粉川哲夫の【シネマノート】
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2003-04-30

●藍色夏恋 (Blue Gate Crossing/Lanse da men/2002/Chin-yen Yee)(イー・ツーイェン)


◆映画のテンポとシーンの進み方が普通ではなく、新鮮。若者のセクシャリティへの斬新な視点もある。映画を事実の直接的なドキュメントとすることはばかげているのだが、台湾の都市生活の変貌を見ることもできる。すでに台湾と日本とのあいだには連動的な変化が見られたが、高校生たちがケイータイを使い、個室にテレビやステレオのコンポがあり、自動販売機で買ったボトルの蒸留水を飲むといったライフスタイルの「グローバル化」は興味深い。
◆17歳のモン・クーロウ(グイ・ルンメイ)とリン・ユエチェン(リャン・シューホイ)は同級生で仲がいい。ユエチェンは、同じクラスで水泳部のチャン・シーハオ(チェン・ボーリン)に想いをいだいている。「男まさり」のクーロウの方が、シーハオと気軽な話をする。そこでユエチェンは、クーロウに、自分の想いをシーハオに伝えて欲しいといつも言っている。そしてある日、クーロウは彼女の手紙をシーハオに手渡す。ところが、その手紙の差出人はユエチェンではなく、クーロウの名になっていた。ユエチェンは、クーロウも彼を好きなことを知っており、そういう形で親友の気持ちをシーハオに伝える3枚目を演じたのだ。(しかし、このへんが明確にそうであるとは言いきれない要素を持っているところが、映画のいいところだし、映画を活かした表現だ)。
◆ラブレターの署名の下に「上.」と書くのは、日本文では何に対応しているのだろうか? 中国人の留学生にきいてみよう。
◆10代の子が異性に惹かれて行く一方で、それ以前から親しくしていた同性の友達を裏切るのではないかという自責の念をおぼえるのはごくあたりまえの現象だ。これは、もっと大きくなってからも見られる。しかし、これを単に、友情よりも恋愛というより強い関係に鞍替えすることに対する自責の念ととらえるのは単純すぎるだろう。そこには、潜在的な同性愛の感情がはたらいているかもしれない。ちなみに、この作品は、17th London Lesbian & Gay Film Festival (2-16 April 2003)で上映された。
◆リン・ユエチェンが、好きなチャン・シーハオの顔写真をコピー機で大きく引き延ばし、切り抜き、耳に輪ゴムをつけてモン・クーロウにかぶせ、2人で踊ったり、抱き合ったりするシーンがある。他愛ないこの遊びのなかに、2人のセクシャリティが鋭く描かれていて感心した。ただの白い紙に粒子の荒れた顔写真が映っているというのも笑えるが、この紙一重の男性の仮面は、男の性と女性の性とを仕切るボーダーであり、2人にとって、異性と同性との差はたったの紙一重なのである。
◆日本やアメリカとかぎりなく近づきながら、にもかわらず変わらない台湾の都市的要素を挙げるとしたら、それは、街路の使い方かもしれない。モン・クーロウは、母親とマンションに住んでいるが、母親は、その建物の前の路上で屋台のギョウザ屋をやっている。そのそばには、重い金属製の西欧風のベンチがある。こういう組み合わせは東京にもニューヨークにもない。この店で、シーハオが、ギョーザを20注文すると「多すぎるから15にしなさい」と母親が言う。そして「スープはうまいよ。どう?」と薦める。このシーンは非常にローカルでいい。
◆台湾の街でも自転車が多いが、クーロウやシーハオが自転車を走らせている姿は、ふっと、アムステルダムを思わせる。バスの背にも広告がペイントされ、かつてのアジアとは思えない。
◆ユエチェンが、インクがなくなって字がかすれたら、自分の想いが相手に伝わるんだと言って、ボールペンで紙に「シーハオ」の名を漢字で無数に書くシーンがある。これは、どういうフォークロアに関連しているのだろうか?
◆クーロウは、しばしば自分の胸にたまったものを学校の柱に落書する。学校の壁や柱には、無数の落書が見える。これも、中国社会のサブカルチャーだ。ラブレターを通路の床に張ったら、掃除することを命令されたが、落書は禁じられてはいないらしい。壁新聞はダメ、落書はOK?
◆グローバル化のプロトタイプはアメリカから出たとしても、それは、逆に還流し、アメリカも変えるという特性を持つ。しかし、アメリカのプロトタイプを知るのは損にはならない。この映画だ、体育教師とユエチェンが、走ったあと、教師が自動販売機から買った蒸留水を一口飲み、それからユエチェンに渡すシーンがある。ユエチャンは、ちょっと悪ぶって「回し飲みしたからといってキスしたのとはちがうわよ、わたしとキスしたい?」と言う。
◆アメリカでは、瓶やボトルの回し飲みに抵抗を覚える者は少ない。日本では、衛生的に抵抗を感じる人が多いだろう。箸使い方も日本はアジアのなかでも神経質だ。他人の身体との接触に必要以上の神経を使う。身体の接触そのものが性的だという暗黙の了解とパラノイアがあるのかもしれない。
「清潔」に名を借りて極度の性管理をしているのかもしれない。
◆マンションの下からクーロウを大声で呼ぶシーハオは、「モン・クーロウ」と呼び捨てにする。これは、アメリカではごく普通だし、次第にグローバル化している傾向である。その点、日本はグローバル・カルチャーに対していつも若干の距離を取っている。
(東宝試写室)



2003-04-25

●ザ・コア (The Core/2003/Jon Amiel)(ジョン・アミエル)


