2012年10月公開

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2012年10月公開アウトレイジ ビヨンド   ★★★★★コンフィデンスマン   ある詐欺師の男 ★★★★★マヤ 天の心、地の心  ★★★★★推理作家ポー 最期の5日間  ★★★★★ミステリーズ 運命のリスボン情熱のピアニズム ★★★★★SAFE/セイフ ★★★★★キック・オーバー ★★★★★エクスペンダブルズ2  ★★★★★思秋期 ★★★★★菖蒲 ★★★★★アルゴ ★★★★★危険なメソッド ★★★★★シャドー・チェイサー  ★★★★★ザ・レイド ★★★★★声をかくす人 ★★★★★終の信託 ★★★★★HOME: 粉川哲夫のシネマノート
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2012年10月公開
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アウトレイジ ビヨンド   ★★★★★

Autoreiji: Biyondo/2012/Takeshi Kitano(北野武)

◆日本という社会では、家庭や親密なあいががらのなかでさえ、本音を言い切れることが少ないのではないか?  映画の世界と現実とを取り違えては困るが、しかし、アメリカ映画のなかでfackingまじりでズケズケ言う言い方は、アメリカ人の実際の生活のなかにもあり、ものの言い方は、現実でも日本語よりもはっきりしている。この感じを日本語でやると、大体は浮上がる。若い人ではっきりとものを言う人がいて、なかなかいいな、こういう人とならいっしょに仕事が出来ると思っていると、いきなり消えてしまったりする。伝わってくる噂によると、周りとうまくやっていけなくて仕事をやめてしまったのだという。出る釘は打たれるということなのかもしれない。だから、みな、言い方には気を使い、どぎついことを言わないようにする。そんな神経症的バランスでやっともっているのが日本という不思議な社会である。

◆ヤクザ映画では、ヤクザはずばりものを言う。目上に向かっては言えないが、下の者には言い過ぎるほどどぎついことを言う。おそらく、日本社会で遠慮しながら暮らしている者は、ヤクザ映画のストレートさで溜飲が下がるのだろう。ヤクザ映画にはそういう機能がある。

◆今回の『アウトレイジ  ビヨンド』で一番言いたい放題を言うのは、加瀬亮が演じるインテリヤクザの石原、山王会若頭である。加瀬がヤクザ役を演るのは初めて見たが、なかなか達者である。加瀬はますますいい線を行っている。しかし、この言いたい放題は、最後にはこっぴどい仕打ちを受ける。やはり、ヤクザ社会とてフリースペースではなかった。ヤクザは、決して言いたい放題を言っているわけではないのである。

◆でも、俳優は、ヤクザを演じると、みな解放された感じになるのはなぜだろう?  やはり、普通に日常に比べればヤクザの世界のほうが言いたい放題できるという前提がある。このごろ電車のなかで明らかにあちらの世界の人だとわかる(あるいはそれをこれみよがしにしている)人を見受けないが、おおまた開きで座っている奴に、「おい、邪魔なんだよお!」とヤクザみたいに言ってみたい意識は誰にでもある。いずれにしても、日本社会の不自由さや不条理さのバランスを取っているのがヤクザ文化である。

◆言いたい放題を言い、言葉で言いきれないことを暴力で補完するのがヤクザの流儀だとすれば、それが完璧に可能なのは、神山繁が演じる花菱会会長のようなトップだけで、下っ端は、仲間内で空威張りできない部分は、素人やそのヤクザ予備軍を相手にうっぷんを晴らすしかない。中野英雄が演じる木村・元村瀬組若頭のもとでチンピラをやっている嶋(桐谷健太)と小野(新井浩文)がさしずもそのクラスである。

◆ヤクザ映画では、こうした階級制が形而上学になっており、それを律儀に守る者は生き残り、裏切る者は殺される。今回、警察のマル暴の横暴が描かれるが、ヤクザなんてどうにでも操れるとうそぶく片岡刑事(アモラルな笑いを絶やさない小日向文世が好演)は、結局、身を滅ぼす。彼は、基本的にヤクザ的な怒声は発しない。彼は、操作の人であり、怒鳴るよりも裏工作に精を出す。ヤクザの世界も実際にはこの手の人物が実権を握っているはずだが、ヤクザ映画ではこういう人物が一番嫌われる。そして、そうした嫌悪は、日本の大衆文化として一つの〝庶民的〟感性になっている。

◆いつも乾いた笑をたやさない小日向文世はこの俳優の地を活かしているが、もうひとりいつも笑っている顔の堺雅人なんかにワルをやらしたらどうなのだろう?

