ウォリスとエドワード 英国王冠をかけた恋

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ウォリスとエドワード
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ウォリスとエドワード

英国王冠をかけた恋

■W.E./2011/Madonna(マドンナ)

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邦題と原題

◆配給には申し訳ないが、邦題の『ウォリスとエドワード  英国王冠をかけた恋』というタイトルは不十分であるどころか、誤解を招く。この映画には、実在のウォリス・シンプソンとエドワード8世とおぼしき人物は登場するが、そこには厚いフィルターがかけられている。この映画の主人公はこのどちらでもない。主人公は、現代のニューヨークのアッパーイーストサイド(つまり金持ちの住むエリア)に住む医者の若い婦人ウォリス(アビー・コーニッシュ)であり、ほぼ鬱と断定してよい彼女が、夫ウィリアム(リチャード・コイル)との不和のなかである種の白昼夢としてウォリス・シンプソンとエドワード8世を想い浮かべ、ときにはウォリスとヴァーチャルな対話までするという形式になっている。だから、観客は、街を歩きながら、彼女がそうしたイメージを紡ぎ、ヴァーチャルな対話を通じて(それにロシアからの亡命者エフゲニー〈オスカー・アイザック〉との出逢いもある)ウォリーが自分を治療していくプロセスに立ち会うことになる。

◆原題のW.E.は、Wのつく3人(ウォリー、ウォリス、ウィリアム)とEのつく2人(エドワードとエフゲニー)を示唆しながら、WE(われわれ)にかけている。

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映画のスタイル

◆マドンナらしく、すべてがクラブのDJないしはVJのノリで展開する。主人公のウォリーが、メディア機器なしのDJ/VJだと考えればわかりやすい。彼女は、ディスクやデジタル素材を使うわけではないが、まずは、ニューヨークのサザビーでウォリス・シンプソンとエドワード8世の遺品オークションが開かれるラジオのニュース、それに興味をおぼえて訪ねた現場で見る展示品、実際のオークションなどなどを通じて彼女の頭のなかに醸成されるイメージや音がDJ/VJミックスの素材になる。

◆この映画への批判のなかには、シンプソン夫人とエドワード8世の部分の描写が不正確であるとか、安っぽいとかいうのがあるが、これは、ウォリスが想像した世界であるということを無視している。

◆だからといって、この映画をミュージックヴィデオ的なものと断じるのはまちがっている。むしろ、マドンナは、新しい映画のスタイルを作った。それが成功しているかどうかは別として、メディア的に踊りながら――感覚でダンスする――見るならば、その新しさがわかるであるようなスタイルをスケッチすることには成功している。ただし、そのために、この点をつかむことのできない批評家からは全く見当違いの評価を受けることになる。

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都市の遊歩

◆ウォリスが暴力をふるう夫を逃れて、エフゲニーのロフトに行く。そこで、彼の蔵書の一冊にライナー・マリア・リルケの詩集の英訳 "Letters to a Young Poet" を見つけ、ページを開く。これは、日本でも『若き詩人への手紙』として訳されている(新潮文庫など)。

◆ロフトを出て、ウォリーは、ブルックリンのHavemeyer StreetとBroadway の角から高架線のガード沿いのブロードウェイをウィリアムズバーク・ブリッジのほうに歩いて行く→GoogleMap。路上の人々(髭を長く生やした正統派ユダヤ人の姿もある)や風物を見ながら、彼女の意識に浮かぶように、文章のナレーションがかぶる。いいシーンだ。声はアンドレア・ライズブロー(ウォリス)であるが、文章はリルケの上の詩集から取られているのではないかと思ったが、リルケの詩にナレーションの該当部分は見当たらなかった。ウォリス・シンプソンの手紙とリルケの「手紙」とをひっかけただけなのか?

"Pain under the ribs, under the heart. The struggle between it and the brain, to gain the upper hand.

The brain trying continuously to rationalize, to mend, to save the situation. The pain clawing and tearing like a bird of prey."