◆地球と人類の危機をもたらす異変の理由付に無理がある。映像はハデだが、みな過去のハリウッド映画の二番煎じ。役者たちがシナリオの水準以上の演技をしているのが救い。とりわけ、こだわりのない物理教師を演じるアーロン・エッカートがいい。
◆地球の核(コア)の部分では、高温のマグマが一定の速度でうず巻き現象を起こし、それがある種のモータとなって、地球の外皮に電磁波の膜を作っているという。そして、何らかの原因(これは、後半、人為的なものであることが明らかになる)で、この回転が狂い、そのために電磁波の膜が出来なくなってしまう。その結果、太陽から放射される紫外線が地球を直撃し、都市が破壊され、人間の肌に熱線が直射される。まあ、ここまでなら、その理屈は納得できる。が、問題はそれ以後だ。
◆会議中の役員がスピーチをはじめたとたん、胸をおさえて昏倒する(ペースメーカーが止まったことがあとでわかる)、ロンドンのトラファルガル広場で大量の鳩が狂った行動をしはじめる等々、異常な現象を察知したアメリカ政府は、密かに、専門家たちを召集する。講義中にいきなり召集を受けたのは、シカゴ大学で地球物理学を教えているジョシュ・キース(アーロン・エッカート)。彼は、ただちにその原因をつきとめるが、政府の要人は信用しない。そこでジョシュは、「アメリカで最も高名な」地球物理学のコンラッド・ジムスキー(有名になる人間にありがちな抜け目なさやいやらしさをデルロイ・リンドーが好演)に「直訴」する。講演会場から出てきたコンラッドを待ちぶせし、話しかけると、コンラッドがサインを求められたと思ってサインしようとするのが滑稽。ようやく事態を了解したコンラッドは、正式の会議を召集し、プロジェクトチームが組まれる。
◆その間に、スペースシャトルがトラブルを起こし、からくもロスの運河に不時着するというエピソードがあるが、これは、そういう神業を実現したベテランパイロットのロバートソン(ブルース・グリーヌッド)と女性飛行士ベック(ヒラリー・スワンク)を印象づけ、あとで使うため。
◆コンラッドは、プロジェクトを実現させるために「宿敵」の黒人科学者ブラズ(デルロイ・リンドー)の助けを求める。彼は、ユタ州の砂漠で孤独に実験を続けており、「超音波ドリル」で地表に穴をあけ、地中に潜航する「地中潜航艇」を作っている。が、それがマンガ的な装置だから、先行きが予想できる。
◆いいなと思ったシーンは少ないが、ジョシュが、ワシントンに呼ばれ、会議室に案内されるシーンがいい感じだった。会議室には、果物や飲み物が用意されている。ジョシュは、器からピーチを取り出すと、スプレーはありますかと尋ね、持って来させる。ピーチをナイフで刺し、いきなりスプレーを噴射させ、ライターで火を着ける。地球はいずれこうなるというわけだ。こういうプレゼンのやり方は好きだ。
◆FBIの急襲と思い、データの消去にやっきとなる少年顔のラット(スタンリー・トゥッチ)は、そのハッキングの才能を買われて動員される。
◆めんつのそろえ方は、プロジェクトを組むときのアメリカ的スタンダードで、新しさはないが、未知の領域から才能を抜擢するということに消極的な日本の企業や組織はもっと見習った方がいい。
◆見ていて、待てよと思いはじめたのは、案の定ロバートソンとベックが操縦する「地中潜航艇」にジョシュ、ブラズ、コンラッド、そしてフランス出身の高エネルギー武器委員会のレベックが乗り込み、マリアナ海溝(!)から地底に潜航し、煮えたぎるマグマのなかに突入するあたりからだ。いくら耐熱性がしっかりしているといっても、こんな前代未聞の試みに、世界で有数の科学者を直接赴かせるのは、信憑性が薄い。なぜロボットやリモートコントロールではいけないのか? どういうやり方をするのか知らないが、地上とのあいだに通信はコンスタントにつながっている。原子力潜水艦の悲惨な事故をあつかった『K-19』では、水中から数100メートルでも大変だった。今回はその比ではない。水中でも空中でもなく、2700度のマグマのただなかだ。そして、4700キロの地中で核爆弾を爆発させて、「コア」の回転を元にもどそうという。逆にこんなことをしたら、地球は大地震を起こして、地表に住む「文明」など吹っ飛んでしまうだろうし、ダイナマイトを仕掛けて逃げ帰るようなわけにはいかない。
◆これでは、特別クルーが、どんなに苦労して、危機に陥ってもスリルを感じることができない。これも、最近のアメリカの国家主義的な状況の影響なのだろうか? 結局、アメリカの国益で考えられたかぎりでの「人類の救済」への「ミッション」に殉じる話になってしまう。
◆大分まえ、ウエブサイトで自社の説明欄に「アワ・ミッション」(our mission)という項目をかかげる会社や集団が増えてきたのに気づいたが、最近は、日本の会社まで「ミッション」のオンパレード。日本の場合は、何でもアメリカの真似だから、「コーポレイト・カルチャー」の次は「ミッション」ぐらいの軽い気持ちかもしれないが、アメリカで「ミッション」という概念が浮上すると、あまり安心してはいられない。もともとこの言葉は、キリスト教の布教の「使命」という意味で使われた。
◆ただし、新しい言葉の浮上には、つねに二重の意味が潜む。企業が近年「ミッション」を旗印にかかげるということの背景には、産業の動向が利潤本位制から「オープンソース・コード」制へ移行しはじめたという事態がある。それは、情報資本主義の「完成」と終末を示唆しているが、それを察知したかのようにブッシュ政権は、そうした動向を歴史的に逆転させる「ミッション」、まさに一旦停止しはじめた地球の「コア」を再始動させるような、歴史の動向に逆行する「ミッション」に身を挺しはじめた。
(ギャガ試写室)



2003-04-22_3

●ぼくの好きな先生 (Être et Avoir/2002/Nicolas Philibert)(ニコラ・フィリベール)


