粉川哲夫の【シネマノート】
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2003-02-27

●シティ・オブ・ゴッド (Cidade de Deus, City of God/2002/Katia Kund & Fernando Meirelles)(フェルナンド・メイレレス、カチア・ルンジ)

◆終わって出口で、配給のアスミックの人がわたしのすぐまえの人に「いかがでした?」と訊いた。すると、その人は、「めちゃ面白いスね」と答えた。たしかにそうなのだ。映像のはこびは「めちゃ面白い」。しかし、他面、見たあと、「面白かった」で終わってしまうような気がする。ブラジルのリオデジャネイロ郊外のスラムの少年たちが1970年代を通じて次第に強盗、殺人、ドラッグ・ビジネス、対抗勢力との抗争にまきこまれていく様を描いており、警察と彼らとの癒着にも触れているわけだから、内容的には、「めちゃ面白い」では済まない。
◆しかし、映画は映画であるから、映画で妙に深刻ぶるよりも、映画は、いかなる「事実」を「批判的」に描いているとしても、「面白い」か「面白くない」かで判断するしかないのかもしれない。その意味では、「面白くない」より「面白い」ほうがいいし、それが作品の評価になる。実際、この映画は、2002年の第55回カンヌ映画祭で評判になり、2002年マラケシュ映画祭、アメリカン・フィルム・インスティテュート映画祭、ハヴァナ国際映画祭、トロント国際映画祭などで賞をとっている。とにかく、スタイルは斬新だ。
◆とはいえ、次のことは言えるだろう。ドキュメンタリー的なタッチを駆使しているにもかかわらず、せりふが演劇的であり、映像がビデオ的である。こうした枠のなかでは、いかなる悲惨さや深刻さも、ある種のプロモーション・ビデオやCMの1シーンと同等の、その場かぎりのものになってしまう。とにかくリズム感やあざやかな場面展開には感心するが、あとに残るものが少ないのだ。それは、あたかも、どのみち、こういう現実は何も変わりはしないと言っているかのようである。
◆この映画を見て、すぐに思いだしたのは、まず『カラーズ 天使の消えた街』 (Colors/1988/Dennis Hopper)であり、それからうんと昔に見、「ニュー・アメリカン・シネマ」の胎動を知らせてくれた『クール・ワールド』 (The Cool World/1963/Shirley Clarke)であり、それから、ブラジルのホームレス・チャイルドをあつかった『ピショット』 (Pixote: A Lei do Mais Fraco/1981/Hector Babenco)だった。おそらくこの映画の監督は、映画を見尽くしており、〈引用〉によって「型」を描くことにも意識的であり、リトル・ライス(のちのリトル・ゼ)とベネとの関係には、日本のヤクザ映画の「型」に似たものを見出すことも出来る。
◆『カラーズ』 に登場するロスの幼いギャングたちが、この映画と同じようにピストルを持ち、殺しあいをする。『クールワールド』は、ハーレムのスラムの子供たちだが、武器はたかだかナイフぐらいだった。とはいえ、彼や彼女らの生活は、のちの『ピショット』におとらず、啓蒙や慈善などではどうにもならないという絶望的な感じとしたたかさを感じさせた。しかし、『シティ・オブ・ゴッド』に関して、こうした「絶望」や「悲惨さ」という観点を用いることはできないような気がする。それは、新しさなのか、それともスラムも写真に撮れば「美しい」といった、広告の世界ではあたりまえの〈記号交換〉の所産にすぎないのか?
◆この映画は、スラムから出て、新聞社のカメラマンになったブスカペのナレーションで構成されている。つまり「物語」なのだ。ということは、その語りにともなう映像には、物語としての「演出」と「つくり」があるということだ。そういう意味では、「めちゃ面白い」物語でしたね、という気持ちを抱いて劇場を出れば、それでいいのかも。
(イマジカ第1試写室)



2003-02-26_2

●レセ・パセ (Laissez-Passer/2002/Bertrand Tavernier)(ベルトラン・タヴェルニエ)

