テイク・ディス・ワルツ

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テイク・ディス・ワルツ評点:★★★★★メモ風にタイトルシンボリズム音楽未公開レヴューHOME: 粉川哲夫のシネマノート
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テイク・ディス・ワルツ

Take This Waltz/2011/Sarah Polly(サラ・ポーリー)

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メモ風に

◆夫を愛していないわけではないのに、やっていけなくなるのは、わがままからではなくて、2人で独占しあうという結婚制度がダメだからだ。

◆基本的にセックスがかなめになるが、セックスをしたかどうかは大した問題ではないはずなのに、結婚すると、それをことさらに言う。

◆マーゴ(ミッシェル・ウィリアムズ)は、取材先で知り合った男ダニエル(ルーク・カービー)に、空港が怖いという。あの広い空間を自分で歩いて行 くことが怖くて、体が悪いふりをして介護運搬のサービスで移動する。これは、空港→結婚のアナロジーであり、魅力された相手に出会っても、そこに 「移動」することができないためらいと不安をたとえている。

◆しかし、家庭/人生は、空港ではない。空港は、利用者を無視してつくられた空間だ。それは、家庭とはちがう。しかし、自分で作ったはずの家庭が、 いつのまにか空港のような勝手な空間になってしまうことはある。

◆ミシェル・ウィリアムズは、不安を表現するのがうまい。

◆2人という人間関係が無理になっている。ならば、3人を基本とする関係を試してみてはどうか?

◆マーゴとルー(セス・ローゲン)との関係は、一見睦まじいように見えるが、ルーが必死で関係を明るくしようとしているところがある。セス・ローゲ ンには適役だ。子供がほしいマーゴに対して、ルーはまだ早いと言う。

◆じゃあ、マーゴが出会ったダニエルが「一生の相手」となりそうは気配はない。この映画は、二人という関係に疑問符を付す。最後のシーンで、かつて 二人で来た観覧車に一人で乗って、晴れ晴れしているマーゴがいる。

◆トロントの街を舞台にしているそうだが、色を強調した画面は、絵本に描かれたトロントのようだ。あえて現実から少し夢の世界にずらすために映像効 果が使われている。

◆ダニエルは、アーティスト志望で、当面は、リキシャを曳いて、「モダン・ホーボー」(つまりはフリーター)をやっている。しかし、マーゴから身を 隠すために引っ越した先が、巨大なロフトなのは、どういうことか?どこでそんなところを借りる金を得たのか?まあ、映画だから、そんなことはどう でもいい。現実とて、論理的にわかりやすいことが起こるとはかぎらない。なんかうまいコネがあったのか。

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タイトル

◆原題をそのままカタカナにしたタイトルは、いうまでもなくレナード・コーエンの有名な歌のタイトルから取っている。では、コーエンはこの詩をどこから取ったかといえば、それはガルシア・ロルカの「短いウィーン・ワルツ」である。コーエンは、ロルカの死後50周年を記念して、この詩をみずから翻訳し、"Take This Waltz"の名で1986年にパリで最初の録音をした。

◆ロルカの原詩の英語直訳とコーエンの英訳とを比較しているサイトがあった→ http://www.webheights.net/speakingcohen/waltz.htm

◆コーエンの英訳は、原詩にかなり忠実だが、"Take This Waltz"のヒットとともに、この原詩が異性愛ではなく、同性愛の詩であることが忘れられた。原詩は、ロルカの、サルヴァドール・ダリへの果たせぬ愛が込められているという。ダリは、ロルカと性的関係があったが、ロルカはそれ以上にダリを愛していたにもかかわらず、ダリは相手にせず、ロルカは失望した。詩のなかにある「恋人よ  ぼくはお前を愛している 愛しているのだ」(鼓直訳『ニューヨークの詩人』福武文庫所収)は、そういうロルカの悲痛な叫びである。

◆監督・脚本のサラ・ポーリーが、映画のタイトルをレナード・コーエンから取ったことは明らかだが、ロルカの原詩のこうした屈折を理解していたかは不明である。

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未公開レヴュー

異性どうしであれ同性どうしであれ、愛しあうのが二人というのは不都合なのではないか? むろん、歴史上、一夫多妻制や一婦多夫制はあり、"メナージュ・ア・トロワ"を実践している三人組もいる。

しかし、シャルロッテ・ランプリングが、かつてブライアン・クームとランダル・ローレンスの二人の男と同じ屋根の下で暮らしていたのを非難されたように、二人でない関係は怪しまれる。

いや、それ以前にわたしたちの心と肉体のなかには二人関係が刷り込まれており、別に非難を受けなくても一人以上の相手を愛すると罪の意識を感じたりする。これはしかし、不思議といえば不思議である。

サラ・ポーリーの「テイク・ディス・ワルツ」でミッシェル・ウィリアムズは、この不条理をさりげなく実にコンヴィンシングに演じる。この作品は、どちらかというと善良な夫ルー(セス・ローゲン)と特に不満があるわけでもない生活を送っている妻マーゴがアーティストのダニエル(ルーク・カービー)と出会い、惹かれていくというつましいラブストーリーの形式をとっている。が、ラブだセックスだという描き方はしてはいないので、3人の登場人物の鬱積する思いがこちらを巻き込み、二人関係の不条理を思い起こさせるのである。ある意味、マーゴが浮かない顔をして物思いにふける最初のシーン(最後にも出てくる)を拡大解釈して、この映画の全体が彼女の空想であると受け取ることもできなくなはい。そしてそのとき、彼女の思いは、恋人や妻稼業をしている女性のゆらぐ心をとらえるだろう。サラ・ポーリーはなかなかうまい。

が、彼女は二人関係を必ずしも”人間の業”のようなものとはとらえてはいないと思う。むしろ、それが次第に崩れてくるだろうことを感じているようにみえる。

では、今後、三人関係が広まるのかというと、そうは思えない。

そもそも同じ屋根の下に複数の人間が暮らすという”家庭”の形式がもう終わりつつあるからだ。その形式だけは続いていても、そのメンバーたちはバラバラで、一つになっている事自体が無理なのである。

マーゴもルーもダニエルも、その身のうちには複数の人格が住んえいる。このスキゾ状態を”統合”しようとすればするほど、DVやはてしなく拡大する暴力を生むことがわかっている。戦争は、いまの”多人格的”状況をうやむやにする手段かもしれない。が、ならば、なぜこの状況をありのままに受け入れないのか?

マーゴたちが、それぞれの家に一人で住み、好きなときだけ会うのであれば、彼女らはスキゾのままでいいはずだ。最後のシーンで彼女は”スクランブラー”にたった一人で乗って、実に幸せそうな顔をする。

人力車って、実際に乗ってみるとわかるが、御者と乗る者との呼吸が必要なのだ。籠の場合はそれがもっと強くなる。つまり、人力車というのはある種の性的関係なのです。