◆「先生」は誠実で誰でも好感が持てるだろうが、とりたててこの映画がすごい、面白い、新鮮だとは思えなかった。子供の反応としてはあたりまえで、特にドキュメントするまでもないと思った。わたしは、ドキュメンタリーは、カメラの存在が何らかの形で表現されなければならないと思っている。カメラが「透明人間」であってはならないのだ。だが、この映画では、カメラは全く意識されていないくらい「うまく」子供たちに溶け込んでいるし、「先生」もカメラを意識していない。いや、意識した結果がこれなのかもしれないが、それではドラマとどこがちがうのだろうか? 「素人」を使って撮ったストーリー映画とどうちがうのだろうか?
◆これは、このドキュメンタリーが撮られた現場を知らないわたしの勝手な言い方で、現場を知っている者には、別の感想があるだろう。フィリベールの関心は、寒村の失われつつある「1クラス学校」にあったらしい。フランスでは、かつては1クラスに幼稚園児から小学校高学年までいっしょにいる「1クラス学校」が奨励されたが、いまではすたれているという。そして、フィリベールは、フランス中部のオーベルニュ地方のビュイ・ド・ドーム県でこのサンティエンヌ校と、そこで教えるジョルジュ・ロペスという55歳の教師を見つけた。フィリベールの失われつつあるものへの関心とロペス先生との出会いという部分がこの映画の基礎をなしていることはまちがいないし、その関心の深さは映画からよく伝わってくる。
◆ロペス先生は、たしかにいい先生だが、「先生」をやっているわたしにすると、ロペス氏は少し児童に質問しすぎるのではないだろうか、と思った。これでは、児童は、自分で考える余裕がなくなる。与えられた質問をこなすことだけに習熟してしまう。
◆吹雪のなかを牛の群れが誘導されていくシーンから始まるのは、この地方の雰囲気をイントロデュースするというよりも、児童の群れが牛の群れとアナロジカルな関係にあると示唆しているようでよくない。教室のシーンで、床に亀が何匹もはっているのを映したのはなかなかよかった。
◆原題 "Être et avoir" は、わたしには、まず、ガブリエル・マルセル (Gabrile Marcel) の主要著作である『存在と所有』を思いださせた。いまではマルセルはポピュラーではないが、わたしが上智大の学生のとき、わたしの師であった渡辺秀先生から初めてマルセルのことを教えられ、師が広瀬京一氏と共訳されていた翻訳を手に入れて読んだ。基本的にカソリックの人なので、「警戒」して読んだが、身体についての考察がなかなかインスパイアリングだった。ところで、わたしは渡辺先生を「師」と呼んでいるが、それは、渡辺先生がわたしにとっては本当の意味での師だったことを大分たってから悟ったからだ。ハイミナールを常用し、授業を休んでいると、先生は、家に電話をかけてきてくれ、「近くまで来ていますが、一緒に学校に行きませんか?」と言うのだった。これでは行かないわけにはいかない。ジャズにいかれていたわたしが、銀座で初めてライブのジャズを聴かせた銀パリ「フライデイ・ジャズ・コーナー」とか、その後松屋の裏に出来た「ジャズ・ギャラリー8」などに先生を引っ張り回したこともあった(あとでわかったのだが、師はこのとき奥さんとは別の女性を愛し始めており、「わたしとジャズ喫茶にいて遅くなった」という「言い訳」を使ったこともあったらしい)。わたしの文章が最初に活字になったのは、先生と一緒に始めた同人誌『アパルトマン』においてだった。学生とつねに等距離でつき合おうとし(師が学生を「君」呼びしたのをきいたことがなかったし、わたしも先生をつねに「さん」呼びしていた)、そして決してダンディな威厳と優雅さを失わなかった渡辺先生。師とくらべれば、この映画のロペス先生は、生徒と等距離でつきあっているとは言えない。
(銀座テアトルシネマ)



2003-04-22_2

●トレジャー・プラネット (Treasure Planet/2002/Ron Clements, John Musker)(ジョン・マスカー/ロン・クレメンツ)


◆R・L・スティーヴンソンの『宝島』の海を宇宙にすりかえたのだが、わたしには楽しめなかった。わたしは、2次元のアニメが好きになれない。だから、キャラクターの顔つきが気に入らないと、もうそれ以上見ていられなくなる。今回はヴォイス・キャストのエマ・トンプソンに免じてがまんして見たが、ネコ科の顔をしているアメリア船長が出てくるたびにつらい思いをした。
◆まわりはエイリアンだらけで人間はマイノリティの宇宙都市で生まれたジムが、母親から『宝島』を読んで聞かせてもらうシーンでは3Dが使われる。それが、わたしのように3Dじゃないとアニメが見れない人間には、非常にアンバランスに感じられる。
◆この作品でも、ジムには父親がいない。子供向きの映画ではこういうパターンが多い。何か弱みにつけこむ感じ。
◆キャラクターは、かなり『アトランティス 失われた帝国』に似ている。技術的にコピーした部分も多いのだろう。こちらも、わたしは好きになれなかった。
(ブエナビスタ試写室)



2003-04-22_1

●ムーンライト・マイル (Moonlight Mile/2002/Brad Silberling)(ブラッド・シルバーリング)


