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粉川哲夫の【シネマノート】
公開が気になる作品 (2009年1月)
★★★★ヘルボーイ ゴールデン・アーミー ★★★チェ 28歳の革命 禅 ZEN クローンは故郷をめざす サーチャーズ 2.0 ★★ザ・ムーン ★★感染列島 大阪ハムレット ★★★★ワンダーラスト ★★★誰も守ってくれない ★★★★レボリューショナリー・ロード 燃え尽きるまで ポチの告白 ★★★チェ 39歳別れの手紙 ★★20世紀少年 第2章 最後の希望
イエスマン ザ・クリーナー フロスト×ニクソン ロックンローラ バーン・アフター・リーディング ワルキューレ アンティーク~西洋骨董洋菓子店~ ニセ札
2009-01-28
●ニセ札(Nisesatsu/2009/Kimura Yuichi)(木村祐一)
◆快作だ。太平洋戦争後のいっとき、日本にもアナーキーな時代があった。そんな時代に実際に起こったニセ札作りの話を不思議な魅力で描く。その時代が「戦後民主主義」と呼ばれたとき、そこにはタテマエだけのきれいごとといった意味はなかった。国家に従属される以前に人々がいることがその民主主義の原意であり、それは国家の枠がちょっとはずれれば自然に湧き出て来る。この映画は、肩肘をはらずに、そんなことを告げているかのようだ。
◆木村祐一という人はその風貌さながら、端倪すべからざる人物だ。最初は、くせぇ野郎だなという印象をあたえるが、彼の出演作を2,3本見れば、半端な男ではないことがすぐわかる。最近では、『少年メリケンサック』の演技が忘れがたい。そんな彼が映画監督をやると聞き、たぶんただでは起きないないだろう(別に転んだわけではないが)と思った。と同時に、1963年生まれの木村が、1950年代(昭和25年)を描くのだから、『Always 三丁目の夕日』シリーズのようにノスタルジックになるか、あるいは、時代考証をはしょって、大雑把になるのかと想像した。結果は、どちらでもなく、正攻法で撮っていた。破綻なく時代考証をし、エイジングの処理もクリアーし、実力派の俳優をそろえ、しっとりとした絵柄で、しかも、その時代の気分をよみがえらせるところまでやってしまった。
◆この映画は、丹念に地道なやり方で撮っているが、これは、京都出身の木村の料理感覚に一脈通じる。才能のある若い板前職人が「古典的」な懐石料理を作るときのやり方だ。木村は、「無国籍」料理にはしなかったし、フレンチ懐石にもしなかった。ちゃんとした「伝統」というより、地道な段取りをおさえて、昭和25年のある地方の村(つまりはローカルなエリア)で起こった出来事を描き、そこにローカル性を越えた(トランスローカルな)歴史の奥行きをあらわにする。ほめ過ぎな言い方をすれば、この手法は、カルロ・ギンズブルクの「ミクロストリア」(マイクロヒストリー)の方法である。
◆登場人物たちが多角的に書き分けられている。役者たちも適役だ。ニセ札を作るに際しても、作る動機はその加担者一人ひとり違うように描かれる。最初に言い出した大津シンゴ(板倉俊之)は闇商売をしているせこい奴で、ただの金儲けが目当てだった。彼から相談をかけられてしぶしぶ引き受けた元陸軍大佐の戸浦文夫(段田安則)は、親の広大な土地を農地改革で奪われ、ほとんど若隠居状態。紙漉き職人の橋本喜代多(村上淳)はその腕を買われ、写真館を営む花村典兵衛(木村祐一)も同じ。戸浦の元部下で、中国大陸で軍事戦略としてニセ札作りをやっていた笠原憲三(三浦誠己)は、戸浦の電報で呼び寄せられた。印刷機を買うための資金作りのために参加を勧誘される佐田かげ子(賠償美津子)は、大津の小学校時代の先生で、迷った末に参加する。ありえないようで、ありえるように見えてくるところが映画作りのうまさ。
◆既存の権威主義的なシバリがはずれる転形期には、一見ありえないようなことがよく起こる。そこでは、悲劇的なものも喜劇的に見えたりもする。佐田の家にいる知的障害者の哲也(青木崇高)のような存在は、このような場所では「聖なる愚者」ないしは「トリックスター」としての役割を果たす。この映画、そのあっけらかんとしたアナーキズムと、村の因習的なものまでもがラディカルに見える点で、ふと、『馬鹿が戦車でやって来る』(山田洋次監督、1964年)を思い出させた。
◆うまい処置だと思うのは、時代考証とエイジングにばかな凝り方をしていない点だ。最初のシーンで、賠償美津子が着ているモンペ、学校の庭に据えられた半切りのドラム缶、りんご箱、誰もが腰に下げている手ぬぐいといった簡単な小道具で時代色を印象づける。町のシーンがセットであることはすぐわかるが、それが致命的になるわけではない。登場するオートバイは、この時代のものにしては動きがスムーズすぎるがそんなことはどうでもいい。戸浦がISSEY MIYAKE 風のシャツを着ているのは、この時代に似つかわしくないとも言えるが、こういう部分は、ぐっとデフォルメしてしまった方がかえってその時代の特質が出るという大胆な処理だと考えることもできる。