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酷評

Robbie Collin/The Telegraph(UK)

The screenplay, written by Madonna with what can only be described as not enough help from the filmmaker Alek Keshishian, thwocks back and forth between them like a wonky shuttlecock.

◎"thwocks"は、ペニスの勃起状態を指す言葉、"shuttlecock"はバドミントンのことだが、"cock"(陰茎)を意識するとこれは、ペニスの往復運動を暗示し、この文章は、マドンナとケシシアンによる脚本は、<萎えたり立ったりする>という意味になる。マドンナの手が加わると<萎え>、ケシシアンの部分は<立つ>というわけだ。下品な形容である。

we see Wallis dancing the Charleston with an African tribeswoman to the strains of 'Pretty Vacant’ by The Sex Pistols in front of a Charlie Chaplin film, which must be a strong contender for the most garbled, half-baked image in cinema history.

◎<チャーリー・チャプリン映画の画面、ザ・セックス・ピストルズの〝プリティ・ヴァイカント〟の旋律をバックに、ウォリスがアフリカの部族女とチャルストンを踊るシーンは、最高に無知な曲解と生焼けの映像という点で、映画史上でも類がすくない。>

映画を見ればわかるように、ウォリスが手を引いて踊に誘い込む黒人の女性は、〝部族女〟ではなく、むしろ金持ちの黒人女性である。衣装がそれを物語る。〝部族女〟という言い方は、レイシズムである。

W.E. is — still — a stultifyingly vapid film, festooned with moments of pure aesthetic idiocy(愚行).

◎<全くの美学的愚行>とは恐れ入った。

Chris Tookey/Mail Online(UK)

Madonna is a cold, emotionless actress, and this carries over into her directing style.

◎<マドンナは、冷たい、感情のない俳優で、それが彼女の演出スタイルにそっくり持ち込まれている。>というのだが、俳優でも監督でも冷たい奴はいくらでもいる。それに、この映画は、全然emotionlessではない。

Stylistically, the picture is a shambles— almost entirely naturalistic, but then descending  into trendy gimmickry as Wallis boogies anachronistically to the Sex Pistols singing Pretty Vacant and with a Masai warrior, to show that those rumours of her being racist are so, like, really unfair.

◎この映画は、スタイル的にしっちゃかめっちゃかで、ほとんど野育ち状態だというが、それは、この映画のリズムに合わせられなかったからだろう。ここでも、あの乱痴気パーティのシーンがけなされている。ピストルズの音楽を使ったのは〝トレンディな小細工〟だという。ピストルズを使ったのは、ドラッグでの高揚という設定との関係を示唆するためだ。

So making this film may be worthwhile therapy for Madge, but it's a colossal, narcissistic bore for the rest of us.

◎<この映画を作ることはマドンナにとってのセラピーとしては意味があるかもしれないが、わたしらにとっては、とてつもなく、ナルシシズム的でうんざりだ>というのだが、この映画が「セラピー」的であるというを十分に理解して言っているわけではない。要するに自己満足だというわけだ。ちなみに、この映画は、マドンナのではなくて、主人公ウォリーのセラピー過程を描いていることはたしかである。

COLIN COVERT/Star Tribune (USA)

"W.E." is "Julie and Julia" for royalist snobs.[...] With "W.E." Madonna gorges on glamour, architectural porn and haute couture but starves the mind.

◎この映画は、〝王室スノブ〟向けの『ジュリー&ジュリア』だというのだが、この人は、『ジュリー&ジュリア』も嫌いらしい。この人の目からは、この映画は、<感応的肉体と建築とオートクチュールのポルノ>だという。ただし、ここで言う〝ポルノ〟は、貪欲にいろいろなものを詰め込んだものを軽蔑的に言う言葉。つまり、マドンナは、この映画に美形や建築や流行衣装をがつがつと詰め込んだが、<心は飢えきっている>というわけだ。とにかく、悪口を言いたいらしい。

Ann Hornaday/Washington Post(USA)

It doesn't scan, mostly because Madonna isn't a very good filmmaker - just as she isn't a great singer, an ingenious songwriter or, at 53, the best dancer.