◆普通の仕事現場でも、元気のいい奴の口調は、いつのまにかヤクザ調になる。それだけ、日本社会ではヤクザ文化がオールタナティヴの役割を担っているということだ。

◆この映画で、階級の形而上学からわずかに身をもぎ離している人物が一人だけいる。松重豊が演じるマル暴刑事繁田である。この〝無難〟さが、ねじれた階級制の日本で生き延びる唯一の賢い生き方かもしれない。

◆一回死んだはずなのに今回(理由はどうあれ)〝よみがえった〟元大友組組長の大友(ビートたけし)は、天皇である。

◆天皇制社会日本の縮図。

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マヤ 天の心、地の心  ★★★★

Herz des Himmels, Herz der Erde/Heart of Sky, Heart of Earth/Frauke Sandig + Eric Black(フラウケ・サンディッヒ+エイリッヒ・ブラック)

◆『キネマ旬報』10月下旬号の連載<ハック・ザ・スクリーン>に〝チアパスの流儀〟という文章を書いた。

◆フラウケ・サンディヒとエイリッチヒ・ブラックは、『Oskar and Jack』(1997) で、再会したときは一方はユダヤ人、他方はナチとして育てられた双子の兄弟の話を描き、『Nach dem Fall』(2000)では、ベルリンの壁崩壊後、ベルリンの東側と西側とに長く住んでいる人々にインタヴューし、『Frozen Angels』(2005)では、人間の再生技術(人造人間)についてのドキュメンタリーを撮っているという。だから、二人のドキュメンタリーにはリアルな社会意識があるはずなのだが、今回のドキュメンタリーのタイトルは、やけにスピリチュアルで、うっかり見過ごすところだった。

◆マヤの伝承をナレーションにして、マヤの血を引く人々を登場させるという体裁は、一見、スピリクアル志向の強いドキュメンタリーであるかのように最初は思う。そのうち、ここで映される場所はほとんどすべてメキシコ州のグアテマラ沿いのチアパスであることに気づく。

◆チアパスは、メキシコのグアテマラ国境に近い山岳地帯。が、わたしには、1990年代になって「革命」という言葉をあらためて思い出させた地名である。1994年、この地で、サブコマンダンテ(副司令官)マルコスという目出し坊をかぶった謎の人物に率いられるこの地の先住民ラカンドン族たちがサパティスタ民族解放軍(EZLN)が「蜂起」を起こし、サンクリストバルを占拠する。戦闘があり、死者も出たが、政府はEZLNを屈服させることはできなかった。詳細は、太田昌国・小林致広・編訳『もう、たくさんだ!      メキシコ先住民蜂起の記録』(現代企画室、1995年)参照。

◆EZLNは、インターネットがまだ世界的には一般化していなかった1995年の時点で、蜂起のニュースを北米のサーバーを使って、日々刻々報道していた。それは、インターネットの事件でもあった。そのために、メキシコ政府は、EZLNの一方的に弾圧することが出来なかったのである。わたしは、anarchyというサイトを始めたが、早速EZLNのサイトにリンクを張った。その痕跡はその「Old Pages」という個所(いまはリンクが切れている)に残っている。当時、MOSAICというブラウザでここにアクセスすると、モノクロの写真がジワジワ(回線のスピードが遅いので)とあらわれるのだったが、何とも感動的だった。

◆EZLN関係のネットサイトは多い。たとえば、Chiapas Support CommitteeRadio Zapatistaを参照。

◆武装蜂起の理由のひとつは、NAFTA(北米自由貿易協定)である。これによって、アメリカの安い農産物が入って来て、国内の農業が疲弊することへの批判である。この批判は、この映画にもずばり出てくるように、モンサント社などの遺伝子組み換えのトウモロコシが安く輸入され、先住民がマヤの伝承で神からの賜りものとするトウモロコシ(実に多様で美しい姿と色をしている)が売れなくなり、それによって疲弊した畑は砂漠化する。森の木の伐採もこの動向をエスカレートさせる。