◆最後の法廷シーンで、賠償は、金は人間が作ったものであり、金自体は紙切れにすぎない――にもかかわらず、人はその紙切れに振り回されていることを指摘する。そしてそのとき、哲也が法廷に乱入し、札束まがいの紙をばら撒く。その瞬間、法廷の人々が、「ええじゃないか」のお札騒ぎのようになってしまう。このシーンは秀逸。
(ショウゲート試写室/ビターズ・エンド)
2009-01-27
●アンティーク~西洋骨董洋菓子店~(Antique/2008/Kyu-Dong Min)(ミン・ギュドン)
◆繊細なグルメセンスも盛り込まれているのかと思ったら、ケーキやパティセリは、ドラマの材料にすぎなかった。絶品という設定のケーキの食べ方が雑すぎる。ゲイを笑いの題材にしている点でオクレテいる。幼少時のトラウマが軸になっている点でもありきたりである。ただし、最後の5分間はすばらしい。
◆原作(よしながふみ)がコミックであることを意識しすぎたのか、喜劇としてもドタバタすぎる。しかも、その笑のネタの多くが、ゲイ後進国の観客の笑いを期待している感じで、差別的である。だからか、近くの女性の観客は、「魔性のゲイ」を自称するソヌ(キム・ジェウク)がケーキ屋のオーナーでストレイトのジョニク(チェ・ジフン)に迫ると、ゲラゲラ笑っていた。
◆韓国の食べ物はみなうまいが、唯一(平均的に)ちょっと違う感じがするのが、クリーム類だった。この映画のケーキ屋は、フランスをはじめヨーロッパの有名パティセリで修行したという設定のソヌがパティシェをつとめる店。そういう店の場合、クリームはどうするのだろう? 見習いパティシェの元ボクサー、ギボム(ユ・アイン)は、ケーキを試食するとき、味わうというより、バクバク喰(くら)う。こんな食い方で微妙な味を判別できるわけがない。作中、「ガトー・オペラ」だの「デリス・ド・フランボワーズ」だのやたらフランス語名のケーキが登場するが、外見上色とりどりのケーキは見えるが、名前の下には何もない感じだ。こういう店では、飲み物も重要なはずだが、飲み物への言及は全くない。
◆原作はちがうが、この映画がケーキに執着するのは、最後の方で語られる「人は幸せなときにケーキを食べる。ほろ苦い人生を少しでも甘くするために」ということであるにすぎない。しかし、ケーキは甘いものばかりではない。韓国のありきたり(あくまで――絶品はあるはずだ)のクリームを使えば、ただ甘いだけのケーキしか出来ないかもしれないが、質の高いケーキには、「ほろ苦い」ものもある。
◆ジョニクは、ケーキアレルギーであるにもかかわらず、ケーキの店を開いた。だから、彼は、試食をするとトイレに駆け込む。しかし、食べ物を一方で絶品にもちあげておいて、他方で、そのケーキを食べて吐いてしまうようなシーンを出すのは、そもそも、食べ物をとりあげる資格がない。それだけでも、食べ物を単なる素材やツマとして使っていることがうかがわれる。
◆ジョニクのケーキ・アレルギーには理由があり、それがこの映画の核心をなす。幼いとき、誘拐され、ケーキを無理やり食べさせられたことが、彼のトラウマになっており、しばしば悪夢にうなされる。この悪夢の出方がまたステレオパターンである。そもそも、幼いときのトラウマが大人になっても影響して不幸におとしいれるというロジックがダメなのだ。もう、このパターンは卒業してもらいたい。
◆キム・ジェウクは、キムタクに似たいい男である。役者としてはなかなかいい。彼が演じるソヌを、かつての恋人ジャン=バティスト・エヴァン(アンディ・ジレ)がフランスから追って来る。が、フランスの天才的パティシェという設定のこの男、映画ではさっぱりその腕のさえを見せない。ならば、別にパティシェでなくてもいいと思う。だいたい、二人の関係の描き方もなっていない。昔の恋人なら、最初に再会したときのハグの仕方やキスの仕方があんなものではないはずだ。途中から、察するに、ジレの要求がいれられて、本当のゲイ関係っぽくなった。
◆この映画には、韓国のロワークラスは出てこない。ミン・ギュドン監督は、韓国のミドルクラスを描く。そもそも、このようなパティセリでケーキを食べるのは、ミドルクラス以上の者である。その際、監督は、韓国のミドルクラスの人々がいまいだいているさまざま精神病理学的問題に関心がある。幼い子供を失った親、リストカットをする女性、単なる金目当てではなく幼児誘拐をする者とされる者、そしてジェンダーの転換期的問題・・・。これらは、すでに韓国の映画でさまざまな形で画かれ、興味深い作品が生まれてきた。そのレベルからすると、ミン・ギュドンが韓国の現実をあつかうやり方はあまり鋭くはない。
(ショウゲート試写室/ショウゲート)
2009-01-26
●ワルキューレ(Valkyrie/2008/Bryan Singer)(ブライアン・シンガー)
◆ナチス体制のドイツ、しかも体制内に反ヒトラーの運動と抵抗があった。これまでにもエピソード的には描かれているヒトラー暗殺計画の屈折した詳細を描く。ユダヤ人としてのシンガーの半端でないこだわり。軍人役も好きなトム・クルーズほか、テレンス・スタンプ、ビル・ナイ、トム・ウィルキンソンらが渋い演技を見せる。『ネコのミヌース』ではかわいかったカリス・ファン・ハウテンはすでに大女優の風格。反ヒトラーの少将役でケネス・ブラナウの姿もある。
