粉川哲夫の【シネマノート】 HOME リンク・転載・引用は自由です (コピーライトはもう古い) |
1997-12-30
●恋人たちのポートレート
◆最初の印象は退屈。ダラダラした関係が嫌いなので、疲れる。しかし、最後の終わり方がシャレている。
◆ミキ・マイロヴィッチは、イヴモンタンと声が似ている。ヘレナ・ボナム=カーターは、『ウォリアーズ』に出てきた女に似ている。
◆終わり方はシャレているが、男と女で愛した、別れたはもう古い。白髪のブリアリは、見たくなかった。
◆好意的に見れば、終わりの(関係のあった映画監督が作った、実生活をイメージ化した映画を見ている)シーンに到達するためにグタグタしたプロセスを見せた? 実際の恋よりも、映画のなかの方がいい――実際の恋なんか、映画をモデルにしている――所詮われわらは、恋をするとき、映画を意識しているのだ・・・といった発想?
(ヴィデオ)
1997-12-29
●キャリア・ガールズ
◆会話と街の日常描写がすばらしい。女同士の友情よりも、セックスレスな時代の新しい「愛」の形が見える。
◆ロンドンの若者のパンクな言葉と街、さりげない日常的しぐさがかくも生き生きと描かれることは少ない。
◆街言葉がふんだんに使われている。
◆記憶・想起の力。過去とは何であるのか?
◆マイク・リーは、インタヴュー(東急テレビ28チャンネル)で、絵画で必ずしもスケッチが必要ではなく、絵の具を直接キャンバスに塗ることができるし、その方が絵画的であるように、映画にシナリオは必ずしも必要ではない――と言っていた。この作品も、台本なしで撮られている。
(シャンテシネマ2)
1997-12-24
●虹をつかむ男 南国奮闘篇
◆西田式『男はつらいよ』ラテン篇。このパターンを10回もくり返せば、「名作」になってしまうのだろう。
◆パターンは安易。が、日本のシャイで近親相姦的な人間関係のパターンをおさえているので、当面、このパターンは不滅。
◆成長していない大人、家庭、淡いすれちがい・・・山田映画のパターンの反復。
◆吉岡秀隆は、秋葉原のオノデンにつとめている設定(「オノデン」のネーム入り作業着を着ている)。「仕事はつまんねぇ~しよぉ」なって言っていいのかな?
◆最初「ブラジル」のメロディにのって、西田が南国の海を浮環にのって昼寝しているシーンが出る(酔っ払って留置場で寝ているときの夢)。これは、ドロップアウトのイメージかなと思う。
◆最初の方、電話の内容をおうむがえしに言うという(映画や芝居で表現を省略する最も安易な)方法が取られているので、こいつはと思ったが、その後は、そういう感じはなかった。
◆吉岡の妹役の星野真理の発音:「どうしよう」→「どうひよう」
◆山田洋次の世界:日本のシャイで近親然相姦的な人間関係:子供とコミュニケーションが出来ない父親、おせっかいな母親、流れ者願望、しっかり姉(準母)の存在。
(松竹第1試写室)
1997-12-22
●スリング・ブレイド
◆南部の仲間意識のようなものが見えるのはいい。ビリー・ボブ・ソートンの演技は、最初斬新だが、だんだんワンパターンにうんざりしていく。
◆フォークナー的世界。
◆善意とストレス、男尊女卑の世界も変わりつつある:ゲイや障害者の許容。
◆所詮、この物語は、そうした転換期の悲劇か?
◆演技の饗宴という見地から見ると、悪くない。
◆物語としては、最初から結末が見えてしまうところがある:ドワイト・ヨアキムは殺されるだろう・・・。
◆ヨアキムが無理矢理呼びつけて演奏をはじめるバンドの雰囲気がいい。
◆詩を詠む図体の大きい男。
◆ワン・ペアレント・ファミリーの子供へのプレゼント;父親の代わりをするソートン。
◆まだ「善意」というものが残っている世界。
◆狂気と素朴さ、善意と閉鎖性が混在する土地の雰囲気はよく出ている。
◆ある種の人造人間のような雰囲気が気になる。
(恵比寿ガーデンシネマ)
1997-12-18
●桜桃の味
◆主人公とともに移動するカメラがドラマを作りながら、同時にイランの日常的現在を見せてしまうリアリティ。
◆ドラマを展開するだけでなく、イランの今を見せてしまうドキュメント性も合わせ持つ。
◆まず、その時間感覚が違うことに気づかされる。退屈な時間の必要。
◆映像といっしょにいることがまず意味のあるような映画――何かを考えたり、ふとまどろんだりしてもいい。
◆イランの(街や開発地域の)さまざまな人々の顔・姿が映される。イランのいまをさりげないやり方で伝えたいという監督の願望のようなものが感じられる。
◆自分の墓に土をかけてくれる者を探すなかで出会うには、まず、クルド人の兵士、それからイラン人、そしてトルコ人。これ以外にもちらりと出る者たちのルーツは多様。
◆主人公はなぜ自殺するのか? 穴のなかで目を開け続けていたのでは?
◆みな非常にモラリッシである――昔日の日本人もそうだったのではないか?
