粉川哲夫の【シネマノート】
  HOME      リンク・転載・引用は自由です (コピーライトはもう古い)


2003-06-27

●くたばれハリウッド (The Kid Stays In the Picture/2002/Nanette Burstein & Brett Morgen)(ナエット・バースタイン&ブレット・モーゲン)


◆1960年代後半から70年代のハリウッドの色を塗り替えたプロデューサー、ロバート・エヴァンズの伝記的ドキュメンタリー。スターの声帯模写を含むナレーションは、エヴァンズ自身が担当。スターからやり手のプロデューサーに転身し、多くの女優との浮き名とスキャンダルの主だったエヴァンスは、「くたばれ」どころか「ハリウッド万歳」と言うべき人物。彼のプロデューサーとしての全盛期は、ちょうどわたしがアメリカ映画を熱心に見始めた時期と重なるので、色々な発見があった。
◆えんじのカーテンが開くと、そこはエヴァンズのハリウッドの豪邸の内部。カメラがウォークスルーしていく一方、古いドキュメンタリー・クリップがパッパッと挿入される。以後、彼自身と関係者の多くのインタヴュー映像を駆使して、一つのハリウッド映画史が描かれる。字幕は松浦美奈。
◆パラマウントの重役になり、『おかしな二人』(The Odd Couple/1968/Gene Saks) でヒットを飛ばし、『ある愛の詩』(Love Story/1970/Arthur Hiller) を製作中であったにもかかわらず、株主のガルフ&ウェスタンは、パラマウントの売却を決定する。あわてたエヴァンズがとった窮余の処置は、マイク・ニコルズに自分がいま『ある愛の詩』というヒット確実の作品をつくっていることを説得する「プレゼン映像」を作らせ、それを持ってニューヨークに飛び、重役たちにみせ、決定をくつがえすことに成功する。いまなら、ノートパソコンをかかえてというところだが、それを30年以上もまえにフィルムでやった贅沢さと先見の明。シャロン・テート事件にも、問題のパーティに行けなくて難を免れたのだったが、世の中には運のいい奴というのはいるという感を深くする。
◆しかし、人生のツキはいうまでもは続かないことをエヴァンズの人生は示してもいる。彼は、数々のヒットを飛ばしたのち、1980年代になって、ツキが落ちてくる。すでに70年代半ばごろからドラッグに染まっていたが、1980年、コカイン所持で有罪判決を受けた。折しも製作したコッポラの『コットンクラブ』(The Cotton Club/1984/Francis Ford Coppola) が当たらず、落ち目になる。まあ、エヴァンズは1930年生まれだから、人生60年、50歳までついていれば、よしとすべきかも。え?お前は?って? そうね、50歳以後も最高だね。
◆エヴァンズは、「脚本こそスターなのだ」と言う。ハリウッド映画は、計画性の産物だから、それはたしかだろう。しかし、エヴァンズ自身がプロデュースするときは、まさにマイク・ニコルズに「プレゼン」を作らせたように、監督へのこだわりが目立つ。『チャイナタウン』(Chinatown/1974/Roman Polanski)、『マラソンマン』(Marathon Man/1976/John Schlesinger)、『ブラック・サンデー』(Black Sunday/1977/John Frankenheimer)等々。
◆ポランスキーとコッポラは、エヴァンズがいなければ、いまの彼らではないだろう。ミア・ファーローも、彼が『ローズマリーの赤ちゃん』の主役に選ばなかったら、シナトラとの離縁は遅れたであろうし、ウッディ・アレンと結婚しなかったかもしれない。アリ・マグローは、エヴァンズと出会わなければ『ある愛の詩』でスターになることはなかったし、『ゲッタウェイ』でスティーヴ・マックウィーンと出来てしまうこともなかった。エヴァンズがドラッグとの縁を深くしなければ、映像手法的にドラッグ的な『チャイナタウン』はプロデュースされなかったかもしれない。
◆1969年8月8日のシャロン・テート事件のことは、ポランスキーについての多くの言及はあるにもかかわらず、出てこなかった。悪夢すぎたのか?
◆その昔、ある女友達が、「『ある愛の詩』っていうのは、60年代の闘争に疲れた世代が、平均的に気持ちを緩めることができるからヒットした」と的確なことを言って、わたしに見ることを薦めたが、わたしは断った。「平均的」なものは一切拒否していたからだ。エヴァンズは、この映画に関し、「これほど世界の出生率を上げた映画はないだろう」と言っているが、わたしがそのときその女友達といっしょに『ある愛の詩』を見に行っていたら、人生が変わったかも。彼女とは、15年ぐらいまえに偶然パリで再会したことがある。
(メディアボックス)



