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 粉川哲夫の【シネマノート】

公開が気になる作品 (2009年3月)

★★★ パッセンジャーズ    ★★★★ ダウト あるカトリック教会で   ★★★ ゼラチンシルバーLOVE   花の生涯 梅蘭芳    ★★ プラスティック・シティ   THIS IS ENGLAND    ★★★ ホノカア ボーイ    映画は映画だ    ★★★ ワルキューレ   ★ 釣りキチ三平    ★★★ イエスマン "YES"は人生のパスワード   ★★★ マーリー 世界一おバカな犬が教えてくれたこと   ウォッチメン   ★★★★ フロスト×ニクソン  


釣りキチ三平   ウォッチチメン   セブンティーン・アゲイン   レイン・フォール   人生に乾杯!   余命1ヶ月の花嫁  

2009-03-27

●人生に乾杯!(Konyec/2007/Gábor Rohonyi)(ガーブル・ロホニ)  

Konyec/2007/Gábor Rohonyi
◆50年まえハンガリアの国家権力のなかにつかのま開いたささやかな空洞のなかで知り合った若い男女は、その後、社会主義から新自由主義経済への歴史的変容を経験する。旧社会主義国のご他聞にもれず、彼と彼女もまた、さもなければ最低生活を保証されたはずの公共サービスを奪われ、アパートの家賃も払えない状態に陥っている。若くて働かないのなら、(かつて「新自由主義経済」のお先棒をかついだレーガンが言ったように)「働かざる者食うべからず」でも仕方がないかもしれないが、81歳の夫エミル(エミル・ケレシュ)と70歳の妻へディ(テリ・フェルディ)の高齢夫婦がそういう状態に追い込まれているのだから、無情な時代になったものである。で、二人はどうしたか?その発端はエミルが銀行強盗を敢行したことだった。
◆ベルリンの壁崩壊以後の社会主義圏の変貌に関しては意見のわかれるところであるが、多くの人が平均的に「最低生活」を保証されたという点では、社会主義の時代の方がマシだったと言える。むろん、その一方では、さまざまな拘束があり、能力のある者にとっては、やりにくい体制であったことは事実である。しかし、アメリカ型の新自由主義経済のなかに組み入れられるにしたがって、生活の格差が極端になり、この映画が揶揄しているようなことが目立ってくる。
◆冒頭のクレジットから洒落ている。ハンガリーは、社会主義圏に属しながら、一番西側の要素を持っている国だった。その意味ではある種の資本主義的自由主義経済に慣れた国だったわけだが、ベルリンの壁崩壊後、社会主義圏がすべて資本主義になだれこんでしまうと、かえって資本主義的な矛盾、つまり利潤の追求、競争や効率の加速が他の旧社会主義国よりも露骨になった面がある。ただ、新自由主義の資本主義国では、その主体(権力主体)が明確には見えにくいのに対して、もともと国家主義的要素(結局、社会主義というのは、国家主義の変種だった)が強かった(他の社会主義国よりは柔軟だったとしても)ハンガリーでは、いまでも、「敵」は公共機関の役人たちなのだ。この映画の笑いは、50年代の国家の役人(諜報機関)への皮肉であり、現在の警察のいいげんさへの皮肉から生まれる。
◆最初の方で、若きへディは、おそらく、ハンガリー動乱(『君の涙 ドナウに流れ ハンガリー1956』という映画もある)で「ブルジョワ」と指弾された一家の娘だったのだろう。
おそらく両親は逮捕されるが、彼女は屋根裏に隠された。そんな家に秘密警察が来る。そのときエミルは、彼らの運転手をしていた。捜査が進められるあいだ、彼が屋根裏の階で一人で待っていると、ヘディが天井から落ちてきた。二人とも驚くが、彼女は自分のイヤリングをはずし、彼に渡す。それは、賄賂である。とまどいながらも彼はとっさに彼女を窓から屋根に逃がした。
◆50年後、老いた二人のもとへ、アパート会社の者がたまった家賃の督促(というよりも追い出し勧告)に来る。そのとき、老ヘディは、会社の人間にそっとイヤリングを渡す。当然のことながら、このイヤリングは最初のシーンに出てきたイヤリングである。二人は結婚し、エミルはそれを彼女に返したのだ。二人にとってかけがいのない思い出のイヤリングが借金の一時的なカタになってしまったのを目撃したエミルは、無力感に陥る。そして、ヘディには内緒で、かつて党員時代に買い、大切にしてきた愛車(1958年の「チャイカ」)を駆って銀行強盗をしに出かける。
◆この映画は、一面で社会的現実を参照しながら、他面では、映画的記憶を参照するという洒落た手法で作られている。その意味で、ヘディの強盗ぶりが、ハリウッドのギャング映画のスタイルを真似ながらも、その実、銀行の窓口でピストルを出すシーンは、ウディ・アレンの『泥棒野郎』のそれを意識しているかのように滑稽だ。また、最期のシーンも、リチャード・C・サラフィアン監督の『バニシング・ポイント』をわざとダサくしたような感じなのだ。
◆最初当惑か軽蔑しているような態度をしていたヘディがエミルと密会を果たし、以後、『俺たちに明日はない』的(「ボニーとクライド」的と言った方が正確か)な逃避行を続けるのに並行して、恋人同士でもある捜査官、アンドル(ゾルターン・シュミエド)とアギ(ユディト・シェル)のエピソードが描かれる。二人は、新自由主義経済の社会の申し子であり、自分たちの関係に自信がない。それは、アンドルが乱痴気パーティで浮気し、そのデジカメ写真がネットに載ってしまったことによって一気に加速する。愛しあう関係という点ではゆるぎないエミルとヘディに対して、ゆれ動く若い二人の関係が対比され、やがて4人が面と向かう事態に進むにつれて、若い二人が老いた二人から生き方を学ぶといった大詰めに向かう。このへんは、表面的な「豊かさ」や「自由」が、かつての「貧しく」「不自由」であった時代よりいささかも豊かでもなく、自由でもないと言っているかのようだ。
◆原題の「Konyec」は、ロシア語で「終わり」の意味だそうだ。それは、多くの「終わり」を示唆する。社会主義政権の「終わり」、老いの「終わり」、サエない日常に耐える生活の「終わり」・・・。
(映画美学校第2試写室/アルシネテラン)


