2012年12月公開作品

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2012年12月公開作品007 スカイフォール ★★★★★恋のロンドン狂騒曲   ★★★★★アナザー・ハッピー・デイ ふぞろいな家族たち ★★★★★ウーマン・イン・ブラック 亡霊の館 ★★★★★ファースト・ポジション  夢に向かって踊れ!   ★★★★★砂漠でサーモン・フィッシング ★★★★★二つの祖国で 日系陸軍情報部 ★★★★★ホビット 思いがけない冒険   ★★★★★フランケンウィニー ★★★★★マリー・アントワネットに別れをつげて ★★★★★愛について、ある土曜日の面会室  ★★★★★ルビー・スパークス    ★★★★★最初の人間 ★★★★★レ・ミゼラブル ★★★★★もうひとりのシェイクスピア ★★★★★シェフ! 三ツ星レストランの舞台裏へようこそ   ★★★★★サイド・バイ・サイド:フィルムからデジタルシネマへ ★★★★★HOME: 粉川哲夫のシネマノート
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2012年12月公開作品

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007 スカイフォール ★★★★

Skyfall/2012/Sam Mendes(サム・メンデス)

◆最初からノンストップアクションで引き込むが、これではボンドは生きてはいまいというシーンがある。このうえで復帰するにはどんなトリックを使うのだろうかと思ったら、意外とあっけらかんとしていた。

◆ジュディ・デンチが演じるMは、本部が襲撃されるといった不祥事で更迭され、レイフ・ファインズが演じる男性の部長に変わる。これは、ある意味重要なことである。M役は、バーナード・リー (1962~1979)、ジョン・ヒューストン (1967)、エドワード・フォックス(1983)、ロバート・ブラウン (1983~1989)が演じたが、『007 消されたライセンス』(1989)以後、007シリーズ自体しばらく間が空いたのち、1995年の『ゴールデンアイ』でデンチが起用され、以後本作までずっとデンチが担当してきた。

◆コネリー/ボンド時代の車(アストロマーチン?)を出し、これが破壊されるのを見るクレイグ/ボンドが猛烈な怒りを抑えるシーンに旧作へのオマージュが感じられる。

◆大詰めは、スコットランドのボンドの〝故郷〟となるが、実は、イアン・フレミングが作ったジェイムズ・ボンドの故郷はスコットランドとは指定されていない。彼は、バードウォッチングが好きでたまたま持っていたBirds of the West Indies(初版は1936年)という本の著者名James Bondを借りたにすぎない。ただし、初代のジェイムズ・ボンドを演じたショーン・コネリーは、正真正銘のスコティッシュである。スコットランドは、いまでも、イギリスとは一線を画しており、イヴェントなどの企画でも、イングランドがやらないことをやるといった反骨精神が出る。

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恋のロンドン狂騒曲   ★★★★★

You Will Meet a Tall Dark Stranger/2010/Woody Allen(ウディ・アレン)

◆『ギター弾きの恋』(1999)あたりから二番煎じに見えてしまってマンネリ状態に陥ったウディ・アレンも、2000年の後半には、少しづつ本領を取り戻した。ミア・ファーローとの裁判ざたの影響もあったろう。舞台をニューヨークからロンドンに移したのもよかった。日本では先に公開されることになった『ミッドナイト・イン・パリ』の前年に公開された本作『恋のロンドン狂想曲』は、ジェマ・ジョーンズが演じる高齢の女性を中心にして物語を展開し、アレンの晩年の思いがアイロニカルに描かれた形になっている。

◆冒頭、ジェマ・ジョーンズがタクシーを降りるシーンで、レオン・レッドボーンのヴォーカル〝When You Wish Upon A Star〟に重なってザク・オルスのナレーションが始まる。石田泰子の字幕では、〝シェイクスピアは言った、人生はから騒ぎ・・・〟となっていた文。ナレーションは、"Shakespeare said, life was full of sound and fury, and in the end, signified nothing"である。ちなみに、シェイクスピアの原文『マクベス』(Act 5 scene 5)では、"it [life] is a tale/Told by an idiot, full of sound and fury,/Signifying nothing." である。この部分の邦訳は、以下の通りだ。

人の生涯は動きまわる影に過ぎぬ。あわれな役者だ、ほんの自分の出番のときだけ、舞台の上で、みえを切ったり、喚いたり、そしてとどのつまりは消えてなくなる。白痴のおしゃべり同然、がやがやわやわや、すさまじいばかり、何のとりとめもありはせぬ。 (福田恆存訳)

