粉川哲夫の【シネマノート】
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2003-07-31

●トゥームレイダー2 (Lara Croft Tomb Raider: The Cradle of Life/2003/Jan de Bont)(ヤン・デ・ボン)


◆六本木ヒルズ内で映画を見るのは初めて。六本木にはよく来るが、わざわざ入ってみたい場所ではない。完全にディズニーランドからはじまる空間管理がいきとどいていて、「うさんくさい」ものの入り込む余地がない。映画館のところから麻布十番通りに入ると、10年まえの日本にはなかった国籍不明の町並みときらびやかな照明の店が立ち並ぶのを目撃する。日本経済はダメだダメだというが、1980年代のアメリカの都市部であらわになった現象がいま起きているのであって、トランスナショナルな規模ではリッチはどんどんリッチになり、プアはますますプアになるという格差が進行中なのだ。
◆映写装置がいいせいか、この映画、映画館負けしている。これは意外だった。試写用フィルムだけかもしれないが、なんか映像にサエがないのだ。ララ(アンジェリーナ・ジュリー)が最初に姿をあらわすのもサーフボード、そのあとはハングライダー(最近のは小型飛行機みたいな形をしているんですね)で敵地に乗り込むなどハデなシーンが続出するのに、その奥行きや色つやが安いのだ。アンジェリーナ・ジュリーも、前作にくらべて、全然セクシーではない。の前の作品は、世評に反して、わたしは支持した。そのゲーム感覚がよかったし、背景にある思想もしっかりしたいた。まあ、ヤン・デ・ボンは、形而上学的なことには興味がなさそうだから、しょうがないか。しかし、それならアクションとして息をつかせないものになっていればいいのだが、そうでもないのだ。
◆デ・ボンにかかると幻想的な怪物も、ただの怪物になってしまう。キリマンジャロの山奥の禁じられた森の奥で出てくる怪物も、最初、速いショットで影だけがやっと見える感じだったのだが、それがはっきりと姿をあらわしてしまったときには、唖然とした。この瞬間からすべてがばかばかしいものになってしまった。パンドラの箱に関して、彼女の言う決まり文句が「見つけてはならないものものもある」だが、この怪物も、見せてはならないものではなかったか?
◆ギリシャのサントリーニ島で大地震が起こり、海底の神殿の所在が判明する。このへんの展開がもってまわっていて、まだるこい。大した話ではないのに。情報をキャッチしたトレジャー・ハンターたちが集まり、そうしたグループの一人であるララもサーフボートで到着。海底にもぐり、アレキサンダー大王が隠した「パンドラの箱」のありかを示す「地図」を見つけるが、それを奪われてしまう。奪ったのは、生物化学兵器を作って売りさばいている21世紀の「ドクター・メンゲル」(ナチスのもとでクローン製造などの人体実験を行った医者。『ブラジルから来た少年』などよく映画でとりあげられる)というジョナサン・ライス博士(シアラン・ハインズ)が黒幕のグループ。「パンドラ」の箱は、その蓋が開けられたことによって「すべての厄災が飛び出した」→だから開いてはいけないものの喩になっているのだが、この映画では、それを「究極の生物化学兵器」と読み替える。なら、ライス博士にとっては垂゚オ(すいぜん)の品。この博士は、最終兵器に関心がある。そういうものがあれば逆に世界平和が達成されると考えるのかどうかは別として、こういう月並みな「悪」を一方に置き、それを懸念するMI5が、ララにこの「悪者退治」を依頼するという単純すぎる物語。
◆MI5から特命をうけるララの条件が、イギリス海兵隊を裏切り傭兵になり、いまはカザフスタンの刑務所にいるやっかい者のテリー(ジェラルド・バトラー)をパートナーにすること。そして、当然のように出てくる二人のラブラマンス。しかし、アンジェリーナ・ジョリーは全然せクシーではない。最後にパンドラの箱を奪い、山分けしようと言うテリー。「愛」を取るか、自分の「人道的」信念を取るかを迫られるララ。が、箱の蓋を開ければ人類の厄災を招く。どうするララ。しかし、その決定は全然感動を呼ばない。
◆ララが途中までくっつけている軽量のヘッドマウウンテッド・ディスプレーが、ちょっとザイブナーのウェアラブル・コンピュータに使われているコロラド・マイクロディスプレー製のやつに似ていて気になったが、大した使い方は見られなかった。とにかく、この映画は、出てくるハイテクもみなかっこづけにすぎない。自然やキリマンジャロの原住民のあつかいかたと同じで、「らしく」あればそれでよしという作り。
(ヴァージンシネマズ #7)



2003-07-24

●パイレーツ・オブ・カリビアン 呪われた海賊たち (Pirates of the Caribbean: The Curse of the Black Pearl/2003/Gore Verbinski)(ゴア・ヴァービンスキー)