◆2004年の『ヒトラー~最期の12日間~』あたりから、ヒトラーのナチス体制が一枚岩ではなく、内部に抵抗運動があったことが肯定的に描かれるようになった。ヒトラーを単なる「狂気の悪役」としてではなく、もっと歴史と権力のコンテキストのなかでナチズムを見る方向が出てきた。しかし、この種の映画は、どのみちヒトラーに代わる新しい権力(たとえヒトラーよりは「民主的」なものであれ)をうちたてようとするかぎりで、所詮は「権力への意志」に支配された動きであって、権力そのものを乗り越えようとすることとは無縁だった。その点で、『白バラの祈り ――ゾフィー・ショル、最後の日々』のような映画は、ナチズムのような体制のなかでも、たとえ成功したとしても(新しい権力を握るための運動ではないというかぎりで)権力的には何の得にもならない運動があったということを教える点で、高く評価できる。
◆ルキノ・ヴィスコンティの『地獄に堕ちた勇者ども』は、ナチズムが単なる一過的な「狂気」の産物ではなく、技術と巨大な権力を志向するときには必ず生まれる症候群としてとらえ、同時に、その絶望的なまでの「頽廃」がもたらす終末の「美」からわれわれが逃れることができるかどうかという試練のなかに連れ込んだのだった。おそらく、ナチズムを乗り越えるには、そういう試練なしには不可能だろう。単なる「悪の権力」に対抗してそれを倒すというだけでは、結局、新たな(今度はそれまでの支配をよりソフトにしただけの)支配を生むだけなのだ。その意味で、この『ワルキューレ』は、トム・クルーズがそのプロデュースにも関わり、セット・デコレーションや衣装に膨大な金を注ぎ込み、実際に美術的には見ごたえのある贅沢なセットを作りあげたが、ナチズムそのものの理解と批判においては、非常に底が浅いのである。要するに、贅沢なポリティカル・サスペンスにすぎない。クルーズ演じるシュタウフェンベルク大佐らのヒトラー暗殺計画は失敗するわけだから、この映画の結果としては、単なる教科書的歴史の学習か、ヒトラーの悪運の強さの確認、歴史のアイロニーといったことしか得られないのである。
◆サスペンス映画としては一級品ではある。
(東宝東和試写室/東宝東和)
2009-01-22
●バーン・アフター・リーディング(Burn After Reading/2008/Ethan Coen/Joel Coen)(ジョエル・コーエン+イーサン・コーエン)
◆CIAは、いまや、「密会」や「盗聴」や「追跡」や「秘密情報」の取引といったスパイ映画が描いてきた「CIA」の感性と意識を一般人のなかに刷り込むぐらいの機能しかしていないといった痛烈なパロディ。ふだんはシリアスな役を演じるジョージ・クルーニー、ジョン・マルコヴィッチ、フランシス・マクドーマンド、そしてブラッド・ピットまでもが(というより、彼が最高の)オバカを演じ、笑わせる。「みんなバッカだなぁ!」と笑って見ているうちに、「おいおい、アメリカってこんなでいいのかい?!」という思いがつのってくる。これぞ、ブッシュ政権下の日常政治(マイクロ・ポリティックス)を異化した喜劇のクールな一品。
◆この映画では、文字通りのバカを演じるのは、CIA職員よりも「一般人」の方だ。なるほど、「アルコールが過ぎる」として要職をはずされるオズボーン・コックス(ジョン・マルコヴィッチ)は、小児科医の妻ケイティ(ティルダ・スウィトン)が帰って来ると、ソファーでいぎたなく酔いつぶれているとか、「回顧録」を書くとか言って録音機に向かって原稿を口述するが、ロクな文章になっていないとか、決してカッコよくはないが、そういうことは、誰にでもある。いい歳こいてiPod浸けのバカ丸出し男チャド・フェルドハイマー(ブラッド・ピット)にしたところで、彼の生活のすべてを見ているわけではないから、彼がアホだとは断定できない。それよりも、人々をこういうバカにしてしまう環境が問題なのだ。
◆終わり近くのシーンで、ジョージ・クルーニーが、出会い系サイトで知り合ったフランシス・マクドーマンドが、自分のおそるべき秘密に深く関わっていることに気づき、「お前は誰だ?! CIA? NSA? 軍?誰のために働いてるんだ?!」と狂ったようになり、周囲を見回すと、向こうに停まっている車も、公園でエクササイズをしている男も、歩いているサングラスをかけた男も、みな自分を監視しているような気になる。CIAパラノイアである。アメリカは、ブッシュ政権のもとで、「テロから自国を守る」と称する「ホームランド・セキュリティ」(国土安全保障)が法令化され、盗聴や予備拘束がしやすくなった。その意味では、冷戦の時代よりもはるかに、「盗聴されている」「逮捕されるかもしれない」というパラノイアは、高まったわけである。そういう状況のなかでは、この映画の登場人物たちの「オバカ」な行動は、笑えないわけであり、あなたがアメリカに住んでいれば、その幾分かを共有せざるをえないわけだ。