人生は歩き回る影法師、あわれな役者だ、舞台の上でおおげさにみえをきっても出場が終われば消えてしまう。白痴のしゃべる物語だ、わめき立てる響きと怒りはすさまじいが、意味はなに一つありはしない。(小田島雄志訳)

なお、フォークナーの『響きと怒り』(The Sound and the Fury)は、この部分の"sound and fury"を意識しているが、〝から騒ぎ〟ぐらいに訳してくれたら、その本意がつかめたかもしれない。

◆cosmic wavesという言葉は、ヘレナ(ジェマ・ジョーンズ)がかかる占い師クリスタル(ポーリーン・コリンズ)の言葉だが、オペラに行ったギャラリーのオーナーのグレッグ(アントニオ・バンデラス)とサリー(ナオミ・ワッツ)が車のなかで、(サリーの家のまえ)別れ際にキスをしてもいいような気分が高まる中で一瞬無言になるシーンがある。このとき二人のあいだで送信されるコズミック・ウェイヴをこのシーンは実にうまくとらえている。これは、ウディ・アレンのお家芸でもある。

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アナザー・ハッピー・デイ ふぞろいな家族たち ★★★★★

Another Happy Day/2011/Sam Levinson(サム・レヴィンソン)

◆家族/ファミリーの存在に関しては、賛否両論がある。が、いまの家族形態は、決して昔からのものではないし、いまの家族を基準にして家族の普遍性を語ることはできない。いずれにしても、両親と子供から成る家族の形態は、大分まえから末期症状を見せている。この映画は、そんな末期症状にある家族の面々が、結婚式のためにいやいや再集合する不条理を描く。

◆組み合わせは、リン(エレン・バーキン)、再婚した夫(ジェフリー・デマン)、リンの実の息子二人(エズラ・ミラーとダニエル・イェルスキー)の一家、リンの元夫ポール(トーマス・ヘイデン・チャーチ)、その妻パティ(デミ・ムーア)、いっしょに住んでいるが母親はリンであるポールの息子ディラン(マイケル・ナルデリ)と娘アリス(ケイト・ボスワース)の一家、リンの親ドリス(エレン・バースティ)とその夫ジョー(こちらはリンの父親ではなさそう)(ジョージ・ケネディ)の3組。

あまり一緒になりたくはないが、ディラン(リンとポールの実子)が結婚するというので、この3組が集まる。

◆この映画は、登場人物をマゾ日スティックな設定にしている。リンといっしょに住んでいる息子エリオットは薬中であり、その弟は自閉症、元夫のポールといっしょに住んでいるリンとの実子アリスは自傷癖がある。リンの母親は、夫のジョーの認知症に引きずり回されている。リンの元夫のポールは、派手好きの妻パティの言いなりだ。

◆キャスティングが微妙だ。出演する俳優の過去を引出しながらキャラクターを解釈すると逆に面白い。エズラ・ミラーの演じるエリオットは、『少年は残酷な弓を射る』のケヴィンと同系統のキャラクターである。エレン・バーキンは、顔つきからして、どこか運の悪い女を演じるのがうまい。鼻っぱしが強く、自分が美人だと思っている役なら、デミ・ムーアにおまかせ。トーマス・ヘイデン・チャーチは、中身はないくせに、かっこばかりつける役がうまい。かつて何でもおまかせ的に雑多な映画に顔を出した大根役者のジョージ・ケネディは久しぶりに見た。認知症でいつも浮いた登場人物を演じるのは、いかにもこの俳優らしい。

◆アメリカのレビューでは酷評されているが、ファミリーを美化するより、ファミリーというのは、問題ありが普通なのだという現実を描くほうがまっとうなのではないか?

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ウーマン・イン・ブラック 亡霊の館  ★★★★★

The Woman in Black/2012/James Watkins(ジェイムズ・ワトキンス)

◆子役は成長するのだから、いつまでも子供時代のことを言われるのは不当だろうが、『ハリー・ポッター』時代のダニエル・ラドクリフのイメージがあまりに強すぎるので、体つきが大人に成長した彼を見るのは、どうも落ち着かない。映画は、そういうハンデを調整するかのように、ホラー映画やホーンテッド・マンション風のエイジングされたゴシック的環境でのドラマでラドクリフを使う。しかし、これは、安易なキャスティングだ。彼を<創造的>につかうのであれば、ハリポタの<現代的>側面、たとえば、預けられた家で冷淡にあつかわれる少年という過去を持つ<現代>の青年といった設定がラドクリフにはふさわしいのではないか、と思った。

