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 粉川哲夫の【シネマノート】

今月気になる作品

★★★ ノウイング(途中まで気を惹くが、謎解きでがっかり。謎は最後まで姿が見えない方がよかった)。   ★★★★ ディア・ドクター(笑福亭鶴瓶と八千草薫との愛すべき共演。この二人なくしてこの映画はない。医療問題への批判的目も鋭い)。     ★★★★ サンシャイン・クリーニング(競争社会からはずれた人々への視点が一貫してズレないのは監督のセンスと社会観。細部のさりげない会話にただようセンス・オブ・ユーモアがいい)。 ★★★ モンスターVS エイリアン(二者ではなく、巨人になってしまった娘、モンスター、エイリアンの三者が登場するが、要は有機的な生物と無機的なマシーンとの闘い。メカから「生身」志向がアニメでも起こり始めている。映像はなかなかいい)。   ★★★ 湖のほとりで( 「のどかな」村だが、登場する人物はみな「しあわせ」とは縁遠い表情をしている。たった一人「しあわせ」な人がいるが、それは「認知症」に陥っている。)   ★★★★ セントアンナの奇跡(国内・国外・軍隊内での黒人差別、そのはざまで生まれる「奇跡」的な友愛。1983年のハーレムでの衝撃的な始まりから第2次大戦末期のイタリアの寒村へとある歴史と記憶がたどられる)。   ★★★★ バーダー・マインホフ 理想の果てに  


カムイ外伝   ナイト ミュージアム2   私の中のあなた   空気人形   カイジ~人生逆転ゲーム~   ロボゲイシャ  


【月間の印象】
海外でのレクチャーとワークショップの準備、東経大での講義の準備とゲスト講座にまつわる仕込みや受け入れのてんやわんやで、あまり試写に足を運べなかった。疲れて帰り、DVDや、もらったファイルを見ることは毎日で、マイケル・ジャクソンの死に触発されて、ジョン・ランディスの80年代の作品を観なおしたりもして、映像から離れることはなかったが、毎日届く試写状にかなりのプレッシャーを感じる月だった。「Help & about」でも書いたが、熱心な読者の意見に教えられ、4月に変更したデザインをもとにもどすことにしたのも、わざわいし、なかなか更新が思うようにいかなかった。その間おまけ以上につきまとわれた歯痛と腱鞘炎も、いまは治りつつあるので、来月は少し挽回できると思う。