◆最初に(まあ、ダスティン・ホフマンとスーザン・サランドンが「夫婦」をやっているのでもわかるが)「あ、これはユダヤ系のファミリーの話だな」と思ったら、やはりそうだった。そのことがわかると、この映画の世界に入りやすい。
◆どこかで電話のベルが聞こえる。水の上を歩く青年。その向こうには泳いでいる同じ青年の姿がある。シュールなシーン。突然その男がベッドの上で目覚め、それが夢であったことがわかる。何ならかの強迫観念につきまとわれている暗示。
◆その男はジョー・ナスト(ジェイク・ギレンホール)。時代は1973年。マサチューセッツ州
ケープタウンの小さな町。結婚式の直前に彼は婚約者を失う。神経を病んだ男が喫茶店にいた自分の妻にピストルの弾をあびせかけ、そのとばっちうりを受けて死亡したのだ。失意のどん底に陥った婚約者の両親、ベン(ダスティン・ホフマン)とジョージョー(スーザン・サランドン)の姿に、ジョーは、滞在していた彼らの家を離れることができなくなる。二人も、彼を息子のように思い、離さない。やがて、ベンは、彼に不動産業の共同事業者になってくれと言う。
◆ベンは、大きな都市再開発をもくろむ実業家マイク(ダブニー・コールマン)の傘下で町の地上げを開始する。町で最後まで立ち退きを拒否しているのは、「キャルの店」というバーで、その店との交渉がジョーの仕事になった。店に行ってみると、そこは、結婚式の招待状の配送を止めるために訪ねた「郵便局」(雑貨屋の一角で郵便を受けつけている)で会った女性バーティ(エレン・ポンペオ)が仕切っているのだった。彼女は、ベトナムに徴兵されて3年間行方不明になっている「キャル」の恋人で、その店は、彼が生きていることを自分に言い聞かせるためにも決して閉めることのできない場所なのだった。
◆この映画は、相手に気づかうためについた嘘あるいはあえて言わなかったことを胸に秘める人々の
物語である。ジョーは、ベンとジョージョーに隠していることがある。ベンは、現実と向き合うのを恐れて、ハードな接触を回避する。ジュージョーは、いつも腕時計を3つもつけており、理念と現実のあいだで引き裂かれている。バーティは、ベトナムに出兵したまま帰ってこない恋人の死を認めようとしない。そういう要素は、誰にでもあるし、それを秘めたまま生きるしかないという考え方もあるが、この映画は、やはりアメリカ映画であり、それをいかにしてあらわにするかを描く。アメリカ的な観念では、人は隠し立てをしない方がいいのであり、すべてをさらけ出すことによって「解放」されるとみなす。
◆わたしの知るかぎり、ユダヤ系の夫婦は、妻が夫をくさしたり、ずけずけものを言ったり、夫は奥さんに頭があがらないといったパターンが多い。つまり妻の方が夫より「ラディカル」で、知識欲もあり、大胆なのだ。そのくせ、家計は夫が牛耳っており、子供も父の命令には柔順(強烈に反抗するという反動もそこから起きる)なのがアメリカ的。ジョージョは、まさにその典型。娘の葬式で、客たちが悔やみを言うと、ジョージョは、その杓子定規な物言いが気にいらない。ベンは、こういう妻のまえでは、イエスマンにならざるをえず、その結果、外面(そとづら)はいいが、どこか気難しいというタイプになってしまったようだ。
◆ジョーがバーティと「郵便局」で初めて会ったとき、ハリウッド映画のパターンに慣れた観客は誰でも「二人のあいだに愛がめばえるな」という予感を持つ。その通りになるわけだが、ちょっとジーナ・ガーションにも似たエレン・ポンペオはいい感じを出している。彼女は、このとき、「男はみんな戦争に取られて、町には女しかいない」と語る。1973年という時代がよく出ている。1972年12月から1973年1月にかけて、ヴェトナムでは大規模の「北爆」が行なわれた。
◆ホリー・ハンターが弁護士役で出ているが、ちょっと神経症をわずらっているような感じだった。彼女は、この映画のあと、Levity (2003/Ed Solomon)とThirteen (2003/Catherine Hardwicke)に出ているが、本領を発揮する場所を得ているようには見えない。
◆最後の方で、ジョーは、バーティに手紙を書き、そのなかで "I found home"と言い方をする。この部分を字幕は、「ぼくは安らぎを見つけた」と訳していた。それはうまい訳だと思うが、この部分は、アメリカ社会との関係で考えると、意味深い。ここでは「ホーム」は、家庭やどこかの土地にあるわけではなく、心のなかにしかないということなのだが、それなら、いっそ「ホームレス」と言い切ってしまわないで、それでも「ホーム」を求め続けるところがいかにもアメリカ的だと思うのである。
(ギャガ試写室)


2003-04-18_2

●セクレタリー (Secretary/2002/Steven Shainberg)(スティーヴン・シャインバーグ)


◆そのまま描けば「差別的」なかたよった話にすぎなくなる「女性の従属願望」と「男性の支配願望」を創造的にひねった形で適度の皮肉をこめて描いた小傑作。冗談のようでホント、本当のようで冗談。
◆リー・ホロウェイ(マギー・ギレンホール)は、何かに行き詰まると自分の体を針や裁縫用具で傷つけないではいない「自傷癖」があり、入院し、その後はコミュニティ・カレッジで「セクレタリー」の勉強をした。母親(レスリー・アン・ウォーレン)は過保護で、娘が勤めると、車で送り迎えし、つきまとう。父親(スティーヴン・マクハティ)はいるが、アル中で、妻に追い出される。リーにはカレッジで知り合ったピーターという男友達(ジェレミー・デイビス)はいるが、2人の関係は子供じみている。
◆リーの転機は、たまたまゴミ箱から拾った新聞の求人欄を見て、エドワード・グレイ(ジェイムズ・スペイダー)の弁護士事務所に面接に行ったことだった。エドワードは気難しい男で、一見、他人は命令する対象でしかないと思っている感じ。秘書がたびたび替わるらしい。彼は、リーにニコリともせず、ここでやってもらうことは、タイプ打ち、コーヒーを入れること、電話の取次、ネズミ捕りの装填のような「とても退屈な仕事」だけだと釘を刺す。マギーは、普通とちがって、逆にそういうことの方が好きなので、大喜びで就職することにする。
◆次第にわかるのだが、エドワードは、単に女や部下を支配したいというよりも、シャイで傷つきやすい自分を隠すためにそういう態度をとっているところもある。彼のやさしさや繊細さは、やることがうまく行かなくて、また昔の病気が出て、オフィスで自分の体を傷つけはじめたのを目撃してしまったエドワードが見せる態度によく出ている。
◆話は、一見、何人も従業員のいる弁護士事務所のトップの男と一介の雑用係の女とのひねった愛のドラマのように見えながら、そういう月並みさがないところが面白い。その意味では、よく考えると、エドワードとは一体何者なのかがわからないところもある。家で孤独にトレーニング・マシーンの上で走ったりしているのは、ありがちなシーンだとしても、どこかエイリアン的だ。リーのファニーさも、どこか現実離れしている。それほど劇的に狂っているわけではなく、誰のなかにもあるある種の狂気ないしは癖だといえばそうかもしれないが、そうでもない。つまり、この映画の表現には、うまいものをたらふく食い、セックスして死んでしまう、マルコ・フェレーリの『最後の晩餐』のように、ある種「表現主義的」な処置が加えられているのだ。だから、波長が合うと、猛烈面白く、合わないと全然わからないかもしれない。
(ガスホール)



2003-04-18_1

●春の惑い (Xiao cheng shi chun/Springtime in a small town/2002/Zhuangzhuang Tian)(ティエン・チャンチュアン)