◆歩いてすぐの東宝でまたナチズムをあつかった映画を見ることになる。「巨匠」タヴェルニエの作品なのに、入りは多くない。「レセ・パセ」とは、ジャン・コスモ作詞の「時のすぎゆくままに」から取っているが、この作詞には、(なにごとも、ときのすぎゆくままにながれていくが、「でも、愛だけは見失わないで」、「でも、人生だけは見失わないで」という「でも」を付加する構造になっている。この歌自体が「反戦」を秘めていた。
◆話は、ドイツに占領されたフランスのヴィシー政権下の映画人たちのエピソード。実話にもとづいているが、映画以上にドラマティックな部分があるのは、ドラマ化されると何でもそうなるのか?
◆ナチの時代ではないいまでも同じだと思うが、現実に批判的であったり、実験的であったりする作品(アートのであれ思想のであれ)が、「どうぞどうぞ」といった環境のなかで作られることはない。とりわけ、オーディエンスを大量動員することを前提として作品は、どこかで戦略や妥協をしなければならない(だから、わたしは、実験的なものは小サイズを留意すべきだと思う――世界を変えるような実験が潤沢な予算にめぐまれた豪華で大規模な実験室で生まれるわけではない)。
◆この映画のなかにも、ナチ資本のコンティナンタルの仕事に戦略的に関わる者、しぶしぶ引き受ける者、終始コミットを拒否する者が登場する。レジスタンスの活動家で共産党員の助監督ジャン=ポール・ル・シャノワ(ゲッド・マルロン)は、戦略的にコンティナンタルの仕事をしている。「敵の陣地にいるほうが安全」が、彼のモットー。レジスタンスのタディカルな闘志の監督ジャン=ドヴェーヴェル(ジャック・ガンブラン)は、ル・シャノワのすすめでしぶしぶコンティナンタルの映画の序監督を引き受けるが、過激な活動もやめない。プレイボーイとしても有名だった脚本家ジャン・オーランシュ(ドゥニ・ボダリデス)は、コンチナンタルの仕事をしないかという友人からの再三の誘いを断り、知り合いの愛人たちのあいだを泊まり歩きながら、生きのびる。
◆しかし、いまの時代、アンリ=ジョルジュ・クルーゾーがコンチナンタル社で『犯人は21番に住む』(L'Assassin habite au 21/1942)や『密告』(Le Corbeau/1943)のような戦争批判を密かにしのばせた作品を作ったような意識や姿勢は、ほとんど理解されないだろうし、また意味がないかもしれない。資本の流れ方もメディア状況も変わった。「抵抗」ということ自体が意味を持たなくなってきた。もっとも、戦後になっても彼は、サスペンスの「巨匠」とみなされていたから、そうした批判が受け止められたのは、一部の観客のあいだでだけだったのかもしれない。
◆わたしは、花田清輝が映画評でクルーゾーの『恐怖の報酬』(Le Salaire de la peur/1953)が東西冷戦への批判をこめていると書いているのを読んで見に行ったことがある。いまわたしが覚えているのは、イヴ・モンタンがニトログリセリンを積んだ巨大なタンクローリーを運転しており、同乗した仲間が恐怖と振動で酔い、嘔吐すると、「食うなと言ったじゃないか」とどなるシーンだ。独力で難局を切り抜ける者が生きのび、日和見る奴は非業な最後を遂げるのは、映画の定石だが、それだけではないような気にさせる映画だった。
◆映画で政治的メッセージや教訓を発信するのは意味がない。映画に出来る政治は、感情や気分やリズム感に訴えるミクロな政治(ミクロポリティクス)だ。その意味では、すべての映画が政治映画である。ミクロなものは、感じることはできるが、それ自体では確信的に把握できないので、それが意識的に次のアクションになりにくい。それをわずかにであれ推進するのが批評だろ思う。変哲もないミクロなシーンから「政治」を引き出すことは無駄ではないし、そういうことをやったからといって、「無味乾燥」というわけではない。ただし、そうした映画批評は、いまや、書くということよりも、ゴダールが『映画史』でやったような「レクチャー・パフォーマンス」風のやり方でやるべきなのかもしれない。
◆ジャン=ドヴェーヴェルは、元競輪の選手で、いつも自転車を使う。田舎に疎開させた家族に会うのにも、徹夜で野山を自転車を走らせて行く。彼が自転車とともにあるシーンは、どれもいい。活動家と自転車というのは、けっこう深い関係がある。ただ、彼が、たまたま盗み出したSSの書類のために、飛行機でイギリスに送られ、さらに、パラシュートでフランスに降下するというくだりがあるが、ホントかね? このあたりは、ちょっと映画ドラマ的でつやけし。
(東宝試写室)



2003-02-26_1

●灰の記憶 (The Grey Zone/2001/Time Blake Nelson)(ティム・ブレイク・ネルソン)