◆『アルバート氏の人生』で男役を演じたジャネット・マクティアの女役を見ることができる。あいかわらずすばらしい。

◆死んだ子供、それを呪って死んだ母親等のディテールの描写が凝っていて、リアルな映像だし、〝怪奇〟の謎解きも合理的なのだから、最後に〝黒衣の女〟(原題)を恐ろしげに登場させては艶消である。もし、ラドクリフが演じる父親とその息子とがこの〝黒衣の女〟によって死の世界に連れ込まれるのであれば、それは、呪いではなく、招きとして描かれるべきだったろう。

◆最後の駅のプラットホームのシーンは、美しいままで終わるべきだった。

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ファースト・ポジション  夢に向かって踊れ!   ★★★★★

■First Position/2011/Bess Kargman(ベス・カーグマン)

◆このドキュメンタリーには、幼いバレーダンサーの卵たちが登場する。その日々のトレーニング風景からコンテストまでが描かれる。そのスタイルは、バレーだけではく、ヴァイオリニストや卓球やフィギャースケートのチャレンジを描くドキュメンタリーと替わり映えがしない。そこには、ずば抜けた才能の子がいるし、親たちの必至のサポートがあるが、<またか>という印象を受けないでもない。

◆しかし、このドキュメンタリーを見て、公教育というものがもはや意味をなさなくなっているなという気がした。ここに登場する子どもたちは、普通の学校の教育にくわえてバレーのレッスンに多くの時間と労力を費やしている。日本人の母親サトコの娘ミコと息子ジュールズの場合、母親がパロ・アルトの自宅からウォールナッツ・クリークのバレー教習所まで(約80キロ)ふたりを車で運ぶ。家では、彼女は、食事の管理はむろんのこと、レッスンもやる。これは、音楽家やスポーツ選手を育てる家庭ではあたりまえのことかもしれない。が、いま、親が子どもにしてやりたい教育形態は、まさにこういうものになってきているのではないかと思う。現実に、いま普通の学校へ行く予定の子どもでも、塾へ通い、よりよい〝普通〟の学校へ行こうとする。

◆いまの普通の学校は、受験を除けば、目的やゴールを持って毎日を過ごすことができない。毎日が通過点であって、そこにいるのは、進学の基本条件を得るためだけなのだ。塾で多くの時間を過ごし、しかも同じ系統の科目を勉強するのだから、塾で勉強すればするほど学校の授業がつまらなくなることはうけあいである。

◆幼稚園が有名小学校〝入試〟の通過点になり、小学校が中学の通過点になり、ここで一部の〝幸運〟な子たちは、高校から大学までつながった学校で一息つく。しかし、そのなかで何を学ぶかを確信ないしは決定している者は少ないから、学校は、通過点になってしまう。大学に行っても、授業よりもバイトのほうが面白くて、給料までもらえることに喜びを見出し、大学は単なる通過点になる。この<仮住まい>という姿勢は、就職しても続くから、こういう生き方をしていると、一生が、仮住まい>になってしまう。それは、デカルトが言った「暫定的道徳」のようなものとして自覚すれば、それはそれでいいだろう。が、その暫定性に不安をいだきながら暮らすのであれば、消耗である。

◆音楽やスポーツは子どもにそれなりの才能がなければ、親も必死にはなれないかもしれないが、もし才能というものが、<誰にでもなんなかの才能はある>という発想でさまざまな個人レッスンの教場ができれば、親は、普通の学校よりもそうした私教育のほうを選ぶだろうと思う。

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砂漠でサーモン・フィッシング ★★★★★

Salmon Fishing in the Yemen/2011/Lasse Hallström(ラッセ・ハルストレム)

◆基本的にはラブストーリーで、先が読める(すれちがいの二組のカップル)のだが、手数をかけた挿話が詰め込まれていて、予想以上に面白かった。ユアン・マクレガーとしてはかなり気楽な演技のように見えるが、手抜きではない。エミリー・ブラントの評判(アカデミー賞など)がいいが、傑出しているわけでもない。ラッセ・ハルムストレムらしい、不思議な感覚で見せてしまう。

◆冒頭、エミリー・ブラントが、オフィースでメールを打ち、退社するシーンがある。この感じで思い出したが、メールを出して退社するというパターンは、ヨーロッパの場合多いような気がする。ほかの時間だと、すぐに返事を出すと、またすぐ返事が返ってくる場合が多い相手でも、夕方などの退社時間に来るメールは、すぐに返事を書いても、返事が翌日になることが多い。わたしの経験では。

◆この映画の面白いところは、たとえば、エミリー・ブラントが、恋人らしい男(トム・メイソン)と話をしていて、男がいきなり走り出すと、靴をぬぎ、追いかけるといった意外なシーンがあることだ。

