終の信託

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終の信託評点:★★★★★医者と患者末期医療と検察言語の問題HOME: 粉川哲夫のシネマノート
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終の信託

終の信託(ついのしんたく)/2012/周防正行

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医者と患者

◆時は平成11年(1999年)の前後と決まっているが、場所は指定されていない。コンビナートのような建物が見え、煙突から煙がむくむくと立ち上っている。近所に河がある。呼吸器内科の医師・折井綾乃(草刈民代)と重い喘息をわずらう江木泰三(役所広司)の物語。

◆折井がもし同僚の医師(浅野忠信)に裏切られなかったら、彼女が江木に医者・患者以上の愛を感じることはなかったろう。ちなみに、浅野は彼でなければならない役は演じていない。ある意味、つまらない男の役だ。折井と江木の愛は、ある意味、信頼関係の成り立った医者・患者関係のなかでは、このぐらいなければやっていけないよと言える程度のものである。これを「愛の物語」と言われていは、ちょっと困ってしまう。

◆役所広司は、喘息の発作のシーンなど「迫真の演技」を見せようとするが、彼の演じる江木という男も、あまり面白みのある人間には見えない。オペラが好きで、プッチーニの「ジャンニ・スキッキ」についての薀蓄を披露するが、わたしが折井医師なら辟易するほどナルシシストである。病人だからかもしれないが、いい年こいて甘えんなよと言いたい感じ。その意味では、折井はよくこの男の面倒を見る。だから、それは、浅野が演じる同僚医師に裏切られたショックのせいだと思うのだ。

◆江木は、5歳まで満州にいて、終戦の年にソ連軍が侵入してきて、その銃弾で妹が死んだ話を折井にする。そして、撃たれて死に行くしかない幼い妹に母親が子守唄を歌っていたことを話し、自分にもいまわのときにはその子守唄を歌ってくれと頼む。それを折井は引き受けてしまうから驚きだが、こういう話って、わたしには嘘くさくて聴いていられないし、いい大人が他人に子守唄を歌ってもらうのなんて、相当アブナイ話ではないだろうか?  そのアブナサが突出して展開されるのならいいが、江木は妻子がいる「普通」の男という設定なのだ。普通に見える人でも、心の奥にはいろいろな問題をかかえているのですよと言われれば、そうですかと言うしかないが、そんな話は聞きたくない。

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末期医療と検察

◆若干医者・患者関係を越えた出会いのなかでふと江木が漏らした言葉――要するに無駄な延命処置をしないでほしいということ――を守った折井が、殺人罪に問われ、検事(大沢とおる)の取り調べを受けて、殺人の意志があったことになってしまう。ある意味で、ウカツな医師の話である。

◆折井医師は、江木が心肺停止状態で再入院し、蘇生には成功したが、意識を取り戻す見込がたたなくなったとき、家族に人工呼吸器をはずすことを薦め、家族も同意した。しかし、人工呼吸器を外したとたん、それまで植物人間の状態であった江木が、猛烈な苦しみをあらわにする。これは、意識がもどったための苦しみではなくて、呼吸ができないための無意識的な反応である。しかし、折井は、慌て神経活動を抑制するドルミカムを何度も注射し、患者を鎮静させたが、それが彼の死を招いた。

◆検事の論法では、答えはイエスかノーしかない。それは、司法制度というものがそういうものであって、基本的に機械である検事に微妙な事情など求めても無理である。検事の一次元的論法のまえで江木は<殺したのだね?>という問いに<はい>と答えてしまう。

◆任意の出頭を求めて、事実上の尋問をするのは警察や検察の常套手段である。この映画のなかでも、検事は、あざやかな手口で<私は・・・やりました>という江木になりかわった文体で「自供」の文書を作り上げ、署名と捺印を取り付ける。この<私は・・・やりました>という文章は、供述として裁判で使われ、検事が代読する。まるで、自分がすらすらと自白したかのような文章を読みあげるのだが、これは警察や検事の創作なのである。被疑者に唯一できることは、署名捺印の際に抵抗して、文章のディテールを直させるときだが、通常は、脅されたり、なだめすかされたりしてうっかり向こう側の作った文章を認めてしまう場合が多い。この結果、自分がやりもしない犯罪がでっち上げられることになる。

◆この映画は、そういうプロセスを淡々と描き、こぶしを挙げて検察を批判するよう表現はしない。わずかに、細田よしひこが演じる若い補佐役の目が<これでいいのかなあ?>とでもいうような疑問を表現するだけである。しかし、現実に、検察のやることはこれでいいということになっているのである。検事にとって、被疑者をどうするかは最初にストーリがあり、それをどう実現するかが問題であって、いいも悪いもない。大沢が演じる検事は、折井を待合室で40分以上も待たせ、精神的に疲れさせる。そのうえで、あたかも彼女が自分の意志で殺人を犯したかのような「自白」へ追い込むのである。

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言語の問題

◆検事がこういうものであることを知るならば、折井医師はお人よしすぎた。それと、この「悲劇」には、日本語と、西洋的な論理で組み立てられている法廷言語との差異の問題が介在している。そもそもこの映画のタイトルになっている「信託」は、日常語ではない。しかし、英語でこの言葉にあたるtrustは、立派な日常語である。"I trust ..."という表現は法律表現ではない。日本でアメリカ人が"I trust..."と言い、それを通訳が、<わたしは・・・信用します>と訳すと、それを聴いた日本人がその相手に一瞬むっとした印象をいだくなどということがある。しかし、西洋語の論理のなかで生きている人間は、最初から相手をトラスト(信用)しているということはありえない。信用しますという言語的なやり取りがあって初めて「信用」が成立するのである。それをさらに公然たるものにするのなら文章化しなければならない。

◆日本の場合、もう一つの問題は、口頭のやり取りに対して書かれた文章がアンバランスな重みをもっていることである。西洋語の世界では、言ったか言わないかは、書いたかかどうかと同じ重みがある。ある意味、日本では、誰が書いたかわからないような文章に三文判の捺印があればその文言が公的なものと認められてしまうようないいかげんさがある。

◆この映画は、オーラルな言語世界を信じきっている一人の平均的な女(エリート医師ではあるが、その言語感覚は平均的である)折井綾乃が、リテラルな文字世界(その極の一つが検察である)からはじき出され、攻撃を受ける話でもある。この構造は、別に、末期医療や訴訟社会化が進んでから生じたものではなくて、日本の近代以来かかえてきたものである。そのなかで、弱者は、つねに文字世界から同じ仕打ちを受けてきた。

◆映画が基本的に娯楽だとすれば、この映画には娯楽の要素が薄い。わたしが娯楽というのは、気分の解放をも含めた意味である。つまり、オーラルな言語を生きている折井は、検察的な文字言語の世界に抑え込まれた。彼女はそれに反発することも、逆襲することも、反撃することも、復讐するこおもできない。この問題をそんな安易な形で済まさないでほしいというのも、映画の一つのポリシーである。しかし、これだと、もっていきようのない怒りや鬱積を別の形で解消することになってしまいかねない。