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 粉川哲夫の【シネマノート】

今月気になる作品

★★ サブウェイ123 激突 (ヤバくて活気のあった70年代のニューヨークを背景にした旧作とくらべると奥行きがない)。   ★★ 幸せはシャンソニア劇場から (映像は美しく、ノスタルジック。でも、わたしは、ジェラール・ジュニョが苦手なのです)。   孫文 100年先を見た男 (歴史の「勉強」でなければ見てみたい)。   イメルダ (歴史の「勉強」でも見てみたい。いざとなると歌って民心を掌握してしまう彼女の魔力の秘密を知りたい)   ★★ カムイ外伝 (なんか違う)   ★★★★ 正義のゆくえ I.C.E.特別捜査官 (ブッシュ以後のアメリカの「良心」がにじみ出ている力作)。   ★★★ あの日、欲望の大地で (シャリーズ・セロンはいいのだが)。   ★★★★ 空気人形 (これは必見!!)。   ★ アドレナリン ハイ・ボルテージ (ここまで来ちゃうとちょっとね)。  


副王家の一族   ヴィヨンの妻   きみがぼくを見つけた日   パンドラの匣   パブリック・エネミーズ   笑う警官   ジュリー&ジュリア   ずっとあなたを愛してる  


2009-09-17
●ずっとあなたを愛してる (Il y a longtemps que je t'aime/2008/Philippe Claudel)(フィリップ・クローデル)  
Il y a longtemps que je t'aime/2008/Philippe Claudel ◆試写の初日にしても、観客が少なすぎた。しかも、わたしをのぞくと、すべて女性なのだ。こんなすばらしい作品に客が集まらなかったのは、サム・ライミの『スペル』の試写が重なったからだろうか? わたしは、こちらを捨ててここに来た。それだけのカイのある作品だった。
◆最初からクリスティン・スコット・トーマスのまさに「入魂」の演技に惹き込まれる。空港のひと気のないイスで彼女がタバコを吸っている。なぜこの人はかくも孤独で閉ざされた目をしているのか? その理由はすぐわかる。その女性の名はジュリエット。わが子を殺した罪で15年の刑を受け、出所してきたのだ。彼女を空港に迎えに来たのは妹のレア(エルザ・ジルベスタイン)だが、彼女は、姉が収監されたときはまだ幼く、姉の記憶は乏しかった。父は、事件の衝撃に「娘はいないものと思う」と言って、ジュリエットのことを家庭で話すこと、手紙のやりとりを禁じたので、レアは、姉のことをよく知らなかった。が、刑期が終わるころになって、姉の所在を知り、面会に通うようになり、姉の引受人になったのだった。彼女はすでに結婚し、大学教授になっていた。
◆ジュリエットが、妹のレアの家庭に引き取られ、アジア系の養女のプチ・リス(リズ・セギュール、クローデル監督の養女)、レアの同僚ミシェル(ロラン・グレヴィル)との交流を通じて、次第に閉ざされた殻を開いていく――いちおうそう言っておく――プロセスが感動的に描かれる。この手のプロセスは、いってみれば、最初から先がわかっているわけだが、決して先を急がないやりかたで進むので、安易なドラマの印象は受けない。むしろ、トーマスの入魂の演技とあいまって、ジュリエットが、わずかに心を開きながらも、いつまた閉ざしてしまうかもしれないあやうさを維持しながら、進むところが絶妙だ。その仕上がり方は、監督のフィリップ・クローデルが、初めて撮った作品とは思えない。
◆映像そのものに説得力があり、一つの画面に複数の感情と思いを共存させるような撮り方も難なくこなしている。二人の登場人物がどちらもカメラの方を向いていて、たがいに顔を合わせていないシーンは、映画ではよく使われるが、ジュリエットとレアがそのような技法のカメラに向かうあるシーンでは、両方の心の差異が描かれ、二人が互いに感じていることのズレ、観客が二人にいだく印象、ジュリエットとレアのそれぞれに対して持つ印象、これらが複数で多数の差異をはらんだまま描写されるのだ。
◆レナの友人ジェラール(オリヴィエ・クリュヴェイエ)のパーティの席で、酒に酔った友人が、ジュリエットに、こんな美人が一体どこに隠れていたんだといった問いを発する。普通、こういう言い方はよくあり、聞かれた相手も軽くいなせば済むことなのだが、ジュリエットにしてみれば、答えにくい問いである。というよりも、レナのようにその事情を知っている者には、はらはらする問いであり、観客の方も、酷な質問だなという印象をおぼえる。が、相手は、その問いの矛先をゆるめず、しつこく質問を続ける。レナは、「ジェラール、飲みすぎよ」と注意をうながすが、彼はきかない。すると、ジュリエットは、「殺人罪で15年刑務所にいたのよ」と笑顔で答える。その瞬間、一座に爆笑が起こるのだが、レナとジュリエットの過去を薄々感じ、同情と愛情をいだいているミシェルの顔には、他の客とは異なる表情が浮かぶ。こういう話のそらし方は、よくあるパーティ・ジョークだが、ここではそこに二重の意味が隠されている。
