粉川哲夫の【シネマノート】
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2004-01-28

●真珠の耳飾りの少女 (Girl with a Pearl Earring/2003/Peter Webber)(ピーター・ウエバー)


◆上映5分まえにおすぎ氏が忙しそうに到着。確保されていた席に鎮座。近いのでその「アウラ」が伝わって来て、落ち着かない。いまマスコミではおすぎ氏の発言が映画の観客動員に一番影響力があると言われている。むかしは、「不景気ねぇ、全然仕事ないの~」なんて大声が試写室にこだましたが、最近はおとなしい。むかしのほうがおすぎらしくてよかったなぁ。
◆巻頭から、フェルメールの絵の構図と色調がまず気を惹く。ベルリンで見たいと思って断念したのが、この作品だった。テレビで監督のインタヴューと映画の紹介をやっていたからだ。しかし、忙しかったのと、ドイツ語吹き替えでは気分が出ないのでやめた。日本では、ベルリンほどこの作品への関心は高くはなかったが、先頃アカデミー賞にノミネートされるにいたり、急に関心が高まった。
◆ユニークな作品だが、いわゆる「大作」ではない。わたしが面白く思ったのは、この映画が描く「封建的」な雰囲気だった。最近の時代劇は、セットや衣装には意を用いても、過去を現代風に解釈し、「ありのままに」描こうとはしない。時代設定は1665年だから、当然、いまとは価値観も親子関係も男女関係も、むろん使用人と雇い主との関係も、いまとは全く違っていた。いまの目で見ると、フェルール家に家政婦として入ることになった17歳のグリート(スカーレット・ヨハンソン)に対するフェルメール家の人々、画家ヨハネス(コリン・ファース)、その母マーリア(ジュディパーフィット)、妻カタリーナ(エッシ・デイビス)、娘コーネリア(アラキーナ・マン)が見せる態度は、相手を見下しているように見えるだろう。が、それを「普通」だと思って見て行くと、この映画の世界のディテールが光ってくるだろう。
◆グリートの父親(クリス・マックハレム)はタイル職人だったが、体がきかなくなって彼女が働きに出ることになった。家を出る日、父は、彼女に自分が作ったタイルを1枚渡す。そこには、男が女を鞭打っている絵が描かれている。それは、この時代の女性の地位を示唆する。男尊女卑は、夫フェルメールと妻との関係、グリートを犯そうとするパトロンのヴァン・ライフェン(トム・ウィルキンソン)にもあらわれている。そのなかで、グリートと肉屋の息子ピーター(キリアン・マーフィー)との淡い愛が息ぬきをあたえるが、ここは急に「近代」が入り込んできた感じ。
◆フェルメール家に来たグリートは、無愛想な料理女に迎えられるが、それでも、この太った料理女は、彼女を家の一室一室に案内しながら、物の置き場を説明する。こういう案内のやりかたは、わたしも、西欧人の家でよく経験することだが、はたして17世紀でもそうだったのかどうかはわからない。空間(家のなかであれ、街であれ)を「パブリック」なものとみなす発想は、近代のものではないか?
◆パトロンにフェルメールの絵を売り込むために、彼の母がパーティを計画する。パーティの日、客は運河を船に乗ってやってくる。なかなか優雅である。
◆グリートを演じるスカーレット・ヨハンソンの、時代をタイムスリップしてわれわれのまえに姿をあらわしたかのような風貌としぐさは、この映画のリアリティをささえる最大の要素である。
◆フェルメールの家にカメラ・オブスクラが運び込まれるシーンがあるが、彼がそれを使って絵を描いているシーンはない。しかし、彼の絵の最もラディカルな点は、彼が当時最先端のカメラ・オブスクラを絵画に利用した点だ。アンディ・ウォーホルは、ポラロイド・カメラを使って絵を描いたが、これは、ある意味でフェルメールの真似にすぎない。
◆ウォーホルは、なぜポラロイドを使うのかという問いに対して、「簡単だからさ、何枚でも描けるしね」とうそぶいたが、フェルメールも、カメラ・オブスクラを導入した動機は、けっこうそういうところだったかもしれない。
◆いまコンピュータを使って描画することは流行りであるが、絵画から手描きの要素を取ってしまえば、絵画ではなくなる。それは、「コンピュータ・グラフィクス」にすぎない。実際、いまのコンピュータテクノロジーを使えば、自分では何もしなくても、絵を描くだけなら、凡百の画家よりもよほど多様なテーマと気の利いた作品を自動的につくってくれるだろう。フェルメールの時代にはカメラ・オブスキュラから直接プリントアウトしてくれる装置はなかったからこそ、それを手で「模写」した。しかし、それは、出来れば直接プリントアウトしたかったととらえるべきではない。フェルメールがどう意識していたかは別として、ユニークなのは、テクノロジーと手とのからみあいである。知覚を人間の肉体器官だけでするのではなく、テクノロジー装置を通すこと、テクノロジーを媒介にして知覚を変え、そこに一つの「美」を見出すこと――この手法の先駆者の一人がフェルメールであった。
◆しかし、実は、テクノロジーを通さない知覚などというものはない。われわれの肉体的知覚器官は、つねに、レンズが登場するはるか以前から、技術に媒介されてきた。大「自然」のなかで生活していた時代でも、森の大木や空気は、知覚に多いに影響したし、太陽と人工の火とでは、ものの見え方が全くちがった。家に住むようになった人間は、建物との関係で知覚を変えられた。技術を媒介しない無媒介の「生の」知覚などはありえないのである。
(ギャガ試写室)



2004-01-26_2

●幸せになるためのイタリア語講座 (Italiensk for begyndere/2000/Lone Scherfig)(ロネ・シェルフィグ)