◆この映画は、一見マヤの神話的世界へのノスタルジアや憧れを強調しているように見えながら、実は、随所に強烈な現実が描かれる。農業をやめざるをえなくなった農民が不法の出稼ぎのために乗る貨物列車(『闇の列車、光の旅』にも出てくる)も見える。先住民の住処から金が出たことからカナダなどの企業が大挙してやってきて金鉱にし、砂漠化しているシーン。グアテマラ内戦(冷戦のとばっちり:対立する米ソの力関係が国内にコピーされた)で家族を虐殺された者。そのとき自分の父が自警団(PAC)のメンバーとして同じ民族を捕まえ、虐殺した痛みをいだく男。

◆チアパスの運動は、この映画を見るかぎり、いまも続いている。それは、劇的ではないが、変革のイデーがいまや、マヤの先住民の歴史の幅を持っている。それは、神秘主義ではなく、現代のグローバリズムへ射程をしっかりと置いている。また、この運動は、血の伝統としてのマヤ先住民に収斂されることはない。むしろ「マヤ」は、グローバリズム的<グローバル>へのオールタナティヴであり、質の違う<グローバル>を指す。

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推理作家ポー 最期の5日間  ★★★★★

■The Raven/2012/James McTeigue(ジェイムズ・マクテヒーグ)

◆冒頭、文字で映画は、ポーが1849年10月7日にボルチモアのある公園のベンチでエドガー・アラン・ポーが死んでいるのを発見されたが、死ぬ<最後の5日間>は依然として謎であるということを説明する。しかし、すぐに映るジョン・キューザックのポーは、写真で見るエドガー・アラン・ポーのイメージとはほど遠く、その目も〝健康的〟で、間抜けな顔をしている。とはいえ、すぐに聞こえる悲鳴とともに提示される殺人事件と捜査のシーンは、なかなかサスセンシーヴで、その先を期待させる。ポーはただのいろどり(彩)だと思って見ることが出来る人には悪くないかもしれない。ちなみに、タイトル自身は、エドガー・アラン・ポーの傑作と言われる詩「大鴉」(1845年)を指している。

◆ポーの死の通説→1849年10月3日、ポーはライアン区第四投票所にあたる「グース・サージャンツ酒場」にて異常な泥酔状態に陥っているところを旧知の文学者にたまたま発見され、ただちにワシントン・カレッジ病院に担ぎ込まれたが、四日間の危篤状態が続いたのち、1849年10月7日早朝5時に帰らぬ人となった[51]。その間ポーは理路整然とした会話ができる状態でなく、なぜそのような場所で、そのような状態に陥っていたのかは誰にもわからないままとなった。その上奇妙なことにポーは発見されたとき他人の服を着せられており、また死の前夜には「レイノルズ」という名を繰り返し呼んでいたが、それが誰を指しているのかも分からなかった。(Wikipedia)

◆次々と起こる殺人事件。そのいずれも、ポーの小説『モルグ街の殺人』(The Murders in the Rue Morgue, 1841)、『落穴と振子』(The Pit and the Pendlum, 1942)からインスパイアーされたものであることがわかる。『赤死病の仮面』 (The Masque of the Red Death, 1842)を暗示する仮面をも使う。そして、ポーが愛するエミリー(アリス・イヴ)が誘拐される。彼女の父(ブレンダン・グリーソン)はポーを疑うが、ルーク・エヴァンスが演じる聡明なエメット・フィールズ刑事は、ポーに協力しながら謎を解いていく。エヴァンスの演技は、キューザックと交換したいほどいい。まあ、しかし、実際にこの映画の主役はルーク・エヴァンスなのだろう。

◆この映画で問題になるポーの小説は、青空文庫で佐々木直次郎訳が読める→『モルグ街の殺人』;『落穴と振子』。

◆映画に登場するエミリー・ハミルトン(アリス・イヴ)は実在しないし、ポーの作品にも出てこない。映画のためのフィクションである。

◆この映画は、ポーの死後も映す。病院の死の床で、彼の詩「夢の中の夢」(A Dream Within a Dream, 1827)が語られる。このシーンはなかなかいい。加島祥造の訳ではこうなる:

その白き額にぼくのキッスをうけてほしい!

そして、君と別れるいま、

これだけは言わせてほしい――

ぼくの日々が夢でしかなかったと思う君は

正しかったのだと。でもね、

たとえもし希望が飛び去ったとしても――

それもひと夜で、一日で、

幻の中へ、無のなかへ消え去ったとしても

それは夢とおなじではなかろうか?