◆久しく来ないだいだにTCCがまた改装された。映写室は数年前に改装されたままだが、受付とロビーの位置が変わった。うんと昔(椅子のクッションが落ち込み、スクリーンの前に石油ストーブのあった。愛想をよくしたフランソワーズ・ロゼのような女性がいつも受付をしていた)は、インディペンデントの「名画」やカルト映画はみなここで試写された。
◆終始「ゴー」というアウシュビッツ絶滅収容所の焼却炉の炎の音がバックで使われる。話は、この収容所で死体処理の仕事につかされていた「ゾンダーコマンド」(Sonderkommando はドイツ語で「特別の分隊」を意味する)と呼ばれるユダヤ人たちの複雑な生きざまと反抗。
◆彼らは、その仕事とひきかえにガス室行きを多少猶予された。挫折したり、体が衰弱すれば、「使用価値なし」として射殺されたりもする。彼らは、いやでも、同じユダヤ人をガス室に導かなければならない。なかには、どうせ死ぬなら持っている金品をおれらに置いていけとばかり、犠牲者から金品を横取りするようなこともやる者もいた。
◆脱走を計画する者もいたが、いずれ訪れる死を覚悟して、せめてガス室や焼却炉だけでも破壊してしまおうと計画するゾンダーコマンドたちもいた。
◆そこに異変が起きる。ガスでは大半が死ぬが、なかには、他の死体のあいだにはさまって、瀕死の状態で運び出される者もいたらしい。ゾンダーコマンドのホフマン(デイヴィッド・アークエット)は、ある日、一人の少女(ミル・ソルヴィーノ)がまだ息をしていることを発見し、かくまう。
◆収容所には、『ブラジルから来た少年』(The Boys from Brazil/1978/Franklin J. Schaffner)でグレゴリー・ペックが演じたナチの医師ヨーゼフ・メンゲル(遺伝子操作の草分けでもあった)のために人体実験に従事するユダヤ人の医師ニスリ(アラン・コーデュナー)がおり、彼も、複雑な意識のなかで仕事をしている。
◆ニスリの治療で蘇生する少女。が、これによって、ガス室破壊の計画に不安要因が混じる。どうするか?
◆この映画は、たしかに想像を絶する事実をリアルに描こうとしているのだが、なぜかせりふが演劇調である。一人がしゃべるあいだは他方が黙っているというスタイル。意図的だとしたら、効果的ではない。
◆ゾンダーコマンドを管理しているのは、SSの軍曹ムスフェルド(ハーヴェイ・カイテル)だが、彼も、自分が「使い捨て」の身であることを知っている。だから、この映画は、単にナチ=悪役、ユダヤ人=被害者という単純な図式を採用してはいない。だからこそ、同胞の処刑に加担し、こんな仕事をした以上、「生きのびても生きていたくない」と自己嫌悪に陥っているユダヤ人を描いたのだ。その点は、ありきたりの反ナチものを一歩越えている。
◆今回も、ナチズム批判の映画の問題をかんがえざるをえない。たしかに、ナチがやったひどさが、単にナチを悪役にするだけでない屈折のなかで描いてはいる。しかし、極端な言い方をすると、これと、『ゾンビ』と本質的にどう違うのか?
(TCC試写室)



2003-02-25

●めぐりあう時間たち (The Hours/2002/Stephen Daldry)(スティーヴン・ダルドリー)

◆スタイリッシュで深みのある傑作である。ニコール・キッドマン、ジュリアン・ムーア、メリル・ストリープが競演するが、3人が顔を会わせるシーンはない。生きる意味をテーマを共有しながら、距離をおいて演技を競いあう。最後に、ジュリアンとメリルが出会うシーンがある。それは、あっと言わせ、不思議な感動がわいてくる。
◆すべてがヴァージニア・ウルフの小説のスタイルを意識した時間の流れ、「内的独白」の技法による1日の話に仕上がっている。1923年のサセックス(イギリス)、1951年のロサンゼルス、2001年のニューヨーク。それぞれの場所/時間をヴァージニア・ウルフ(ニコール・キッドマン)、ローラ・ブラウン(ジュリアン・ムーア)、クラリッサ・ヴォーン(メリル・ストリープ)が生きる。3人の女をつなぐのは、小説『ダロウェイ夫人』。ヴァージニア・ウルフは、実際に1923年、この小説を書きつつあり、その終わりをどうおさめるかに苦しんでいた。ローラは、1950年代のアメリカの典型的な家庭の主婦だったが、『ダロウェイ夫人』を読みならが、自分の生きている人生が違うという意識にさいなまれている。その姿をじっと見、そして母がどこかに行ってしまうのではないかという不安にかられる幼い息子リッチー(ジャック・ロヴェロ)がいる。クラリッサは、レズになり、サリー(アリスン・ジャニー)と暮らしているが、エイズにかかっているむかしの恋人リチャード・ブラウン(エド・ハリス)のもとに通い、めんどうを見ている。彼は、クラリッサを「ミセス・ダロウィ」と呼ぶ。
◆いずれの場合にも、「あたりまえの生活」、ヘテロ・セクシャリティと家庭への批判と嫌悪がある。ヴァージニア・ウルフには、献身的な夫レナード(スティーヴン・ディレン)がいたが、姉への同性愛があったことを暗示するシーンがある。(実際のウルフが、同性愛者であり、姉ヴァネッサとは「頭のなかでは近親相姦」だったことは有名だ)。ローラは、クラスメートで、戦地でつねに彼女のことを思って、彼女のために生き抜いたと告白する夫ダン(ジョン・C・ライリー)がいるが、どこかで距離を感じている。そのかわり、親友のキティ(トニ・コレット――非常に光る演技)から病気にかかったことを知らされると、彼女を抱き締め、その唇にキスしてしまう。 クラリッサは、若き日、リチャードがルイス(ジェフ・ダニエルズ)のもとに去ってから かどうかわからないが、男とは家庭を持たない。娘ジュリア(クラ・デインズ)がいるが 、人工受精で得た子供だ。
◆フィリップ・グラスが音楽を担当している(今回のグラスは、これまで手抜きで同じパターンをくりかえしてきたのではないかと思わせるほどいい)のも、ゲイ/同性愛のテーマが前提されていることを暗示する。その意味では、この映画は、1920年代のイギリスではむろんのこと、1950年代のアメリカでもまだ抑圧されていたが、2001年には市民権を獲得するゲイ・セクシャリティの物語でもある。ただし、その変遷を描くのではなく、まさにベンヤミンが、『歴史哲学テーゼ』のなかで「過去は一回かぎり、さっとひらめくイメージとしてしかとらえられない」と言ったようなイメージとして描いている。
◆時間と場所を交錯させながら、つむぎだされていくのは、二つの死の意味の違いか? あるいはそれらの共通性か? ヴァージニア・ウルフは、1941年流れの早い川に入水し、死んだ。リチャードは、ニューヨークのロフトの窓辺で、自分の幼い日々を想いながら、突然、窓のすべての覆いを破壊したのち、訪ねてきたクラリッサの目の前で窓から飛び降りてしまう。それは、それまでクラリッサにくりかえしこぼしていた彼の人生への絶望からではなく、「もっと光を」もたらすためであるかに見える。映画のなかのヴァージニア・ウルフの死は、『ダロウェイ夫人』の主人公に(そして彼女の作品のすべての主人公たちに)終末をあたえるためのものだあるかに見える。いずれも、死とは何か、死の意味とは何かを考えさせるシーンである。
◆ローラは、死の淵まで行くが、クラリッサには死の影がない。2人は作家でなないからか? ヴァージニア・ウルフもリチャード・ブラウンも作家である。作家は死ぬことによって作中人物と読者を生かす。
◆メリル・ストリープは余裕の演技。ニコール・キッドマンは、「入魂の演技」。ノイローシスな、歩くとき頭が先に行く歩き方がすごい。目がいつもとちがう。ジュリナ・ムーアは、もともと憑かれたような目をしているのだが、ここでは、いつも何かに悩んでいるというキャラクターをリアル演じている。エド・ハリスも、エイズ患者を演じるのは初めてだと思うが、既存の雰囲気を振り払っている。
◆憑かれたように外へ飛び出したヴァージニアを追ってレナードが駅で彼女を捕まえる。「こんな田舎にいるのはいや、ロンドンに帰りたい」という彼女の苦情をひとしきり聞いたあと、レナードが、じゃあロンドンへ帰ろうと言い、それから「腹が減ったかい?」と訊くシーンの間合いがすばらしい。
(丸の内ピカデリー2)