◆一般試写会なので、雰囲気がちがう。あとから隣に座った女性が、ビニール袋からスパゲッティのテイクアウトを取り出し、むしゅむしゃと食べる。食いっぷりがいい。合間で大きなボトルの水をラッパ飲み。映画が始まって、ごそごそごそやっているので、ちらりと見ると、今度は大きなハンバーガーを食べはじめた。これは、やけにビーフのにおいが強い。イタリアと関係のある映画を見るのでイタリアンで統一してほしかった。
◆個別的な単位で見ると「優雅」だが、全体としては孤立や空虚感がただようというイメージは、21世紀のあらゆる都市生活にあてはまるのではないか? その意味で、デンマークのコペンハーゲンは、さまざまな意味で時代を先取りしているように思う。スザンネ・ビエールの『しあわせな孤独』もそうだったが、この映画に登場する人々もみな孤独をかかえている。そうした彼や彼女らが、それぞれそれぞれのパートナーを見つける。リチャード・カーティスの『ラブ・アクチュアリー』でも、似たようなパターンが見出せたが、そこで全体の牽引力になっていたのがクリスマスだとすると、この映画ではイタリア語会話教室とヴェネチア旅行がその機能を果たす。
◆町に着いたばかりの新任の牧師アンドレアス(アンダース・W・ベアテルセン)は、半年前に妻を失ったばかりだった。彼が、宿泊するホテルのフロント係のヨーゲン(ピーター・ガンツェラー)は、インポに悩んでいて、ホテルのレストランで働くイタリア娘ジュリア(サラ・インドリオ・イェンセン)に恋しながら、言い出すことができない。カーレン(アン・エレオノーラ・ヨーゲンセン)は、自分の美容室を持っているが、病院を抜け出して来るアル中の母(テーネ・ティームロス)のめんどうをみなければならない。パンやパイを売る店で働くオリンピア(アネッテ・ストゥーベルベック)は、家に帰ると、生活の恨みつらみが体にしみついてしまったような老父の呪詛にさらされる。ホテルのレストランを仕切っているハル(ラース・コールンド)は、ホテルのマネージャーに気にいられず、クビの危機にさらされている。
◆この6人をはっきりとした形で結びつけるのは、市が主催しているイタリア語講座なのだが、彼や彼女らの相互関係は、それに先だって巧妙に準備され、構成されている。ヨーゲンは、アンドレアスの愛車がマセラッティであることで親しみをおぼえる。アンドレアスは、髪を切りに行き、カーレンと知りあう。オリンピアは、教会でアンドレアスに会い、彼の優しさに愛を感じる。ハル、ヨーゲン、ジュリアは友人同士だが、ハルは、彼の長い髪が気にいらないマネージャーの意向をいやいや伝えたヨーゲンの指示でカーレンの店に来て、彼女を好きになる。
◆愛の形成、さまざまな形の愛の展開があり、その仕上げは、イタリア語講座の最終イベントとしてのヴェネチア旅行である。ここで、3つのカップルが、燃え上がる。わたしは、そのなかで、ヨーゲンとジュリアの愛の形に「感動」した。ジュリアは、ずっとイタリア語しかしゃべらない。ハルはイタリア語が得意で、彼女とはイタリア語で話す。だから、市が用意したイタリア語教師が心臓発作で急死すると、彼がそのあとを継ぐことになる。ヨーゲンとジュリアは、手まねか、ハルの通訳か、イタリア語講座で覚えたわずかのイタリア語でコミュニケーションをとってきたので、彼が、ジュリアに愛の告白をするとき、つたないイタリア語でやるのが、ナイーブで「感動的」なのだ。そして、そのとき、ジュリアが必ずデンマーク語で返事をするにちがいないと思うと、その通りになる――このパターンがまた「感動」を呼ぶ。この「感動」は、『ラブ・アクチュアリー』でポーランド人の家政婦と作家とのあいだの手まねと片言の会話のシーンを見たときにも経験した。
◆この映画は、『しあわせの孤独』と同様、「ドグマ」(1995年からはじまった助成プロジェクト)のオッファーを受けて制作された。その場合、1台の手持ちカメラで撮影すること、外部撮影は自然光でといった「ドグマ」が適用されるが、ロネ・シェルフィグは、その制約に映画制作の「定石」を巧みに組み合わせ、「パターン」を逆手に取った。わたしが体験した「感動」は、そうした「定石」を巧みに使っていることから来る。「こうなるな」という予感が、予感以上にうまく具体化される爽快感である。
◆最初、カーレンとオリンピアをまちがえそうになるショットにたびたび出会ったが、やがて、二人がなぜ似ているのかが判明する。これも、「パターン」だが、「定石」のうまい使い方だ。
◆アンドレアスの先任の牧師レッドマン(ベント・メイディンク)は神経症になって、牧師をやめるが、彼とアンドレアスとが、信仰と神の存在について真剣に議論するシーンがある。このレッドマン、カーレンの母、オリンピアの父の3人は、デンマークの現在のネガティヴな部分を代表している。イタリア的なものは、そういう部分を一時的に忘れさせてくれるだけかもしれないが、ヨーロッパ人がゲーテ以来見せるイタリア願望は、いま、ヨーロッパ中に広まっているイタリア料理によって、確実に定着しつつある。先日行ったベルリンのイタリア料理もけっこうイケた。その意味では、この映画は、イタリア語講座よりも、イタリア料理講座をテーマにしたほうがより効果的であったかもしれない。
(ヤクルトホール)



2004-01-26_1

●殺人の追憶 (Memories of Murder/Salinui chueok/2003/Joon-ho Bong)(ポノ・ジュノ)


◆出がけにメールの返事を打ったりしていてもたついた。地下鉄で京橋まで行くのでは30分まえに会場に着けないので、JRで東京駅に行き、タクシーで鍛治橋通へ入る。駐まっていたタクシーに乗ったら、「鍛治橋通だったら、向こう側から乗ったほうがいいですよ、まだメータ倒してないから」と言われて、道の向こう側へ走る。時節がら客待ちのタクシーの数は多い。
◆この映画の評判は高い。IMDbのユーザー評価は、異例の8.2をつけている。だから、映画がはじまって、ソン・ガンホ演じるパク・トゥマン刑事が繰り広げるドタバタに意外な感じがした。えらく「軽薄」なテンポなのだ。なにせ、強姦殺人の現場で、ダサいマスクをした捜査課長が坂になった草原で転んで頭から転がってしまう漫才のようなシーンまである。ソ・テユン(キム・サンギョ)が登場するシーンでも、たまたま張り込みをしていたパクは、ソをを犯人だと思い、飛び蹴りしてしまう。しかし、すぐにわかったのだが、この映画は、普通なら深刻に描くことによって批判したつもりになるような技法をあえて避け、逆に、批判的な対照を喜劇的に描いているのだと。だから、ソン・ガンホがひとしきり「茶番劇」を披露したあとは、例の「軽薄」課長も退場し、新任の課長とソウルから派遣された「モダン」な刑事役のキム・サンギョのシリアスな演技が支配的になる。彼は、いわば警察の「理性」的な側面を体現しており、パクの「勘」と暴力的な「自白」に頼った「前近代」的な捜査の問題を突く。しかし、面白いのは、ソ・テユンが、最後には、自分が拒否していたはずの「前近代」と「非合理」のロジックに追い込まれていくことだろう。彼のシリアスさは、こうして疑問にふされる。
◆「歴史は必ずくり返す。最初は悲劇として、二度目は茶番劇として」というカール・マルクスの言葉があるが、この映画は、80年代の「悲劇」を(映画のなかで)深刻に「くり返す」ことはしない。映画であれ、舞台であれ、再現された「悲劇」は「茶番劇」にすぎない。だから、むしろ、過去を「茶番劇」として描くことこそが、過去に対する最もリアルな対応となる。これは、ベルト・ブレヒトも「異化効果」という方法で考えていたことだ。
◆ドラマの主な時代は、チョン・ドハン(全斗煥)軍事政権下の息苦しい1980年代。毎夜のように外出禁止令のサイレンが鳴る。政権への反対デモと弾圧が続いた。が、わたしのクールな理解によれば、全斗煥は、1979年に暗殺されたパク・チョンヒ(朴正煕)が「冷戦」を利用して強引に資本主義経済の「近代化/工業化」をはかったあとを受けて、そこから「脱工業化」への方向づけをした。そこからわき起こった「民主化」の動きは、熾烈に弾圧されるが、体制そのものは、1988年のソウルオリンピックへと、着々と資本主義の高度化の路線を早いテンポで進めた。この2大軍事政権の荒療治なしには、その後の韓国経済の高揚は不可能だったが、その代償も当然大きかった。それは、1980年の光州事件のようなマクロな形においてだけでなく、社会や個々人の心のミクロな部分に根の深いひずみをもたらした。これは、韓国だけでなく、資本主義化を急速に推し進める国に必ず見られるパターンである。この映画は、1986年から1991年に起こった、同一犯人によると思われる(現在も未解決の)連続婦女暴行殺人事件のなかに、そういう時代のひずみを見出している。2003年、すでに警察署を辞めたパクが出てくる最後のエピローグ・シーンは、そうした過去がいまどうなったかを示唆する。もう「笑って」忘れることができるのだろうか、それとも・・・。
◆パクは、署に帰り、タイプで調書を作る。1986年の韓国ではまだワープロは普及してはいなかったから、このタイプは、ハングルのタイプだろうか?
◆パクが、家に帰り、女と気のないセックスをしたあと、彼女が彼に注射をするシーンがあるので、麻薬か何かかと思った。しかし、それは、栄養剤だったようだ。彼女は、彼の妻であり、看護婦の知識を持っているという設定らしい。しかし、それは、この映画にとってどういう意味があるのか? 後半、すべてに疲れたパクが、彼女に点滴してもらい、「仕事を辞めたら」と言われるシーンもある。10年後、彼は、警察を辞め、Green Power Juice Extractorというジュース搾り機を売る会社に勤める。(これは、この映画の本筋ではないが)。
◆この映画の圧巻は、パク・ヘイル演じる「容疑者」と、刑事ソ・テユンおよびパク・トゥマンとの3者のあいだで演じられる緊迫したドラマだろう。場所は、トンネルがある線路のうえ。もう絶対にまちがいないと確信したソ刑事がパク青年を追いつめる。手錠をはめて連行しようとしたとき、パク・トゥマンが封筒を手にして追って来る。犯人が死体に残した体液のDNAの鑑定を依頼したアメリカの研究所から送られてきた書類が届いたのだ。その結果は、パク・ヘイルの無罪を証明するものだった。このとき、すでに相当狂い始めていたソの「理性」がパニックに陥る。そして、それまで感情と勘に頼って捜査を進めてきたソンが、反対の態度に出る。この対照が映画的にも非常にドラマティックに描かれる。
◆現実には、理屈で通らないことがいくらでもある。それが、あまりに多くなるとき、われわれは、そういう現実とどう折り合って生きていけばよいのか? そして、折り合うことが出来なかったときに犯したことを、われわれは、のちの時代にどうあがなえばよいのか?
(映画美学校第1試写室)