◆「試写はこの1回のみ」という触れ込みなので、かなりの人。最近昼間の時間がますます短くなっているわたしは、やっとのことで開場30分に列に並ぶ。あちこちでケータイをかけている。聞こえるのは、「席を取っとくからね」といった声。こういうのって、日本の政治経済に通じる習慣ではないかな。個人のイニシャティヴや権利がないがしろにされる。
◆「マスコミ試写会」というので業界人が多く来ているのだろうが、マスコミの人ってみな露出趣味が強いのだろうか? おすぎのように試写室を宣伝の場と心得てやっている人もいるが、そういう気はなくても超個人的なことを大声でしゃべってしまう習癖があるようだ。だから週刊誌やテレビのワイドショウがネタに困らないのだ。席についたら、隣にグレープフルーツ・ジュースをちょっとだらしなく呑みながら座った女性が連れの男にしゃべるのが聞こえて来た。「相談て何よ?」。「実はねえ、会社をやめて事務所を開こうと思って、ほとんどいい調子にいっちゃったのよ。人生の転機かなって気がするくらいうまくいって。そうしたら体調不良になって、医者に見てもらったら妊娠してたの」。「何カ月?」「3カ月。でね、一人で生もうと思うの」。「相手の男はどうなの?」「色々あったんだけどね、せっかくさずかったもんだから、自分で育てようと。だから、来年は子持ちになってあなたんちに行くわね」。「だめだよ、子供が来ると子供中心になっちゃうだろ。俺は根が子供だから、そういうのやなんだ。いまいくつ?」「35」。「33だったら生まないだろう?」「そうかもね。あたし、あなたがもらってくれると思ったの」。「そんなことしたら・・・ちゃんが怒るよ。でも、楽しい2カ月でした」。「どういたしまして」。[ということは、このヒト、この男ともデキていたのか?]「3歳ぐらいになったら、いい人見つけて、再婚すんだよ」。「うん、それがいいよね。そうするわ。このごろこういうの(ジュースを指している)ばかり飲みたくなって、フフフ」。なんか、見たくもない安い映画を1本見てしまった感じ。
◆ジョニー・デップは、毒のあるユーモアを持ったキャラクターと彼自身とがだぶった不思議なアウラをあらわしていて面白い。オーランド・ブルームの剣さばきも悪くない。が、全体の調子が後半でちょっとダレ、長すぎる(2時間23分)という印象を与える。腐った骸骨の死体がどぎつく出たり、やたら騒がしい格闘、剣のさや当て、鉄砲と砲弾のさく裂音が続く。総督(ジョナサン・プライス)の娘(キーラ・ナイトレイ)が、後半、急に筋肉が強くなったかのように男を殴り倒したりするアンバランスが目立つ。とはいえ、規則と慣例で事をすすめる総督が、したい放題のデップを許し、「正しい行為をなしとげるために、ときにはパイラシー(海賊行為/不法行為)が必要なときもある」と語るように、この映画の雰囲気とアウラは、パイラシーのすすめにある。登場する海賊のせりふにも、「掟とガイドラインとはちがう」というのがあり、「ガイドライン」というのは必ずしも守らなくてもよい。小泉首相は、「日米ガイドライン」もそうだということを知ってるのかな?
◆「パイレーツ」とか「パイラシー」という言葉をきくと、わたしなどは、まっさきに「パイレット・ラディオ」(海賊放送)を思いうかべてしまう。日本で「パイラシー」が流行らないのは、「パイレーツ」がもっぱら「海賊」としか訳されないことにも一因があるだろう。それでは、非常に古い感じしかしない。「海賊」というのは、規則や慣例を破ったり、剽窃をしたりというより、ただ暴力のかぎりをつくすという語感しかない。それは、不法者というより無法者であり、あこがれの対象にはなりにくい。
◆この映画の当たり方は、欧米(とりわけイギリス)と日本とでは相当異なるものになるだろう。終わり近くで、総督は、「パイラシー」を許容しても「ユニオン・ジャックを守れ」と言う。この場合の「ユニオン・ジャック」は、単に「英国国旗」の意味ではない。「ジャック」というのは、船首の横木の意味で、それに付けられた旗ということから、国旗の意味になった。とすると、「ユニオン・ジャック」の源流は、海賊船の旗だったかもしれない。気になったのは、ジョニー・デップが演じる「ジャック・ストロウ Jack Straw」は、1381年にイギリスで農民一揆の指導者の一人だった「ジャック・スパロウ Jack Sparrow」を思わせる。いずれにしても、国家からはずれたアクティヴィストであることには変わりない。
◆この映画、ドラマや登場人物、描かれるイメージがさまざまなメタファーを隠し持っている。まず、船はしばしば国家や組織体のメタファーとして用いられるが、ここでも、イギリスの植民地カリブ海諸島の沿岸に浮かぶ海軍帆船ドーントレス号はイギリス国家のメタファーとしても読める。国家といっても、人民の国家ではなく、金と権力を握った者にとっての国家である。これに対峙するのは、海賊船ブラック・パール号だ。しかし、この船は、海賊だけが知っている謎の島に隠されたスペイン人の征服者・虐殺者コルテスの黄金を盗んだために、呪いをかけられ、乗組員は、まさにアドルノ的な「中間状態」にある。アドルノは、『プリズム』の「カフカ覚え書き」なかで、「ファシズムの収容所において生と死の境界線は抹消された。収容所は、生きている骸骨と死にかかった者、自殺がうまくいかない犠牲者、死の廃止の希望に対するサタンの哄笑、こういったひとつの中間状態を生み出した」と書いている。こういう「地獄」の状態を招いたのは、アドルノによれば、「後期市民社会」自身なのだが、まあ、ある意味で、いまの時代は、「アウシュビッツ」の全般化状態のさなかにあると言えないこともない。生ききることもできないし、死にきることもできない。生々しい肉体と腐った肉と骸骨がオーバーラップする。そう考えると、この映画の「海賊」たちは、現代のわれわれ自身である。
◆国家は、それを「掟」によって取り締まろうとする。それがいかにばかげた、無力なものであるかは、いままさに、イラク戦争の情報操作の疑惑で揺れているイギリス国家が如実に示しているし、ブッシュのアメリカもそうだ。アラブのオイルはさしずめコルテスの略奪した呪われた財宝だ。それをさらに盗もうとする者は、呪いを受ける。現に、オイルに頼る高度産業国のすべてが、呪われている。映画では、盗んだ金貨をもとにもどすプロセスがえがかれるのだが、それには、国家の「正統」な手続きではだめで、ある種の「パイラシー」の行使が必要になるわけだ。
◆血縁の重要性も描かれている。事実、権力は血縁と不可分離だ。海賊の血を引き、コルテスの金貨をネックレスにしていたウィル(成長したウィルをオーランド・ブルームが演じる)。かつての収奪をあがなうためには、彼自身の「血」をもってその返却を証明しなければならない。ここでは、血縁が強調されるが、それは、血縁関係を永劫に存続させるためではなく、血縁から始められた「過ち」は、そこまでさかのぼってくいあらためられなければならないという意味だろう。
◆映画が終わったら、両隣の客が一斉にケータイのスィッチを入れた。緑っぽい光が反射して、画面(ラースト・クレジット)など見ていられない。頭に来て、(普通はそういう失礼はしないのだが)ケータイをかざしている人の前を横切り、通路に出た。ロビーに出ようとしたところで、配給会社の人から、「最後に重要なシーンがありますから」と言われ、戻る。そのシーンは、呪われた海賊船の船長(ジェフリー・ラッシュ)のペットの猿が、ようやく戻された金貨の山に近づき、その1枚を奪うもの。その瞬間、フリーウェイが延びる広大なアメリカ的光景が映り、次の瞬間、核の攻撃を受けたかのように全体が消失する。見落とすといけないので、書いてしまったが、これは、収奪が続くと世界は消滅するというメタファーとしても読める。
こう見ると、この映画、なかなか奥が深いではないか。
(ピカデリー1)