2003-02-21

●アバウト・シュミット (About Schmidt/2002/Alexander Payne)(アレクサンダー・ペイン)

◆評判の割りにちょっと拍子抜けというと言い過ぎか? これは、66歳で定年なり、その後まもなく妻を失い、あまつさえ、娘が自分の気にいらない相手と結婚しようとしているという状況に直面する男の映画というよりも、そういう男ウォーレン・シュミットを演じるジャック・ニコルソンの映画である。彼の「迫真」の演技に立ち会うという意味ではいいが、どこかバランスが変なのだ。こういうところは、配給側もわかっているので、アカデミー賞有力候補であるにもかかわらず、会場はマリオンのなかでは「2流」の朝日ホール(スクリーンが小さい)、字幕は戸田奈津子(別にいいわけではないが、とにかく大物は彼女に頼むしきたり)ではなく、松浦美奈。慣習上、この組み合わせだと、「2流」と敬遠して、見にこない俗人がいる。だから、この日も観客の入りは、8割方。
◆『トゥー・ウィークス・ノーティス』でもそうだったように、この映画も、すぐに、シュミットが、どのようなエスニック・バックグラウンドを持っているかを示唆する。名前からわかるように、彼は、ドイツ系である。だから、自分の娘について物語るとき、「ドイツ語がうまい」と語る。それで、(アメリカの)観客は、彼のバックグランドを推定する。ここから深読みして、彼のそういう「ドイツ系」のバックが、彼の、映画で展開される不幸や行き違いの原因の一つになっていると考えることも可能だ。これも、映画を見る、楽しみの一つ。
◆同様に、冒頭、ひとけのない(しかし、建築中のビルが遠景に見える)田舎町の俯瞰によって、そこが中西部オマハであることも予告する。アメリカでは、最近の日本のように、職場をどんどん変わるのが「普通」だという説があるが、それは、大都市での話で、このへんでは、何十年も同じ会社に勤め果たす者も少なくない。シュミット氏は、32年間保険会社に勤め、妻ヘレン(ジューン・スクイブ)との結婚生活は42年になる。娘のジーニー(ホープ・ディヴィス)は、デンバーにおり、若いが髪の薄いランドール(ダーモット・マルロニー)と結婚式を挙げようとしている。
◆上映まえに会場の失笑を買った解説(女性のたどたどしいアナウンスで、筋書きを棒読みしてしまった)では、シュミット氏は「普通の人」だというが、はたしてそうか? というより、「普通の人」とは誰か? 人は誰でもどこかで「普通」を演じている。しかし、一皮むけば、誰しも、「普通」ではない。体や心になかには、「イディアシンクラシー」や「サンギュラリテ」(独異性/特異性)がうずまいている。だから、「キレル」と、そういうものがどっと吹き出す。その意味で「普通」というのは、そうした「特異性」や「独異性」を保護し、隠す表皮のようなものだと言ってもいい。
◆むろん、世の中には、シュミット氏のように、「普通」を比較的持続的に演じられる人と、わたしのように、つかのましか演じられないタイプとがある。「普通の人」というのは、前者のような人を指すわけだが、「普通でない」人よりも、「普通の人」が「普通」でなくなる方があぶない。ところで、この分類でいくと、ジャック・ニコルソンは、当然、「普通でない」人間に属する。彼は、好きなことだけをやり、「特異性」の赴くままに生きてきた。だから、この映画では、彼が、「普通」、つまりこれまで周囲で「これがシュミット氏だ」と思われてきた人物を演じるときが一番スリリングだ。逆に、シュミット氏が、定年や妻の死で「キレ」、「普通」でなくなるところは、ニコルソンにとっては地で行ける演技だから、あまり新鮮味はないということになる。とはいえ、ニコルソンにくらべれば、どんなに「キレ」てもシュミット氏は、「まとも」である。だから、そういう人物をニコルソンが演じ続けるのを見るのは、スリルである。
◆わたしのこうした見解からすると、この脚本の内容を活かすには、ジャック・ニコルソンのような俳優ではなく、「普通」が身についている(だからといって「普通」であるわけではない)俳優(たとえばジーン・ハックマン)の方がよい。
◆定年の日、時計が5時になるのを最後の事務所でじっと見つめるシュミット氏。このシーンは、やはりジャック・ニコルソンが定年(ここでは刑事)の日を迎えるシーンで始まる『プレッジ』を思い出させる。こちらは、決して「普通」の刑事の話ではなかった。