2004-01-23

●ビッグ・フィッシュ (Big Fish/2003/Tim Burton)(ティム・バートン)


◆ヤクルトホールへ来るのは久ぶりなので、重要なことを忘れた。この会場の舞台正面の手前に張り出しのスペースがあるのだが、その横袖が空調のダクトの口になっており、をの周辺に座ると寒い風が吹いてきて、耐え難いのだった。このことを忘れて、この張り出しのすぐそばの席を取ってしまった。思い出すのが遅すぎ、移動するのによい席はなかった。が、映画が始まると、そんなことは気にならなくなった。
◆「父親の復権イン・アメリカ」というシリーズの1本。むろん、こんな名のシリーズがあるわけではない。近年、それまで無視されたり、軽蔑されたりすることの多かった父親に再評価の目を向ける映画が目立つので、わたしが勝手にそう名づけたのだ。が、そういう系列の映画のなかでは、やみくもに「父親はやはり偉かった」と言っているわけではなく、むしろ、自分を育ててくれた一方の親へ愛をユニークな形で表現している。
◆ただし、映画というものは、社会化の装置でもあるから、ある映画が当たれば当たるほど、それが本来持っている機能とは別の――現時点で最も支配的な心情やイデオロギーの道具として機能する面がある。いま全米の切符売り場で第4位をマークしているこの映画が、現政権下の政策と無関係のはずもない。
◆親父の失墜は、1960年代から70年代にかけて進んだ。「ニュー・アメリカン・シネマ」は、もはや、強い父親は描かなくなる。ベトナム戦争の敗北とウォーターゲイト事件などに見られる国家の威信の失墜は、父親的なものの効力の下落、フェミニズムの台頭、離婚と単親家族の増加等々と相互関係を持ちながら、この間に進んだ。レーガンは、1980年代になって、しきりに家族の復権をとなえたが、70年代の父親ばなれと「家庭軽視」が歴史の忘却箱に封入され、アメリカがあたかも昔から父親をうやまい、核家族を大切にしてきたかのような意識が標準化されるためには、時間が必要だった。クリントンは、モニカ・ウィンスキーとのスキャンダルによって、あやうくこのレーガン→ブッシュ1世の一党が苦労して仕組んだ「忘却プロジェクト」をダメにしそうになったが、ブッシュ2世を大統領にすることに成功したことによって、このプロジェクトをしばし確実な軌道に乗せた。
◆30代になり、近く妻ジョゼフィン(マリオン・コティヤール)とのあいだに子供が生まれる予定の息子ウィル(ビリー・クラダップ)は、そう長くないと知らされた病床の父を妻とともに見舞いに故郷の家にやってくる。映画は、彼の目から、フラッシュバックしながら、父親エドワードの現在と過去が描き語られる。現在の父親をアルバート・フィニー、若い時代をユアン・マクレガーが演じる。妻サンドラはジェシカ・ラングとアリソン・ローマン、息子ウィルの幼年時はグレイソン・ストーンがそれぞれ演じている。
◆エドワードは、別に家で強権をふりまわす父親ではなかった。むしろ、やさしくて楽しい父親で、別に息子に自分の生活を韜晦するためというわけではないが、普段仕事で家を空けがちだったウィルの幼年時、帰ってくると奇想天外な物語が、彼を楽しませ、夢の世界にいざなった。しかし、成長するにしたがって、息子は、父のそうした物語癖がうざったくなって行く。結婚式では、何べんも聞かされた話をまたきかされて、うんざりしてしまった。そんなわけで、彼は、父を敬遠しがちになっていた。
◆父の話では、母との出会いは、彼が釣りをしていたとき、川のなかから妖精のようにあらわれたのが彼女だったという。いずれにしても、2人は、30年以上離婚せずにいっしょの生活をしてきた。こういう夫婦は、いまのアメリカでは「希少価値」である。まあ、離婚などしないで済めばそれにこしたことはない。が、誰も離婚などしたくないのに、そうせざるをえなくさせるような状況がある以上、そのなかであえてこういう夫婦をとりあげることは、一つの願望やノスタルジアや暗黙の提唱(「こういう結婚はバツ1のあなたのよりいいでしょう?」と)が存在することは否定できない。その点では、この映画は、たしかに現実に蓋をしている。
◆ただし、いま、われわれが、エドワードのような物語能力や想像力、そして他者へのサービス精神をわすれつつあることも事実であり、その意味では、単なるノスタルジアをこえた勧め(「どう、もうちょっと気楽に生きてみたら」)が読み取れなくもない。エドワードは、おそらく好きに生きてきたのだろう。彼の人生には悔いはないはずだ。そういう自由さや奔放さを息子がやっと気づくが、そのときは、父はこの世を去ろうとしている。
◆もともと『ビートルジュース』(Beetlejuice/1988) がそうだったが、ティム・バートンは、シュールリアリスム的な飛躍が好きだ。それが、『スリーピー・ホロウ』 (Sleepy Hollow/1999) では、「疑古典的」な独自のスタイルとして結晶された。この映画でも、そのスタイルが、廃墟に住む魔女の話や、怪物をさそって訪れる不思議な村(ここに到着した者はみな靴を脱がされる。そうした靴がたくさん紐にぶらさがっている)のエピソードのあたりに濃厚に出ている。
◆父親の葬式ではじめて自分の親父の偉さを知るというようなことがよく言われる。むろん、その逆もあるわけだが、子供という者は、親のことを理解していないものだといった通念がある。そうでない関係、そういう関係とは異なる関係を生む家庭というものがあるはずだが、「親子なんてそんなもんだよ」と言って、突き放し、その帳尻を、死人に口なしの韜晦で合わせようとする。しかし、誰にも「普通」の空気は入り込んでいるから、そういうクリシェが描かれると、グッと来てしまう。この映画の最後のシーンはその典型である。
◆しかし、このシーンは、事実として「親父は嘘をつかなかった」/「親父が偉かった」ということを示しているのではなく、親父と息子とが共有した夢を息子が(意識のなかで)現実化したという趣のものであり、父親への息子の愛の証なのではなかろうか? 親父が話していた巨人も、中国から親父が連れてきたというシャム双生児の芸人も、彼が働いたことがあるというサーカスの団長(ダニー・デビート)も、銀行強盗や発明もやったという詩人(スティーブ・ブシェミ)も、みんなが墓地の芝生で一同に会する。わたしは、そのフェリーニ的な映像と仕掛けがいいと思うし、死をこのように開かれたものとしてとらえるティム・バートンの姿勢に賛同する
(ヤクルトホール)



2004-01-22

●スパニシュ・アパートメント (L'Auberge Espagnole/2001/Cedrick Klapisch)(セドリック・クラピッシュ)