◆この例は、きわめてわかりやすい二重表現だが、たとえば、鏡に向かっているジュリエットの表情をカメラが鏡の映像に焦点を当てて撮るシーンでは、鏡のなかの彼女(彼女の外部)と、彼女の「内面」とのあいだの微妙な差異がたくみに表現されていて、もっと面白い。
◆この映画には、声を失ってしまった、レアの夫の父親(ジャン=クロード・アルノー)、認知症の、ジュリエット/レアの母、自殺してしまう保護監察官のフォレ警部(フレデリック・ピロー)など、ある意味での「病人」たちが登場する。実際、ジュリエットもあり意味では「病人」である。そして、この映画は、そうした意味での「病人」たちが、どのように「全快」するかではなく、彼や彼女らが、その「病人」性を維持したまま、どのように「現実」と折り合えるのか(フォレ警部の場合は折り合えなかった)が描かれている。近代の医学や懲罰主義の法制度が行使してきた(いまでも行使している)「治療」や「更正」のやり方が、誤りであり、何の解決にもならないことは少なくとも「理論的」には明らかになっている。必要なのは、彼や彼女の「特異性」をありのままに認め、それを他の「特異性」と折り合えるのかを求めることなのだ。「複数多様性」の社会とはそういうことが可能な社会のことである。
◆この映画には、パーティやいっしょの食事など、複数の人間がいっしょに何かをやるところを映したシーンが多い。と同時に、ジュリエットという極度に「孤独」な人物を描く場合でも、その「個」のなかに複数の要素がひしめいているという撮り方をしている。つまり、この映画は、絶対的な「孤独」や孤立は存在しないということを暗黙の前提にしている。孤独とは、孤立ではなく、複数の人間のなかにいながら、そのつながりが空疎であるような状態の最小単位であり、「個」のなかの複数の要素が虚無的な状態に陥っていることだ。同様に、錯乱や狂気とは、「個」のなかの複数の要素が反乱を起こしているのである。たった一人でいるからといって「孤独」であるわけでも、また、多数のなかにいるからといって「アットホーム」であるわけではない。
◆高く評価できるこの映画だが、エンドクレジットのバックで、バルバラのなつかしいシャンソン「いつ帰ってくるの」(Dis quand reviendras tu)が流れるのを聴きながら、わたしは若干の不満を感じるのを抑えることが出来なかった。ジュリエットがなぜ息子を殺したか(理由を自白しなかったために刑期が重くなったらしい)を明かす「クライマックス」がなければよかったと思ったのだ。というのは、その理由が、彼女がそれを自白しなかった理由としては、あまりに納得がいかないと思ったからである。理由はともあれ、息子を殺したということの罪をつぐなうためにあえて刑期をみずから重くしたということかもしれないが、あっさり自白するという別の選択もあったはずである。このへんに、「小説家」としてのフィリップ・クローデルが出てしまったような気がする。というよりも、この映画がこのシーンの直前までに達した奥行きからすると、ものごとに「理由」などないし、それを説明する因果律など意味がないということが暗黙の前提になっており、種明かしなど必要ないからである。殺人の単一な理由など説明しなくても、この映画は、十分すぎる強度を表現することに成功しているのだから。
(映画美学校第2試写室)



2009-09-15
●ジュリー&ジュリア (Julie & Julia/2009/Nora Ephron)(ノーラ・エフロン)  
Julie & Julia/2009/Nora Ephron ◆ジュリア・チャイルドといえば、アメリカでは知らない人がいないくらいポピュラーなテレビパーソナリティであり、『Mastering the Art of French Cooking』の著者として、家庭料理に絶大な影響をあたえた人らしいが、浅学にして、わたしはその名前を知らなかった。映画のなかで引用される「サタデー・ナイト・ライヴ」のシーン(ダン・アイクロイドが彼女をパロディー化する)を見て、そういえば、ニューヨークにいたとき、見たことがあるなと思ったのだった。調べてみると、そのパロディは、わたしがブリーカー・ストリートに住んでいた1978年に放映され、見たという記憶は間違いなかった。
◆この映画は、ジュリア・チャイルド(メリル・ストリープ)の半生を描くと同時に、彼女の料理本とDVDを見てあるアイデアを思いついた若い女性ジュリー・パウエル(エイミー・アダムス)の1年あまりの出来事を交互に描く。
◆ジュリア・チャイルドは、夫ポール(スタンリー・トゥッチ)の仕事(CIAの前身のOSS――彼女も第二次大戦中にOSSの要員になり、そこで夫と結ばれた)でパリに行き、フランス料理に魅惑され、本格的にフランス料理を学ぶ。彼女がレストランで夫といっしょに食べた舌平目のムニエルの感動、男性優位のシェフの学校でのエピソード、『Mastering the Art of French Cooking』がアルフレッド・クノップ社から出版されるまでのいきさつ、1963年から始まる彼女の料理番組まで。それにしても、メリル・ストリープは、ジュリア・チャイルドのパロディすれすれのところで形態模写していて見事である