◆この映画には、登場人物がEmailを出していて、その文章が画面に出るというシーンが何度もある。

それがつまらないという批評がRotten TomatosかiMDbかにあった。

◆キャスティングはかなりいい。首相広報担当官役のクリスティン・スコット・トーマスは、目的のためには手段を選ばない実質本位のやり手女の感じをよく出していて、笑える。

◆アマール・ワケドが演じるイエーメンの大富豪の存在は、王室をいただくイギリス人の趣味に合う。

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二つの祖国で 日系陸軍情報部  ★★★★

MIS Human Secret Weapon/2012/Junichi Suzuki(すずきじゅんいち)

◆太平洋戦争で日本とアメリカを始めたとき、アメリカ在住の日本人は日本に送還されたり、強制収容所に入れらたりした。西海岸の収容所に入れられた日本人の数だけでも、12万人に達するという。すでにアメリカの市民権を得ていた者でも、日系人は、敵国の親戚であるということから、警戒された。湾岸戦争とイラク戦争後のイスラム系アメリカ人と似た境遇に置かれたわけだ。この映画のインタヴューに答えている日系人は、こうした疑惑を回避するぎりぎりの選択として、陸軍の秘密情報機関であるMIS(Miritary Intelligence Service)に入隊して、アメリカ国家のために日本と戦った人々である。その苦渋と国家というものの残酷さがはっきりと出ている秀作だ。

◆MISに入隊した日系人のなかには、日本軍捕虜から軍の機密情報を訊き出す使命を負っていた者もいた。日本人としての外面が、捕虜の警戒を解き、機密を漏らす可能性が高いからである。その複雑な心情を涙ながらに語る回顧のなかには、同じ民族同士が戦わなければならない苦しみだけでなく、戦前の日本人がどんな感性や習慣を持っていたかも垣間見られる。

◆〝帰米〟とは、日系の二世だが、アメリカで生まれたのち、<家族や親類の都合、あるいは、両親である一世の意向などによって、幼少期から少年期までのあいだを日本で過ごし、日本で教育を受けた日系人>のことだという。その帰米が、日本とアメリカの両方で受ける差別や乖離も語られている。日本では、〝アメリカ人〟として、アメリカでは〝日本人〟とみなされ、どこにも確たる〝故郷〟を持つことができない。

◆このインタヴューで、戦時中恐れられた日本軍が、近代の軍隊としては不徹底な組織であったことが暴露する。たとえば、アメリカの兵士は、戦地で日記を書くことを禁じられたが、日本軍ではそうではなかったので、MISは、捕虜の日記を読むことによって、多大の軍事機密を探り出すことができたという。つまり、日本軍は、捕まったときに、自害するような〝究極〟の準備はできていたかもしれないが、もっと具体的で誰でもが出来るはずの準備が何も出来ていないのだった。だから、ある一線を越えると、何でもしゃべってしまうのだったとMISの日系人の一人は回想する。

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ホビット 思いがけない冒険   ★★★★★

The Hobbit: An Unexpected Journey/2012/Peter Jackson(ピーター・ジャクソン)

◆トールキンの世界が大嫌いで、12月1日早朝の試写を敬遠したが、10日に遅ればせながらワーナーで3Dの試写を見た。見ないで★をつけるわけにはいかないし、わたしがつけているのは、単に好き嫌いの★数ではないからだ。で、結論を先に言うと、物語は好きになれないが、その映像には高い評価をあたえざるをえなかった。ピーター・ジャクソンのとどまるところを知らない映像的チャレンジの規模にいささか辟易する向きはあるとしても、めったに見ることのできない映像に出会える。

◆この物語には、喪失や悲しみはない。負けるほうには喪失感があるが、視点はつねにドワーフやホビットの側に置かれているから、観客は彼らに同化してドラマを見る。彼らは最終的に生き延びるから、観客は決して喪失感を感じることはない。これは、『007  スカイフォール』や『ハード・ソルジャー 炎の奪還』のような作品でもそうだが、この映画では、体を破壊されたり死んだりすることは痛みを、見る者に痛みを覚えさせることはない。

◆その点で面白いのは、ゴムラという日本の座敷童(ざしきわらし)を肉食にしたかのような怪物だ。これは、壮大なアクション映像よりも、ピーター・ジャクソンらしい映像だと思う。その目に終始悲しみと憎しみを同時にたたえることによって、観客の安易な同化を許さない。ある意味、この怪物が、一人、今度の『ホビット  思いがけない冒険』の<安易>で<子供じみた>予定調和を補う役割を果たしている。