◆いまの日本のように、露骨であることがあたりまえの性的表現に慣らされた環境にいる者には、なかなか新鮮。抱き合いそうで抱き合わず、「不倫」に気づく夫は、怒るよりも身を引こうとする。そういう世界もあったなという感じ。中国だってもうこういう世界はないのだが、こういう映画を日本でつくることは、もうどこにの「参照点」(レフェレンス)がないので、難しい。
◆ヴィスコンティの華麗で退廃的な世界であれ、パゾリーニのグロテスクで暴力的な世界であれ、それらは、現実との関係からよりも、美学上の強度から見られなければならない。が、その強度をはかるわれわれ観客は、その強度の「参照点」をわれわれの日常的現実に求めやすい。そこでこの映画は、時代を1946年の中国・蘇州に設定する。中国人にとってはどうか知らないが、多くの観客にとっては、その現実舞台は、遠い彼方にしかない。そのため、観客は、ただちに想像と伝承された歴史的記憶を「参照点」としてこの映画の世界を理解することになる。
◆すべてのドラマは、形式のなかで動く。その形式の魅力がこの映画の見どころだろう。旧家を引きついだ男ダイ(ウー・ジュン)は、心身症を病み、薬づけになっている。妻のユイウェン(フー・ジンファン)は、献身的に看病するが、不満がないわけではない。それを表面には出さず、これえているところが古典的な型の見せどころ。そこへ、ダイの幼友達のチャン(シン・バイチン)が遠方から訪ねてくる。彼は、上海で医学を学んだ。夫に名を聞いて、ユイウェンは驚く。チャンとユイウェンは、実は、ダイのところに嫁ぐまえ、恋人同士だった。その恋がどの程度のものであったのかは別にして、2人のあいだには愛情が芽生えたことがあった。そういう2人の再会。そして、さらに、この家にいっしょにいるダイの妹シュー(ル・スースー)がいて、若々い娘心をチャンに向ける。こういうのは、映画でも小説でもよくある話だが、こういうありがちな設定をしたのち、この4人をどう動かしていくかが腕というもの。
◆誰も裏切らないし、誰かが一人だけ不幸のどん底に陥ることもないし、ドラマティックな展開はない。そのくせ、見ている方がはらはらする。何かが起こりそうで起こらない。そこがこの映画のいいとろだし、ユニークさだ。
◆全体が演劇的・絵画的につくられ、台詞も読むような言いまわしになっているのも、形式への執着からだろう。カメラが動くと、フレームを間近な物たちが横切っていくような撮り方、古城にみなで散歩に行くシーンで、葉のない木をシルエットのように手前に映し、その奥を4人が歩いていくといった絵画的な撮り方もある。
◆映画初出演のルウ・スースーが、なかなかいい。大人と少女の中間にいる女性の微妙な性感覚と異性愛、とまどいと大胆さをあますところなく表現している。
◆ダイとユイウェンが住む家は、入口で呼んでも中まで声が届かないくらい広い。そういう家に住んでいると、えてして神経症になる。ダイは、この家を出れば病気が直るだろう。部屋の古い臭いが伝わってくるような映像。滞在するチャンの部屋にユイウェンが蘭の花を持ってくるシーンがあるが、空間の匂い/臭いの映像化にも配慮している。
◆ユイウェンの感情の起伏は、抑えられた形で描かれる。彼女が、明らかに抑えきれない感情の爆発のなかでガラスを割り、手に怪我をする。その後のシーンで、夫のダイが、彼女の傷を手当てするのだが、(優しくされればされるほど心が離れて行く描写を見るべきなのだが)わたしは、彼が手にしている「綿棒」が気になってしかたがなかった。それは、わたしには、どう見ても今様の「綿棒」なのだが、1940年代の中国には、そういうものがあったのだろうかと思ったのだ。
(映画美学校第2試写室)



2003-04-15

●人生は、時々晴れ (All or Nothing/2002/Mike Leign)(マイク・リー)