◆エンドクレジットでThe Fugsの「CIA Man」が使われている。なにせこの歌、ワンコーラスごとに「Fucking-a man! CIA Man!」が繰り返され、最後は、「Fucking-a man!/CIA Man!/Fucking-a man!/CIA Man!/Fucking-a man!/CIA Man!/CIA Man!/CIA Man!/CIA Man!/CIA Man!/CIA Man!/C/I/A」で結ぶハードなソング。
◆財務省保安官のハリー(ジョージ・クルーニー)とスポーツジムのトレーナーのリンダ(フランシス・マクドーマンド)は、ネットの出会い系サイトで知り合った相手とのデートを繰り返す。ハリーは、そもそも女遍歴が激しく、CIA職員だったオズボーン・コックス(ジョン・マルコヴィッチ)の妻ケイティ(ティルダ・スイントン)と出来ている。ハリーがリンダと知り合うようになるのも、出会い系サイトを通じてだ。ところで、「不倫」は、諜報員ドラマに不可欠のテーマでもあった。言い換えれば、スパイや諜報員のドラマがそういうセックス・カルチャーをはやらせ、最終的に「出会い系サイト」として制度化された。インターネットという諜報と情報の装置を使って誰でもが「不倫」をできるのだから、万人がジェイムズ・ボンドなみの持てる男女になるわけだ。ハリウッド映画が、性のカルチャーに責任があるように、「不倫」の様式には、CIAも責任がある。
◆日本でかつて「浮気」と言っていたこと(要するに性関係の多元化ないしは複合化)が、いま「不倫」と言われる。この言葉には、非常にモラリッシュな響きがあって、わたしのようなフリーセックス時代に青春を送った者には理解しがたい言葉だが、いま、日本でも、「不倫」が夫婦間と夫/妻対不倫相手との完璧な法律違反になりえるから、言葉としては、「浮気」ではなく、「不倫」の方が適切なのだろう。その際、どういう法律で裁かれるかというと、商法違反だという。つまり、結婚生活という契約に違反したり、結婚というビジネスを妨害したとする訴えが可能なのだ。弁護士もいいニッチを見つけたものであるが、これは、人間関係がビジネスとしてとらえられてしまう社会的動向が深まるなかで一般化した。そして、そういう制度認識が深まるにつれて、人間関係は、ますます「商取引」とみなされるようになる。この映画のなかに登場する人物たちは、みな金とセックスに振り回されている。その点で、気がよくてリンダの「商売」を手伝ったためにあえない最後を遂げるチャドは、かわいそうであるが、こういう時代の価値判断では「バカ」だったで片付けられるのである。
◆冒頭のトップクレジットは、グーグル・アースのように、地球を包む雲の上から衛星写真がズームして行ってラングレーのCIA本部の建物が上からクローズアップされる。そして、いきなり、CIA内部の廊下を急ぎ足で歩くジョン・マルコヴィッチの足→事務室のシーンになる。ここで、彼のクビが上司のデイヴィッド・ラッシェから言い渡され、マルコヴィッチは「なんだ、このやろ!」的な口汚いセリフを吐くシーンになるのだが、このプロセスを逆転させると、日常の「くだらない」出来事が地球大の規模に拡大できる意味を持っているという含みにもなる。こういう「ミクロ(マイクロ)」なことが、世界を動かしているんだよという含みである。
◆このあたりに関して、最近邦訳の出たカルロ・ギンズブルグの『糸と痕跡』(上村忠男訳、みすず書房)が参考になる。特にそのなかの、「細部、大写し、ミクロ分析――ジークフリート・クラカウアーのある本に寄せて」と「ミクロストリア――彼女についてわたしの知っている二、三のこと」という章が映画分析としても読める。「ミクロストリア」とは、「マイクロ・ヒストリ」にあたるイタリア語で、歴史を大事件からではなく、日常の瑣末な細部から記述する、ギンズブルグらが主導する歴史学の方法である。
◆クビになって悶々としているオズボーンが、ヨットの上で(彼と非常によく似た顔の)老いた父親に話しかけるシーンがある。「時代は変わった・・・愛国主義の時代ではない・・」と語るが、車椅子に乗った父親は何も語らない。このシーンを見ながら、わたしは、『ファイブ・イージー・ピーセス』でジャック・ニコルソンが演じるボビーと父親とのシーンを思い出した。愚か者のはびこる時代には、歴史を知っている賢明な者は、もはや語ろうとしても口がきけないのである。
(日劇1/ギャガ・コミュニケーションズ+日活)
2009-01-21
●ロックンローラ(RocknRolla/2008/Guy Ritchie)(ガイ・リッチー)
◆オープニングがかっこいいのでこの感じとテンポがどこまで続くかが見もの。若干の中だるみはあるが、けっこういい感じで2時間5分飽きさせなかった。全編、シティワイズな街っ子と早足で(ときにはヤバくなって走ったりしながら)ロンドンの下町を走り回っている感じ。が、ロシアマフィアの古株の父親と、ドラッグ漬けのロックンローラの息子との確執、ロンドンの闇社会の世代交代を基底に据え、ズシンと来る奥行きを持たせている。言うなれば、『ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルス』にクロネンバーグの『イースタン・プロミス』のしつこい味を加え、『< href="/2001-01.html#2001-01-23_1" target="_blank">スナッチ』のスタイルで仕上げた作品。