◆ジュリーが登場するシーンは、は、911の後遺症が色濃く残る2002年。彼女は、ワールド・トレード・センターの跡地を再開発するLMDC=Lower Manhattan Development Corporationで働いているが、ストレスが加重する毎日。ふとジュリーが思いついたのは、彼女の母が昔見ていたテレビの料理番組の人気者ジュリア・チャイルドが書いた料理本に載っている524のレシピーを毎日作り、365日間続けて、その記録をブログに載せること。
◆ジュリーが、何かを始めなければと思い始めるきっかけになるシーンがある。彼女がレストランで同性の友達たちと合流するシーンだ。ここにはノーラ・エフロンらしいシニカルな目が光る。彼女らは、30代を迎えた世代で、ジュリーを除くと、みなそこそこの役職につき、リッチな生活をしている。最大の関心は金で、忙しいということが社会的ステイタスになっている。せっかく会食のために来たのに、ケータイばかりしている女。料理の注文をするときは、ジュリーも含めて、どいつもこいつも「ベーコンを抜いて」とか、「・・・抜き」を神経質に注文する。「ヘルシー」志向が笑われている。
◆ジュリーが、LMDCの仕事のかたわら毎日毎日料理に精を出し、夫との生活がいいかげんになって、夫エリック(クリス・メッシーナ)が出て行ってしまうことがあるが、すぐに元のさやにおさまる。時代がちがうこともあろうが、ジュリアの夫は、一度も妻のやることに反対したことはないし、彼女の料理を賞賛する。これは、シニカルなノーラ・エフロンの冗談ではないかとも思ったが、そうではないらしい。エフロンは、この作品では、人生や結婚生活に対し、楽天的である。
◆とはいえ、ジュリアの微妙な心理を描いている個所がある。それは、妹ドロシー(ジェーン・リンチ)に子供ができたことを手紙で知り、夫といっしょに喜ぶシーンである。彼女は、そのとき、喜ぶと同時に、自分には子供がいないことを淋しく思い、夫の方を向いて涙ぐむのである。実在のジュリアには子供はいなかったが、映画のジュリアにも子供の形跡はない。
◆この映画は、ジュリー・パウエルの実際の経験(ブログの開設→読者の増加と日記上昇→マスメディアで取り上げられる→本の出版)にもとづいているが、ブログをもろに映画に取り入れたハリウッド映画としては第1号だという。ジュリーの夫が、彼女にブログの開設方法を教えるシーンがあり、たびたびパソコンの画面が映されるが、その機種は、当然(コロンビア・ピクチャーズの製作であるから)SONYのVAIOである。
◆実在のジュリア・チャイルドは、185cmの長身だったというが、それを演じるメリル・ストリープの身長は、公称では168cmとされている。夫役のスタンリー・トゥッチは173cmで、実際にはストリープより高いのだが、映画のなかでは、ストリープの方が背が高いように映されている。撮影では、ストリープは背丈を伸ばすハイヒールを履き、カメラアングルも操作するというトリックを使ったという。ちなみに、妹役のジェーン・リンチは、183cmの背丈があり、トリックの必要はなかった。
◆ジュリア・チャイルドの『Mastering the Art of French Cooking』は、「ホンモノ」らしいフランス料理の調理法をアメリカ人にもわかるやり方で説明しただけでなく、その後あらわれるさまざま各国料理の本のモデルとなった。「アメリカ人にもわかる」という言い方は軽蔑的だが、アメリカの料理本は、カップに何ミリリットルか、何グラムかといった計量可能な記述方法でないと、受けない。その代わり、料理本を片手に、そのまま作れば、誰が料理しても、うまく行くようなところがある。マニュアル化の技術が進んだのも、基本的に、「頭のいい奴ばかりではない」というカルチャーが基礎になっているからだ。
◆映画のなかで、ストリープがたくみに模倣しているが、ジュリア・チャイルドがテレビで見せる調理法は、かなり荒っぽい。それは、彼女が1963年にWGBH局で料理パフォーマンスの放送を始めたころは、放送はほとんどみな生放送で、撮り直しができなかったことと無関係ではない。ちょっとぐらいの失敗でおたおたしていては、先に進めなかったのである。その点、ジュリアは太っ腹で、フライパンから卵を落としても動じたりはしなかった。やがて、そういう失敗が受け、彼女自身、わざと失敗して見せることをパフォーマンスのうちに取り込んでいく。だから、ダン・エイクロイドのパローディは、指を包丁で切ってしまったのまで食材で使い、最後は血だらけになって調理するといったかなりエグいものだが、彼女自身はこのパロディにご満悦だったという。
◆わたしは、この映画を見ながら、「江上トミ」を思い出した。彼女は、かつてNTVの「奥さまお料理メモ」やNHKの「今日の料理」の人気者であり、テレビで調理法を紹介するスタイルの草分け的存在だった。わたしは、彼女の「おいしそう」な笑顔を思い出しながら、最初、ああ、江上はジュリア・チャイルドの番組を真似たのだなと思った。ところが、調べてみると、江上が「奥さまお料理メモ」で調理を見せるようになるのは、1956年からで、江上の方が、ジュリアよりも先にテレビ出演をしているのである。しかも、江上は、何と1927年に(ジュリアが通ったと同じ)ル・コルドン・ブルー料理学校に入学、2年もそこで修行していたのだった。ジュリアよりも20年もまえのことである。
