粉川哲夫の【シネマノート】
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2004-10-20

●海猫 (Umineko/2004/Morita Yoshimitsu)(森田芳光)

Umineko
◆吹き降りの雨のなかを有楽町駅から東映へ。ほとんど仕切りのないオフィスの通路を歩いて試写室へ。見終わって外に出たら、完璧に嵐になっていた。今月は、月末日本にいないので、本作が今月の締めになりそうだが、今月のページをクリックするとこの映画評がトップに位置するのは、本意ではない。月曜にもう何本か見なければならない。が、Radio Re-Volt ("revolt"を"re"と"volt"にわけたのは、"volt"に"vote" [選挙]をかけているらしい。つまりラジオによる「再=選挙」→反ブッシュである)で話をする準備で映像や音の編集に追われていて、出発の前日に映画を見れるかは不確定。あとは、アメリカで見て、書くかだ。
◆婚約者にいきなり結婚の破棄を告げられたショックから言語障害を起こして故郷、函館の病院に入った野田美輝(ミムラ)は、婚約者(高山修介)が言った言葉が気になり、病院に見舞いに来た祖母(三田佳子)に筆談ボードに書く。「お母さんに、何があったの」。ここから、祖母がロシアに渡り、ロシア人とのあいだにもうけた野田薫(伊東美咲)、つまり美輝の母のことを物語ると形で映画は進む。そして、「母は病死した」と思っていた美輝には未知の出来事が明かされる。
◆問題は、この映画(原作は谷村志穂の同名の小説だが、小説では可能でも、映画では無理という設定がある)は、基本的なところをまちがえていると思える点だ。だいたい、婚約者が、「お前のおふくろは病死じゃなくて事故で死んだんじゃないか」といった実に一方的なタンカで婚約を破棄することなどできるのか? それが破棄の山場だとしても、もっと裾野を描かなければ、なんだこいつ!?という印象しかあたえない。そして、それをそのまま受け入れ、病気になってしまう美輝も、わからない。もっとわからないのは、もし婚約者がそんなタンカを切ったとしたら、それがどういう意味なのかを訊くのが普通だろう。「事件」の真相も知らずに、ただ引き下がり、病気になってしまうなんて、まるで昔の「封建ドラマ」ではないか。このへん、何か、森田芳光は、勘違いをしている。
◆「事件」は、美輝が3、4歳(もっと上かもしれない)のときに、彼女の目の前で起こり、それ以後、彼女の生活も大きな変化を起こすのだが、それを彼女は全く覚えていないし、誰からも訊いてもいない。これも不自然。映画は「不自然」なことをいくらでもやるし、それが映画でもあるが、この不自然は、意図しない不自然で、何の意味もない。
◆こういう表現上の理不尽は、一杯ある。函館の役所に勤めていた若き薫は、「青い目をしている」(その実、伊東美咲は、決して「外人」ぽくないし、目も「青く」はない)と窓口の客に絡まれるが、かたわらで見ていた赤木邦一(佐藤浩市)がその差別的な客を排除し、2人が知り合う。それはそれでいい。が、北海道の南端の南芽部(みなみかやべ)でコンブ漁をしている邦一のところへ嫁ぎ、すぐにコンブ漁に出る(「コンブ漁は夫婦でやるもの」だという)が、都会育ちの彼女には、つらさ以外のなにものでもない。しかしですね、写真結婚とか見合い結婚をしたわけでもなし、時代も1980年代なのだから、これは、(すくなくとも映画の描き方では)リアリティがない。邦一と結婚することを自分で決めた以上、そんなことはわかっていたし、これだと、つらさをつくり、そこから別のストーリー展開をするために設定したプロットとしか思えない。
◆おそらく、原作がそうではないから、こうなったのだと思うが、邦一は、見合い結婚で嫁いでみたらすごい酒乱で暴力の毎日だったというような典型的な「ひどい男」ではないし、白石加代子が演じる姑も、(白石を起用したにもかかわらず)特に「嫁いじめ」をするわけではない。だから、彼女の「境遇」に同情する邦一の弟、赤木広次(仲村トオル)の態度に説得力がない。彼は、漁師の仕事を嫌って函館の鉄工所に勤めながら絵を描いているという「繊細」な青年という設定。また、この結婚には最初から反対だった薫の弟、野田孝志(深水元基)の態度もストーリー展開のためだけという無理が感じられる。
◆孝志は、函館のロシア正教会によく通い、薫をモデルにした「聖母像」を描いたりしているが、彼とキリスト教の関係も、ただの書き割りという感じ。
◆薫は、邦一を憎んでいるわけでもない。場違いに「濃厚なセックスのシーン」もある。だから、2人の不幸は、運命的なものだと言いたいらしい。映画も小説も、決して「幸福」にはなれないカップルの「運命」を描くのが好きだ。そういう「運命」の描き方には、定石があるが、それも守らず、といって新味を出せたわけではないので、何なんだいという気持ちにさせられてしまう。
◆わたしが唯一面白いと思ったのは、2人の子供を抱えて家を出る決心をした薫を追って来る白石加代子が、雑貨屋(そこでタクシーを頼む)のガラス戸を開けるとき、ほんの一瞬、白目を剥いてしまうシーンだった。これは、白石が早稲田小劇場時代に得意として表情。うっかり出てしまったのだ。むしろ、そういう姑の設定なら、もっと面白くなったろう。
(試写室)



