空に飛び立つシーンが実に愉快。見ていて快感をおぼえさせる。
◆この作のテーマでもある「アズカバンの囚人」ことシリウス・ブラックが逃亡し、その指名手配写真が新聞やビラの載っているのだが、その顔写真がいつも動画になっている。ホグワーツの学園の壁に並ぶ「絵」も、みな動画。CGIとしてそんなに凝ったことをしているわけではないが、ブラックが犬獣に変身するところとか、ピーター・ペティグリュー(ティモシー・スポール)が鼠から人へ、人からまた鼠に変身するシーンは、単に映像がどうのというよりも、表現の質がユーモアとリアリティに満ちており、笑わせる。ハリーをいじめるドラコ・マルフォイ(トム・フェルトマン)にハーマイオニーがいきなりパンチを食らわせるシーンもいいシーンだ。
◆学園でハリー再会した校長(マイケル・ガンボン)が、「暗闇のなかでも幸せを見つけることができる。明かりをともすことを忘れなければ」と言うが、本作では、時間を魔法で操作することが一つの鍵になる。これは、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』的に過去にタイムスリップして過去を操作する(手法的にはこと新しくはない)方法だが、ここから、キュアロンが、魔法をオカルチックな技術としてではなく、反省の実践的な技術としてとらえなおしていることがうかがわれて興味深かった。わたしは、タイムスリップものが嫌いではない。ここでは、ハーマイオニーが、首にかけていた長い鎖のネックレスをハリーといっしょにかけ、その「ジャイロコンパス」状のペンダント部分を操作して時間をずらす。
(丸の内ピカデリー1)



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●スチームボーイ (Steamboy/2004/Katsuhiro Otomo)(大友克洋)

Steamboy
◆30分以上まえに現場についたが、すでに席はかなり埋まっていた。常連もいるが、多くは、いつもとは違うアニメ業界で実作をしているひとと、その関連業界の営業のひと。だから、たるんだ空気はなく、通路で営業をやっている声が聞こえたりする。たちまち通路に補助椅子が並び、完璧満席状態となる。とにかく「全世界待望」とプレスに大書きされている作だからね。
◆手描きとCGIを複雑にからませて作ったという映像は、まあいかにも日本の良質な職人技術の産物だという印象をあたえる。時代をマシーン・テクノロジーが「先端」技術としての輝きを放っていた19世紀のマンチェスターとロンドンに設定し、いまにも通じる新テクノロジーの発明、それを援助する財団、その技術を運用しようとする国家と企業、技術が人々の生活のために役立てられるのではなく、結局は軍事のために使われてしまうといったテーマをあつかう。
◆キャラクターは、のほのんとした田舎少年顔の主人公レイ(声:鈴木杏)、洋画の吹き替えの声から想像して描くとこうなるであろうような「西洋人」の風貌の祖父ジェームズ・ロイド・スチム(中村嘉葎雄)、父ジェームス・エドワード・スチム(津嘉山正種)、産業革命の立役者ロバート・スチーブンスン(児玉清)等々と、西洋人形風の(というより日本の古いタイプのアニメの女の子特有の顔をした)スカーレット・オハラ・セントジョーンズ(小西真奈美)。機械オブジェや都市の細密画的な映像とこれらのコミック・キャラクターとが組み合わさって面白い効果を出す。リズム感はすごいが、ただ前に前にというアップなスピード感にだけ頼っている感もしないでもない。
◆仕上がりは見事なのだが、(19世紀に時代を設定しているからではなくて)とにかく全体として「古い」という印象を否めないのだ。たしかに、マシーン・テクノロジー(電子テクノロジーと区別し、歯車とピストンを軸とするテクノロジーをこう呼ぶ)においても、今日テクノロジーの世界で起こっているようなことは発見できる。とりわけ、国家や組織との関係、軍事技術との関係は、むしろ電子テクノロジーよりもマシーン・テクノロジーの方がより強い。しかし、電子的なものつまりは「リーモートなもの」を一切カッコに入れてしまったこの大友の世界は、今日のテクノロジーが持つ、危険であると同時に極度に逆説的なものを見失っているのではないか?
◆マシーン・テクノロジーの特徴としては、中央集権的であること、直接的であること、身体を基準とするとそれよりも巨大にならざるをえないこと、その変容には破壊がともなうことなどがあげられる。この映画のは、そのすべてが描かれていると言ってよい。言い換えれば、大友は、今日のテクノロジー世界を、あえて19世紀のマンチェスターに視点を移し、その時点の技術を120%発展させたときに可能なモデルを描いた。
◆おそらく、いかなる時代の技術も、その可能性を最大限発揮するならば、それぞれの時代の技術が持つ可能性に似たことを実現できるだろう。というのは、技術は、いつの時代にも、そのポテンシャルの100%が出し切られてはいないし、それどころか、そのポテンシャルに逆行して使われることが多いからだ。西欧中世の錬金術も、今日の遺伝子操作と同じことが出来たかもしれない。この映画に出て来るように、電話や無線を使わなくても、伝送パイプを張りめぐらせてインターフォンや電話と同じようなことを実現できただろう。しかし、そのために使われるパイプの長さ(嵩)は、自作可能な極小の無線機で交信するのとくらべたら、極度に専門的な技術と独占的なスペースの確保が必要になる。
◆レイの祖父ロイドが発明したスチームボールは、本来なら巨大な容積を必要とする蒸気エネルギーの圧縮装置(要するにピストン)だが、それが、手で持てるサイズにまで極小化されている。しかし、その研究は、オハラ(スカーレット・オハラの親の)財団によって援助された研究の成果だったが、それが完成に向かうなかで、理事会、科学テクノロジーの目的をめぐるレイの祖父と父とのあいだの意見の相違がエスカレートした。
◆ロンドン万国博が、表向きとはうらはらに、軍事技術の博覧会でもあったという指摘はまちがっていない。それは、いまでもそうだが、ウィリアム・D・ハートゥングの『ブッシュの戦争株式会社』(阪急コミュニケーションズ)の冒頭にパリ航空ショウが武器の展示見本市以外のなにものでもなく、それを見学すれば、そのときどきの軍事情勢がわかるという指摘があるように、別に万国博の装いをとらなくても、軍事技術の売買が行われている。90年代にヴァーチャル・リアリティの現状を調べたいと思って、サンノゼで開かれるVR会議に毎年出席していたが、その席では毎回軍やDARPA(Defense Advanced Resarch Project Agency)の専門家が出て来て、サイバー戦争の技術を得々と(あるいは自分にうっとりするような表情で)披露した。だから、わたしはその後の戦争が「サイバーテクノロジー」を駆使したものになるのを早くから知ることが出来た。が、それと同時に(今日のイラクで起こっているように)そんな簡単に戦争は処理されないだとうということも(発表者の自己満足的な態度からも)推察できた。
◆この映画では、共感やコミュニケーションの点で、孫と祖父とのあいだがベターで、かつラディカルで、息子と父親とのあいだにギャップがあるというある種の日本家族的なパターンが描かれている。しかし、このごろは、父親と息子は友達関係のようになるか、全然疎遠かのどちらかで、親父が権威的で、それに息子が反発し、その分、父親を飛び越えて祖父と息子とが気脈を通じ合うというのは、少なくなっているように思う。権威に対する反抗や抵抗の習慣(すくなくともたがいに明白な形で対峙しあうというスタイルの)が弱くなっているのも、このことと関連している。これは、単に「根性」などの問題ではなく、テクノロジーの変化から来ている。ただし、この映画も21世紀の申し子であり、対立しあっていた親子が最後のシーンで、どこかあいまいな形で和解しあってしまうのであり、全体は闘いにつぐ闘いの連続だが、どんなに闘っても、わが身は痛まないというヴァーチャルな感じがつきまとう。それが、わずかにこの映画の「新しさ」だと言える。
(東宝本社試写室)