◆ジュリアの(最初は3人の共著になっていた)本が、アルフレッド・クノップ社の編集者に注目されて、出版のオッファーが出たとき、そのきっかけは、担当の女性編集者が、ジュリアの原稿を片手に自分で料理を作ってみて、うまくいったからだったというシーンがある。この編集者は、タイトルを決めるとき、ジュリアを社に呼んで、壁にカードを何枚も貼って、最適なタイトルを決める。ジュリアがこういう経験をしたのかどうかわからないが、ノーラ・エフロンは、かつてエッセーイストとして本の世界にいた人だから、編集者というものをよく知っており、このへんの絵作りがうまいと思う。さりげないシーンだが、印象に残った。
◆この映画のなかで、ジュリアは、フランス料理におけるバターの重要性を強調する。これは、いまではYouTubeで見ることの出来るオムレツ調理法でも強調していることで、ちょっと多すぎるのではないかと思われるくらいバターを使う。ジュリア崇拝のジュリーも、その点を受け継ぎ、彼女が、終わりの方で、ジュリアの台所が納められているワシントンの「National Museum of American History」に行き、その一角にバター(ないしは、その模型?)をそっと置いてくる。ただし、こうしたバター信仰は、アメリカの「ヘルシー」崇拝のいまの傾向のなかでは、ちょっと悪い冗談のようにも思える。ひょっとすると、このあたりにノーラ・エフロンの皮肉好きな目が生きているのかもしれない。しかし、バックで流れるのがマーガレット・ホワイティングのジャズボーカル「タイム・アフター・タイム」だから、またバターが復活するのかな?
(ソニー試写室)



2009-09-11
●パブリック・エネミーズ (Public Enemies/2009/Michael Man)(マイケル・マン)  
Public Enemies/2009/Michael Man ◆タイトルがまず興味を引く。「悪名高き」ジョン・デリンジャーを描くとすれば、タイトルは「ザ・パブリック・エネミー」であるはずだ。だが、タイトルは、冠詞のつかない複数形。これは、どうしてか?フランク・ニッティやベビ-・フェイス・ネルソンといった1930年代のこれまた悪名高きマフィアたちが登場するから、これらを含めて「エネミーズ」と複数にしているにすぎないのか? むろん、この映画のタイトルは、その一部を参考にしている原作(Bryan Burrough: "Public Enemies: America's Greatest Crime Wave and the Birth of the FBI, 1933-34") にもとづいてはいる。しかし、マイケル・マンのねらいは、それだけではないように見える。むしろ、「敵たち」とは、デリンジャーだけではなく、彼を執拗に追い、組織と管理技術を拡充していった当事の警察、「ザ・パブリック・エネミーNo.1」を追い詰めて政治的に有利な地位を獲得しようとしたエドガー・フーバー(のちのFBI長官)たち、さらには、「不敵な」ヒロイズムをあおるマスコミやそれを支持した大衆をも含むのではないのか?
◆マイケル・マンの映画は、どの場合にも、ディテールの緻密なリアリティを保ちながら、かつアメリカや世界を支配している「社会的気分」を絶妙にとらえることを忘れない。この映画がそういうコンテキストにおいて、間接的に参照しているのは、G・W・ブッシュが支配した時代のアメリカである。アメリカは、その時代、ブッシュ率いる「パブリック・エネミーズ」によってひっかきまわされた。
◆この映画は、デリンジャーを偶像化するのではなく、彼のような殺伐としたキャラクターが生まれる時代への決別をうたっている。これは、『コラテラル』でトム・クルーズが演じた冷酷な殺し屋を描いたのと同じやり方である。国を挙げて戦争をしたり、弾圧をしているときに生まれる典型的な感性の持主を強調的に描くやり方である。
◆この映画が描くのは、決して「カッコいい悪党」ではない。むしろ、銀行に押し入り、丸腰の人間を銃で殴りつけたりする非情な男であり、仲間を助けはするが、ほとんど無意味な銃撃戦のはてに仲間を失う淋しい男であり、彼にとって唯一「人間味」の源泉だった恋人も逮捕されて、引き離される。これは、伝統的なハリウッド型犯罪映画に微妙な一線を引く。
◆写真で見ることができる「ジョン・デリンジャー」との関係、神話化されたヒーロー的な「不敵」な悪党を表現する点では、この映画のジョニー・デップよりも、ジョン・ミリアス監督が描いた『デリンジャー』(Dillinger/1973/John Milius) のウォーレン・ウォーツの方が勝っていたと思う。アクションやガン効果も、当時としては画期的だった。が、いま見直してみると、マンのこの映画にくらべて「うそ」っぽく、楽しげなのである。デリンジャーをカッコよく描こうとしているからだ。その点で、マイケル・マンの本作は、「3歳のときに母親は飛び出し、親父にぶん殴られながら育った」というデリンジャーの深く屈折し、孤独な人間性を描き出しており、そうしたキャラクターをジョニー・デップは非常に高度に演んじている。彼は、恋人ビリー・フレシェット(マリオン・コティヤール)といるとき以外は、「不敵」な暴力機械となる。それは、彼を追い詰めるメルヴィン・パーヴィスも同じであり、それを演じるクリスチャン・ベイルの「冷血動物」的な面構えも見事な演技である。