2003-06-24

●ターミネーター3 (Terminator 3: Rise of the Machines/2003/Jonathan Mostow)(ジョナサン・モストウ)


◆よみうりホールには、専属の「おばさん」職員がいて、あれこれ世話を焼く。うるさいと思うこともあるが、今日は気がきいていると思った。エレベータのドアーが6階で開いたら、「試写会の方はここで降りて階段にお並びください」とエレベータの箱のなかに向かって言ってくれたのだった。開場10分まえという、わたしにしては遅い時間だったので、すでに2階下まで4本の列だできている。しかし、「大物」映画のときの熱気はない。
◆席(ここはスクリーンが奥にあるので最前列がいい)についてプレスを読んでその理由がわかった。シュワルツェネッガー以外の出演者がみな「大物」ではないのだ。別に「大物」を好んでいるわけではない。むしろその逆だ。だから、むしろ期待が高まる。こういう場合には出演者はけっこう頑張ることになるからだ。
◆うしろで女と男が話している。年令はわからないが、男が、「54になったよ。誕生日に息子が焼き肉を食わしてくれた」とうれしそうに言っている。映画のドラマのような素直さ。ふと、ここは現実かと思う。そういう素直さがわたしにはないし、想像もできないから。しかし、その人、本当に54歳かね? 80歳ぐらいの感覚じゃないの?
◆隣の30代の人が、映画が始まる寸前に手に持っていたミントか何かの清涼錠?のケース(というか、よく駅などで売っているプラスティックのケース入りのやつ)をカーと口に持って行った。ヤバイ感じ。その後もひんぱんにそれを口に持って行く。そのたび彼の手がわたしの左手に当たり、空中でカチャカチャいう音がする。ふと、先日見た『バトル・ロワイヤル II』で教師の竹内 力も、こんな仕草で白い錠剤(こちらは明らかに鎮静剤か麻薬だろう)をのんでいたのを思い出した。ひょっとしてこの人も。
◆最初に『トゥーム・レイダー2』の予告篇。アンジェリナ・ジョリーは、ますます親父(ジョン・ヴォイト)に似てきた。この分だと、だんだんエキセントリックな役しかできなくなるのでは?
◆『ターミネーター3』は、それほど大予算の映画ではない。シュワルツェネッガーは、すでに出来上がった役を破綻なく職人的にこなしている。新ターミネーターT-Xのクリスタナ・ローケンも悪くない。身のこなしは、『スピーシズ』のナターシャ・ヘンストリッジ的だが、あのエーリアンのように感情表現しない。ちゃんとした役のある出演者はあと4人で、製作費用の大半は、おそらくカー・クラッシュのシーンに費やされている。これは、『ブレーキ・ダウン』の監督らしいやりかただ。3D処理も、細かく変形するのは手の部分だけだったりして、予算を切りつめている。技法も決して、『ターミネーター2』が当時最先端の技術を駆使したようなすごさはない。ロボットも、『ロボコップ』並。それは、最初から重点がそこにはないからだ。