2003-07-23

●再見 ツアイツェン (Roots and Branches/2001/Zhong Yu)(ユイ・チョン)


◆4人も子供を使えば、観客を「泣かせる」ことは容易だ。しかし、泣ければその作品の質が高いというわけではない。幼い子供の演技は、それ自体がけなげで、いっしょうけんめいだから、そのことを思うだけでも、わたしなどは気の毒な感じがして、涙が出てしまう。その涙は、演じられたキャラクターやドラマに対するものではない。
◆この映画と『HERO』などをあわせて考えると、これまできめ細かい映画を作ってきた中国映画も、そろそろ大きな転機に入ったかなという気がする。今後は、ハリウッド並の大型作品にしか見るべきものがなくなるかもしれない。
◆すぐれた音楽家だが、文革の抑圧で職を失った父親、結核に犯された母親、そして幼い兄弟と姉妹。貧しいが、父のアコーディオンに合わせ、食器を叩いたりしてコンサートをする。母はかたわらで餃子を作る。正月でもごちそうはこれだけ。まあ、よくある「お涙頂だい」の設定だ。で、悲劇が起こる。その出し方は徹底していて、喀血した妻を病院に運ぼうとして夫は、乗せてもらった馬車が崖から転落して死んでしまう。残された4人の子供は、親戚にあづけられるが、邪険にする義理の叔母の意地悪に反発した長男が、3人を連れて飛び出してしまう。そして、彼は、知り合いの家を一軒一軒訪ねて、兄弟姉妹をあずけていく。すべてを果たした彼は、走り出す。走りながら大声で泣く。これは、見えすいた泣かせの技法だが、観客は泣くだろう。そして、雪の原に走り込み、(きっとそうなるなと思っているうちに)転ぶ。これで泣きはクライマックスに達する。
◆映画は、長じた長女スティエン(ジジ・リョン)がアメリカからマネージャーのデイヴィッド(デイヴィッド・リー)といっしょに北京空港に向かう飛行機の機内のシーンからはじまる。ナレーションがかぶさって幼い日々の映像が出る。彼女は、アメリカに移民する近所の人に預けられ、渡米し、20年後のいま、指揮者として成功をおさめたという設定。しかし、ジジの雰囲気は、日本の一時代まえの健康タレントの感じで、とてもそういうキャリアを持った雰囲気ではない。それと、フラッシュバックする映像が、現代の北京のシーンの質(明度や画質)とあまり変わらないので、どこか嘘っぽい。映画に映る北京の街の容姿は、東京よりももっとモダンで、この10年の変貌ぶりのすごさを感じさせる。おそらく、少しまえまでは、カメラを持っていけば、そのままで使える古い町並みや「貧しい」生活を象徴するような風物がいくらでもあったにだが、いまは、いちいちセットを組まないと20年まえの時代を映像に出来ないのだろう。子供たちが着ているセータが大写しになると、やけに新しいのが不自然だ。
◆スティエンは、デイヴィッドの助けをかりて、次々に、消息のとだえた弟、妹、兄を探しあてていく。彼女ぐらいの名があるのなら、北京に来るまえに調べがついているのが普通だが、劇的感動を先に予定してからプロットを作るこの手の映画にありがちのパターン。兄イクー(ジャン・ウー)はタクシーの運転手をしていて、すぐに妹が北京に来たことをラジオで知るが、何かかにやの事故にはばまれてなかなか会えない。こうなると、最後にスティエンのコンサートのシーンがあり、その場で合わせるしかないだろうという予測が立つ。現にそうなる。
◆再会する者たちを演じる役者のなかでは、妹ミャオを演じるチェン・シーがなかなかいい。俳優として今後が楽しみ。ジャン・ウーは、ミュージシャンとして名が売れている人。
◆色々問題があるが、現代の北京を観光的に観察するという意味では役に立つ。成長した兄弟たちが、職を転々としてタクシー運転手をしている兄、東北大学に学びオタクぽい雰囲気の弟ティエン(シア・ユイ)、クラブで踊りまくっているあばずれっぽい妹(チェン・シー)というように分類されているが、この分類は、現代の北京の若者の3態(もっと多様だとしても)をあらわしている。
◆スティエンが入ったレストランで、店員たちがいっせいに「いらっしゃいませ」、注文を受けると、「ジャージャー麺一丁」というようなかけ声を出すシーンがあるが、これは日本の真似ではないか? いまの北京の店ではそうなっているのだろうか?
◆スティエンとテイエンが再会を祝って入るレストランで食べるものは、ステーキとサラダ。
◆ジジ・リョンは、おそらく指揮棒などちゃんとは振れないだろうと思っていたら、案の定、ちっと演奏しただけで、そこへ入ってきた兄の姿を見て、何と演奏を中断してしまう。アメリカで名の出たプロの指揮者がです。いくら弟との20年ぶりの再会といっても、嘘っぽすぎるではないか。現実にそういうことはあるとしても、映画がこれだけあたりまえの「ドラマ」仕立てで来て、この様はない。最初からそういうノリならそれでいいが、そうではないからオイオイとい言いたくなる。
(メディアボックス)



2003-07-22_1

●アラトの聖母 (Ararat/2002/Atom Egoyan)(アトム・エゴヤン)


