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 粉川哲夫の【シネマノート】

今月気になる作品

★★★ 3/5 マイ・ブラザー (←リンク参照)。   ★★★★ 4/5 ブライト・スター いちばん美しい恋の詩 (←リンク参照)。   ★★★☆ 3.5/5 告白 (←リンク参照)。   ★★★★ 4/5 殺人犯 (←リンク参照)。   アウトレイジ (未見だが、トレイラーで見る「ヤクザ」たちの啖呵の切り方、怒鳴り方がワンパターン。無理すんなよという感じ)。   ★★★ 3/5 FLOWERS フラワーズ (←リンク参照)。   ★★★ 3/5 クレイジー・ハート (←リンク参照)。   ★★★★ 4/5 パリ20区、僕たちのクラス (『キネマ旬報』6月20号に短評を書いた)。   ★★ 2/5アイアンマン2 (ミッキー・ロークはよかったが、もっと生かすことができた。今回は、すべての出演者に関してそういう不満が残った)。   ★★★★ 4/5 闇の列車、光の旅  (←リンク参照)。   瞬 またたき (これも未見だが、気になる)。   マイケル・ジャクソン キング・オブ・ポップの素顔 (ありあわせの映像のつぎはぎではないかという説もあるが、まだ試写の機会がない)。   ★★★☆ 3.5/5 ザ・ロード (←リンク参照)。   ★★★★ 4/5 ボローニャの夕暮れ (←リンク参照)。   ★★ 2/5 イエロー・ハンカチーフ (←リンク参照)。   ★★★★ 4/5 アルゼンチンタンゴ 伝説のマエストロたち (スタジオ録音現場の巨匠たちの姿と回想。ブエノスアイレスの街。涙)。   ★★★☆ 3.5/5 モダン・ライフ (←リンク参照/去り行くものに冷淡なわたしが面白いと思えたのは犬が怒り出すシーンだけだったと思ったが、見直してみたら、「自然に生きる」ということの意味を教えられるような気がした)。  


アイスバーグ!   ルンバ!   フェアウェル さらば、哀しみのスパイ   Flowers‐フラワーズ‐   ゾンビランド   終着駅 トルストイ最後の旅   ベストキッド   ようこそ、アムステルダム国立美術館へ   小さな村の小さなダンサー   踊る大捜査線 THE MOVIE 3  ヤツらを解放せよ!   トイ・ストーリー3   シークレット  

2010-06-23
●トイ・ストーリー3 (Toy Story 3/2010/Lee Unkrich)(リー・アンクリッチ)  

◆3D版の試写を選んだため、吹き替えヴァージョンだった。3Dといっても、まだメガネを装着する方式のだから、わずらわしい。そのうえに、字幕を見るのはめんどうだから、3D版が吹き替えヴァージョンになるのは、興行的にはいたしかたがないだろう。が、その代わり、オリジナルの印象とは大分ちがってしまうのは避けられない。すでに日本には、アニメの吹き替え用の達者なディスクール(ものの言い方やスタイル)が出来上がっているから、ウォルト・ディズニー・スタジオ・ジャパンの新スタジオのすばらしい音響・映像システムを通して見るこの作品も、印象としては、テレビでアニメを見るのと似てしまうのである。
◆3Dを意識しているために、横移動よりも、縦移動のシーンが多い。これは、ただ立体感を出そうとしているだけなので、平板に映る。特に前半は、子供っぽい印象が強く、『モンスターズ・インク』あたりから密度をどんどん高めてきたディズニー/ピクサーの2Dアニメにくらべると見ごたえがないような気がした。2Dヴァージョンのときに、プラスチックのおもちゃが「生命あるもの」に変身する面白さがあったが、それが3Dになると、人工物としての感じが強調されてしまい、変身の面白さが弱くなるのである。
◆最近の「3Dブーム」は、かつて映画がサイレントからトーキーへ、モノクロからカラーに変わったときのような映画にとっての大転換を予兆するのだろうか? メガネをかけて立体映像を見るというのは、全然新しくない。わたしは、もう半世紀もまえにそういう「立体映画」を見た記憶がある。が、いま、メガネをかけずに3次元映像を見せる技術が開発され、商品化されつつある。しかし、それが映画館の大スクリーンで普及するまでには大分時間がかかりそうである。まず、ゲームやコンピュータのモニターのレベルで普及することになるだろう。それは、時間の問題だ。
◆しかし、いま目にする3D映像は、まだ、映像表現としてはつまらないものが多い。量販店のモニターやテレビの売り場では、3D映像のデモをよくやっているが、物がこちらに飛んで来るのを見せているだけのようなお粗末なものが多い。こんな効果に映画が重点を置いたら、映画はこれまでの蓄積を相当程度犠牲にしなければならない。また、逆に、映画が本格的に3Dを導入するようになれば、トーキーが登場したとき、それに乗り切れなくて、映画界から去っていった俳優や監督がいたように、新しい状況に乗り移れない映画人がたくさん生まれるだろう。3Dは、製作・演技の側にとっても、また観る側にとっても、これまでの映画とは全く違う姿勢を要求するからである。
◆映画を観ることには、一つの型が出来ていて、それを越えることはできない。技術的にはできるが、いまの型を越えてしまったら「映画」ではなくなる。映画は、観客とスクリーンとが分かれていて、観客は一応「受動的」(体を積極的に動かさない)ことを前提にしている。だから、映画館で、たびたび頭の位置を変えたり、背伸びをしたり、立ち上がったりするのはご法度なのである。映画館という空間がそう出来ている。しかし、ゲームの世界では、それはすでに越えられている。ゲームではなくても、任天堂の「Wii」のように、体を積極的に動かすことを前提として作られている映像システムが普及している。3Dは、こういうシステムにとって都合のよいものであって、観客が椅子やソファに「受動的」にもたれかかって「観る」場合には、その機能がかなり制限されてしまう。3Dの技術は、VRやAV (Augmented Reality/拡張現実)のように、「観客」ではなく「操作者」に向いているが、映画は、「操作者」には向いていないのだ。そうなると、3D映画は、「観客」を一方的にどこか「未知」の世界(宇宙であれホラーの空間であれ)に連れていくとかしかなく、その効果は「驚かす」ことぐらいにとどまってしまうのである。
◆『トイ・ストーリー3』の台本自体は、決して3D向きには書かれていない。客席で「受動的」に見て、「感動」させ、「教え」、「考えさせる」古典的な映画のスタイルで書かれている。そこには、どうしても3Dでなかればならないというシーンはない。「古典的」な「映画」がどんなに「受動的」であれ、「観客」は、(少なくとも居眠りをしていなければ)想像力を発揮し、自分の意識のなかで3D世界を組み立てている。その意味では、3D映画は、「観客」のそうした想像力を萎縮させてしまう可能性もある。
◆この映画も製作総指揮をジョン・ラセターが取っているが、彼が製作するアニメは、みな、「健全」な意味で教育的である。それが、露骨ではなく、楽しんで観ているうちに、納得させてしまうような巧みな手さばきである。それは、ある種の「意識操作」ではあるが、どのみちハリウッド映画はそういう機能を捨てることができないとすれば、「操作」は「健全」なほうがいいだろう。
◆どこが「健全」かというと、この映画には、子供から大人への飛躍の不可避性と使い捨て文化への批判が根底にある点だ。ラセターは、「ヒキコモリ」や「オタク」を擁護する、というより前提して映画を作っている人だが、愛着するおもちゃや持ち物を簡単には手放せない「オタク」でも、ある年令に達すると、子供時代に使っていたおもちゃを捨てたり、整理したりしなければならなくなる。「トイ・ストーリー」のトイたちは、孤独な子供(おもちゃに語りかけ、家族の一員であるかのようにしていっしょに遊ぶ)のフェティシズムを形象化してもいる。「大人」になるということは、そういう意味でのフェティシズムと決別することだが、それはどういう形でなされるべきか? そんな「べき」をこの映画は暗黙に示唆する。捨てるよりも、誰かに受け渡すこと。
◆この映画には、「おもちゃ」を、ただの使い捨てのものとしか考えない子供たちが登場する。ウディ(声:唐沢寿明/トム・ハンクス)たちが「遍歴」のなかで閉じ込められる保育園の子供たちである。映画は、彼や彼女たちをワイルドでアグリーな存在として描く。ここでは、マーク・トウェインの「トム・ソーヤー冒険」や、1930年代のシーリズ映画「The Little Rascals」(1970年代でもテレビで再放送されていた)といった世界で肯定された「腕白」や「いたずら小僧」が、むしろ否定されているのであり、もう「腕白でいい」とは言えなくなっている現実が浮かびあがる。これは、日本ではむしろ他の国々よりも先行している現実であるが、その先に何があるかは、まだはっきりとはしない。
(ウォルト・ディズニー・スタジオ・ジャパン配給)