2009-07-31
●ロボゲイシャ(Robogeisha/2009/Noboru Iguchi)(井口昇)  
Robogeisha/2009/Noboru Iguchi ◆受付で「こんなものも見るんですか?」と言われた。わたしはお堅いものばかり見ている印象があるんですかね? いえ、少なくとも映画が好きな者なら、『片腕マシンガール』を見て、井口監督の新作を見ないわけにはいきませんよ。前作よりも予算が大きいというし。30分まえだったが、すでに試写室に人がいた。この試写室に来るときはいつも座る最前列がすべてリザーブされている。おいおい、こういうのってフェアーじゃないですね。そのくせ、開映しても2席あまっていたから、もったいないじゃないの。
◆意表を突く変転と展開、パロディとも経費節減ともとれる「安さ」と「軽薄」さ、ポルノ映画的肢体の引用、むろん、カンフー・ムービーやアニメの安い引用、本気とも冗談とも取れる時評性・・・井口ワールドは健在だ。が、経費が潤沢になったためだろうか、全体として緊張感が『片腕マシンガール』よりやや落ちる。癖ありとはいえ、メジャー俳優(竹中直人、志垣太郎、松尾スズキ、幾多悦子)を一部使ったことも、この映画を「安全」なものにしている。
◆とはいえ、場内(のファンのあいだ)からたびたび笑い声があがったように、楽しめる個所は多い。「悪」の帝国の御曹司・影野ヒカル(斉藤工)が、手足に結び付けられた紐を操作すると、富士山頂に核爆弾を仕掛けようとするロボットの体がシンクロして動く。実に「安く」、「馬鹿馬鹿しい」シーンが、得に言われぬユーモアをかもし出す。
◆監督は、「外国人が作った間違った描写の日本の映画」、「日本人のエキゾチックさとか芸者とか富士山とか」を意識しながら本作を撮ったらしいが、それは十分に成功している。が、海外から見ると突出した感じに見える日本の「イジメ・カルチャー」(teasing culture)の描き方が、「外国人」の目ではなく、「日本人」の目にとどまっている。姉妹(あとで或るヒネリが明かされる)で京都の置屋に入った春日ヨシエ(木口亜矢)と春日キクエ(長谷部瞳)。「美人」の「姉」キクエは、「冴えない」「妹」のヨシエをイジめる。ヨシエは、しかし彼女に逆らわず、ひたすら姉の付き人役に甘んじている。わたしはねーさんを愛しているのに、と悲嘆にくれ、哀れをさそう。このへん、日本の安いお涙頂戴ドラマのパターンをパロっているようにもみえるが、それほど「安く」は描かれない(俳優たちの技量もある)ので、くすっといった笑を誘う度合いが低い。
◆そんなある日、人気のない山道(これも笑わせる)を歩いている二人が「拉致」される。人間を「ロボット」に改造し、殺人芸者マシーンにして要人暗殺をはかり、世界制覇をねらっている「影野製鉄」の一団だ。彼らに家族を拉致された人々が、自衛組織を作り、闘いを挑むのは、北朝鮮の拉致問題との関係がほの見える。そのリーダー金井老人を演じるのが、竹中直人。その仲間の老女キヌを演じるのは生田悦子。いずれも芸達者だが、その分、この映画の面白い「安さ」が損なわれるのは皮肉。
◆いま日本では、ロボットへの関心が高く、実際に自分がそれになろうという意識を持たないまま「ロボット」になっているような人間が増えているような気がする。先日見た『空気人間』は、そのへんを鋭く衝いていたが、この映画の「ロボット」はただの機械人間つまりはマシーンガールであって、ロボット性つまりは「ヴァーチャリティ」を意識した存在ではない。むしろ、「ロボット」という点の意識は、80年代のテレビアニメをにぎわせた「超合金」ロボットなどのレベルにとどまっている。だから、「合体」などというシーンでは笑える。が、以後、日本のロボット・カルチャーは、飛躍的に深化した。
(角川試写室)