◆この作品の見どころは、その文明観とテクノロジー観だろう。見終わったときに、やはり地球は一度人間自身が構築したテクノロジー装置で自壊するかもしれないという思いにかられる。キューブリックの『博士の異常な愛情』も、そういう終わり方だったが、アメリカの暴走がとまらない状況のなかでは、これが平均的な思いになる。アメリカがイラクでやっていることは、イスラエルがパレスチナでやってきたことと連動している。国家・軍が法的には「民間」の集団や個人に対して攻撃(テロや暗殺)を加えることがあたりまえになった。それは、イラクで規模的にピークに達し、イスラエルのハマス攻撃で質的(非情さの質)にエスカレートしている。
◆このシリーズの基本思想は、人間は運命にさからえるかということだ。このシリーズでは、1997年8月29日に地球がマシーンの「反乱」で30億人が死亡するはずなのを「延期」してきた。「運命は避けられないが、延期することはできる」というわけだ。しかし、今回は、その運命は避けられない。これは、9.11でアメリカの社会意識が幾分成長したことと関係がある。最初と最後に、核が爆発して、空に次々と炎と爆雲が上って行くシーンがある。これは、しかし、日本の広島や長崎では60年もまえに起こったことだ。
◆『ターミネータ2』で、「運命」の進行を「遅らせた」(「救った」)サラ・コナーの息子ジョン(ニック・スタール)は、生きのびたが、いまではホームレス的生活をしている。そこへ、T-Xが、運命を遅らせる要因を一掃するために姿をあらわす。そして、それを追うようにターミネーター(アーノルド・シュワルツェネッガー)が姿をあらわす。どちらも、例によってすっ裸であらわれ、人の服をうばって人間になりすます。
◆怪我をして薬を盗みに入った獣医クリニクで鉢合わせした女医のケイト(クレア・デーンズ)が、この映画では重要な役を演じる。ケイトは、フィアンセ(マーク・ファミグリエッティ)がいるが、彼はすぐに殺され(だから主要な役者は5人だけなのだ)、ターミネータの「予言」では、いずれは彼女はジョンと結婚する「運命」にあるとはいう。彼女の父親ロバート(デイヴィッド・アンドリュース)は、空軍の極秘任務についている。その一つは、「スカイネット計画」で、これを稼働させれば、インターネット回線を跋扈するすべてのウィルスを駆除できるという。
◆面白いのは、ロバートは、ウィルス攻撃で軍のコンピュータも汚染されたとき、「スカイネット」を稼働させることを許さない。そうすると、すべての通信網がアメリカ政府/軍のもとに統合・統括されてしまうからだ、と。彼は、ネットワークには「ゆらぎ」が必要なこと、ネットワークの活力と自由は、ある種のカオスから生まれることを知っている。しかし、それが、できなくなる。そして、最終的に、世界のネットワーク(民間のも軍のも)は、いわば終末への痙攣を起こし、「審判の日」を迎えることになる。ここには、いまのアメリカ政府への(非常に控え目ではあるが)批判を読み取ることができる。
◆それにしても、車や建物をぶち壊すシーンよりも、「審判の日」そのものの恐怖や不安の表現が欲しかった。ジョンとケイトのやりとりも、ターミネータ的に感情に乏しい。
(よみうりホール)



2003-06-20

●バトル・ロワイヤル II 鎮魂歌[レクイエム] (Battle Royale II/2003/Kinji Fukasaku)(深作欣二・深作健太)