◎マドンナは、非常に優れた映画製作者ではないと言ったうえに、<それは、彼女がすごい歌手でも、独創的な作詞家でも、最上のダンサー(もう53だし)ではないのと同じである>と嫌味を加える。マドンナの音楽家としての才能を認めないのなら、彼女の仕事には触らないほうがいい。この映画は、マドンナの音楽的才能とセンスの成果であるのだから。

Catherine Bray/Film4(UK)

Oh well. She's Madonna. Do we expect the technical perfection of a Kubrick movie? Probably not. More disappointing is the lack of something that she is eminently qualified to bring to the table: an argument. More alarming is the cavalier re-imagining of who Wallis Simpson was.

◎キューブリックなんかと比較する意味があるのだろうか?  この評者も、この映画の主人公がウォリーであることがわかっていない。あるいは、あえて無視している。

Xan Brooks/The Guardian(UK)

What an extraordinarily silly, preening, fatally mishandled film this is.

W.E. gives us slo-mo and jump cuts and a crawling crane shot up a tree in Balmoral, but they are all just tricks without a purpose.

For her big directoral flourish, Madonna has Wallis bound on stage to dance with a Masai tribesman while Pretty Vacant blares on the soundtrack. But why? What point is she making? That social-climbing Wallis-Simpson was the world's first punk-rocker? That – see! – a genuine Nazi-sympathiser would never dream of dancing with an African? Who can say?

◎ここでも、ウォリスが "a Masai tribesman"と踊ると書いている。画面をちゃんと見ていないのだ。ロビー・コリンあたりのレヴューを読んで、それを真に受けている。〝気取った〟とか〝みせびらかし〟とかいう言い方では、この映画を論じたことにはならない。

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セックス・ピストルズ

◆乱痴気騒ぎのシーンで使われる音楽は、セックス・ピストルズの"Prety Vacant"である→YouTube.マドンナが、ピストルズの生を聴いたかどうかはわからないが、彼女がニューヨークへ出てきた1970年代には、シド・ヴィシャスは、チェルシー・ホテルにナンシー・スパンゲンと住み、ラフィエット・ストリートのメタドンクリニックに通い、ときどきCBGBなどで歌ったから、彼のライブは聴いているはずだ。マドンナは、そのころ、ヴィレッジ周辺の本屋でバイトをしていたという。

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フェミニズム

◆マドンナのフェミニズム観は80年代といまとでは大分変ってきた。しかし、彼女が女性の擁護者であることには変わりがない。ただ、この映画で、ウォリーの夫ウォリアム(リチャード・コイル)やウオォリスの前夫を批判的に描くとき、その暴力を切り札にする傾向があるのは、ステレオタイプ的だ。そういう男性像は、それを容認する女性の側の問題でもあり、この映画では、ウォリーは、最初、保守的なアッパーミドルクラスの妻として、子どもを産まなければという強迫観念に襲われる。それを果たそうとして、自分で排卵誘発剤 (IVF) を注射する。ところで、このシーンは、ちょっと、薬物常習者が注射を打つのに似ていないともいえなくない。

◆男が、追い詰められると虐待をしたり、器物を壊したりという行動に出ることはたしかである。フェミニズムが浸透しても、こういう男性はなくならないし、男性というジェンダーのなかにそういう暴力が埋め込まれている。それは、社会の制度と連関しているのだが、いま、日本では、小学校などで、女子生徒を怖がる男子生徒が増えているらしい。会社などでも、女性の上司に苛められる男も増えているという。いずれにしても、フェミニズム意識は亢進しながらも、社会制度がそれにともなって変わらない社会では、今後、男性の暴力性が女性によって引き継がれるだろう。その場合、その暴力形態は、殴ったりけったりといったこの映画にもあるパターンよりも、もっと情報的・神経的なイジメや虐待の傾向を深めるだろう。