「シネマノート」 「雑日記」
第84回(2012年)オスカー・アカデミー賞が決まるまで
OSCARサイト 2012年ノミネーション・受賞リスト 第83回オスカー・アカデミー賞が決まるまで 第85回オスカー・アカデミー賞が決まるまで
●作品賞 ●主演男優賞 ●主演女優賞 ●助演男優賞 ●助演女優賞 ●監督賞 ●脚本賞 ●脚色賞 ●長編アニメ映画賞 ●撮影賞 ●編集賞 ●美術賞 ●衣裳デザイン賞 ●メイクアップ賞 ●作曲賞 ●歌曲賞 ●録音賞 ●音響編集賞 ●視覚効果賞 ●長編ドキュメンタリー映画賞
■2012年02月25日(夜)
●2月14日に作品賞について書いてから、あっというま10日間が過ぎた。賞のジャンルごとに同じ作品を検討しなおすこともあり、なかには当初の予想が大分変わってきたものもある。まだかなり迷いがある。というより、ますます迷いが深くなった。が、もう決断しなければならない。
◆最初「これしかない」と思っていた『アーティスト』が意外と安手であることがわかってきた。逆に、『ヒューゴーの不思議な発明』はわたしのなかではパラノイアックに点が上がった。クリストファー・リーやサシャ・バロン・コーエンなんかを出すキャスティングも絶妙だ。しかし、マーティン・スコセッシのような大物に賞をあげるなんてサプライズがなさすぎる。その点では、主演女優賞候補のメリル・ストリープもそうだ。『マーガレット・サッチャー』の演技の見事さについてはすでに書いた。が、ある意味では「うますぎる」のだ。そう考えると、ミシェル・ウィリアムズもわからない。彼女は、賞をもらいそこねるタイプの女優である。グレン・クローズも、うまいけれども「玄人好み」である。となると、ヴィオラ・デイヴィスあたりに目が行くことになる。そういう迷いについて書けばきりがないからこのへんでやめる。リストで「希望的ベスト」というのは、賞を取ってほしいとわたしが思うベストの意味である。「実質的予測」は、実際の賞の予想である。「受賞」の欄は、発表の情報を得た段階で記入する予定。
ジャンル
希望的ベスト
実質的予測
受賞
作品賞
ヒューゴの不思議な発明
ツリー・オブ・ライフ
アーティスト
主演男優賞
ジャン・デュジャルダン
ジョージ・クルーニー
ジャン・デュジャルダン
主演女優賞
ミシェル・ウィリアムズ
ヴィオラ・デイヴィス
メリル・ストリープ
助演男優賞
クリストファー・プラマー
クリストファー・プラマー
クリストファー・プラマー
助演女優賞
ジャネット・マクティア
オクタヴィア・スペンサー
オクタヴィア・スペンサー
監督賞
マーティン・スコセッシ
アレクサンダー・ペイン
ミシェル・アザナヴィシウス
脚本賞
マージン・コール
マージン・コール
ミッドナイト・イン・パリ
脚色賞
ファミリー・ツリー
ファミリー・ツリー
ファミリー・ツリー
長編アニメ映画賞
ランゴ
ランゴ
ランゴ
撮影賞
ヒューゴの不思議な発明
ヒューゴの不思議な発明
ヒューゴの不思議な発明
編集賞
ヒューゴの不思議な発明
マネー・ボール
ドラゴン・タトゥーの女
美術賞
ヒューゴの不思議な発明
アーティスト
ヒューゴの不思議な発明
衣裳デザイン賞
Anonymous(作者不詳)
Anonymous(作者不詳)
アーティスト
メイクアップ賞
マーガレット・サッチャー鉄の女の涙
アルバート・ノッブス
マーガレット・サッチャー鉄の女の涙
作曲賞
裏切りのサーカス
裏切りのサーカス
アーティスト
歌曲賞
ブルー 初めての空へ
ブルー 初めての空へ
The Muppets
録音賞
ドラゴン・タトゥーの女
ドラゴン・タトゥーの女
ヒューゴの不思議な発明
音響編集賞
ドライブ
ドライブ
ヒューゴの不思議な発明
視覚効果賞
ヒューゴの不思議な発明
ヒューゴの不思議な発明
ヒューゴの不思議な発明
長編ドキュメンタリー映画賞
Hell and Back Again
Hell and Back Again
Undefeated
外国映画賞
未見作品が多いのでパス
別離
短編ドキュメンタリー映画賞
Saving Face
短編実写映画賞
The Shore
短編アニメ賞
The Fantastic Flying Books of Mr. Morris Lessmore
■2012年02月25日(早朝)
●ドキュメンタリーとは、わたしの定義では、被写体が映像システムの外に実在する映画である。いずれこの定義はくずれるだろうが、そのときは「ドキュメンタリー」というジャンルも終わる。シミュレイションやVR/AVのシステムで何でも創造できる技術が高度化すれば、「ドキュメンタリー」は一つの趣味的な古典芸能にならざるをえない。
●長編ドキュメンタリー映画賞候補
『Hell and Back Again』 → Danfung Dennis, Mike Lerner
『もしもぼくらが木を失ったら』 → マーシャル・カリー、サム・カルマン
『Paradise Lost 3: Purgatory』 → Joe Berlinger, Bruce Sinofsky
『Pina/ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち』 → ヴィム・ヴェンダース、ジャン=ピエロ・リンゲル
『Undefeated』 → Daniel Lindsay, T.J. Martin, Rich Middlemas
●作品短評
◆海外の友人たちの協力で未公開のドキュメンタリー作品も見ることができた。『Undefeated』は未見だが、スポーツものは苦手なので、ちょうどよかった。
◆『Pina/ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち』は、ヴィム・ヴェンダースが計画しながら、ピナ・バウシュの急逝によって一旦は断念されたドキュメンタリーである。それが、こういう形、しかも3Dで実現した背景はよくわからない。というのも、この作品は、ピナ・バウシュの名を掲げるには羊頭狗肉である。ピナが踊る場面はあまりに少ない。そのおかげで、古いモノクロ・フィルムの短いショットで映されるピナの踊りの凄さが逆証されるのだが、それを見るために彼女が主催していたブッパタール舞踏団のパフォーマンスを見せられるのはたまらない。まあ、ピナ・バウシュの名を初めて知る者、舞踏というものに馴染みのない者には、教養的な効果は十分にある。また、ハリウッド的な3Dとは一味違う(それにしてもメディア好きのヴェンダースにしてはいまいち)映像にも接することが出来る。ピナが出てくるショットを見て思ったが、日本の舞踏家はなんて多くがピナをコピーしていることか。あの人(名は秘す)なんか、完全に模倣じゃないの。ピナには土方の影響がないわけではないが、日本の舞踏家が盗んだ要素のほうが多大だろう。その意味で、ピナがこれほど自分の記録にストイックではなく(つまり残す記録のために「公演」をする――会場にはカメラだらけ――舞踏家とは逆)、見せたくないような映像まで残されていたならば、彼女の舞踏はもっともっと大きな影響をあたえるだろう。余分な話が多くなった。
◆『Paradise Lost 3: Purgatory』は、1993年にイリノイ州の西メンフィスで3人の少年が殺され、すぐに逮捕された3人の無実を追った長期ドキュメンタリーである。HBOの番組らしい、普通のテレビ番組の作りであるが、資料的には基調である。ただ、この事件の背景にこの土地に根ざしたサタニズム(悪魔主義)やカルト的拷問の「伝統」がからんでいることを指摘しながら、掘り下げてはいない。逮捕者のアリバイ、裁判、証言を追い、釈放のシーンで結ぶ、いたって普通の作りである。
◆『Hell and Back Again』は、アフガニスタンのアメリカ兵を撮る。スタイルは、のっけから撃たれて倒れている兵士を映し、まるでハリウッドの「戦争映画」である。映像は鮮明で、構図もしっかりしている。周到なシナリオとカメラクルーで撮られた「劇映画」ではないかと思わせるところがハンデになりそうなくらいよく撮れている。全体をリードするのは、負傷して帰還した兵士とその妻で、彼は自宅でいつも拳銃(ときには2丁も)を握っており、目付きも尋常ではない。このへんも非常に「ドラマ」的である。アメリカ兵に同情的に撮られているが、ドキュメンタリーという映像ジャンルがいま直面している問題――つまりフィクションとの境界線の問題に触れる点では、一番リアリティがある。
◆『もしもぼくらが木を失ったら』は、第24回東京国際映画祭で上映されたそうだが、わたしは見ておらず、今回字幕なしの映像で初めて観た。これは、2005年にオレゴンで起きたラディカル環境団体「ELF」(Earth Liberation Front)への弾圧を、のちに製材会社への放火とテロリズムの嫌疑で終身刑を受けるダニエル・マクゴワンの「私体」(一人称)で構成したドキュメンタリーである。ニューヨークのオフィスで逮捕された彼が、160万ドルで保釈され(足に電子錠を着けられている)、最終的にイリノイ州マリオンに「テロリスト」のために特設された"Communication Management Unit"に収監されるまでに彼はインタヴューで語り続けた。スタイルは、彼および関係者、木材会社、警察、弁護士等々へのバランスを配慮したインタヴューと資料映像から構成されたアメリカのパブリックアクセス局がやるようなスタイルになっている。糾弾のスタイルではないが、全体を見るなかで、「ホームランド・セキリティ」以後のアメリカの歪んだ状況が浮かび上がる。なお、ダニエルは目下、週に15分間の電話と月1回の面会が許されているが、これはアメリカの受刑者としては厳しいとしても、日本では許されていない環境である。
●長編ドキュメンタリー映画賞の予測
◆問題意識のいま性からは、『もしもぼくらが木を失ったら』が受賞すべきだが、ドキュメンタリーというジャンルとそのスタイルが目を惹くという点では、『Hell and Back Again』が有利である。
◆『もしもぼくらが木を失ったら』は、地球環境保護の運動にかぎらず、いまの(つまり国家への批判をことごとく「テロリズム」の名のもとに斬って捨てる)現状で起こされる政治活動が「非暴力」(平和)活動の限界に直面していることを示唆する点でも重要だが、ハリウッドが「ときには暴力も」の方向を支持するとは思えない。ドラマのなかではいつもそういうテーマを称揚しているにもかかわらずである。
◆2012年02月24日
●賞候補をこまめに追っていると、最初に吟味した賞の評価がぐらついてくる。現に、細かく検討しているうちに11部門にノミネートされている『ヒューゴの不思議な発明』に、最初は反発の念を禁じえなかったが、その底力を認めざるをえなくなるのである。観ていない作品が多い「外国語映画賞」、「短編ドキュメンタリー映画賞」、「短編アニメ賞」、「短編実写映画賞」に関しては見送らざるをえないが、もう少しで検討が終わるので、その時点で最終的な予測をしてみたい。
●録音賞候補
『ドラゴン・タトゥーの女』 → デヴィッド・パーカー、マイケル・セマニック、レン・クライス、ボー・パーション
『マネーボール』 → デブ・アデア、ロン・ボカール、デイヴ・ジアマルコ、エド・ノヴィック
『トランスフォーマー/ダークサイド・ムーン』 → グレッグ・P・ラッセル、グレイ・サマーズ、ジェフリー・J・ハバウシュ、ピーター・J・デヴリン
『ヒューゴの不思議な発明』 → トム・フライシュマン、ジョン・ミドグレイ
『戦火の馬』 → ゲイリー・ライドストロム、アンディ・ネルソン、トム・ジョンソン、スチュアート・ウィルソン
●ジャンルの性格
◆「録音賞」は「Best Achievement in Sound Mixing Nominees」の訳で、音に関してはほかに「音響編集賞」というのがある。これは、「Best Achievement in Sound Editing Nominees」を指す。両者は、相互にダブるところがあり、音楽とも切り離せないから、賞のジャンルとしては微妙である。
◆『ヒューゴの不思議な発明』や『戦火の馬』のサウンド・ミクシングが悪いはずがないのだが、オリジナル音楽や映像編集のパワーが大きく、サウンド・ミクシングが逆に映像を性格づけるほどの独自性を出すわけにはいかないという制約がある。その点で『トランスフォーマー/ダークサイド・ムーン』も最初から制約を受けているが、日常的な会話の声、ナレーション、マシーンの凄まじい音、音楽などのミクシングの切れ味がよい。が、全体としては、ドラスティックな急展開へ追い詰めるたたみかけるような音楽に押されてしまう。
◆『ドラゴン・タトゥーの女』と『マネーボール』は、その点で、逆に有利だ。両者を比べた場合、『マネーボール』の音は、映画の音採りのうまさにとどまっているのに対して、『ドラゴン・タトゥーの女』はDJのミクシングの妙のようなものを感じる。『マネーボール』でブラッド・ピットが球界の古強者と交渉をするシーンのように、音楽の入らない会話の音採りは見事だ。
●録音賞の予測
◆サウンド・ミクシングをDJ的なクリエイティブなミクシング(例1,例2)だと解釈して、わたしは『ドラゴン・タトゥーの女』を取る。ただし、このジャンルは、いわゆる「umbrella sound category」というやつで、融通無碍なところがあり、ほかのジャンルで取り上げられなかった作品を立てるという面がなきにしもあらずだ。その場合、『ドラゴン・タトゥーの女』は、「音響編集賞」にもノミネートされているから、その両方を取るのか、それともバランスを取って、そちらに移し、この「録音賞」は他に譲るということもありえる。その場合は、『マネーボール』か?