◆いま、このノートを試写室を出てすぐのカフェ 哲 (AKIRA) で書いている。が、あわてて出てきたので、PDAもノートパソコンも持たずに来てしまい、メモ用紙に手書きで書いている。デジタル化するときには、内容も変わってしまうだろう。今日も「ヤルガッチァフェ」というエチオピアコーヒーを飲む。そのあとやはりエチオピアのエスプレッソをもう一杯。
◆この映画は、ある種の「EU」文化・社会論である。パリに住む大学生グザヴィエ(ロマン・デュリス――筋肉を取った若きシュワルツネガーに似ている)が、「エラスムス・プログラム」の奨学金を得て、バルセロナに留学し、イタリア、ドイツ、デンマーク、イギリス、スペイン、ベルギーの同じ給費生と生活をともにし、「大人」の経験を積んで行く話。黒人、東洋人、東欧人、少数民族は出てはこないが、単なる「国民性」の違い(それは所詮ステレオタイプにならざるをえない)というようなものに頼ってドラマ作りをするのではなく、異なる社会・文化的背景を持つ個々人が、集団として生活するなかで、どう変わって行くか、個人にとって集団(生活)とは何かが問われる。
◆グザヴィエの母親(マルティーヌ・デマレ)は、プレスでは、「典型的ヒッピータイプ」の女性と書かれているが、わたしは、彼女が、 ディーディ・ハレック(パブリック・アクセス・テレビの草分けの一人)によく似ていると思った。「ヒッピー」というより、1960年代から一貫して体制とは別の文化との関わりを重視して生きてきた人間のタイプと言う方が正しいだろう。そこには、エコロジー運動もフェミニズムもメディアアクティヴィズムも流れ込んでいるはずだ。グザヴィエは、最初母親に持てあましているように見えるが、バルセロナから帰ってから、彼女により近しさを感じるようになったのではないか?
◆デジタルで撮っているのだが、『花とアリス』『赤い月』とは違い、「軽」く使っているので成功している。電子メディアは、「軽薄」に使ってこそ、面白い効果を発揮する。たとえば、エラスムス・プログラムの事務所で、グザビエが、申請書類の出し方でもたつくと、係の女性が、パリのその手の女性さながらに、機械的な口調でこの書類とこの書類とこの書類・・・を書いて出しなさいと説明する個所で、画面の片隅にポンポンとその書類の映像が出てくるとか、グザヴィエの語りを乗せながら、バルセロナの街の話をして行って、「このへんのことは飛ばしましょう」といった感じで、「キュルキュルキュル」といった音と早回しの映像を見せるとか、広場の俯瞰を見せておき、○のマークと矢印を出し、「ぼくはここにいる」という文字を画面に書き込むとか、よい例だ。
◆グザヴィエは、念願のバルセロナに着いたが、泊まるところが見つからない。仕方なく、空港で話しかけてきた男ジャン(グザヴィエ・ド・ギュボン)に電話する。パリジャンから見ると、「いい人」すぎてバカみたいと思ったが、彼もフランス人で、バルセロナに惚れ、妻のアンヌ(ジュディット・ゴドレーシュ)とともにバルセロナに移り住んでいるのだった。しばらくジャンの家に居候しながら、グザヴィエは、ある「オーヴェルジュ」(複数の人間がシェアーしているスペース――この映画の原題は「スペイン風オーヴェルジュ」)を見つける。
◆「オーヴェルジュ」に空きがあることを知ったグザヴィエは、5人の共同管理者、イギリス人のウェンディ(ケリー・ライリー)、ドイツ人のトビアス(バーナビー・メッチェラート)、デンマーク人のラース(クリスチャン・ハグ)、イタリア人のアレッサンドロ(フェデリコ・ダナ)、スペイン人のソレダ(クリスティナ・ブロンド)の面接を受ける。このシーンが、まさに「ヨーロッパ的」な「合議制」の典型的なスタイルを目のあたりのさせる。このやり方は、1970年代から1990年代ごろまでさかんだった「空家占拠者」(スクウォッター)のスペースでも見られた。
◆グザビエの参加が許され、6人のシェアーが始まったが、ビルのオーナーから、立ち退きか値上げ(18万ペセタに)を要求され、もう一人仲間を加えることになる。グザビエが大学で知りあったベルギー人の女性イザベル(セシル・ド・フランス)だ。彼女は、さしあたり、グザビエの部屋の寝泊まりすることになる。面白いのは、彼がレズであることがわかり、2人が同じベッドで寝ることにするくだりだ。そのさっぱりした関係がなかなかいい。
◆あるとき、グザビエが、隣に寝ているイザベルにおずおずと、彼女らが「どうやってやるの・・・器具でも使うの?」と訊く。イザベルは、「男ってバカね、問題はペニスじゃないのよ、愛撫よ」といい、いかに愛撫が重要であるかを彼に教える。彼女の意見では、愛撫の文化においては、異性愛者よりも同性愛者のほうが一歩進んでいるかのようだ。ほんのエピソード的なこのシーンを身ながら、ふと思ったが、日本では、性器に特定した愛撫の文化はあるとしても、タッチングの文化は、閉塞状態にあるのではないか。痴漢は、タッチが「エッチ」としかみなされない社会のねじれ現象である。
◆グザビエには、パリに恋人のマルティーヌ(オドレイ・トトゥ)がおり、あるとき、彼を心配して、バルセロナにやって来る。が、彼は、そのころ、空港で会った男の妻のアンヌと深い仲になっていた。夫が精神科の医師としての病院に行っているあいだ、淋しそうに家にいる彼女を散歩に連れ出してくれと言ったのは彼女の夫だったのだが。彼女は、躁鬱症の気(ゴドレーショは、その感じをよく出している)があり、おそらく夫の患者だった人なのだろう。このあたりは、年上の女と若い学生との恋というよくある(描かれる)パターンをさらりと見せる。イザベラの忠告を守って彼女にタッチしたことが一線を越えさせるきっかけになるのも笑える。が、街をいっしょに歩きながら、彼女が、「この街は汚いから嫌い」と言ったとき、グザビエが、「そんな言い方は、人種差別的な言い方だよ」とたしなめるところが印象に残った。彼女が「汚い」と言う地域には多くのマイノリティが住んでいる。
◆ウェンディの弟ウイリアム(ケリー・ライリー)が一時滞在し、ドイツ人のトビアスにナチを揶揄したいいがかりをつけたり、くだらぬ軽口をたたいて、みんなの顰蹙を買うシーンがある。そういう「困った」人間をどうするか、そういう人間がどう仲間とやって行くか、見ていて面白い。こうして、最初は、経費節減のためにはじめた集団生活が、そのメンバー全員の個を解放する場になって行く。むろん、こういう場が個を拘束し、閉鎖して行く機能を果たすこともあるわけだが、この映画は、その解放的な側面に焦点を当てた。
◆最初にiMacでグザビエが原稿を打っているらしいシーンが出て、最後のシーンでそこにもどる。1年たち、就職も決まった彼が、回想記を書いているという設定。そして、彼がこの留学で得た結論は、「ぼくは1つではない、複数だ」であったという。これは、明らかに「マルティトュード」(multitude 複数多数性)と呼ばれる最近の流行りの概念を想定しているはずだ。「わたし」自身のなかに多数の「シンギュラリティ」(singularity 特異性)があり、集団とは、そうした「マルティトュード」を単一化するのではなく、まさにこの映画の「オーヴェルジュ」のように、「マルティトュード」に気づかせ、それを豊にしてくれるもの(あるいは場)としてのみ、意味がある。
◆集団や集団の場が、この映画のようなぐあいには行かないことが多いし、だからこそ、「公共圏」の終焉が論じられるわけだが、この映画は、描き、とりあつかう「集団」を中央ヨーロッパの「白人」によるものに限定することによって、「マルティトュード」の理念を引き出した。しかし、現実には、これは、かなりの短絡であり、今日の集団性の危機や公共圏の終焉は、深刻である。この映画では描かれなかったアラブ系、アフリカ系の人々やポーランドやロシア、東欧諸国からの出稼ぎ、マイノリティと底辺の人々と、裕福な白人たちとのあいだの経済格差や文化的差異の拡大。そこでは、ゆらぎを保ちながら全体をつなぐような「公共圏」は不可能だし、だからこそ、それなら一挙にまたナチ的「単一統合」で行こうというロジックが台頭する。しかし、この映画は、いまや「合衆国」とか「ユニオン」とかいうような《全体》をおおう概念はもうダメで、必要なのは、まさに「オーヴェルジュ」規模の小単位の集団性が無数に存在することなのだということを示唆しているように見える。国でないことはいうまでもなく、といって「地域」は大きすぎ、また漠然としすぎている。また、「地域」には、「自然」的条件への素朴な依存がありすぎる。「団地」が逆に個人を孤立化させる場であることは、誰もが知っている。もはや建物自体は人を結びつけはしない。とすれば、最後に残る能動的な集団は、その成員を拘束しない共同生活の場ということになる。
(FOX試写室)



2004-01-21_2

●4人の食卓 (The Univited/2003/Lee Soo-Youn)(イ・スヨン)