◆デリンジャーは、ビリーにあうとすぐに「自分の女」にしようとする。それは、当時の「男」とりわけデリンジャーのようなヤクザな男にとってはあたりまえのことだったかもしれないが、そのやり方は強引きわまりない。しかし、これも当時の女のパターンで、それをカッコいいものとして受けとり、すぐに彼の女になる。このあたりも、一見「ハリウッド」的なボーイ・ミーツ・ガールの雰囲気を残しながら、ふと考えると、ぞっとするほど淋しい関係であることがわかる仕組みになっている。
◆二人がはじめて知り合うクラブのシーンで、ステージから「バイ・バイ・ブラックバード」のヴォーカルが聞える。ここでデリンジャーは、ビリーからダンスの手ほどきを受ける。このシーンも印象的だし、この曲の一つ一つのフレーズが、この映画のテーマとからみあっている。カメラが引くと、歌っているのが、ダイアナ・クラールであることがわかるが、短いシーンにこういう大物歌手を起用していることでも、このバラードの重要性が感じられる。
◆「バイ・バイ・ブラックバード」は、「心配も悲しみも全部詰め込んでここを出よう、バイバイ<ブラックバード>、・・・誰かがぼくを待っているところへ・・・」(Pack up all my care and woe, /Here I go, /Singing low, /Bye bye blackbird, /Where somebody waits for me, /Sugar's sweet, so is she, /Bye bye Blackbird!)という歌詞で始まるが、映画では、デリンジャーは、この「ブラックバード」(辞書には、「ムクドリモドキ、クロウタドリ、悪・誘惑などの象徴、スウェーデンの国鳥とある)に自分を重ね合わせている。これに続く句節 "No one here can love or understand me, /Oh, what hard luck stories they all hand me, /Make my bed and light the light, /I'll be home late tonight, /Blackbird bye bye." を聴けば、彼は、「自分を愛しも理解もしてくれない」ところを去って、「ブラックバード」であることにバイバイしたいと思っていたということである。その「バイバイ」は、彼が撃たれて死ぬまで訪れなかったのであるが。
◆ところで、911が起こり、イラク戦争が始まり、国土安全保障省が創立されたブッシュ政権の時代が次第に混迷を深めていったとき、アメリカに住む人々はみな、「バイ・バイ・ブラックバード」の気分だった。
◆「社会の敵たち」は誰にとって「敵」なのかを考えると、この映画の特質が明らかになる。それは、デリンジャーが撃ち殺されたあとの最後の2分ぐらいのシーンをしかと見なければならない。詳しくは書かないが、デリンジャーに致命的な銃弾を撃ち込んだ捜査官チャールズ・ウィンステッド(スティーヴン・ラング)がすでに留置されているビリーを尋ね、デリンジャーの最後の言葉を伝えるシーンである。この映画で、途中からパーヴィスの助っ人としてチームに参加するウィンステッドが、そもそも彼が仲間とシカゴ駅に到着するシーンから、主役を食って行く。そう多くは姿を現さないが、彼は、デリンジャーが映画を見に行く可能性のある二つの映画館が判明したとき、「デリンジャーはチャーリー・テンプルの映画など見ない」と言い切り、クラーク・ゲーブル主演の『男の世界』(Manhattan Melodrama/1934/W.S. Van Dyke) (この作品のフランスタイトルは、"L'ennemi public n°1" であった――その点、日本語タイトルは全然政治性が欠如している) を上映する「バイオグラフ劇場」に立ち回ることを確信していた。とにかく、有名なウィスコンシン州の山荘「リトル・ボヘミア・ロッジ」での銃撃戦でも、ちらりと見えるウィンステッドの姿がカッコいいのだ。これは、マイケル・マンの特別のサインのように見える。「ウインステッド」を見よと。スティーヴン・ラングは、監督の期待に十二分に応えた。最後のシーンを見れば、この俳優の凄さがわかるだろうし、それにばっちりと応えているマリオン・コティヤールの実力も理解できるだろう。