●音響編集賞候補
『ドライヴ』 → ロン・ベンダー、ヴィクター・レイ・エニス
『ドラゴン・タトゥーの女』 → レン・クライス
『ヒューゴの不思議な発明』 → フィリップ・ストックトン、ユージーン・ギアティ
『トランスフォーマー/ダークサイド・ムーン』 → イーサン・ヴァン・ダー・ラム、エリック・エーダール
『戦火の馬』 → リチャード・ハイムス、ゲイリー・ライドストロム
●音響編集賞の予測
◆こちらは、「サウンド編集」だから音を処理する技術的な冴えを評価するのだと解釈したい。その場合、「録音賞」について言ったのと同じ理由で、『ヒューゴの不思議な発明』、『戦火の馬』、『トランスフォーマー/ダークサイド・ムーン』は避けたい。『ドラゴン・タトゥーの女』は、DJ的な「ミクシング」の面で評価すべきだと思うので、これも外す。残るのが『ドライヴ』ということになる。
◆しかし、そんな加減法によらなくても、『ドライヴ』のサウンドはすばらしい。映像に映るディテールの音の一つ一つが浮き出るような音採りをし、編集している。たとえば、ライアン・ゴズリングが、バーレスク・クラブの楽屋で、裸の女たちが呆然とするなかでスキンヘッズの男を倒し、口に銃弾を当てるときのカチリという音とか、あとのほうで彼がエレベーターのなかで襲われそうになったときに逆襲し、相手の頭を潰す音(映像は靴の動きだけ)とか、この映画では音が重要な機能を発揮する。
●視覚効果賞候補
『ヒューゴの不思議な発明』 → ロブ・レガト、ジョス・ウィリアムズ、ベン・グロスマン、アレックス・ヘニング
『リアル・スティール』 → エリク・ナッシュ、ジョン・ローゼングラント、ダン・テイラー、スウェン・ギルバーグ
『猿の惑星: 創世記』 → ジョー・レッテリ、ダン・レモン、R・クリストファー・ホワイト、ダニエル・バレット
『トランスフォーマー/ダークサイド・ムーン』 → スコット・ファーラー、スコット・ベンザ、マシュー・バトラー、ジョン・フレージャー
『ハリー・ポッターと死の秘宝 PART2』 → ティム・バーク、デヴィッド・ヴィッケリー、グレッグ・バトラー、ジョン・リチャードソン
●候補になっている作品がすべて「大物」であるところを見ると、ここで言う「ヴィジュアル・エフェクツ」とは、スペクタクル性を重視していると考えられる。
◆『猿の惑星: 創世記』の終り近くの類人猿が群れをなして街にあらわれ、橋に移動するクライマックスシーンは、なかなかスリリングなスペクタクルである。これは、どのみちCGに依存しているとしても、CG臭さを抑えているところが、『トランスフォーマー/ダークサイド・ムーン』とは対照的である。
◆『リアル・スティール』のスペクタクルな見せ場は、リングでロボットが闘うシーンだが、ここはスペクタクルというよりも物語性のほうが全体をリードする。
◆『ハリー・ポッターと死の秘宝 PART2』はもういいだろう。
●こうなると、またしても、『ヒューゴの不思議な発明』が独占せざるをえなくなる。やれやれ。
■2012年02月23日(夜)
●アカデミー賞の批判はこれまでにもあったが、『ロサンゼルス・タイムズ』の2月19日号の記事によると、アカデミーのメンバーは5765人おり、そのうちの94%が白人、77%が男性だという。いまの時代、白人だから白人に味方し、男性だから男性の目でしか作品に投票しないということにはならないが、アメリカ的バランスのモラルからすると、明らかに「古い」と言える。それと、投票者の一人が言っているように、アカデミー賞は、大衆的価値で評価するのではなく、「プロフェッショナルなフィルムメイカー」の視点で評価すべきものだという。が、この価値基準も、内部で分かれており、決っているわけではない。経済効率への配慮は絶対にある。それにしても、5765人のすべてが投票をするわけではないとしても、たとえ5分の1でも1000人を越えるのだから、その投票者たちがどんな条件で作品を観るのかが興味深い。実際、DVDに焼かれた映像を自宅のパソコンで見て判断を下す投票者も少なからずいるわけで、近年は、その傾向が強まっているような気がする。それは、確実に作品の評価に影響をあたえないではいないだろう。映画館の大スクリーンではなく、自宅のモニター(どのみち映画館よりは小さい)で見る場合に見栄えがする作品が賞を得る確率が高いということになるわけだ。
●美術賞候補
『アーティスト』 → ローレンス・ベネット、ロバート・グールド
『ハリー・ポッターと死の秘宝 PART2』 → スチュアート・クレイグ、ステファニー・マクミラン
『ヒューゴの不思議な発明』 → ダンテ・フェレッティ、フランチェスカ・ロー・シャイボ
『ミッドナイト・イン・パリ』 → アニー・シーベル、エレーヌ・デュブルイユ
『戦火の馬』 → リック・カーターリー・サンデイルズ
●美術賞候補の予測
◆『アーティスト』の ローレンス・ベネット、ロバート・グールド組みをのぞくと、他はみなセット・デコレイターのビッグネームたちである。だから、この際、「新人」に譲ってということになれば、『アーティスト』が優位になるが、アカデミー賞ではそういうロジックはあまり通用しない。となると、またしても、『ヒューゴの不思議な発明』が最有望になってしまう。候補作以外ならほかにも可能性はあっただろうが、この5作品のなかでは、そうならざるをえない。「アート・ディレクション」の面では、ファンタジックなものや夢多いものが強いが、『戦火の馬』や『ミッドナイト・イン・パリ』は弱い。アート的にお洒落な仕上がりの『アーティスト』でも、全体はファンタジックでも、細部までそうとはいえない。『ハリー・ポッターと死の秘宝 PART2』は、もういいだろう。
●美術賞の予測
◆ジョルジュ・メリエスとフィルムというものへのオマージュを含めて『ヒューゴの不思議な発明』しかない。
●衣裳デザイン賞候補
『作者不詳(仮題)』(Anonymous) → リジー・クリストル
『アーティスト』 → マーク・ブリッジス
『ヒューゴの不思議な発明』 → サンディ・パウエル
『ジェーン・エア』 → マイケル・オコナー
『 W.E.』 → ア リアンヌ・フィリップス
●衣裳デザイン賞候補の未公開作品について
◆ソニー・ピクチャーズエンタテインメントの配給予定で仮題が『作者不詳』となっているこの作品は、Amazonの英語版がディスカウント価格になっている。早速取り寄せて見てみると、いきなりニューヨークのタイムズスクウェアの俯瞰から始まり、地上のイエローキャブにカメラが移り、白髪まじりの男が降りてきた。『英国王のスピーチ』で大司教を演じたデレク・ジェイコビィである。彼は、「ANONYMOUS」というサインが見える劇場に足早に入る。向かいには「ST JAMES THEATER」の看板が見える。そのファサードは 246 West 44th Street にある実在の劇場とそっくりである。ただし、この劇場の向かいには「ANONYMOUS」などという劇場はない。映画的ジョークである。画面は、「ANONYMOUS」という電飾文字にズームしてタイトルを暗示し、楽屋に急ぐデレク・ジェイコビィを追う。なかなか洒落た導入である。
◆タクシーを降りたときのレインコートにマフラーというかっこうでデレク・ジェイコビィがステージに立つと、すぐに幕があがり、スポットライトの下で彼のスピーチがはじまる。シェイクスピアが誰であったかというトークである。やがて、ステージがエリザベス朝の時代のシーンに融解する。その後は、あいだに当時の劇場の内部が映されたりするが、2時間ちかく「シェイクスピア」的場面が続き、最後はデレクのトークシーンでしめる。これは、絶対に映画館で見るべき作品であり、そのとき、すぐれた演劇と映画と演劇がいまという時間と拮抗していた時代とが交差する経験を味わえる。ローランド・エメリッヒの傑作だ。
◆『 W.E.』は、残念ながら、まだ観ていない。マドンナが、『英国王のスピーチ』にも出てきたエドワード8世とウォリス・シンプソンのエピソードを、アンドレア・ライズブローが演じるウォリス・シンプソンのほうに重心を置いて撮っているらしい。世間から非難をあびる女にシンパシーを感じるのはマドンナらしい。その点でもぜひ見たいと思うが、まだ果たせない。「3分間の詐欺」といわれる予告編を観たかぎりでは、IMDbが10点中4.6点しかあたえていないのは偏見だと思う。予告で見るエドワード8世役のジェームズ・ダーシーが、全盛期のアンソニー・パーキンスにものすごく似ているのを見て、ふと妄想したのだが、マドンナのテイストだと、エドワード8世とシンプソン夫人との問題のあいだに同性愛をからめたのではないか? 「高貴」なよそおいのアンドレア・ライズブローとやや「田舎臭い」アビー・コーニッシュがレズ関係にあるとか、エドワード8世とシンプソン夫人との結婚は彼のゲイ隠しだとか・・・。観ていないのでいくらでも妄想できる。そうか、「妄想シネマノート」というのを始めるのもいいか?