(シネセゾン試写室)
1997-12-17
●グリッドロック
◆ノリがすばらしい。
◆タイトル/クレジットのときにスタンプのように出る文字とシンクロした音がいい。
◆ドラッグを摂るシーンのうまさ。
◆アメリカの大組織で必ず味わわされる官僚主義を鋭くからかう。
◆ティム・ロスもトゥパク・シャクールもいい。
◆フラッシュバックの入れ方。
(シネセゾン試写室)
1997-12-12
●ラブ&ポップ
◆器物(電子レンジやビールのジョッキ:人間ではないもの)の側から見ているような(魚眼を含む)映像が新鮮。
◆ただ、だんだん、相手から暴力をふるわれるようなプロセスなんだろうなということが予測できる。
◆ホームレスっぽいタオルを頭にまいた男から縫いぐるみに話しかける男(ホテルで電子銃でおどされる)へとエスカレート。
◆模型の鉄道に入れ込んでいるだけの森本レオ。一応家庭で両親とのコミュニケーションがないという設定。
◆音楽が、なぜサティ、ショパン、ドゥビッシーなのか? ただし、ビデオ屋のポルノのコーナーでホムレスっぽいにいさんが、女子高生の指をずぼんのポケット経由でペニスに触らせて自慰をするシーンでのショパンはおもしろい感じを出した。
◆ゲイの物書きが出てくるシーンではドゥビッシー。
◆『シベールの日曜日』のビデオの背が何度か映された。
◆村上龍が撮るよりよかったが、荒削りなエロティシズムは消えた。
◆女子校生のしゃべりかた:「おい〈ひい/しい〉ね」「・・しま〈しょう/ひょう〉か」「あた〈しぃ/すぃ〉」。
(東映試写室)
1997-12-08
● CURE キュア
◆狂気への招待。サイコスリラーとして一級。
◆サイコスリラー(単に映像内のロジックを追う)としても、誰もがその狂気を露出させざるをえなくなった社会の風景描写としも見れる奥行きを生み出すことに成功している。
◆画像がしっとりしていて安定観がある。
◆みなが狂気をかかえている。
◆このような形での「メズマー」があるかどうかは別にして、もしそういうのがいたらどうなるかというシミュレーションから生まれるリアリティとして、成功している。
◆ひょっとして役所が萩原の暗示にかかってしまうのではないかという不安に追い込んでいくうまさ。
◆廃墟やその他の建物の映像がいい。もっともらしさが実に緻密に出されている。本、写真、器具、円筒蓄音機・・・
◆ちらりとしか見せない画像に多くの暗示が含んでいる。最初のホテルでの殺しのシーン(パイプだ殴る)。
◆記憶を失うことによって相手の鏡になってしまう。
◆そうでなくても、萩原のような聞き方をすれば、コンヴェンショナルなものを当然と思って生きている者はぐらつく。警察のお偉方を前にした萩原と役所。「あなたは誰?」を2度以上くりかえせば、それは形而上学的な響きをもつ。
(イイノホール)
1997-12-05
●北京原人
◆日本軍がからんでいるらしい北京原人の化石の失踪のくだりを説明するイントロはおもしろい。
◆仕掛け、もっともらしい構成、ロケーション、などかなりの工夫が見られるが、丹波哲郎の大曽根なる人物の主張や行為の単純さが全体を壊している。
◆それにしても、原人たちのゴムのような表情、もうちょっとなんとかならないか?
◆北京原人は、核家族主義者だったのか?
(東映試写室)
1997-11-29
●モスラ2
◆モスラはもう映画の画面で使うのは無理なのではないか? モスラのいいとことはどこにもなかった。だから、最後に変身しなければならなかった。
◆子供連一般試写にまぎれて見せてもらう。チビにも2派あることを目の当たりにする:快活派とボヤキ派(席がないよ~オウチ帰ろう)。
◆思ったよりは「内容」がある。沖縄、石垣島、与美国島などの言い伝えをベースにしている。が、ここでもまた「地球を救え」のテーマ。この分では、日本の子供たちは、自分や地域よりも「地球」的規模でばかりものを考えるようになるのでは? 要するに足元が見えない子になるのでは?
◆「地球を救え」で育つ日本の子供たちは、地球にばかり目が行って自分の足元が見えなくなりはしないか?
◆CGは、気恥ずかしさをおぼえずに見れる。が、『インディージョーン』とか『ボルケーノ』などでおなじみの特殊撮影の技法が出てくる。
(イイノホール)
1997-11-28
●HANA-BI
◆高級すぎてへきえき。様式にこだわるが、岸本の唯一のせりふが読めてしまう凡庸さもある。
◆もってまわっている。北野武は、もっと「職人芸」に徹すればいいのに、急に「芸術」づいてしまった。身ぶりにももったいぶった沈黙が多い。岸本加世子は、ずっと台詞がない――たぶん、最後に「ありがとう」と言うだろうと予測したら、その通り、「ありがとう、ごめんなさい」と言った。
◆大杉漣に焦点が当てれれている部分とビートたけしの部分とが分離している。最後に、大杉が「自決」の絵を書き、ビートと岸本が心中することを暗示する最後のシーンでクロスするとしても、あまり効果的とは思えない。
◆いきなり殴ったり、殺してしまったりの暴力は、ビートの得意とするところだが、これも、ある種の狂気として活かした方がよかった。これでは、テレビでビートがいきなり人の頭を殴るのと同じ感覚に見える。
◆ビートの絵は抜群だとしも、絵への依存が強すぎる。これは、映画への自信の弱さを反映しているのか?