◆この映画の登場人物たちの<汗臭さ>や攻撃性に対し、「戦いは嫌いだ」と言ホビットのビルボ・ハギンズという人物が対置されているが、基本になっているのは、壮絶な戦いである。しかし、崖から落ちても大した傷を負うわけでもなく、怪物に投げつけられて気絶したとしても、すぐに何もなかったかのように立ち上がる。アクション映画ではあたりまえのこうした単純さは、映画の一つの型ではあるが、ディテールの表現に凝り、外見的にはそれらしくリアルであることをとことん追求したこのような映画では、そういうシーンが何かばかばかしいものを見ている感じがする。

◆ピーター・ジャクソンの映像は、<大モノ>を撮るまえから見ていた。クロネンバーグもそうだが、潤沢な予算で撮ったものより、低予算のもののほうがよいという印象は抜けない。ジャクソンの場合、『バッド・テイスト』(Bad Taste/1987)や『光と闇の伝説 コリン・マッケンジー』(Forgotten Silver/1996)の胡散臭さとおふざけは、大作では消えた。というより、そういうものは、大作では出せないテイストだ。だから、映画的には、『キング・コング』(King Kong/2005)や『ラブリーボーン』(The Lovely Bones/2009)ぐらいの規模がピーター・ジャクソンらしくていい。『ラブリーボーン』は、その<清純>さのなかに相当の<変態性>を隠していて、ジャクソンらしかった。

◆この映画では、女は異常なほど登場しない。神々しい姿で登場するガラドリエル(ケイト・ブランシェット)は、象徴的な存在だ。映画のクライマックスで、大鳥が何羽も飛来してドワーフらを助けるシーンがあるが、これは、助けを求めるメッセージを伝える蝶をガンダルフ(イアン・マケラン)が彼女のところに送ったからだが、母なる女神に見守られている男たちのドラマがこの映画の基本である。若干視点を替えれば、この依存性は、相当ビョーキの度合いが強く、ピーター・ジャクソンがトールキンに執着する理由がわからないでもない。

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マリー・アントワネットに別れをつげて ★★★★

Les adieux à la reine/Farewell, My Queen/2012/Benoît Jacquot(ブノワ・ジャコー)

◆監督のジャコーが留意したが、見落とされかねないことがいくつかある。まず、この物語は、階級制が厳しい時代の話であること。タイトルが示唆するように、〝別れを告げる〟者が主人公であって、マリー・アントワネット(ダイアン・クルーガー)はいわば端役であるが、この主人公シドニー・ラボルド(レア・セドゥ)は、アントワネットのために本を読む〝召使〟の地位の女であって、彼女と女王アトワネットとの階級差は雲泥の差である。だから、シドニーがアントワネットを慕ったとしても、(そんな解釈が日本では散見されるが)対等のレズ関係ではありえないのである。

◆むろん、レズ的意識がなかったわけではない。が、そういう観点で見てしまうと、この作品の最も重要な面がかすんでしまう。監督の目は、一貫して階級の低い人間たちに置かれている。しかも、マリー・アントワネットを単なる〝オバカ〟としてではなく、階級制の犠牲者と見る。だから、彼女は、自分がはめ込まれた階級が崩壊するときになって、自ら階級を越える行動をするのである。このへんに関しても、レヴューの多くは、マリー・アントワネットが、自分を敬愛するシドニーをいいように使うという残酷な〝仕打ち〟を加えたと解釈している。これは、ちがう。逆に彼女は、シドニーに〝餞別〟(せんべつ)をあたえたのだ。

◆アントワネットは、処刑リストに挙がっているガブリエル・ド・ポリニャック侯爵夫(ヴィルジニー・ルドワイヤン)を逃がすために、彼女を召使に、その夫を下男に偽装させ、彼女のほうはシドニーになりすませる。しかし、これは、アントワネットが賭けた二重の賭けだった。一つは、レズ的関係があったと考えられるガブリエルを逃がすためだが、一つは、同時に召使のシドニーにいっとき階級外しの解放感を味あわせることだ。だから、その逃避行の馬車のなかの最後のシーンでシドニーが見せると表情が実にすがすがしい。それに比して、ポリニャックとその夫の憮然として表情が対照的である。マリー・アントワネットが、孤児という生い立ちと召使という階級に閉じ込められたシドニーにた階級はずしの餞別をあたえたのであった。

◆この詳細は、『キネマ旬報』2012年12月下旬号の「ハック・ザ・シネマ」に書いた。

◆ジャコーへのインタヴュー→FILMMAKER

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最初の人間 ★★★★★

Le premier homme/2011/Gianni Amelio(ジャンニ・アメリオ) ★★★★★

◆カミューの『異邦人』を映画化したのはルキノ・ヴィスコンティだったが、全然ヴィスコンティらしくない映画になった。それは、当時まだ生きていたカミュー夫人のさまざまな縛りのためだったらしい。この映画の原作も、彼女の反対で生前には公刊されなかった。公刊されたのは1994年である。そしてこの映画は、原作が未完であるということもあってか、『異邦人』のような舌足らずさが全くない。