◆『ジェーン・エア』は、スケールの大きなドラマで、金もかかっているのだが、簡単に言うと、役者が「衣装負け」している。とりわけ、ミア・ワシコウスカ(その切ない表情と演技はとてもいいのだが)がそうなのだ。だから、映画としてのバランスの点で、「衣裳デザイン賞」にはいまいちのような気がする。
●衣裳デザイン賞の予測
◆『ヒューゴの不思議な発明』の独占を回避し、『アーティスト』に過剰な思い入れをするのでなければ、『作者不詳(仮題)』(Anonymous)が妥当?だろう。マニアックな評価で『 W.E.』に行く可能性はあるが。
●メイクアップ賞候補
『アルバート・ノッブス』 → マーシャル・コーネヴィル、リン・ジョンソン、マシュー・W・マングル
『ハリー・ポッターと死の秘宝 PART2』 → ニック・ダドマン、アマンダ・ナイト、リサ・トンブリン
『マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙』 → マーク・クーリエ、J・ロイ・ヘランド
●メイクアップ賞の予測
◆『アルバート・ノッブス』のグレン・クローズのメイキャップは、登場人物が男のふりをしているという二重のメイキャップ性まで出しているとはいえない。映画としては、グレン・クローズが演じているよという示唆をしながら、彼女らしくはないメイキャップになっているが、これをメイキャップ賞にするのは安易である。
◆『ハリー・ポッターと死の秘宝 PART2』は、もういいよという感じ。
◆『マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙』は、「サッチャー」に似せているというよりも、「老い」のメイキャップとして抜群だと思う。これは、メリル・ストリープの演技に負うところ大だとしても、メイキャップの質の高さが彼女の演技を倍加した。
●作曲賞候補
『タンタンの冒険/ユニコーン号の秘密』 → ジョン・ウィリアムズ
『アーティスト』 → ルドヴィック・ブールス
『ヒューゴの不思議な発明』 → ハワード・ショア
『裏切りのサーカス』 → アルベルト・イグレシアス
『戦火の馬』 → ジョン・ウィリアムズ
●授賞式が近づいてきたので、少し急ごう。各作品についてはすでに書いた。作曲賞で出ずっぱりのジョン・ウィリアムズにはそろそろ引退してもらおう。いままでこの人の作品の大仰さにうんざりすることが多かったわたしとしてはこの際そうしたい。
◆『アーティスト』のテーマ音楽は、ノスタルジックでロマンティックな感覚が泣かせるが、音楽的に高度というわけではない。これならば、ジョン・ウィリアムズをはずした文句が出るだろう。
◆『裏切りのサーカス』で一番いいのは音楽だった。アルベルト・イグレシアスは、『トーク・トゥー・ハー』でも『チェ』2部作でもいい仕事をした。
◆『ヒューゴの不思議な発明』のハワード・ショアは手馴れているが、アルベルト・イグレシアスにくらべると音楽の質は凡庸である。ここでは、『ヒューゴの不思議な発明』の独占は崩れる。
●作曲賞の予測
◆『裏切りのサーカス』/アルベルト・イグレシアスで決まり。
●歌曲賞候補
『The Muppets』 → ブレット・マッケンジー ("Man or Muppet")
『ブルー 初めての空へ』 → セルジオ・メンデス、カルリーニョス・ブラウン、サイーダ・ギャレット ("Real in Rio")
●歌曲賞候補の作品短評
◆『The Muppets』は、マペット・ショーの人形がこちらの世界に入り込んできて引き起こすコメディで、作りはダサいがアメリカでは非常に受けたらしい。アニメ世代のナルシスティックな感性にうったえるところがあることはわかるが、わたしは同化できなかった。"Man or Muppet"という歌は、YouTubeで聴ける。
◆『ブルー 初めての空へ』は、日本ではラテンビート映画祭で上映されたが、一般的にはDVD/Blu-ray(20世紀フォックス ホーム エンターテイメントで公開された。『アイス・エイジ』のカルロス・サルダンハの演出作品である。非常に絵の美しいアニメで、アニメの候補に入ってもいい出来だ。ブルーと名づけられた青色のオウムの視点から人間の世界を見ている。ちょっと クリス・ウィリアムズとバイロン・ハワードの『ボルト』に似たところがある。音楽は、YouTubeでも聴ける。
●歌曲賞の予測
◆2作品のどちらかといえば、断然『ブルー 初めての空へ』のはずだ。
■2012年02月23日(早朝)
●納富貴久男さんが仕掛け、押井守さんが仕切る「横浜アクションムービーコンペティション2012」が2月25日に開かれる。「アクション」というのは映画の原点だから、狭義のアクション(ガンエフェクトや格闘)にこだわるこのコンペティションがいずれ映画全般を活気づける場にならないとはいえない。名前は重要だ。『アーティスト』で今後「サイレント/無声映画」への関心が高まることはまちがいないが、「無声」とか「サイレント」という言い方は、有声(トーキー)を前提にした言い方であり、かつてまだトーキーがなかった時代の日本では映画は「活動写真」と呼ばれていた。こちらは、「写真」を前提にした言い方だが、古いものを土台に先を指している点がなかなかいい。今後「無デジタルムービー」なんて言葉が生まれたら、絶対に反対だ。
●撮影賞候補
『アーティスト』 → ギョーム・シフマン
『ドラゴン・タトゥーの女』 → ジェフ・クローネンウェス
『ヒューゴの不思議な発明』 → ロバート・リチャードソン
『ツリー・オブ・ライフ』 → エマニュエル・ルベツキ
『戦火の馬』 → ヤヌス・カミンスキー
●撮影賞予測
◆わたしが謙虚なのかもしれないが、撮影について素人が論評するのはたいてい錯覚になることが多い。カメラやレンズについてあれこれ言っても、現場の人間からすると「わかっちゃいねぇな」ということになりがちだとわたしは思う。カメラをいまだに気取って「キャメラ」と書く評論家がいるが、「キャメラ」というのは、昔の日本の撮影現場のジャーゴン――まあ、「カメラ」よりも英語のcameraの米英語の発音には近いが――であって、それを外から見ているもの書きや一般人が使うのは気取りにすぎない。「キャメラ」と言うと、自分が製作側からものを言っている気分に陥るかもしれないが、それは自己満足なのだ。いまどきハンチングをかぶって「映画屋でござい」と言っているみたいでみっともない。とのっけからイチャモンだが、そういうわけで、この賞に関しては、野次馬的な判断しか出来ない。ただし、アカデミー賞の審査をやる人間の大多数が撮影の技術のことに精通し、また、問題の作品の現場を知っているわけではないから、野次馬的な判断とて、そう見当はずれになるとはかぎらない。
◆候補にあがっている撮影技術は、5作品ともみな違うから、同列に論じるのは無理である。『アーティスト』は手作り的に凝っている。『ドラゴン・タトゥーの女』は、非常に職人芸的な仕上がりだ。『戦火の馬』は、大企業の成功したビジネスモデルの趣がある。それだけ規模も大きい。『ヒューゴの不思議な発明』は、そういう「企業」性を持ちながら、アーティスティックなゆとりと仕上がりとでビジネス性を感じさせない。『ツリー・オブ・ライフ』は、何度も書いているように、50年代の家族をあつかったシーンはすばらしいのだが、地球の始まりから終末までを描くCG映像が「ディスカバリー・チャンネル」のそれのように(もっと金がかかっているようには見えても)ありきたりで、わたしはあまり評価できない。しかし、そこに投入された努力や隠れた技術がわかる撮影のプロが見れば、全く異なる評価が出るかもしれない。
●撮影賞の予測
◆ここで各賞の予測をしながら、だんだん『ヒューゴの不思議な発明』が各賞を独り占めするのではないかという懸念に襲われる。「あたりまえ」に考えると、この作品はよく出来ているのである。ここでも、『アーティスト』の若い新鮮さはあるが、多様で蓄積と奥行がある点で『ヒューゴの不思議な発明』の優位は疑いえない。
●編集賞候補
『アーティスト』 → アン=ソフィー・ビオン、ミシェル・アザナヴィシウス
『ファミリー・ツリー』 → ケヴィン・テント
『ドラゴン・タトゥーの女』 → アンガス・ウォール、カーク・バクスター
『ヒューゴの不思議な発明』 → セルマ・スクーンメイカー
『マネーボール』 → クリストファー・テレフセン
●編集賞作品について
◆『アーティスト』の編集は、素人目には新鮮だ。映画のなかに無声映画を登場させ、二重三重に映画を異化する技術がたくみで、マニアックである。
◆『ファミリー・ツリー』は、一見平凡に見える、正統的な編集で、わたしにはには特にどこが候補の理由なのかがわからない。編集のケヴィン・テントは、『サイドウェイ』(2004)、『アバウト・シュミット』(2002)、『ブロウ』(2001)ではなかなかよかったが、『シャンハイ』(2010)ではいいとは思えなかった。
◆『ドラゴン・タトゥーの女』の編集は、プロっぽい。とっぴなことをせずに、最後まで観客の目をそらさない編集だ。が、このくらいならほかにもあるように思う。が、なぜかこの作品は他の部門でも実力以上に高く評価されているので、ほかの賞の候補になってもいいはずなのに、この編集賞だけがわずかに与えられた候補だから、そういう「依怙贔屓」で点が予想以上に甘くなる可能性はある。
◆『マネーボール』の編集も、極めて正統的であり、編集という分野で特別新しいものを持ち込んだという気はしない。編集のクリストファー・テレフセンは、『カポーティ』 (2005)ではいい仕事をしたが、『イエロー・ハンカチーフ』 (2008)や『理想の彼氏』(2009)は、特にいいとは思わなかった(演出のほうの問題だったかもしれないが)。前作の『フェア・ゲーム』(2010) はかなりよかったので、二年つづきのご褒美という感じはある。
●編集賞の予測
◆またしても、『アーティスト』と『ヒューゴの不思議な発明』が賞を競いあうことになる。新鮮ではあるが、意外と平板な編集の『アーティスト』に対し、『ヒューゴの不思議な発明』には、マーチン・スコセッシ監督のもと、セルマ・スクーンメイカーの全力が投入されている。彼女は、これまでも、スコセッシの名作を担当し、その実績は「巨匠」の部類に入る。ちなみに彼女は、あの『血を吸うカメラ』(Peeping Tom/1960)の監督マイケル・パウエルの奥さんであった。彼を彼女に紹介したのもスコセッシらしい。まあ、そんなことはどうでもいいが、これまで数多くの賞に輝いているのは、実際にその編集の冴えを見せてきたからで、70歳をこえたいまも、矍鑠(かくしゃく)と仕事をしているからだ。
◆スクリーンで見比べれば、『ヒューゴの不思議な発明』の多彩な編集には他の候補も精彩がない。