◆芸術や古典的な様式(美?)への北野の劣等感がドッと出てしまった。
(ヘラルド試写室)
1997-11-25
●PERFECT BLUE
◆アニメの口パクに慣れないが、見方を変えなければならないということはわかる。
◆アニメの利点は、ディテールを映画より鮮明、浮き彫りに描ける点。インターネットの使い方を実に鮮明に見せていた。
◆ドラマのシーケンスとドラマ内ドラマのシーケンスを重ねたり、あいまいにしたりして、観客を翻弄する技法はなかなかのもの。
◆ストーカー的なテーマ、インターネットのなかのエゴと実在の自我とが乖離したりダブったりする話はおもしろい。
◆しかし、自分の妄想的な分身だと思ったものが、実は、アイドルから俳優への変身を望まない付き人の変装だったという結末はいただけない。
◆ビルのベランダを飛んだり、超人的な動きをするのが、実在の人間だとわかる結末はリアリティを欠く。
(シネセゾン試写室)
1997-11-19
●ユリーズ・ゴールド
◆ピーター・フォンダに会うのは久しぶり。たしか、『さすらいのカーボーイ』以来。
◆60年代ニューレフト/反体制の匂いをただよわせていた彼が、いま、彼の父フォンダの風貌でそこにいる。頭もかなり薄くなった。その彼が、ヴェトナム帰りの男(部隊でたった一人の生き残り)を演じている。すでに孫娘が2人おり、息子は強盗をやって獄中にいる。そのくせ、この息子は父親にわがままな電話をしてくる。
◆どうやら、ベトナムで戦友を犠牲にさせたという罪の意識と負傷の後遺症のためにますます人嫌いになっている。仕事は、蜜蜂の密を取っている。鉢との共存。
◆息子のそうしようもない昔の仲間が、息子の隠した金の話を聞きつけて、脅してくる。金に関心のないユリーは、あっさりその金を(息子から聞き出して)渡してしまうが、二人は彼に傷を負わせて逃走する。このシーンで、アメリカ映画を見慣れた観客は、ユーリーが、昔ならした腕でやつらをやっつけるのではないかと期待するかもしれない。しかし、「さすらいのカーボーイ」同様、彼は、決して暴力をふるわない。が、その忍耐から伝わるものは、強く、熱い。
◆息子の妻は、「ルーフィーズ」というヤクをやらされる。
◆ベトナムからどうして生還できたの、と孫に聞かれて、「ずるかった(tricky)からさ」と答えるユリー。
◆看護婦のコニー(パトリシア・リチャードソン)とだんだんうちとけていくプロセスがいい。
◆共同作業によってようやく形をとりもどす家庭。
◆デニス・ホッパーのように、日本のCMで全くの変節漢としての姿をさらすようなことをしないのがいい。
◆歯有・ベトナム・役柄としての3様の記憶の交錯。
◆蜜蜂との共存。
(シネセゾン試写室)
1997-11-18
●シーズ・ソー・ラヴリー
◆ショーン・ペンのために作られたような映画――彼の粗暴さと優しさともろさ。だから、ショーン・ペンが嫌いだと、受けつけられなくなる映画。
◆みなどこか狂っている(わたしには、それが「異常」とは見えない):ギリシャ的な狂気:笑いと暴力:日常のなかの狂気。
◆ジナ・ローランズとジョン・トラボルタが出ているが、役の割りにちょっと目立ちすぎる。
◆最初と最後のシーンは、荒れた工場都市の俯瞰。
◆ペンの子供役の役者がうまい。
◆ここで描かれているのは、中流より下の人々だ。
◆狂気の男から逃げたいが、同時に完全には忘れることができないモーリーン。
◆この映画には、自分を抑えたり、偽ったりしないで生きる人々ばかりが出てくる。トラボルタが子供たちに事情を説明するシーン――こういうのは、日本では見られない。
(徳間ホール)
1997-11-14_2
●現代任侠伝
◆3pm杉から7pmまでいて、客はたったの7~20程度。
◆色々な人間関係を描き分けている。母(高橋恵子)と息子(岡田義徳)、父(奥田瑛二)(実は本当のではない)と息子、ヤクザの会長(長門裕之)と組長(石橋蓮司)、社長(奥田)と秘書(とよた真帆)、昔の徒弟(片岡鶴太郎/西城秀樹)とアニキ(奥田)、銀行屋とヤクザ(石橋)、ヤクザの兄(宅麻伸)とカタギの妹(とよた)。
◆マルボー刑事加東をやった六平直政がいい。
◆終盤の銃撃シーンもそれほど誇張がなく容認できる。
◆さまざまな「気くばり」の現象学でもある。
◆弟分とガレージで会う初めの方のシーン:それだけで彼が金がいることを察し10億円を用意する奥田。「父」に反抗する息子をとりなす母。
◆この世界ではトップ(長門)はやりたい放題(利己主義)。
◆ヤクザの世界では、それぞれが自己主張をし、かつ、自己放棄的である。
(上野東映)
1997-11-14_1
●鍵
◆池田敏春(監督)、川島なお美、柄本明出演(劇場にパンフがない)。
◆谷崎潤一郎の原作にもとづく映画化。そんなに悪くない。柄本の役柄はもっとふけていてもよい。老醜的セックスの感じは出ていた。時代考証もかなり努力している。アラジンの石油ストーブはどうかな?
◆嫉妬をかきたてることによって性愛を刺激する方法。
◆日記を密かに読ませることによる屈折したコミュニケーション。
◆谷崎を読みたくなる。
(上野東映)
1997-11-11
●ポネット
◆とにかく泣く(唇を引くようにして泣く)のがうまい4才児が主役。
◆一貫して沈んだ表情を見せるので、こちらが心配になるくらい一途な演技は見事(父親に母の死を聞かされて、車のボンエットの上を動きながら泣く、墓で土を素手で掘り返しながら泣き、「ママここに来て」と言う・・・)だが、段々、そのワンパターン性に気づく。
◆4才児の目から見ているというが、最後に、死んだはずの母親が出てきてしまうのは非常に不自然。