2010-06-22
●踊る大捜査線 THE MOVIE 3  ヤツらを解放せよ! (Odoru Daisosasen The Movie 3 Yatsura wo Kaihoseyo!/2010/Motohiro Katsuyuki)(本広克行)  

◆この映画は、織田裕二を御輿(みこし)にまつりあげた「お祭り」だから、映画として論じるのは馬鹿げている。この「映画」は、「観たよ」「面白かった?」「まあまあね」というレベルで見られるべきものであって、真剣にああだこうだ言うことを最初から排除している。オタク的には、出演者やテレビとの細部の比較も可能だが、その場合は、かなり大雑把で期待を裏切られるだろう。すべてが、織田裕二的な「まあ、いいんじゃないすか」の感覚なのだ。
◆とはいえ、いや、だからこそ、この映画には、日本の「いま」があらわされてもいる。何が「標準」なのか、具体的にはマスメディアが「マス」(大衆――そういうものが存在するとして)をどうとらえているか、企業や政府が宣伝や教育(学校のだけでなく)を打つ場合に何を価値基準とするか・・・といった面がこの映画にはよくあらわれてもいる。
◆非常に「ありがち」なパターンがくりかえしあらわれる。湾岸戦争から最近までアメリカ映画の「悪役」に「イスラム系」の人間(人物設定)が多かった(最近少し変わりつつある)が、この映画の「悪役」ないしは「ネガティヴな人物像」が、「派遣」や「ネットゲーマー」らであり、彼や彼女らのたまり場が「インターネットカフェ」であるというのもありがちなパターン設定である。当然「ハッカー」もポジティヴなイメージではとらえられないが、警視庁が「サイバー犯罪」の摘発に乗り出している「いま」、小泉孝太郎が演じている「ハッカー」的警部はポジティブで「カッコイイ」存在として描かれる。捜査の過程でどこかから「拉致」されてきてパスワードの解析を強要される「ハッカー」男は、もとは「ワル」だがいまは警察に協力しているという中間的な設定。基本的には、ハッカーは社会の余計者なのである。
◆テロや殺人予告の脅迫とひきかえに刑務所にいる重罪犯の釈放を要求するというのもありがちなパターンである。しかし、獄中から指令を発し、かなりのところまで警察を振り回すカルト的な人物は、小泉今日子の演技力と入れ込み方のおかげで、もっとふくらませたいキャラクターになった。『羊たちの沈黙』の例もあるから、この設定自体は安いとしても、小泉はよかった。そういえば、深津絵里もうまいなと思わせる演技を見せていた。
◆湾岸暑が新しい建物に引越し、そこが厳重な電子セキュリティで守られているが、逆にそのために、署員たちが内部に閉じ込められて右往左往するという「ハイテクの矛盾」は、月並みなパターンである。予想されるように、こうした「ハイテク」には、「足を使った捜査」や先輩や経験者の知恵が対比される。いかりや長介が演じた「和久さん」の甥という設定の「和久くん」(伊藤淳史)が、「和久さん」が残したメモをたびたび持ち出し、それが捜査に効果をあげるというのも、「ハイテク」批判のパターンである。
◆「ハイテク」が自動的に起動し、人間が制御できなくなるというパターンは、そろそろ願い下げにしてもらいたい。そういうことは、ありえるとしても、その原因はつねに人間にある。電子機器やソフトを買って、使い勝手の不便さや誤動作を指摘すると、「仕様です」という答えが返ってくることが多い。ふざけた話である。そういう「仕様」を不動の前提とするならば、「ハイテク」はどうにもならないしろものである。しかし、ハイテクの「ハイ」なるゆえんは、それをいつでも修正でき、さらには「オートポイエシス」的に自己修正できる自己能力にあるはずだ。「仕様です」という言い方は、店頭で在庫を尋ねたときの最悪の返事「出ているだけですけど」と同様の怠慢さと、まずい料理を出して文句を言われたレストランのシェフなりマネージャーが「うちのお味です」(自分のとこの味に「お」をつけるな)というような居直りである。これ以上書くと、映画とは関係のない気難しい文句になりそうなので、これでやめる。ここで書いたことは、この映画を見るのには余分なことである。
(東宝配給)


2010-06-16_2
●小さな村の小さなダンサー (Mao's Last Dancer/2009/Bruce Beresford)(ブルース・ベレスフォード)  