2004-10-19

●マシニスト (The Machinist/2004/Brad Anderson)(ブラッド・アンダーソン)

The Machinist
◆出がけに高崎俊夫さんからメール。「シネマノート」を本にするのをしぶっているわたしをはげまし、「末井昭の『絶対毎日スエイ日記』などは、やはりネット上の日記をそのまま、まとめたものですけれど、本ならではの圧倒的な面白さがあります」、と。しかし、わたしはどちらも読んでいないが、もし「本」のほうが面白いとしたら、そのネット版は「本」のための予備メディアであって、ネットメディアとしては中途半端なものだったのではなかろうか? それとも、どちらもそれぞれのメディアとして面白いのだろうか? わたしの「シネマノート」は、「本」でできないことをやっているのだから、それを「本」にするとしたら、その飛躍に特別の意味が発見できなければならない。それを実現する方法を、いまのわたしには発見できないから、せっかくのオッファーにOKできないのだ。「本」メディアがもう終わりだとは決して思わないのだが。
◆最近のヘラルド試写室は、ソニーの試写室のように、ひんやりした微風がただよっている。いや、これは象徴的な意味ではない。あまりお客の多くない席で本を読んでいると、急に、ヒューゴー・ズッカレリの「ホロフォニックス」サウンドを聴いたような感じがして、うしろをふりむくと、雑誌編集者っぽい女性が、透明のポリパックからはみ出させたサンドウィッチかなにかを遠慮しながら食べているのだった。空間の位相とそのポリパックの物的特性とがたまたま合って、奇妙なレゾナンス(共鳴音)を生み出したらしい。ふしぎな感覚体験。が、その女性は、試写のあいだづっと「ヘラルド式鑑賞法」(足を前=つまりわたしの座席の背に接触した状態で映画を見ること)をつづけ、わたしは、例によって映画のふしめふしめに彼女の感情の動きを感じさせられるのだった。
◆「マシニスト」というタイトルを見て、すぐに思いだしたのは、フェリックス・ガタリの「マシニック」(「機械状」と訳される)という概念だった。これは、通常の「マシーン」 とはちがう。ガタリによれば、「無意識」を「機械状無意識」(l'inconscint machinique) といいなおすのだが、彼によると、「それは、単にそこに宿されているものがイメージや言葉だけではなく、あらゆる種類の機械装置であり、これらの機械装置によって無意識はこれらのイメージや言葉を産出したり、再現したりするように仕向けられるということを強調するためである」(高岡幸一訳『機械状無意識』、法政大学出版局)。
◆ガタリによれば、無意識というのは、精神分析の専門家や「制度化されたディスクールの中に膠化してしまった『無意識』」などではなく、「個人の内側にあって、その人が世界を知覚したり、自分の身体自分の領土や自分の性を体験するやり方においてのみ働くだけでなく、夫婦や家族や学校や近所や工場や競技場や大学等の内側にあっても働くものなのである」。だから、無意識は、フロイトやラカン流 の定義とは反対に、「未来に向けられ、その寿命は可能性そのものであり、言語活動をかすめる可能性でもあり、同時に皮膚を社会体を宇宙空間・・・をかすめる可能性でもあるのである」。
◆さて、こんな先入観から入ってこの映画を見たとき、この映画は、ガタリの「マシニック」と呼応し、反響しあうところはあったのか? かなりあったが、最後はせっかくの呼応・反響関係が否定されるような終わり方をして、がっかりさせられた。だから、こういう映画は、最後の15分間を見ないで、席を立つのがいいだろう。かつて、わたしは、文筆を専門にいとなんでいたとき、日に何本もの原稿をかかえ、編集者に原稿を手渡す(かつてはみな原稿は手渡すのがあたりまえだった)ために2時間も映画館ですごすことができないことがあり、仕方なく、同じ映画を3度に分けて見たことがある。そういう映画の見方もあるのであり、最後を見ない見方もあるということです。