◆子供同士が遊んでいるようなシーンには、新鮮さを発見できる瞬間があるが、あとは凡庸。アップのシーンを多くしても、子供の目から世界を見たことにはならない。
◆子供に意識にとっては、すぐ忘れる――場面と場面との連続性がとぎれる(すごく悲しいことがあったのに、次の瞬間眠ったり、食事をしたりしている)ということがリアルなのだが、ここではそうではない。
(エースピクチャーズ試写室)
1997-11-10
●ラチ”オの時間
◆演劇的な構成・リズム感が抜群。知的である。状況を距離を置いて見る批判的姿勢が全編にセットされている(これが「演劇的」という意味)。
◆業界をやんわり揶揄がいたるところにあるが、ここで笑えることは、いまの日本のあれやる組織に残存する。このような作品が出てきたということは、「気配り」に時代がいま終わりつつあることを暗示する。
◆個々のディテール(擬音の作り方、スタジオの使い方等)に手抜きはない。
◆ドラマを作るというドラマ――プロセスを見せるから劇的になる。
◆それぞれが勝手に(ドラマをよくするというような理念をもたずに)自分の役割を楽に果たそうとしている個人があつまっているのは、日本のあらゆる集団・組織にあてはまる――惰性、タテマエ、
◆この映画では、役者たちの多くは、自分を売ったり、自己満足したりすることしか考えていない。
◆西村雅彦(プロデューサー)や布施明(編成マン)は、そういうわがままな個人のまとめ役としている。彼らは、まとめ、波風たてないことが仕事。
◆醒めつつも笑える
◆こういう作品の出現を祝福したい。
◆気配りだけでもっている日本社会のパロディとしても見れる。
(日劇東宝)
1997-11-07
●タイタニック
◆今年の最高傑作、ホントの4つ星。
◆世紀末から世紀の初めを見返す壮大な視点。
◆個人を押し流す歴史のふるえのなかに愛のロマンをよみがえらせる。
◆歴史のふるえのなかで開く出会い。
◆記憶への執着・時代意識・階級制への反撥。
◆海底に沈んだタイタニックの船内を探索するロボットの映像を見るSNOOP VISIONというゴーグル。
◆アクションやSXにたよったり、こけおどしの爆発・衝突シーンで迫力を出そうとせず、しっかりしたドラマ、心理の動き、時代把握で勝負している――ジェームズ・キャメロンがこんなに正攻法で映画を撮るひととは思わなかった。
◆金をかけても浪費にならない例。
◆歴史的な惨事・大事故、製作費2億ドルということになると、事故シーンの迫力が目玉になりそうだが、そうしなかったところが、いまのハリウッドの悪しき傾向を越えている。
◆一途に人を愛する女の役は、『日蔭のふたり』でも見せたケイト・ウィンスレット。
◆105歳の老婦人を演じたグロリア・スチュアートのチャーミングさ。
◆週末(たぶん)に行われている3等船客階のパーティのくったくのなさ――1等船客のすました虚偽だらけの関係との対比。
◆政略結婚という方法でしか家系を維持出来ない没落上流階級。
◆アクションよりも心理を描いている。
◆「パニック映画ではなく、ラブストーリーだ」とキャメロンが言っている。
◆ここでは誰も英雄ではないし、スーパーマンでもない。
◆階級を越えてしまうということの感動。
◆愛するということ――愛は記憶のなかに?
◆それにしても、渋谷公会堂のイスはひどいぞ。
(渋谷公会堂)
1997-11-06
●タオの月
◆イントロは破綻がない。ただし、谷 啓のセリフが息をつくのと、口があっていないように見えるのが気になる。
◆CGが安っぽい感じがしない。スタイリッシュである。美しいシーンがいくつもある。
◆SRLのマネの感じもするが、小道具が凝っている。
◆ストーリーは単純。またしても、「地球を救え」テーマがちらつく。時代は、戦国だが、超能力兵器を独占して日本を支配しようという野望とそれをくい止める人々の闘い。
◆紙に文字を書いて、パっと飛ばすアイデアよし。「不動」には笑う。
◆吉野さや(糸+少)香ががんばっている。最初に出てきたときから、セリフはばかみたいに声をはりあげて単調だが、目つきがちがう。
◆榎木孝明のあやしい感じもわるくない。
◆全体、本を読むように侍言葉をしゃべるのも成功している。
◆[映画とは無関係なこと→]坊主が酒を飲むと、それはいいのかなみたいな反応をするのは、日本でよく出会う反応。そのとき、「四書五経には、酒を飲むなとはかいていない」などというのも、日本的。
(松竹第1試写室)
1997-11-04
●フェイス/オフ(ジョン・ウー)
◆冒頭のグレイスケールの画像はいい。ゆっくりしたスケールの大きい映像。このまま続けばいいなと思う期待は、中盤までは続く(ケイジ扮するショーンが脱獄するまで)。
◆手術のところまでは、後半のドンパチなしでも十分もちこたえられるシリアスさをもっている。
◆フェイスが取り替わるというアイデアはいい。しかし、そこから、成り変わった人格にひっぱられて身動きができなくなるような側面の葛藤やドラマはない。もっぱら、妻(ジョン・アレン)や愛人(ジーナ・ガーション)の側の迷いやとまどいという形で描かれるだけ。
◆色々なスタイルを引用し、うまく使ってはいるが、総花的な感じがする。
◆キャスター・トロイの子をはからずも守ってしまったショーンとのジーナ・ガーションのシーンはなかなかいいのだが、それもあまりうまくは生かされてはいない。
◆モータボートのチエイスシーンは、定番すぎる。このパターンが、最近のハリウッド映画であまりに多いのは、下請け会社が同じだからか?