◆評価が高い作品だが、わたしには、なんかもったいをつけているいかにも映画をたまにしか見ない「文学好き」の知識人が好みそうな作品に見えた。久しぶりにシャルル・アズナーブルを見れると思って期待したが、あまり彼の特性が活かされてはいなかった。わたしは、トリュフォーの『ピアニストを撃て』(Tirez sur le pianiste/1960/Francois Truffaut)でそのかっこよさにすっかり惚れ込んでしまったが、その後会心の演技を見たことがなかった。このことは、脚本家の役で出るエリック・ボゴシアン(『トーク・レディオ』の名演は忘れられない)についても言える。もったいない使い方。
◆1915年にトルコのアルメニアに接する地帯にあるアララト山の麓ヴァンで起こったアルメニア人虐殺事件が基調にある。この事件は、トルコ政府は依然その存在を認めていないという。日本も「南京虐殺」は正式には認めていないですね。しかし、すべてが相対化されていて、なんかずるい感じがする。プリテンシャスというか、気取っている作風が気にいらない。
◆話は、監督エドワード・サロヤン(シャルル・アズナーブル)がこの事件についての映画をトロントのスタジオで撮るプロセス、その映画のシーン、この虐殺を逃れ(母は殺された)画家アーシル・ゴーキーに詳しい美術史家アニー(アーシニ・カンジャン)とその息子ラフィ(デイヴィッド・アルペイ)、二番目の夫の娘シリア(マリ・ジョゼ・クローズ)の(どこかで事件が関係しているらしい)いざこざ、そして、決着(それがはっきりしない)をはっきりさせるためにアララトに旅行し、帰ってきて出会う税関の老検査官デイヴィッド(クリストファー・プラマー)との一件、が入り乱れて紹介される。映像は丁寧でつやがあるが、もっと整理してくれと言いたいような編集。すべてた相対化されているが、それは、批判的距離を忍ばせるためというよりも、気取りに見えてしまう。
◆登場人物は、非常に錯綜している。どこかで関係があるのに、最初はふせておく。アルトマンもこうした平行描写をやったが、もっと効果的だった。ここではあまり意味のない平行関係の気がする。映画でトルコ人の差別的な総督(イライアス・コティーズ)を演じるアリと老検査官の息子フィリップ(ブレント・カーヴァー)とが同性愛的な関係にあり、3人が同じ家に住んでおり、しかもフィリップは、アニーが定期的にレクチャーをしているらしい美術館に勤めている。ラフィは撮影所のアルバイトをしてアリを車で送ったりする。その彼が、アリの恋人の父親に税関で捕まる。こういうやり方はあまり意味がない。
◆ゴーキーは、アメリカに移住するが、虐殺の記憶のゆえに自殺するという暗示がある。サロヤンも虐殺で母を失った。ラフィの父(アニーの最初の夫)は、トルコのアルメニア人抑圧に反対してトルコ大使を暗殺してテロリストの烙印を押された。シリアは、自分の父(アニーの二番目の夫)がアニーとアルメニアを訪れたときに事故で死んだが、それは、アニーが崖から突き落としたと思い込んでいる。すべてが、アルメニアに関係してはいる。しかし、こう複雑にして話を進めた結果が、税関で解放された息子と母の抱擁では。プレスには、ゴーキーの絵『芸術家と母親』(ホイットニー美術館所蔵)にひっかけて、「背中に回された母の手のぬくもりに、ラフィは、自分たち親子の間に新しい歴史の1ページが開かれるのを感じる」と書かれているが、そうだろうか?
◆定年間近で、まさにラフィを拘束(彼が持っていたフィルム缶にヘロインが入っているのではないかと疑った)した日が最後の勤めだったデイヴィッドは、ラフィを尋問するなかで生き方を変える(そんな簡単に変わるものか?)。おそらくアニーも変わったと言いたいのだろう。もし、そういう変化を描きたいのなら、作中にサロヤンが監督した映画のシーンの出方が多すぎる。そのシーンは、虐殺がいかにひどかったかをアッピールするプロパガンダ映画のトーンである。これがもっと抑えられていたら、それぞれの人物・家族のエピソードがもっと浮き彫りになっただろう。
(ギャガ試写室)



2003-07-22_1

●フォーン・ブース (Phone Both/2002/Joel Schumacher)(ジョエル・シューマカー)