2004-05-19

●16歳の合衆国 (The United States of Leland/2003/Matthew Ryan Hoge)(マシュー・ライアン・ホーグ)

The United States of Leland
◆雨が降り出し、京橋駅から走る。ロビースペースで中俣真知子さんと今野雄二さんと少し話す。『堕天使のパスポート』はいいと中俣さん。今野さんは、『リディック』を高く評価。これは、わたしはまだ見ていない。映画が始まる寸前、浜崎あゆみが好みそうな帽子をかぶった女性が近くに着席。わたしには、関係ないのだが、うしろのひとにその帽子が邪魔になるのではないかと気になる。キートンの映画だったか、映画館で高い帽子をかぶっている奴がいるので注意すると、すぐに帽子を脱いだはいいが、帽子の倍ぐらいの髪がぼわーとあらわれるという大笑いのシーンがあったのをふと思い出す。
◆映画は、16歳のリーランド(ライアン・ゴズリング)が、恋人ベッキー(ジェナ・マローン)の障害児の弟を殺したというところから始まる。それは、怨みや憎悪のためでもない。アルベール・カミューの『異邦人』の主人公ムルソーは、アラブ人を殺し、理由を訊かれて、「太陽がまぶしかったから」と言い、ここから、「不条理殺人」という言葉が生まれたが、リーランドも、ある種の「不条理殺人」をした。しかし、彼には、ムルソーのような「不遜」さはない。とすると、彼は、障害を持って生きる少年に「同情」してそうしたのか? そんな要素もないではない。
◆スタイルはもってまわっている。話があちこちに飛ぶのはいいが、その「断片的」な手法にあまり意味がなく、もったいをつけている感じのほうが強くなってしまう。この映画の製作にはケヴィン・スペイシーがかなり肩入れしたようだが、それは、脚本がどこか、彼自身が出ている『アメリカン・ビューティ』や『ペイ・フォワード』に似ているからではなかったろうか? しかし、これらとこの映画とは似て非なるものである。
◆リーランドの父アルバートは、有名作家で、もともとあまり家にはおらず、いまは妻と別居しており、リーランドは、母親と暮らしている。父は、自分で彼を旅行に連れて行く代わりに、ニューヨークまでの航空券を送ってきたりした。幼い彼は、一人でマンハッタンの高級ホテルに泊まってニューヨーク見物をしたりした。パリで暮らす父に会いにいったこともある。まあ、経済的には困らないが、淋しい少年時代を送ったわけだ。しかし、それが原因で殺人を犯したというような短絡を臭わせるわけではない。
◆リーランドが収監されている刑務所の指導教官のバール(ドン・チール)が、リーランドに興味を持ち、彼をテーマにして何かを書こうと思う。一方、息子の事件を知ったアルバートも、そのことを小説にしようという意識を持ったようだ。「持ったようだ」とあいまいな言い方をするのは、はっきりとそう表現されているわけではないからだ。バールは、リーランドの父親が、有名作家であることを知り、彼により関心を深める。アルバートの方は、まだ無名のバールに先を越されるのを意識した態度を取るように見える(これもはっきりではない)。2人とも、リーランドをネタにして何かを書こうとしているとしても、そこから「対抗意識」のようなものが出て来るわけではないところが、この映画の特徴だろう。
◆リーランド自身も、この映画の原タイトルの「リーランドの合衆国」と題されたノートに思いをつづっている。その意味では、この映画は、アルバートというプロの作家、バールというアマチュア作家、アマでもプロでもない「書く人」としてのリーランドの3人の「作家」のからみあいの話であるとも受け取れる。しかし、そういうエクリチュールのたわむれが深い洞察力を持って描かれるわけでもない。
◆アルバートは、『アメリカは騒がしい』という本を書いている。リーランドのノートのタイトル「リーランドの合衆国」は、父への反抗か? しかし、アメリカでも、もう「反抗」の時代は終っている。息子は父に反抗しない。だから、「存在の運命」に「反抗」したムルソーとは全く違う。リーランドには、反抗すべきものも、相手もいない。なんかそういう雰囲気というか気分というか、そんなものを感じとればいいのでしょうかね。それにしても、退屈な映画だ。その「退屈」さのなかに何かを読み取れということかな?