◆顔を移植するシーンとか、マグネットのついた靴をはかせた特殊刑務所など、なかなかSF的なアイデアは面白いのだが、どこかイマイチなのだ。
◆トラボルタはこんなものだとしても、ケイジもあまりいいとは言えない。
◆脅迫は、IOMEGAのZipディスクで送られてくる 。
(ブエナビスタ試写室)
1997-11-03
●陰謀のセオリー
◆第一級のポリティカル・サイコ・ドラマ。
◆メル・ギブスンのタクシードライバーが、客にパラノイアックなしゃべりをするところから始まる。場所はマンハッタン。ロケーションのセッティングもしっかりしている。
◆主観的で展開の速い映像。
◆インターネットで集めた5人しか購読者のいないNews Letterを出している。
◆説得の術と撹乱の術の基本:映画館で「爆弾だ」と叫ぶ。追われたら橋の上で急停車し、逆方向を逃げる。縛られたまま近づいた相手の顔に食いつく。2人部屋の病室で危ないときには、カルテ(名札)を変える。
◆ジョン・レノンの暗殺者ジョン・ヒッコリーもレーガンを襲った犯人も、『ライ麦畠で捕まえて』をもっていた。これを買わざるをえないように洗脳されている。
◆CIAの暗殺は、心臓マヒが多い。
◆最初、覗きかストーキングに見えるギブスンの行為(望遠鏡でジュリア・ロバーツがジョギング・トレイナーで走っているのを覗いたりする)が、やがて、彼女を守ることを自分に誓った行為であったことがわかる。
◆このときの彼女のトレーニングも、あおとで、ヘリに追われたときに逃げのびる走力としていかされる。ドラマの緻密な設計。
(新宿ピカデリー1)
1997-11-01
●萌の朱雀
◆整理券を配られるのにとまどう。やっと入ると、カメラがある。河原直美とプロデューサーと撮影監督(?)のあいさつ。
◆微妙な音。しかし、音は中央から聞こえる。8ミリ映画的。
◆釜を開いたときの湯気の香りがこちらにとんでくるような映像。
◆電気釜・テレビ・電話はあっても、めったに使われない。1度だけ出てくる電話は、父の死を知らせてくる。
◆機械の音は、父がときどき聴くスクラッチ音のひどいLPの音。
◆みな無表情。沈黙。寡黙。その背後にある耐え。なにかに耐えているから寡黙になる。
◆つましい生活。
◆芝野雅道の音楽。
◆自然であることの代償。
◆近親双姦的なにおいのあるシーン(姉の息子とみちる、みちるの母との関係)。
◆トンネルと記憶のアナロジー:記憶の空洞。
◆映像はつつましく、寡黙。だから、逆に、そこで抑えられていたものがあらわになるときの感動は大きい。
(テアトル西友)
1997-10-31
●いちばん美しい年令
◆最初に裏で流れるテレビのニュースの声が、ベルリンの壁の崩壊間近であることを次げている。
◆ベルリンの壁が崩壊しつつあった1989年11月の話。
◆十代の若者の日常を描いているが、そこには、この時代の状況が照射されている。
◆「ぼくは二十歳だった。それがひとの一生でいちばん美しい年令だなどとは誰にも言わせまい」とニザンが『アデン・アラビア』のなかで書いた言葉との照応。この映画の若者たちは、たしかに全然「美しい」人生を送ってはいない。
◆ベルリンの壁崩壊後の青春を描く。
◆人権や権力の打破に対する政治的な意識をもつ者は、自殺する――ジュネ的なとらえ方では、殺される。
◆ビデオ日記(「ビデオ・レジスタンス」)をつけるクロード。いまやこれのみが「レジスタンス」になってしまった?
◆クロードに同化したいが、結局は、受験戦争に順応するデルフィーヌ。これが、平均的な学生の意識。
◆右翼の心と肉体を体現しているアクセル。右翼養成所としての士官学校。そこでのイジメ。
◆ぶざまな「左翼」のシーニュとしてのベルトラン。
◆こうした若者たちは、そのまま、この時代の精神に対応している。
(草月ホール)
1997-10-29
●コン・エアー
◆ニコラス・ケイジがいい。嘘ともほんとともつかぬ言い方をするときの感じ。
◆スティーヴ・ブシェミー(快楽連続殺人犯)もうまい。
◆ジョン・マルコビッチは、頭が切れ、統率力のあるワルの感じをよく出す。
◆最後の20分までは、もうなにもいうことのないほどすばらしい。ところが、最後にお子様サービスのクラッシュ・シーンになってしまうのはなぜか? 同じようなノリのシーンは、最近の大型のどのアメリカ映画にもある。『スペード2』しかり、『エアフォース・ワン』しかり。ラスベガスの街に飛行機が降り、道路を猛進する。建物を押しつぶし、人々が逃げ惑う。それでいて、その被害は問題にならず、ただ、飛行機に乗っている犯罪者とケイジらの追いかけっこだけが進行する。こうなると、前半のリアリティがマンガになってしまう。
◆せりふがけっこうにくい。「おまえ、口のなかに糞をしたのか」。
◆古典的な専業主婦としての妻がおり、子供がいるという設定の映画が多い――『フェイク』もそうだった。それを守る夫という設定。その点では、『エア・フォースワン』も同じ。
(日比谷スカラ座)
1997-10-28
●フェイク
◆もっとサエないはずの男が、その演技の背後からかっこいいパチーノの地がちらちら見えてしまう。
◆さりげなくダイナ・ワシントンの歌が聞こえる最初のシーン。
◆時は1978年11月。
◆殺しはドギツイが、基本的にサエないマフィアたち。とりわけアル・パチーノが演じるレフティ・ルジェーロ(マルベリーのレフティ)がやぼったい。下り坂の男。掟には逆らえない。(「ホイールのスポークだ」)息子はドラッグ中毒。
◆イギリスのマイク・ニューウェル監督なので、ハリウッド映画とはひと味ちがう。
◆色々不満があるが、それが、どれも、どうしてこういうふうに描かれているのだろうと自分に問いかけないないではいれなくなる。そこが他の映画とちがう。
◆最後はあっけないので、「なにが言いたいの?」というつまらない疑問が出てしまいそう。
◆個々の役者の演技、ニューヨークの都市の雰囲気、はとてもいいのだが、それぞれの関係の描きかたが散漫な感じ。なぜ?