だってぼくたちが見たり思ったりすることは、みんな

夢の中にある夢にすぎないからだ。

(『対訳 ポー詩集』岩波文庫)

◆映画はここでやめるべきだった。フィールズ刑事が植字工アイヴァンを撃つシーンは無意味であり、つや消しである。アイヴァンを演じるサム・ヘイゼルダインは、敬愛と嫉妬が織りなすこの人物の屈折をなかなかのアウラを放ちながら演技していた。

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情熱のピアニズム ★★★★★

Michel Petrucciani/2011/Michael Radford(マイケル・ラドフォード)

◆骨形成不全症という遺伝的な障害をもって生まれたミッシェル・ペトルチアーニ(1962~1999)の生涯のドキュメンタリー。〝感動的〟という定評だが、わたしは痛ましい感じがして、見るのがつらかった。

◆〝普通〟の生活ができない(外で遊べないのはもちろん)息子に音楽(それもジャズ)を聴かせ、その道に導いていった父親は偉大である。〝五体満足〟でこういう環境で育つ子はいても、それがミッシェル・ペトルチアーニのようになるとはかぎらない。教育の力は重要だろうが、もって生まれたものの力というものがあるはずだ。

◆ミッシェル・ペトルチアーニのジャズ演奏に関して思うのは、彼は引用の演奏家だということではないか。彼の演奏には、たとえばアート・テイタムそっくりの音、ビル・エヴァンスそのもののような音がある。それらは、彼が父親のオーディオ装置を通して記憶した音の再現であるのだが、それは単なる再現ではなく、ある種の<サンプリング>的再現なのである。彼の演奏の面白さとユニークさは、デューク・エリントンからチック・コリアにいたる幅のジャズピアノの演奏を記憶し、それらをサンプリングするところにある。それは、きわめて<今様>だった。ジャズは、1990年代には停滞したが、そのなかで彼が世界のジャズシーンで引っ張りだこになるのは、こういう新しさもあった。

◆ある意味で、ミッシェル・ペトルチアーニは、<器官なき身体>の人であった。むろん、彼は自分の体を独特の方法で使ったし、女たちとのつきあいでは、<立派>の男以上に肉体的であった。しかし、彼のピアノ演奏は、もし可能であるならば、その身体を消滅させることを欲求するような演奏、つまりコンピューターに取り込まれることを理想とするかのような演奏だった。そうした脱身体性を補ったのが、彼のガールフレンドたちである。このドキュメンタリーが、そういう身体の補完的関係をしっかりと映像化しているとは思えないが、見せられた映像からもそのことは想像できる。

◆彼の息子は、医者が懸念した通り、彼と同じ遺伝的障害を背負って生まれてきた。そのことは十分予測できたが、彼はあえて子どもの誕生を望んだ。その息子が彼と似たような顔と体で映っているのを目の当たりにするとき、なにか悲しい気持ちにならざるをえない。それは、生きていることの悲しさのようなものに直面する経験である。

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SAFE/セイフ ★★★★★

Safe/2012/Boaz Yakin(ボアズ・イェーキン)

◆ニューヨークのチャイナタウンを舞台にしたきびきびしたアクション。

◆中盤まで中国人の少女メイと、ジェイソン・ステイサムが演じる元ニューヨーク市警の刑事で格闘技の闘士という設定のタフな男のことが並行的に描写される。この数字の天才少女を演じるキャサリン・チェンは、ちょっと、『冬の小鳥』のキム・セロンを不機嫌にしたような感じで、その不機嫌そうな顔を場面場面でわずかに変化させる微妙な演技がなかなかのもの。長編ではこれが映画初出演とのこと。

◆この少女に長い数字のコードを覚えさせ、生きたメモリーにしようというチャイニーズ・マフィアのたくらみに、ニューヨーク市警でありながら、マフィア顔負けのグループ、ロシアマフィアなどがからんで派手な撃ちあいやカーチェイスをくりひろげる。ある意味、使い古されたスタイルではあるが、映像はマンネリ化していない。

◆レジー・リーは、中国人マフィアの一員の役で、脚本次第ではもっと厚みのある演技を出来るということを示唆する演技で、今後の作品が楽しみ。

◆ロシアマフィアもいるが、数では中国人が一番撃ち殺される数が多く、このへん、アメリカにもはびこる中国人嫌いの感情にリンクしかねない雰囲気はある。

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エクスペンダブルズ2  ★★★★★

■The Expendables/2012/Simon West(サイモン・ウエスト)