■2012年02月22日
●最近のアカデミー賞は、エドワード・J・エプスタインによると、経済的功績や経済効果とは無縁になりつつあるという。たとえば、『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』は、映画としては当たらなかったが、作品候補に挙がっている。『スーパー・チューズデー 〜正義を売った日〜』の場合も同じだ。これは、アカデミー賞の基準が、テレビ的な大衆路線とは違った「インディペンデント」な方向に向いてきたためだという。今回ノミネートされている作品で高収益を上げたのは『戦争の馬』ぐらいで、オープニングの週に12,75万ドルをたたき出した『ドラゴン・タトゥーの女』は、わずかに撮影賞の候補にあがっているにすぎない。でも、だからこそ、わたしなんかが予測を試みたりしているのであり、アカデミーの面白いところなのだ。
●長編アニメ映画賞候補
『Chico and Rita』
『パリ猫の生き方』
『カンフー・パンダ2』
『長ぐつをはいたネコ』
『ランゴ』
●作品短評
◆日本で未公開の『Chico and Rita』は、ノスタルジックでセンチメンタルな手際のいい秀作だ。お望みならけっこう「泣け」もする。映像も、エロの絵を少し柔らかくしたようなフォルムと色合いである。キューバの裏町に一人暮らしをする老人チコが人生を回顧する。初めは1948年の(つまり革命まえの)キューバ。そこで駆け出しのジャズ・ピアニストをしていた彼はクラブで歌うリタに一目惚れする。いろいろあった末、二人は結ばれ、仕事のほうでも成功する。彼のピアノと彼女のジャズボーカルのコンビは有名になるが、やがてすれちがいが起きる。彼女はパトロンとニューヨークへ行き、さらに成功する。こうなれば、チコが彼女を追ってニューよくに行き、雪のの降るある晩、とあるクラブの看板に彼女の名前を見出すというよくある成り行きは予想される。が、このアニメ、「ありきたり」を描きながら、それを承知で使うので、ありきたりには感じられない。ニューヨークでの二人の再開、予想のつく彼の新たなジャズピアニストとしてのアメリカンデビュー・・・しかし、二人はまた別れざるをえない。この間、1940~50年代のジャズの歴史をかなり「教育的」に押さえ、チャーリー・パーカーらしいサックス奏者、セロニアス・モンクと一見してわかるピアニストのシーンなどをはさみ、飽きさせない。
◆『パリ猫の生き方』は、ヨーロッパ風コミックスのタッチのデフォルメされた映像で、ナーヴァスな感覚が一味入っているフランスらしい作品だ。邦題は原題 (Une vie de Chat) の翻訳だが、猫は媒介役にすぎない。あえて考えれば、ここに登場する猫のように生きてみてはどうかというアドバイスが見えなくもない。父のいない娘ゾエと母。この子は、ある意味「ヒキコモリ」系で、猫が捕獲してくるトカゲを収集していたりする。父がいなくなったことがシコリになっていて、母は困っている。彼女は刑事で、「父親のいない子供ほど悲しいものはない」と思うがどうしようもない。猫はゾエの一番の親友だが、この猫がゾエに一人の男に出会わせる。彼は、泥棒を稼業としているようで、夜な夜なパリの家並みをスパイダーマンのような身軽さ伝わり家に忍び込む。そんな仕事のなかで猫は彼と知り合い、彼といっしょにパリの夜中の街を飛び跳ねたりする。が、彼に誘拐されたと思った母親はこの男を逮捕する。折しも、街の敵ナンバーワンがゾエを誘拐し、警察を脅す。それが判明するところで、彼女は娘がなついているあの男を理解しはじめる。ストーリを追っても仕方がないのでやめるが、映像にはシュールな飛躍もあり、子供も楽しめるだろう。
◆『カンフー・パンダ 2』は、このキャラクターが好きではないので、わたしには批評の資格がない。2Dの前作『カンフー・パンダ』(2008年)とくらべて、集団シーンが多くなった。前のほうが、ポーの表情が繊細だったし、その微妙なところを見ることができた。今回はアクションに流れて、表情を確認する暇がない。ところで、3Dは、ダメな作品ほどそのダメさをカバーする機能がある。この作品は、3Dであることで相当得をしている。
◆『長ぐつをはいたネコ』は、つまらないものが多い3D作品としては、3Dの機能をよく活かした作品である。アウトローの猫役プスの声をアントニオ・バンデラス、訳ありの屈折した心の持ち主のハンプティ・ダンプティの声をザック・ガリフィアナキス、濃艶でしたたかなメス猫、キティ・ソフトポウズの声を(最近よく名を目にする)サルマ・ハエックが担当し、それぞれいい感じを出している。日本では竹中直人、勝俣州和らによる吹き替え版がメインになるらしいので、印象が変わるかもしれない。オリジナルのトーンは、寓意的には、資本主義の否定であり、アウトローのお薦めである。しかし、こういうトーンが実は、アメリカではベンチャー・ビジネスの源泉になっていることを思うと、こういう挑発すら警戒される日本を根拠に褒めてばかりもいられない。が、いずれにせよ、エンターテインメントとしてファーストクラスの作品だ。
◆『ランゴ』は、カメレオンだが、けっこう生々しいテクスチャーで、アップの表情は(わたしには)気味が悪い。しかし、絵の構成、シュールなプロット、ショットの仕上がり、ナレーションの巧みな組み合わせ、音楽など、候補に挙がっている作品のなかでは一番「高度」な作りになっている。技巧的にはトップだろう。日本で観た試写映像では、関西弁の字幕があって、わたしは大いに嫌悪した。それは、アルフレッド・モリーナが声を担当しているアルマジロのロードキルの台詞の個所なのだが、この台詞はそれをあえて関西弁にするほどの差異は強調されていなかったし、そもそも字幕は中性であるべきだというわたしの偏見とぶつかるのである。とはいえ、この作品はすばらしい。
●長編アニメ映画賞の予測
◆手作り感覚の「小品」的な魅力では、『Chico and Rita』が一番だが、『パリ猫の生き方』も独特のマイナーな味わいがある。しかし、アカデミー賞は、そういう部分を評価の基準にはしないだろう。エンターテインメント性では、『カンフー・パンダ2』よりも『長ぐつをはいたネコ』のほうがは、ただのアクション依存ではないから、多様な観客を見込める。しかし、アニメとしての技法とアニメでなければ描けない作りをしている点で『ランゴ』を推す。
■2012年02月21日
●ちょっと原稿のシメキリに追われていて、中断した。この文章を書く場合の心的・身体的スタンスは、活字として定着される原稿を書くのとは大分違う。ここでは、読みなおしや修正をせず、どんどん書き流す。ある種のライブ感覚だ。活字のための原稿でも、昔は、喫茶店や印刷所の校正室で担当編集者をまえにして(タバコなどを吸って待っていてくれる)一気に書き下ろすというようなことがあった。この場合はある種の「ライブ感覚」に浸ることができた。いまは、原稿をメールで送るのが普通なので、こちらがかつての「編集者」の仕事もする。いまの編集者の仕事は刺激をあたえて書かせることぐらいしかないが、それもしていない人が多いので、わたしのような古いもの書きは、原稿を書くのが難しくなる。
●脚色賞候補
『ヒューゴの不思議な発明』 ← 小説『ユゴーの不思議な発明』(ブライアン セルズニック)
『ファミリー・ツリー』 ← 小説『The Descendants』(Kaui Hart Hemmings)
『スーパー・チューズデー 〜正義を売った日〜』 ← 戯曲『Farragut North』
『マネーボール』 ← ノンフィクション『Moneyball: The Art of Winning an Unfair Game』(Michael Lewis)
『裏切りのサーカス』 ← 小説『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』(ジョン・ル・カレ)
◆「脚色」のアイデアとしては、ノンフィクションに肉を付け血を通わせた『マネーボール』が見事である。せっかくのフィリップ・シーモア・ホフマンを活かしきれていないのが残念だが、ドラマとしてはよく出来ている。
◆逆に、『裏切りのサーカス』は、主役のゲーリー・オールドマンはなかなかいい味を出しているにもかかわらず、読者をぐいぐい惹きつける原作との落差がひどすぎる。複雑な内容を消化しきれなくて、退屈な作品になってしまった。
◆『ヒューゴの不思議な発明』と『ファミリー・ツリー』は、原作があっても、ここまでの肉付けは容易ではないから、「脚色」の力が十二分に発揮されていると言える。『ファミリー・ツリー』は、ナレーションという点で原作を引き継いでいるのに対して、『ヒューゴの不思議な発明』は、完全に原作を「止揚」させている。これぞ「脚色」の妙である。
◆『ヒューゴの不思議な発明』の脚色を担当したジョン・ローガンは、「長編アニメ映画賞」に挙がっている『ロンゴ』の脚色も担当しており、また、少しまえの作品では、リーヴ・シュライバーがオーソン・ウェルズを演じている『ザ・ディレクター [市民ケーン]の真実』(RKO 281 Poster/1999/Benjamin Ross) が印象深かった。
●脚色賞の予測
◆出来上がったもので判断するかぎり、他賞とのバランスなどを全く無視すれば、この賞は『ヒューゴの不思議な発明』に行くしかない。出来上がりは悪いが、「脚色」だけはいいという評価ならば、他の作品も考えられるが、他の3作の「脚色」としてクレジットされているのがみな複数で、インパクトがない。ただし、ハリウッドの事情は、複数の名が挙がっている場合の方が強いのかもしれないので、このへんはよくわからない。いずれにせよ、出来栄えでは『ヒューゴの不思議な発明』にならざるをえない。
■2012年02月19日
●大分調子が出てきた。この分なら先が危ぶまれていた「シネマノート」も復活できるかもしれない。気づかなかったが、東経大の仕事は随分と負担になっていたようだ。半身で気楽にやっていたつもりだったが、学生の反応のスロウダウンとそれに影響されたこちらのスロウダウンとが悪循環をなしてストレスを加重させていたのだ。そんな馬鹿げた回路から完全に解放されたいま、あますところなく(というわけにはいかないが)映画作品の吟味と熟考に没頭できるような気がする。このところ、映画は試写が精一杯でDVDなど観る余裕がなかった。「脚本賞」に挙がった『マージン・コール』は、先程、久しぶりに得た時間的(精神的)余裕のなかで遅ればせに観た。
●脚本賞候補
『アーティスト』 →ミシェル・アザナヴィシウス
『Bridesmaids』 →クリステン・ウィグ、アニー・ムモーロ
『マージン・コール』 →J・C・チャンダー