◆クリスチャン・ベールが、減食をして30キロやせたというだけあって、1年近く眠っていないという設定(それは、本人がそう言っているだけと受け取ることもできる)の主人公トレバーは、カフカの断食芸人のような体をしている。眠らないといっても、ちょっとした拍子にうとうとっとしてしまうシーンがあり、全く眠らないわけではない。睡眠が欠乏すると、半睡状態が訪れる。わたしも、コンピュータのトラブルなどに深入りして2日ぐらい寝ないことはよくあるが、3日目ぐらいになると、この半睡状態にひんぱんに襲われるようになる。人と話していても、考えていること、記憶、想像などがいりまじり、妙なことを口走ってしまう。この映画は、トレバーの「半睡状態」を彼の意識の視点から描いていると見れば、話は簡単だ。
◆ジョイスにしてもプルーストにしても、むろんカフカにしても、「半睡状態」のなかで明瞭になる(顕在化する)「機械状無意識」を言語にしているわけだが、そうした「伝統」からすると、この映画の技法は、それほど新しいわけではない。彩度(サチュレイション)を下げた(緑系が少し強い)カラーの画面は、いかにもという感じで、わかりやすい。しかし、無意識にせよ、「半睡状態」にせよ、それが極彩色のカラーで知覚されるから問題であるという経験を持つわたしからすると、こういうスタイルはいかにもという感じがしてしまう。
◆カフカ的な「迷宮」に慣れた者なら、この映画の「謎」は心地よく見られる。トレバーは、毎日、工場で旋盤などを操作する仕事に従事している(まさに「マシーン」に従属している)。仕事が終わると、空港まで車を飛ばし、そのキャフェテリアでコーヒーとパイを食べ、中年のウエイトレス、マリア(アイタナ・サンチェス=ギヨン)に20ドルを渡す。体を横たえるのは、娼婦のスティービー(ジェニファー・ジェイソン・リー)のところで、ことが終わると(そのシーンはない)100ドル紙幣を置いて帰る。この孤独で単調な生活は、眠れないからそうなるのか、そうだから眠れないのかはわからない。が、そんなある日(あるいは夢の時間のあるとき)スキンヘッズの大男アイバン(じょん・シャリアン)が、彼のまえにストーカーのように姿をあらわすようになる。そして、そのアイバンに誘導されたかのように、ある「事故」が起きる。工場で、同僚のミラー(マイケル・アイアンサイド)が機械のなかに手を入れているときに、うっかりスウィッチを入れてしまい、ミラーは、腕の一部を失う。アイバンがすべての鍵をにぎっていると確信したトレバーは、アイバンを追い、追求するが、奇妙な事実に直面していく。まあ、このへんは、カフカ的意外性を見る楽しみではある。
◆マリアの息子をつれて遊園地に行くシーンで、そこに 「Route 666」というワンダーランドがでてくる。ここも、トレバーに主観的意識によってデフォルメされていることは言うまでもないが、それは、一種の「お化け屋敷」になっていて、面白い。遊園地などにあるゴーカートのような車に乗って、進むと、交通事故の現場を模した血なまぐさいオブジェや、淫売宿をドアー越しに見せる見世物とか、どぎつい舞台装置がつづく。蝋人形館の拡大版のようなこういう場所が実際にあるかどうか知らないが、あれば行ってみたいものである。
◆最初と最後に出てくる「Who are you? 」というせりふとメモが一つの基調になってもいるが、2度見ると、あるいは、2、3度に分断して見ると、さまざまな意味が引き出せそうな作品ではある。その意味では、DVDに(普通の映画のDVDのようにではなく)、コンピュータでランダムアクセスして見るような方式で配布するのに向いた作品だろう。
◆せりふがけっこうしゃれている。スティービーのところでトレバーが、「今日はここにとめてくれ」というと、彼が好きな彼女は、「off the menu」と言う。売春の「メニュー」外にしとく、つまり「サービスしとく」というわけ。彼女が、別の客に暴力をふるわれたらしく、顔に痣(あざ)をつくっているのを見たトレバーが、「ひどい」と言うと、彼女が、「occupation hazard」とひとこと言う。これは、直訳すると、「職業上の危険」ということだが、日本語では、岡田壮平の日本語字幕では、「仕事だから」と訳していた。「仕事だから(こういう危険も)しょうがない」という含みを凝縮したうまい訳だ。
(ヘラルド試写室)