◆実際にバレーの才能のある人物が役を演じているのだから、その才能を開花させてゆくプロセスの描写は、面白くないはずがない。1970年代の初め、まだ「文化大革命」(文革)が続く中国で少年リー(ホアン・ウェンビン)は、山東省の村から北京の舞踏学校に入る。村にバレーの若い才能をオルグしにきた視察団の役人の目にとまったからである。最初役人は、小学校の教室に来て、生徒たちを一人ひとり見る(何で見るだけでわかるのか?)程度のおざなりのテストしかしなかったが、リーの才能を見込んでいた担任の先生のたっての推薦で、ようやく役人がリーをテストする気になり、合格したのだった。官僚制に寝そべった役人たちの権威主義や横柄さを見せ付ける描写である。ちなみに、この先生は、のちに「下放」を受けて、車でいずこかに連れ去られるシーンがちらりと移る。リーが彼に再会するのは、彼が世界的なバレーダンサーとして故郷を訪ねることができるようになってからだった。
◆文革は、最近では、ナチのホロコーストまではいかないとしても、それを肯定的に論じることは不可能になった。が、たとえば、ゴダールの『中国女』(La chinoise/1967/Jean-Luc Godard) にはっきりと出ているように、フランスをはじめとする1950~60年代のポスト実存主義の知識人(サルトルからアルチュセールまで)にとって、文革は、実存主義を脱出してマルクス主義に飛び移る(あるいは移行する)カタパルトの役割を果たした。言い換えれば、1970年代の西欧思想とりわけ「西欧マルクス主義」は、中国の文革への(いまの批判者なら言うであろう「妄想的」な)想い入れなしには形をなしえなかったのだ。これは、いかなる運動や出来事も、地理的・歴史的「距離」をへだてると、別のものになるという実例だろうか、それとも、文革には、いまはタブーとして隠されている別の能動的側面があったということなのだろうか? このへんに関しては、当時文革を支持していた論者から生産的な発言はなされていない。へたに肯定すれば、命取りになりかねないからでもあるが、文革否定の波の圧倒的な強さのまえで、その屈折を形にすることが難しいからだ。
◆この映画のなかでは、文革は、現在の「常識」でとらえられている。制作された舞台を江青(当時はまだ公式的には毛沢東夫人)が見て、バレー団の舞台に銃が見えないと言って機嫌を害し、再制作された舞台でダンサーが銃をかかえて踊るのを見て満面笑みをたたえるというシーンがある。そのどちらもがあえて低レベルの仕上がりになっていて、本気で批評しても仕方がないが、このシーンでの江青は、完全にカリカチュアされている。彼女が当時どんどん悪しき政治主義に突っ走っていたとしても、演劇を見る江青の目はここまでは曇ってはいなかったほずだ。1972年に日本に中国上海舞劇団が来日し、「白毛女」と「紅色娘子軍」という、まさにこの映画で江青がご満悦のスタイルの公演をやったが、その身ぶりのブレヒト劇的な鋭さは半端ではなかった。それは、プロパガンダであることは確かだが、それを突き抜けた演劇的水準をマークしていた。
◆この映画のなかだけで判断しても、江青が否定するだらけた「舞踊」よりも、彼女とその取り巻きたちがご満悦の舞台のほうが、様式化や構成度の点で、ずっといいような気がした。この映画からこの部分だけを拡大するのは適切ではないだろうが、アートと政治(状況)との関係はいつもねじれているのであり、すぐれたアート表現は、つねに、「状況にもかかわらず」という逆説のなかでなされたのだと思う。そういえば、ロラン・バルトは、1960年に書いた舞台評のなかで、「パリの選良が『母』のうちにプロパガンダ劇を見たのは、非常に盲目なことであった。カトリックの立場を選んだからといってそれがクローデルの作品のすべてでないように、ブレヒトのマルクス主義に対する選択が彼の作品を汲みつくすものではない」(『エッセ・クリティック』、晶文社)。
◆この映画のリーは、「状況にもかかわらず」芽を出し、世界的なバレリーナになっていくのではあるが、その「状況」(文革)は、当時の言い方に従えば「弁証法的」にとらえられなかればならない。つまり、動的かつ相互的な関係のなかでだ。リーが、文革時代の北京舞踏学院で徹底的に鍛えられ、それがなかったら、彼の将来はなかったことはいうまでもない。その場合、北京舞踏学院が、「文革にもかかわらず」どのように生徒を教育したか、その屈折は、この映画では微塵も描かれていない。まるで、もし彼が最初からアメリカかヨーロッパのバレー学校に入学する機会を与えられていたら、もっとすぐれたバレリーナになったかもしれないといいたげである。しかし、歴史に「イフ」は無意味だとしても、リーが、文革時代の緊張と屈折のなかで育ったことは確かなのだ。むろん、だから、「文革は有意義だった」というロジックはなりたたない。言いたいのは、すぐれた表現や人物は、いつの時代も、決して「最上」の環境で生まれるわけではないということだ。
◆ツァオ・チーは、ちょっと演技が硬く、アマンダ・シェルは演技が稚拙ではあるが、全体として、ある種の「ビルデゥーングス・ロマン」および「ラブストーリー」としては見られなくなない。が、文革に関してはいたしかたがないとしても、ディテールの描写において、この映画はかなりずさんである。たとえば、中国で英語を勉強してきたはずのリーが、アメリカで知り合って愛するようになるエリザベス(アマンダ・シェル)と抱き合い、深い関係に入りそうになったとき、エリザベスが、「わたしは処女なの」と言うと、リーは、「virgin」の意味がわからず、けげんな顔をする。そこで彼女は、「セックスをしたことがないの(I had never sex before)」という。しかし、リーはそれでもわからないので、彼女は、「You know sex is」(セックスってわかるでしょう)と聞く。すると、彼は、「うん、わかるよ1、2、3、4、5、6のシックスだろう?」と答えるのである。これがジョークなら、聞き流せなくもないのだが、この二人の俳優は大真面目でこの台詞をやりとししている以上、これは、リーが「virgin」という言葉も「sex」という言葉も知らなかったということになる。そんなことは、リーが天才で「世間知らず」だとしても、ありえない話で、少なくともこの映画のような普通のレベルのリアリティを追う作品の台詞としては安易すぎる。そして、この安易さがこの映画の全体の水準をあらわしてもいる。
◆エリザベスとの結婚に対して中国大使館が見せる態度、それに対抗し、リーを支援する、弁護士(カイル・マクラクラン)をはじめとするアメリカ側の人間たちの態度は、非常に表面的だ。まるで、この種の事件の要約をスポーツ紙で読むときのように、奥行きが見えない。同様に、結婚はするが、どんどん著名になっていくリーと、家で孤独な日々を過ごすことが多くなるエリザベスとの破局も、もっと描き方があっただろう。そういえば、リーをアメリカに呼ぶヒューストンのバレー団の主任ベン(ブルース・グリーンウッド)は、明らかにゲイであることがわかる描き方がされているが、そうだとしたら、当初、ベンが一人で住む家にリーが寄宿していたとき、ベンがちらりと見せる彼への「愛」も、もう少し奥行きを持って描いてほしかった。そうすれば、リーのさまざまな人間関係に厚みが出たであろうし、ときおりこいつはアンドロイドじゃないのかと思わせるシーンが改善されただろう。
(ヘキサゴン配給)


2010-06-16_1
●ようこそ、アムステルダム国立美術館へ (Het nieuwe Rijksmuseum/The New Rijksmuseum/2008/Oeke Hoogendijk)(ウケ・ホーヘンダイク)  