2009-03-11

●レイン・フォール/雨の牙(Rail Fall/2009/Max Mannix)(マックス・マニックス)  

Rail Fall/2009/Max Mannix
◆米軍特殊部隊にいた経験のある殺し屋なんて役(ジョン・レイン)を椎名拮平に演じられるのかと心配したが、そうでもなかった。なんとかこなしている。椎名にとっては転機となるだろう。ゲイリー・オールドマンが演じるCIAアジア支局(?)の長官の下で働く女性担当官を演じている国籍不明の女性が清水美沙とは途中まで気づかなかった。不良外人や裏の世界を渡り歩いているというありがちなキャラを演じる若松武史は、「ありがち」を演じすぎて失敗。
◆最初の方で、中原丈雄(国土交通省の高級官僚役)がぴりぴりした表情でコンピュータルームに入り、キーボードを打つ。以後、彼がUSBスティックにセイブしたらしい情報の奪い合いが始まるのだから、ぴりぴりして当然だが、キーボードの打ち方がでたらめ。これではコンピュータを操作することはできない。このシーンで、この映画はその程度のディテール度で見ればいいという意識にさせられる。まあ、エンタテインメントものの映画での機械の映し方は大体こんな程度ではあるが。
◆監視カメラを多用しているが、経費節減という感じはしない。しかし、東京中の監視カメラを自由自在にネットし、中原や椎名の動きを追うのは、いまの監視技術では無理で、それを思うと急にリアリティがなくなる。が、映画は「夢」を描くのだから、思い通りにカメラを切り替え、狙う相手を探し出すプロセスはある程度の快感を呼ぶ。まあ、『マックス・ヘッドルーム』では単なる「夢」に近かったことが、いま普通になりつつあるから、この映画の監視カメラの使い方も、いずれあたりまえになるのだろう。少なくとも、警察が都内のあちこちに設置した監視カメラは完全にネットされている。また、日本では、民間の施設(コンビニやホテルなども)は、警察の依頼に容易に従ってしまうから、コンビニなどを含む非公共機関の監視カメラの録画映像を警察のデータに加えることは容易だから、事実上、この映画のなかのようなことが(リアルタイムでなければ)可能になっていると言える。
◆椎名に殺しを依頼する相手側の、映画では最初は明かさないひねりがあって、椎名の活動の意味が変わって来る。そのプロセスのなかで椎名が出会うのが長谷川京子(中原演じる官僚の娘役)。この俳優も、基本的にテレビノリの人なので、どうなのかなと思ったが、ありがちなラブストーリーに堕すのを抑えた演出のためか、長谷川にしてはいい演技をしている。ニヒルな殺し屋があっさり「恋」に陥っては馬鹿みたいだが、この映画では、椎名は長谷川に好意をよせ、心を開きはするが、安易なラブシーンを演じることはない。これは、演出として賢明だった。
◆しかし、最期の再会のシーンは、明らかに先が読め、つまらない。ジョン・レイン(椎名拮平)はニューヨーク生まれで、淋しい子供時代を送ったということになっているから、ニューヨークを出したかったのだろうが、「わたしの夢はニューヨークのヴィレッジ・ゲイトで演奏すること」と長谷川があらかじめ言ってしまったあげくの結末だから、意外性がない。
(ソニー試写室/ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント)



2009-03-30

●余命1ヶ月の花嫁<(Ymei ikkagetsu no hanayome/2009/Hiroki Ryuichi)(廣木隆一)  