2004-10-18_2

●オペラ座の怪人 (The Phantom of the Opera/2004/Joel Schumacher)(ジョエル・シューマッカー)

The Phantom of the Opera
◆試写状というのは、まだうるわしい精神を残している数少ないインヴィテイションの方式ではないか? この映画の「試写状」は、宅急便で、試写状とともにバラの花が一輪そえられていた。造花ではなく生の花である。むろんオペラ座の怪人がやる手口をまねたものだが、シャレているではないか。こういう贅沢をいつまでできるのかが、映画の将来の係数となるだろう。
◆もう一つの贅沢は、試写会の舞台挨拶でアンドリュー・ロイド=ウェバーの話を聞けたことだった。舞台挨拶というのは、大体、下品な司会者が低劣な質問をしてはるばるやってきたゲストを当惑させる(慣れているトム・クルーズなどはせいいっぱいサービスにつとめる)のがオチで、そのあとの「フォトセッション」とともに、こちらが気の毒な気持ちにさせられる。が、この日は、司会はテレビ局の女子アナで、原稿を読むような質問ではあったが、その質問が的確で、それにロイド=ウェバーとジョエル・シューマッカーが丁寧に応え、なかなかいい雰囲気だった。
◆『オペラ座の怪人』は、ロングランを続けたし、日本版も有名で、映画になったと聞いて、またかと思ったが、今回の映画化は、映画のために新たにソングをつけるなど、ロイド=ウェバーがかなり手を加え、それをシューマッカーが、単なるオペラの映画化ではなく、映画としてつくりなおすという気合いの入った作品になっている。
◆容姿は若干好みではないが、クリスティーヌを演じるエミー・ロッサムの歌が相当にいい。ラウルのパトリック・ウィルソンは少し頼りない。ファントムのジェラルド・バトラーは、まあまあがんばっているほうか。
◆冒頭、1919年のパリをモノクロで映し、1800年代にバックしてカラーになる技法は、めずらしくはないとしても、CGの使い方が微妙で、いい感じに仕上がっている。シューマッカーの演出は、ちょっとヴィスコンティを思わせる要素が出てきた。
◆ソングが『エビータ』に似てくるのは当然だが、ブロードウェイ節とオペラとの中間を行くスタイルは、見事だ。
◆オペラ座の怪人とは何者か? やがてオペラ座の「マダム」(ミランダ・リチャードソン)になる少女が、サーカスで見世物にされていた同年代の子供を助けてオペラ座の地下に隠す。彼は、音楽の天才で、やがて、オペラ座の出しものにも影響をあたえるようになる。しかし、このあたりは、「論理的」ではない。それがいい。そして、彼を「音楽の天使」と思って修業してきた女性がいる。クリスティーナである。彼女は、合唱団の一人にすぎなかったが、まわりでは、彼女の抜群の歌が認められていた。プリマドンナのXXXの声が出なくなったとき(それも怪人のしわざ――つまり彼は超能力がある)、クリスティーナはばってきされて、その実力を認められる。彼女の舞台を見てはっとするラウルは、実は、クリスティーナの幼友達で、おたがいに愛しあっていた。再会から急速に接近する2人。