◆カミュー自身を想定している主人公ジャック・コルムリを演じるジャック・ガンブランは、刑事やアクションを演じるほうが向いている感じで、ミスキャストであるが、映画としては奥行きのある作りになっている。

◆カミュの突然の死(1960年1月)は、驚きだったが、当時彼は、反権力から離脱したという印象を持たれていた。サルトルとの論争では、その政治感覚の後退が指摘された。しかし、いまになって考えるとどうだろうか?  サルトルの書いたもののうち、いま読むに値するのは『弁証法的理性批判』ではない。むしろ、鬱とバイポ(双極性障害)と孤立の連帯願いのいまの時代にリアリティがあるのは、サルトルが自己否定した(『言葉』参照)小説『嘔吐』である。これは、いまこそ再読されるべきだ。

◆カミューを支持したときのサルトルは、『嘔吐』とカミュの『異邦人』とのあいだに共通性を感じていた。それは、サルトルがのちに言う「永久的反抗者ムルソー」においてではなく、バイポ的な孤立者としてのムルソーにおいてだった。

◆カミューが女性を愛し、ダンスの名手であったことはよく知られている。彼はもともと生活の人であって、イデオロギーと討死する〝闘士〟ではなかった。サルトルが批判するように、彼には見栄や栄光への願望がなかったわけではない。しかし、彼が、アルジェリア問題についての公式的な反戦的態度を保留したのは、反体制運動というものの限界を直観していたからだ。それは、かつてアンドレ・ゴルツが言ったように、権力の暴走を監視する役目はする。しかし、権力を倒すことは、権力を奪取することであるならば、それは新しい権力との交換にすぎない。カミュは、そうでない闘争を考えていた。この映画で描かれている、「正義よりも母を取る」つまり理念的な「正義」よりも日常的な尋常さを優先するという姿勢は、そのスケッチである。しかし、それをもう少し明確にするまえに、カミュは自動車事故で早死にした。

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レ・ミゼラブル ★★★★★

Les Misérables/2012/Tom Hooper(トム・フーパー)

◆本作は、ミュージカルの形式を踏んでいるが、ミュージカル版の『レ・ミゼラブル』の映画化とは言えない。ミュージカルを劇場で見る気分をこの映画に求めるならば、その期待は裏切られるだろう。映画ならではのシーンはあるが、ミュージカル的なスペクタクル性を意志した結果、ただの視覚効果をねらっただけに終わっている。

◆ビレ・アウグスト監督・リーアム・ニーソン主演の『レ・ミゼラブル』(Les Misérables/1998/Bille August)は、決して傑作ではなかったが、原作の問題意識を継承する点では、こちらのほうが役立つ。

◆ミュージカル映画とみなした場合、ジャン・バルジャン役のヒュー・ジャックマンも、ジャベールのラッセイル・クロウも、歌唱力に無理がある。やや意外だったのは、フォンテーヌ役のアン・ハサウェイが、情感の共鳴を起こさせるという点でかなりがんばっており、その歌を何とか聞けることだ。が、コゼット役のアマンダ・セイフライドは、歌も演技もダメで、これはミスキャストだった。

◆ミスキャストという意味では、ヒュー・ジャックマンもラッセル・クロウも、原作から想像できるバルジャンやジャベールとあまりに距離がある。

◆マリウス(エディ・レッドメイン)らの学生たちがバリケードを組み、市民も加わって権力側と対峙するシーンはなかなかドラマティックに描かれているが、これが、彼らの造反の情熱や気分の表現に抜けていかない。

◆犯罪者のジャン・バルジャンとそれを負う警視ジャベールとの対立が、個的な因縁を越えて、弱者と強者、支配される者と支配する者、権力に造反する者と弾圧する者との対立へ延びていくさまざまな<闘争線>が描かれているのがヴィクトル・ユーゴーの原作だが、それがミュージカルでまず、壮大なメロドラマ(だから惨めな生い立ちのコゼットが前面に出てくる)として骨抜きになり、そしてそれがいま映画として〝完成〟される。

◆しかし、ユーゴーの原作にあった〝造反〟性が希薄になるのは、偶然ではない。それは、もはや、〝造反〟ということが時代の感性ではないからだ。すでに、ブロードウェイやロンドンで大ヒットしたミュージカル『レ・ミゼラブル』への熱狂は、〝造反〟の感性とは無関係になりつつあったのであり、それが、いま映画として最終的に確認される。