Ymei ikkagetsu no hanayome/2009/Hiroki Ryuichi
◆23歳の主人公・長島千恵(榮倉奈々)が乳癌にかかり、手術するが悪化、24歳で余命1ヶ月の診断を受けるというストーリは、見るまえからわかっているから、見れば泣かされるだろうという予感で気が重かった。おまけに、ガンにかかっていることを知らずに彼女を愛してしまった青年・赤須太郎(瑛太)が、余命一ヶ月と知りながら結婚するというのだから、泣かせ映画以外のなにものでもないという思いが最初からあった。しかし、悲しい話ではあるが、ただの泣かせ映画ではなくて、瑛太が演じる青年の「誠実さ」のようなものが、いまどき新鮮で、見ていて嫌な気はしなかった。
◆それにしても、榮倉奈々が見せる病気と死の演技は稚拙である。逆に稚拙だったために、映画が「悲劇的」な度合いを和らげているともいえる。瑛太も、演技はあまりうまくない。「吉岡秀隆」と「仁科貴」を混ぜ合わせて少し背を高くし、若くしたような感じ。しかし、榮倉と同じように、その稚拙さがこの映画を明るくしてもいる。
◆この映画でわたしが映画的に一番「美しい」と思ったのは、知り合ったばかりの千恵と太郎が、夜(撮影は深夜だろう)の街をそれぞれの自転車で走っていくのを追跡撮影するシーンだ。若い二人のはじけた意識と揺れるように続く愛の情念がよくあらわされていた。
◆この映画には、10歳のときに卵巣癌で亡くなったという千恵の母親が映っているビデオを千恵が見るシーンがある。また、死期が近い千恵は、テレビ局から渡されたソニー(この映画のスポンサーになっているのでパソコンもVAIOだ)のDVカメラで身辺映像を撮ったり、「遺言」を撮ったりする。いま、生まれたときから死ぬまでの映像を持つ世代が登場しており、若くして死ぬ千恵は、そういう第1世代である。これは、死を延期させるだろうか? 映像は、本人の死後にもその人格を生き延びさせてくれるだろうか? むろん、映像は、撮られた時間しか再現できない。が、CDでもDVDでも、繰り返し聴いたり、見たりすることは、ただの再現に立ち会うことではない。物理的には「同じ」ことの繰り返しが、体験の次元ではそのつど異なるのである。
◆太郎は、ある日、病院で知恵がテレビ局のカメラのまえでインタヴューに答えているのを発見して驚く。彼女は、20代のガンの情報は少ないから、テレビで報道されることは同じ病気にかかる人に早期発見や治療の重要さを知らせるという意味でも社会の役に立つと太郎に説明する。それはそうかもしれない。が、彼女の意識のなかには、テレビに映され、人に知られるということが一つの「延命」であるという意識がなかっただろうか? メディアによる延命――これは、記録メディアの発達した時代の一つの傾向である。
◆インターネットのようなデジタルメディアの発達によって、今後、人は、自分の文字・映像・音(さらには触感やにおい)の記録をその人物の死後まで残すことができるようになるだろう。そして、量子コンピュータの進化によって、残されたデータからその人物のクローンを作り出すことも可能になるかもしれない。むろん、その出来上がったクローンは、俳優が実在の人物を演じるとき以上に、本人とはどこかちがう感じがするだろう。そのクローンが本人そっくりになるには、電子的な時間とは異なる(手間のかかる)身体時間を要するからである。しかし、一人の人格についての記録データは、今後ますます膨大なものになり、死者のあとまで生き延びるだろう。