◆実際のチャールズ・ウィンステッドは、彼の未完の手記のなかでも触れているが、デリンジャーを倒したことをフーバーから賞賛する手紙をもらったとき、「わたしは、ご表明された賞賛にすべて値するとは思いません。わたしは、市民としての、また捜査局の特別捜査官としての義務をつねに遂行できることを希望しているだけです」という返事を出している。ウィンステッドは、1973年に82歳の生涯を閉じるまで、警察や軍や諜報機関などで働いたが、そういう権力組織のなかにとどまりながら、組織の単なる歯車になるのではなく、決して「情」や「優しさ」を失わないというキャラクターを、マイケル・マンはこの人物のなかに流し込み、殺伐とした時代、それを体現する組織や国家のなかにも多少は残っているはずの「人間性」に注目させるのだ。
◆デリンジャーは、実際にも、映画が好きだったらしい。彼が死の直前の時間を過ごしたのも映画館だった。映画では、『男の世界』を見ながら、デリンジャーが、クラーク・ゲーブル演じる主人公に自分を重ね合わせているところが描かれている。犯罪者は、「あたりまえ」の世界とは異なる異世界に生きる。それは、日常的にはリアルな世界ではないが、映画のなかではリアルである。犯罪の世界は、犯罪者の非日常のなかでは存在しうるが、日常的には「実存」しない。だが、映画のなかでは「実存」する。ただし、映画がスクリーンに投影されているあいだだけである。そのつかのまの時間の実存に、犯罪者は自己の実存のあかしを得る。
◆この映画で、ナチス政権のゲッベルスを思わせる陰険さでデリンジャー逮捕を画策するのが(やがて「FBI」と呼ばれるようになる)捜査局 (Division of Investigation) のトップ、エドガー・フーバー(ビリー・クラダップ)であった。彼は、脱獄犯をしとめたことでマスコミのヒーローになったメルヴィン・パーヴィスをデリンジャー逮捕チームのリーダーに抜擢し、早速、記者会見を開く。マスコミを最大限に活用する方法も、「新しい」やり方だった。デリンジャー逮捕のために電話の盗聴や「科学捜査」を積極的に導入するが、これも、警察の「脱領域化」の一つのあらわれだった。面白いのは、こうした警察側の「脱領域化」と連動した形で、ギャングの方も「脱領域化」が進んだことだ。デリンジャーは、ある州で銀行強盗をくわだて、他の州に逃げた。つまり「州を越えた」犯罪活動を行ったのである。だが、当時、アル・カポネの後釜に座ったフランク・ニッティ(ビル・キャンプ)などのマフィアは、体を越境させるのではなく、情報を越境させることによって荒稼ぎをする新しい「脱領域」的犯罪を始めていた。映画にも出てくる(そしてジョージ・ロイ・ヒルの名作『スティング』でパロディー化された)ように、他州で行われた競馬レースの情報を電信で入手し、時差の遅れた他州でそのレースの馬券を売りさばき、最初から結果のわかっているいんちきノミ行為をするわけである。その意味では、デリンジャーは、犯罪としては、遅れており、すでに州の境界を越えつつあった組織犯罪に対応しようとするFBIの組織改革のキャンペーンに役立ったのだった。フランク・ニッティのような「進んだ」組織犯罪者たちが、デリンジャーの荒っぽい(体を張った)やり口を迷惑がったのもそのためである。
(六本木TOHOシネマズ)


2009-09-08
●きみがぼくを見つけた日 (The Time Traveler's Wife/2009/Robert Schwentke)(ロベルト・シュベンケ)  
The Time Traveler's Wife/2009/Robert Schwentke ◆開映の少しまえ、アテナイオスの『食卓の賢人たち』を読んでいたら、いきなり地鳴りがして一席となりに突然男が現われた。この映画のように、タイムトラベルで人が飛んで来たのかと思ったら、そうではなく、後ろから椅子の背を飛び越えて来たのであった。テレビでは女性言葉をしゃべっている人なので、その荒業が意外だった。大分まえに、誰かがプレスをわたしの隣に置いたのでヤナ予感がして、1席あいだを空けのだったが、その人のつけている香水のにおいは強く、わたしの見る映像に多分に影響しつづけた。
◆遺伝子の問題とかでランダムにタイムトラベルしてしまうというアイデアは面白いが、それは原作(オードリー・ニッフェネガー)のもの。そのわりに演出(ロベリト・シュベンケ)に斬新さはない。にもかかわらず、まあまあ楽しめるのは、脚本(ブルース・ジョエル・ルービン)がいいからだ。タイムトラベルの映画は数多くあるが、この映画(原作)ほど頻繁に、しかもランダムに時間を移動するのはめずらしい。こっけいなのは、ヘンリー(エリック・バナ)が「いまここ」の時空を飛び去ってしまうと、あとに彼の衣服が残され、別の時空に移動した彼は、素っ裸で、あわてて衣服を探さなければならないという点である。ただし、タイムとラベルして来た人間や異星人が裸であるのは、『ターミネーター』や『ブラザー・フロム・アナザー・プラネット』でも見られたように、別にめずらしくはない。
◆ヘンリーのこの特異体質は、母親(マイケル・ノルデン)が運転する車に同乗していて、事故に遭っために生じたらしい。冒頭のシーンで、彼女は運転しながら後部座席の幼いヘンリーとドイツ語の歌をを口ずさんでいる。それは、有名なクリスマスの賛美歌「一輪のばらが咲いて」(Es ist ein Ros')であるが、それをドイツ語で歌うということは、彼女がドイツ系であるという設定だろうか? あるいは監督がドイツ人なので、ドイツ語にこだわったのだろうか?