(映画美学校第一試写室)



2004-05-18

●堕天使のパスポート (Dirty Pretty Things/2002/Stephen Fears)(スティーヴン・フィアーズ)

Dirty Pretty Things
◆ロートラウト・ハッカーミュラーの『病者カフカ』(論創社)を読んでいて、駅を1つ乗り過ごしまったので、会場への到着が遅れた。力作との評判も高いので、席は一杯。やっと後列から2番目に空席を見つける。たしかに、刺激的な作品だと思う。
◆最後はやや『スパイ大作戦』(ミッション・インポッシブル)風の終り方をするが、深い絶望に満ちた世界をさんざん見せられたあとでは、それが一服の清涼剤になる。しかし、もっと暗い終り方をするという手もあった。いずれにしても、ぐいぐい引きつけていくアクチャリティが凄い。昨年ロンドンに行ったときに歩き回った一帯がよく出て来たので、なおさらリアリティが増した。
◆冒頭、脇役の雰囲気で登場するキウェテル・イジョフォー。ロンドンのヒースロー空港でタクシーの客引きをしている。あやしい感じはない。最近は、空港でもとんでもない客引きに出会うことは少なくなったが、イジョフォーが演じるナイジェリア出身のオクウェは、その知的な風貌から、訳ありでタクシーの運転手をしていることがうかがえる。市内のホテルに客を運び、車庫にもどる。そこは、「ミニ・キャブ」(Mini Cab)の配送事務所だった。ロンドンでは、近年、通常の黒塗りのタクシーよりも安い値段で走る「ミニ・キャブ」の配送事務所がたくさんある。こういうところは、賃金も安いが、不法就労のチャンスもある。
◆オクウェは、ミニ・キャブの仕事を終えると、街のバーのような店に行き、草の葉っぱのようなものを買う。顔なじみの店主は、オクウェと同郷か? 最初、この葉が、なんだかわからなかった。彼がヴェジタリアンで料理に使うのかと思ったら、それをそのままむしゃむしゃ食いはじめた。そして、そのまま彼は、「バルチック・ホテル」というホテルへ行き、フロントで朝の5時まで働く。さらに、今度は病院へ行き、中国人の友達が仕切っている遺体解剖のセクションで働く。あの草は覚醒効果があるらしい。こうして、彼は、ほとんど寝ないで働きつづける。
◆オクウェを何かにつけ助けてくれるこの中国人の友達グオイ(ベネディクト・ウォン)も難民。この映画は、いずれも厳しい祖国の状況を逃れてロンドンにやって来た難民や移民の目からすべてが描かれている。ほとんどギャングのように見える移民局の役人たち。
◆1970年代のニューヨークでは、何も売る物がなくなれば、血を売った。80年代になってAIDSがひろまり、それができなくなった。今日のロンドンでは臓器を売る。心臓も肝臓も売れないことはないが、それは、命と引き替えだから、体内に2つある腎臓の1つを売る。
◆オクウェが働くホテルの支配人ファン(セルジ・ロペス)は、まさに生き馬の目を抜くロンドンで、最も底辺にいる者たちから血を吸う吸血鬼的な存在として描かれる。しかし、こういう人間は、いつの世にも存在する。オクウェは、ホテルのメイドとして働いているシェナイ(オドレイ・トトゥ)に好意を持っている。彼女も、トルコからやって来て不法就労している。移民局の役人に目をつけられてからは、彼女は、縫製工場で働くが、その主任は、彼女を食い物にしようとする。このあたりの関係は、先に論評した『ディープ・ブルー』の海の生きもの同士の「非情」な世界を思わせる。その世界には、復讐や、うっぷんを晴らす解消の行為はあるのだろうか?
◆この映画には、むろん、社会批判の姿勢があるが、実際のところ、映画は、こういう悲惨な現実から養分を吸収してリアリティを強化してきた。逆に言えば、こういう世界がなければ、映画は凄みを出せない。そして、アメリカの「人道支援」なる名のもとの侵略や、先進産業国によるグローバルな商業的進出がなければ、難民や都市のスラム化はもっとおさまる。しかし、「発展」や「開発」はとどまることがなく、世界は麻薬中毒の刺激と身体破壊との関係に似て、つかのまのなかにしか、「やすらぎ」は訪れない。
(メディアボックス)