◆ある意味で、もうそろそろ<フランス革命>神話に幕を下ろすべきであり、すべては、この映画の<華麗な空虚さ>から始めるべきなのだ。そういえば、ブノワ・ジャコー監督の『マリー・アントワネットに別れをつげて』は、<フランス革命>神話の欺瞞、<蜂起>の終わりを裏側から抉り出し、そういうものに騙されない視点を提示していた。

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もうひとりのシェイクスピア ★★★★

Anonymous/2011/Roland Emmerich(ローランド・エメリッヒ)

◆あきらかにニューヨークのビルのあいだをこだまするサイレンの音。いきなりマンハッタンの俯瞰。カメラが地上に切り替わり、イエローキャブが停まる。なかから学者風の男(デレク・ジャコビー)が降り、小走りに劇場のなかに入る。劇場のサインはANONYMOUS。「無名」がこの劇場の名であり、映画のタイトルでもある。洒落ている。男は暗い楽屋を通り抜けると、ステージが見える。スタッフと二言三言かわすと、幕が開き、ステージへ。スポットライトが2条だけ彼を照らす。彼は、レインコートにマフラーというかっこうのまま〝講義〟を始める。シェイクスピアが誰であっかというトークである。やがて、ステージがエリザベス朝の時代のシーンに融解する。その後は、あいだに当時の劇場の内部が映されたりするが、2時間ちかく「シェイクスピア」的場面が続き、最後はデレクのトークシーンでしめる。これは、絶対に映画館で見るべき作品であり、そのとき、すぐれた演劇と映画と演劇がいまという時間と拮抗していた時代とが交差する経験を味わえる。ローランド・エメリッヒの傑作だ。

◆第84回のアカデミー賞の衣装デザインの候補にノミネートされたとき、以下のような文章を書いた→ソニー・ピクチャーズエンタテインメントの配給予定で仮題が『作者不詳』となっているこの作品は、Amazonの英語版がディスカウント価格になっている。早速取り寄せて見てみると、いきなりニューヨークのタイムズスクウェアの俯瞰から始まり、地上のイエローキャブにカメラが移り、白髪まじりの男が降りてきた。『英国王のスピーチ』で大司教を演じたデレク・ジェイコビィである。彼は、「ANONYMOUS」というサインが見える劇場に足早に入る。向かいには「ST JAMES THEATER」の看板が見える。そのファサードは 246 West 44th Street にある実在の劇場とそっくりである。ただし、この劇場の向かいには「ANONYMOUS」などという劇場はない。映画的ジョークである。画面は、「ANONYMOUS」という電飾文字にズームしてタイトルを暗示し、楽屋に急ぐデレク・ジェイコビィを追う。なかなか洒落た導入である。

◆長く君臨したエリザベス1世(ヴァネッサ・レッドグレーブがくさ~い演技をする)が歳を取り、後継者問題が浮上し、王室の内部で淫靡な後継者争いが起こる。実権を握る宰相ウィリアム・セシル(デイヴィッド・シューリス)とその息子ロバート・セシル(エドワード・ホッグ)の画策は、陰謀と警察に頼る古典的なやりかた。しかし、そこに別の手段による闘争があったというのが、この映画の見所。つまり剣に対するペンの闘いである。普通、こういう設定をすると、ペンの側は庶民や個人で、剣のほうは組織や最初から腕力をふるう集団であったりする。ところが、この映画では、王室の内部に権力闘争があり、そのなかにペンを駆使した者がいたという設定。オックスフォード伯爵のエドワード・ド・ヴィアである。彼は、庶民のために戯曲を書き、それで庶民を動かすことを考える。ポピュリズムである。

◆シャイクスピアが、実は、そうした王室の政治力学を背負って作られたザ・フロントだったという設定。しかも、作者・エドワードとザ・フロントのシェイクスピアとのあいだにもう一人媒介人がいる。それが、ベン・ジョンソンだということになっている。

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シェフ! 三ツ星レストランの舞台裏へようこそ   ★★★★★

■Comme un chef/2012/Daniel Cohen(ダニエル・コーエン)

◆たわいないフランス・コメディではあるが、冗談を言いながら本音を吐いているところが面白い。ここでドタバタ的に笑殺されている<分子料理>(キュイジンヌ・モレクレール)は、イルブリが定着させたものであり、それが流行の先端になりはじめたことで、ジャン・レノが演じるパリの高級レストランのシェフは、料理の第一線から追いつめられる。それを救うのがミカエル・ユーンが演じる味覚の天才という設定。このユーンは、ジャン=ピエール・レオの甘いハンサムさと若き日のスティーヴ・マーチンの笑いのセンスを兼ね備えた面白い俳優。