◆この映画は、メディアの機能についての意識がたかい。特に目につくのは、手紙、電話、車、マイク(最後の結婚式場のシーンに出てくる)である。シュミットは、失意のなかで漫然と見ていたテレビのなかに、ある日、アフリカの孤児を救済するプログラムがあることを知って、入会する。すぐに返事が来て、与えられた名の孤児ンドゥグにあてて手紙を書くことになるが、それは、その子を励ますというよりも、手紙を書くことによって、誰かと自分が対話しているというような機能を果たす。電話は、娘とのコミュニケーションのかなめとなる。旅に出たシュミットが使うのは、死んだ妻の望みで購入したキャンピングカー。それを使って娘のもとへ行く道すがら出会う飄々とした男。彼もキャンピングカーで旅行している。その妻はセラピストで、シュミットを自分の車に招き、彼の心の深みに孤独と怒りがあることを見抜く。彼は、「あなたは42年連れ添った妻よりも理解してくれる」と言い、思わず彼女の唇にキスをしてしまう。欧米人はよくキスをするが、さまざまな決まりがある。唇へのキスは最も身近な人間にしか許されない。だから、彼は、その女性につきとばされ、ほうほうのていで彼女のキャンピングカーを飛び出す。
◆ジーニの相手ランドールが、わざと安っぽい感じでキャラクタライズされているのが不自然(本当はいいやつなのだということになるだろうということがすぐにわかるから)だが、彼の強烈は母親ロバータ(キャシー・ベイツ)が登場するところから、雰囲気がアキ・カウリス風になりそうになるが、シュミットは、一貫して打ち解けない。この映画が、単に、定年→妻の死、娘の不本意な結婚・・を経験した老人が陥る心境を描いているのでないことは、このへんでもわかるだろう。つまり、シュミットには、もっと深い孤独がある。それは、妻が生きていても、娘が自分の望み通りの結婚をしても、定年にならなくても、存在し、どこかで出てくる。
◆わたしは、ここに、距離への愛を見る。人は、身近な関係よりもある種の距離のなかにより深い愛や関心や情熱を感じる。シュミットにとって、身近な人のすすめよりもテレビのメッセージの方が説得力があった。そして、彼には、チャイルドリーチというカソリックの救済組織から伝えられたタンザニアの、本当に実在するのかどうかわからない少年に向けて手紙を書くのが、コミュニケーションの至福のときなのである。最後にその少年の言葉をチャイルドリーチの修道女が代筆したという手紙が来て、それを読み、むせび泣くが、その手紙の文面は、明らかに誰にでも代筆できるたぐいのものだし、彼が描いた絵にしても、絶対に彼のものだという保証はない。が、そんなことはどうでもいいのだ。彼は、距離に孤独をおぼえると同時に、距離に救いをおぼえる。
(有楽町朝日ホール)



2003-02-20

●トゥー・ウィークス・ノーティス (Two Weeks Notice/2002/Marc Lawrence)(マーク・ローレンス)

◆ニューヨークを少し知っている者は、最初の10分間で、この映画の背景がすぐにわかるはずだ。まず、この映画のヒロイン、ルーシー・ケルソン(サンドラ・ブロック)は、ユダヤ系の両親を持つ娘であること。これは、この映画を見るうえで重要な前提だ。そもそも、悪の強い母親(ディナ・アイビー、リベラル左翼(とすぐわかる)父親(ロバート・クライン)、ブルックリンのブライトンビーチ、コニーアイランドのコミュニティ・センターとくれば、ユダヤ系の人間の話だということはニューヨークカーにはすぐわかる。その意味で、この映画は「いかにも」の映画なのだが、監督はブルックリン生まれで、たぶんユダヤ系なのだろう。そのこだわりが、よくわかる。
◆単なるラブ・ストーリーとして見ると、どこか中途半端な感じがするかもしれないが、「反体制的」な意識の家庭に育ち、ハーバードの法科を出て、弁護士になり、グリーンピースとも関係のある環境保護活動に関わっている女という前提だから、彼女にとっては、大不動産企業のトップでプレイボーイで有名な男(ジョージ/ヒュー・グラント)は、ほとんど天敵である。そういう彼女が、地元のコミュニティー・センターの取り壊しを阻止するためにジョージと会ったことから、ドラマが始まる。
◆ルーシーが、ジョージの会社の顧問になる経緯は、いかにも映画的。女性を雇っても、デイトの相手にするだけのジョージを兄(デイビッド・ヘイ)が叱り、「アイビーリーグ出の切れる女を雇え」と言われて、そういう相手を探していたおりに、ルーシーがコミュニティ・センターのことで飛び込んできたからだった。ジョージは、それを壊さないかわりに、会社の顧問になってくると持ちかける。まあ、現実には、こういうことはありえない。が、2人が出会って以後は、ある種のサスペンスゲームとして見ればよい。2人は、どうなるか・・・と。
(丸の内ピカデリー1)