◆タイムトラベルものの面白さ以前に、この映画には、ある種の「孤独さ」と「優しさ」と「律儀さ」があり、それをつまらないと思えば、この映画に取り得はない。いまの時代、子供のときに出会った相手と結婚するなんて御仁はそうはいない。子供のころに会ったことをずっと大切に思っていて、再会したときにそれが恋愛に発展するなどという「律儀さ」を維持している者はめずらしい。が、ヘンリーとクレア(6~8歳:ブルックリン・プルール、成年以後:レイチェル・アダムス)の関係は、そういう稀に見る例である。
◆しかし、二人がこういう関係を続けることができたのは、ヘンリーがたえず時空を移動するからではないか? いわば、二人でたえず旅行をし続けているかのような関係であり、たがいに飽きる暇がない。
◆タイムトラベルの方法として面白いと思うのは、同一人物Aでも、違う時間・時代のA1、A2を同じ場面で出会わせたりするところだ。この場合も、方法的に面白いというよりも、人は自分を意識するとき、まさにこの映画のヘンリーとクレアの子供のアルバ(4~5歳:テイタム・マッキャン、9~10歳:ヘイリー・マッキャン)のように、違った時空に生きる自分がいまここに現出しているということも言えるのである。
◆われわれは、通常、シーケンシャルな時間でものを考える。知覚できるのは、「いま」だけで、過去の自分や他人や出来事は、「いま」の時間相のなかでは消えている。同様に、「未来」はまだ来ない。だが、それは物的対象として知覚できないだけで、想像や記憶のなかにはちゃんと残っている。そういう「物的」ではないが、ヴァーチャルには「対象」となりうるもの・人を、映画は映像として併置することができる。その意味では、この映画は、映画のそういう機能を12分に活用した。
◆エドガー・アラン・ポウの「息の紛失」という天才的な短編のなかに、<ウィリアム・ゴドウィンは、その『マンデヴィル』で「目に見えないもののみが実在する」と言っている>という一文があった。
◆この映画は、一つの人格を時間で分離したが、「多重人格」も、ある意味では「時間の旅人」だと言えないこともない。ただ、「多重」というとらえ方がいかにも「近代」流だとすれば、この映画の世界では、「多重」があたりまえになっている。ここでは、自己愛も親子愛も同性愛も、幼年と老人との愛も、等価になってしまうようなところがあり、それをもっと過激にすると、面白い映画ができるだろう。
◆ヘンリーは、時間の分裂症(しかも心理的な分裂ではなくて存在論的な分裂)であるが、その基本は、「ホーム」(本拠/家庭)がないということだ。もう大分むかしからわれわれは「ホーム」を失っている。少なくとも、物理的・身体的な「場」としての「ホーム」は、いま、危機に瀕している。その意味で、(この映画に登場する遺伝子学の博士によると「クロック・ジーン」[時計遺伝子]の異常をきたした)ヘンリーは、きわめていま的な人間であり、わが身で子供を生めるという点で依然として「ホーム」を持っている女性は、夫や恋人の(無責任な)「失踪」のために、クレアのように、淋しい思いをいだかなければならない。
◆クレアがヘンリーに言うセリフのなかに、この世を去った人の部屋を模様替えしないで「そのままにしておく」というのがあった。使い捨てがあたりまえの時代には、人はどんどん模様替えをし、引越しし、物を捨て、建築も都市の相貌もどんどん変わってしまう。そこでは、記憶のやどる場所がない。「ホームレスネス」が常態となった20~21世紀だが、ここに来て、場所への執着が少しづつ再起しているような気がする。まあ、家族が死んでも、部屋を残し、世代交代が起こっても都市を昔のままにとどめるならば、そこには、「過去」が亡霊のように居つき、生き延びるかもしれない。近代は、それを「後退」と呼ぶが、前近代はむろんそうは考えなかったし、脱近代の時代には、前近代的な考えがもう一度復活するかもしれない。
(ワーナー試写室)


2009-09-04
●ヴィヨンの妻 桜桃とタンポポ (Viyon no tsuma/2009/Negishi Kichitaro)(根岸吉太郎)  
Viyon no tsuma/2009/Negishi Kichitaro ◆太宰治生誕100年を記念して作られた。そうか、まだ百年か、と思う。1948年に愛人と多摩川上水に飛び込んで自殺してしまったが、その名声は死後ますますひろまった。それだけの仕事をしていたということでもあり、また、登場人物の生き方があたかも太宰自身であるかのような装置(「私小説」装置)を設定・起動させることに成功し、それがずっと自動起動してきたからである。逆にいえば、太宰は、自分のフィクションのリアリティを不動のものにするために、その登場人物の気分と感情を自作自演した。体をはってそうしたのである。ただし、入水自殺の現場には、彼が一旦入水したものの、後悔して逃げようとした形跡が残っていたらしい。だから、彼が実際に登場人物たちのようであったかどうかはわからない。
◆映画は、短編の「ヴィヨンの妻」をベースに、太宰の「私小説」装置と凡百の太宰伝によって定着した「太宰の私生活」とをないまぜにして作られている。