◆いまや病院船と化した感じの電車のなかでは、マスクをした人の隣の席は空いている。試写室でも同じ。この日、いつも座る席のそばにマスクのおじさんがいたが、ままよと座る。そのとたん猛烈な咳き。マスクをしてれば手で覆わなくてもいいと思っているらしい。こりゃたまらんと席を移る。しかし、あちこちで咳きが聞こえるから、そんな付け焼刃の逃走ではウイルスを回避することは出来まい。ふと、『感染列島』のシーンが浮かぶ。
◆いかにもガイ・リッチーらしいスタイルで始まるオープニング。ギターとドラムのラリった感じの音楽、壁か古い絵本をスキャンするかのように急なパンをする画面にクレジットが映り、車のタイヤがこすれるような音がすると、マーク・ストロングのシニカルなナレーションが始まり、すぐに薄暗い廃墟のような部屋にV字形の背中をむき出しにした男が立っているのが映る。ナレーションとともにカメラがゆっくりズームしていくと、リズムにあわせて体をゆすっていたその男(トビー・ケベル)が腰にはさんでいた拳銃を取り出す。撃つのかと見せて、カメラが回り込むと、銃口からはライターの火が見える。そして、それを左手に持った大きなフラスコ式の吸引器に点火する。白い煙が出て、トムが吸引する瞬間、今度は彼が女と激しいセックスをしているショットに女の悲鳴とともに飛び、さきほどからのテーマ音楽がぐわーと大きくなる。この間、わずかに50秒程度。
◆ここでマーク・ストロングがしゃべっているセリフは、この映画の方向をすべて語っている。いわく、「みんな聞くけど、『ロックンローラ』って何って。だから言っとくと、それは、ドラムやドラッグや病院の点滴のことじゃない。全然違うよ。そんなもんじゃないだよ、あんた。俺らはみんなちょっぴりいい暮らしがしたいだろう。金とかドラッグとかセックスゲーム、グラマーな女とか名声とかさ。でもロックンローラーはちがうんだよ。どうして? でもだって本当のロックンローラはめちゃド欲が深いからね。」(People ask the question... what's a RocknRolla? And I tell 'em - it's not about drums, drugs, and hospital drips, oh no. There's more there than that, my friend. We all like a bit of the good life - some the money, some the drugs, other the sex game, the glamour, or the fame. But a RocknRolla, oh, he's different. Why? Because a real RocknRolla wants the fucking lot. )
◆この印象の強いシーンのあと、トビー・ケベルは、姿を消し、トム・ウィルキンソンが演じる老マフィアのレニーとその側近役のマーク・アームストロングが、ロシア系のマフィアのウリ(カレル・ローデン)の一派と金まみれの抗争をくりひろげる――といっても機関銃バンバンのではないもっと知的で陰湿な闘いだ。そこに、セコイこそドロ的な仕事ばかりしているワンツー(ジェラルド・バトラー)や(二股かけているのが見え見えなのに、映画ではなぜかしばらくそれが暴露しない)「ファムファタール」風を装ったステラ(タンディ・ニュートン)らが絡み、話を複雑にする。
◆この映画や、クローネンバーグの『イースタン・プロミス』のような作品を見ると、ロンドンの暗黒街の力関係が近年大きく変わったという印象を受けるかもしれないが、ソ連の崩壊後、ロシアマフィアが西側に進出してきたことは事実だとしても、こういうとらえ方は、現実にはもう古い」らしい。しかし、映画は映画だ。実際、そのひねった抗争ドラマにもかかわらず、ドラマの根元には、親子の抗争がある。それならば、もっと単純な登場人物で描いてもよかったのではないかという印象も受ける。
◆レニーは、ロンドンの暗黒街を長いあいだ仕切ってきたボスで、「父親」的存在である。ウリ一派や、レニーを裏切る連中は、そういう「父親」的存在に反抗したのであり、最終的に「父殺し」をするのだ。だから、レニーの「息子」のジョニー(トビー・ケベル)は、文字通り反抗し、彼につらい思いをさせることが快感となる。アーチらのヤクザにかしずかれて育った幼少時のジョニーのトラウマはフラッシュバックで示される。彼がドラッグに溺れたのは父親から逃れるためだという。基本は、いささか単純なのだ。
◆ガイ・リッチとマドンナがいつ別れるかというのは、ロンドンのゴシップ紙が好む題材だが、前後して二人が映画を作った(マドンナのは、『ワンダーラスト』)のを見ると、「あんたなんかに頼らなくっても映画ぐらいあたしにも撮れるわよ」とヒステリックな声のマドンナと、「お前なんかには、こんなのは絶対できねぇだろう」と笑いながらも、ちょっと泣きそうになっているガイ・リッチの顔が浮かぶ。しかし、このままだと、ガイ・リッチーの方が行き詰るかもしれない。