2009-07-30
●カイジ~人生逆転ゲーム~(Kaiji/2009/Sato Toya)(佐藤東弥)  
Kaiji/2009/Sato Toya ◆プレスに「26歳の伊藤カイジ(藤原竜也)は、定職にもつかず、コンビニのバイトを適当にこなしながら、その日暮らしの自堕落な生活を送っていた」と書いてあったので、その「自堕落な生活」とやらを楽しみにして見たが、カイジの生活は、いたってフツーの生活で、「自堕落」でも何でもなかった。こういう表現って、「フリーター」を否定的なイメージでとらえるクリシェではないだろうか? そして、そうであるがゆえに、彼がそれから陥る運命は、あたかもあたりまえであるかのように考えなさいというわけだ。しかし、この映画のドラマの展開は、決して「あたりまえ」ではなく、ゲームの世界のように、対立とチャレンジとスリルなドラマを生み出すために人工的に構築した世界以外のなにものでもない。言いたいのは、このプレスがダメだということであって、この映画がダメということではない。この映画は、人生=ゲームというドラマを映像化するために、働くことを二の次にしている人間――つまり人生はゲームではないと思っている人間(たち)を対比したのである。それは、一部成功し、一部失敗しているが、全体としてはまあまあ面白く撮れているのではないか?
◆人生がゲームであり、この映画の展開自体がゲーム進行なのだとすると、映画のコマであるべき登場人物は、「ありがち」なキャラクターである方がゲームが引き立つ。いや、さもなければ、ゲームが成立たない。ここで言うゲームとは、勝敗がはっきりした勝負のことだからである。「三国志」がゲームになりやすかったのは、そのキャラクターの差や個性が明快だからである。
◆その意味で、およそ実在しえない闇王国の帝王のような人物を演じる佐藤慶(久方ぶりの出演)は、さすがツボをはずさず、マンガやメールヒェンの登場人物に成りきっている。
◆カイジに法外な額の利息のついた借金を請求し、カイジが断ると、机を蹴ってタンカを切る「恐い」はずの遠藤凛子という女を演じる天海祐希は、その間延びした顔からしてこの役は無理だし、いまだに残る宝塚体質は、「ありがち」な「悪」を演じるのを邪魔している。天海には、二重的な性格すらも演じられないらしく、最後に見せるペテン師的なくだりも、とってつけたような感じになっている。
◆藤原竜也は、その存在感のなさによって不在の存在感を獲得してしまったような俳優である。彼がどんなに声を振り絞って叫んでも、命を賭けるような行動をしても、その肉体性はアニメの登場人物のようであり、生々しくは感じられない。その意味で、この映画は彼のための映画であり、いまの時代のあるパターンを描いている。
◆ゲームに敗れた者が閉じ込められ、そこから強制労働に駆り出させられる地下の空間は、明らかに現存する刑務所などをモデルにしている。その番人役を松尾スズキが遊び心たっぷりに演じている。そう、この映画では、すべて「ありがちな」イメージで押えた方がいい。その点、闇の帝国のNo.2を演じる香川照之は、ふだんはあんまり「ありがち」なキャラクターを演じない俳優なので、彼がそういうのを演じると、「ありがち」のキャラがただただ安っぽく見えてしまう。「誠実」そうな顔をして、実はせこくて卑劣な役柄を演じる山本太郎は、達者な俳優だが、ここでは、もうちょっと遊びがほしかった。これでは、「ありがち」を演じるというよりも、その役をまじめに演じ切ってしまっている。
◆その点で、いかにも「ありがち」な「落ちこぼれ」、初老に達しながら娘の面倒を見切れなかったことを悔いている失敗者を演じる光石研がいい。映像的にはリアリティがなくても、ゲームとしてはリアリティのある超高層ビルのあいだでの「鉄骨渡り」のゲームで、どんどん足を滑らせ、目もくらむ高さの地上に落ちていく人の一人。光石は、この鉄骨の上のリアリティ(ニセモノのリアリティ、ゲームのなかでしかリアルではないヴァーチャルなリアリティ)をたくみにつかみ、その演技の質を多様に変化させながら、そのキャラクターを演じ切った。
◆この映画には、「格差社会」への批判、そこから振り落とされたとしても競争を回避した「甘えた」人間――この映画に登場するそうした人間たちがみな男なのはなぜだろう?――への批判があるように見えながら始まり、後半から、そういうことがどうてもよくなる。ならば、そんな「社会性」はきっぱり捨てて、もっと「ゲーム」性に専念した方がよかったのではないか?
(東宝試写室)