『ミッドナイト・イン・パリ』 → ウディ・アレン
『別離』 →アスガル・ファルハーディー
◆『マージン・コール』は、日本では劇場公開されず、DVDで公開された。なぜだろう? 証券会社がやっている日常茶飯の「犯罪」が暴かれるのを恐れたのだろうか? 全編ほとんどアクションがなく、トークだけに終始する作りを恐れたのだろうか? が、しかし、これは傑作である。この作品のまえでは、『Bridesmaids』はむろんのこと、『ミッドナイト・イン・パリ』も『アーティスト』も、精彩を欠く。『別離』だけがやっと対抗できるだけである。
◆ドラマは、ほとんど、ニューヨークのウォール街にある投資銀行か証券会社のリスク・アセスメント部門のオフィースとその会議室なかで展開される。この会社のCEOの名「ジョン・チュルド (John Tuld)」(ジェレミー・アイアンズ)は、2008年の「リーマン・ショック」から始まった世界同時不況の元凶リーマン・ブラザースの「リチャード・フルド (Richard Fuld)」にかけられている。つまり、この映画は、チャールズ・ファーガソンのドキュメンタリー『インサイド・ジョブ』(2010) のいわばドラマ版――しかもそこでは憶測されるだけだったことを映像化している。フィクションの特権をいかし、リーマン・ブラザースだけでなく、巨大から弱小までの証券会社がどのみちやっている「冷酷」な処理のプロセスを暴いて見せる。
◆ウォール・ストリートの占拠活動は、そうした非情さと身勝手に対するする怒りと批判にもとづいているが、この『マージン・コール』は、そうした反対運動では全く切り抜けることのできそうもない資本主義の本質的なアモラル性(「善悪」や「道徳」など歯牙にかけない)を暴き出す。CEOのジョン・チルドは、すべてを承知して確信犯的に動くが、その下にいるリスク・アセスメント部の部長(ケヴィン・スペイシー)は、暴落がわかっている証券を売りさばくことに「良心の呵責」を感じる。組織の内部も一枚岩ではないのだが、しかし、だからといって資本のロジックに誰も抵抗できない。彼らが「総懺悔」して売りを放棄しても、グローバルなシステムと化した証券の世界は、どのみちパニックに陥るからだ。だから、それによって何が起ころうと、「ほかに選択肢はなかった」という空虚で自己欺瞞的な言い訳ぐらいしか出てこないのである。このニヒリスティックなブラックホールには、いかなるデモも対抗できないだろう。
◆冒頭で描かれるリストラの光景もきわめて現代的だ。しかも、会社の合理化のために首を切られた職員(スタンリー・トゥッチ)が起こるべき証券破綻をシュミレートし、データ化していたのだった。リスク・アセスメントを扱うセキュリティの関係か、彼のリストラが言い渡された日が即退職の日だった。カートンボックスにオフィースの私物を投げ込んで去るとき、彼が忠実な部下(ザカリー・クイント)に「気をつけなよ」と意味ありげなセリフとともにわたしたUSBスティックにすべてが予測されたいた。
◆この種の会社の問題は、自分の会社が種をまいて帰結するグローバルな規模の危機を予測したとき、取引相手がこうむるであろう損害よりも、自分の生き延びを優先することである。これは、リーマン・ブラザースの見にくいあがきを見ればわかるだろう。これは、たとえば、昨年の3月11日に福島第一原発で事故が発生したときに、その事態を知っていた連中が取った行動と同じである。一日にして東電の株価は下落したが、少なくともと「原子力緊急事態宣言」が発せられた3月11日午後4時36分ら翌日3月12日午後3時36分に1号機が水素爆発を起こすまでの23時間のあいだにこの映画が描くような生き残り作戦が展開された。
◆「マージンコール」とは、ネットのインスタント知識によると、<担保として預け入れた証拠金の金額が、現在の含み損(現在のレートで決済した場合に発生するであろう損失)を差し引くと、大きくマイナスになる状況になった場合、証拠金の追加預け入れを求める警告>だという。しかし、この映画の会社は、これを逆手てに取る。それは、本来会社の顧客(個人であれ法人であれ)のためのものだが、実際には、売り手の生き延びのために逆用されるのである。
◆せりふに依存しながら、『マージン・コール』は、ジェレミー・アイアンズ、ケヴィン・スペイシー、サイモン・ベイカー、そしていつもとは違う(いい意味で)演技を見せるデミ・ムーアなどの実力派の演技によって、何ひとつ「劇的」な出来事やアクションは起こらないにもかかわらず、もの凄いスリルとリアリティを生み出した。
◆イランのマームード・カラリの『別離』は、『マージン・コール』とは同列であつかうことの出来ないタイプの作品である。脚本といっても、こちらは、『マージン・コール』ほど厳密な台本にもとづいて撮られてはいないような気がする。映画としては、ユニークであり、「外国映画賞」の候補に挙がっているわけだから、むしろこちらで賞を得るべきだろう。
◆『別離』は、イラン社会に混入したさまざまな「近代化」(モダニズム)の要素と、もっと根強い「伝統」との相克が描かれる。娘の教育に適さないから外国に行くという妻(レイラ・ハタミ)は、「モダニスト」の教師である。が、夫(ベイマン・モアディ)は、同じように「モダン」な世代だが、認知症の父親(一言もしゃべらない演技がすばらしいババク・カリミ)をかかえ、彼を捨てて外国には行けないと言う。その結果、二人は別居するが、あいだにはさまれた娘(サリナ・ファルハディ)は心を痛める。このへん、たとえば「アメリカ」的価値観であれば、夫婦と子供のファミリーを重視し、親を擁護施設に入れたりするだろう。
◆『別離』では、もっと複雑なことに、こうしたモダニズムのねじれに、さらに、「伝統」の問題がからむ。イランの「信仰」の篤い女性は、家族でも男の裸を見ることはない。まして、介護のためであれ、下の始末をしてやるなどもってのほかだ。息子が父親のめんどうを見なければならない理由はここにある。このへん、モダニストのはずの妻も娘も、例外ではないらしい。だから、家事のために雇ったルームキーパーの女性(サレー・バヤト)が、ふだんは個室に「軟禁」してある父親が下のそそうをして、彼女がその面倒をみなければならなくなったとき、彼女は深く悩む。
◆さらに『別離』には、極めてモダニズム的な訴訟の問題もあつかわれている。夫婦のあいだでもモダニスト的に何でも語るわけではない「伝統的」な夫婦のあいだでは、隠し事も美徳であるが、それが侵入するモダニズムによって歪みを起こす。ルームキーパーの夫(シャハブ・ホセイニ)は、失職したり逮捕されたりしているが、ルームキーパの妻が流産をしたとき、ベイマン・モアディ演じる夫を訴える。その取り調べのシーンに見えるモダンの単一なまでの合理性とある種の「いい加減さ」の矛盾が面白い。
◆『別離』は、きわめて日常的な場面に定位しながら、イランにかぎらず、西欧的モダニズムの侵略によってずたずたにされた社会の痛みや悩みを、単なる「批判」や「糾弾」というスタイルを取らずに活写する。
◆思い出したので書いておくが、『マージン・コール』も、資本主義の矛盾を鋭く突きながら、それを単なる敵・味方のドラマにはしていない。だからこそ、このシステムの融通無碍な矛盾を露呈させることに成功している。
●脚本賞の予測
◆リーマン・ショックから始まった新たの「世界同時不況」は、いま現在も続いている。アメリカ映画は、この問題を暗黙の軸にして展開されているとすら言える。その意味で、『マージン・コール』は、この問題に対しストレートに、しかも極めて映画的なやり方でその本質を露呈させたという意味で、高く評価されるべきだ。わたしは、この作品を推す。
■2012年02月18日(夜)
●土曜で試写がないので、続きを書くことができる。まだ外に出ていないが、相当寒そうだ。朝方ちょっと外に出たら、歩道のうえに霜が降り、路面がカチカチに凍っていた。その瞬間、ふっと古い記憶がよみがえった。ニューヨークの冬の路上で女性が転び、助け起こそうとしたら、「妊娠しているから立っちゃいけないの」と言って泣き出した。通りがかりの女性が抱きしめて介護しはじめたのでわたしは去った。悲しんでいる人や痛がっている人を抱きしめるという習慣はすばらしい。日本では恥ずかしがってなかなかしない。が、それは、「距離」の文化の程度問題でもある。
●監督賞候補
マーティン・スコセッシ →『ヒューゴの不思議な発明』
ミシェル・アザナヴィシウス → 『アーティスト』
テレンス・マリック →『ツリー・オブ・ライフ』
ウディ・アレン → 『ミッドナイト・イン・パリ』
アレクサンダー・ペイン →『ファミリー・ツリー』
◆まず、ありえないと思えるのは、『ツリー・オブ・ライフ』のテレンス・マリックと『ミッドナイト・イン・パリ』のウディ・アレンである。前者は問題提起の点でチャンレンジ精神は衰えていないし、後者はある種の二番煎じとはいえ「名人芸」に達していて、ダメな作品ではない。しかし、いまここでという感は拭えず、両者を選ぶようではアカデミー賞の意味がないだろう。
◆『ファミリー・ツリー』の演出は悪くないし、ローカルな場に舞台を設定して、意外と普遍的な問題をあつかっている点で、映画作品としては評価できる。しかし、新しさや強度や深度という点では、『ヒューゴの不思議な発明』や『アーティスト』の演出の派手さに負ける。
◆問題は、では、『ヒューゴの不思議な発明』と『アーティスト』ではどちらが演出力が発揮されているかである。「作品賞」でも、両者は競合関係にあり、そのどちらかが「作品賞」に選ばれるかで、この「監督賞」も変わる可能性がある。場合によると、どちらか一方が両方を取るということもありえる。
◆試写の記憶をたどりなおしてみると、『アーティスト』に対するわたしの最初の印象は若干弱まってきている。映画としての熟成度や問題意識は、『ヒューゴの不思議な発明』にはかなわないのではないか? 場合によっては、『ヒューゴの不思議な発明』が「作品賞」と「監督賞」はおろか、他の賞まで総なめにするかもしれない。そんな感じがだんだんしてきたのである。
◆『ヒューゴの不思議な発明』は、親を失った子、ホームレス性、「ヒキコモリ」、ロボット、ジョルジュ・メリエスへのオマージュとフィルムへの惜別といった「現代性」が鋭敏で、年代をこえた観客層の把握などなど、映画としては「傑作」の部類に入れざるをえないのだ。それに対して、『アーティスト』のテイストは、「趣味的」であり、マニア向きである。無声映画というものを新たな角度からとらえなおしている面はあるが、むしろそのスタイルを利用しているだけで、今後の映画を変える力はそれほどない。ある種のファッションとしてこの映画のスタイルは使われるだろうが、それ以上のものではなさそうだ。