◆長めのプロモーションビデオを大分まえに見たとき、何か腰くだけになるのではないかという不安があった。父親の遺志をついだ息子は深作組を仕切れるのか? 若干引いた気持ちでふだんより遅めに銀座数寄屋橋の高速道路の下のガードをくぐると、東映のまえから右は銀座教会の方、左はプランタンのまえの方まで人の列が見えた。まもなく開場。席は全然ない。高崎俊夫さんがやはり席がなくてわたしに苦笑いしながら通りすぎた。仕方なく二階に行く。いくつか空き席があった。やれやれ。わたしは、あまりこんな後方から映画を見たことはない。座席には好みがあって、たまに試写にも来るピーター・バラカンはいつも最後列に近いところに座る。おすぎや筑紫哲也は狭い試写室だと最前列。わたしもその口なので、大学などで映画を見せるとき、最後列で(しかも横の壁によりかかって横目で)見ているような学生には「偏見」をいだきたくなる。そんなに引いてみたら、スクリーンの情感なんか伝わらないでしょう? が、一歩距離を置いて見た方がよいときもある。とりわけ、パッションでがんがん押しまくってくるような作品は、その方が仕掛けがよくわかる。とすると、その学生君は、そういうたくらみで後ろにいるのか?
◆この映画は、最後列で、しかも上からスクリーンがゆがむような位置から見たにもかかわらず映画的な情感が伝わってくる作品だった。健太は欣二の遺志を立派についだと思う。冒頭に映るセピアがかった東京の俯瞰からはじまり、新宿あたりの高層ビルが一瞬のうちに9.11のWTCのように崩失するシーン、七原秋也(藤原竜也)とその一派が「BR」を遂行した「すべての大人たち」への「反BR」の闘いを声明し、前作とのつながりとこの物語の方向を示唆するイントロ、ここまではコンパクトで見事。そして、全国のワルガキばかりが集められた中学校の生徒42人が乗ったバスが拉致され、新たな「BR」ゲームを強制される。前作の教師キタノに代わって登場するタケウチリキ(竹内力)は、ビートタケシとは全く違った狂気のユーモアをただよわせているが、演技がやや機械的。
◆藤原は、すっかりアウラをただよわせる俳優になってしまったが、今回とびぬけていいのは生徒01番の青井拓馬を演じた忍成修吾。そういえば、この役者は、『リリィ・シュシュのすべて』でも個性的な演技をしていた。
◆前回のようなBRゲームの陰惨さは弱い。ドラマが、すぐに、42人の生徒同士の殺し合いよりも、BR法への闘争宣言をして島にたてこもっている七原秋也への襲撃を強制され、島のアジトへ攻撃をしかけるくだりに重点が置かれるからである。その点では、ドラマは前よりワンパターンで「健康的」だ。そして、もし、七原秋也とそのグループ「ワイルド・セブン」が2年もの長きにわたって砦を維持しているのだとしたら、戦闘の経験のない中学生がにわか訓練を受けて襲撃を試みても、とうてい太刀打ちできないだろう。そうなると、散々火薬と血塗りを浪費した戦闘シーンも、戦闘に生き残った青井や中川典子(前田亜季)を七原と会わせ、最終的に連帯させるための仕掛けにすぎないということになる。まあ、そうなのだが、結論が先にあって設定されるドラマやプロットというのはもう古いのではないか?
◆古いといえば、全体の思想は古い。「全共闘」→「日本赤軍」の域を出ていない。この映画には、冒頭のシーンが示唆しているように、9.11以後アメリカが行なったアフガン、イラク攻撃までの状況が取り入れられている。しかし、イラク戦争やイスラエル・パレスチナの紛争・戦争が示しているように、「ワイルド・セブン」のような地理的な「砦」/「拠点」に立てこもって闘うということは不可能であり、そこを死守する闘いには何の未来もない。たとえ「拠点」をつぎつぎに移すとしても、そもそも「テロ」や「戦争」といった武装闘争には、問題解決のいかなる可能性もない。にもかかわらず、この映画は、この「2年間」の七原の闘いに意義を認めているように見えるし、映画の終わりも、1970年代に流行った「旅団」と「ゲリラ」の「長征」的な闘いに期待しているように見える。
◆この映画では、前作以来、「大人」という概念には独特の意味があることは認めるが、生物学的年令で「若者」と「大人」とを分けるのはもう意味がない。ただし、この映画のなかで、マッカーサーが日本人の精神年令を12歳あつかいしたことが出てきたとき、ふと、わたしは、この映画で言うところの「大人」とは、究極的にアメリカなのではないかと思った。マッカーサー/アメリカは、日本人を12歳の「若者」あるいは「子供」とみなした。その意味では、「若者」や「子供」という概念は、「大人」が偏見をもって勝手に貼りつけるレッテルであり、それをやりはじめたのはアメリカだ。(実際に、「若者」という概念は、もともと、マーケッティングから出て来た)。
◆東映の映画でブッシュのアメリカがはっきりと批判されたことはなかった。そもそも初めの方で、教師リキは、黒板のずらずらっと22の国の名前を書き、生徒に「どんな共通性があるか」と問う。そして、呆然とする生徒に、「みんなアメリカの攻撃を受けたんだよ」と言い放つ。また、そういうアメリカと結託している日本政府(首相を津川雅彦が演じている)も皮肉っている。イラク戦争を目のあたりにしたあとでは、誰の目にも、「ワイルド・セブン」の拠点など、ミサイルで一掃できるという考えがすぐ頭に浮かぶだろう。そのことはしっかりとおさえている。しかし、そうだとしたら、七原がアフガンに逃げ延びるなどということは空想的なことではないか? とはいえ、ビン・ラディンやサダム・フセインが姿を隠していることを思うと、そうは言えないかも。ま、色々な意味で意外とポリティカルな含蓄を持った内容に仕上がっている。
(銀座東映)