◆真うしろの女性が連続的にハナをすするのが気になった。『セクレタリー』で、秘書になったばかりのマギーは、エドワード・グレイの偏屈上司にびしゃりと「ハナをすするのはやめなさい」と言われる。そう、彼女もやめた方がいいな。この調子じゃ上映中(なにせわたしの後ろにややのり出し気味で座っているらしい――耳元で音がする)困るなと思っていたら、映画のテンポのよさにそのことが気にならなくなった。彼女も癖が一時的に止まってしまったらしい。
◆一つの思いつきでぐ~っと押していって、作り上げてしまった作品だが、楽しめる。とりわけ、ニューヨークあたりで「勝ち組」志向のどうにもならない野郎にうんざり――どころかふだんイライラさせられている者には、映画を見ているあいだだけ、すかっとするだろう。そういうコカイン的なノリで作られた技巧的サスペンス。
◆イタリアン・ブランドを着て、ケータイ片手に、やけに忙しぶりながらマンハッタンの歩道を闊歩している男スチュ(コリン・ファレル)。歩きながらあちこちに電話し、ビッグネームの名をふりまわして情報やネタをセコく横流ししている。そのかたわらにはアシスタント役の若者がいて、電話の合間にあれこれ指図する。この手合いは、オフィスで済むことをいかにも急がしそうに、路上やメシの最中にケータイをかけまくる。本当に「勝ち組」なのかどうかはわからないが、そうなることが「まっとう」なことだと思っている。「自分に利益にならない相手は冷酷にあつかう」。この映画は、こういうやつに「天罰」を加えようというもの。その意味で、当然、偽善があるが、いまの世の中の動向を考えるとそういうガス抜きが必要な感じ。
◆冒頭、マンハッタンでどいつもこいつもケータイで電話している映像が映るが、説明によると、いまアメリカで800~1000万の電話人口のうち300万がケータイ使用者だという。公衆電話の利用者は200万。だから、公衆電話はますます削減され、とりわけブース型のはほとんどなくなりつつある。映画の舞台となるのは、エイトゥス・アヴェニューの53ストリートにある公衆電話ボックス。スチュは、ケータイの常用者なのに、なぜか、毎日ここの公衆電話を利用する。アシスタントと別れてから、ボックスに入り、結婚指輪をはずしてから、ダイヤルを回す。相手は不倫の相手らしく、その姿がスクリーン・イン・スクリーンにあらわれる。その声がやけにセクシー。これは、当然音声的に意図した作り。スクリーン・イン・スクリーンも、最初右上に出て、それが左に移動すると、声も右から左に移動する。しゃれている。
◆その電話の最中に太ったエスニック系の男がピッツァをデリバリーしてきて、ブース(ボックスのこと)のドアを叩く。(昔わたしがニューヨークにいたころは、どんなに寒い日でも、ピツァのデリバリーがピツァを保温のケースに入れてきたのを見たことはなかったが、このデリバリーは、日本のDOMINO'Sのように保温ケースに入れている――ニューヨークも進歩した?)そんなものを注文したおぼえのないスチュは、じゃけんに相手に対応する。ついつい彼の性格の悪さが出て、金で追い払おうとする。そのとき見せるデリバリー男のいまいましさと悲しみのまじった顔がいい。演じているのは、デル・ヤウント(Dell Yount)というわたしには初見の役者。
◆電話を終えて出ようとしたところへベルが鳴る。習慣的に受話器をとってしまったスチュに、相手の声(キーファー・サザーランド)は言う。「電話を切ると殺すぞ」と。以後、このブースがスチュの「懺悔室」と化す。この映画は、このブースの周囲だけを舞台として展開する。アメリカの公衆電話は、呼び出しが出来る。これが、多くの作品で効果的な役割を果たした(たとえば『ダーティハリー』)が、もうそういう使い方も、時代ものでしかできなくなる。
◆謎の男が電話を切ったとき、スチュは、「*」を押し、それから「9」を押した。「折り返し通話は出来ません」というアナウンス。こうするとかけて来た相手につながるらしい。わたしがニューヨークにいたころは、そういう機能はなかった。えらく昔のことを言っても仕方がないが。ニューヨークに永住しているケータイ嫌いの刀根康尚にいつか尋ねてみよう[追記参照]。
◆スナイパー男は、スチュを高性能ライフルで狙っていて、いつでも狙撃できるという。実際に、長電話をしているスチュにしびれを切らした売春婦(このくだりがいかにもニューヨーク的でいい)が、用心棒を連れて来て文句を言わせると、この男が狙撃され、即死する。スチュも脅しの1発をくらう。
◆「勝ち組」のねじれたモラルが徹底的にいたぶられる細かい場面については、書くのはやめよう。この欄も読者が増えているので、あまり内容を書いてしまうとうるさい手合いに脅される。映画は、どんなに文字で描写してもしきれはしないのだが、映画評を「見ないで済ませる」道具に使う手合いがいるらしい。
◆不満を少し言っておくと、スナイパーがどんなに腕の立つ奴か知らないが、真っ昼間にレーザーの赤いポイントがシャツに映るほどの距離だったら、すぐそいつの場所を特定できるのではないか? まあ、この映画では、そのスナイパーが「神」か「超人」の位置に置かれているわけだ。それでふと思いだしたが、フィリッツ・ラングにインタヴューした『映画監督に著作権はない』(井上正昭訳、筑摩書房)のなかで、ラングは、ドイツでは映画の主人公は「超人」でなければならないが、アメリカでは「一般大衆の一人」(ジョー・ドゥー)でなければならないと言っていた。だからこのスナイパーは主人公ではなく悪役なのか?
◆もう一点。急行した警察(フォレスト・ウィティカーが刑事を演る)が、あたかも、スチュとスナイパーとのやりとりを察知できないかのようにストーリーが進むが、(電話は盗聴できないように犯人が操作しているという設定は呑むとしても)ガン・マイクか何かで、少なくともスチュの声だけは盗聴できたはずだ。
◆[追記/2003-07-25]本欄を早速読んでくれた刀根康尚氏から説明のメールをいただいた。無許可で引用しておく。
「しばらくです。 『今見たばかり』で間接的に質問を受けたようなので、お便りします。 あの*9で、折り返しの電話がかかる機能はまだあると思います。どこかに電話して相手が出てこず、アンサリング・マシーンもないようなので、放っておいたら、1分もしないうちに相手から電話がかかってきました。予め、そういうサーヴィスを電話会社と契約していれば、プライヴェートの電話なら使えるはずです。でも、公衆電話は、日本と同じで、キャリアーが違うと使えないのでしょう。ぼくの 電話の使用頻度はe-mail のおかげでずっとへっています。 今年の4月までは、ひっきりなしにヨーロッパに行っていたので、映画はもっぱら飛行機のなかでみていました。ことし3月にアムステルダムに行った時か、そうだ、4月にロンドンに行った時に、エミネムの8 Miles をみて、ヒースロー空港でおりたら、ブルックリンのヒップホップ・アーティストがいて、おなじリモで会場まで行きました。リーダー格のかれらの一人が喋りまくっていましたが、話し相手を、nigger とか son とか絶えず呼び続けて話していたのが印象的でした。その後で、帰ってから、8 Miles の評を読んだので印象に残っています」。
(20世紀フォックス試写室)



2003-07-16

●ホテル (Hotel/2001/Mike Figgis)(マイク・フィッギス)


◆前回は変わっていなかったが、スクリーンの前に置かれていたBoseの大きなパイプ状のウーファーが、EVの箱形と取り替えられていた。
◆久しぶりにオスギの大声が聞こえた。誰にでも聞こえるように言っているのだから書いてもいいだろう。「この映画はアート系だって言うから、ならあたし向きねって言ってやったわ」。
◆この映画は、みな「さっぱりわからない」と言うが、西欧のインテリ・スノビズムのスタイルで作られており、ジョン・ウェブスターの『マルフィ公爵夫人』が下敷きになっていることを知れば難しくはない。が、この戯曲をシェイクスピアの戯曲のように「教養」的に知っている者は日本では少ないだろうから、どうしても「難解」ば印象を持ってしまう。
◆しかし、ミュージック・ビデオに慣れた者には、内容がわからなくても、けっこう楽しめるのではないか? リズムがいいし、気になる図柄やショットがたくさんある。ホテルの地下に人間の腕らしいものが薫製のような形で釣り下げられている一角があるとか、ホテルに到着したばかりのジョン・マルコヴィッチが、ホテルの泊まり客といっしょに食事をするシーンで、なぜか彼だけが鉄格子の仕切りの向こう側にいること――そして、それ以後、全く姿をあらわさないこと等々。
◆とにかく、マイク・フィッギスは、糞まじめに映画を作る気ではない。いろいろ「実験」をやっているように見えるが、既存のテクニックを遊んでみせているだけだ。しばしば話題になる4分割画面にしても、特に新鮮味があるわけではない。これは、ブライアン・デ・パーマがさんざん極めてしまったではないか。ただし、プレスによると、この画面の撮影のとき、経費節減でワイヤレスマイクを出演者の数だけ用意できなくて、フィッギスの発案で各自がMDレコーダーを持ち、それぞれに録音し、最初に入れたカチンコの音で頭出しをして合わせたという。これは面白い。
◆この映画が「スクロプトなし」で出演者のアドリブで作られたという話は真に受けることはできない。観客にとって、それはどうでもいいことなのだが、そういう情報が流れるということは、この映画に対する観客の姿勢を安易にする。結局、この映画は「パーティ」としての映画にほかならない。出てくれる俳優をそのスケジュール次第で登場させ、1本の映画に仕上げる。今回はそれが成功しているが、こんなことばかりやっていると、フィッギスも、リュック・ベッソンみたいにダメになってしまうかも。
◆あり意味では、出来そこないの『8 2/1』(フェリーニ)のようなところもある。
◆不可思議な「ホテルの観光ガイド」役のジュリアン・サンズはなかなかよかった。
(メディアボックス)