●監督賞の予測
◆「作品賞」とバランスを取るようなセコイことがなされなければ、「監督賞」は、『ヒューゴの不思議な発明』となるはずだ。「作品賞」も取る可能性があるが、「作品」という全体の雰囲気では、『アーティスト』は斬新さを持っており、依然、これが「作品賞」を取る可能性はある。しかし、『ヒューゴの不思議な発明』が「作品賞」まで取る可能性は十分にありえる。
■2012年02月18日(早朝)
●アカデミー賞の発表まであと1週間となった。最近、日本映画を少しまとめて見ていて、ケータイでの会話のシーンが多いのに気づいた。ケータイを持って一人でしゃべっているようなシーンが多いのだ。まるでケータイなしにはしゃべらないかのような印象を受ける。実際に、そういう傾向が亢進することは予想がつく。それは、ロマン・ポランスキーの『おとなのけんか』が示唆する「ケータイ恐怖」の域をはるかに越えた未来性をはらんでいる。
●助演男優賞候補
ケネス・ブラナー →『マリリン 7日間の恋』
ジョナ・ヒル →『マネーボール』
ニック・ノルティ →『Warrior』
クリストファー・プラマー →『人生はビギナーズ』
マックス・フォン・シドー → 『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』
◆わたしの評価では、『マリリン 7日間の恋』で『王子と踊り子』を主演・演出したローレンス・オリヴィエ役を演じているケネス・ブラナーは、ありえない選択肢だ。全然「ローレンス・オリヴィエ」らしくないし、ブラナー自身の演技としての特上のものではない。
◆『マネーボール』でコンピュータ・オタクを演じるジョナ・ヒルは、悪くはないが、これも突出した演技を見せるわけではない。ブラッド・ピッドは、何を演ってもギラギラしてしまうから、そのギラギラを調整する役としてはよく働いた。が、「助演男優賞」に値するとは思えない。
◆クリストファー・プラマは、長年連れ添った妻が亡くなってから自分がゲイであることをカミングアウトする人物を演じる。彼自身はストレイトらしいが、ときとして見せる目の「あやしい」輝きが、この作品ではうまく活かされていた。まあまあ、達者な演技ではある。
◆マックス・フォン・シドーをわたしが最初に見たのは、1961年に日本で公開された『処女の泉』(1960) であったから相当長く彼の演技を観ていることになる。フォン・シドーは、1960年代になって葛井欣四郎+村井志摩子コンビの努力でアート・シアターで続々と初公開されたベルイマン映画の常連で、『野いちご』(1957)、『第七の封印』(1956)、『鏡の中にある如く』(1961)という製作年次とは異なる順序に公開された作品にすべて出ていた。しかし、『処女の泉』の彼は、のっぺりした若者であり、『第七の封印』では「死神」を演じたベント・エーケロートの演技が圧倒的で、フォン・シドーのその後の変身ぶりは想像できなかった。そのうまさをはっきりと認識したのは、ハリウッドに移ってから出演した『エクソシスト』(1973) のメリン神父役であり、完璧だと思ったのは、シドニー・ポラック監督/ロバート・レッドフォード主演の『コンドル』(1975) で演じた殺し屋の役だった。ここには、フォン・シドーの北欧映画での蓄積が俳優としての円熟さのバックグラウンドをなし、タダものではないという印象を深くした。その後の彼の活躍は言うまでもない。
◆問題は、80歳を越えても現役のマックス・フォン・シドーが、これまでのおびただしい数のる役柄のうちで、『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』の「間借人」がどの程度ユニークかという点である。彼ならば、いかなる条件でもこの程度の演技はするだろう。近年の作品ならば、『シャッター アイランド』のドクター役とくらべてどうか?
◆先に書いたわたしの『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』解釈にこだわってみると、フォン・シドーが演じる老人が少年オスカー(トーマス・ホーン)とすぐに気脈を通じるようになるのは、二人が実は祖父・孫かんけいだったということよりも、二人がともに「ヒキコモリ」であるからだと思う。老人がそうなったのには色々と過去の事情がある。が、老人は誰でもがそうなるわけではない。ある意味で、「ヒキコモリ」やアスペルガー症候群の者たちは、話題が合致したからといって「円滑」なコミュニケーションが出来るとはかぎらない。必要なのは、つねにある種の「距離」なのだ。それをどう取るか? テクノロジーがうまく働く場合もある。彼や彼女らのコンピュータ依存もそのことを示唆する。しかし、彼らは「オタク」とは違う。この映画では、一見、祖父と孫という月並みな親和関係を描いているようでいて、秘密や世代的な時間差という「距離」が二人を結びつけているところが重要だ。
◆ニック・ノルティが出ている『Warrior』は、ギャヴィン・オコナーの作品だが、本作を含めて彼の作品は(わたしの知るかぎり)日本では未公開である。アメリカで本作が高く評価される理由には、この作品がイラク戦争の痛みや近年の不況の悩みを暗黙に描いているからだ。英語版のDVDで見たわたしの印象では、それ以上に、戦争であれスポーツであれ、闘う/戦うということの暴力性と虚しさをアメリカのワーキング・クラスの「宿命」として描くところまで行っていると思う。さらには、父権が失墜したのちの時代(現在)のアメリカでの親子関係・兄弟関係の困難と苦悩と悲しさ・せつなさも描かれている。それをただ悩み通しの「スロー映画」として描くのではなく、格闘技のアクションシーンを通じて見せるところがオコナー監督のなかなかの手腕である。
◆『Warrior』でニック・ノルティは、かつては二人の息子の格闘技のトレーナーだったが、アルコールで身を持ち崩し、やっと「更生」した男を演じている。息子の一人は、いまは高校の教師をしている。もう一人の息子は、海兵隊員としてイラク戦争に従軍し、悲劇的な事故に遭い、その傷から癒えていない。そんな二人が格闘技のトーナメントに出て、やがて、たがいにチャンピオンの位置を競うことになる。スポーツではあるが、兄弟同士が殴り合いをすること、そこにイラク戦争の影が射していること、彼らが生活のために格闘技に復帰したこと、屈折した事情はおかまいなしに見世物としてその勝敗に興奮する聴衆などなど、メタ-ファー的な奥行きはけっこう深い。ニック・ノルティが演じる父親も、ベトナムに参戦した経験があるらしい。しかし、全体として、途方に暮れている元・父親の雰囲気は十分伝わってはくるものの、この役をニック・ノルティが演じなければならないとは言えないように思える。映画としては評価できるが、ノルティの演技としては、他の彼の演技のなかで傑出しているわけではない。
●助演男優賞の予測
◆演技のレベルではマックス・フォン・シドーは文句ないし、「功労賞」には彼が一番値する。しかし、先述の「ヒキコモリ」的老人という演技の点で特別かというと、そうは言えない。その意味で、「功労賞」的な評価に一味違うアルファーが加味しているという点で、クリストファー・プラマーが一番有利である。
●助演女優賞候補
ベレニス・ベジョ→『アーティスト』
ジェシカ・チャステイン→『ヘルプ 〜心がつなぐストーリー〜』
メリッサ・マッカーシー→『Bridesmaids』
ジャネット・マクティア→『アルバート・ノッブス』
オクタヴィア・スペンサー→『ヘルプ 〜心がつなぐストーリー〜』
◆主役を食うほどの存在感という点では、『アルバート・ノッブス』で(観客には――グレン・クローズが演っているから)「男」を装っていることがわかるが、ジャネット・マクティアが演じる「男」がそのナチュラル・ジェンダーを自ら暴露するシーンは、映画的にも新鮮だ。タバコをくわえ、ワーキング・クラスで「親分肌」の人物を演じる演技もすばらしい。
◆『ヘルプ 〜心がつなぐストーリー〜』で、その時代の保守的風潮を無反省に受け入れて黒人差別丸出しの白人中流夫人を演じるジェシカ・チャステインは、いまの価値観からするとあまりに滑稽な落差を喜劇的に演じていて、見事である。が、その演技は、かなりテレビ「ノリ」で軽すぎるようにわたしには思える。これは、テレビに対するわたしの強い偏見から来ていることはむろんだが、この映画のNHK的歴史教育感覚が気に障るのである。
◆オクタヴィア・スペンサーも、黒人メイドの「せつなさ」のようなものを出していて、悪くはないが、こういう役どころの場合、差別されて働く者がもっている意地悪さやある種の「底意地の悪さ」があまり出ていない(これこそ「NHK的」とわたしが言う所以)。これは、『ヘルプ 〜心がつなぐストーリー〜』全般に言えることだ。ヴィオラ・デイヴィスの役柄には、若干そういう面も見えるが、そういう点を描いてしまうと、この映画の「教育」効果が薄れてしまうのではないかという「健全」な懸念が働いているように思う。
◆『アーティスト』でベレニス・ベジョは、ありがちな(それがこの映画のスタイル)「スター」街道を行き、恩師(ジャン・デュジャルダン)の妻となるが、一方で夫の方は落ち目になり、彼女は彼の元を離れが、しかし、最後には、彼への恩と混じり合った愛(これも意識的な「無声映画」的パターン)を彼に返す――といった女優を演じる。ベジョの演技は輝いており、「新人賞」的な意味では彼女に歩がある。しかし、どうだろう、この役が彼女でなければならないという理由はない。
◆ただし、「作品賞」について書いてから、念のためと思い、DVDを取り寄せてジャン・デュジャルダンの「出世作」の『OSS 117: Le Caire, nid d'espions』 (2006) を見てみたら、彼の演技は、『アーティスト』で飛躍的に変わったわけではないことがわかった。ここには、ベレニス・ベジョも主要な助演者として出ており、『アーティスト』は、この喜劇の延長線上で見直す必要があると思った。要するに、『アーティスト』は、ミシェル・アザナヴィシウス・ファミリー(ベレニス・ベジョは彼の妻)の作品なのだ。
◆『Bridesmaids』は、英語版のDVDが手に入ったばかりなので、詳細は省くが、ざっと見た印象では、ドラッグなしの女版『ハングオーバー』といった作品。助演女優賞の候補にあがっているメリッサ・マッカーシーは、『ハングオーバー』ならば、さしずめザック・ガリフィアナキスの役どころ。こちらは、太めで、顔は「男」っぽい。その臭いが伝わってくるような臭いパーソナリティを臭く演じる。しかし、メリッサ・マッカーシーは、「助演」とはいっても、他にもっと出ずぱりの助演者がいるから、映画のなかで突出した演技をした者を「助演賞」の候補に挙げるというのでなければ、持ち上げすぎであるように思う。