◆日本のテレビだけを見ると、日本ほどいつも笑いが絶えない社会はないのではないかという錯覚に陥る。深刻な顔は、NHKのニュース番組ぐらいでしか見れない。しかし、街に出て、電車に乗ると、人々の顔は無表情で愛想がない。知らない他人には冷淡だ。日本人って・・・と思ったことがあるひとは、この映画を見ると考えが変わるだろう。
◆この映画に登場するサウス・ロンドンに住む人々は、みな心に不満や怒りをためている。知り合いに出会ったら大仰なゼスチャーとこぼれるような笑いで歓迎しあうなどという(日本で「外人」に期待されている)ありがちな挨拶もない。家で食事をするときも、家族で話もしない。親が注意するととげとげしい言葉で捨て台詞を言う息子。これが、現実なのだとは言わない。が、この映画では、貧しさが、人々をこういう心境にしているように見えるが、そうだとしたら、愛想の悪い人が多い日本社会は、そのGNPにもかかわらず、貧しいのだろうか?
◆ロンドンでタクシーをころがしているフィル(ティモシー・スポール)の家族は、スーパーで働く妻のペニー(レスリー・マンヴェル)、映画の冒頭に姿をあらわす娘のレイチェル(アリソン・ガーランド)、いつも態度の悪い息子のローリー(ジェームズ・コーデン)だ。食事のシーンが象徴的だが、みなが黙々と食べるだけで話をしない。ローリーにいたっては、体を食卓にはすに向け、テレビを見ながら食べている。それを注意されると、ぶうたれることすさまじい。一つの原因は、普通なら朝早く起きて、空港で客をつかむというようなことをすべきなのに、フィルが、昼まで「好きなだけ寝ていて」それほど働かない(とぺニーは言う)ためらしい。
◆同じ棟に住み、やはりタクシー運転手のロン(ポール・ジェッソン)の妻(キャロル)はアル中で、行き詰まるとロンもいっしょになって酒を呑み、べろべろに酔っ払って倒れ込む。そういう2人をいつも醒めた目で見ている娘のサマンサ(サリー・ホーキンス)は、特に仕事もしてないようだが、どこかしたたかで、一人でも生きていけそうだ。彼女を想い、つけまわしている自閉症的な青年クレイグ(ベン・クロンプトン)がいるが、軽くあしらう。
◆自宅でクリーニング業をしているモーリン(ルーズ・シーン)と2人暮らしの娘ドナ(ヘレン・コーカー)は、あばずれていて、「外で暖まる(男と寝る)からいいわ」とすげないことを言ってボーイフレンドのジェイソン(ダニエル・メイズ)とぷいっと外出する。それを、外でビルの壁にもたれて冷ややかに見、「そんな女と別れてあたしのところに来れば」といった意味ありげな目で見ている。ドナとジェイソンの仲はあまりよくない。その日も自分中心でセックスを求めてきたジェイソンとセックスをしていてもどこか空虚。問い詰められて、妊娠を告げると、ジェイソンは彼女をさんざんこき下ろし、堕ろすことを要求する。ダニエル・メイズは、自分のことしか考えない卑劣な男をリアルに演じている。
◆彼らの生活はいかにもすさんだ感じだが、その原因は、単なる経済的な理由によるものではない。どこかが狂ってしまい、働く意欲を失い、そのことがまた生計を貧しくし、さらに生活の質を落としていくという悪循環。
◆ある日、フィルは、フランスから来た鼻もちならないフランス人の女の客をAmbassador Hotelまで送ったとき、長距離を走り、収益があったこともあり、客を拾うのをやめ、ケータイの電源も切って、海岸(グリニッチよりのケント州のどこからしい)に行き、無為に時をすごす。こういうことは誰にもあることだが、わたしは、こういう「怠業」こそが「革命」の一瞬だと思う。国家による革命などというものはない。あるのは、個々人が自ら行なう「怠業」としての「革命」であり、それは、1日以上は続かない。(他方、革命は、「どこかへ行ってしまいたい」という欲求なしには起こりえない)。
◆フィルは、ロンとビールを呑みながら、「運命がわかったら、怖くて生きてけないよ」と言うが、この映画は、マゾヒスティックなまでに運の悪い人々を描いている。フィルが海岸への逃避のなかで何かを悟ったとき、彼の団地では、息子のローリーが心臓発作を起こして病院へ救急車で運ばれていた。
◆日常のエピソードをならべるマイク・リーの技法は魅力的だ。こいう映画を見ると、大味な典型的なハリウッド映画は見れない。
◆フィルが勤めるタクシー会社の経営者は黒人。これも、いまのロンドンを思わせる。最後の方に、ローリーの急病がきっかけで妻と真剣に向き合うようになったフィルが、「愛している?」と問い、「愛がさめたらおれたちは終わりだ」と語るシーンがある。これは、やはり、西欧的なロジックであって、日本の場合は、ちがった形になるのだろう。
(アミューズピクチャーズ試写室)



2003-04-08

●名もなきアフリカの地で (Nirgendwo in Afrika/2001/Caroline Link)(カロリーヌ・リンク)


◆天候が不順。今日は吹き降りの雨。松屋のなかを通り抜けてこなかったのでびっしょり。そのためか客は少ない。宣伝の青木さんに声をかけられ、話す。ちゃんと顔を合わすのは『コリン・マッケンジー/もうひとりのグリフィス』(Forgotten Silver/1995) 以来。彼女がパンドラにいたとき、たのまれこの映画について東中野BOXでしゃべった。そのことを覚えていた彼女が、「あのピーター・ジャクソンがいまや巨匠ですものね」と言う。ピータは、天才的な『コリン・マッケンジー』の最もすごい部分で巨匠にならずに、その一番セコイ部分で巨匠になってしまった。
◆西洋人がアフリカを描く場合、「アフリカ」は、崇高な装いを示す。その国が独裁的な政権の支配下にあったとしても、その民衆や民衆文化は、西洋よりも本来的なものを持つというパターン。ベルトルッチの『シャンドライの恋』もそうだった。しかし、この映画は、女性の観点(主として娘のレギーナ)つくられているので、「アフリカ」は、男性的な逃避や崇拝の場としてよりも、むしろ連帯(イナゴの大群をみんなで追い払おうとするシーン)や共有の場として描かれている面がある。
◆1938年、ナチスが台頭し、ユダヤ人弾圧が強まることを懸念したユダヤ家族の長男ヴァルター(メラーブニニッゼ)は、ケニアへ赴き、家族を呼び寄せる。ドイツの外から見ると、ドイツはもはやかつてのドイツではなくなっていた。老いた父親は、「ドイツは文化の国だからナチはそう長くは続かない」とまだ状況に楽観的で、出国しない。妻イエッテル(ユリアーネ・ケーラー)は、いやいや娘のレギーナ(レア・クルカ)を連れてケニアにやって来る。そのとき夫はマラリアにかかり、友人で滞在が長いジュスキント(マティアス・ハービッヒ)と(いささか神秘的に描かれる)料理人のオウア(シデーデ・オンユーロ)の介護を受けている。土地は荒れはて、水も乏しい。イエッテルは、こんなところにはとても滞在できないと血相を変えるが、幼いレギーナは、オウアと仲良しになり、土地に溶け込んでいく。
◆子供や女性のほうが新しい土地に定住しやすいというのはよく言われるパターンだが、真実でもある。着いたとうざは、レギーナに黒人の子と遊ぶのを禁じ、夫から、「君の態度はいまドイツを支配している連中と同じだ」と批判されたイエッテルだったが、次第に土地に馴染み、西欧的な価値観や厳格な一夫一婦制の枠からも離れていく趣を見せるところだろう。
◆ジュスキントが貸してくれる電池式のラジオは、はたして当時実在したのだろうか? これでBBCのニュースを聞き、状況をつかむのだが、ちっぽけた電池を付けただけで、当時のラジオが作動できたかは疑わしい。これも映画的省略か?
◆イギリス統治下のケニアは、戦況が深まるなかで、ユダヤ人であってもドイツ国籍の男は労務を課せられ、女子供は収容施設に入れられた。が、イエッテルとレギーナ(10代役はカロリーネ・エケルツ)たちが入れられのはホテルだった。このくだりが面白い。女として母親としてのレギーナの変貌とたくましさが見られるのもこのエピソードのなかでである。
◆イエッテルがショックを受けるアフリカの習慣の描写として、死が近づいた病人を外に連れ出し、人々が見守っているというのがあった。人は死ぬと大地に還るのだからという説明をされても、イエッテルには理解できないのだが、映画は、それを美しい習慣として見ている目で描く。都市ではこういうわけにはいかないのだが、死に行く人に身近な人たちや友人たちがつきそい何日も過ごすという習慣は悪くない。わたしの友人のハンク・ブルは、末期ガンに陥った最愛のパートナー、ケイト・クレイグ Kate Craig を、彼女の好きなストーミー・ベイ Stormy Bayのケビンに連れて行き、医師と友人たちがいっしょに生活して、彼女の最後を見取ったのだった。
◆一旦はそれぞれ別の世界に行ってしまうのではないかと思われた夫婦、すっかりアフリカが好きになってしまった母娘だったが、最終的に彼や彼女らは家族としてドイツに帰る。だからこの物語は、5、6年間のケニアでのエピソードにすぎないのだが、アメリカや南米に亡命したドイツ人たちとは別にこういうドイツ人家族もいたということ、そして彼らが戦後ふたたびドイツにもどってからドイツにもたらした何かということを考えると、戦後始まった新たなドイツのポテンシャルというものを考えさせられる。
(銀座ガスホール)