2003-07-15

●28日後・・・ (28 Days Later.../2002/Danny Boyle)(ダニー・ボイル)


◆イントロは、いくつものビデオスクリーン。そこに暴動や処刑などの(おそらく実際の)残酷なニュース映像が次々に映っている。それを見ているチンパンジー。どうやらその頭脳と映像装置は直結しているらしい。カメラが引くと、そこが、ロンドン郊外(?)の霊長類研究所であることがわかる。そしてそこに、動物愛護活動のアクティヴィストが忍び込んで来る。実験台になっているチンパンジーを解放しようというわけだ。その様子を発見した研究員が、必死で「そんなことをしたら大変なことになる」と警告するが、檻を開けてしまい、アクティヴィストの一人がかまれる。10秒もしないうちに彼女は、変身し、まわりの人間にかみつく。そのチンパンジーは、怒りの「ウィルス」を植えつけられており、それが伝染すると、人間は、ただちに怒りのマシーンに変身し、人を襲い、殺す。
◆ダニー・ボイルは、『ザ・ビーチ』の監督だが、この映画に共通したテーマをあつかおうとしているように見える(少なくともイントロまでは)。ここでは、動物愛護運動の無自覚な解放主義が批判されているからだ。しかし、『ザ・ビーチ』で、集団を組むと内部から必然的に「スターリン主義」が生まれ、悲惨な内ゲバに至るといった(ある面では正しいが)ステレオタイプに走りがちな感じがあったように、動物愛護運動に対して一面的である。今回は、それが、全体の方向を極度に単純なものに追いつめてしまった。
◆安い作りに驚く。アイデアも、これでは『ゾンビ』とあまり変わらないではないか。交通事故後28日間意識不明で病院のベッドに横たわり、目が醒めてみると、ロンドン市内から人影が消えていたという市街のシーンが「すごい」というので期待したが、『バニラ・スカイ』の方がもっとリアルだった。人払いして撮ったのと、人気の少ない早朝にビデオで撮って安くデジタル処理したとの違いが歴然。ただし、わたしが見たプリントは、ちゃんとした社内試写なのに映像がやけにネムく、もとのフィルムはこんなではないのかもしれない。
◆こう言ってしまうと元も子も無いないので、多少積極面に触れると、人間は孤独では生きられない、助け合う必要があるということを一つの極限状態で実験しているところか。『ザ・ビーチ』にも共通するテーマである。ただ、そのなりゆきが最初から読めてしまうところがこの映画の底の浅さだ。観客を「罠」にはめるところもない。
◆かつてソル・ユーリックがわたしへのメールで言っていたが、人類は、ウィルスのようなものの増殖によって内部から死滅するかもしれない。SARSはその一端をかいま見せてくれたが、これは、核爆発より致命的かもしれない。地球上に人間が持続的に生存しているということの確率は、生命体全体のなかで起こることからすれば、ほとんど奇跡的な偶然にすぎないからだ。
(20世紀FOX試写室)



2003-07-14

●踊る大捜査線 THE MOVIE 2 レインボーブリッジを封鎖せよ!(Odoru daisosasen the movie 2/2003/Motohiro Katsuyuki)(本広克行)


◆警察ドラマというよりも、地域と縁深いローカルな湾岸警察署と、中央集権的な警視庁とをシンボリックに対照し、一方的に中央の論理を押しつける動向がもはや有効性をもたなくなったことを「わかりやすく」見せるとこるが評価の分かれ目。いまの会社組織から官公省庁まで頭の上ではコンセンサスになっている動向を絵に描いたように見せてくれる点では、よく出来ている。
◆織田裕二が主演する映画では一番いいかもしれない。殺人事件の捜査指揮で本庁から乗り込んで来る、警視総監直々の息がかかった(女性を全面にすることが社会的風潮なので)女性管理官・沖田仁美(真矢みき――好演)の態度がいかにも高飛車で、「欧米近代主義」なので、どうせ反発をくらい、退陣するだろうということが最初からわかる。その意味では、彼女がどのように退陣するかをながめるサディスティックな「ゲーム」の様相を呈してきもする。「組織に感情はいらないのよ」「事件は会議室で起こる」(青島=織田裕二の「事件は現場で起こる」のアンチテーゼ)、「・・・しなさい」が口癖の30女というのは、女が実際に力を能動的な力を持ちはじめた状況では、特例に近い。
◆湾岸警察署の刑事たちは、足での捜査に力点を置く。本庁の沖田は、お台場の街のすみづめまで配置した監視と盗聴の装置を使って犯罪捜査と都市管理ができると主張する。この映画が面白いことは、必ずしも2項対立的なドラマづくりをしてはいないことだろう。たとえば、警視庁が市民のプライバシー侵害を隠しながら推進する監視・盗聴システムは、この映画で沖田の印象を悪くさせるためだけのエピソードではない。今回の長崎での12歳の少年による幼児突き落とし殺人で使われたように、監視カメラが今後犯罪捜査で使われるうようになる度合いはますます高まる。その動向を逆転することはできない。一面で疑問をなげかけながら、けっこうその機能の凄さを描いてもいる。それにしても、『デコーダー』ではまだSF的雰囲気をつきまとわせていた監視システムが、具体化してしてしまった。
◆もうひとつ、この映画で起こる犯罪は、お台場内の企業でリストラされたかつての勤め人が会社や時代への復讐の意味で行なわれたことになっている。その描き方はあまり明確ではないし、逮捕劇そのものにウエイトが置かれてはいないのだが、しかし、「犯人グループ」が、「リーダーを持たない組織」「各自が自己決定権を持ち、目的だけを共有している」ような「組織」だという点が面白い。犯人の一人は言う、「リーダーがいるから個人が死んじゃうんだ」。こういう発想は、もともとアナーキズムにあったが、今日の直接的な出発点は、1970年代にイタリアで展開した「アウトノミア」運動である。ちなみにアルカイダ的なゲリラ活動の源流のこの運動の負の側面にある。正の側面は、もっぱら企業や国家が利用し、運動そのものは、まだその展開を待っている。
◆多中心的なこうした組織は、いまでは、(少なくともアメリカでは、これまで最も中央集権的だった)軍隊にまで取り入れられている。むろん、日本の警視庁も、もはや、この映画のようには中央集権的ではなくなりつつあるのだろう。だから、この映画は、「安全」に警視庁をからかうことができる。
◆プレスでも描かれているが、この映画のデテールは、楽しめる。盗犯係巡査部長の緒方(甲本雅裕)が、抱えているビデオのタイトルは、『座頭市牢破り』である。いまの警察ですでに実行されているのだどうか知らないが、湾岸警察署の入口には、日本語・英語・ハングルの3表記の表示がつけられている。
(東宝8階試写室)