◆ユーンの知り合いだという<分子料理>のスペインの大先生ホアン・カステラ("Torrente"シリーズの怪監督・俳優サンティアゴ・セグラ)は、あの『エル・ブリの秘密 世界一予約のとれないレストラン』(El Bulli: Cooking in Progress/2011/Gereon Wetzel)で見ることができるエル・ブリのフェラン・アドリアたちに<分子料理>を教えたという設定だから、皮肉がきいている。

◆この二人が、時代劇の武士と芸者のようなかっこうをしてパリのファショナブルな雰囲気と料理を売り物にしている(メニューはiPad)レストランに〝お忍び〟で訪れるシーンがある。一見、日本を知らない昔の欧米映画が日本人を描くときに陥りやすい誤謬のままであるかのような二人のかっこうは、むろん、そんなことは百も承知のお遊びである。

◆料理の流行と効率ばかり追い、ミシュランの評価ばかり気にしてレノをプッシュし、流行の新人に首をすげかえようと画策するレストラン経営主(ただし二代目で、親父には頭が上がらない)を実に嫌味に演じるジュリアン・ボワッスリエの演技は見事。

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サイド・バイ・サイド:フィルムからデジタルシネマへ ★★★★★

Side by Side/2012/Christopher Kenneally(クリストファー・ケニーリー)

◆映画のデジタル化はすでに始まっているが、では、映画はどう変わるのか?  このドキュメンタリーのテーマはこれだ。ホスト役のキアヌ・リーブスのインタヴューにこたえるのは、「マトリックス」以来つきあいの深いウォシャウスキー兄弟、いやちがったウォシャウスキ〝姉弟〟である。

◆今年、性転換の治療を終えたラリーはラナと改名し、トランスジェンダー・ウーマンとしてのカミングアウトをした。これまですべて弟のアンディがスポークスマンをしてきたので、二人そろって公開の場に登場するのはこれがおそらく最初。なかなか魅力的な〝女性〟で、今後は単独の活動も増えるかもしれない。

◆デジタル化では急先鋒のジョージ・ルーカス、ジェイムズ・キャメロン、スティーヴン・ソダーバーグ、ローバート・ロドリゲス、けっこう使っているのにフィルムにこだわりを見せるクリストファー・ノーラン、フィルムの保存運動に熱心だったマーティン・スコセッシ、デジタル化はあたりまえで、俺はまえからそう考えていたという風情のラース・フォン・トリアー、彼がとなえたドグマ95の流れでSONYのハンディビデオカメラを使って「セレブレーション」を撮ったデジタルシネマの草分け撮影監督アンソニー・ドッド・マントル(彼は、ダニー・ボイルの「125時間」を撮り、「スラムドッグ$ミリオネア」でアカデミー賞にかがやくが、最初のころはさんざんだったという)等々、エディター、エンジニア、ヴィトリオ・ストラーロのような巨匠撮影監督まで30数名が登場する。

◆デジタルは、すでにフィルムのレゾルーションを越えたし、カラー補正やダイナミックレンジの問題もクリアーしつつあり、編集や効果処理のしやすさ、VFXとの相性のよさ、運搬(重い缶に代わってHDDユニット1台だけ)経費の節減等々、フィルムよりはるかに有利である。だから、デジタル化の流れはもう止められない。

◆デジタル化によって演技の仕方が変わる(ヴァーチャルな演技が増える)、撮影時間の制限がなくなり、監督は〝カット!〟が言えず、緊張感が出せない、リアルタイムでモニターできるから、撮影監督がいらなくなるとかいう問題は、無声からトーキー、カラーに変わるときにもあった慣れの問題にすぎない。

◆わたしが思うに、重要なのは、デジタル化が撮影形態だけではなく、鑑賞の環境をも変える点だ。いま映画をiPhoneやスマホのようなプレイヤーで見るひとが増えている。むしろ、フィルムの消滅は、映画のこれまでの見方の消滅のはじまりなのだ。さらに、デジタルデータは、脳への投射の可能性をも含むから、スクリーンを不要にするかもしれない。

◆ここでは全く言及されなかったが、デジタル化ということでは、ビデオアートやメディアアートは、すでに30年以上にわたってさまざまな実験を試みてきた。この世界では、むしろデジタル映像の先を考えようとしている。が、今後映画がどう収益をあげるかという点に関しては、こうしたアートは何も教えてはくれないだろう。これは、デジタル化のアキレス腱である。

◆以上は、『キネマ旬報』2012年12月上旬号の「ハック・ザ・シネマ」に書いたレヴューを改稿したものである。