◆しかし、このことは、人間は、次第に死ぬことができなくなるということでもある。かつて人間は、瞬間に生きること、つまり記録を残さずに流れるままに生きることができた。しかし、今後はそれが難しくなる。そのとき、死をバネにして人を泣かせようとするメロドラマは流行らなくなるだろう。そして、この映画のように、当面は、「わたしはもうすぐ死ぬ、悲しいなあ」という部分に注目が集まるような映画も、そのときには、そうではない部分に注目が行くようになるだろう。では、この映画には、そういう部分が、自転車のシーン以外にいくつあるだろうか?
◆瑣末な部分だが、この映画で、病が重くなった千恵を看病するため、太郎は、病院に泊まり、そこから会社に出勤するようになる。幾分体調のよいときの千恵は、毎朝、彼の背広を取り、彼に着せて見送る。わたしはいまの若い夫婦が平均的にどうなのかは知らないが、いまの彼と彼女らは、こんな感じなのだろうか? 何を言いたいかですって? つまりですね、かつて「女の自立」などということが言われた時代には、意識的にこういうことをしない女があらわれた。ちなみに、アメリカの女でこういうことをする人はごくマレだろう。それは、文化が違うのだから、いいもわるいもないが、わたしがふと思ったのは、日本はやっぱり「サムライ」の国なのだなということだった。何もサムライの時代とかわっちゃいないじゃないか。
◆変わらないという点では(たまたまこの映画のなかだけのことかもしれないが)、太郎が病院に寝泊りするとき、千恵のベッドのかたわらの床に布団を敷いて寝る。これって、何十年もまえから日本の病院でやられてきたことだが、いまの病院でもあいかわらずこういう不合理なことを強制しているところがあるらしい。つまり、規則としては寝泊り禁止なので、簡易ベッドを持ち込むことを許さないという極めて官僚主義的なやり方なのである。
◆この映画には、わたしには理解できない世界がいっぱいある。たとえば、女はなぜ指輪とウェディングドレスに弱い、あるいは「弱い」という定説があるのだろうか? アクセッサリーに関心のない人間の方がわからないと言われるかもしれないが、女が指輪をもらってうっとりしたりするのは、映画が生み出し、流行らせた身ぶりのような気がする。
◆わたしは、きらびやかな結婚式を挙げたカップルが、そんなことはなかったことであるかのように別れてしまったり、泥沼の別居や離婚状態に陥るのを何度も見て来たので、結婚式が盛大であればあるほど、また、別にキリスト教徒でもないのに教会で、しかも「外人」の牧師や神父の介在で式を挙げるのを見ると、むなしい気持ちになってしまう。それに、えらくドラマチックな空間で結婚式を挙げた新郎新婦が、その翌日(ないしは新婚旅行なるもののあと)から、その空間にはおよびもつかないおそまつな空間で生活するのが普通だから、なんかおかしいなと思ってしまうのだ。
◆別に結婚式にかぎらない。そもそも人生にとって「式」というのは重要なのだろうか? わたしは、毎年「卒業式」や「入学式」といわれるものに出なければならない職業についているが、これまで一度もそういう式には出たことがない。人生に区切りはないのだから、式なんていらないと思うのだが、どうなんでしょう?(東宝試写室/東宝)