2003-06-17_2

●ゲロッパ! (Get Up!/Izutsu Kazuyuki)(井筒和幸)


◆「こないだ来たけど満員ではいれなかったので早く来た」と香水をプンプンさせている女性が後ろでしゃべっていた。たしかに30分まえで80%席がうまっている。井筒が、『岸和田少年愚連隊』のガキヤクザ的ファミリーの要素と、『のど自慢』の心情性(「ジェイムズ・ブラウン」は演歌だと言ったとか)を統合した作品で、西田敏行の別の側面を引き出したとかで、大いに期待した。結果は、かなり失望。
◆幼いときに「出て行った」ヤクザの父親。母は幼いときに死に、孤児院で育ったかおり(常磐貴子)は、いまでは、小プロダクションを経営するキャリアウーマン。いまどきの「通念」にあわせたように夫はおらず、幼い娘(太田琴音がうますぎる演技)との2人暮らし。ときどき、かおりは、幼いときに見たヤクザの殺し合いの悪夢に襲われる。彼女のプロダクションは、美空ひばり、森進一、桑田佳祐、マリリン・モンロー(?)、ジェイムズ・ブラウンなどのそっくりさんを集めた公演を企画している。これが1本の線。
◆もう1本の線は、実はかおりの実父で羽原組組長の羽原大介(西田敏行)が、収監が間近という設定。彼は、組を解散すると言い、徒弟たちにカタギになれと説くが、落ち込んでいる。羽原の弟分にあたる金山組組長(岸辺一徳)をはじめ、羽原組の、山本太郎(なかなかいい)、桐谷健太、吉田康平らが好演する舎弟たちは、組長を励まそうとやっき。彼が、ジェイムズ・ブラウンの熱烈なファンであることを知っている金山は、「来日」しているというJ・Bを連れてこいと太郎たちに命じる。ここから「抱腹絶倒」のドラマが展開する予定のようだが、そうはならない。話に厚みがないからだ。
◆はじまって当分のあいだ、出演者の台詞がみな白々しい。全体にテレビドラマ的である。ヤクザの血を引いた娘を演じていることを意識してか、常磐は、テレビドラマに出るときよりはしまっているが、彼女にドラマの登場人物としても安っぽくつきまとうレジャーランドの支配人(益岡徹)の存在は無意味。首相のスキャンダル写真を取り戻す極秘指令を受けて動いている内閣調査室の連中のエピソードもばかばかしすぎる。金山の女房役で出ている藤山直美はもったいない。
◆「チャーリーズ・エンジェル」的な「チームワーク」には多少の新しさを感じるが、こういうやり方で心情的な「ファミリー」意識をいくら描かれても、パターンとしてよくあるものを見せられた(しかもへたに)だけで、わたしには共感も興味もわかない。
◆西田は、ヤクザの組長をやっても、「釣りバカ」と同じ感覚のなかを動く。乗ったタクシーの運転手(寺島しのぶ)の苦労話を聞かされて泣くところなど、何も変わらない。井筒は、「釣りばか」とは違う西田を出すと言ったが、どこが違うのだろうか? 西田は、何をやっても西田でしかないように出来上がってしまった役者である。ほかではヤクザのたんかは切らないだろうが、そのたんかにも殺し合いをしたやくざの陰影は感じられない。
◆最終シーンが読める映画。西田がR&Bを歌うだろう、その歌い方も、数年まえにやっていた屋根の上歌を歌うスタイルだろう、親子の対面があるだろう・・・。みんなそのとうりだった。
(映画美学校1)