◆エンターテインメントとしてはサービス満点。

◆スターだらけで、みんな過去の映画的記憶を引きずっているから、それを引出しながら(ああ、これはあのときの引用かぁなどと)楽しめる。

◆作り手側としては、チャック・ノリスが売りだったかもしれないが、ちょっと丸みがでてしまっていて、あまり面白くはなかった。わたしは、それより、悪党を演じたジャン=クロード・ヴァン・ダムにほれぼれしたねえ。公開間近の『ハード・ソルジャー:炎の奪還』では、お助けマンを演じているが、悪党のほうも悪くない。

◆ソ連時代のKGBの<アメリカ人なりすまし教育>の街が廃墟になっていて、そこにこの一団が入ると、「Ray's Pizza」の文字が見える。いまでは全米にこの名のピザ屋があるが、もとはニューヨークだった。ヴィレッジの6th アヴェニューと11thストリートの角にあった店は、スライスを売る普通のピザ屋だったが、他店よりひときわ美味いので人気だった。映画のなかの埃にまみれた「Ray's Pizza」はここを想定しているのではなさそうだ。

◆ユー・ナンが終始ふてくされたような顔で登場するのがなかなかいい。

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思秋期 ★★★★

Tyrannosaur/2011/Paddy Considine(パディ・コンシダイン)

◆長編では監督第1作のパディ・コンシダインは、俳優としてはよく見てきた顔だ。わたしは、『ボーン・アルティメイタム』評でこんなことを書いた→ジェイソン・ボーン(マット・デイモン)がねらわれる秘密をかぎつける『ガーディアン』紙の記者サイモン・ロスを演じるパディ・コシダインは、わたしには、『イン・アメリカ』でついていない男を演じていたイメージが刷り込まれていたので、このロスがあっさり殺されてしまったので、何か気の毒な感じがした。いつも殴られてばかにいる役の俳優を「気の毒」と思うのと同じ。このひとが、ケン・ローチの最良の時代を思わせるような硬質で人間の業に迫る作品を撮るとは思わなかった。

◆どの俳優も登場人物の雰囲気を的確にあらわしている。キャスティングはパーフェクトである。アル中で仕事をしていないジョゼフという初老の男を演じるピータ-・ミュラン、ヴォランティア活動をするが奥深い悩みをかかえているハンナという中年女性を演じるオリヴィア・コールマン、ハンナの夫で、売れているデザイナーだが完璧に壊れていジェームズという男を演じるエディ・マーサン、差別意識むき出しの隣人役のポール・ポップルウェル(Paul Popplewell)、ジョゼフの旧友役のネッド・デンニィー(Ned Dennehy)、もう一人の旧友で死の床に臥す老人役の俳優もよかった。

◆この映画では、子どもも悩みや傷をかかえている。ジョゼフは、向けどころのない怒りや鬱積をかかえ、酒を飲み、ちかくから聞こえてきた言葉に八つ当たりし、若者に暴力をふるい、そのあげくに手ひどい仕返しを受ける。愛犬を蹴りつけるしか向けどころがない怒りとは、ぎりぎりの怒りではあるが、彼のなかに甘えがあることもたしかだ。しかし、そうわたしが言うのは、わたしがそれほどのどん底には陥ってはいないからだ。

◆最初、この映画の登場人物たちは、イギリス人のあるパターンであるシャイな感じの強い人々であるかのように見える。そういう面はないわけではない。しかし、しばらくすると、本当に彼や彼女はひどい苦痛をかかえているのだなということがわかる。そのなかで最たる例はハンナである。彼女は、ジョゼフとは違い、裕福な者が住むエリアに住んでいる。夫は高価そうなスポーツカーで帰ってくる。しかし、二人の関係は完全に壊れてしまっている。それがわかるショッキングなシーンがあるが、ここでは書かない。

◆オリヴィア・コールマンの最高の演技で表現されるハンナという女性は、ほんとうに悲しい、気の毒な女性で、観客は簡単には同化して、〝あなたの気持ちわかります〟などとは言えないはずだ。彼女の陥る絶望にくらべれば、ジョゼフの不幸はむしろ〝ぜいたく〟だ。

◆収監されているハンナにジョゼフが面会に行く最後のシーンは、それまでよりは少しマシな生活が彼や彼女に訪れそうな気配がある。

◆この映画は、暴力の源泉を鋭く問うている。人はなぜ暴力に走るのか、なぜ人を凌辱したり、他人に敵意をいだいたりするのか・・・。それは、人の性(さが)のためよりも、場所性の問題があるのではないか?  ここでは、犬までも暴力的になっている。