◆ファントムが、2人の恋に嫉妬し、その「超能力」を発揮して、オペラ座をめちゃめちゃにするのは、単純なロジックではない。「嫉妬」という言葉は適切ではない。自分は醜く、ライバルはハンサムだから嫉妬するという表面的な筋書きの下にもう一つのロジックがある。師弟関係のなかで、教師が教え子の(あとから登場した)恋人に嫉妬するといった側面もあるが、それでもない。クリスティーナとファントムとのあいだには性愛はなさそうだ。ここには、たがいに異性同士だが、ちよっとゲイ的な愛が感じられる。それは、アンドリュー・ロイド=ウェバーのテイストかもしれない。つまり、ここには、どこか、ファミリーやヘテロセクシャリティへの憎悪がひそんでいるのだ。このへん、よく見ると、奥が深くて面白かった。
(よみうりホール)



2004-10-18_1

●エイティ・デイズ/80デイズ (Around the World in 80 Days/2004/Frank Coraci)(フランク・コラチ)


Around the World in 80 Days
◆試写状がくりかえし来るので、とうとう行くことにした。配給さんも本気のよう。というのも、総製作費120億円もかけたというのに、アメリカであまり評判がよくなく、日本でも受けがいまいち読めないかららしい。そこで、日本では、とうとう、日本語の吹き替え版をつくり、それを上映することになったという。だから、わたしが今日見たヴァージョンは、一般公開されないわけである。
◆一言で言うと、そう悪くはない。よくもわるくもこれは、ジャッキー・チェンの映画。発明家フィリアス・フォッグ(スティーヴ・クーガン)の助手という役だが、中国のシーンが多いし、英国人のたくらみで中国の村(チェンが演じるパスパルトゥーの故郷)から盗まれたヒスイの仏像(と訳されているが、みたところは大黒様のような感じの像)をチェンが奪い返すというプロットがからむからである。
◆英国の科学アカデミーを牛耳り、フォッグの発明を無視しつづけ、さらには、英国的植民地主義を露骨に体現しているケルヴィン卿を演じるジム・ブロードベントがなかなかいい(憎たらしい)味を出している。
◆トルコの王子を演じるアーノルド・シュワルツネッガーは、アルバイトか? フランスで会い、フォッグにつきまとい、恋人になるモニク(セシル・ド・フランス)は、3枚目。クーガンもあまり高い演技ではないから、丁度いいか。英国権力と結託しているシンジケートの黒幕を演じるカレン・モクもまあまあ。最後に出てきて、意外にいいのが、キャシー・ベイツのヴィクトリア女王。
◆ケルヴィン卿が悪辣なことをやるが、最後にヴィクトリア女王の裁定のまえに屈服するシーンは、水戸黄門的。それが、意外と「感動的」なのは、権威が理念や正義のヴァーチャルな保証人になるヘーゲル主義的な王権へのあこがれがわたしのなかにもあるからなのか?
◆パリのシーンは、チェンが壁つたいに建物を降りてくると、娼家の窓からなかが見え、娼婦のあいだにあきらかにロートレックとおぼしき男がいたり、ゴッホのフェイク、印象画への揶揄、チェンガシンジケートとアトリエで闘うなかで、アクションペインティングのようなものが出来上がってしまうシーン等々。
(ヘラルド試写室)