2004-05-17

●地球で最後のふたり (Last Life in the Universe/Rung rak noi nid mahasann/2003/Pen-Ek Ratanaruang)(ペンエーグ・ラッタナルアーン)

Last Life in the Universe
◆プレスを読んでいたら声をかけられたので、顔を上げたら土屋豊さんだった。試写会で会うのは初めて。タイを舞台にし、一風変わった味を出してはいるが、終って、それがどうしたといいたくなるような思わせぶりな感じた強い。うしろの席で盛大ないびきの音が長く続いた。
◆場所の設定はタイのバンコク。ケンジ(浅野忠信)の部屋は、たくさんある本をはじめとして、万事が整理整頓されている。いや、整理というよりも、分類されていると言ったほうがよい。整頓と分類とは違う。整理は、勝手な整理が可能だが、分類は、他者との共有を可能性として持つ。ニューヨークのわたしの友人の家の台所の棚には、調味料や食器にいちいちラベルがつけられており、いきなりその台所を使うことになっても、すぐに勝手がわかるようになっていた。分類とはそういうものだ。とはいえ、ケンジの生活は他者から切り離されている。彼は、バンコクの「バンコク文化センター」の図書室で日本書の整理をしている。利用者はいるが、相手は人ではなく、本という物だ。
◆この映画に登場する「バンコク文化センター」は、国際交流基金の機関で、それが実名で登場し、(おそらく)本物の場所でロケしている。その事務所にヤクザ(三池崇史がいい感じを出している)がやってきたりするのだが、これって、あのおカタイ国際交流基金が許したのかしら? わたしは、少しまえ、紀田順一郎氏にたのまれた、海外に紹介する日本書の選定委員というのをやったことがあるが、さすが外務省や宮内庁につながる組織だけあって、えらく息苦しかった。
◆この映画のプロデューサーのなかにフラン・ルーベル・クズイと葛井克亮の名がある。二人は、知る人ぞ知る(といってももう30年まえか)『人間の証明』のスタッフをやるなかで知り合い、結婚した。葛井氏がフランとニューヨークに住んでいたとき、わたしは、ひょんなことで(これもニューヨークで)友人になってしまった監督の伊藤昌洋から葛井氏を紹介され、何度か会ったことがある。それから大分して、新宿を歩いていたら、歌舞伎町で2人が、映画の撮影をやっているのに出くわした。『東京ポップ』(Tokyo Pop/1988/Fran Ruben Kuzui) である。これ以外にも、彼らの作品が6、7本あるが、わたしは、シネマノートでも『オルガズモ』を論評したことがある。
◆ケンジは、図書室で見かけたニッド(ライラ・ブンヤサック)と知り会うが、この(日本の)「女子学生」の服を着た女は、すぐに事故死してしまう。ケンジは、彼女の姉のノイ(シニター・ブンヤサック)と知り会うが、別に愛しあうわけではない。ニッドとノイの関係、ケンジと彼らの関係は、屈折していて面白いが、結論的に言えば、もってまわっているだけと言わざるをえない。
◆ノイがケンジをフォルクスワーゲンで連れていくバサーン(という設定)の家の部屋は、ケンジと対照的に乱雑というよりも猥雑ですらある。これを「タイ」的と一般化してはまずいのだろうが、日本には、ケンジが一つの極端を例示しているような「潔癖」文化があり、日本の外に行くと、どこにも身体的「よごれ」があり、人間的である。ニッドの「女子学生」趣味とか、ヤクザとタイとの関係とか、タイと日本という観点を触発するシーンは多々あるところは、面白い。このへんについては、いずれ、タイ生活の長い菊本浩三さんにでもきいてみたい。
◆魚を食べないケンジが、ノイとタイのレストランかあるいは「バンコク文化センター」のキャフェテリア(?)で食べる野菜とライスの一皿盛りの料理がうまそう。このシーンを見たとき、料理をうまそうに描く映画は面白いという自説を持つわたしは、その後の展開を多いに期待した。しかし、そうはならなかった。ケンジは、レストランに行っても、見せのフォークやスプーンを使わず、「バンコク文化センター」のマークのある紙鞘に入った割箸を使う。
◆ケンジが首を吊ろうとしているところへ、日本でコトを起こし、タイに逃げてきたヤクザの兄(松重豊――歳とともに「日本のクリストファー・ウォーケン」の面影は薄れてきた)がやってきて、「今度は首吊りかい?」と無愛想に言うが、ケンジが川に跳び込もうと思案しているシーンがあとから出て来る。わたしは、自殺願望のモダモダを見るのは好きではない。人にはそういう過程があるだろうし、わたしだって死のうとしたこともある。しかし、それを映画で描く場合は、工夫がいるだろう。ただ、写実的に描けばいいわけではない。タイトルからしてそうだが、孤独だとか、死だとかを甘ったれたやり方でしか描けないところが、この映画のダメなところだ。葛井ちゃん、ごめんね。
とみ、スクリプターの仕事をしていたフランと
(東芝エンタテインメント試写室)