2003-06-17_1

●チャーリーズ・エンジェル フルスロットル (Charlie's Angels:Full Throttle/2003/McG)(マックG)


◆この映画に関しては、これまで、予告ビデオが早々と届き、そのあと「チャーリーズ・エンジェル フルスロットル」と大書きした試写ハガキが来て、いよいよ試写かと思って紙面をよく見ると、それは、41分のプロモーション映像の試写であったり、また、まだ本格的な試写をやっていないのに早々と主役のキャメロン・ディアスが自家用ジェット機で来て記者会見するなど、どこかおかしい宣伝方法がくりひろげられてきた。今日はその最初のマスコミ試写なので、(出がけにArt on the Net 2003のことで箕輪裕さんに緊急のメールをだしたりしていてぎりぎりになった)会場への到着の遅れを気にしたが、意外に客は多くはなかった。これだけの「大物」作品で朝日ホール(座席は折りたたみ椅子、スクリーンは小さく、映写機は古い)での試写というのも気になる。字幕は石田泰子氏で「業界常識」では、ギャラは、戸田奈津子→松浦美奈の次。つまり、宣伝経費のかけ方がどこかアンバランスなのだ。宣伝のポイントがつかめていないのではないか?
◆一見して、その理由がわからないでもなかった。まず、徹底的にナンセンス。しゃれた台詞のギャグがわからないと、あっけにとられてしまうほど頭を使わなくていい映画。あるとすれば、3人の30代初期の女たち(ナタリー:キャメロン・ディアス、ディラン:ドリュー・バリモア、アレックス:ルーシー・リュー)の日本の女子学生ノリ(ただし最近は見られない)の連帯感。これって、いまの日本のどのコンテキストに結びつけたらいいんだろう、という疑問が宣伝ウー/マンにはわくかもしれない。
◆早めに言っておくが、わたし自身は、予想に反して、猛烈面白かった。その面白さは、『ムトゥ踊るマハラジャ』的な面白さだ。もう一度見たいくらいである。仕事に疲れたときに見るのにいいだろう。ある種のドラッグ=ムービ。
◆3人は、車から吹っ飛んでも、銃の弾に当たっても(防弾チョッキをつけているとはいえ)傷もほどんどしない、むろん死なないという不死身なキャラクター。要するにコミックスから飛び出してきたキャラクターなのだ。ここでは、映像の背後に肉体を想定・措定(哲学の用語)してはならない。しかも、3人ともセクシーな「肉体美」を誇る女優を使いながらそうさせるとことが面白い。
◆チャーリーという探偵事務所があり、そこに3人の女性がスタッフになっていて、そのつど指令(電話の外付スピーカーからチャーリーの声が出るだけ)に従って、3人が動く。指令は、FBIの依頼等々、みな規模が大きい。しかし、この探偵事務所の仕事自体はどうでもいい。要は、彼女たちの動きであり、レズとも友情ともつかぬ不思議な連帯感(映画のなかでは「チームワーク」という言葉でも表現されている)だろう。
◆連帯を重視している証拠に、この映画で「悪」を演じるマディソン・リー(デミ・ムーア)が、つねに自己中心主義的な態度を見せ、3人のアンチテーゼを提示し、3人に滅ぼされる。マディソンは、もとはチャーリーに雇われていたが、そこを去り、自分のために生きる道を選んだのだった。
(有楽町朝日ホール)