2004-10-12

●ハウルの動く城 (Howl's Moving Castle/2004/Miyazaki Hayao)(宮崎駿)

Howl's Moving Castle
◆先月から試写は回っていたが、宮崎駿作品ということでか、いつになくお客が多い。が、いつもとはちがうのは、いつもしっかりしたプレスシートが用意されるのに、この日は、一般用のチラシ1枚だけ。ある配給会社の宣伝の人が、「オバカな女の編集者でもそれを見ればそこそこの紹介を書けるような情報を提供する」のがプレスシートの役目だときいた。とすると、本作は、そんな「オバカな女編集者」が何も見ずに書けるほど、わかりやすいのかな?
◆たしかに、声を聞いただけで、倍償千恵子(ソフィ)、木村拓也(ハウル)、美輪明宏(魔女)、加藤治子(マダムサリマン)が声をやっているのがわかり、また彼女や彼らを意識したキャラクターづくりをしているのもわかる。原作はダイアナ・ウィン・ジョーンズの『魔法使いハウルと火の悪魔』だそうだが、脚色の段階で、彼らを意識していることはあきらかだ。だから、瞬間、アニメのなかのキャラクターの表情のなかに、(とりわけ)美輪や倍賞や木村の表情が浮かび上がるのだ。
◆映像的には見事というほかないが、ユニークさは、前作『千と千尋の神隠し』ほどではない。ちょっと、『スチームボーイ』とテレビの『アルプスの少女ハイジ』を混ぜたような感じ。
◆ジョージ・W・ブッシュとその一党が定着させた戦争の世紀への宮崎らしい批判のメッセージがあちこちに出てくるが、なんかつけたりのように見える。飛行軍艦が村や町を爆撃するシーンには、東京大空襲やイラク爆撃のイメージがだぶるが、そうした爆撃をあやつっているらしい魔法使いのマダムサリマンの存在がはっきりしない。結局、そういうことはどうでもよくなり、最後は、ソフィとハウルのラブストーリでしかないと気づくむなしさ。
◆帽子屋のお針子ソフィが、荒れ地の魔女によってしわくちゃの老婆に変身させられたのは、なぜなのか? その魔女が、そののち、ほとんど引退状態で、オトボケ役しか演じないのはなぜか? 心臓を売って魔法の術を身につけ、以後、人間と魔法使いとの分裂に苦しみ、それをソフィが救うという――西欧文学ではよくある「悪魔に魂を売る」というテーマだが、その救われ方がなんか安易ではないか?
◆物語る、読むという形でしかイメージ化できなかった魔法や幻想の世界が、映像技術の発達とともに、自由自在に形象化できるようになった。その結果、映像そのものが魔術になってしまい、たとえば、指させば、地が裂けたり、両手を広げれば空を飛んだりすることが、知覚的に経験できるようになった。つまり、映画では、魔術はあたりまえであり、目新しくないのである。だから、映画は、どれだけ「非魔術的」なことをするかで評価される時代になった。その意味では、宮崎駿は、状況への関係でも、また映画技術への関係でも、今回は、安易なところに停滞してしまった。
(東宝試写室)



2004-10-06

●TUBE チューブ (Tube/2003/Baek Woon-Hak)(ペク・ウナク)