◆【追記】おいおい、いいかげんなことを書いてはいけない。ざっと見たって、どこを見たのか? この映画は、あんまりいいことが続いていない中年の女アニー(クリステン・ウィグ)の心の起伏をいささかシュールな仕掛けのなかで描いたコメディだ。ある意味では嫉妬でクレイジーな行動に走ってしまうのだが、その屈折がなかなか面白い。彼女の幼友達リリアン(マヤ・ルードルフ)が富豪と結婚することになるのだが、彼女が嫉妬したのはそのことにではなく、リリアンに何かと世話を焼き、ウェディングパーティを仕切るヘレン(ローズ・バーン)に対してだ。いや、それだけではない。自己嫌悪もある。女同士の関係のなかのある種ホモイロティック(潜在同性愛的)な要素、階級差や幸せの係数で歪を起こす嫉妬や孤独とも通じるが、言葉では言いきれない複合的な状況をいささかも空想的なイメージを使わずにアニーのある種アスペルガー症候的なふるまいのなかで描く。そこが面白い。
◆『Bridesmaids』は、ミルウォーキーという土地柄を意識して作られた作品であり、そういうローカルなようそは、ジョン・ウォータズにとってのバァルチモアと同じ以上に重要だ。だから、土地柄にうといわたしには、その真価を評価するのが難しい。スケベでどぎついセリフの可笑しさは、想像できるるが、ストレートには理解出来ない。おそらく、アメリカの上映館では笑いが途絶えることがないだろう。
◆【追記】本作は、『ブライズメイズ 史上最悪のウェディングプラン』という「史上最悪」のタイトルで公開予定。
●助演女優賞の予測
◆演技の質、陰影ある演技の点で、『アルバート・ノッブス』のジャネット・マクティアを選ぶ。しかし、オスカーを選ぶのはわたしではないから、そうなるかどうかはわからない。わたしは、彼女が傑出していると思うが、他の候補の差はあまりない。ベレニス・ベジョも、ジェシカ・チャステインは特に、受賞したら「きゃー」と大声を張り上げて喜ぶだろうが、ジャネット・マクティアはそうはしないだろう。その反応も興味深い。メリッサ・マッカーシーは、太い腕で象徴的な身ぶりをするだろう。それはあまり見たくない。
■2012年02月16日
●ある映画賞の選評のために短編ながら多数の作品を見なければならなくて、1日空いた。
●主演女優賞候補
ルーニー・マーラ→『ドラゴン・タトゥーの女』
ヴィオラ・デイヴィス→『ヘルプ 〜心がつなぐストーリー〜』
グレン・クローズ→『アルバート・ノッブス』
メリル・ストリープ→『マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙』
ミシェル・ウィリアムズ→『マリリン 7日間の恋』
◆『ドラゴン・タトゥーの女』は、言わずと知れたニールス・アルデン・オプレヴの『ミレニアム』三部作にもとづくリメイクで、スリラーとしてはなかなかよく出来ている。ルーニー・マーラは、ノオミ・ラパスのニヒリスティックなキャラクターを継承し、破綻のない演技を見せる。元作が北欧のダークサイド(ナチとの癒着はその一つにすぎない)につながる奥行きを持っていたのに対して、デヴィッド・フィンチャーのリメイクは、富豪のファミリーの闇にすべてを帰着させる。話としてはわかりやすいが、見終わってホッとして終りという「娯楽映画」として作られている。商業性はこちらの方があるだろう。が、オリジナリティ信仰の強いわたしとしては、こちらは元作とは別の映画として見た方がよいという考えだ。
◆ルーニー・マーラは、「主演女優賞」に挙がっているが、「主役」的な出番は全体の五分の一にすぎない。最初からチラチラとは出てくるが、この映画の「主役」は ダニエル・クレイグである。ルーニー・マーラは、彼を「サポート」(助演)しているのであって、これを「主演」というのなら、他の作品でもたくさん「主演女優」が出てしまう。
◆ヴィオラ・デイヴィスも、存在感はあるが、『ヘルプ 〜心がつなぐストーリー〜』の「主演女優」は、エマ・ストーンではないのか? 「主役」を食った俳優を「主演」とみなすのなら、話は別である。それと、ヴィオラ・デイヴスは上手いけれど、どういう役をやらせても同じ情感の出し方をする。
◆『アルバート・ノッブス』のグレン・クローズは、確実に「主演」であり、ホテルで長年にわたって「男性」のふりをしてウェイターをやっている人物アルバート・ノッブスを入魂の演技で演じる。この映画では、似たようなスタンスで生きている「男性」(ジャネット・マクティア)との、月並みなジェンダー神話をぐらつかせる感動的なドラマがあり、作品としても高く評価できる。
◆『マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙』のメリル・ストリープの演技は完璧だ。ある意味では、「人格になりきる」というスタニスラフスキー演劇の模範のような演技だと貶したくなる者もいるかもしれないが、しかし、その「うまさ」は抜群である。ストリープは、同じことを『ジュリー&ジュリア』のジュリア・チャイルドの役で見せている。表情や身ぶり、声質までが説得力をただよわせる。
◆『マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙』は、実在の人物を描いていることになっているが、わたしは、むしろ、一人の(余生をおくる)高齢の女性のスケッチとと取ったほうがいいと思う。いわば、自分を「マーガレット・サッチャー」だと思い込んでいる、記憶も聴力もあやしくなっている老年の女性としてあえて観ると、説得力がある。実在のサッチャーが公的に行ったことは、この映画が描くほど手ぬるいものではなかった。ロナルド・レーガン以上に右翼路線を遂行し、(テロリズムに強硬な態度を貫いたというが、むしろそれによって)テロリズムをエスカレートさせた。いっとき景気を高揚させたかもしれないが、その傷はいまにつづいている。
◆『マリリン 7日間の恋』でミシェル・ウィリアムズが演じたマリリン・モンローも、実在のマリリンとは区別して観たほうがいいだろう。たしかにミシェル・ウィリアムズは、マリリンのある面をとらえており、彼女は実際にそんな感じだったのかもしれないという気を観客にいだかせはする。マリリン・モンローが登場する映画を見ていると、彼女ほど「自分」を出さなかった俳優はいないのではないかという思いにかられる。その意味では、彼女は何を演じても醒めている。それを売り物にしたわけではないから、その「距離」は隠されている。それが痛ましくもあり、また白々しくもある。「セックスシンボル」と肉感的なスターとみなされているが、彼女がスターであったのは、実は、その「距離」取りの感覚が冷戦時代の空気に合っていたからだとわたしは思う。
◆ミシェル・ウィリアムズが演じるマリリンは、わたしが想像する実在のマリリンよりも弱々しい。いや、その弱々しい部分に焦点を当てて演じているとも言える。世間にたいして「距離」を取ること、逆に「距離」を縮めようとすると手痛い反撃に会う不幸にさいなまれていた実在のマリリンは、ミシェル・ウィリアムズが演じる映画のなかのマリリンのように、「愛らしい」側面をちらりと見せることもあっただろう。実際には、ドタキャンや「ヒキコモリ」のよって、自分を防御することが多かったとしてもだ。
●主演女優賞の予測
◆演技としての奥行きと強度の点では、ミシェル・ウィリアムズ、メリル・ストリープ、グレン・クローズがほぼ互角にならぶ。ただ、グレン・クローズは「主演」なのだが、主役としての終り方があっさりしすぎている。いわば途絶した形で姿を消してしまうので、印象が薄くなってしまうのだ。考えようによっては、そういう匿名的な消え方が、生活のために男性を演じてきたこの「アルバート・ノッブス」という人物の悲しいはかなさなのかもしれないが、演技としては弱い印象を受ける。
◆『マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙』は、わたしが言うように、<自分を「マーガレット・サッチャー」だと思い込んでいる、記憶も聴力もあやしくなっている老年の女性>と無理に解釈すれば、メリル・ストリープの演技は文句なく最高の演技である。しかし、この映画は、実在のサッチャーのフィルターがかかるので、ストリープの名演にもかかわらずあまり評判がよくはない。
◆そうなると、どうしてもミシェル・ウィリアムズが最上位にのし上がってくる。彼女は、『ブルーバレンタイン』で主演女優賞の候補にあがったが、受賞はできなかった。わたしは、彼女に取ってほしかった。実績という意味ではメリル・ストリープはそうそうたるものだが、演技の新しさを評価して今年はミシェル・ウィリアムズが受けるべきである。
■2012年02月15日
●個別作品の「シネマノート」は昨年12月以来更新がなされていないが、基本スタイルの革新を考えているのでいずれ形になるだろう。それまでは、オスカー/アカデミー賞との関連で映画批評を続けようと思う。今回は「主演男優賞」についてである。
●主演男優賞候補
ジャン・デュジャルダン →( 『アーティスト』[The Artist] )
デミアン・ビチル→(『明日を継ぐために』[A Better Life])
ゲイリー・オールドマン →(『裏切りのサーカス』[Tinker Tailor Soldier Spy])
ジョージ・クルーニー →(『ファミリー・ツリー』[The Descendants] )
ブラッド・ピット→( 『マネーボール』[Moneyball])
◆「作品賞」の項で触れなかった作品の短評
◆『明日を継ぐために』は、ロサンゼルスに住むメキシコ系の父と息子の物語である。デミアン・ビチルが演じる父親は、永住権が取れていないらしい。アメリカで生まれた息子は永住権がある。母親は、夫と息子を捨てて出ていった。底辺に生きるメキシコ系住民についての話は多くの映画で描かれているが、家族、地域のギャング、そして国家(警察)との二律背反的な関係をこの映画は個別具体的な場から描く。母のいない貧しい家庭で父親と10代の息子とが絆をもたなければならないのに、反抗期の息子に地域のギャングの勧誘の魔手が伸びる。それを回避し、盗まれた自動車を探す(まさにヴィットリオ・デ・シーカの『自転車泥棒』的な)親子のつかの間の連帯が実現したと思うと、父親は不法滞在で逮捕され、メキシコに送還されることになる。「国」は貧しい「家」を守ってはくれないし、つつましく暮らそうと思う「家」にはギャングやマフィアのような代替「国家」の支配の手が伸びる。ファミリーがファミリーとして自律的に生きる道が閉ざされる。ソダーバーグの『チェ』2部作にも出ているいまやベテランのデミアン・ビチルは、そうしたメキシコ人を見事に演じている。