(ワーナー試写室/ワーナー・ブラザース映画)
2009-01-20
●フロスト X ニクソン(Frost/Nixon/2008/Ron Howard)(ロン・ハワード)
◆ウォーターゲート事件で米国大統領史上初の辞任という汚名を負ったリチャード・ニクソン(フランク・ランジェラ)にインターヴューを仕掛けたテレビ司会者デイヴィッド・フロスト(マイケル・シーン)。実際に行われた二人の攻防を描いたとされる第一級の知的サスペンス。最初はトップ屋的な賭けのつもりだったフロストが、政界復帰のチャンスにしようとするニクソンのしたたかさに直面する。ランジェラの見事な演技に、あの「世紀の悪党」ニクソンが、魅力的に見えてくる。
◆すぐ前の席に座ったNさんから、このシネマノートで試写室内のことが書かれていて面白いと言われ、「いや、最近は反響が大きいので場内エピソードは控えているんです」といった雑談を交わしてから、すぐ座席の背中を蹴られた。背中を蹴られる話は何回も書いたが、最近あまり書かないのは、実際にそういう機会がなくなったからだ。しかし、考えてみると、最近は、最後列に座ることが多いので、蹴られることがなかったというだけだったのだ。この日は、後ろの方だったが、最後列ではなかった。蹴られるたびに後ろを振り向いたが、気づいてもやめなかったのは、その人の脚がながすぎたのかもしれない。終わって顔を見てやろうと思ったら、逃げるように立ち去ったので、意識していないわけではなかったみたい。
◆フロストとニクソンの双方に魂胆があったように、この映画を演出したロン・ハワードにも魂胆があったはずだ。たしか、彼はニクソン指示の共和党派だったと思う。もともと舞台作品(フロスト役とニクソン役はそのまま)だから、ニクソン糾弾というより、異なる二人のキャラクター同士のスポーツ競技的なディベイト・ドラマの性格がある。そこでは、大部分フロストを圧倒したニクソンが最終的に自分の罪を認め、フロストに敗北するわけだが、見せ場は、そのプロセスにある。そして、勝負には負けたが、そのプロセスを通してニクソンは、その屈折したキャラクターを印象づける。結局、ハワードは、ニクソンという、大衆的レベルでは憎まれた人物をそういう形で復権させているのだ。
◆YouTubeに、実際のテレビ映像がアップされており、それを見ると、フロストは、サム・ロックウェルが演じている「フロスト」よりもシリアスであり、映画が描いているような軽薄な感じはしない。むしろ、「本格的」なジャーナリストである。ニクソンの方も、映画が描くほどの身体感・情感がなく、全体としてニューズ・ドキュメンタリーのタッチである。こうなると、この映画は、やはり、一つのフィクションとして見た方がいいという気になってくる。
◆映画のなかで、ニクソンの老獪な戦略に追い込まれたフロストのチーム――ジョン・バート(マシュー・マクファデン)とジェイムズ・レストン・Jr.(サム・ロックウェル)とボブ・ゼルニック(オリバー・プラット)――は、必死のリサーチでニクソンのウソを発見し、それにもとづいてフロストがニクソンを追いつめ、ニクソンが呆然とした表情を見せるシーンがある。一般に、1977年のテレビでは、このシーンがニクソンの政界復帰を永遠に不可能にしたと言われる。しかし、それは、映画のなかでジョン・バートが言うように、瞬間を捉えるテレビの力のせいだったかもしれない。なるほど、テレビはクローズアップのメディアである。しかし、映画はクローズアップのメディアであると同時に、テレビにくらべればはるかにロングショットのメディアであり、さらに、演劇と似たような額縁(フレイミング)のメディアでもある。だから、テレビの出来事を映画が再現しようとしても、テレビと同じ機能を発揮することはできない。つまり、この映画は、テレビが1977年にもった機能を「再現」することはできないのである。ロン・ハワードは、そのことを十分知りながら、この映画を作ったはずだ。
◆現実や人物というものは、「これが本当の・・・だ」というようなことが言えない存在だ。それは、表現されただけの数ある存在であり、ニクソンのような超社会的な人物の場合には、彼について語り、表現する数だけ彼が存在する。そのなかで、この映画は、ニクソンを最も魅力的に描く。告白するなどということはありえない「公的」人間のニクソンが、自分が社会性のない孤独な人間であることを認め、大統領として失敗し、国民に迷惑をかけたことを認めるということは、失望よりも感動を呼ぶ。その場合、あなたがそういう人物にフェイス・トゥ・フェイスで立ち会い、その話を聞いたならば、場合によっては殴ってやりたい気持ちになることもあるだろうし、ただの哀れみや失望しか感じないこともあるだろう。しかし、それが、舞台とか映画のようなプロセス・メディアのまえで行われるならば、それは、感動(さもなければ演技的・演出的なレベルでの失望)しか生まないのである。そして、そのような形で(メディアのなかに)結晶化されたキャラクター=人格が、ニクソンの一つの人格(ニクソンが誰であるかの誰)になる。われわれが「知っている」有名人とはみなそういう存在だ。