◆暗闇に不気味な音が響く。壁が崩れ、掘削機の音がする。寂しげな音楽が聴こえ、創造よりも破壊の雰囲気がただよう。光が射す穴が開き、充満する埃のなかに「出口」が見えるが、それは、「未来」へではなく、困難のなかに吸い込む入口のように見える。重苦しい音楽とともに、溶接機が鉄筋を焼き切る赤い火花が画面に広がるが、それは、まるで戦火を思わせる。そういえば、このドキュメンタリーの監督ウケ・ホーヘンダイクは、世界のホロコースト・ミュージアムを批判的にとらえたドキュメンタリー (The Holocaust Experience/2003) を撮っているらしい。
◆しかし、ホーヘンダイクは、最初からアムステルダム国立美術館の改築プロジェクトを批判的にとらえるために撮影を開始したわけではないだろう。改築を野心的に推進する館長のロナルド・デ・レーウと各部門のそれぞれにスノビッシュであったろオタク的であったり、プロを鼻にかけているような「学芸員」たち、そして改築を担当する二人のスペインの建築家、アントニオ・クルスとアントニオ・オルディスのコンビ。彼らに密着して撮影をするのに、最初から批判的な態度では記録ができないだろう。
◆いや、いまになって、ふと思うのだが、この映画が最初に発表されたのが、2008年11月のアムステルダム国際記録映画祭においてだったから、改築計画のトラブルが明るみに出てから編集にかかっても、十分間に合ったはずだとすれば、ホーヘンダイクの胸底には、最初からこの美術館そのものを批判的にとらえるねらいがあったかもしれない。実際、両袖に分かれているこの美術館の中央の通路は、南地区へ徒歩や自転車で行く重要な通り道になっていたから、2004年にこの中央通路が閉鎖されたとき、市民とサイクリスト協会は抗議の声を上げ始める。この映画にも、サイクリスト協会のマリヨライン・デ・ランゲの抗議発言が出て来るが、「オランダの国家としての最盛期を象徴する美術品の宝庫」といわれても、地域住民にとっては、毎日世界中の観光客でごったがえし、ありがた迷惑な場所でもあったのだ。また、膨大な改築費は、市民の納めた税金からも負担されるわけだから、教育文化科学省も改築に賛成ではないのだった。
◆ピエール・カイパースが設計し、1885年に開館したときには、この美術館は、19世紀に爛熟する諸理念を集積していたかもしれない。そして、近代の「表象的」視覚形式を人々が儀礼的に遂行する儀式空間(近代の伽藍)として十分に機能したのだろう。しかし、もはや美術館は、もはやそういう機能を発揮できないし、「伽藍」的なものへの人々の欲求は、マスメディのほうにうつってしまった。だから、美術館は、20世紀になって、マスメディアの空間性を模倣するようになる。そして、それならば、美術館は、フィジカルの場である必要はないわけだが、建築物というフィジカルな場に執着しているために、中途半端なものとなり、「歴史的遺産」を抱えているという思い込みのために、ディズニーランド的な空間にもなりきれない。その意味で、この映画は、美術館の終焉をまざまざと記録したドキュメントということになる。何でもアムステルダムは時代に先行するから、こういう事態が、今後、世界の大美術館で起こらないとはいえない。
◆近代文明は、収集と再現と展示の理念のなかで動いてきた。侵略と植民地化がこれらの理念を大規模に(国家的規模で)実現してきた。国立美術館のコレクションは、大英博物館の例を見るまでもなく、植民地や強大な権力の行使の証である。展覧会、つまりコレクションの公開は、勝利した国家や民族の歴史を展示する。その際、その公開の仕方は、距離を置いて「ながめる」という表象形式に向かう。「表象」とは、英語では「リ・プレゼント」つまり「そこにある」(プレゼント)ものを「再・現前」させることであるが、なぜ「再」になるかというと、そのものに対してつねに「距離」をとらせるからだ。ものそのものに直接関わらせることはない。ちなみに、古代の「美術」は、「観客」が触ったりして「鑑賞」できたし、そもそも「鑑賞」という観念にはそぐわなかった。近代には、建築も「美術品」になり、「記念物」になってしまうが、建築は使うものであり、古代の建造物が、「美術」だとしても、その「美」は「用」の美だった。
◆アムステルダム国立美術館の場合、それを19世紀の一つの記念建造物・保管所ぐらいのものとして保存の方向で改築するにとどめれば、このようなトラブルは起こらなかったかもしれない。クルスとオルティスは、カイパースの建築理念をひたすら壊そうとしたわけではなく、一部は、むしろ、60年代に分断化された展示スペースをカイパースの理念に引き戻し、広いスペースに時代の異なる作品を展示するような改造も計画していた。(冒頭にリンクしたYouTubeの画像は、彼らがプレゼン用に作ったシュミレイション映像の一つである)。しかし、基本においては、(いつも満員で)さばききれない来館者を収容し、レストランやミュージアムショップの機能を「充実」させ、かつ21世紀の建築らしい実験もとりいれようという野心は大いにあったことは否めないし、やり手の館長レーウはそういう路線を推進し、予算がどんどんふくれあがっていったのだった。
◆現代の美術館は、どのみち、芸術を利用した複合的な「ショッピングモール」とディズニーランド的なエンターテインメント・スペースになるしかない。これは、音楽ホールも同様であり、いまの時代、美術館やコンサート(特に外国の作品を展示した美術展や、外国のオーケストラを招聘した演奏会)などに行くのなら、料亭やレストランで美食をしたほうが、よほど五感を創造的に刺激される。
◆アムステルダム国立美術館の館長ともなると、日本などとは権力の規模がちがう。ロナルド・デ・レーウは、ある時期から改築計画に嫌気をさし、館長を辞めることを内心で決めていたらしく、ウィーンに自宅を購入するが、夏季をすごすための別荘がイタリアにもあり、セルビアに贅沢は事務所を持つ建築家のアルティスに、「あなたは世界中に家を持っているんですね」と皮肉られるシーンがある。館長職を辞任し、アムステルダムから引っ越すとき、ちらりと映る彼の家には、(おそらく国宝級の)絵があるのが見える。
◆映画のなかに、レーウが日本に来て、正倉院を訪ね、金剛力士像を買い付けるシーンがある。あとのほうで、アジア美術の学芸員のメンノ・フィツキが、「2年半かけて購入にこぎつけた」と大喜びをしながら、届いた金剛力士像の荷解きをするシーンもある。金額はいくらだったのか知らないが、けっこう「日本文化の遺産」が海外に流失しているのね。まあ、ゴッホの絵だってそうだから、創られた土地にいつまでも残る作品は少ないのかも。ここでもグローバリズムが。
◆後任の館長には、「無派閥」のヴィム・パイベスが就任し、レーウが推した(?)20世紀美術担当のヴィム・デ・ベルが選ばれなかったが、新しい収集担当のディレクターには、17世紀美術担当の学芸員だったタコ・ディビッツが就任した。レーウは、この美術館は20世紀の作品収集に弱く、「20世紀のものはアールデコしかない」と言っていたが、彼は、この美術館を「現代美術」にも拡大する野心があり、その期待をヴィム・デ・ベルにかけたのだろう。完成したあかつきに開く展示の打ち合わせの席で各学芸員(キュレイター)がそれぞれに野心を開陳するシーンは生臭い。
◆修復作業に熱意を燃やす修復士(女性ばかり)や、「この建物は女房みたいなもんだ」と語る警備員レオ・ヴァン・ヘルヴェルンの姿も映るが、彼女たちや彼の仕事への情熱はわかるが、修復士の手つきは、「商品」を仕上げるエンジニアの手つきを思わせたし、「この美術館の人間以外は通さない」と言って、通路をベニヤ板で閉鎖するレオの姿は、とてもこの空間を市民に明け渡す気などないような感じに見えたが、これも、監督の批判的なレンズのせいか? とにかく、デテールにこだわれば、いろいろな観方ができる映画である。
(ユーロスペース配給)


2010-06-15
●ベストキッド (The Karate Kid/2010/Harald Zwart)(ハラルド・ズワルト)  