2003-04-07

●8 Mile (8 Mile/2002/Curtis Hanson)(カーティス・ハンソン)


◆イラクにアメリカ軍が進撃していくニュースを毎日見たあとでこの映画を見ると、アメリカがこういう馬鹿な戦争を起こす日常的要因がわかるような気がする。と同時に、アメリカがそういう状態なら、この映画に出てくるような疑似的バトルなどやらずに、即戦争をやってしまった方がいいだろう――現にやってしまったのだから、と何か馬鹿馬鹿しい気持ちになる。
◆時代設定が1995年のデトロイト。工業化がすべて終末に達したが、70年代末から80年代にかけての工業化の「安楽死」政策の網の目から漏れてしまった部分があちこちに残った。工業的なものはまだ残っており、その分うまく行かない。この映画の主人公ジミー(エイネム)がパートタイムをしているプレス工場のような形で。そこでは、誰も働きたくて働いていないから、工場は監獄的な雰囲気をかもしだしてくる。都市の衰退、失業、住宅難、ホームレス化、離婚、単親家族(ワン・ペアレント・ファミリー)、非行、犯罪・・・が深刻さを増す。イギリスならケン・ローチなどが描く世界だ。
◆アメリカでは、何でもが競争になってしまうところがある。それもスポーツ競技的、さらに、それも格闘技的な陰惨ないがみ合いをはらんだ競争。ラップや演奏は、もともとそういう形で生まれたわけではないし、演奏や歌の競争はあっても、いつもそうなるわけではないが、環境が陰惨なら、そういう傾向はエスカレートする。ジミーらがやるラップは、最初から「格闘技」だ。
◆格闘を見せるというのは、アメリカ映画の一つのパターンだが、格闘中の格闘、しかもどんどん「敗者」が死んで行く真剣の格闘をテレビで見せられている現状でこういう格闘映画を見るのはいい気持ちがしまい。白人ラップで有名なエイネムが出るといっても、それがうまければうまいほど、陰惨さだけが強調される。
◆さいわい、このラップ「格闘技」は、ラップの「内容」(歌詞)で勝負されるので、わたしにはストレートにはわからないところが多く、その分、一息つける。ジミーがラップの対決をするヒップホップクラブ「シェルター」の観客たちは、ラッパーが45秒間に叩きだす言葉のサエとインパクトに喝采とブーイングを送るのだが、どこがサエているのかは、俗語と現地状況に通じていないとわからない。たとえば、「てめぇは、不良ぶってやがるが、てめえにはペアレントじゃなくてペアレンツ(両親)がいるじゃねぇか」とジムが対決相手を嘲笑するとき、ここでは、おれみたいな不良はみんな単親ファミリーなのに、おまえにはちゃんと両親がいて、ぼっちゃんなのに、不良を気取ってやがる」という含みがある。
◆この映画を見ながらふと思ったのだが、ラップというのは、ある点で、喧嘩を回避する方法でもあるのかもしれない。ジミーたちは、会話するようにラップを日常的に使う。これは、ミュージカル風のやりとりを映画のなかに入れるのと同じ技法にすぎないのかもしれないが、現実にそういうことがおこなわれているかどうかは別にして、少なくともこの映画のなかでは、若者はラップで会話することによって肉体的な対立を回避している。だから、そのピークには「格闘技」的なラップもあるわけで、ラップコンテストも、殺し合いを避ける方法なのだ。
◆アメリカからスポーツを取ったら、戦争ばかりするようになる? ブッシュ政権はあまりにスポーツ好きなためにイラク戦を実行してしまった。平和は、スポーツに興味がないだけでなく、そもそもスポーツなどに興味のない「ぐうたら」人間の集まりのなかからしか生まれない。
(UIP試写室)



2003-04-04

●魔界転生 (Makaitensei/2003/Hirayama Hideyuki)(平山秀幸)