◆この映画のなかのニクソンは、何かというと金の話をする。インタヴューをニクソンが受け、契約金の話になったとき、ニクソンは、フロストが提示した額を上乗せするように要求する。そして、フロストが小切手を切るときの宛名を、エイジェントのスイフティ・リザール(トビー・ジョーンズ)ではなく、自分の名にするように言う。しかし、こういう強欲さも、この映画では彼の「人間臭さ」としてプラスの意味を持ってくる。
◆フランク・ランジェラの演技の凄さは、ニクソンそっくりであるから凄いのではなくて、ニクソンと不即不離の関係にあるかのような先入観をあたえながら、ニクソンそのものとは別の独立したキャラクターを生み出したことにある。これにくらべると、マイケル・シーンは、かなり力不足である。
◆映画ではあいまいにされているが、フロストが飛行機のなかで知り合い、その後づっと彼についているキャロライン・クッシング(レベッカ・ホール)は、女優のキャロル・リンリー(Carol Lynley)がモデルだという。リンリーとフロストは、18年間にわたり、「出たり入ったり」の関係だっとという。
(スペースFS汐留/東宝東和)
2009-01-16
●ザ・クリーナー (Cleaner/2007/Renny Harlin)(レニー・ハーリン)
◆犯罪現場の浄化・清掃を職業としている元警官(サミュエル・L・ジャクソン)が巻き込まれる事件のサスペンスを繊細で鋭いカメラワークで描く。組織犯罪をにおわせながら、個人的なドラマに収斂させる終盤は、評価の分かれるところ。が、エド・ハリス、エヴァ・メンデス、人気急上昇のキキ・パーマー(ジャクソンの娘役)が絶妙の脇を固め、少なくとも最後の5分までは飽きさせない。
◆問題があるとすれば、それは、トム(サミュエル・L・ジャクソン)とその娘ローズ(キキ・パーマー)との関係さらには、ファミリーというテーマに未練を残しすぎた点だろう。さもなければサスペンスで終わるこの作品にそういうテーマを盛り込んだのは、監督レニー・アーリンの特別関心からだったのかもしれない。トムとローズは、目の前で妻/母を殺されたという経験を持つ。その無念さと悲劇を背負いながら、二人はささやかな親子暮らしをしている。そのへんの描写はいいのだが、サスペンスの側の映像の強度の方が、トムと娘、トムとエディとの微妙な人間関係的ドラマを圧倒してしまうのである。
◆トムの仕事は、殺人などがあって血まみれになった現場を清掃し、その痕跡を整除することだが、警察の依頼である邸宅の血痕をクリーン・アップして帰ってから、その家の鍵をもってきてしまったことに気づく。ところが、翌日その家に行ってみると、殺された人物の妻アン・ノーカット(エヴァ・メンデス)がいて、全く殺人のことを知らない。昨日は外出していたという。夫が失踪していることは知っているが、女と浮気しているぐらいにしか考えていない。トムは、事情を明かさぬまま帰るが、やがて、自分が、陰謀にまきこまれていることを知る。殺された人物は、元市警察本部長の汚職収賄事件の証人で、明らかに証拠隠滅のために殺されたと考えられる。あげくのはてに、トムは、ノーカットの失踪を捜査している刑事バーガス(ルイス・ガスマン)に疑いをかけられる。
◆一見、組織的な陰謀の話のようでいて、あとから考えると、「ンの夫が汚職収賄事件の重要な証人である」という情報をトムに伝えたのが、彼の級友で、ローズの名づけ親だったエディ(エド・ハリス)であることがわかる。しかし、サスペンスフルに展開するこの映画のリズムのなかでは、そんなことが決定的な意味を持つことなど見逃してしまう。最後の5分間で、すべてが、エディの「私的事情」に収斂するのだが、そこが無理といえばいえるし、そこが面白いといえばいえないこともない――というところが、この映画の評価の分かれ目だ。
◆スタイルはしゃれている。るョンで始まるが、カメラが引くと、それはナレーションではなく、トムがパーティで自分の仕事のことを話しているシーンの音声であることがわかる。彼がアパートにもどると、テレビの音が聞こえてくるので、安アパートに住んでいるのかと思うと、その音は、娘がつけているテレビの音声で、思ったほどの安アパートではないことがわかるという仕掛けも、しゃれている。
◆豪邸に住む富豪の妻という設定のエヴァ・メンデスは、キューバ系アメリカ人だが、その小麦色の皮膚と話方やものごしは、生まれつき「上流階級」という感じではない。この設定は、実は、意味深く、もし、アンの役をケイト・ブランシェットとかグウィネス・パルトロウに演じさせたら、エディと彼女とのあいだにラブアフェアーがあったという(映画ではほんの数分で説明される)決定的な出来事が起こった真実味が薄れてしまっただろう。ただ、メンデスが、「下流」からのし上った女であって、「上流」社会でいつも若干の違和感を持っている女なのだということが、この映画の方向を決定してしまうほどの意味を持っているというのは無理というものだ。