◆予備知識なし、もらったプレス見ないといういつものパターンで映画を見はじめて、主役のドレという少年の顔が、ウィル・スミスによく似ているなと思った。あとでデータを見たら、彼の実子だった。キャリアウーマンの母親(タラジ・P・ヘンソン)の転勤で北京にやってきた繊細な少年を見事に演じている。運動神経はあるが、映画のなかで成長するような強靭さを持っているようには見えないところが、かえっていい。父親の後ろ盾なしにはこの役を得ることはできなかったかもしれないが、まあまあ今後いい俳優になるのではないか?
◆この映画のキャスティングは悪くない。ドレが親しくなる「良家の娘」メイを演じるウェヌェン・ハンは、どういう経歴の子役かは知らないが、彼女が演じる少女は、アメリカから来たドレに興味を持ち、ヴァイオリンを弾き、英語もわかる娘。いつも妙に親しみのある笑いを浮かべていて、キュートである。ドレの師匠となる空手の名人ハンをジャッキー・チェンが演じるが、これほど脇役として控えめで「真面目」顔の演技をするチェンを見たことがない。こういうのも出来るんだという印象。自動車事故で妻を亡くし、アパートメントビルの雑役係をやっているが、空手はめっぽう強い。彼が空手の世界にいるわけではないのには、いろいろな過去の事情があるらしいが、そういう過去を漠然とにおわせながら、寡黙を貫いているキャラクターをジャッキー・チェンは見事に演じる。ドレをいじめるチョン役のチェンウェイ・ワンは、若年ながら凄い「悪役」を演じている。この俳優は、今後楽しみだ。
◆映画としては、1984年の『ベスト・キッド』(The Karate Kid/1984/John G. Avildsen)よりも出来がいいと思うが、映画として特に凄いところがあるわけではない。だが、その「教育」効果と時評性を取り入れた営業的配慮は、なかなかしたたかである。1984年の『ベスト・キッド』(The Karate Kid/1984/John G. Avildsen)は、主人公を白人、移動はニュージャージーからカリフォルニアへだった。そうした選択には、時代性や時評性はあまりなかった(あるとすれば、シングルマザーの家庭であることぐらい)が、今度の主人公は黒人(アフリカン・アメリカン)であり、デトロイトから北京へ移る。オバマ政権のアメリカでは、アフリカン・アメリカンを主人公にすることは、白人の場合よりも今様という印象をあたえる。さらに、いまのアメリカにとって中国は最大に関心の的である。その意味では、非常によく計算された「傾向映画」でもある。
◆この映画を見れば、一般にアメリカが中国をどう見ているかがわからないでもない。アメリカは、共産党系の「古い」中国を恐れている。この映画で悪役になっているのは、ドレをいじめるチョン(チェンウェイ・ワン)とその仲間たちだが、彼らは、リー(ユー・ロングアン)が率いる道場の門弟である。広場で100人単位の門弟たちが、真っ赤なユニホームを着て練習している姿は、規律で一斉に同じ動きをする(とされる)全体主義的な「共産主義」社会のステレオタイプのイメージである。リーは、つねづね弟子たちに、「弱さ、痛さ、情けは無用」と教え、クライマックスの試合のときも、あくどい計略をしかける。これは、古い中国のステレオタイプである。
◆しかし、アメリカの昔の「反共」傾向映画とはちがい、そういうステレオタイプを提示し、それをやっつけるような終わり方はしない。その試合に臨むドレが(師匠ハンからこの試合のために贈られた)真っ白な試合着を着ているのは、意味深長である。ドレ自身は、「ブルース・リーと同じだ」と喜ぶだけだが、それ以上の意味がある。なぜなら、ロシア革命の昔から、「赤色ロシア人」と「白系ロシア人」とは対比関係にあり、前者は共産主義支持、後者は、その政権を逃れて亡命した貴族などを指したからである。しかし、その「赤色」のユニフォームに身を包んだチョンたちが、最後に示す態度のなかに、アメリカが中国共産党(その新世代)をどう見ているかがうかがえなくもない。中国は依然共産党の指揮下にあるが、その古い世代といまの若い世代とは全然考え方がちがうとアメリカは考えている。そのあたりが、身ぶりではっきりと示されるので、注意して見てほしい。
◆ドレが恋するメイの父親、その家の描写に、中国で進んでいる階級差があらわされている。中国で、市場や小路地での雰囲気とは全く違う光景がどんどんひろがっているのは、外から傍観していてもよくわかる。中国はどこへ行くのか? この映画は、中国の暗部や問題の個所には全く立ち入らないから、中国としては、大歓迎であろう。撮影には、協力を惜しまなかったようで、万里の長城のうえでハンがドレに空手を教えるシーンもある。実際に一般観光客がこんなことをしたら、どうなるだろう?
◆ドレとメイがデイトをする影絵劇場のシーンと、ある日、亡き妻と子供を思い出して悲嘆にくれている師ハンを見つけ、訓練を「無理矢理」頼んで外に出て、棒術的(?)な稽古をするシーンとにワヤン的な影絵が出て来て、先日、バリのワヤンを川村亘平さんに見せてもらったばかりなので、なかなか面白かった。
(ソニー・ピクチャーズ 映画マーケット部配給)


2010-06-10
●終着駅 トルストイ最後の旅 (The Last Station/2009/Michael Hoffman)(マイケル・ホフマン)  

◆「トゥルーストーリー」というものに飽きることがある。このジャンルは、ひとつ確立されたものがあり、それなりの文法と結構があるわけだが、それが鼻について見続けることが出来なくなるのである。この映画を見ているときは、全然そうではなかったが、いざそのレヴューを書こうとする段階になって、書けなくなってしまった。なんで「トゥルーストーリー」は、どいつもこいつも「それっぽさ」を重視するのか、しかもその「それっぽさ」は、既存の写真や映像を模倣しているにすぎない。こういう表現の基本にふれる疑問におちると、ことはやっかいである。
◆この映画では、クリストファー・プラマー演じるレフ・トルストイも、夫人ソフィア・トルストイを演じるヘレン・ミレンも、実物を模倣している。ヘラン・ミレンは、どんな役を演じても、エリザベス女王のそっくり度を越えることはないから、逆に安全だが、プラマーの場合、とても「ロシア人」には見えないその風貌にもかかわらず、衣装だけ模倣しているから、すべてが日本の新劇シェイクスピアのように見える。そう、基本は「新劇」なのだ。そう割り切って見ないと、こういう作品は楽しめない。
◆新劇や翻訳小説を読むフィルターをかましておいてから見るならば、この映画が描くのは、「理想」に走りすぎる高齢の人物と、それでは家庭も家計もたちゆかないと思って「現実」的な対応をする妻とのあたりまえの物語であり、そういう男の理想主義を煽ることが生きがいの侍従的男(チェルトコフ/ポール・ジアマッティ)とそいつと「理想」主義老人とのあいだでどちらにも忠誠をつくそうと気をもむ助手(ワレンチン/ジェームズ・マカヴォイ)が、こういう老人と妻とのあいだにしばしば出来がちのラディカルな悪女的娘(マーシャ/ケリーコンドン)を愛してしまい、おろおろするというエピソードがつく。映画としては、登場人物の心理の綾を眺めて楽しむことになるが、トルストイ解釈にとってどれだけこの映画が役立つかどうかは疑わしい。
◆こういう映画は、俳優たちの演技のディテールを楽しまなければ、意味がない。その点では、ジアマッティは、うまいし、ホームドクター役のジョン・セッションズも悪くない。
◆この映画の取得は、「三大悪妻」の一人に数えられるソフィアにあたりまえの人間としての顔をあたえたことだろう。彼女は、決して「悪妻」ではなかった。むしろ、トルストイのほうが「悪夫」だったのだ。映画でも出てるように、ソフィアが13人もの子供を生み、育てたという事実は尋常ではない。昔の女性は子沢山だったとしても、13人は多すぎる。ソフィアの場合、乳母や召使に恵まれ、子育ての労働は、貧乏人の比ではないとしても、13人を借り腹で生んだわけではない。そして、ソフィアが、『戦争と平和』の草稿を6回も清書しなおしたと言うのは重みがある。まあ、「偉人」として世に知られるようになる人間というのは、みな身勝手である。この映画は、そういう面をそれほどキツくは表現しない。トルストイのそうした身勝手さや、「精力絶倫」的な怪物性を強調して描いたならば、その「実像」にもっと迫れただろう。
◆トルストイが「悪夫」であるかは置くとして、彼が、家を出たということには、「実存的」な決断があったはずだ。「偉大」な文学者の決断というより、82歳という高齢の男のやや「認知症」的な決断が。ただし、この映画は彼のそうした決断の核心には迫らない。だから、この映画は、高齢者が見ても、そこに自分に共通するものを見出し、共感をおぼえることは難しいだろう。
(ソニー・ピクチャーズエンタテインメント配給)


2010-06-08_2
●ゾンビランド (Zombieland/2009/Ruben Fleischer)(ルーベン・フライシャー)  