2004-05-12

●茶の味 (Cha no Aji/2003/Ishii Katsuhito)(石井克人)

Cha no Aji/
◆出がけに、ある雑誌の原稿に付ける写真の打ち合わせの電話があった。デジカメで撮った写真をメールに添付すればいいと思っていたが、その雑誌社ではメールが受けられないという。写真は、フィルムかフィルムのプリントかでないとだめ。昔はそれがあたりまえだったから、別に驚かないが、いざとなってシマッタと思った。デジカメで撮った写真なので、わたしのプリンターで紙焼きにするとかなり画質が落ちてしまう。で、データをフロッピーで版下屋さんに渡してもらうことにした。が、それでは、事前に写真をチェックできないので、プリントアウトも付けることになったが、基本的にプリントアウトを軽視している「モニター主義」のわたしのプリンターは低機能なので、高画質だとえらく時間を食う。それと、写真の容量がかなりあるので、写真1枚にフロッピー1枚要る。(圧縮して向こうで解凍にトラブっても困るし)。最近は、何でもメールに貼り付けて入校し、校正もポストスクリプト・ファイルでなんてこともあるので、フロッピーとは縁がなくなってしまい、あちこちひっかきまわしてそろえる始末。いやぁ、でも、こういう「古風」さにこだわる雑誌は好きですね。
◆『茶の味』というタイトルは、なんらかの「古風」さを強調しているような印象をあたえるかもしれないが、必ずしもそうではない。むしろ、何が「茶の味」なのかわからないところもある。たしかに、縁側で 家族が茶(たぶん緑茶)を飲むシーンはあるが、そういうシーンで「いかにも」の感じを出そうとしているわけではない。むしろ、タイトルとは逆に、技法的にも非常にオフビートでシュールで、しかも人とと人との感性的な共鳴を呼び起こすところがある。ユニークな作品だ。
◆冒頭、ハアハア言う息の音が聞こえるので、またセックスかと思ったら、学生服の少年春野ハジメ(佐藤貴広)が田んぼのなかの道を走っているのだった。彼は、陸橋を通過する電車に近づくためにそうしているらしい。電車には最近転向してきた少女アオイ(土屋アンナ)が乗っている。素朴な「純愛」風のシーンのように見えて、その実、なかなかファニー。この映画の登場人物は、すべてそういうところがある。
◆【追記/2005-09-30】sakanaさんが、次のような指摘をしてくれているのを知った。「粉川哲夫氏のシネマノートに冒頭で電車に乗っていた転校生は土屋アンナちゃんと書かれていましたが、あれは相武紗季ちゃんですよね?」(http://sakana.setuyakutechou.com/?eid=104135) すみません、いつも早書きで失敗します。 ◆妹の幸子(坂野真弥)は、自分の体が巨大になって自分を見つめているといったパラノイアに悩んでいる。彼女が縁側にいると、別室の窓が開いたり閉まったりして、眉毛が一本につながった老人が覗き見する。一見変態風の老人は、ハジメと幸子の祖父アキラ(我修院達也)。食事のときに音叉(チューニング・フォーク)をいきなり出して鳴らしたりするが、音楽家ではなく、元アニメーター。母美子(手塚理美)は、アニメーターといっても、最初何をしているのかわからぬ風情の仕事を家でしている。ときおり、問題の老人がそばに来ては、舞踏か歌舞伎かなんかのような(あるいはコミックのキャラクターの定番の身ぶりのような)身ぶりをして見せ、母は納得している。
◆ハジメの父ノブオ(三浦友和)は、家では、あまり精彩がないが、この映画は、そういう面を描くわけではない。日常的に見れば、人はそんなに「劇的」に行動したり、しゃべったりしているわけではない。この映画は、日常のリズムに密着している。が、だからといって、日常が平板であるわけではなく、日常のそういう不思議さが、この映画ではよく描かれている。特に「悪人」も「善人」も出て来るわけではないのもそのためだし、誰でもが思っていながら、そうは言わない日常の「そんなもんか」という感じを出している。それは、簡単なことではない。
◆こういう映画は、何も知らないで見、そのプロセスを体験することが重要なのだから、まだ見ていない人には、内容をバラさない方がいいだろう。しかし、このシネマノートは、すでに見た人も読んでくれるので、もう少し内容に立ち入った書き方をさせてもらうと、この映画は、「アニメ」を軸に展開する。アキラは、元アニメーターで、アニメイションの下絵を描いていた。嫁の美子は、アキラを師にしているらしい。ノブオの弟一騎(轟一騎)は漫画家。よく春野家にやってきて、奇妙な話をしていくアヤノ(浅野忠信)は美子の弟であり、スタジオミキサーである。
◆ノブオが描いたノートが、パラパラアニメになっているという最後のシーンが「泣かせる」ようにつくられているが、日本では、「黙ってみんなのことを考えてくれている」といった態度が「感動」を呼び、好まれる。映画としては、「ああ、そうだったのか」という思いを作るところがツボでもあるが、それぞれが、適度に勝手なことをやっていながら、特に喧嘩も不幸もなく、まあまあうまくいっているこの「春野家」は、日本の「茶の味」的な家庭のイメージなのだろうか? 明らかに小津安二郎を意識しているが、小津の世界のような、一見「のどか」ななかにどきっとする家庭の暗い闇が見えて来るような個所はない。むしろ、この映画は、小津とは違い、家庭を肯定的にとらえている。
◆「春野」という名がすでに象徴的だが、アニメータの「(轟木)アキラ」は、大友克洋の『AKIRA』を、漫画家の「(轟木)一騎」は、梶原一騎を、「転向生」のテーマは、大林宜彦の『転向生』をそれぞれ思い起こさせるが、深い意味はなさそう。
(メディアボックス)