TUBE
◆このページの基幹ネットサイトの調子が悪く、運営組織と交渉をしているうちに、時間がたち、3時半の試写に行くチャンスを失った。もう、新しいサイトを基幹にしなければならないと決心する。どうか、今後は、新アドレスのほうへアクセスしてください。ここなら、「停電」や「調整」と称してで平気で1、2日回線を停止するということはないでしょう。
◆イントロはなかなかいい。基本的には、香港=ハリウッド的な「劇画=激画」的アクション・ムービーだ。とにかく、主役のチャン刑事(キム・ソックン)はよく「動く」(move)。これは、アクション・ムービーの基本だ。ただし、チャンが、地下鉄に飛び乗ったり、線路に落ち、意識を失いながら、列車の警笛ではっと意識をとりもどし、即座に線路から身をもぎはなすといったシーンがこれでもかこれでもかと続くと、ドラマが何か嘘っぽくなってくる。もっとすごければ、あまりにすごくて笑ってしまうということもありえるが、それほどでもない。対する「悪役」ギテク(パク・サンミン)は、密かに組織された諜報部の工作員だが、情勢の変化で、その組織が不要になった国家は、その組織の存在を隠滅するために工作員の抹殺をはかる(このことは、ギテクのせりふのなかで示唆されるにすぎない)。妻や仲間を殺されたギテクは、その復讐のために地下鉄を乗っ取る。まあ、ハリウッド映画ではよくある設定だ。
◆チャン刑事にとっては、捜査のなかで恋人をギテクに殺されたという怨みがある。この彼に、地下鉄でスリなどをしてしたたかに生きている女インギョン(ペ・ドゥナ)がからむ。権力のためには人質を犠牲にしようとする組織の人間の卑劣さをそこそこに描き、組織の人間ではあるが、そういう卑劣さには抵抗する地下鉄コントロール・ルームの室長をソン・ビョンホがなかなか味わい深く演じている。
◆サブウェイものでは、ロバート・ショウが悪役を演った『サブウェイ・パニック』(The Taking of Pelgham One Two Three/1974/Joseph Sargent)という傑作があったが、『TUBE チューブ』には、この映画のような人質になった観客の味のある描写のようなものはない。監督のペク・ウナクは、『シュリ』の脚本と助監督をやっているが、監督は本作が初めてという。第1作らしく、いろいろなものがつめこまれすぎていることは否めない。次回作に期待しょう。
(松竹試写室)



2004-10-05

●砂と霧の家 (House of San and Fog/2003/Vadim Perelman)(ヴァディム・パールマン)