2003-02-17

●キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン (Catch Me If You Can/2002/Steven Spielberg)(スティーヴェン・スピルバーグ)

◆「完全予約制」を銘打った試写。会場は、「第1」とは別の建物にあるやや小ぶりの「第2」。早めに行き、例によって最前列に座る。すでに何席かにマフラーなどが置かれている。そこへ、あとから配給会社の人に導かれておすぎが来る。そのあと右の「予約」席についたのは、筑紫哲也とそのお付きの人。おすぎが筑紫氏のところへ走り、「これいいよ」とか言って喉アメを渡す。
◆最初のクレジット・タイトルが、それだけで独立した作品になりえる密度を持った2Dアニメ。しばし見取れる。スピルバーグのような作りたいものが作れる環境でなければ不可能。
◆時は、パイロットやスチュワーデスが輝かしい職業だった1960年代前半期。この時代のアメリカは、まだ50年代の雰囲気を残していた。この映画には、黒人公民権運動やヒッピー・カルチャーのようなサブの部分はみじんも出てこない。そういうものを無視することが60年代の前半期の傾向であり、まだ無視することができたのである。だから、この時代の特徴を一言で言えば、「虚構性」である。芝居めかして自殺してしまうオールビーの『動物園物語』や『ヴァージニア・ウルフなんか怖くない』、崖に向かってバイクを走らせ、ギブアップした方が負ける「チキンゲーム」はそうした傾向を鋭く示唆していた。「嘘ぽいこと」がリアルである時代。まさに詐欺師がヒーローになりえる時代だった。学生だったわたしは、そんな雰囲気を感じ、新宿や渋谷を徘徊する若者を登場人物にし、「虚構性研究会」という小説を書き、一人「天才的」な作品だとうぬぼれていた。いま読めば、生意気と虚勢だけで出来ている作品である。が、いずれにしても、こうした「虚構」好みの雰囲気は、社会政治的には、キューバ危機、ベトナム派兵へと続く不毛であることがわかりきっていることの反復状況と関係があるし、その後に展開するヒッピー・カルチャー、カウンターカルチャー、ニュージャズなどは、そうした「虚構性」への反動だった。
◆スピルバーグにしては、『スティング』風の軽さが快い。実在の「天才」詐欺師フランク・アバグネイル(レオナルド・ディカプリオ)とそれを追うFBI捜査官カール・ハンラティ(トム・ハンクス)の追いかけっこ。が、基底にあるのは、息子と父親の物語。フランクの父親(クリストファー・ウォーケン)は、ニューヨークの郊外都市ブロンクスヴィルの名士だったが、会社が倒産し、落ちぶれていく。第2次世界大戦で駐留したフランスの町で出会った美人の妻(ナタリー・パイ)との関係も冷えていく。息子のフランクは、両親の離婚で、どちらの家に住むかの選択を迫られた。このへんは、まさにスピルバーグの終生の課題だ。彼には、自分の両親の離婚がすべての作品のなかに影を落としている。両親の離婚、親に捨てられる子供というテーマは、随所に見出せる。この映画も例外ではない。これまでとちがうのは、そういう、子供にとっては天災にちかい境遇を逆手に取り、プラス(映画作家にとっては、ドラマティックであることはプラス価値が高い)に転じてしまった話である点だろう。しかも、この話は、実話なのだ。
◆選択を迫られたフランクは、第3の道を選んだ。父の安アパートでも、母のリッチな新しい相手の豪邸でもなく、彼は、マンハッタン行きの列車に乗ることを選んだのだ。彼が16歳のときのことである。2つのうちどちらかを選ばなければならない状況に追い込まれたときには、第3の道を選ぶべしというのは、原則だ。幼児でも、よく、「パパとママとどっちが好き?」と訊かれると、「あっち」などと応えるではないか。
◆フランクの家庭がまだ平穏だったとき、彼の両親がむつまじくダンスを踊るシーンがちらりと出る。それが、実に決まっているのだが、それもそのはず、クリストファー・ウォーケンは、ダンスの名手である。その才能が存分に発揮されているのが、ジェイムズ・アイヴォリーの『ローズランド』(Roseland/1977/James Ivory)。
◆フランクの詐欺の才能は、父親ゆずりなのだろう。彼は詐欺師ではなかったが、女に無理を頼むとき、「これガレージに落とさなかった?」と言ってネックレスの「賄賂」を渡すのが得意だった。
◆デカプリオはいいが、今回は、別にトム・ハンクスでなくてもよかったかもしれない。
◆1970年代にわたしは、ニューヨークの銀行で小切手帳の束をもらって感激したことがあった。それに金額を書きさえすれば、お金の代わりに使えるのである。詐欺をやろうと思えば出来ただろう。だから、たとえばアパートメントの「保証金」のようなものは、certified checkにしなければならないのだった。とはいえ、通常は、ただの紙ぺらに金額を書けばそれで何でも買えたのだ。クレジットカードとは感覚が違う。もっと楽観的な「信用」の上に立脚したシステムだった。それを逆手に取った天才がフランク・アバグネイルだったわけである。
◆あの時代は、まだ小切手の詐欺に当局があまり関心をもっていなかったので、フランクの犯行にFBI捜査官のカールが気づいても、なかなか万全の捜査ができなかった。FBIのなかで最初は変人あつかいされるが、フランクの犯行の規模が大きくなるにつれて、彼も本格的な捜査ができるようになる。これも、産業・金融システムの変化に対応している。
◆フランクの孤独、とりわけ父なるものへの渇望は、カールとの関係のなかにも感じられる。その意味では、『A.I.』が「母なるもの」を求めさまよう物語だとすれが、この映画は、「父なるもの」を求める物語である。実父に捕まえてもらう代わりに、カールに捕まるために詐欺をくり返すというようなところもある。
◆映像的にずっと見ていたいような気持ちにさせるシーンたいくつかあった。
(イマジカ第2試写室)