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危険なメソッド ★★★★★

■A Dangerous Method/2011/David Cronenberg(デイヴィッド・クローネンバーグ)

◆新作への期待が大きすぎたのか、最初がっかりした。歴史のひとこまをテレビの大河ドラマ風になぞっただけのような印象だったからだ。

インタヴューによると、クローネンバーグはユングについては、常識以上には関心がなかったらしい。が、クリストファー・ハンプトンの戯曲『The Talking Cure』(2002年)の舞台に親友のレフ・ファインズが主演しているので、本を読んでみたのだという。

◆ユングとサビーナ・シュピールラインとの屈折した愛に関してなら、「鯨の中のジョナ」(92)や「哀しみの日々」(05)のロベルト・ファエンツァによる「Prendimi l'anima 」(02) のほうが、最後はゲシュタポに殺されてしまう後年のサビーナと、ナチスに対してあいまいな態度をとったユングとの関係までおさえていて、見応えがあった。

◆ヴィゴ・モーテンセンが演じるフロイトは、すでに名高くもどこかに不満と自信のなさを隠している初老のフロイトをまのあたりにさせなくもないが、マイケル・ファスベンダーが演じる若きユングは、まるで風呂あがりのビジネスマンという風体で、敬愛するフロイトを訪ね13時間もぶっ続けで話をするシーンにしても、せりふは理論の話でも、ユングの態度は軽すぎるのである。

ヒステリー症の治療のためにユングのいる病院へ連れてこられるサビーナ・シュピールレインを演じるキーラ・ナイトレイは、クロネンバーグ監督とスカイプを使って検討したという顎を突き出すオーヴァーな演技でいっときは気を惹くが、だんだんそのワンパターンさが退屈になってくる。が、クローネンバーグ映画には欠かせない身体要素を一手に引き受ける。

◆映画的にわずかに新鮮さをあたえるのは、ヴァンサン・カッセルが演じるオットー・グロスの存在である。映画がこの人物に時間を割いたことはこれまでなかったと思う。彼はカフカの同時代人で、カフカは、彼の父親で犯罪学の創始者のひとりであるハンス・グロスの講義を大学で受けており、息子のオットーとも親交があった。オットーが複合的な依存症で夭折し、またカフカも病が亢進したために実現しなかったが、カフカと彼は雑誌を出す計画だった。オットーは、性的リビドーを抑圧・コントロールしないということをとなえ、のちに精神分析学だけでなくアナキズム系の政治学、さらには60年代のヒッピー運動にも影響を与えた。

◆映画で、グロスがユングを訪ねるのは、フロイトの薦めによってだが、あるいみ彼は、フロイトが差し向けた”刺客”だった。ヒステリー症の若き患者のサビーナを治療するなかでふたりのあいだに愛情が芽生え始めたとき、グロスがユングのもとを訪れ、”患者とやりたいと思ったことはないですか?”とたきつける。実は、彼はユングの治療を受けるために来たのだったが、ふたりの対話は完全にオットー主導で、ユングの方が逆に分析を受けることになる。カッセルはこのシーンで非常に説得力のある演技を見せるので、なぜオットー・グロスをメインにして構成しなかったのかと思う。実際、ユングが恐々と不本意に採用した”危険なメソッド”は、グロスにとってはあたりまえのものであり、だからこそ、彼は、のちのレインやクーパーらの反精神医学の先駆者なのである。

◆しかし、ひるがえって、オットー・グロスがフロイトの”刺客”だと見ると、この映画は面白くなる。フロイトによれば、精神の病とは、性的リビドーの歪みであり、その回復は、その歪みを生み出した性的体験を想起しなおすことによって可能だと考えた。が、フロイトの治療はその歪みを患者自身に発話させるという”談話療法”であり、談話を越えた関係を認めはしない。

◆映画で見られるように、ユングは、最初フロイトの説を信奉するが、次第にそれが一面的すぎると考えるようになる。しかし、だからといって、彼は談話療法に対して”セックス療法”を対置したわけではない。ヒステリー症のサビーナとセックスをしてしまったのは、成り行きであり、彼女の治癒は偶然の結果にすぎない。

◆面白いのは、これをフロイトの側から見れば、グロスを差し向けることによって自説とユングの説の両方の限界を証明したことになる点だ。

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ザ・レイド ★★★★★

■Serbuan maut/The Raid/2011/Gareth Evans(ギャレス・エヴァンス)