◆ドニー(ジョゼフ)と妻、彼とFBI、そして彼とレフティとの関係が中途半端。もちろん、そのなかではレフティとの関係がメインだが、同性愛でも同士愛でも、友情でもない関係がうまく描けたとは言いがたい。
◆ソニー(マイケル・マドセン)の個性も活かされていない。
◆日本レストランで、「日本人」のフロア・マネージャーがマフィアになぐられるシーンは非常に人種差別的。
◆気になる場面・小道具もそれっきりの感じ。
◆最後のシーンも「これだけ?」という感じもある。
(東宝東和9F試写室)
1997-10-24
●エアフォース・ワン
◆おもしろい。よくできている。しかし、後半は単純なドンパチ。
◆第1級のサスペンス。しかし、その思想は、単純極まりない。恐るべきプロパガンダ。
◆携帯電話の奇抜な利用。大統領が専用機のなかからホワイトハウスは電話する。
◆ファミリーと国家と個人とが一体になったアメリカ大統領システム。
◆最初のほうで、米ーロの連合秘密部隊がカザフスタンを急襲して独裁者ラデクを拉致するシーンがある。空偵部隊がパラシュートで降りて、急な攻撃をする。これは、国権の侵害にはならないのか? 湾岸戦争後、そういうものはどこかへ吹き飛んだ。
◆あのレベルの飛行機で、外部に直接通じるドアなどが開いた場合、人は、吹き飛ばされずにとどまれるのか? いつも、この手のサスペンスもので感じる疑問。
◆それから、顔や腹(『G.I.ジェーン』では局部)を蹴られてすぐに復帰できるものか? 『セブン・イヤーズ・イン・チベット』でも、アイゼンが足にささったのに、それほどのことはなかったよう。
(ブエナビスタ試写室)
1997-10-23
●セブン・イヤーズ・イン・チベット
◆西欧人が東洋人に出会って目覚めるという図式は旧い。
◆中国の支配に対するチベット支援キャンペーンの一環であることがミエミエ。
◆全体として、反中国のポリシーが見え見え。
◆西欧人の作ったアジアもの。50年代のノスタルジア・アジア/オリエンタリズムものみたい。
◆西欧的なエゴの反省が異文化との出会いで起きるという西欧のパターン。安いオリエンタリズム。
◆チベットのラサを再現した努力は買うが、現地の人が英語をしゃべるので、異郷という感じがしない。
◆ひとりの自分勝手で短気な男が、すこしづつ変わってくるのを描いているのだが、少年時代のダライ・ラマの出会いが決定的だったというふれこみほど、その部分が印象深くないのだ。
◆デイヴィッド・シューリスの妻になる女性(ラクパ・ツァムチョエ)の個性が光っている。
◆ブラッド・ピットは、ロバート・レッドフォードに実によく似ている。
◆中共の上官は、歴史的に、彼らを招くために僧たちがつくったマンダラをむげに蹴りちらしのだどうか?
◆少年ダライ・ラマが、市内を望遠鏡でのぞいて、現状を把握している点、映画が好きだったこと、壊れたオルゴール(ドゥヴィッシーの「月の光」)を直すほど機械いじりが好きだったこと・・・はおもしろい。
◆ハラー(ブラッド・ピット)の見ざる息子への負い目。
(丸の内ピカデリー2)
1997-10-21
●バウンス ko GALS(原田眞人)
◆佐藤仁美と佐藤康恵がめちゃうまい。新人の岡元夕紀子(リサ)は、存在感がないところがいいが、イマイチ。
◆リサのくぐむしゃべり方→今日のある階級の若い女性のしゃべり方。
◆コギャルというよりも、若者が生き生きと描かれている点で非常に新鮮な映像だ。渋谷の街もいいとらえ方をしている。
◆ただ、観念が多少過剰ではないか? インテリやくざの役所広司が赤にこだわり(赤い布を自分のバーでこがし、アートのようなことをやっている)、インターナショナルを歌ったり、社会観を語ったり、佐藤仁美が、「・・・じゃないですか」と鋭い社会批判(オヤジ批判)をしたり・・・。
◆岡元と知りあって、なぜ彼女を助けなければならないという気になったのかがイマイチ説得力がない。
◆批判されるべき相手(官僚らしき男、小坂一機、オヤジの面々、新「戦犯」の名誉教授。
◆大門修三?)が全然悪辣に見えないのだ。というより、この世界には、「悪い」やつは一人もいない。ヤクザも決して暴力的ではない。この監督は暴力的な映像を好まないのではないか? むしろ、そういう面から評価したほうがいいだろう。
◆10代はいつも大人に逆襲してきた。ギャルたのちも逆襲する。が、それが以前と少しちがうのは、女たちの逆襲であることだ。しかも、その逆襲の根には、おとなたち(オヤジ)による性差別や性の陵辱への反撥がある。
(新宿ピカデリー2)
1997-10-17
●不機嫌な果実
◆水越麻也子(南果歩)の物語のはずが、最後の最後で逆転、キリコ(鷲尾いさ子)が一番かっこよく描かれるというのは、成瀬さん、不倫だよ。
◆南果歩の生きかたにポイントを合わせていると見せて、最後に、鷲尾のほうが本命だったというのは、くり返すが、成瀬さん、「不倫」だよ。
◆映倫の関係で試写が遅れているときいたので、期待したが、別に大した場面はなかった。南果歩のシリの割れめが見えるくらい。
◆唇などのアップが多い。ヴィデオ版を意図してか? 石原良純がヘタな演技で出てくるのはなぜ?
◆野村修(根津)が初めて案内するレストランで、テーブルにすでに食前酒がつがれているのはおかしい。映像は、全体にもやをかけた感じにしている。
◆若者が多いクラブの女のバーテンダー(キリコ=鷲尾いさ子)が、やけにクールにかっこよく映されていると思ったら、最後に、こいつがこの物語の本命であることがわかる。しかし、こういうやり方は、フェアーでない。これでは、南がコケになってしまう。普通の女は所詮バカで、どのみちマザコンの男のメシや洗濯をして、疲れ果てているという話になってしまう。そのなかで、「高等遊民」志向の女キリコだけが、「未婚の母」となって、悠々と暮す。最後のシーンで、キリコは、丸ノ内あたりのビル街でバスを降りるのだが、あれからどこへ行くのだろうか? あのあたりには、マンションなんかはなさそうだが。
◆キリコのバアで、3人のバカ男(麻也子の夫、野村修、工藤)が互いの関係を知らずに口をかわすが、このシチュエーションは、全く活かされていない。この3人がキリコと乱交したらしい暗示はあるが、成功していない。
◆目黒駅行きのバス停に面したグラウンドがよく出てくる。
◆バブル期に好まれた雰囲気の建物ばかり。
◆鈴木一真が出てきてからはまるでテレビの「Mrsシンデレラ」調。
(松竹第2)
1997-10-13
●G.I.ジェーン
◆アメリカ人大好きのがんばり精神(ガッツ)もの。
◆セクシャリティ(生理学的な差異)を越えた人間関係が浮上しつつあるのか?