◆脇役で味を出すルイス・ガスマンをせっかく出しても、この映画ではあまり本領を発揮できなかった。
(シネマート銀座試写室/リベロ/AMGエンタテインメント)
2009-01-14
●イエスマン (Yes Man/2008/Peyton Reed) (ペイトン・リード)
◆「ヒキコモリ」症候は日本だけではないらしい。他人とつきあうこと、一歩自分を踏み出すことへの畏(おそ)れとためらいに支配された中年男(ジム・キャリー)が、何でも「Yes」と言うべしとする「教え」にはまり、生き方を変える。ハリウッド型の人生論的啓蒙が鼻につくところもあるが、けっこうアメリカのいまを批判的に衝いていて笑える。教祖役のテレンス・スタンプは老いてますます元気。
◆映画は、レンタルビデオショップでケータイを取るカール・アレン(ジム・キャリー)のシーンから始まる。彼は、電話をかけてきた友人のピーター(ブラッドリー・クーパー)を振り切ろうとするが、捕まってしまう。彼は、固い決心をしたかのように、他人とつきあわず、無為の生活をしようとしている。それは、恋人に振られたのがきっかけかもしれないが、映画はそうとは単純に彼のキャラクターを決め込まない。そこがいい。ある種のニヒリズムに感染したかのように、勤め先の銀行の仕事もいいかげんにしかしない。
◆アメリカのような社会では、こういう人物がいた場合、その生き方を「尊重」するのがならわしなのか、あるいは、単純に冷淡なのか、誰も干渉しようとはしない。だが、この映画では、友人や道端で出会ったホームレスっぽい男までが、彼に「親切」な助言をする。しかし、カールのいいかげんさに彼を「ベスト・フレンド」だと思っていたピーターも、「そんなら孤独に死ねよ」と彼を見放す。これには、さすがのカールも、潜在意識を刺激され、アパートで孤独に死に、自分の目に蝿がたかっているのをピーターたちが見下ろしている悪夢を見る。がばっと目が覚めて、やばいと思ったカールは、先日路上で会った男からもらったパンフレットを取り出す。そこには、「イエス!は新しいNOだ! 人生にイエスということを今日から学びはじめよう!」(YES! IS THE NEW NO! Start Learing to Say YES to Life TODAY!)と書かれている。
◆その会でもカールは、冷笑的な態度をとってしまうが、そのときの教祖テレンス・バンドリー(テレンス・スタンプ)の即座の反応が面白い。壇上からカールの態度を見とめた彼は声をかけ、質問をするが、「ノー」と答えてしまうと、テレンスは、裸足になり、通路を猛烈な勢いで走ってきて、カールのまえに来る。それから、ワイヤレスマイクで個人質問をしはじめる。彼がマインドコントロールされるこのシーンは、見方によっては非常にファシズム的な感じがしないでもないが、「教祖」をテレンス・スタンプがやっており、「洗脳」されるのがジム・キャリーであることから、不快な感じはしない。ドラマの手続きとして見れる。このイニシエーションがなければ、その後のコメディは展開しないのだから。
◆この映画が、「NO」ばかりがはびこっているいまのアメリカを茶化していることは明らかだ。この映画のアイロニーは、彼が「テロリスト」あつかいされて逮捕されるところでピークに達する。「YES」「YES」と言っていたらとんでもないことになるのが現状なのだ。「YES」主義に転向したことで知り合うようになったガールフレンドのアリソン(ゾーイ・デェシャネル)ともうまくいかなくなる。しかし、この映画、ここから、ハリウッド流の典型的なロマンティック・コメディの方に萎縮してしまう。つまり、切れかかったアリソンが彼がどうよりをもどすかという話に行くのだ。これは、期待はずれ。
◆最初の方で、つき合いの悪いカール(ジム・キャリー)を非難する知り合いたち(その一人をブラッドリー・クーパーが演じる)の口調や態度は、(こちらはフランスだからもっと辛らつだが)『ぼくの大切なともだち』でダニエル・オートゥイユが責められるシーンを思い出させる。アメリカ人は「友好的」とはよくいうが、なかへ入ればあまり違いはない。が、時代的に、昔よりシニカルで辛らつな人は増えているかもしれない。
◆この映画の基礎には、一度何に対しても「ノー」ではなく「YES」というと誓ったら、それを守るという契約の精神があり、それ自体は笑いの対象ではないのだが、日本のように、契約を絶対的とは考えない文化圏では、ジム・キャリーが頑(かたく)なにその契約を守ろうとするのが、アメリカ以上におかしさを呼び起こすかもしれない。アメリカには、色々な宗教があり、その戒律を頑なに守っている人もいるし、自分で決めた規則や信念を(日本的な目からすると)馬鹿みたいに守ろうとする人はならなくてもいいのでは」と思われることでも頑固に守ろうとする人は多いような気がする。
◆飛び込み男の役でルイス・ガスマンが出演しているが、この人のキャラなら主役をやらせても行けると思うが、渋い脇役の場合が多い。
(ワーナー試写室/ワーナー・ブラザース映画)
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