2003-06-10

●ミニミニ大作戦 (The Italian Job/2003/F.Gary Gray)(F・ゲイリー・グレイ)


◆ドナルド・サザーランド、シャリーズ・セロン、エドワート・ノートン、マーク・ウォールバーグ、 セス・グリーンとどれもくせのある俳優が登場するが、この映画の「主役」は、メカ。俳優たちは、おおむね典型を演じているにすぎない。とりわけエドワート・ノートンの役は、『スコア』のジャック・テラーをもっと悪い性格にしたような役をなぞらされている(ノートンは、この映画には出たくなかったらしい)。
◆グレイは、かつて『交渉人』でメカの描写へのかなりの執着と一貫性を示していたが、今回も、メカの描写には、しばしばなされるインチキさは少ない。少なくとも映像的に説得力がある。むろん、典型的なエンターテインメント志向のハリウッド映画だから、金庫のある階の、金庫のサイズぴったりの床を爆発物で抜き、金庫を落として奪うというような過激なことをやりながら、金庫のそばにいた人間が全然怪我をしないとか、この映画の山場をなす「ミニクーパー」によるカーチェイスで地下鉄の駅→線路に乗り入れ、つっ走るとか、その際にコンピュータハッキングに強いセロンが、交通信号のシステムをハックし、システムを自在にあやつってしまうとか、いかにもハリウッド的な定石とパターンが見られる。しかし、ハリウッド映画の楽しみは、そういうパターンをいかにこなしているかの差異を味わい、楽しむことであり、映画の「外」の現実と比較することではない。
◆この映画は、1969年の全く同名(邦題も)の作品(監督:マイケル・ディーリー)のリメイクである。映画の出来は、前作の方が上だと言わざるをえないが、そういううるさいこととは無縁の意識で作られている点で評価し、見るべき作品だ。
◆刑務所経験が長く、いまは保釈中のジョン(サザーランド)とジョンの薫陶を受けた窃盗のプロ、チャーリー(ウォールバーグ)とつねに冷静さを失わないかに見えるスティーブ(ノートン)が、どれも「・・・の天才的なプロ」と形容されるライル(コンピュータ/グリーン)、ハンサム・ロブ(女と運転/ジェイソン・スティサム)、レフト・イヤ(爆発物/モス・デフ)を集め、ベニスのマフィア(ウクライナ・マフィアになっているところが今日的)の所有する金塊を奪う。が、ベニスの運河でのボートチェイスの末、追手をふり切り、金塊を陸揚げして運搬しはじめたとき、スティーブが実は本当の仲間ではないことが判明する。彼は、ジョンを殺し、チャーリーたちにも機関銃を乱射し、金塊を奪って逃げる。それから2年後、からくも生きのびたチャーリーらは、彼が父親のように慕っていたジョンの仇と金塊の奪還のために動き出す。
◆ジョンには愛しながら、刑務所生活や「仕事」のために一緒に生活する時間があまりに短かったことをいつも後悔していた娘ステラ(セロン)がいる。彼女は、「血は争えない」(これもハリウッド的パターン)かのように金庫の鍵を開ける「天才的なプロ」で、警察や司法当局のための仕事をしている。が、父の仇をうつためとあれば、ジョンの協力依頼を断れない。まあ、ストーリーの紹介はこのへんでやめておこう。ノートンはいやいやだったとしても、彼の演技は悪くない。
◆[追記/2003-08-03]読者の方からメールをいただいた。そのなかに、「ライルが欲しがっていた服が吹き飛ぶスピーカー(最後は手に入れて実行してました☆)のメーカーとか種類とか分かりませんか?」というのがあった。これは、ナップスターを発明したのは、本当はおれなんだというのが口癖のライルが、てんやわんやの末に手に入れるHi Fiの名器の種類についての質問。たしかにこのくだりはおもしろい。メカに凝るグレイ監督らしいシーン。以下は、わたしの返事――ぼくは、HiFiにあまり詳しくないので正確なところはわかりませんが、セリフのなかでは、たしか、アンプは「NAD」、スピーカーは「77」とか言っていたように思います。とすると、アンプは、有名な NAD Electronics 、スピーカーは、Mission Electronics の「77シリーズ」ということになるのでしょうか? とにかくアンプはNADです。もう一度見る機会があったら確かめておきます。
(日比谷スカラ座1)