House of San and Fog
◆今月は、先月ほど映画を見られそうにない。月末に海外へ行かなければならない。大学もはじまった。大学のある国分寺から銀座かいわいまでは90分ちかくかかる。夕方6時の試写も無理である。ところで、目下、このサイトを独立させる実験をしている。このページの母胎となっているわたしのanarchyサーバー(大学のバックボーン回線につながっている)へのアクセスが増え、サーバーの負荷がヘビーになってきたのと、大学のバックボーンが停電だ、補修だとたびたびストップするのでとで、改善をせまられているためだ。新アドレス http:// cinemanote.jp をブックマークしておいてください。
◆「あのスピルバーグも号泣した」と試写状に書いてあったが、そういうメロ悲劇ではなく、むしろ(おおげさに言えば)ギリシャ悲劇風の悲劇であった。その意味ではしっかりした構成であり、なによりも役者たちの演技がすばらしい。が、「泣ける」映画ではないことは断っておく。
◆原作は、1999年に出版されたアンドレ・デェビュース三世の同名の原作であり、父親に死なれ、夫とも別居したばかりの女性キャシー(ジェニファー・コネリー)と、ホメイニのイラン革命で祖国を追われてアメリカに亡命したベラーニ元大佐(ベン・キングスレー)が主人公だが、確実にいまのアメリカの「悲劇」として見ることができる作品。
◆メタファー的にも、この映画は多くのことを語る。「砂」上にある「霧」につつまれた「家」とは、現代のアメリカの「家庭」である。すばらしい「家庭」を夢みさせたアメリカン・ドリームはもはや「霧」のなかにある。キャシーの父親は30年働いて建てた海浜の家を娘にくれたが、8カ月後にはなくなった。「父」なき娘は、結婚してすてきな「ファミリー」を築く夢をもちながら、それは夫との決別で夢果ている。他方、依然として、海外からはアメリカン・ドリームを夢みてアメリカにやってくる外国人がいる。ベラーニは、イランでの豊かな暮らしとはうらはらの道路工事の人夫や売店の店番のアルバイトをしながら、金を貯め、市民権もとった。妻(ショーレ・アグダシュールー)は家事に専念させ、息子はいい学校にやり、あとは、自分の家をもつだけのところまでやっと来た。が、それは、果たせぬ夢となる。
◆この映画が、ギリシャ悲劇風の悲劇であるのは、この映画で描かれる不幸が、すべて運命的な様相を呈しているからだ。キャシーがある日突然、郡の役所の係官の訪問を受け、税金未払いで明日その家を立ち退くようにと命令されるのも、ある種の運命のいたづらだった。彼女が、夫の別居の失意のなかで、郵便物を未開封で放置したことにも原因があったが、そもそも500ドルの未払いでそうした強行な処置を行い、すぐにその家を競売に出してしまったのは、役所のデータミスのせいでもあった。そして、郡の役人について来た警官レスター(ロン・エルダード)と彼女が出会ったのも、運命のいたづらとした考えられない。当惑し、事実上行くところを失ったキャシーに同情した彼は、次第に彼女と親しくなっていく。そして、ありがちだとはいえ、愛し会う関係にはいる。結婚し、2人の子供のいるレスターは、冷えはじめていた妻との関係を壊すことになる。一方、新聞で競売物件を見つけたベラーニがキャシーの家を手に入れることになったのも、運命のいたずらだろう。そうでないこともありえたが、ギリシャ悲劇は、このようにして起こる。
◆父に頼り、幸福な生活を送れた世代・階級であったキャシーが直面している現実。亡命者にとってのアメリカ。ごく平均的な家庭生活を維持してきたレスターの身に起こった不倫という出来事。そして、悲劇の大詰めとなる極めてアメリカ的な暴力。しかし、ここでは誰かが悪く、誰かがその犠牲者というわけでもない。アメリカという社会で生活していれば、当然のように起こることばかりだ。だから、ここでは、誰もめそめそ泣いてはいられない。
◆キャシーは、クリストファー・ラッシュが『ナルシシズムの文化』で描いた世代の末裔であり、そうとう甘えたダメ女ではある。レスターは、家庭内暴力に憤る「人道的」な警官ではあるが、警官という職業の気質は抜けない。ベラーニは、妻を働きにはださないメールショーヴィニストではある。それぞれに、問題がないわけではない。しかし、彼女や彼らが、選択できない要因にからめとられてドラマが進むのが、この映画の面白さだろう。
◆それでは救いがないじゃないか、というかもしれない。しかし、アメリカは、とりわけその政治は、これまで、本来は「運命的」としか言いようのない出来事を、特定の誰かのせいにし、その彼や彼女、そしてその果てには一個の国家、そしてそれが見つかれなければ実態のわからない「テロリスト」なるもの等々を「敵」として憎み、うさをはらそうとしてきた。ハリウッド映画は、完全にそのパターンをミクロに再生産してきたのであり、そういう形で、不幸を心理的に解消してきたのだ。しかし、すくなくとのこの映画には、このパラノイアとカタルシスの弁証法は見られない。
◆冒頭と最後に同じシーンが映る。呆然としたキャシーに近づいた警官が尋ねる。「ここはあなたの家ですか?」ここから時間がバックするが、最後のシーンで、彼女の答が聞ける。彼女はその問いに答える。「いえ、わたしの家じゃない」。彼女はそこに立っている。が、そこは、not my houseであるということは、彼女は、その瞬間において homelessであるということだ。そして、そのホームレス性が、それ以後、解消される見込みはない。
(銀座ガスホール)


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