◆かつて「徳間ホール」と呼ばれた場所。汐留シオサイトの出現によってここへのアクセスも様変わりした。このホールの横に出られた地下通路は、工事で閉鎖中。場内には、韓国語をしゃべる人が期待を抱いて来ているという印象を持った。
◆韓国は、1980年代以後、日本の場合は、1970年代以後、「前近代」から「近代」への移行というよりも、とにかくそれまでなんらかの効力を持っていた「前近代」の要素が、ほぼ完全に舞台の背後の姿を消す。いまの東京では、たとえば小さな木造の建物が密集し、路地が入り組んだ場所、祈祷や霊媒への帰依といったものは、そのままの形では存在しない。が、わたしが子供のころには、東京なのに、熱を出した子供を医者ではなく「祈祷師」のところへ連れて行く親がいた。1980年代の東京でも、「スラム」的な場所が存在した。しかし、それらはいまや姿を消してしまった。それまで支配的だったものが姿を消すときには、必ず、揺り戻しのような痙攣が起きるが、全共闘運動はそうした反動的痙攣のプロローグであり、オウム事件はそのエピローグだった。
◆「前近代」的なものは、いまや、集団から個々人の意識/無意識のなかで眠っている。この「前近代」的なものは、必ずしも実体験の産物ではなく、身体に埋め込まれた記憶、それにつきまとう要素であるから、それが、突如として妄想のように吹き出す瞬間がある。まして、実際に「前近代」的なものを体験した世代は、周囲環境がいかに変わっても、ときとしてその追憶や郷愁、なぜかわからぬがの突然の浮上に襲われることがある。いまの日本で社会問題になっている「引きこもり」や「虐待」は、そういうコンテキストのなかで考えることもできる。
◆この映画の主人公の一人ジョンウォン(パク・シニャン)は、インテリアデザイナーであるが、幼児期に住んでいた小さな家の密集する(おそらく20年以上前ならあたりまえの)都市環境の記憶を持っている。彼の許婚者でビジネスパートナーでもあるヒウン(ユ・ソン)は、金持ちの家の娘であり、何でもはっきり言う今風の女だが、ジョンウォンがふとしたことで出会い、別れがたい関係になって行くヨン(チョン・ジヒョン)は、「霊媒師」の母の能力を受け継いでいる――つまり「前近代」の要素をとどめている――女性である。
◆この映画の面白さは、人間だけでなく、「近代」化されたはずの都市(巨大団地や高速道路がたちならぶ)や室内空間(モダンなインテリアに飾られている)にも「前近代」の要素が眠っていることをあらわにしている点だ。実際、最初の方のシーンで、内装の変更工事を頼まれたマンションで、ジョンウォンのスタッフが天井にドリルで孔を空けると、天井からどっと固いゴミが落下してきて、ジョンウォンは怪我をする。それは、建物が建てられた時点での手抜き工事の残骸なのだが、それは、まさに「近代」的な建物の裏側に隠された「前近代」が、突如姿をあらわすことを示す、たくみなメタファーになっている。
◆「前近代」的なものは、しばしば、眠りから目覚める瞬間に姿をあらわすが、ジョンウォンが、電車(地下鉄?)のなかで居眠りをしている(韓国の乗客も居眠りするんだ!)と、子連れの母親が乗ってきて、向い側に子供を座らせ、彼が終点で降りるとき、子供たちがそのまま車内で眠ったまま車庫に運ばれて行ってしまうというイントロもなかなか示唆的である。その子供たちが、実は、母親によって薬を飲まされ、死んでいたということをジョンウォンはテレビのニュースで知る。それ以後、彼は、ヒウンが新婚生活のために買った食卓用のテーブルとそのてめに彼女自らが取り付けた照明の下に、死んだはずの子供たちが座っている悪夢に悩まされるようになる。つまり、極めて「近代的」なはずのテーブル(「モダン」な新婚生活とファミリーの象徴)が、突如、おどろおどろしい「前近代」的悪夢の装置に変貌するのである。
◆ヒウンを除くと、この映画の登場人物は、みな、過去の記憶に悩まされている。ヨンと同じマンションに住むヨンの友人ジョンスク(キム・ヨジン)は、育児ノイローゼになり、ヨンの子供を窓から落としてしまい、その悪夢にとりつかれている。ヨンにとってもそれは悪夢だ。それに対しヒウンは、何かを思い描けば、それが実現すると思っているような人物だ。雨が突然降ってきたとき、彼女は、先ほど折りたたみ傘を買い、雨が降るはずだと思い描いたと言う。これもある意味では「霊能」的才能(雨乞い)を信じることであるとも言えるが、観念は現実化できるという「近代」の発想に転換されている。つまり彼女は「近代人」なのだ。そして、その部分だけ、ヨンよりもトゲトゲしている。
◆ヒウンは、ジョンスクとの食事はイタリアンレストランを好み、別れるとき頬にキスをするような「モダン」な(つまりは「アメリカン」)女性なのだが、面白いのは、笑うとき、口に手を当てることだ。いま日本でも、(所詮は)アメリカ的なキャリアウーマン風の女性が増えているが、その女史にしてからが、笑うときには、アメリカ女のようなあっけらかんとした笑いはしない。デキる女がダメな男をバカにする『日経』の広告のせいか、電車のなかで『日経』を読んでいる女性が増えたが、あのキャラクターも笑うときは口に手を当てるだろう。そこに「前近代」が眠っている肉体の文化は、容易には変わらない。
◆文化的衝突と言葉があるが、ある程度成長してからアメリカなどに行き、そのままそこで生活するようになってかなりの年月がたつといった経歴の人には、アメリカで生まれた人よりも超「アメリカ」的、つまりプラグマティックで、ストレートで、「日本的」な曖昧さや微妙さがわからないという人がけっこういる。逆に、いまの日本で、おそろしく「日本的」で微妙な「情緒」や「陰影」を持っている人のなかには、情緒不安定な人がかなりいる。ヒウンとヨン(チョン・ジヒョンの演技は見事)がまさにこの対照にぴったりだ。
◆ジョンウォンが、父(チョン・ウク)の家で妹といっしょに食事をするシーンがある。そこで、彼らは、各自の長いスプーンで、中央に置かれた鍋から直接汁をすくって口にもっていく。日本でも、鍋料理は、各人の箸を直接鍋に入れるが、汁は専用の「スプーン」で取り分けたりする。他方、うるさい作法では、「食い箸」を不作法だとする。こういうのは、韓国や中国ではどうなのだろうか? このことは、『至福のとき』のところでも触れたが、肉体文化の違いである。
◆ジョンウォンがときどき見る夢の謎を、霊媒師的能力を持っているというヨンが、読み出すシーンは、なかなか圧巻。それによると、彼は、幼いとき、父に虐待されており、たまたま起きた火災で父を失い、自分は助けられた。彼の父であることになっている牧師(チョン・ウク)は、孤児になったジョンウォンを引き取ったのだ。しかし、この話は、あくまでもヨンの解釈として提示され、その確証はあたえられない。「前近代」的なもも/無意識の曖昧さをそのままの形で映像化しているところが面白い。
(スペースFS汐留)



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●花とアリス (Hana & Alice/2004/Shunji Iwai)(岩井俊二)