◆イコ・ウワイス(SWAT隊員役)がサンドバッグに猛烈なパンチを下す冒頭のシーンは、『デンジャラス・ラン』(→シネマノート)に似ている。が、話はもっと単純。ジャカルタのスラムの30階の建物に拠点を置く麻薬王タマ・リヤディ(レイ・サヘタピー)をSWAT隊が襲い、熾烈な闘いをくりかえすマーシャル・アート・ムービー。その点ではアクションはいい。

◆子分のなかで最強の凄味を見せるマッド・ドッグ役のヤヤン・ルヒアンの武闘(プンチャック・シラット)の演技は半端ではない。ピストルを使うのをやめ、武闘で勝負をつけるのを好むが、相手に勝ち目はない。

◆マーシャル・アーツのエスカレートのしかたは、『チョコレート』を思わせるが、闘うのが一人対多数ではなく、多数対多数なので、死闘の様相を呈し、『チョコレート』のような切実さがない。

◆外界と別の世界を作り、アパートの住人が子分としてそれぞれのアパートメントに住み、しかもこのヤクザには属さないカタギの人間も住んでいるという設定は面白い。しかし、人間間のドラマが非常に脆弱だ。

◆ラマ(イコ・ウワイス)とかっこいいドニ・アラムシャが演じるヤクザのアンディとが兄弟であるという後半のネタはとってつけたよう。兄弟だからせつなく描かれるわけではない。父親がどうたらこうたらで兄がグレてヤクザに入ったと口で言われても、実感がない。

◆全体としては、小動物の巣を襲ったような感じ。

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The Conspirator/2010/Robert Redford(ロバート・レッドフォード)

◆原題は、conspirasy(陰謀や謀議)をはかる人、陰謀者、謀議の人といった意味だが、「声をかくす人」ではなんだかわからない。要するに、リンカーン暗殺の陰謀をたくらんだとして逮捕され、早々と死刑に処せられてしまった歴史上の人物(女性としてアメリカで初めて死刑を処せられた)メアリー・サラットの話である。映画は、下宿屋の女将として事実上、リンカーンに反対する活動家たちに「謀議」の場所を提供したことになったメアリー・サラット(ロビン・ライト)が、果たして死刑判決を受け、さらには即刻処刑されてしまう理由があったかを、彼女の弁護士フレデリック・エイキン(ジェイムズ・マカボイ)の目から描く。

◆一貫して「アメリカ的民主主義」を堅持すべしという信念のロバート・レッドフォードらしい作品である。これを「啓蒙的」と言っても、批判することにはならない。彼は、もともとは「体制的」な発想の持ち主だったエイキンが、事件を調べていくうちに、考えがかわってくる過程を描こうとしている。リンカーンの後継者たち、とりわけエドウィン・M・スタントン陸軍長官は、リンカーン暗殺後の社会の動揺を懸念し、それを鎮めるショック効果として暗殺の「陰謀者」(コンスピレイター)たちの早急な処刑を画策した。これは、デモクラシーの否定である。

◆この映画を皮切りに、「リンカーン」ものが製作された背景について、『キネマ旬報』の「ハック・ザ・スクリーン」に短文を書いた。

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終の信託 ★★★★★

■終の信託(ついのしんたく)/2012/周防正行

◆時は平成11年(1999年)の前後と決まっているが、場所は指定されていない。コンビナートのような建物が見え、煙突から煙がむくむくと立ち上っている。近所に河がある。呼吸器内科の医師・折井綾乃(草刈民代)と重い喘息をわずらう江木泰三(役所広司)の物語。

◆折井がもし同僚の医師(浅野忠信)に裏切られなかったら、彼女が江木に医者・患者以上の愛を感じることはなかったろう。しかし、この愛は性愛ではなく、この程度の愛ならば、医者と患者とのあいだにあってもよいし、ある意味、信頼関係の成り立った医者・患者関係のなかには、この程度の愛はあるのではないかという気もする。

◆若干医者・患者関係を越えた出会いのなかでふと江木が漏らした言葉――要するに無駄な延命処置をしないでほしいということ――を守った折井が、殺人罪に問われ、検事(大沢とおる)の取り調べを受けて、殺人の意志があったことになってしまう。ある意味で、ウカツな医師の話である。