2003-02-13

●シカゴ (Chicago/2002/Rob Marshall)(ロブ・マーシャル)
◆レニー・ゼルヴィガーの目の大きなアップから、CHICAGOの有名なロゴ文字に移り、バーンと「オール・ザット・ジャズ」の演奏シーンに入るテンポはすばらしい。アール・デコを意識した映像もいい。
◆舞台版を振りつけ演出したボブ・フォッシーのブレヒト的アイロニーもよく出ている。が、舞台版があるという事実が、わざわいして、評価が厳しくなる。「原作」がなければ、合格のはずの、レニー・ゼルヴィガー、キャサリン・ゼタ=ジョーンズ、リチャード・ギアの歌と踊りがやはり甘いのだ。外見だけは同じでも、一方はもどされた冷凍食品の感じ。その点では、「おれはセロファン」を歌うジョン・C・ライリーが一番うまかった。
◆とはいえ、ソングから台詞とのあいだがシームレスに編集されているので、これがミュージカルの歌手だと、台詞の部分でアンバランスが出たかもしれない。
◆レニー・ゼルヴィガーは、どんどん育って行く俳優だ。『ブリジット・ジョーンズの日記』の試写で挨拶したときは、大女優という感じではなかった。この映画は、少しあたまの足りない女の子が、成り上がっていく話だから、ゼルヴィガーの甘えた舌足らずしゃべり方はあっているのかもしれない。対抗するゼタ=ジョーンズは、対照的にすきのない女を演じている。ポール・ファーホーヴェンの『ショーガール』のエリザベス・バークリーとジーナ・ガーションの関係も似ているが、こちらは、二人ともしたたかなところがあり、リアリティがあった。つまり、レニー・ゼルヴィガーは、それなりにがんばっているのだが、演じているキャラクターのなかに彼女特有の「まじめさ」や「おひとよし」の感じが混入して、アンバランスになるのだ。
◆ギアは、ちょっと老い過ぎたという感じ。もっと若い役者にやらせた方がよかったのではないか?
◆ギアが演じる悪徳弁護士は、ゼルヴィガーの夫(ジョン・C・ライリー)の名を「アンディ」と呼びまちがえるが、これは、「エイモス・アンド・アンディ」のもじり。
◆ダンスでは、ちょい役ながら、マヤ(マヤ・マリー・ハリソン Mya Marie Harrison)が抜群の巧さを見せた。彼女のデビューはタップダンサーだから無理はないかも。
◆わたしは、この舞台をニューヨークで見ているが、詳細がは思いだせないので、ノートを調べて見た。そこには、こんことが書かれている。「Bob Fosseが演出しているので期待して行ったが、全くのこけおどしのブロードウェイ観光用芝居だった。いままでブロードウェイで見た芝居のうちで最もレベルの低い芝居。だいたい出演者の技量が低い。こういうのもブロードウェイにはあることをおぼえておこう。」う~ん。
◆弁護士ビリー・フリンが記者会見をする席で、記者の首にすべて操り人がついているとか、ゼルヴィガーがビリーの腹話術の人形として見えるようなアイロニカルなシーンは、いかにもボブ・フォッシーらしい。1970年代は、メディア批判もいまより鋭かった。うん、このシーンはよく出来ている。ひょっとすると、この映画の方が、フォッシーの演出した舞台よりもより一層「フォッシー的」かもしれない。
◆2月6日に丸の内ピカデリー1でやった試写は、ロンドンにいて見れなかった。今回は、完全予約制の試写会。が、こういう「大物」映画だと必ず「田舎者」が来て、椅子の背を蹴ったりする。プロのための試写会なのだから、見る態度もプロの人だけを集めるべきではないか? 映画館の椅子の背に足をかけたら、前の人間はどういう反応を受けるかがわからないなんて、劇場に行く資格がない。後ろを向いて「蹴らないで下さい」とい言ったが、言われていることがわかない。隣の人がびっくり。仕方なく、何度か蹴られたのち、指で足を指してやったら、やっとやめた。
(イマジカ第1試写室)