◆会場に人影はないのに、しばらく待たされたので、また先日のようなトラブルが起きたのかと思ったら、客席にプロジェクターをセットしているのだった。こ映画は、「ハイビジョン」で撮影され、フィルムに焼かれるが、完成は2月で、今日見るのは、その「ハイビジョン」版だという。しかし、用意されたプロジェクターは、プレゼンなどで使われている民生品であって、「ハイビジョン」映像を上映する機材ではない。と、すれと、映像の質はたかが知れている。案の定、開始前に係の人から、「音声がやや不明瞭なところがあるので」という説明があった。しかし、音だけでなく、映像も眠く、こういうヴァージョンを見せるのは、あまり得策とは言えないのではないかと思いだけが残った。
◆最近「ハイビジョン」で撮り、フィルムに焼くというやり方がしばしばとられるようになった。いずれは、「ハイビジョン」のまま上映し、フィルムに焼かなくなり、フィルムは消滅するだろう。ところで「ハイビジョン」という言葉を聞いてわたしが気になるのは、この言い方はまずいのではないかということだ。「ハイビジョン」という言葉は、NHKが厖大なムダな予算を使って開発したアナログのハイ・デフィニッション・テレビジョンのことを指した。NHKは、これを「未来のテレビ」と称して喧伝につとめたが、現在NHKがやっている「ハイビジョン」放送は、「デジタル・ハイビジョン」とも言われるようにアナログではなく、デジタルであり、当初の「ハイビジョン」とのあいだには大きな違い(変更)がある。「ハイビジョン」が「世界に先駆けて」定めた画質やそのノウハウの一部は使われているとしても、いまの「ハイビジョン」は、基本的にNHKが開発したものではない。その映像は、MPEG-2であり、それを「ハイビジョン」と呼ぶことは、NHKの「失敗」とすり替え(アナログからデジタルへの大転換)を覆い隠すことにもなる。簡単に言えば、いま映画界で使われはじめたいる「ハイビジョン」は、DVカメラやDVDなどの親戚であって、NHKの本来の「ハイビジョン」とは血のつながりはないのだ。
◆映像のせいか、この作品の印象はよくない。岩井の作品には、どこか、いまどきの「若者」を知りつくしているかのような構えがあるが、ここで鈴木杏(ハナ=荒井花)と蒼井優(アリス=有栖川徹子)とが演じる少女たちは、宮台真司あたりが好んで描写する「若者」のステレオタイプにすぎない。しかも、映画のはしはしに、海外の映画フェスティヴァルをねらったたくらみが感じられ、いやらしい。しかし、見せられたのは、完成版ではないのだから、このヴァージョンで批判をするのはフェアーではないだろう。批判さるべきは、こういう「試写」をやること自体である。
◆鈴木杏を初めて見たのは、『ヒマラヤ杉に降る雪』でだったが、その後、『リターナー』で見せた演技に感心させられた。しかし、この映画では、その才能が全然活かされていない。
『リリイ・シュシュのすべて』ででもそうだったが、過剰な前宣伝とメディアミックスにもかかわらず、「本編」はそれほどでもない。この『花とアリス』も、「ハイビジョン」版の通りだとすると、アリスが街でモデルの事務所にスカウトされ、最後に「有名誌」の表紙を飾るという「成功話」にすぎない。いまの「若者」はこういう感じなんだよと言っているオジサンの口吻が裏に感じられる。
◆アリスは、スカウトされる前からバレーを習っている。その教師(堤ユキ)のキャラクターが不快。生徒たちにおやつを配るとき、手をたたきながら、「へいへいへい」はないでしょう。そのかん高い声も神経にさわる。
◆アリスの母親(相田翔子)は、絵に書いたようなダメママで、夫(平泉成)とは離婚している。アリスは、姉のような感じで母親に接する。こういうのはつまらない。
◆アリスが父親(平泉成)に(おそらく久しぶりに)会って、食事をしたりする。彼は、卒業祝のプレゼントだと言って、万年筆を渡すが、「万年筆なんか使わないよね」とか気配りすぎの言い訳をするサエないオヤジ。しかし、公園を散策しているとき、ケータイが落ちていて、それが中国人のものであることがわかる。中国語をたくみにあやつる父を見て、アリスは彼を見直すような表情をする。これも、ありがちなパターンでつまらない。
◆花が買い物をして、家のほうに歩いていると、雨のなかで黒装束の人間が舞踏のような踊りをやっているのに出会う。それは、アリスがバレーの練習をしていることがすぐにわかるのだが、そのあと、彼女は、花の持っているマツモトキヨシのビニール袋からドリンクを取り出し、飲む。そのとき、わたしは、彼女がビンのフタを地面に捨てるかなどうするかを見ようと思って注視した。結果は、地面には捨てず、花に渡す。このへんは、議論の的となるだろうが、このときのアリスの雰囲気だと、無造作に地面に捨てるのが、「自然」だろう。しかし、こういうディテールに関しては、岩井は、おそらく、「いやあ、いまの子は捨てないんだなぁ」と応えるにちがいない。父親とアリスの「デート」のシーンと同様に、わけ知りの先取りが感じられるシーンだった。
◆花がいっしょの落研の先輩、宮本(郭智博)をめぐって花とアリスがはっきりしない愛情関係が展開するプロットがある。宮本は、そのなかで、記憶喪失に陥るという設定があるが、それが本当なのかどうかはわからない。その反面、花とアリスは、彼の記憶喪失が冗談であるかのような対応を見せる。このへんは、ある種の心身症と、虚構を楽しむ若者的コケットリーとが混交する面白いシーンであるはずだが、演技のレベルの混乱(ここを「マジメ」に演じるべきか、それともはずして演じるべきかがわかっていない)があり、冗長な感じしか残さない。
◆岩井の宣伝好きとその無意味さが最もよく暴露しているのが、広末涼子の抜擢だろう。アリスが採用される「劇的」な雑誌オーディションのシーンで、その担当編集者という役でちょっと出てくるのだが、広末を出す意味も感じられなければ、また、広末としても、全然サエない。あまりサエてしまっては困るのだろうが、なんだこいつという感じ。
(東宝試写室)



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●シェイド (Shade/2003/Damian Nieman)(ダミアン・ニーマン)


◆東宝のまえからタクシーを拾い、京橋へ。外堀通から鍛治橋通へ入って、女性の感じのよい運転手さんが「向こう側へつけますか?」と訊いてくれたが、片倉ビルの向かいがわで降りる。映画のハシゴはよくするが、そのあいだに適度の遊歩がほしい。ドア・トゥー・ドァでハシゴをやると、別の場所で見たという気がしない。同じ館でやる2本立て、3本立てなら話は別だ。上映する場所が違うということは映画では意味がある。それに、ハシゴに登るのはやはり足が一番でしょう。コーヒーを飲む暇はなさそうなので向かいの歩道でジタンを一服。いや、これは嘘。
◆ラスベガスのカジノを舞台にあの手この手の諸「芸」を披露するポーカー・ハスラーたちの話。冒頭のナレーションがジョージ・クルーニー風のしぶい色気のある声だったので、誰かと考えた。まだ姿をあらわさないのだが、シルヴェスター・スタローンにちがいない。そして、1971年にフィラデルフィアで、凄腕のこういうポーカー・ハスラーがいたんだよといった調子で、そのポーカーゲームの成行きがブルーセピアの映像で紹介される。ぼーっと見ていると、どこが凄いのかわからないのだが、トリックを見破られると、ピストルで相手とその仲間を倒し、金を奪って逃げてしまう早わざのあざやかさだけはわかるだろう。この人物が若き日のスティーヴンスであることが示唆されるが、そのスティーヴンスがなかなか出てこないので、ナレーションをスタローンが演っており、スティーヴンスを演じるのがスタローンだということを知らないと、その後の展開がスっと入ってこないかもしれない。いや、逆にスタローンが登場したときに、「そうか!」という気がして、知らない方がいいかもしれない。
◆いまでは「ディーン」(長老)と呼ばれているスティーヴンスを尊敬し、彼を越えたいと思っている若いポーカー・ハスラーが、ヴァーノン(スチュアート・タウンゼント)。大詰めは、ヴァーノンと「ディーン」の一騎打ちという様相を呈するが、その結末は見てのお楽しみ。ヴァーノンをフィーチャーしていかさま博打を打つのがミラー(ガブリエル・バーン)とティィファニー(サンディ・ニュートン)。ティファニーがひっかけてきたカモのジェニングス(ジェイミー・フォックス)は、あっさりかもられ、カジノを仕切るマフィアの親分マリーニ(パトリック・ボーショー)に渡さなければならない上納金をすってしまう。しかし、ポーカー映画では、カモがかならずしも最後までカモではないということがままあるので、目を離せない。
◆題名の Shade は、「ギャンブラー本人にしかわからないマークのついたカード」のことらしいが、もっと一般的には陰、覆い、陰影、色の明度や濃淡の度合い、ニュアンスなど、要するに微妙なもののすべてを含意する。それらすべてが、この映画の鍵になるが、shade の動詞形にある、「なにかが徐々に変化する」という意味も、この映画のプロットを示唆してくれるだろう。登場人物同士の関係も、最初と最後とでは大いに変わるわけだ。
◆要所要所でビルの屋上のネオンサインが意味ありげに提示されるのはなぜだろう? The Knickerbocker、Rosevelt Hotel、 Resident Hotel・・・・。これは、場所の移動を簡単に示唆する方法にすぎないかもしれないが、気になった。考えすぎ?
◆「ディーン」がディファニーに初めて会ったとき、名前を聞き、無表情で、「すごく高価な名前だね」と言うのが笑える。このへんで、彼は彼女に距離を取っているのがわかる。
◆シルヴェスター・スタローンは、『コップランド』 (Cop Land/1997/James Mangold) あたりから、それまでのイメージを大幅に変えようとしてきたが、この映画では、その努力がかなりむくわれている。体も細身みなり、しかし、大いなる過去を感じさせる目と雰囲気が、後期のジャン・ギャバンをふと思い出させた。かつて愛し、そしてその愛が終ってからも敬愛の念はかわっていないという感じで登場する女イヴを演じるメラリー・グリフィスは、スタローンの存在感に見合った存在感で登場する。さすがという感じ。
◆ひねりが多いドラマなので、陰影(シェイド)に富んだ演技のできる俳優をそろえている。ちょい役だが、ヴァーノンが尊敬するポーカーの「権威」ザ・プロフェッサーを演じるハル・ホルブルックは、『マジェスティック』 に出ていた。ヴァーノン+ミラー+ティファニー組がジェニングスをはめる場所を仕切っている女性オーナー役でダイナ・メリルがちらりと登場するが、「この人誰?」と思わせる存在感を残して姿を消す。メリルは、ハリウッドの内幕を揶揄したロバート・アルトマンの『ザ・プレイヤー』(The Player/1992/Robert Altoman) で映画会社のやり手プロデューサーのような役で出ていた。そのときも、メガネをかけたりはずしたりしながら、ティム・ロビンスを見下すような態度で見るそれ相当の役柄をやはり「この人誰?」と思わせる存在感で演じていた。
(映画美学校第2試写室)