◆折井医師は、江木が心肺停止状態で再入院し、蘇生には成功したが、意識を取り戻す見込がたたなくなったとき、家族に人工呼吸器をはずすことを薦め、家族も同意した。しかし、人工呼吸器を外したとたん、それまで植物人間の状態であった江木が、猛烈な苦しみをあらわにする。これは、意識がもどったための苦しみではなくて、呼吸ができないための無意識的な反応である。しかし、折井は、慌て神経活動を抑制するドルミカムを何度も注射し、患者を鎮静させたが、それが彼の死を招いた。

◆検事の論法では、答えはイエスかノーしかない。それは、司法制度というものがそういうものであって、基本的に機械である検事に微妙な事情など求めても無理である。検事の一次元的論法のまえで江木は<殺したのだね?>という問いに<はい>と答えてしまう。

◆任意の出頭を求めて、事実上の尋問をするのは警察や検察の常套手段である。この映画のなかでも、検事は、あざやかな手口で<私は・・・やりました>という江木になりかわった文体で「自供」の文書を作り上げ、署名と捺印を取り付ける。この<私は・・・やりました>という文章は、供述として裁判で使われ、検事が代読する。まるで、自分がすらすらと自白したかのような文章を読みあげるのだが、これは警察や検事の創作なのである。被疑者に唯一できることは、署名捺印の際に抵抗して、文章のディテールを直させるときだが、通常は、脅されたり、なだめすかされたりしてうっかり向こう側の作った文章を認めてしまう場合が多い。この結果、自分がやりもしない犯罪がでっち上げられることになる。

◆この映画は、そういうプロセスを淡々と描き、こぶしを挙げて検察を批判するよう表現はしない。わずかに、細田よしひこが演じる若い補佐役の目が<これでいいのかなあ?>とでもいうような疑問を表現するだけである。しかし、現実に、検察のやることはこれでいいということになっているのである。検事にとって、被疑者をどうするかは最初にストーリがあり、それをどう実現するかが問題であって、いいも悪いもない。大沢が演じる検事は、折井を待合室で40分以上も待たせ、精神的に疲れさせる。そのうえで、あたかも彼女が自分の意志で殺人を犯したかのような「自白」へ追い込むのである。

◆検事がこういうものであることを知るならば、折井医師はお人よしすぎた。それと、この「悲劇」には、日本語と、西洋的な論理で組み立てられている法廷言語との差異の問題が介在している。そもそもこの映画のタイトルになっている「信託」は、日常語ではない。しかし、英語でこの言葉にあたる<trust>は、立派な日常語である。<I trust ...>という表現があり、それを通訳が、<わたしは・・・信用します>と訳したので、それを聴いた日本人がその相手にむっとした印象をいだくなどということがある。日本語で「信用してください」(英語では"Trust me.")と言えば、総じて不信感をいだかれる。しかし、西洋語の論理のなかで生きている人間は、最初から相手をトラスト(信用)しているということはありえないと考える。信用しますという言語的なやり取りがあって初めて「信用」が成立するのである。それをさらに公然たるものにするのなら文章化しなければならない。

◆日本の場合、もう一つの問題は、口頭のやり取りに対して文章がアンバランスな重みをもっていることである。西洋語の世界では、言ったか言わないかは、書いたかかどうかと同じ重みがある。ある意味、日本では、誰が書いたかわからないような文章に三文判の捺印があればその文言が公的なものと認められてしまうようないいかげんさがある。

◆この映画は、オーラルな言語世界を信じきっている一人の平均的な女(エリート医師ではあるが、その言語感覚は平均的である)折井綾乃が、リテラルな文字世界(その極の一つが検察である)から

はじき出され、攻撃を受ける話でもある。この構造は、別に、末期医療や訴訟社会化が進んでから生じたものではなくて、日本の近代以来かかえてきたものである。そのなかで、弱者は、つねに文字世界から同じ仕打ちを受けてきた。

◆映画が基本的に娯楽だとすれば、この映画には娯楽の要素が薄い。わたしが娯楽というのは、気分の解放をも含めた意味である。つまり、オーラルな言語を生きている折井は、検察的な文字言語の世界に抑え込まれた。彼女はそれに反発することも、逆襲することも、反撃することも、復讐するこおもできない。この問題をそんな安易な形で済まさないでほしいというのも、映画の一つのポリシーである。しかし、これだと、もっていきようのない怒りや鬱積を別の形で解消することになってしまいかねない。