2003-07-08_2

●呪怨2 (Juon/2003/Shimizu Takasi)(清水崇)


◆受付の女性が、やけに自信なげにプレスを渡すので悪い予感がした。プレスが、香典袋に入っているのも縁起が悪い。こりすぎて裏目に出るというやつにならないか? 案の定、作品は最低。いさぎよく途中で出て行った人もいたが、立つとスクリーンに頭が映る恐れがあるので自粛し、1時間半以上むなしさに耐えた。
◆イントロからして全然だめ。車のなかで酒井法子と斉藤歩が会話するところからはじまるが、その会話がそらぞらしい。その車が突然猫を轢くのだが、離れたところから映す猫の死体が、毛糸のかたまりのようで全然気持ちが悪くない。むろん怖くなどない。そのときは意図的にそうしているのかと思ったが、そのあとも、とにかく映像が安く、たびたび出てくる白塗りの子供の化け物などは、映像を使っているのもかかわらず、授業中の教室に突如出没した舞踏家・吉本大輔氏の「怖さ」(女子大生などキャアキャア言ってたからね)の足元にも及ばない。
◆あまり意味がないと思うのは、酒井が住んでいる家の家具や台所の古さ。むろんあえてそうしているのだろうが、食事にカヤのようなカバーをしたり、そのなかに見える焼き塩鮭とか、こたつ、石油ストーブ、鴨居の先祖の写真等々、一時代まえに時間を設定しようとしているとしても、意味が見えない。
◆「おどろおどろしい」ことをねらって変なものを出しても、安手のおばけ屋敷の人形のようで、むしろ笑いが込みあげてくる。『富江』にしても『スクリーム』にしても、こんなにひどいことはなかった。
◆つぎつぎに人が死ぬが、恐怖はむろんのこと、哀れさも悲しさも驚きもない。ああ死んじゃったのかという感じ。
(映画美学校第1試写室)



2003-07-08_1

●レボルーション6 (Was tun, wenn's brennt?/2001/Gregor Schnitzler)(グレゴール・シュニッツラー)


◆イントロの16ミリの記録映像風のクリップがなかなかいい。それは、1987年のベルリン、クロイツベルク地区の光景。ベルリンの壁ぎわに位置する地帯にあるスクウォッター(空家占拠者)のビル。壁にはAに丸のアナキー・マーク。そこに住む6人の活動家やアーティストがデモをして警官隊ともみ合ったり、石を投げたりするきびきびしたシーンが映り、その一人にカメラが焦点を当てながらクロウスアップし、ストップモーションになるというしゃれたスタイルで、「Gruppe36」(グループ36)という映画撮影を主にして集まり、マッハナウ・シュトラッセ36のスクウォッター・ハウスに住んでいた6人を紹介する。彼らは、圧力釜のなかに除草剤や硝酸カリウム(同時に砂糖を大量に入れるのが秘訣とか)を入れて「爆弾」を作る。いかにも80年代的な「なつかしい」映像である。
◆わたしがクロイツベルクを初めて訪れたのは1984年だったが、当時は警官隊がこのあたりのスクウォッター・ハウスを急襲し、活動家を逮捕したり、家宅捜索するのがひんぱんに行なわれていた。1981、2年はもっとすごく、このあたりに数百のスクウォターハウスがあった。だから、この映画の古いフィルムクリップの時代設定が1987年になっているのは、少し遅すぎる気もする。ただし、ベルリンの壁の崩壊を前にした時代には、一面でふたたび街路が活気づいたことがあったから、かならずしも不正確だとはいえないかもしれない。
◆イントロが終わると、時代は15年後の現代になる。機動隊の放水車に轢かれて両足を失ったホッテ(マーティン・ファイフェル)と彼を助けるティム(ディル・シュヴァイガー)は、家主から毎日追い立てを食いながら、同じ建物に住んでいる。活動家としての理念を捨てていないかのよう。しかし、他の4人の生活は変化している。マイク(セバスチウアン・ブロンベルク)は売れっ子のデザイナー。キラキラのオフィスで天才めかした嫌みな自己主張を楽しんでいる。フロー(ドリス・シュライツマイヤー)は、シングルマザーを気取り、流行のブランドものを着たキャリアウーマン。テラー(マティアス・マシュケ)は、検察官の階段を上ろうとしている。ネレ(ナジャ・ウール)だけが、かつての活動家としての志を維持しながら、小規模の託児所をやっている。とはいえ、みな「危ないこと」にはもう手を出さない。ところが、そこに予期せぬ出来事(見てのお楽しみ――ドラマのアイデアとしては奇抜)が起きる。それは、「過激な活動家」としての彼や彼女らの過去を暴き、逮捕まで行くかもしれない。
◆その事件と6人の関係は、最初不明だが、かつての「宿敵」でいまでは定年間近い刑事マノフスキー(クラウス・ルヴィッシュ)が事件と彼らとの関係をかぎつける。6人にとって、対策がせまられる。そして、そのとき、とりわけ「日和見」っている4人はどうするか? これが、映画の見せ場。
◆かつての「連帯」が復活するのは、ありがちなプロセスだとしてもいい。問題は、警察との攻防が子供じみていること。警察内で、老兵のマノフスキーとニュージェネレーションの刑事とが張り合い、ヤッピー的な後者が最後に大失態を見せるのは、非現実的。6人は、警察署に忍び込むが、ドイツの警察はそんなに甘くない。
◆一体にこの映画、発想が70年代風だ。ヤッピーの登場に嫌悪を示し、ヤッピー(新人類)批判をするときのパターン。しかし、80年代にはいけすかないで拒否できたヤッピーも、いまでは社会の支配層になっている。こういう批判は壁の向こうには達しない。現実には、ヤッピーに転向したマイクやテラーやフローは、こういう事態になっても、決してティムやホットらとは再連帯しないだろう。その意味で、この映画は非常にノスタルジックである。むしろ、こういうところが70ー80年代の運動のダメなところだったのではないか、という思いがわたしなどはする。
◆ここに試写室は明らかに設計ミス。慣れた人は夏でも毛布を持参する。冷房がそれほどきつすぎると思えないギャガの試写室では毛布を用意しているが、ここは自社作品の試写よりも貸試写会場になる場合が多いので、そういうサービスはない。とにかく、夏でも冬でも、外の隅田川の水面から風を取り込んでいるのではないかと思わせる湿りきったいやな風がさら~と吹き込むのだ。
(ソニー・ピクチャーズ試写室)