2004-05-11_2

●トロイ (Troy/2004/Wolfgang Petersen)(ヴォルフガング・ペーターゼン)

Troy
◆かなりの盛況。入口で荷物検査。ヘラルドで会った面々もそのままこの試写に流れ込んだ。
◆戦争ものはもうたくさんという気持と、予告編で「史上最大の[愛]のための戦い」などと言っていたので、やだなと思ったが、見て損はしなかった。むしろ、ホメロスの叙事詩『イーリアス』の啓蒙的なダイジェストにもなっている。しかも、それを戦争賛美の方向で描くのではなく、くり返し起こされる戦争の虚しさと運命的ともいえる戦争のくり返しの歴史がよく描かれていると思う。
◆物語の発端は、トロイの王子パリス(オーランド・ブルーム)が、スパルタの王にしてギリシャ連合軍の首領アガメムノン(ブライアン・コックス)の弟メネラオス(ブレンダン・グリーソン)の妃ヘレン(ダイアン・クルーガー)を奪ったことであった。アガメムノン側は、仕返しにトロイ王の姪、ブリセウス(ローズ・バーン)を捕虜にする。映画では、『イーリアス』よりも、より現代的に、パリスの「不倫」を利用してトロイを攻めるという描き方をしている。
◆ブラッド・ピット演じるギリシャ連合軍の戦争マシーン、アキレス。母親が、赤子の彼を冥界の川に浸し、不死身な戦争マシーンにすることを祈願し、その通りになったが、母親がつかんでいた足の部分だけが不死身にはならず、さんざんその強さを見せつけるが、トロイア戦争の大詰めでパリスに矢で撃たれ、力つきる。「アキレス腱」という名はここから来た。ギリシャ連合軍の首領アガメムノン(ブライアン・コックス)は、トロイを攻めるために是非ともアキレスの力を借りたいと思うが、アキレス(映画では、一匹狼的なキャラクターとして描かれている) は、なかなか腰をあげない。さらに、彼は、捕虜になっているブリセウスを愛するようになる。このあたりは、おおむね「原作」の筋書き(「原作に」ではない)にほぼ忠実だ。
◆腰を上げなかったアキレスが、戦闘に加わるようになるきっかけは、親友のパトロクルス(ギャレット・ヘドランド)が、彼の武具を着てトロイ軍と戦い、トロイの軍の総大将(これもめっぽう強い)にしてパリスの兄ヘクトル(エリック・バナ) に撃たれる。親友を失ったアキレスは、怒り狂い戦闘に加わる。このへんは、映画は「原作」の筋を追っている。 そうでない方が、それまでのブラッド・ピット=アキレスのキャラクターからすると面白いのだが、それでは『イーリアス』に新解釈を加えなければならなくなる。
◆しかし、ペーターゼンは、「史上最大の[愛]のための戦い」などとしては描かなかった。戦争によってギリシャの統合をくわだてる兄アガメムノンのもとで野蛮なまでに好戦的なメネラオスにうんざりしていたヘレン(ダイアン・クルーガー)からすると、知的で「反戦」のパリスが新鮮だった。メネラオスとアガメムノンは、2人の「不倫」を利用して、トロイを攻めたのであり、戦争が、怨みや遺恨や宗教の違いなどで生じるのではなく、確実に、権力への意志という「理性」によって遂行されるものだということを、そのなかで民衆や兵士がすさまじい犠牲になる姿をペーターゼンは描く。
◆トロイと言えば、「トロイの木馬」は欠かせない。いまはコンピュータ・ウィルスの話に出て来る方が多いが、もとは、知謀にたけたオデッセウス(ショーン・ビーン)が考えた戦闘計略だ。(ところで最近、わたしのパソコンに「トロイの木馬」が侵入し、504ものファイルを痛めつけた)この映画ではその話が割合忠実に描かれている。馬を模して作られ、ギリシャの神々にささげる神聖な巨大オブジェであるトロイの木馬を、そのなかに兵士を忍ばせる容器に使い、トロイの要塞に侵入することに成功する。
