リンク・転載・引用・剽窃は自由です (コピーライトはもう古い) The idea of copyright is obsolete. 

 粉川哲夫の【シネマノート】

今月気になる作品

★★★ サガン 悲しみよこんにちは   ★ ガマの油   ★★★ ハゲタカ   ★★ 幸せのセラピー   ★★ アルマズ・プロジェクト   ★★ターミネーター4   ★★ 真夏のオリオン   ★★★★ レスラー   ★★★★ マン・オン・ワイヤー   ★★★ はりまや橋   ★★★ 愛を読むひと   ★★ 剱岳 点の記   ★★★★ 人生に乾杯!   ★★★★ 築城せよ!   ★★★ それでも恋するバルセロナ   ★★★★ 扉をたたく人  



96時間   サンシャイン・クリーニング   HACHI  約束の犬   路上のソロイスト   MW   ぼくとママの黄色い自転車   ちゃんと伝える   ディア・ドクター   キャデラック・レコード  
【月間の印象】
5月にカナダのトロントに行ったことで、試写の回数が減っただけでなく、ノートを書く時間がなくなった。大学が始まったので、月曜は「映画文化論」、火曜は「ゼミ」があり、たいていはその準備に追われ、早出して1本試写を見るなんてことはできない。終わりは遅く、試写には間に合わない。金曜は毎週ゲストを迎える「身体表現ワークショップ」で、たいていのゲストがはやい「入り」をするので、その立会いで1日つぶれる。というわけで水曜と木曜が試写に行ける可能日だが、まるまる空くことはなく、試写室への道はどんどん遠のいていく。こんなことでは、「シネマノート」をしばらく休んだ方がいいような気もするが、どうでしょう?

2009-06-13

●路上のソロイスト (The Soloist/2009/Joe Wright) (ジョー・ライト)  