2003-07-01
●リード・マイ・リップス (Sur mes levres/2001/Jacques Audiard)(ジャック・オディアール)

◆女(エマニュエル・ドゥヴォス)が補聴器をつけるアップのシーン。が、単なる「アップ」ではなく、妙に身体的であり、場所の存在も明確にわかる。そこは事務所。映画の音は、補聴器と彼女の耳の状態と相関的。補聴器をはずすとすべての音がこもった音になり、彼女が難聴であることがわかる。彼女は猛烈忙しい。電話も次々にかかってくる。補聴器を調整しながらてきぱき(しかしストレスが溜っている表情)こなす。そのテンポはこの映画のきびきびした(しかし暗さも秘めた)独特のテンポを象徴してもいる。
◆しかし、これは、あくまでわたしの印象にすぎないのだろう。隣のおじさんは、映画の最中、15分に1回ぐらいの割合で腕時計を見るのだった。いや、ひょっとすると、テンポの間合いを測っていたのかな? いろんなお客がいるねぇ。
◆社長に呼ばれ、忙しければ助手を雇ってはどうかとすすめられる。フランスの会社(ここは不動産関係)助手などを雇う場合、自分が職安に行き、個別に以来するものらしい。数日後、一人の男(ヴァンサン・カッセル)が訪ねてきた。腕に入れ墨がある孤独でやや粗野な感じ。すでに彼女の名が「カルラ」ということが、社長との会話で告げられる。カルラは、最初、デリバリーの人間かと思うが、この「ポール」と名乗る男は、職安から回されてきたのだった。「タイプはできるか?」「どんな表計算ソフトをつかってたの?」といった形式的な問いに対してがあいまいな答しかしないこの男を雇うことにする。
◆カルラは、会社では暗黙に差別されている。食堂で食事をしていると、遠くの席の同僚が彼女の悪口を言っている。聞こえないと思って言っているのだが、彼女は読唇術ができるので、言っていることがわかってしまう。ポールが来てからは、彼と一緒に食事をする。彼は、刑務所から出所したばかりであり、保護監察官のもとに通っている。(この保護監察官が出てくるところから、映画の視点が狂う。この人物の妻との話がときどき挿入され、その結末も描かれるが、どうしてこの人物に焦点を当てる必要があったのだろうか? この部分だけが、わたしにはこの映画で納得のいかないところ)。
◆カルラが出社すると、トイレの前から妙な感じで出てきたポールを見て、クロセットルームを開けると、そこに寝袋があった。彼は、そこで寝泊まりしていたのだ。彼女は、彼に知り合いのアパルトマン(改装中)に住む手配をする。ポールは、これはてっきり「見返り」を当てにしていると思い、彼女を抱こうとするが、彼女にきっぱり断られる。この映画、カルラが友人の女性からその恋人のことなどを話され、たきつけられ、自宅で裸になったり、新しい靴を履いたりして自己満足に陥っているが、ポーラと性的関係に陥ることはない。彼女はダンスが出来ないことをコンプレックスに思っている。
◆しかし、彼女は、その手の(日本映画でいえば、たとえば藤山直美とか市原悦子などがはまり役の)暗いブス女(失礼)とは違う。というのも、いくら身をやつしたとしても、美形のエマニュエル・ドゥヴォスが演じるのだからそうはならないのである。ヴァンサン・カッセルにしても、「粗野」は装うが、知的な俳優であり、ヴィンセント・ギャロ風のセクシーな俳優で、2人の物語は、「醜女と醜男」の物語にはならない。
◆話は、やがて、カルラが、自分の手がけた仕事を横取りする同僚を出し抜くためにポールに盗みを依頼し、他方ポールの方は、彼女の読唇術を利用してヤクザの金を奪う大博打に彼女を巻き込むといったドラマティックな展開になる。ある点ではフィルム・ノワール風であり、ひねったラブストーリーでもある。そのどちらでもない新しいジャンルを形成する一歩手前ぐらいまで達している作品。
◆終わって、小雨降る渋谷を散歩。KEY渋谷店のエフェクターなどのコーナーをのぞくが、目新しいものはない。渋谷は変わったが、渋谷育ちで、この試写室のすぐそばにあった小学校に通っていたわたしには、親しみのある場所。古書センター、道玄坂、細い路地裏を歩きまわり、最後はTOWER RECORDSへ。わたしも参加したRADIOTOPIAのCDが出ていたので買う。ただし、このCDは、ARS ELECTROBICA 2002の側から参加したアーティストたちの演奏を集めたもので、わたしは、KUNSTRADIOがこれとリンクした"RADIOTOPIA LONG NIGHT"の方に参加した。
(アミューズピクチャーズ試写室)


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