2003-02-12

●アントワン・フィッシャー (Antowone Fisher/2002/Denzel Washington)(デンゼル・ワシントン)
◆「監督第1作にしては見事な」というクリシェが必ずつきまとうであろう秀才的な出来栄え。いかにもデンゼルらしい。
◆頭のいいデンゼルは、軍人にスポットがあたるいまのアメリカの状況、家族への関心の再燃、幼児虐待への関心を利用して自分が取り上げたいテーマを撮ったという印象がする。つまり、映画は実際に海軍に11年間勤めたフィッシャーの自伝に基づいており、軍を出さないわけにはいかないわけだが、デンゼルの関心は軍人にはなかったと思う。重要なのは、虐げられて育った子供が負った傷と、その超克の物語なのだろう。だから、環境としては軍が出てくるが、会社にすりかえても問題のない作りになっている。
◆暴力事件を起こしたアントワン・フィッシャー(デレク・ルーク)は、軍の精神科医ジェローム・ダヴェンポート(デンゼル・ワシントン)のセラピーを受けることを命令される。最初反抗するが、次第にダヴェンポートを父親のように思い始める。彼は、女囚刑務所で生まれた。母は、妻のある男とのあいだにアントワンをはらんだが、男を撃ち殺して囚われの身となった。彼女は、息子を引き取らず、彼は孤児院でそだった。預けられた先で母親役の女から虐待されて育つ。その女の実娘からは陵辱を受ける。このへんの話は、すごい話だが、映画は、リアルには描かない。いかにも利口なデンゼルらしく、「文部省推薦」的作り方。
◆とはいえ、アントワンが恋する海軍キャンプの売店で働く女性シェリル(ジョイ・ブライアント)との関係、発見した実母が示す態度(一言もしゃべらず、アントワンが去ると彼女の目に涙がひと筋流れる)、最後の親戚との出会いのシーンは感動的だし、いまのすさんだアメリカでは、こういう素朴さこそが必要なのだという気もする。
◆ダヴェンポートの妻バータを演じるサリー・リチャードソンが実にいい感じを出している。が、一見むつまじい二人のあいだに複雑な事情があることが最後にわかる。それを知ると、さらにサリーの演技の深さがわかる。
◆アントワンは、語学が好きで、日本語を習っていることになっている。これは、日本の市場を意識したデンゼルの利口な仕掛けではないか? アントワンが、日本語でシェリルに語りかけるシーンでは、場内に笑いが上がった。
(FOX試写室)



2003-02-12

●ゴースト・シップ (Ghost Ship/2002/Steve Beck)(スティーヴ・ベック)

◆午前10時というわたしには尋常でない時間に動員されて仕事場に行ったら、仕事は30分で終わってしまい、午後3時半に再集合することになった。大学とは奇妙な「企業体」である。資本主義ばなれしているところがいいが、それをどこまで意識しているかが問題。だから、結局は、つけがまわる。というわけで、わたしは、さっさと大学をあとにして、新宿に向かった。見落とした映画を見ようと思ったのである。が、やっているのは、みな見た映画ばかり。マイナーなものはやっていない。しかたなく、予告がクールだったこの映画を見ることにした。
◆最初の15分はいい。豪華客船のラウンジで濃艶なフランチェスカ・レトンディーニが、歌っている。乗客は優雅にダンスを踊っている。子供ながら一人旅をすることになったらしい迷めいた少女ケイティ(エミリー・ブラウニング)を船長と思える老人がエスコートし、ダンスを踊り始める。が、少女が目を見張った瞬間、大人たちの体や首が、巨大な鋭い刃物で断ち切ったように輪切りになり、二つになる。
◆凄腕のつわものぞろいのサルベージ船。男まさり(こういうのはいまや差別語かもしれないが、描き方は明らかにそういうノリなんだから仕方がない)のエップッス(ジュリアナ・マルグリス)が大胆な潜水をして、困難なサルベージを実現する短いショット。このグループを活写する。下船してくつろいでいるところへ、ジャーナリストと称する青年ドッジ(ロン・エルダール)が訪ねてくる。1962年に失踪した船を見つけたという。マーフィー(ゲブリエル・バイン)をリーダーにするサルベージ屋は、躊躇したのち、引き受ける。
◆船はすぐにみつかるが、船内に入ってから次々に奇怪なことが起こる。エップスのまえに、ちらっとあの少女が現れる。クルーが何者かに襲われる。
◆いきなり40年まえのラウンジが再現したりするシーンは映像的にいいのだが、全体としてスリラーとしても、それ以外の映画としても中途半端。思わせぶりに見えてしまう。
◆悪魔が姿を現わし、「お前たちが船を回収するように、おれは人間の魂の回収者なのだ」というあたり、なにか意味がありそうだが、あまり響いてこない。『レッド・オクトーバーを追え』の監督なので船の撮影はうまいのだが、『船上のピアニスト』のような一貫性があればよかった。
(新宿ピデリー3)


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