◆種田陽平の美術はすばらしい。妻・佐知役の松たか子が、さすが歌舞伎俳優の娘は違うなと思わせる、一時代まえの「日本の女」の感性をわずかににおわせる演技を見せる。夫で「太宰」のイメージとだぶる作家・大谷役の浅野忠信は、破綻なくこなしてはいるが、「太宰」にしては「健康」すぎるなという印象を残す。意外とよかったのは、(まだしゃべり方には難があるが)大谷の愛人・秋子を演じる広末涼子である。とりわけ大谷との「最後」のセックスシーンが見事である。飲み屋の夫婦を演じる伊武雅刀と室井滋は、ベテランの演技。飲み屋で働くようになる佐知に想いをよせる若い工員・岡田を演じる妻夫木聡と、若い佐知を愛していたが、長い空白ののちに再会する男・辻役の堤真一は、悪くはないが、どっかちがうという感じ。
◆太宰治入門としては、手堅く作られているが、原作と比較すると基本的な違いに気づく。全然トーンが違うのだ。原作は、妻の佐知の目から夫を見ている世界で、終始あっけらかんとして、「困ったちゃん」である「詩人」の夫をつっぱなしている。そこには、「太宰」にしては「明るい」トーンが横溢しているが、映画は、どちらかというと暗く、原作の(一見明るいがゆえの)諧謔がないのである。
◆この原作の時代設定は、1945年に戦争が終わってからまもない「戦後のどさくさ」の時代である。いまでは想像できないかもしれないが、このころ、世の中に金はなく、わたしの記憶でも、小学校で同級だった子の父親は、一家を支えるために「米泥棒」をして捕まった。遠足に行って、弁当(といってもコンビに弁当ではなく、みな手作りの、たかだか、ご飯の真ん中に梅干が入っているオニギリ程度である)を開くと、浮浪者の少年がそれを奪いに来るといった時代である。とにかく、食うのに困る日々が存在したのである。映画は、大谷が走るシーンから始まるが、彼は、行きつけの飲み屋の金を奪って逃げて来たのだった。子供と女房に飯を食わせたいという想いが、そんなことをさせたのだが、泥棒の自信などないはずの細腕の作家がそんなことをしても不思議ではない状況が、1940年代末の日本にはあったのだ。
◆警察に突き出すぞと飲み屋の夫婦に迫られたとき、佐知は、機転をきかせ、わたしが働いてお返ししますと言って、飲み屋に押しかけ、そのまま店員になってしまう。そういう機転のよさと楽天性、たちまち店で人気者になってしまう佐知のキャラクターが原作の中心だが、映画は、金と女にだらしがなく、おまけに「死にたい」病の持ち主で、浮気の相手と心中未遂まで起こしてしまう大谷の「困ったちゃん」ぶりの方にウエイトを置く。
◆原作でも、妻夫木聡が演じる青年・岡田が、佐知に惚れ、小金井に帰る佐知の電車を何度か一緒したあげく、大谷不在の彼女の家に来て、酔っ払って玄関で寝てしまうというようなことがあるのだが、映画の描写は、二人のあいだに起こることを次のような文章で簡単かつ効果的に表現している原作には及ばない。この部分を読めば、「ヴィヨンの妻」は、映画のより、はるかにしたたかであることがわかるのである。
 さうして、その翌る日のあけがた、私は、あっけなくその男の手にいれられました。  その日も私は、うはべは、やはり同じ様に、坊やを背負って、お店の勤めに出かけました。
◆「したたか」だと言ったが、太宰は、「困ったちゃん」の夫を持つ妻の苦渋を描くことも忘れない。映画にも出てくるが、中央線に乗っていて、佐知は、夫が雑誌に書いた「フランソワ・ヴィヨン論」というタイトルの文章の広告を見る。原作は、「私はそのフランソワ・ヴィヨンという題と夫の名前を見つめてゐるうちに、なぜだかわかりませぬけれども、とてもつらい涙がわいて出て、ポスターが霞んで見えなくなりました」、と書いている。映画には、この深みは出ていない。
◆映画のなかの大谷も実際の太宰も、自分を憎み、嫌悪しながらも、ナルシステヒックに自分の世界にこもり、「(いっしょに死んでも)いいわよ」と言って、薬を飲んでくれた秋子と自殺未遂を起こす。その結果、妻がどういう思いをし、迷惑をこうむるかは全然考えない。頭のどこかにそういう意識は浮かんだかもしれないが、結果的には、世間をシャッタウトできたわけだ。ある意味で「大人」になれない人物なのだが、いつの時代であれ、そういう人物はいるし、それを責める権利は誰にもない。家族であれば、(秋子が意識をなかなかとりもどさなかったので、大谷は逮捕される)留置された夫に接見しに行かざるを得ないが、それは、家庭をやっていれば、いたしかたのないことだ。妻や親は、「大人」になりきれない身勝手で馬鹿な夫や息子(娘も?)を突き放すわけにはいかない。映画は、このへんの感じをうまく出しているが、では、果たして、太宰治がこういう感覚を共有していたかどうかはわからない。彼は、結局、自分の世界に突っ走ってしまった人間だ。他人のことはどうでもよかったはずである。
◆【追記/2009-10-10】初出で、上記の6段目以降の「大谷」が「岡田」と誤記されていたことを親切な読者のかたから指摘された。キーボードのコピー機能、恐るべしである。基本的に「校正」しないので、こんな馬鹿げた誤りが起きる。ほかにも何かありましたら、遠慮なく、お教えください。
(東宝試写室)



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