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●空気人形(Kukiningyo/Air Doll/2009/Koreeda Hirokazu)(是枝裕和)  
Kukiningyo/2009/Koreeda Hirokazu ◆ミッドタウンから歩いて来たが、時間があったのであおい書店に入り、30分まえに試写室に着いたら、すでにパイプ椅子の席しかなかった。試写が回ってから大分たったから、そのあいだに評判が流れたのだろう。すでに5月にカンヌ・フィルム・フェスティヴァルで上映され、評判を呼んだので、国内での期待も高まっていた。
◆内容・スタイル・素材・出演者が完璧なまでにぴったりリンクしあっている作品。「空気人形」とは一体何かと思ったら、要するにポルノ屋で売っているビニール製のダッチドールのことだった。ならば、『ラースと、その彼女』に出てきたような「リアル・ドール」を使えばいいじゃないか、と思ったが、そういう思いが観客に浮かぶことは百も計算済みで、あえて「空気人形」をつかっていることがやがてわかる。この映画では、絶対に「空気人形」――「内部が空っぽ」の「型遅れのラブドール」でなけらばならないのである。
◆この種の「空気人形」が登場する映画で印象にのこっているのは、まだ「真摯な映画青年」の雰囲気がただよっていたリュック・ベッソンの『最後の戦い』(Le dernier combat/1983)の初めの方で、主人公(ジャック・ジョリヴェ――いまでは監督・脚本で名高い)が、核戦争で廃墟化した建物のなかでしきりに「空気人形」とセックスをしている。それから26年もたったいま、この種の人形の「精度」(?)は飛躍的に高まり、日本のオリエント工業、アメリカのReal Dollのようなメーカーが需要を延ばしている。映画でも、最初「空気人形」を愛用していた中年男(板尾創路)は、人形が「心」を持ってしまって、彼の留守中にメイド服を着て街に飛び出し、その頻度が高まって家に帰って来なくなると、新しい代品を買う。それは、もはや「空気人形」ではなく、(おそらくはオリエント工業製の)「ラブドール」なのである。心を持ってしまった「空気人形」(「肉体性」を欠いたペ・ドゥナが完璧なまでに演じる)が久しぶりに家に帰るったとき、そのラブドールと鉢合わせするシーンも面白い。ヴァーチャルなレベルにも位相があるのだ。
◆この映画は、いまの時代(ヴァーチャルなテクノロジーが浸透した)のリアリティや身体性の変容という事態を深く考えさせる。生身の肉体を持った存在(普通の意味での「人間」)を愛せない者、ヒキコモリ、過食症、セックスが代替可能な性的器官だけの問題になってしまうということ・・・といった「今日的な問題」を単なる上面ではなく、深くスキャンしている。
◆「空気人形」の「体のなかはからっぽ」だが、高齢で死と向かいあっている元高校教師の老人(高橋昌也)が言うように、人間はみんな「体のなかはからっぽ」なのだという意識は、かつては「ニヒリズム」と呼ばれた。ニヒリズムは、ニーチェの『(権)力への意志』によれば、「存在」の「何のため」が欠如する歴史的事態である。かつて自分の体・身体に聴けば暗黙の答えが得られた(得られなくても何となく安心できた)ことが、いまでは、体・身体を頼りにすることはできない。体・身体は代替可能なもの、サイボーグ的身体になった。映画のなかで、「空気人形」とのセックスを終えた板尾は、「空気人形」から性器部分をはずして、水洗いする。同じことを、ペ・ドゥナは、レンタルビデオ屋の店長(岩松了)にせがまれてセックスをしたあと、自分で自分の性器をはずして水洗いする。
◆この映画の面白いところは、人間が「空気人形」になってしまったという批判よりも、人間を「空気人形」として見たとき、何が見えてくるかを見せるところだろう。実際、複数の人間と気軽にセックスするあなたの性器は、「空気人形」や「ラブドール」の装着可能な性器と同じである。半分宙を浮くように街を浮遊するペ・ドゥナは、「空気人間」と化した人間の気楽さを体現する。「なかがからっぽ」と嘆くよりも、その気楽さを楽しんだらいいのではないか?
◆しかし、身体の不可思議さは、肉のない空間にふたたびある種の肉体性がよみがえってくることだ。映画のなかで、レンタルビデオ屋でアルバイトを見つけたペ・ドゥナが、台から落ちた拍子にビニール皮膜に傷をつけてしまうというアキシデントにみまわれる。当然、彼女の体のなかから空気が抜け、床のうえで萎んでしまう。が、それを見ていた従業員の純一(ARATA)は、セロテープで傷をふさぎ、腹の吹込み口から息を吹き入れる。ペ・ドゥナの体が膨らんでいくとき、「空気人形」(ペ・ドゥナ)自身も、それまでは知らなかったエクスタシーを感じる。このシーンは、映画表現的にもユニークで、これまでの映画では表現されなかった独特のエロティシズム、つまりは新しい性的身体性を表現することに成功している。
◆しかし、身体性がどんなに新しくなったとしても、人間は、肉の制約から逃れることはできない。人間の体は切れば血が流れ、そのままにすれば、死に至る。「空気人形」は萎んでも膨らませることができるが、人間の体はそうはいかない。つまり人間は「空気人形」にはなりきれない。そんな屈折も、最後の方で描かれている。人間がいまかぎりなく「空気人形」的な状態に陥っているとしても、それは、歴史の流れのなかの過渡現象にすぎないのかもしれない。ちなみに、精巧な「リアル・ドール」は、重さや「肉」の質感が人間と似ているので、いらなくなったとしても、「空気人形」のようには、簡単には捨てられない。捨てれば、遺棄された生身の死体とまちがえられる。つまり、「空気人形」→「リアル・ドール」への「進化」は、存在論的には「退化」であり、また振り出しにもどっているのである。
(アスミック・エース試写室)