◆映像は、VRのゴーグルをつけたかのような、まわりのことを一切忘れさせてしまうような魔力をもっている。
◆他方、この映画から透けて見えるアメリカの軍隊のすさまじさは恐ろしい。ほとんど殺人兵器アンドロイドと化す兵士。
◆最後に、映画の途中で教官(ヴィゴ・モーティセン)が読んでいた本がD・H・ローレンスの詩集であることがわかる。
◆女ド根性物語。
◆暴力が、人間的な憎しみや狂気の帰結としてではなく、状況設定や組織から生まれるものであることを例示したとも言える。
◆ジェーンは、マチズモ的な「男」になったのも、強い「女」になったのでもなく、マシーン(サイボーグ)になったのである。---->>これで、『ブレードランナー』との関連性がはっきるする。
◆リドリー・スコットは、インタヴューで、ムーアがプログラムに従って作られていくプロセスに関心があった、と言っていた。
(丸ノ内ピカデリー2)
1997-10-08
●愛する
◆そこそこの役者、テーマを出しながら、すぐに中途半端で終わらせてしまう。酒井が交通事故で死んでしまうのも、唐突。
◆遠藤の原作の時代設定を今日(1996年の設定)にもってきたのは、無理。
◆渡部篤郎の粗野な感じがきらい。
◆酒井美紀は、なんで簡単に「犯されて」しまうのか?
◆沖縄が出てくるのも中途半端。
◆印象に残ったのは、小林袿樹が、少年時代以来来れなかった海に再会せて歓喜するシーンぐいかな?
(シネマスクエアとうきゅう)
1997-10-07
●ベスト・フレンズ・ウェディング
◆ドラマとミュージカルの中間のスタイルがユニーク。
◆半ミュージカル・スタイル。
◆これからは、ゲイの男とセックスレスでくらすほうがずっと楽しいという女が増えるのかな?
◆ここでも、I love you;Marry meが言えない女が主人公。
◆キャメロン・ディアスの演技は秀逸。カラオケをどへたなまま歌ってしまうところなど。
◆シカゴの富豪を選ぶことによって、オーストラリア出身のホーガン監督は、50年代的な雰囲気をヴァーチャルに活かすことができた。
◆最初のシーン(ピンクの服を着た3人の女)はきわめて50年代的。
(新宿武蔵野館)
1997-09-29
●ブエノスアイレス (Happy Together)
◆ひところの実験映画風の映像処理。無理してゲイをやって感じのカップル。これが「新しい愛」の表現ですかあ?! ゲイに失礼だよ。
◆クロウトがひっかかりやすい作風。カンヌ国際映画祭の最優秀監督賞はさもありなん。
◆最初セックスのシーンから始まる。どっちが入れたのかを見損なった。ウィン? ファイ(髪の短い方)?
◆料理を作るのはフェイ、遊びあるくのはウィン。
◆「耳は心のかなを察知できる」という新たに登場する若い男チャンの存在の唐突さ。こいつは、地球の果てを求めて旅立つ、テープレコーダをもっている。
◆こいつが、急にナレーションをする――それまでは、ファイがナレーションを入れていた、そういう個所が数カ所ある。
◆ファイが97年2月にタイペイに行くシーン、屋台のシーンは活気ある、
◆ゲイの感じが出ているとも思えない。
◆学生映画風の荒れた画面、別に新しくない、
◆とげとげしい会話、ウィンとフェイは恋人同士というが、なんかどちらもアンドロイドのよう。
◆モノクロになったり、カラーになったり。
◆ムッサクーラというピッツァ?
◆ウォン・カーウァイは、来日インタヴュー(1997-11-01放映)のなかで、同性愛でも異性愛でも、基本的には同じだと語った。それは、ちがう。
(シネマライズ)
1997-09-25
●世界中がアイ・ラブ・ユー
◆[ジョニーウォーカーの黒ラベルの水割りが観客全員に出た。ボトルが10人に当たる抽選もあった。席は、2階最前列の招待席。]
◆パリやベニスも出てはくるが、基本的にはニューヨークとニューヨーカの賛歌。あいかわらず、美しく、魅力的。
◆初めてのミュージカルとはいえ、さしてふだんと変わったことはしていない。にもかかわらず、うっとりさせられてしまうアレン劇。
◆基本は、ニューヨーク、ユダヤ系ファミリー、精神分析、スタンダード・ジャズ、揺れ動くカップルというおなじみの設定。毎度おなじみの設定でマンネリに陥らないのは見事。アレンの世界に酔いしれる。
◆ウディ・アレンは、そういえば、「二人を中心にした世界」(O2)しか描いてはこなかった。
◆毎回似たりよったりの話をあいかわらず反復していて、決してマンネリにならないのは、なぜか?
(シネスイッチ銀座)
1997-09-24
●Lie lie Lie
◆[周囲は、高校生ぐらいの女性ばかり]。
◆豊川悦司は、前半ははっきりしない。ミスキャストではないかとさえ思わせる。
◆酒の飲み方ひとつも、ディテールが決まっている。
◆かなりいいのではないか?