The Soloist/2009/Joe Wright ◆この映画は、ロバート・ダウニー・Jrが演じるロサンゼルス・タイムズのコラムニスト、スティーヴ・ロペスが書いた本『The Soloist: A Lost Dream, an Unlikely Friendship, and the Redemptive Power of Music.』にもとづいている。ロペスは、会社の近くでたまたまホームレスのナサニエル・エアーズ(ジェイミー・フォックス)が2本しかない弦のちびたヴァイオリンを弾いているのに出会い、興味をおぼえ、そのことを自分のコラムに書く。ナサニエルは、かつてはチェリストとして将来を嘱望され、ニューヨークのジュリアード音楽院にまなび、その同級生にはヨーヨー・マがいた。が、精神を病み、学院をドロップアウトしてロスの路上生活者となった。ロペスのコラムはすぐに反響があり、読者の一人がチェロを新聞社に送ってくる。それを持ってナサニエルのところに走るロペス。が、一言話せば、目を合わさずに自動マシーンのようにしゃべり出すナサニエルとのコミュニケーションはむずかしい。(本当はもっと難しいはずだが、映画では、合意が成立ち、ナサニエルはチェロを受け取る)。この映画は、あえてその可能性を引き出すと、本当のコミュニケーションとは、コミュニケーションの不可能性を知ることなのだということをロペスが自覚するプロセスを描いたドラマであるとも言える。
◆ロペスは、新聞記者であるから、いつもネタを探している。元「天才」で今はホームレスというのはかっこうのネタだ。そういうネタを見つけたらはずさない抜け目のなさは、ある意味で「近代人」(モダン・エイジの人、近代社会の人間)の特徴であり、程度の差はあれ誰でもが持っているものである。そういう欲望と能力で近代人は競争をし、自己の欲求を具体化してきた。また、ロペスには、「貧しい」人や「困難」に陥っている人を助けたいという「近代主義的」な「サルヴェイション」(救済)や「チャリティ」(慈善)の習慣がある。だから、彼のナサニエルへの接近は、必ずしも、彼を自分の仕事のために利用しようとしただけだったわけでもない。実際のロペスは、「アクティヴィスト」系のライターであるといわれている。
◆この映画のなかで、「近代人」ロペスは、「近代」の終焉を経験する。ナサニエルには、彼の「近代主義的」な救済も慈善も通じないし、彼の競争意識や利己主義も理解できない。ナサニエルは、そういうことと無縁の世界にいる。日本語ではかつては「分裂症」、いまでは「統合失調症」と訳されている原語は、相変わらず「schizophrenia」である。この語は、ガタリとドゥルーズによって独特の意味を帯びることになったが、この「スキツォフレニア」は、「近代的」自我とその関連現象の終焉的事態である。それは、まさに「近代」の基本的要素であった「統合」が出来なくなること、「統合」をはずれてしまうことの総体である。だから、これを「統合失調症」と訳すと、この「病」が持つ「統合」の向こう側の可能性が見えないくなってしまうのだが、いずれにしても、ナサニエルは、ロペスがそれまで信じてきた規範や価値観の向こう側で暮らしている。
◆ロサンゼルス市内だけでいま9万人はいるといわれるホームレスの存在も、彼や彼女が「スキツォフレニア」と診断できるかどうかは別として、その存在自体がある種の「スキツォフレニア」であり、「近代」の終焉と何か新しいことの始まりの境界現象である。「近代」を象徴してきた「ホーム」(家庭・家族・拠点)が意味を持たなくなること。「定住地」が存在しなくなること。「自己」は存在するとしても、それは決して「集約」的、「統合」的ではなく、分散的、分裂的、流動的であること。こういう事態は、「近代」医学的な意味での「治療」では乗り越えることができない。その意味で、まさに、映画のなかのロペスの困惑は、まさにいまの誰しもが暗黙に経験していることである。実際のナサニエルは、いま、ヘルスセンターのLamp Communityの医療サービスを受けているというが、おそらく彼は今後もいまのままであり続けるだろう。この映画が出来上がったとき、試写を見せたが、2次元映像を受け付けない彼は、終始目をつむっていたという。ちなみに、映画の最終場面に出てくるコンサート会場のシーンで、客席のナサニエルやロペスの数列まえの最前列にカメオ出演しているナサニエル・エアーズの姿をちらりと見ることができる。
◆この映画で、幼いナサニエルがベートーベンに執着する(教師のまえで弾いてみせるのがベートーベンの交響曲第9番のテーマである)のも、彼が後に陥る(というより彼のなかから顕在化する)「スキツォフレニア」と無関係ではない。というのも、この映画でたびたび出てくる「交響曲第3番 英雄」を初めとして、ベートーベンとは、「近代」をその音系列のなかに叩き込んだ作曲家だった。(そういうベートーベンですら、晩年の「弦楽四重奏曲」では「近代」の地平の向こう側をさぐっている)。映画では、ナサニエルが弦楽四重奏曲第15番を弾くシーンがある。
◆映画のなかのロペスは、自転車で転んで怪我をしたり、別れた妻(キャサリン・キーナー)が会社のデスクであったり、連載が評判になってもハッピーな気になれない等々、新聞記者としては限界を感じている。実際のロペスは離婚などせず、「平和」に暮らしているとのことだが、いま新聞は、メディアとしてあきらかに終末に達している。それは、自動車(輪転機でつくられるからテクノロジー的には自動車文明に属する)と同様に、あとがないのであり、新聞の衰退は不可避的である。
◆原題の「the soloist」は、表面的には「ソロ演奏をする人」(そしてtheが付いているからナサニエル)のことであるが、もっと広義にも取れる。かつては「共同の人」であったはずのロペスも、いまは「ソロイスト」であり、「孤立」している。人は、いま、あらゆる「共同性」を失い、「ソロイスト」になりつつある。「ソロイスト」同士をつなぐのはネットでありケータイでありといった電子メディアだけである。映画のなかで、ナサニエルがたびたび公衆からロペスのケータイに電話するが、「会話」のために話しかけるというよりも、一人でしゃべり続けるナサニエルの姿は、コミュニケーションの本質を映し出す。コミュニケーションとは、「キャチボール」では決してなく、むしろ、双方が勝手に無数の玉を投げつけるだけの一方的行為なのである。そのあいだにある「了解」は、双方の勝手な「思い込み」ともいえるが、コミュニケーションとはもともとそうだったのであり、「合致」や「合意」のようなことは幻想だったのである。それで何が不都合なのか?
◆【追記】ナサニエルの幼少時の記憶を描くシーンで、窓から彼が、火が点いた車が走るのを見るシーンがある。あれは、この映画が実在のナサニエル(Nathaniel Anthony Ayers, Jr. 1953年1月31日生まれ)を意識しているとすれば、1965年8月に起こった「ワッツ暴動」(Watts Riots)だろう。このとき実在のナサニエルは、14歳という計算になる。「弟はひらすら音楽に打ち込み、周りの世界が変わっても、弟がやるのは、音楽だけ」と姉が言うシーンに続くシーンである。14歳ともなれば、あの地域の若者はみんな外に出たはずで、この短いシーンは、そういうことに対して距離を取っていた彼の状態をちらりと見せているわけだ。
◆映画では、ロペスは、妻と離婚したことになっているが、実在のロペス(Steve Lopez 1953生まれ)は、離婚はしていなかったという。このことについてロペス自身は、事実よりも自分の文章のテーマをとらえるほうが重要だからとして、批判的ではないらしい。ううん、それは、大分ちがうと思うが・・・。