◆映画は、今に通用する論理で話を進めているが、ギリシャ神話では、戦争は、増えすぎた人間を減らすためにゼウスが考えた方策だとされる。まつりごとは、「神々の怒りを鎮めるため」というの人々を納得させるレジティマシーになっている。神々がどう考えているかを判断するのが、「神官」である。パリスがヘレンをトロイに連れ去ったのも、ギリシャ神話の論法では「不倫」(「倫理」というのは、ギリシャよりずっとあとの概念――倫理の語源の「エチカ」の意味は英語で言う「エシック」とは大分違う)ではなく、「美神の指示」にしたがったにすぎない。これらのことを考えると、ギリシャ神話は、これまで近代以降のロジックに同化して解釈されてきたのとは、全く違う解釈が成り立つだろう。しかしながら、一つ言えることは、ギリシャ時代には、「いま」起こった問題を別の次元(たとえば神々の世界)へ移すパターンがあるということではないか? これは、ある種の「責任転嫁」であると同時に、現実が現実だけで成り立っているのではないという洞察でもあった。
◆支配者側から見れば、「神々」の発明が支配技術を飛躍させたと考えることも出来るし、被支配者側から見れば、「神々」の発明は、現実の悲惨さや苦しさをあきらめる生活の知恵となったと言うことも出来る。20~21世紀は、電子メディアという「神々」がこの機能をになっている。
◆久しぶりに見るピーター・オトゥールは、トロイの王プリアモスを演じる。単身アキレスのもとを訪れ、アキレスによって殺害され、馬でギリシャ軍の基地に引き回された息子ヘクトルの遺体を引き取りたいと嘆願する「父親」の姿は、悲痛。城砦都市トロイの滅亡を見守る老王の演技は、近年見るべきものがなかったオトゥールの面目躍如。1932年8月2日生まれだから、彼は、いま71歳。意外にまだ若いのだ。
(丸の内ピカデリー1)



2004-05-11_1

●丹下左膳 百万両の壷 (Tangesazen/2004/Tsuda Toyoshi)(津田豊滋)

Tangesazen
◆30分まえに行ったが、1時からの『ワイルド・レンジ』の上映のため、開場したのは、上映10分まえだった。列を作る指定がなかったので、開場の際、「順番はどうなるんだ」といった怒声が上がった。みんな本気なのね。帰りに市川篤さんに会った。この映画の配給元のメディア・スーツの宣伝部長になったという。コムストックからザナドゥを創立し、その後ニューヨークで「充電」していたらしい。急がしそうなので、「また」と言ったら、「またなんですよ」(映画との腐れ縁は切れないという意味)と苦笑いした。
◆最初軽すぎる、ふざけすぎという感じがしたが、次第にそのテンポとトーンに慣れてきて面白く見た。他ではふざけすぎても、殺陣のシーンはおふざけとはうってかわった本格調なので、両方が拮抗して面白い感じを出すことになった。
◆津田豊滋監督と主演の豊川悦司が意図したかどうかはわかないが、無声からトーキーになっていたしかたなく出来上がった大河内傳次郎の「人工的」な口調と豊川の調子が似ている。プレスによると、大河内が主演した山中貞雄『丹下左膳餘話 決定版』(1935)のリメイクであり、豊川は、大友柳太郎が主演した、松田定次『丹下左膳 決定版』と加藤泰『丹下左膳 乾雲坤竜』も見ているという。大友の丹下左膳は、(わたしは好きだが)強いということに力点が置かれ、大河内よりは「ひょうきんさ」に欠ける。
◆丹下左膳の女にして矢場のおかみを演じる和久井映見が、なかなかいい。最初、こういう仕事のおかみ役としては面子からしても弱いかなと思ったが、どうしてどうして、ぽんぽん言うその台詞の切れ味がいい。荻乃とその婿養子で柳生対馬守の弟、源三郎を演じる麻生久美子と野村宏伸は、敬語がめちゃくちゃで、ほとんど「現代人」といった風情だが、この映画ではそれでいいのだろう。廃品回収業を営むカップルの茂三とハチも、漫才のかつみ・さゆりが演じている以上、時代劇らしい時代劇の感じは期待できないが、その(とりわけさゆりの)ファニーな感じが活かされている。そば屋のおやじ弥平を演じる坂本長利は、アングラ俳優の時代から見ているが、実にうまい役者だ。ここでもいい味を出している(こっちは、時代劇らしい時代劇の雰囲気)。
(ヘラルド試写室)