2009-03-09

●セブンティーン・アゲイン(17 Again/2009/Burr Steers)(バー・スティアーズ)  

17 Again/2009/Burr Steers
◆アメリカの若い子に超人気のザック・エフロンを当てにした軽い映画、予告編で大体わかってしまう安い作品・・・という印象で見に行ったが、もう少しだけマシだった。それは、わたしがタイムスリップものに格別興味があるからかもしれない。ただし、大急ぎで断っておかなければならないが、この映画は、厳密な意味では「タイムスリップ」ものではなく、むしろ「変身」ものである。宇宙人のようだった(いまもか?)若きトム・ハンクスが主演した『ビッグ』(Big/1988/Penny Marshall)では、12歳の少年ジョッシュ(デイヴィッド・モスコウ)がマジックマシーンのまえで「大きくなりたい」と祈ると、翌日目覚めたとき、30代のジョシュ(トム・ハンクス)に「変身」しているというのだったが、この映画では、37歳のマイク(マシュー・ペリー)が17歳のマイク(ザック・エフロン)に突然「変身」してしまう。
◆若いときに早く大人になりたいと思い、歳をとるとできればもっと若くなりたいと思うのは、まあ、誰しもが心のどこかでいだいている願望である。が、そういう願望が実現してしまったとき、若年から壮年に「変身」するのと、老年から若年に「変身」するのとでは、どこに決定的な違いがあるのだろうか? 少なくとも、描き方としては、前者の場合、その「変身」にその人間としての経験や時代の知識がともなわなければならないから、順を追って描くことができない飛躍が生まれざるをえない。要するに、成長過程をすっと飛ばすわけである。他方、この映画のように、中年が若者に「変身」してしまうのであれば、処理はしやすい。若くなったのだから、経験も乏しくなるはずだが、通常は、そういう描き方はせず、この映画がやっているように、中年のマイクの経験と記憶はそのまま17歳のマイクに引き継がれる。したがって、彼は、過去37年の経験に加えて、若い肉体を獲得するわけで、ある種の「スーパーマン」になるわけだ。
◆37歳のマイクは、アメリカ的世間基準からすると「ルーザー」の状態にある。妻のスカーレット(レスリー・マン)とは離婚調停中であり、子供たちからは馬鹿にされ、会社でも一線からほされている。20年まえ、ハイスクールのバスケットボール部でスター選手だった彼は、人生の選択をした。バスケットボールのプロ選手になることをあきらめて、スカーレットと結婚したのだ。映画は、「スカウトが見守る大事な試合」を試合の最中に投げ、彼女のもとへ走るという描き方をする。が、これって、ちょっとへんではないか? 彼女が妊娠したから結婚するというのはまあわからないでもないとしても、試合で勝ってからスカウトをことわって結婚することもできたわけで、試合と結婚とを選択肢の2つにするのは無理なのだ。つまり、この映画の導入部はさほど重要ではないということである。
◆いいかげんといえば、かつての母校への入り方もそうだ。これも、設定だけつくれればどうでもいいという発想で描かれる。まあ、アメリカの公立学校では、校長の一存で決まる側面が多く、この映画のように、とってつけたような親を用意し、校長を説き伏せれば、入学が可能になるといった面はないこともない。17歳に変身したマイクは、級友で、かつてはオタクでクラスのいじめられっ子だったネッド(トーマス・レノン)に「父親」のふりをしてもらう。ネッドが、校長(メローラ・ハーディン)に一目惚れし、以後、さまざまな方法で彼女の愛を勝ち得ようとアプローチをかけ、やがて彼女がネッド同様『ロード・オブ・ザ・リング』オタクで、「エルフ語」までしゃべるということがわかるくだりが面白い。こっちの方が、マイクの話より面白いかもしれない。
(ワーナー試写室/ワーナーブラザース映画)