◆アメリカでこの映画のようなサタイヤーの感覚が生き残っているのは元気づけられる。日本では、近年、急速に「皮肉」や「冗談」(なんちゃって、うそうそ」)のカルチャーが衰えているという意識をわたしは持っている。これは、テレビで多くのコメンテイターが毎日毎日文句ばかり言い、党首も「冗談のように」ではなく、本当の冗談としてくるくる変わり、しかもパニックが起きないという冗談=現実があたりまえになったからだろう。冗談は、現実へのある種の(批判的)距離が必要であり、そういう距離を取る余裕がなければ起動しえない。この映画は、冒頭、ちらっと「星条旗永遠なれ」のメロディがながれ、以下、冷めた実況放送のナレーション調で、「ピープル(人々、人民、国民)がいなければ国家はない。が、もうピープルはいない。・・・ここは、ユナイテッド・ステイイツ・オブ・ゾンビランドだ」と来る。この皮肉なナレーションにかぶって、『パリより愛をこめて』のジョン・トラボルタのようなゾンビがいきなり飛び出してきて、襲いかかり、肉をむさぼる。なるほど、ブッシュ政権のアメリカは、人間を人間がむさぼるような空気をふりまいた。が、それをいまこのように風刺できるということは、アメリカはまだ「ユナイテッド・ステイイツ・オブ・ゾンビランド」ではない。
◆ゾンビの国で生き延びることができる人間はどのようなタイプか? 映画は、二人の男と二人の女を描く。ナレーションをしているのは、コロンバス(ジェシー・アイゼンバーグ)という若者。おそらくゾンビランド化する以前は、どちらかというとイジメられるタイプの「孤独」な「ヒキコモリ」系の青年だったにちがいない。自分でも、「ローナー」だったと言っている。彼は、自分に「32」のルールを課することによって生き延びる。ナレーションで「32」あるといううち、映画で「例示」(これがこの映画のユーモラスでクールなスタイルになっている)されるのは10例だけ。その一つは、ゾンビに追われたときに逃げ切ることができる「カーディオ」(「有酸素運動」と訳されることも多いが、要するに心臓[cardio]を鍛えるエクササイズ。マスターベイションのことも言う)。次に、「ダブル・チェック」(ゾンビを撃つときは一発だけではなく、もう一発とどめをさす)、「トイレに注意」、「(車に乗ったら)シートベルトをする」、「身軽に移動する」(ただし、「これは持ち物のことだけじゃない」とコロンバスはつけくわえる――つまり「定住者」にならないということだ)、「ヒーローにならないこと」、「柔軟体操をする」、「あやしいときは、出口を確保する」、「後部座席をチェックする」、「些細なことをたのしめ」。
◆コロンバスが、ルール通りに生き延びる過程で出会うのがタラハシー(ウディ・ハレルソン)であるが、このカーボーイのような出で立ちのマッチョ男も、実は繊細で「こだわり」の人であることがわかる。彼は、体力と運動神経が発達している分、コロンバスのような厳密なルールを決める必要はない。しかし、彼を生き延びさせてきたのは、直感と、「こだわり」とセンチメンタルな繊細さだ。彼は、息子をゾンビに殺されたことを忘れない。ゾンビとの闘いは、その怨念に裏打ちされている。それから、彼は、スナック菓子の「トゥインキー」に目がない。いまでは体に悪い食品として有名であるが、こういう馬鹿げた駄菓子を必死で探す「幼稚さ」は、苦境を生き抜くささえになる。また、映画好きで、ビル・マーレイの映画は全部見るくらい敬愛している。彼らが、ハリウッドのマーレイ邸に忍び込むくだりは最高。
◆なお、俳優ウディ・ハレルソン自身は厳密な菜食主義者(ヴィーガン)で、トゥインキーは絶対に口にしないので、彼がそれを食べるシーンの撮影にあたっては、特別の菜食仕立ての「トゥインキー」を作ったという。
◆ふたりが道すがら出会うことになるウィチタ(エマ・ストーン)とリトルロック(アビゲイル・ブレスリン)の姉妹は、少女時代から、「つつもたせ」的な詐欺行為をして生活してきたらしい。「善良」や「かよわさ」を装って人をだます才能が身についている。こういうタイプも、「ゾンビ帝国」で何とか生きていくことが出来る最後の人間のタイプである。
◆コロンバスは、ゾンビが横行する以前から、「ゾンビ的な奴」は避けてきたと語る。ゾンビとは、何も考えることをせず、相手を襲い、むさぼり食うことしか知らない利己的な欲望マシーンにほかならないが、裏を返せば、人間は、程度の差はあれ、ますますそういう道を歩んできているのであり、世界は「ゾンビランド」になりつつあることを思えば、最後に生き残ることができるのは、この映画に登場する4人のタイプということになるのだろうか?
◆この映画には、エンドロールの最後の最後におまけ映像がある。これを見逃さないでほしい。ここでウディ・ハレルソンがビル・マーレイに言ってくれるように頼む台詞は、「サタデー・ナイト・ライブ」系の映画『キャディーシャック』(Caddyshack/1980/Harold Ramis)のなかでビル・マーレイが言って非常に受けた台詞である。ゴルフ場に穴をあける野生のリス(gopher)に手を焼いたマーレイ(カール・スパックラー)は、穴にダイナマイトの導火線を仕掛けながら言う、「In the words of Jean Paul Sartre: 'Au revoir, gopher'.」。直訳すれば、「ジャン・ポール・サルトルの言葉で言うならばだな、バイバイ、ホリネズミちゃんってとこだね」。この際「サルトル」はどうでもいい。この爆笑喜劇では、この野生のリスも立派なキャストで、その小憎らしくもひょうきんな表情(むろん人形を使った特殊効果)をして笑わせる。
(日活配給)

2010-06-08_1
●Flowers‐フラワーズ‐ (Furawazu/Flowers/2010/Koizumi Norihiro)(小泉徳宏)  