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●赤い月 (Akaitsuki/2003/Furuhata Yasuo)(降旗康男)


◆受付のところで女性のかなりヒステリックな声となだめるような男性の声が聞こえた。その女性は見たことがある。「どこに書いてるかって言われたって、定期的に書いてる者にしか見せないんですか?! あたしは映画評論を専門にやっている人間じゃないし、それに書くかどうかはこっちが決めるわけで、見なけりゃ書けないでしょう?!」要するに、試写状なしで来て、見せろと言ったのを配給さんが断ろうとしたらしい。この問題は、むずかしい。いま試写を見せて直接影響があるのは、(映画コーナならばむろんのこと)タレントがぽろりとテレビでしゃべってくれることであって、映画評論家なんかが書くものは、ほとんど影響がない、活字で効果があるのは、映画紹介欄であって、映画批評ではない・・・と断言する配給関係者もいる。だから、どこに書いているのかもわからないという相手には冷たくなるのが当然で、「時節がら」整理できるものは整理したいというのが配給会社のおもわくである。ただ、ここが映画の面白いところなのだが、以前UIPがよくやったように、ちょっと作品の「悪口」を書くと、翌月から試写状が届かなくなるといった厳密なる整理整頓をすると、宣伝のネットワーク自体が機能しなくなる。宣伝しかも多数を相手の宣伝には、うわさや口コミ、少数者のネットワーク(というよりも「ハブ」HUB)が重要な機能を果たすので、「ノイズ」的なものを整理しすぎるのはマイナスなのである。それと、いまはテレビがまだ有力かもしれないが、早晩、テレビ(少なくともいまの形態のテレビ)の時代は終るはずで、あまりテレビにばかり頼っていると、痛い目に遭う。
◆こんなことは、カオス理論で周知のことだが、アルバート=ラズロ・バラバシは、『新ネットワーク思考』(NHK出版)のなかで、コミュニケーションというのは、「強い絆」からではなく、「弱い絆」のあいだで形成されることが多く、ある情報を世界中に流すには、たったの6人の「ハブ」的存在が「相互接続性」を持つようになれば十分だという。しかし、問題は、誰がそうした「ハブ」になるかである。それをあらかじめ決定できれば、試写状配布の厳密なる整理整頓ができるだろうが、そのような「ハブ」は固定されておらず、突然でき、突然消滅することもあり、いわゆる「メジャー」な人間や関係者とはかぎらない。
◆まえおきが長くなったが、映画が始まる寸前になって、問題の女性が、荒々しく試写室に入ってきた。この時間まで会社の人とやりあっていたのだろう。とにかく会社のひとは、試写を見せることにしたわけだ。それは、賢明なことだと思う。席は空いているんだから、一人や二人いいじゃないの。が、その女性、(ギャっとかいう声を上げたので後ろを見たのだが)大股に通路を突き進み、最前列に進んで来る。そして、わたしの隣の席にど~んと腰を降ろす。なんかヤバイと感じ。
◆そんなわけで、最初から画面に意識を集中できず、なかにし礼の話題の原作を降旗康男が「満を持して」(この言葉流行りだが、どうして流行ったのだろう?)映画化した作品だということだた、いろいろアラが見えてしまった。全体の構成は悪くない。反戦のメッセージがくりかえし強調される。それは、いまの「ご時世」では必要なことだ。しかし、「満を持した」はずの映像があまりよくない。これは、試写室の機器の問題かもしれないが、「デジタルインターメディエイト」つまりフィルム→デジタル化→再フィルム化の方法によって、デジタルの段階でさまざまな映像処理をしたというのが、さっぱり効いていないのだ。スケールの大きな話と被写体(現地撮影)をあつかいながら、この技法のためにその大きさが矮小化されたような感じに見えるのだ。
◆時は1930年代。北海道から満州の牡丹江(ぼたんこう)省に「おれたちの人生を劇的にしよう」という夢をいだいて渡り、酒造会社で一旗上げたが、敗戦によって苦難の道をたどることになる一家の話。そのなかで、常磐貴子演じる森田波子の「したたかな生き方」が感動を呼ぶはずという作り。原作ではなかにし礼の母がモデルになっているというが、いまの雰囲気をぷんぷんさせている常磐が演じると、あの時代の大変さやうさんくささが、すべて絵空事になってしまう。まあ、映画の演技としては、常磐の仕事なかではかなりいい方だろう。それは、十分評価できる。だから、この話が、織田裕二主演の 『T.R.Y.』 のノリだったら常磐は『T.R.Y.』の黒木瞳より数十倍もいいと言えただろう。関東軍の諜報員の氷室啓介を演じる伊勢谷友介などは、織田裕二の数百倍上質な演技だ。実際、彼の演技は、この映画では群を抜いていて、そのニヒルさは、陸軍中佐役の布袋寅泰、関東軍大尉役の山本太郎、そしてあやしい中国人役の大杉漣を凌駕し、市川雷蔵が演った眠狂四郎を再演できるかもしれないほどだとわたしには見えた。
◆しかし、映画はロマンだから、波子をあんまり臭い役者に演じさせるわけにはいかないのだろう。しかし、そのへんの判断で、この映画は、それが本来描くべきだったシーリアスな部分を半分捨てたことになる。夫(香川輝之)の存在にもかかわらず、「自由奔放」に生きる波子が、初恋の人だったという大杉と「大人」のつきあいをしたり、商社の人間を装って森田家に近づいた氷室と関係を持つといったくだりは絵になっている。しかし、彼女が、敗戦の混乱に巻き込まれる段階になると、とたんにテレビ俳優のうすっぺらなリアリティしか出せなくなる。その結果、「なにがなんでも生きるのよ」といった反戦のメッセージは、どこか(いまの「ご時世」では貴重だとしても)「まっとう」なご意見になってしまい、心身に響かないのだ。これは、常磐の限界だろうか、それとも演出の限界だろうか?
◆常磐の身ぶりはわるくないが、台詞がよくない。これは、どの役者についても言える。こうした傾向は、独立系以外のメイジャー系の日本の映画全般に言えることで、台詞まわしの教育が、演劇(新劇)とテレビから来ていて、映画独自の訓練がなされていない日本の現状と関係がある。
◆牡丹江省はソ連国境に接し、かつては「日本の勝利と満州の永遠」を声高に唱えていた関東軍に守られていたが、敗戦が近いことを察知した関東軍が退却してしまったのちは、この地に住んでいた人びとは、終戦を待たずに国境を越えてなだれ込んできたソ連軍の盾にされた。このへんの経緯に関しては、この映画はかなり細かく描いている。1945年8月、押し寄せるソ連の大軍に、剣を抜いて絶望的な突撃を敢行する陸軍中佐大杉の行動も、まんざら嘘ではない。当時、関東軍が撤退してしまったのち、徴兵で集められた兵隊と職業軍人から成る陸軍は、ソ連軍の圧倒的な攻撃のまえにばたばたと死んでいったのだった。つまり盾にされたのである。もし、このとき関東軍が、この地の民間人を誘導し、逃がしていたならば、多くの命が失われずに済んだはずだ。しかし、関東軍には、最初からそんな発想は皆無だった。
◆関東軍が撤退したあと、荒れ果てた牡丹江市内を氷室が、呆然と歩くシーンがある。彼は、関東軍の機能の一つであり、だからこそ、森田酒造で働いていたロシア人、エレナ(エレナ・イヴァンーヴァ)を愛しながらも、彼女がソ連のスパイであることが軍の知るところとなったとき、彼女を森田酒造の邸内の庭で切る。彼女は、切られる瞬間、「ワタシハ、祖国ノタメニ死ヌノハ何モ怖イコトハアリマセン」と日本語で言い、氷室に向かってロシア語で「ありがとう」を言う。このあたりは、映画美学としてはパターンだとしても、けっこう泣かせる。彼女のたどたどしい日本語がいい。で、呆然と歩く氷室だが、彼は、相当徒歩で歩いたり、どこかで仮眠したりしているはずだが、カッコいい帽子をかぶり、びしっとした上下で決めている。が、ここが伊勢谷友介のマレビト的人徳で、その非現実性が全然おかしくない。これに比して、必死の脱出(「引き上げ」)を敢行する波子が、列車に長時間乗ってもその顔には煤など見られないし、また、やがてアヘン中毒者になる氷室を必死で看病するシーンでも、つねに彼女の顔のメイキャップは崩れないし、そのアイラインは、エステから出てきたばかりのように「美しい」。これは、奇妙な印象をあたえる。
◆しかし、中国や朝鮮半島からやっとのことで「引き上げ」て来た世代、牡丹江省で生きのびはしたが、ソ連の捕虜となって長い「抑留」を経験した世代、そしてさらには、自衛隊が最初「警察予備隊」というインチキな名目で造られ、いつのまにか事実上の軍隊になってしまった歴史過程を自分の目で見て来た世代――これらが、次第にこの世を去って行きつつある現在、そのハリウッド的スペクタクル性にもかかわらず、この映画を見るのは無駄ではないだろう。そういう時代があったことを教科書や百科事典以上に意識のなかにインプットしてくれることはまちがいない。
(東宝試写室)