2004-05-10

●父と暮らせば (Chichi to Kuraseba/2004/Kuroki Kazuo)(黒木和雄)

Chichi to Kuraseba
◆黒木監督が上映まえに挨拶。ひどく控えめで、井上ひさしの戯曲をどこまで映画化できたかわかりませんがと謙遜。かえってこちらが恐縮する。原爆の広島という内容と、配給が岩波系であることもあってか、コワイお客さんが来ているかもしれないので、自然に黒木さんもああなるのかな。
◆国家という顔の見えない存在を相手に拳(こぶし)をふりあげても仕方がないが、わたしのような無節操な男でも、広島の「原爆記念館」に行くと、アメリカへの怒りが込みあげて来るのを抑えることができなかった。その記憶は、アメリカがイラクやアフガンへの空爆のたびによみがえった。侵略をしたのも国家だし、それに「制裁」を加えたのも国家なのだが、国家のまえでは、個々人の存在は、抹殺されても仕方がないものでしかないという論理が許せない。原爆を広島と長崎に落とさなかったら、「天皇帝国」日本は降伏しなかったというのが、原爆を投下した側の正当化理由だが、黒船が来なかったら、日本はアジア侵略もしなかったとも言える。イラクだって、サダム・フセインを生んだのはアメリカだった。アメリカ国家とアメリカ人とは違うのだが、アメリカ国家は、原爆以前に、日本全土を空爆し、都市を焼失させた。1985年に「東京空襲を記録する会」が復刻した『コンサイス東京都35區區分地圖帖』を見ると、ピンク色で表示されている「焼失区域」がない区はないし、大半の区が全面ピンク色である。
◆舞台の映画化を最初から前提しているので、映画としては、損をしているところが多い。まず台詞が舞台調であること。演技のための「広島弁」。こうなると、宮沢りえも原田芳雄も、きわめて新劇調の誰に向かって言葉を発しているのだかわからないモノローグ調のディスクールになってしまい、台詞に関してはだたさえダメな宮沢の欠点が強調されてしまう。原田は、持ち前の大げさな演技が誇張され、映画としては活きない。浅野忠信なんかは、別に彼でなくてもよいような非常にかすんだ存在になってしまった。
◆しかし、見ているうちに思ったのだが、原爆で死んだ父(原田芳雄)が姿娘の美津江(宮沢りえ)の前に姿をあらわし、対話したり、おせっかいをやいたりするという「シュール」な設定のなかでは、それぞれの登場人物が、たがいに台詞を受け止めないようなスタイルでしゃべってもおかしくないし、かえってその方が、「現実」とはちょっと違うという異化効果が出ていいのかもしれない。しかし、舞台では活きるこうした(生身の登場人物と「霊界」の人物とを同じ舞台に置く)方法も、映画のような、それ自体で、ヴァーチャルな現実と身体的な現実との境界を持たないメディアにおいては、ばかばかしく見えかねない。
◆原爆のような大量殺戮にもかかわらず生き残った者が、宮沢の台詞で言う「うちは、しあわせになってはいけんのや」「生きているのが申し訳のうて」という気持ちを持ってしまうのは、悲痛である。生き残れないということがあたりまえの「グラウンド・ゼロ」で、生き残る。しかし、どうだろうか? 実際に生き残った者は、そうは思わないのではないだろうか? この手の台詞のあとには、必ず、「死んだ人間の分だけ生きる」とか「~生きてくれ」とかいう台詞が出て来る。この映画でもそうだが、これは、芝居のステレオタイプなディスクールであって、現実に生きる人間は、そうは思わないのではないか? にもかかわらず、こういう台詞が現実世界でも発せられるのは、芝居や映画の世界が、身体的現実に浸透し、どこまでが芝居や映画であるかがわからなくなるまで同化しているからである。しかし、そういうことを言う者は、現実のなかで芝居や映画の典型的な登場人物を演じているにすぎないのだということを押さえておこう。
◆5月は試写にとっては厳しい月である。今年は、連休で6日まで試写がなかった。6、7日は夕方まで試写には行けなかったので、いわく付きの『パッション』を一般公開で見ようと思って、テアトルタイムズスクウェアの最終に走ったが、何と、この日は『白いカラス』試写会で会場を使い、『パッション』はないのであった。それにしても、わたしは、よほど『パッション』から見放されているらしい。今月はヨーロッパにも行かなければならないので、さらに1週間は試写を見れない。
(松竹試写室)


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