◆これならば、海外でも受けるだろう。それは、コスモポリタン的だからではなくて、極めて個別的なことがある種の普遍性をもつにいたっているからだ。
◆新しい日本の映画の特徴は、醒めていること、セックスレスであること、男2人と女一人で、別に三角関係というのでもないこと。
◆写植という一時代前のメディアがうまく使われている。佐藤浩市は言う。自分は、表現なんかに興味はない。自分は、言葉が流れている川にすぎない。その彼が、薬を飲んで半意識の状態で、「小説」を書いてしまう。
◆ヤクザの娘を演じる(武蔵美にいて、よくわたしのところに来ていた渡辺なおみにちょっと似ている)河合みわこがなかなかいい。
◆日本映画は再生しつつある。
(渋谷東映)
1997-09-17
●フィフスエレメント
◆これがあ『最後の戦い』のリュック・ベッソンの作かと思わせるほど、ひどい。一体あのドタバタの何の意味があるのか? 怪物めいた盗賊異星人軍団のばかばかしさ。アメリカ文明を揶揄しようとしているところでは、すべてが失敗。地球を救う宇宙人の女の役をやっている役者は悪くない。
◆破壊された肉体の一部から「全体」を再生する技術はおもしろいが、思いつきの域を出ない。
◆空中に浮く「船」のような乗り物の氾濫もおもしろいが、その肝心のシーンが、どれもうそくさい。
◆すべて入場割引になる水曜ということもあったが、観客の入りは悪くない。しかし、観客は、監督が明らかに笑いを当て込んだところで誰も笑わない。つまらないからだ。
(丸の内ルーブル)
1997-09-12
●ホワイトハウスの陰謀
◆時代は、たぶん、近未来。北朝鮮がアメリカの人質を取り、拷問している。アメリカ政府は、決断を迫られている。大統領は、平和的解決を望んでいるが、国家安全保障局顧問アルヴィン・ジョーンズは、平和よりも「正義」を取ろうとしている。
◆事件は、最終的に、大統領を替え、武力路線を推し進めるためのものであった。
◆ダイアン・レインのシークレット・サービスがいい。警備主任を演じるダニエル・ベンザリもうまい。
◆レーザー光線による盗聴シーン。アラン・アルダが、ピストルを抜いて攻撃したために撃ち殺されるシーンは、余分。
(ヘラルド試写室)
1997-09-10_2
●マルタイの女
◆笑いながら勉強させようという伊丹式教育映画の最新作だが、今回は、あまり成功していない。重く、深刻になるのを恐れて、軽く、速く、はしゃぎすぎなのはもう古いのではないか?
◆伊丹の時代は終わった。
(ヤマハホール)
1997-09-10_1
●私たちが好きだったこと
◆四人での共同生活が斬新な転回を見せるかに見えながら、結末は平凡。役者はみな達者。いい感じを出している。ストーリーが二分してしまう。
◆人に強制することが出来ない世代。抑えてしまう。
(銀座東映)
1997-09-09
●ある老女の物語
◆ホスピスや老人介護の観点から評価されることが多いが、全然ちがうのではないか。少なくとも、そんな見方では、この映画の魅力はつかめない。ナチの迫害を逃れてオーストラリアに亡命した女性が、その晩年の生涯をいかに生き生きと、女として、一人の個人として生きたかを描いている文字通り「ある女の物語」。これを、「ある老女の物語」としなければ通用しない日本の老人社会との対比で見るのもいいかも。
◆入浴している「老女」のしわだらけの乳房を凝視させることによって、日常の「老醜」といった視点の変更を迫る。
◆「地域看護婦」アンナとの関係も、単に、献身的な看護婦と老女との関係としてではなく、新しい愛情関係(レズとも違った)としてとらえた方がいい。
(ユニジャパン)
1997-09-08
●テイコ・ムーン
◆三分の二は、退屈。老いたミッセル・ピコリも能がない。ミシャール・ボーランジェがいい味を出したいた。ときどき入る日本語は、『ブレード・ランナー』まがい。日本がポストモダンのイメージを提供できた時代はもう終わったのだから、これは、意味がない。わずかにいい感じなのは、テーマソングか。トンネルをくぐると地球への道だったというのもおもしろい。
(パルコ・パート3)
1997-09-05
●アメリカン・バッファロー
◆舞台では効果があった3人の登場人物という設定が、映画では安手の印象を強調する。
◆画面の外で起こっている出来事が電話を通じて伝わるという設定も、経費節約といった印象を与える。
◆たしかニューヨークで見た舞台では、ボビー役が白人(ジョン・サヴェージ?)だったと思うが、それが映画では黒人になっている。しかも、そのショーン・ネルソンが、ワル(小物であっても)の臭いがほとんどない。
◆ダスティン・ホフマンもインテリすぎて、粗暴な感じが乏しい。
(ギャガ試写室)
1997-09-04
●コンタクト
◆「CQ、CQ・・・」の少女は泣かせる。ジョディ・フォスターの執念。信仰の問題が前面に。
◆時間に秘密があること――宇宙は時間のなかにある?
◆時間操作のなかで何万光年を旅することができる?
◆逆に、われわれは、時間の飛躍のなかで何万光年のスペースを旅しているのかもしれない。
◆ハデンなる人物は不要――このために全体がうそっぽくなっている
(ヤマハホール)
1997-08-28
●東京日和
◆悲しくも美しい物語――のはずだが、どこかバランスが悪い。竹中と中山を除く「豪華」キャストも顔見せに終わっている。緩慢なテンポと美しいカメラの風景画のような映像、ディテールの凝った音の繊細さにもかかわらず、眠気をもよおす。
◆陽子の特異性も、あまり説得力がない。
◆繊細な音、「豪華」キャスト――物語は美しく、悲しい――と言いたいところだが、どこかピンと来ない。退屈なのだ。さっぱり感動できない。
◆「愛」もいいが、狂気のほうをもっと描いてもらいたかった。
(竹中の気配り)ー(中山の平凡さ)=日常という狂気。
(東宝試写室)
1997-08-25
●メン・イン・ブラック
◆音楽ギャグのノリでウィル・スミスが活躍。このノリが嫌いだと、この作品は受けつけない。
◆『インディペンデンス・デイ』のように構えていない。
◆国家は、公然と意識操作をやる存在としてとらえられている。
◆銀河系がミクロな宝石の玉のなかにあるという発想(探険すべきはミクロな世界かもしれない)。
◆ウィル・スミスの軽いおあそび、ミュージック・ビデオ/プロモーション・ビデオとして見れば、気にならない。
◆これは、もうウィル・スミスによるW・SのためのW・Sのブルージーな映画。彼が嫌いなら、見ない方がいい。
◆攻撃的ではない宇宙人系の話。
(渋谷パンテオン)
■これ以前のノート(発端は『報知新聞』のコラムへの執筆のためのメモだった)
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