◆『裏切りのサーカス』は、ジョン・ル・カレのベストセラー小説の映画化。ゲイリー・オールドマン、コリン・ファース、ジョン・ハート、マーク・ストロング、キアラン・ハインズ、トビー・ジョーンズといったイギリスの力量ある俳優をそろえ、二重スパイ(モグラ)探しのさまざまな陰謀の係数が複雑にからみあうドラマを描く。だが、小説は、厚いページにもかかわらず、一気に読ませるエンターテインメント性に満ちていたが、映画のほうは、あまりにもってまわりすぎている。「主演男優賞」の候補にあがっているゲイリー・オールドマンの演技には、たとえば後半の部分で、ウィスキーを飲みながら若い同僚役のベネディクト・カンバーバッチにむかって自分の苦い経験を語るシーンなど、「うまいなぁ」と思わせるところがあるが、作品としては、退屈感をもようさせるところが多々あった。
●主演男優賞の予測
◆わたしの価値基準では、主演の賞は、これまでの功績をふまえ、かつそれを越えた演技をした場合に適用されるべきだと思う。あるいは、それほど長い「功績」はないが、ダークホース的な新鮮さに満ちている俳優もいいだろう。が、実際には「功労賞」的なものがあり、もし今回この賞がジョージ・クルーニやブラッド・ピッドにあたえられるならば、アカデミーの本年の基準がわたしとはちがうということになる。「功労」だけでなく「健闘」もしているという意味では、ゲイリー・オールドマンはふさわしい。しかし、デミアン・ビチルも健闘しているが、いまいち新鮮さに乏しい。となると、『アーティスト』のジャン・デュジャルダンが有利になる。
◆ジャン・デュジャルダンは、明らかに無声映画のスター、ダグラス・フェアバンクスを意識しながら、無声映画の俳優術を新たなスタイルで蘇らせている。これは、新鮮であると同時に、したたかな演技である。彼の「功績」は、日本で封切られている『ブルー・レクイエム』、『マリアージュ』、『OSS 117 私を愛したカフェオーレ』、『ライヤーゲーム』などだけでも、すでに証明済である。『アーティスト』における喜劇性とペーソスをたたえる笑顔は、古典的であると同時に、いまの時代にふさわしい。
■2012年02月14日
●まずは作品賞について
●作品賞候補
『アーティスト』(The Artist)
『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』(Extremely Loud & Incredibly Close)
『ヒューゴの不思議な発明』 (Hugo)
『ファミリー・ツリー』(The Descendants)
『ヘルプ 〜心がつなぐストーリー〜』(The Help)
『マネーボール』(Moneyball)
『ツリー・オブ・ライフ』 (The Tree of Life)
『戦火の馬』(War Horse)
『ミッドナイト・イン・パリ』(Midnight in Paris)
●各作品への短評
◆『アーティスト』は、新鮮さの点で他を圧する。無声映画を「トーキー」の音なし映画ではなく、独自の映画ジャンルとしてとらえなおし、映画の可能性を一歩進めた。映画にはまだこういう可能性が残されていたということを実証しもした。ノスタルジアなどではなく、マニアックなまでの「引用」とオマージュも映画ファンを唸らせる。
◆『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』は、911で父親を失った子供の物語ではあるが、もともと「ヒキコモリ」的な傾向のあった少年がそのマニアックな能力を活かして喪失の困難を乗り越えていく物語であり、いま増えつつあるそうしたタイプの少年に新しい焦点を当てた点でユニークだ。
◆『ヒューゴの不思議な発明』も、ジョルジュ・メリエスへのオマージュ、消滅するフィルムへの惜別、父なき子――『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』の主人公に通じる「ヒキコモリ」症の子、冒険心に富んだ「健全」なアクション性、さらには3Dをあぶなげなく使うなど、全体としての完成度は高い作品である。
◆『ファミリー・ツリー』は、ハワイに舞台を設定し、親子/夫婦/親戚のコアな関係を問う。「楽園」の表皮の下に(ある意味ではどこにでもある)不倫や非行や貪欲や権謀術数が露出する。娘役のアマラ・ミラーとシャイリーン・ウッドリーが抜群の演技を見せ、父役のジョージ・クルーニーが凡庸にすら見える。精神的な遺産の継承を忘れてしまった「アメリカ人」への批判や企業による「楽園」の自然破壊への批判も加味しながら、ウエルメイドの作品に仕上げている。
◆『ヘルプ 〜心がつなぐストーリー〜』は、1960年代前半のアメリカ南部、ミシシッピー州ジャクソンの町を舞台に、中流家庭の主婦たちが黒人メイドに見せる(いまでは笑える)差別を物語る。黒人の大統領をたてまつるいまのアメリカでも「黒人差別」はもっと屈折した形で存在するが、この映画は、すべてをいわばNHKの大河ドラマ風に安全に描く。だから、ヴィオラ・デイヴィスやオクタヴィア・スペンサーがパワフルに演じる「黒人メイド」としての存在感も、差別丸出しの(いまではバカじゃなかろかと見える)ブライス・ダラス・ハワードの見事な演技も、歴史を「すでに過ぎ去ったこと」として回顧し、俳優たちの演劇的な妙味を味わうだけのものとなってしまう。その時代のこの地方の女性たちの「生態」やファッション、ライフスタイルなどを百科事典風に「学習」するには楽しめる作品ではある。
◆『マネーボール』も、ある種の「歴史もの」。ブラッド・ピットが演じるビリー・ビーンが、野球チームの管理をデータ分析とシュミレイションで行なうセイバメトリックス(Sabermetrics)を導入して「旧弊」を打破していく。こうした傾向は、証券バブルの崩壊まで万能の武器のように信じられてきた感があり、ビーン彼を助けるデーターオタクのピーター(ジョナ・ヒル)のキャラクターは、『ソーシャル・ネットワーク』のマーク・ザッカーバーグのように英雄化されるにいたるが、この映画では、ブラッド・ピットという、コンピューター・オタク以前の強烈なキャラクターが登場するので、終始脇役の位置に置かれる。その点で、この映画は、セイバメトリックス経営がもたらした問題よりも、ビリー・ビーンという男の生き様を古典的なスタイルで描くにとどまっている。
◆『ツリー・オブ・ライフ』は、ラース・フォン・トリアの『メランコリア』や、小品ながらサンダンス映画祭で特別審査員賞を取ったマイク・ケイヒルの『Another Earth』などの、地球への惑星の接近という(「2005 YU55」のような惑星の存在を考えれば、必ずしもありえなくはない)出来事との関連で見ると、試写を見た時点でのわたしの酷評は少し和らぐ。しかし、地球の誕生から終末への(金はかかっていても)凡庸なCG映像ともってまわった50年代アメリカのマイクロコスミックな「冷戦」的家庭劇との芸のない並行描写は、テレンス・マリックへのこれまでの期待を大いに裏切るものだった。
◆『戦火の馬』のテーマは陳腐である。子供と親が「安心して」いっしょに見ることのできるような映画を作り続けてきたスピルバーグだが、こいつはちょっと鈍ったなという印象を受けが。しかし、考えてみると、これは、マーチン・スコセッシが『ヒューゴの不思議な発明』で、そしてミセル・アザナヴィシウスが『アーティスト』で呼び醒ました「映画」というものをスピルバーグなりにきわめて正統的なやり方で提示してみせた作品である。この映画は、「映画」の基本的な経験――子供のときに映画を見ながら感じたわくわくする喜びやスリル、スネた大人はせせら笑いたくなるような純朴さやへの「感動」を、飛ばし見ができるプレイヤーやiPhoneのようなミニスクリーンで見るのとは異なる、「映画館」の大スクリーンで見せることをねらって作られている。とりわけ、子供がこの映画を初めて見るとき、その経験は、「これが映画だ」という経験として残るはずだ。いや、いささか褒めすぎではあるが、映画としてのスタイルは高く評価できるだろう。
◆『ミッドナイト・イン・パリ』は、70年代からウディ・アレンの作品を見てきて、『ギター弾きの恋』(1999年)あたりから旧作の二番煎じが続くようになったのにうんざりしてきたアレンファンでも、やっぱりアレンはいいなという気持ちを抱かされるような作品だ。スタイルやプロットや登場人物の型は二番煎じといえば言える。が、近年のアレンは、反復を一つの「名人芸」のようなものに高めていく方向を極めるようになった。ある種の諦念、どうせ極度に新しいものを生み出せないのなら持ち駒をフルに使って行くというやり方だ。その意味で、『ミッドナイト・イン・パリ』は、アカデミーの作品賞としてはやや小ぶりであるが、アレンの作品としては決して悪くはないのである。
●作品賞予想
◆「作品賞」という性格を考えると、映画に新しさをもたらしたという点では『アーティスト』が最上位だろう。映画のスケールの点では、『ヒューゴの不思議な発明』と『戦火の馬』がのし上がってくる。これらにくらべると、『ファミリー・ツリー』と 『マネーボール』と 『ヘルプ 〜心がつなぐストーリー〜』は、「小品」であり、テーマが「特殊」である。『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』は、今後の時代を担うことになる世代の特質(「ヒキコモリ」)へのアプローチとして「未来性」をもっているが、アカデミー賞的な観点からは、出演者の演技の方で評価され、テーマの方は無視されるだろう。『ツリー・オブ・ライフ』は、「功労賞」程度。
◆そうすると、わたしのいまの予想は、映画としての新しさとユニークさが重視されるのならば、『アーティスト』、もう少し保守的で無難な評価がくだされるならば、『ヒューゴの不思議な発明』か 『戦火の馬』になるだろう。しかし、スコセッシもスピルバーグも、もはや長老である。スコセッシの場合は、彼のこれまでの作品のなかでも新しさがあるが、スピルバーグの『戦火の馬』の場合は、そうではない。とすれば、「作品賞」は『アーティスト』しかない。
◆【追記】『ヒューゴの不思議な発明』と『アーティスト』を見直す機会があった。不思議なことに、前者は初見よりもはるかによく、細部の凄さは絶品である。逆に後者は、意外と薄手であるように感じられた。アイデアとしての新鮮さの点では『アーティスト』だとしても、人物やドラマの背景を描く奥行き、暗黙の「現代性」では『ヒューゴの不思議な発明』が上である。
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