◆蒼井優、鈴木京香、竹内結子、田中麗奈、仲間由紀恵、広末涼子の5「大」女優たちが競演するのだから、大いに興味をいだいていたが、なぜか試写に行く機会を逸した。試写状の絵柄も、蒼井の顔の丸いモノクロ写真のまわりに赤い花弁状に5人の女優の顔が囲み、花を想わせるという華麗なデザインで、映画の仕上も洒落ているだろうという予感をあたえもした。この日は、試写の最終日(公開は6月10日)で、30分まえに着いたら、東宝試写室の廊下にはすでに長い列が出来ていた。
◆<シネマノートは「結論」がわかりにくい>という注文があるので、結論から先に書くと――5人の女優たちはそれぞれにいい演技をしていたし、時代色をその時代に一般的だった画調(モノクロやテクニカラーなど)を使ってあらわすなど、ちゃんとした時代考証にもとづく物や町並みのエイジングとともに、なかなか楽しめる仕上がりだった。ただ、わたしのように、すぐ映像のポリティックス(とりわけミクロな――つまり無意識の政治)を気にする者には、途中から、「これって少子化対策キャンペーンじゃないか」という印象をぬぐえなかったということは記しておきたい。登場する女たちが、みな、子供を生み、育てることが「幸せ」であり、時代をつないでいくことなのだといわんばかり(実際に台詞でもある)なのだが、女性たちは賛同するだろうか? まあ、観て損はないから、観てからみんなで議論してみてください。とりわけ、若い女性の意見をうかがいたものです。え?これでは「結論」ではない? まあ、話を難しくするのは得意でも、「平易」にするのが不得意なわたしにそれを期待しても無理なのです。
◆この作品も、『RAILWAYS[レイルウェイズ] 49歳で電車の運転士になった男の物語』、『ALWAYS 三丁目の夕日』、『ALWAYS 続・三丁目の夕日』を手がけたROBOTの阿部秀司がエグセクティブプロデューサーをつとめている。
◆すべての作品に英語がアルファベットのまま使われているのも示唆的で、ROBOT/阿部秀司は、一貫した路線を意識しているのである。それは、一言にして言えば、ハリウッド型の「国民教育」である。しかし、ハリウッド映画の「国民教育」との違いは、ハリウッドの場合は、市民が国家に対して「造反」する権利をもうたっているアメリカ合衆国憲法にのっとるかのように、ときには国家への反逆を教育したりもするが、ROBOT/阿部秀司映画の「国民教育」は、一貫して「保守主義」のすすめである点だ。
◆教育や啓蒙は、イデオロギーや思想を投げつけるのでは効果がない。そういうものが効果を持つ場合にも、日常的な場面で日々行われる「感情教育」のつみかさねがあって可能となる。映画は、その意味で、効果的な教育・啓蒙装置であり、単なる「娯楽」のつもりで楽しんでいるうちに、マインドだけでなく、身のほうも一定の方向に動くことを動機づける機能を持つ。不特定多数の観客を動員する装置(テレビも大量生産品も)は、いずれも、そういう機能を持っているが、それを製作側が意識し、より明確な方向づけをするかどうかは、大きな違いである。
◆ROBOT/阿部秀司映画の大きな特徴は、(1)「昔はよかった」という印象づけをする点と(2)あたかもその時代を目の当たりにするかのような繊細で手の込んだエイジングの操作と技術がたくみな点である。この映画では、最初、6人の女たちを短く映す。まず雨のそぼ降る東京でタクシーから降りる鈴木京香。これは、現在(2009年)らしい。次は、両脇に竹がそびえる道を歩いて行く田中麗奈。海辺の竹内結子。広い草原を子供と歩いている仲間由紀恵。列車が走る壮大な雪景色が引くと、広末涼子が登場(ここは『鉄道員(ぽっぽ屋)』みたい)。再び一転して桜の景色になり、着物姿の蒼井優が映る。そして、画面がモノクロに変わり、「昭和11年4月」の文字とともに、窓から桜が見える和風の家と、その2階で「吉田絃二郎」などの文字が見える本のならんだテーブルで憂鬱な顔をしている蒼井の本格的な登場となる。この導入部は、なかなか手際がいい。
◆この映画は、一つのファミリーを描いているのだが、そのなかで一番古い時代の娘を演じるのが蒼井であるというのも、面白い。モノクロで描いても、蒼井は蒼井であり、その「現代性」はぬぐいきれないからだ。それを、いまの時代にはお目にかかれない(だから映画としては「らしく」に描ける)「権柄尽」(けんぺいずく)――こんな表現があった――な父親(塩見三省)が登場して、彼女の「現代性」を1930年代に味付けし、観客は彼女を「昔の女」なのだと思うしかなくなる。が、塩見は、シャイさを頑固さで覆い隠している「昔の男親」という設定だが、いまどきは、狂っているがゆえにこんな感じの若者もいないわけではないので、多少は「昔」を知っているわたしなどは、必ずしもこの時代表現に納得するわけではない。見合いをし、式の日取りも決まっているのだが、蒼井がうかない顔をしているのは、父親が勝手に決めた結婚に、当時の女としてはあけすけに反発しているからである。こういう頑固な父親と(当時としてはわがままな)娘とのあいだをとりもつのは母親の役どころというのもパターンだが、それがこの映画のスタイルであり、母親を演じる真野響子は、その条件を十分に意識しながら最上の演技を見せる。
◆モノクロシーンは、結婚式の当日、蒼井が白無垢の衣装を着たまま外に飛び出し、この分だと、『プリティ・ブライド』でジュリア・ロバーツ演じるランナウェイ・ブライド(出奔花嫁)の方向に展開するのかと思わせながら、彼女の走るモノクロの足が、ジャズの流れるカラーの画面のなかに消え、鈴木京香がタクシーを降りるときの足に融解する。「平成21年5月」という文字が出て、「現代」であることがわかる。彼女は音楽ホールの会場の楽屋に入るが、うかぬ顔をしているのはなぜか? 彼女はピアニストか? ちらりと映る大聴衆のまえで華麗なピアノ演奏を披露するのではないかという予感。が、彼女は、「譜めくり」(ページ・ターナー)にすぎないのだ。何かの事情でピアニストになりそこねたのか? が、ストーリーを追うのは、このへんでやめておこう。
◆広末涼子が鈴木京香の妹役つまり「現代」の女性を演じているのは、キャスティングとしては実に賢明だ。彼女は、あいかわらず「ただいま」が「タライマ」となり、"歯科矯正世代"の発音しかできないからである(ただし、今回はいつもよりはひどくない)。が、この映画では、いつも笑顔を忘れない人は、その笑いの背後に深い哀しみを隠しているという法則そのままの女を演じていて、これなら、へたをすると「へらへら笑うんじゃねぇ」とどならせそうな笑いが身についている広末にはうってつけの役である。
◆鈴木と広末の母親が仲間由紀恵で、彼女も、深い哀しみと運命を背負って笑顔を見せ続けているといった薄倖の女を見事に演じていて、これも、キャスティングがにくい。
◆仲間由紀恵には二人の姉(竹内結子と田中麗奈)がいる。竹内は、登場したとき、なんかぎごちない(わざと明るくしているような)笑いを見せるので、へたくそだなと思ったが、それは、彼女がその笑いの下に押しやっている哀しみとの関係で生まれた笑いであることが次第にわかり、なるほど(しかし、ちょっと演技しすぎかな)と思ったのだった。
◆この映画のなかで一番「つっぱった」感じの女を演じるのは、田中麗奈である。眉毛のつり上がったあの顔からして、適役なのだが、彼女が出版社の編集者として登場する場面には、「昭和44年7月」という文字が出る。画面はすべて一時代まえのカラー(「天然色」)に変わり、う~ん、60年代から70年代の前半期の映画的記憶(当時の映画と時代の空気とによって刷り込まれた記憶)をなかなかよく押さえているなと思った。「時代色」を出す映像テクニックとしては、田中の出るシークエンスが一番成功しているかもしれない。
◆田中麗奈は、有名小説家(長門裕之)の担当編集者で、会社では日々同室の男性社員から「セクハラ」に遭うが、そんなことにはめげない。当時はみんなそうだった。そばで待機していないと原稿が書けない大先生のお守りは、当時はごく「あたりまえ」だったから、田中のような女編集者は何百人もいたわけだ。彼女は、口ではぽんぽん言うが、所詮は60年代を引きずっている女だから、勝間和代をうやまういまの時代の「カツマー」にくらべれば、おとなしいものである。ちなみに、この映画では田中だけが、特に深刻な悩みをかかえてはいない。しかし、結婚し、子供を生むことが女の幸せであるというロジックには、最終的に、逆らわない。
◆田中が70年代に結婚し、子供を生んだとすれば、その子は、「現在」、年令的には30代のはずだ。その子は、「現在」に生きる鈴木や広末とどういうつきあいをしているのだろうか? 映画にそれらしい場面があったのかもしれないが、うっかり見落とした。わたしの印象では、いまの30代は、日本流の「集団主義」(「団塊の世代」が身をすり寄せた)にはなじめず(そのくせ、ケータイによるリモートの手離れのいい擬似集団性に依存せざるをえない)、といって西欧流の「個人主義」に徹するわけにもいかず、けっこう生きるのに苦労しているようにみえる。彼や彼女らにとっては、この映画から得る教訓は、あまり多くはないのではないか? 映画で「国民教育」をするのなら、この世代に照準を向けなければなるまい。
(東宝配給)