2009-03-06

●ウォッチチメン (Watchmen/2009/Zack Snyder)(ザック・スナイダー)  

Watchmen/2009/Zack Snyder
◆クレジットされていないがアラン・ムーアの原作とデイヴ・ギボンズのイラスト(こちらのみ表記あり)の有名なグラフィックノベル(1986~87年にDCコミックスから12冊出た)の映画化。その愛読者からは激賞の嵐が巻き起こっており、IMDbの一般ユーザー評では異例の8.5の得点がついている。だが、1985年にニクソンが三度の再選を果たし、ベトナム戦争にも勝利し、ソ連と核戦争を起そうとしている・・・という原作の「イフヒソトリー」(もし歴史が・・・だったら)のアイロニーをいま持ち出して、リアリティがあるだろうか? IMDbの高得点は、昔グラフィックノベルに入れ込んだ中年が、オタク感覚で喜んでいる連中の特異な反応にすぎないのではないか?
◆コミック・ブック版の「イフ・ヒストリー」の皮肉や核戦争の危機感は、1980年代のレーガン政権の時代だからこそ通用した皮肉で、その後、ベルリンの壁崩壊、ソ連の破綻、クリントンのITバブル、ブッシュ親子のイラン湾岸・イラク戦争、そしてオバマの大統領就任と続く歴史の激動を経験した者には、いまさら何を言っているのという感じがしてしまう。
◆原作が出た1980年代末の時期には、まだ、「ウォッチメン」なる闇のグループが、アメリカの「陰謀の歴史」に関わり、ケネディ暗殺を含むさまざな謎の事件をあやつってきたといった観念が幾分はリアリティを持ったかもしれない。しかし、もしそのリアリティをいまの時代にまで引き継ぐならば、911もそのなかに関連づけないわけにはいかない。原作のタッチを活かしながら、80年代以降の時代にもつながる視点を加えたら、この映画は、もっと面白くなっただろう。原作を「脱構築」することをしなかったために、逆にそれだけ、原作のタッチに近づくことができたのかもしれないが、その分、原作が取り上げた(すでにその時点で脱構築されていた)歴史上の人物たち(ニクソン、キッシンジャー等々)が安いパロディになってしまった。しかも、この映画はそういう社会政治批判的なパロディを目指してはいないから、結局、もったいつけておいて最後に謎を明かす親子の秘密と、これといった新鮮味はないラブストーリーに落ち着くのである。
◆グラフィック・ヴァイオレンス(要するに「劇画」的なアクション)がいいとか、VFXがすばらしいという評があるが、わたしにはそうは思えなかった。美しいシーンはいくらもある(何せ143分もあるから)が、わたしが気に入ったのは、パトリック・ウィルソンとマリン・アッカーマンが全裸で向かいあっていて、次の瞬間二人が強い炎に包まれ、骨まで燃え尽きてしまう(それがウィルソンが演じるナイトウルの夢)シーンぐらいか。
◆スーパーマン、スパイダーマン、バットマンといった既存のコミックブックのヒーローを「脱構築」しているところが、この映画に登場するアラン・ムーアの原作のなかの「ヒーロー」たちのはずであるが、その「脱構築」さがこの映画には全く感じられない。ちなみに、「脱構築」(deconstruction)というのは、もともとはハイデッガーからデリダが換骨奪胎した概念であり、それが80年代にアメリカに上陸し、ポール・ド・マン(Paul de Man)を中心とする「脱構築派」(deconstructionist)がはぶりをきかせた。そして、80年代後半以降、「脱構築」は、「ポストモダン」理論といっしょになって、知的スノブの好むジャーゴンになったのだった。ウディ・アレンの映画『地球は女で回ってる』(1997年)の原題"Deconstructing Harry"は、この言葉への皮肉を盛り込んでいることは言うまでもない。
(パラマウント ピクチャーズジャパン試写室/パラマウント ピクチャーズジャパン)