2003-06-03

●コンフェッション (Confessions of a Dangerous Mind/2002/George Clooney)(ジョージ・クルーニー)


◆いささか「プロ」好みというかローカルというか、アメリカでテレビを見てきたものでないとピンと来ない部分が多く、場内からは反応がない。笑いのシーンでも場内はシーンとしている。これは、日本では無理かもしれない。よくしたもので、こういう作品は、戸田奈津子ではなくて、岡田壮平の字幕。何となく雰囲気がわかるでしょう?
◆原作は、「デート・ゲーム」(1965)、「新婚ゲーム」(1966)、「ゴング・ゲーム」(1976)など、日本のテレビのクイズやぶちゃっけ番組のモデルとなったテレビ番組を制作・出演したチャック・バリスの「自伝」。ユダヤ系の人間らしく、嘘八百に満ちた「自伝」で、こうした番組の裏話に加えて、実は自分がCIAのエイジェントで、33人も暗殺したと「告白」。
◆明るくて、ばかばかしい50年代流の「アメリカ」的な「パブリック」な感性とそのギャップを生きたチャックには、ジム・キャリーの方が合っているかもしれないが、サム・ロックウェルの方が、そういう感性を表向き出しながら、一方でスパイ的キャラクターにあこがれる人物、そしてそれらとの三重の屈折を描くには、向いているのかもしれない。
◆ハレの世界とスパイ的なフィルムノワール的な世界への大衆的な嗜好が強まった時代のなかで生きるテレビ屋の悲哀。前者をスタジオで演じるチャック、後者を代表するCIAエイジャントのジム(ジョージ・クルーニー)とその「部下」のパトリシア(ジュリア・ロバーツ)とキーラー(ルドガー・ハウアー)が象徴する。これらの相反する世界で分裂するチャックを優しく「母」のように包む女性ペニーをドリュー・バリモアが適役で演じる。
◆ちらっとクイズ番組の出演者の役でブラッド・ピットとマット・デイモンが並んで登場する。
◆冒頭、ペニーがドアを叩くが空けないで欝状態にいるチャックの部屋のテレビには、レーガンが大統領に就任するのを告げるニュースが映っているが、すぐに場面は60年代にフラッシュバックする。最後は、また冒頭の場面にもどり、さらに現代とおぼしき老いたチャックの顔が大写しになる。それは、まさに『アバウト・シュミット』の最終場面にだぶる。エンターテイメント産業で「明るい」「ハレ」を演じた者が、成功したら成功しただけ感じるはずの虚しさがよく出ている。これは、ぺにーでもなぐさめることはできない。
(ピカデリー1)

リンク・転載・引用は自由です (コピーライトはもう古い)   メール: tetsuo@cinemanote.jp    シネマノート