2010-06-01_2
●ルンバ! (Rumba/2008/Dominique Abel + Fiona Gordon + Bruno Romy)(ドミニク・アベル/フィオナ・ゴードン/ブルーノ・ロミ)  

◆めずらしい2本立ての試写。が、『アイスバーグ!』を先に見てしまうと、若干、この映画の面白さが薄れる。というのも、この映画は、『アイスバーグ!』とほとんど同じテンポと雰囲気のギャグが使われているからである。特にわたしのように、『ルンバ!』を先に見ていて、『アイスバーグ!』を今回初めて見た者は、後者の魅力のまえで前者が若干かすんでしまう気がするのである。しかし、一貫しているのは、アベル/ゴードン/ロミのスタイルであり、それが好きなら、十分に楽しめる。
◆『アイスバーグ!』でイヌイットの女性の表情が実によかったが、こういう撮り方は、ドミニク・アベル/フィオナ・ゴードン/ブルーノ・ロミの3人組の独特の才能かもしれない。今回は、冒頭でフィオナが英語を教える教室で見える子供たちの表情が同じように「自然」でユーモラスなのである。最後のほうの、海岸のパラソルの下にいる犬の表情もいい。
◆今回、二人を離ればなれにするのは、「倦怠感」のようなものではなく、事故である。二人の日常生活はドタバタ喜劇風にパタン化されて描かれるが、型にはまって退屈では全然なく、軽快なルンバのリズムのように反復的で、そのつど新鮮なのだ。そこには、たとえ退屈のなかにすら、楽しさがあるわけだ。「ルンバ」というタイトルは、そんなことを思わせる。
◆二人を引き裂く事故は、自動車事故である。鉄道自殺を試みようとした男ジェラール(フィリップ・マルツ)が、なかなか来ない列車にしびれをきらして、今度は道路を走る車に飛び込んでやろうと道端に立つ。たまたまそこにフィオナを乗せてやって来たドムは、レンガの陸橋の壁に衝突し、大怪我をする。フィオナは片足を失い、ドムは記憶を失う。問題のジェラールは、どこかに逃げてしまったらしい。
◆記憶喪失のドムと片足のないフィオナとの生活が始るが、悲惨な事実が前提されているので、観る側としては、二人がドタバタをくりかえすたびに、何か痛ましい感じがしないでもない。この両義的なトーンが、この映画と『アイスバーグ!』との大きな違いである。ここには、ひと時代まえにはよくあった「身障者」による見世物を見せられるようなきわどい雰囲気がある。だが、そうした両義的な「悲壮さ」は、二人をそんな目に合わせてしまったことを深く後悔しているジェラールの意識でもある。つまり、映画は、二人をどんどん追い詰めて行き、そのあげくにジェラールに出会わせ、彼にある種の「償い」をさせるのである。が、その「償い」は、大げさなものでは全くなく、むしろ偶然の産物にすぎない。
◆ドムは、家に帰る道がわからなくなって、海岸の町にたどりつく。『アイスバーグ!』のフィオナと似ているが、こちらは、別に家を離れたくなってそうしたわけではない。が、逆にいえば、家や生活が嫌になって家を出ることも、記憶を失って家を離れることも、その無意識の深層では、同じことかもしれない。その場合、別離がそのままになることが多いとすれば、再会は、偶然しかない。が、その偶然を生かせば、二人はまたやって行けるかもしれない。記憶がなければ、毎日がいつも新鮮なのだから。
(フランス映画社配給)


2010-06-01_1
●アイスバーグ! (L'iceberg/2005/Dominique Abel + Fiona Gordon + Bruno Romy)(ドミニク・アベル/フィオナ・ゴードン/ブルーノ・ロミ)  

◆この映画は、2度見るといい。最初にアジア人に似たイモい(失礼!)女性(リューシー・チュルガルジック)が登場し、自分がイヌイット(エスキモー)の最後の子孫で、これから、「わたしがどのようにして夫と出会ったかについて話させてください」と、イヌクティトゥット語で語るのだが、次のシーンから展開するドラマは、およそこの女性の印象とは無縁である。当然、観客は、ナティクトゥクと名乗るこの女性が、いつどこで登場するのかが気になる。しかし、その気配はなく、次第の彼女のことを忘れてしまう。が、最後に彼女が登場し、なるほどこういう手があったのかと思うと同時に、この女性が持つ不思議な包容力とパワーに魅惑され、もう一度最初のシーンを見てみたくなるのだ。
◆イヌイットの女性ナティクトゥクを演じるリューシー・チュルガルジックは、実際にイヌイットのルーツを引く女性らしい。すでに俳優として活動しているが、あたかも地ないしは「素人」のような笑いが、妙に魅力的で、印象深い。着ている服は、いまの時代のダウンコートなのだが、その表情と言葉は、遠く日本の原住民(アイヌ)などと同じルーツを感じさせる。イヌイット語のことは知らないが、破裂音を含んだ「ガ」ないしは「カ」、「ッタ」、母音を含む「ネ」、「ル」は古代日本語との、「・・ミラ」は、朝鮮語とのつながりを感じさせる。
◆ナティクトゥクが出たあと展開するのは、クラウン(道化師)芸人でもあるドミニク・アベル/フィオナ・ゴードン夫妻のドタバタ的に様式化された独特の世界。20年前に妹が火災事故で亡くなって以来、聾唖状態になっているルネを演じるフィリップ・マルツもサーカス芸人。みな体が鍛えられている。床を歩くのにもタップダンス調であったり、パンツとシャツを逆にはいたり、朝食のパンにバターをつける身ぶりの奇妙さ、すべて滑稽だが、日常生活がパターン化しているという暗示もある。
◆一言で言えば、この映画は、二つの「愛」を描いている。一つは、平凡な夫婦フィオナ/ジュリアン(フィオナ・ゴードンとドミニク・アベル)の壊れかかる愛。もう一つは、イヌイットの女性と、心身疾患的な問題を抱えているルネとの劇的な出会い。
◆フィオナが家を出てしまうのは、別にジュリアンが嫌いになったためでもなさそう。きっかけは、ハンバーガーショップの冷凍室に閉じ込められてしまうという事故。一晩家に帰ることができなかったのに、夫のジュリアンも2人の子供たちも、何も心配しない。が、だからといって彼らは、彼女を嫌っているわけでもない。ある種の惰性倦怠感がこの家庭を支配しまっているのかもしれない。「ああ、もういやだ!」とフィオナは思い、夢遊病にかかったかのように家を出て、あてどもなく歩き、バスに乗る。行き着いた果ては、起点のブリュッセルからフランス国境を越え、対岸にイギリスがある海の見える素朴な田舎町バルフール(Barfleur)。ここで、彼女は、孤独に小さなボート(名前は「タイタニック」)を所有しているルネと出会う。しかし、絵葉書をもらって、あとから追いかけてきたジュリアンが合流して、スラップスティック的な船旅をし、最後にあのイヌイットの女性と出会うというのは、かなりの飛躍。イヌイットの女性は、自分の船で漁業か何かにやってきたのだろうが、カナダの果ての地に住むイヌイットがこんなところまで船でやってくるのだろうか? それに、3人があんな薄着で海につかるのだから、とてもありえない話である。しかし、そんなことはどうでもいいというのが、あるいはその「不条理」さ(アプサーディティ)が、この映画の面白さである。
(フランス映画社配給)


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