2009-03-02

●釣りキチ三平(Tsurikichisanpei/2009/Takita Yojiro)(滝田洋二郎)  

Tsurikichisanpei/2009/Takita Yoj
◆アカデミー賞を獲った監督の作品として見ると、面くらう。滝田の作品としても、いつもはある批判精神が全くない。三平を演じる須賀健太は持ち前の才能でなんとか役をこなしているが、「アメリカで活躍していたバスプロ」という設定の男を演じる塚本高史が恐ろしく下手。演技的には、香椎由宇だけが存在感のある演技をするが、脚本自体の奥行きが浅いので、その演技が浮いてしまう。VFX頼りも仇になった。
◆香椎はいい俳優だと思うが、この映画では彼女の演技だけが情感的に異質だ。三平(須賀健太)の姉で、大学生という設定だが、彼女の演技からにじみ出るのは、とても日本の大学生の雰囲気ではない。三平たちの「探検」にいやいや秘境「夜泣き谷」へついて行くときにぶすくされたりするときは「普通」の女の子の感じを出していないでもないが、この女優は、基本的に、「普通」は似合わない。両親が死んだあと、釣竿師の祖父(渡瀬恒彦)と喧嘩して、中学生の身で単身東京に出て行って苦労したという説明があるから、その経験が顔や仕草に刻まれたと深い解釈をしてもいいが、そういう深読みを許す作品ではない。
◆冒頭、ボケた映像で子供を肩車した男と、釣竿を持った少女が歩いていて、わざとらしい東北弁のセリフが聞こえる。これがあとでまた出てきて、その男は三平と愛子の父親で、役者が萩原聖人だとわかる。えーっつ、萩原?!という感じがするのは、セリフが下手で、セリフが説明的だからだ。これは、脚本と演出に問題があるからこうなるのであって、萩原の責任ではない。塚本高史のセリフがひどいのも、それを監督がゆるしてしまったからであり、たとえダメな役者でも監督次第でセリフの棒読みのような演技は避けられる。しかしねぇ、塚本が、最初に顔を出すシーン(車のなかでケータイで英語をしゃべっている)でしゃべる英語は何だ?まるで棒読みではないか。「アメリカ帰り」であることを印象づけようという設定(脚本の)だとしても、この実感のともなわないセリフはひどすぎる。
◆滝田がこれまで必ず挿入してきた現状批判的な要素をこの映画から探せば、都会批判と自然礼賛ぐらだろう。しかし、それらは底が浅く、とうてい「いま」と拮抗することはできない。山奥には「自然」の「楽園」があり、そこで暮らす方が、都会で受験戦争などに巻き込まれるよりはるかにいい――といった月並みなロジックは、聞き飽きている。問題は、そういう「山奥」などないし、あるとしても、そこで「まさに楽園だなあ!」なんて「充実」した生活を送れる人間は、特権的な人間しかいないということだ。こういう田舎礼賛は、マスコミに食い荒らされてすぐに終わるつかのまの村起しにしか役立たない。
◆VFXは、いい仕事をしており、餌に食いつく魚や飛び回るトンボの映像は美しいが、原作の漫画的誇張を引き継ごうとした「夜泣き谷」での釣りシーンと、ドラマの普通さとのバランスが非常に悪いので、せっかくのVFXも浮いてしまう。ドラマの部分でけっこうマジメなテンポと調子でやってきて、最後に急に漫画的になる例を挙げれば、トンボに釣り糸を縛りつけて巨大魚を誘うのだが、トンボがあんな釣り糸をくくりつけられて飛べるかよ、という気持ちになるのである。これが、最初から漫画的に展開していれば、それもアリかという気持ちになっただろう。漫画の映画化がさかんだが、この映画は、その失敗作の好例だ。
(東映第1試写室/東映)


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