2009-06-10

●HACHI 約束の犬 (Hachiko: A Dog's Story/2009/Lasse Hallström)(ラッセ・ハルストレム)  

Hachiko: A Dog's Story/2009/Lasse Hallström ◆邦題は「HACHI」であるが、原題は「HACHIKO」であるのが面白かった。これは、いま犬のことを「ワン公」というのが、犬に対する差別だという意識が日本にあることを示唆する。わたしの知り合いは、犬が病気になって、検査だけで45万もかかってしまったと嘆いていたが、ペットを人間なみの「家族」と考える習慣はとみに強まっている。こういう状況のなかで、かつては、あえて見くびることによって親しみを表しもした「公」という接尾語は、いまや死語になろうとしている。「ポリ公」などもってのほかだが、ネズミのことを「ネズ公」などとも言った。ネコに対しては言わなかったのは、ネコは人間に隷属することがないからであろうか?
◆わたしは幼少時代から大人になるまでずっと渋谷に住んでいたので、「忠犬ハチ公」というのはよく知っていた。ハチ公の銅像もよく見たが、生前のハチ公を見たことがあるという人の話を何度も聞いた。晩年のハチ公は、歯も抜けて、非常に老いた感じでごろっと寝そべっていたらしい。ハチ公には、「忠犬」という接頭語が付くのが常だったが、これは、戦争に突入しはじめた愛国主義のなごりである。いまでは死語の「忠義」が流行りであり、「忠犬ハチ公」の「忠」も忠義愛国の「忠」である。その意味で、ハチ公は、主人に忠実であったというだけでなく、国家に忠実であれという当時の国家イデオロギーを背負わせられていた。
◆ところで、いまの時代には、絶対にハチ公は存在しえない。それは、「愛国主義」が終わったからではなくて、野犬の管理が徹底し、鎖をつけない犬が街を放浪したり、寝そべっていたりすることが不可能になったからである。ハチ公は、その意味で、愛国の時代の犬であると同時に、そうはいっても(つまりは暴力を用いなければ管理を徹底できなかった)別種の「自由」の余地があった時代の犬であった。


2009-06-04

●サンシャイン・クリーニング (Sunshine Cleaning/2008/Christine Jeffs) (クリスティン・ジェフズ)  

Sunshine Cleaning/2008/Christine Jeffs ◆つまんない毎日。夢はどこかに吹っ飛んだ。あきらめ顔の姉。ふてくされている妹。でも、人生、そんなに捨てたものでもない。面白いこともある。愛すべき人物もいる。映画の目線の低さとオフビートなところがいい。
(2009-07-18付『スポーツ報知』)


リンク・転載・引用・剽窃自由です (コピーライトはもう古い)   メール: tetsuo@cinemanote.jp    シネマノート