◆原作を知らないと、しばらくのあいだは、その破天荒なストーリー展開に目を見張るだろう。天草四郎(窪塚洋介)が天草での恨みをこめてよみがえり、助手役のクララお品(麻生久美子)を伴い、荒木又右衛門(加藤雅也)、宮本武蔵(長塚京三)をよみがえらせ、槍の使い手宝蔵院胤舜(吉田新太)にとりつき、徳川政権(折しも将軍家光は瀕死の床にある)をゆさぶる――とくるのだから。しかし、山田風太郎の小説世界を知っている者には、なにかその上っ面をなぞった感じしか与えない。なによりまずいのは、音楽だ。単調で深みがない。
◆1638年の島原の乱で徳川側は、12万の軍勢で37000人のキリシタンを殺したというが、アメリカがイラクに侵入して、「民主化」の名のもとに公然たる大量殺戮をしているこの現実を知ると、歴史は変わらないという気が強まる。「進歩」ほどむなしいものはない。やはり「革命は3分」
か。
◆日本では、非業の最後を遂げた者、無念を飲んで死んだ者がよみがえって復讐するというフォークロアがある。「魔界転生」もそういう意味だ。権力は、みな前権力を倒すことによって新権力を得るので、倒した前の権力者たちの「恨み」をしずめなければならない。そういう「あらぶる霊」をしずめるために神社や記念碑が建てられる。が、それは、恨みを飲んだ霊を平定した最後の儀式であり、そこへもっていくために「豪傑」が登場する。この映画では、佐藤浩市演じる柳生十兵衞がそれだ。
◆怨の霊は、過去の怨の死者の霊をよみがえらせるだけでなく、生きている者にも取り憑き、仲間を増やす。パターンとしては、不満分子がそのターゲットになる。この映画でその役を割り当てられるのは、家康の息子で紀州藩の初代の徳川頼宜だが、彼が実際に「魔界」の霊に取り憑かれる条件をそなえていたかどうかは知らない。が、話としては、兄弟の秀忠の方に将軍職が行って不満をいだいていた頼宜が、秀忠の息子の家光、三代将軍が臨終の床にあるのを知り、将軍職への食指が動いたという設定になっている。不満と欲にかられている人間は、「魔界」の誘惑に弱いのだ。ブッシュもそんなところか?
◆長塚京三が演じる武蔵は、なかなかいい感じを出したいる。実際の武蔵はどうだったかは別として、彼が「剣の天才」ならば、それだけ、かぎりない不満にさいなまれていたはずだ。天才とは、どんなに世間から認められようとも、それは十全の理解だとは思わない。むしろ、世間が認めれば認めるほど孤独を感じる。そういうのには、「魔界」が取り憑きやすい。
◆「魔界」というのは、ある種の「反権力」だから、「魔界」の霊が乗り移った者とは、「反権力者」でもある。『あずみ』は、世をさわがせ、徳川体制をゆるがす者を始末していく仕事人の話だが、この映画の柳生十兵衞はそういう機能を負っている。この映画では、最初、天草四郎の権力に対する怨念が勝っていって、小気味いいところがあるのだが、結局、柳生が「魔界」に勝ち、権力は安寧なのだ。これは、山田風太郎の原作とは少しちがうのではないか? 山田の小説では、もう少し屈折が描かれていたように記憶する。反権力は、所詮反権力だから最後には権力に負けるとしても、その闘いは、この映画で描かれる「亡者」どものむなしい敗北・敗退ほどむなしくはなかったように思う。
◆麻生久美子が現実と非現実との境界線上を動いている表情で秀逸。加藤雅也のニヒルさも悪くない。
(東映試写室)



2003-04-01

●あずみ (Azumi/2003/Kitamura Ryuhei)(北村龍平)


◆2時間22分を飽きさせないし、上戸彩もいい型を作ってはいるが、たとえば座頭市で勝新太郎が観客をうならせたような映像的にも殺陣的にもスゴいという印象をあたえる決定的なシーンはない。
◆苦しませて殺すことに喜びを見出す偏執の剣士・最上美女丸を演じるオダギリジョーはかなりいい線を行っている。
◆一方でまだたわむれることが好きな若者、他方では非情な暗殺技術を叩き込まれる殺人マシーンとしての若者というアンビヴァレンツはあまりよく出ていない。こういう特殊技能者は、普段ももうちょっとちがう感じであるべきではないか? まあ、その先生が原田芳雄だからしょうがないか。浅野長政が伊武雅刀なのはまあまあとして、最大の敵役の加藤清正が竹中直人では、あまりまじめに受け取ってもしかたがない。
◆映画だから説得力がなければ仕方がない。無茶な命令をされたとき、命令を下した者に反抗するという可能性があるはずだが、それは無視してしまう。そういう可能性も完全犯罪的に絶って作るべし。
◆全体に台詞がお粗末。戦士がフツウの若者風だからか、彼らの台詞は最も稚拙。聞いていて傍ら痛くなる。
◆山里で「爺」(原田芳雄)が若者たちの夕食のために魚を焼いているのだが、それにつづく(時間的にひと続きの)シーンで焼き魚の数が倍以上になってしまう。こういうのはリアリティを損なう。
◆徳川のご意見番か黒幕かといった雰囲気で登場する坊主(佐藤慶)が、小幡月斎に命じたのは、「罪無き人々の幸せを奪う惨い戦を終結させるため、反乱を起こそうとする者を事前に抹殺する最強の戦士を育てる」ことだった。小幡は、10人の(多くは)孤児たちを集め、厳しい訓練をほどこす。そして、ある日、10人に、互いに殺し合うことを命じる。残った半分(そんなにうまくいくのだろうか?)が本格的な戦士になるわけだが、その命令を受けたときときの10人の若者たちの反応が、まるで意外なクイズを出されたときのような反応なのだ。特殊な訓練を受けてきた者たちとしては、驚くべき凡庸な反応である。こういう訓練を受けて入ればいずれ、そんな試練がやってくることを察知するはずではないか?
◆その反応は、『バトル・ロワイヤル』ほども行っていない。特殊訓練を受けた戦士のなかのあずみが、めちゃくちゃ強いというだけで行ったほうがよかったのだが、妙に、暗殺という使命を遂行するためだけに生きてきた若者の矛盾みたいなものを描こうというような欲がちらつく。その意味では大詰めはいい。あずみはめっぽう強く、そこへ、殺すことを何とも思わない最上美女丸のようなのが出てきて争うからだ。この映画の仕掛けでは、あまり歴史だの、生き方だのいうことを気にしない方がいいだろう。そのときには、どうしても、殺陣の技術力が重要になってくるからである。
◆上戸彩が、ブルース・リーやショウ・コスギのように型をつくれれば、続編も可能だろう。「反乱を起こそうとする者」はいくらでもいるから。
◆この映画が中途半端なのは、「罪無き人々の幸せを奪う惨い戦」がどうして起こるのかということに対する洞察がないからである。映画では、まるで凶暴さを植え付けられたゾンビのような集団が「罪無き人々」をいきなり襲う。ここでは、悪いやつはもともと悪く、「罪無き人々」がそれとは別にいる。なぜやつらは悪いのか? そういう「悪行」を生ませたのは体制なのだが、それについての問はない。反抗はすべて悪で、それを除去することしか考えない。まるでブッシュ政権だ。
◆りょうがほんのちょい役で出てきた。なんであれだけなのか? 目がものすごく語るいい演技をしていたので、惜しい気にさせる。それも手か?
(朝日ホール2)

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