2009-07-15
●わたしの中のあなた(My Sister's Keeper/2009/Nick Cassavetes)(ニック・カサベテス)  
My Sister's Keeper/2009/Nick Cassavetes ◆出演者がみないい演技をしているが、白血病の少女ケイトを演じるソフィア・ヴァジリーヴァが凄い。当初ダコタ・ファニングがこの役をする予定だったとのことだが、そうでなくてよかった。新しいスターの誕生だ。
◆本来、この映画の主役はケイトの妹アナを演じるアビゲイル・ブレスリンである。映画は、(次々にナレーションが替るのだが)彼女のナレーションで始まる。自分は、白血病の姉に臓器を提供するためのドナーとして遺伝子操作で生まれた(こういうのを「ドナー・チャイルド」と言うらしい)。淡々とした調子なので、冗談かと思っていると、アナは、スター弁護士のキャンベル・アレグザンダー(アレック・ボールドウィン)を尋ね、母親(キャメロン・ディアス)に対する訴訟を依頼する。この時点でも、冗談のように見え、アレグザンダー自身も半信半疑だが、医療記録などを見た彼は、その訴訟を引き受ける。
◆アナは、母を訴えたが、姉を憎んでいるわけではない。母を憎んでいるわけでもない。そこがこの映画の面白いところだし、この映画の「社会派」的な部分だ。医療と末期患者との関係には、二様ある。末期治療で静かに死を迎えるか、それとも最後まで徹底的に病と闘うかだ。この映画は、後者のあり方に疑問を提起し、前者を支持する。
◆この映画を見てふと思い出したのが、スーザン・ソンタグの息子デイヴィッド・リーフが書いた『死の海を泳いで  スーザン・ソンタグ最後の日々』(上岡伸雄訳、岩波書店)である。ソンタグは、最後まで自分が罹ったガンとの闘いをやめなかったという。彼女は、彼女の該博な「知識が何も意味しない死、闘おうという意志が何も意味しない死、医師の技術が何も意味しない死」を頭では知らなかったわけではなかったが、理解することはできなかった。リーフは言う、「母が自分のいない世界を愛せたとは私には思えない」。誰でも、自分を愛している。「自分がいない世界」が自分のあとに残ることに平然としていられる者は少ない。しかし、患者がそうであるかぎり、他人はその人を助けることはできない。その人は、この本の章のタイトルである「最も孤独な死」を死ななければならない。だから、リーフは、書く、「私はいまだに信じらねないでいる。母を助けるためにできることが何もなかったなんて」、と。
◆2歳から白血病を患っているケイトは、たびかさなる手術や医療処置のあげく、母親が最後に賭けるアナからの臓器移植に期待しない。もう死んでもいいという思いに達している。そんな闘いよりも静かな死を迎えたい。71歳のスーザン・ソンタグが達することのできなかった(しなかった)諦めの境地を11歳の子供が持てるのかという疑問がわく。だが、映画は、つねにある種の「理想型」を描く。そういう子供がいてもいい。というより、この映画は、アメリカ人の多くが考える傾向への代案を出している。この映画で病との徹底抗戦を推進し、後へ引かないのが、キャメロン・ディアスが演じる母親である。これまでの彼女の演技とは180度異なるこの役は、キャメロンにとってチャレンジだったろうが、それは成功している。夫(ジェイソン・パトリック)は、次第に彼女に反発するようになるが、この母親の態度は、近代医学の依然主流をなす方向である。先述の本のなかで、リーフは、母の死後に担当医が「われわれはもっとうまくやらなければなりません」というメールを寄越したと書いている。つまり、病との闘いの敗北は、失敗なのであり、次回には、「うまく」やれるという確信は変わらず、闘いそのものが間違いかもしれないという疑いは持たないのである。
(ギャガ試写室)



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