2004-01-15_2

●ロード・オブ・ザ・リング 王の帰還 (The Load of the Rings:The Return of the King/2003/Peter Jackson)(ピーター・ジャクソン)


◆公開を待ちに待っている人には申し訳ないが、わたしはいやいや見に行った。映画としてよりも一つの社会現象として見ておきたかったからである。この手の「大物」になると、最近、上映に先立っての注意が猛烈。今回は荷物検査はなかったが、場内アナウンスで、録音や録画をした場合、退場はむろんのこと、記録媒体の没収、さらには著作権法違反の罪に問われると脅された。警戒があまりに厳重だったせいか、試写がはじまってから、そのアナウンスの一部と思われる日本語が、突然サウンドトラックの音に混じって聞こえてきた。調整をまちがえたらしい。ま、映画としては、さすがは完結篇だけあり、前2作よりは気を惹かれる部分が多かった。しかし、基本的に、国や大組織のためにわが身を犠牲にしても戦うべしという主張や「死の栄光」の賛美が強烈だ。
◆とはいえ、映像に関しては、3部作のうちで最も出来がいい。こういう映像を見ていると、「正義」のために我が身を捨てるのも悪くないと思うようになるのではないか? そのくらいの迫力と引き込む力がある。捨て身で戦う人間連合に何百倍もの数のサルマンの軍が襲いかかる。空には、怪鳥が戦闘機のように飛び、さらに、象の何十倍ものサイズの怪物象が戦車のように人間=兵士を押しつぶす。どれも金属製のメカではなく、動物であるところが生々しいリアリティを出す。そして、相手が有機体であるからこそ、たとえばアラゴルン(ヴィゴ・モーテンセン)が、剣で怪鳥の首をスパーっと切ったりするのが映える。戦闘機は剣では倒せないが、肉の機械なら倒すことも可能かもしれない。
◆ゴンドールを治めるデネソール(ジョン・ノーブル)が、息子ボロミアを失い、敵に取り囲まれ、自滅的な行為に走ろうとするのだが、このごくあたりまえの反応を、もちろん、この映画は、否定的にしか描かない。それは「敗北主義」なのだ。「テロリズムに屈しない」というのがブッシュ政権で通り言葉になってしまったが、日本も、それを見習い、イラクで自衛隊が襲われるようなことがあれば、撤退するよりも、装備を増強して、「敵」に抗する――「最後まで」ということになるのだろう。むしろ、自衛隊が攻撃されれば、かえって、自衛隊ではダメ→自衛隊の武装強化→憲法を改正して攻撃も出来る国にする・・・というシナリオを実行しやすくなる。そういう状況では、この映画は、観客の意識のミクロな部分を刺激し、戦争するということが悲惨なことでもなんでもないという意識へ持って行くすぐれた文化装置になる。
◆現代の戦争は、都市戦である。都市の戦いを映像で描くとすれば、アニメでもないかぎり、死を生々しく描かないということは不可能だ。その点で、いま戦争を最もリアルに描けるのは、テロとしての戦争を描くときである。ところが、その戦いをかっこよく描けば、その映像は、テロの賛美になってしまう。これは、「テロと徹底的に戦う」ことを宣言しているアメリカにとっては、「反戦」映画になってしまう。また、その戦いの悲惨さをリアルに描くことに成功するならば、それは、テロとの戦いそのものがむなしいものであることを確認させることになる。つまり、どのみち、今日の戦争映画は、それがリアルであればあるほど、「反戦」の機能を持ってしまう。だから、戦争を描くには、この映画のようなある種の「寓意性」や「物語的抽象」が必要なのであ。いずれにしても、この映画でも、「敵」は決して「西欧的」ではなく、西欧から見れば「アラブ」か「インド」か「アフリカ」か「アジア」か、あるいはそれらの混合の雰囲気をただよわせている。
◆【追記/2004-02-01】ピーター・ジャクソンがジョン・ロナルド・ロウエル・トールキンの (John Ronald Reuel Tolkien [1892-1973])のファンタジー『指輪物語』(「旅の仲間」、「二つの塔」、「王の帰還」)を映画化した強い動機の一つは、彼が、1970~80年代の「トールキン・ブーム」を同時代者として体験したことがあると思う。そのブームの背景には、当時の反核運動があり、冥王サウロンが創った、人類を滅ぼす力を持つ「指輪」をフロド(イライジャ・ウッド)とサム(サムワイズ・ギャムジー)が苦難と迷いの末に煮えたぎる溶岩の海に投げこむことが、核の廃絶というイメージと重ね合わせて読まれたのだった。そのテーマは、映画でも基本線にはなっているわけだが、しかし、映画の山場つくっているのはスペクタクルな戦闘シーンであり、人類を救うために我が身を犠牲にすることの「崇高さ」の強調である。しかも、時代は、ブッシュ2世が十字軍気取りで「テロの撲滅」と「大量破壊兵器」の絶滅を唱え、「血を流してでも守らなければならない正義がある」てなことをうそぶいているときである。時代が違えば、ある程度肯定できたかもしれないが、いまの状況では、この手の映画を肯定するわけにはいかない。
(丸の内ピカデリー1)



2004-01-15_1

●卒業の朝 (The emperor's Club/2002/Michael Hoffman)(マイケル・ホフマン)


◆わたしはこの教師ウィリアム・ハンダート(ケビン・クライン)のようなまじめな教師ではないし、ハイスクールと大学とは違うが(ただし、最近は、大学生を「学生」ではなく「生徒」と呼ぶのが普通になっていることが示唆するように、日本の大学生の「精神年令」はかなり下がっている)、教師をやっているわたしからすると、感情移入させられる場面が多々ある。それは、教師には、程度の差はあれ、その仕事に熱心であればあるほど、学生/生徒のためになりたいという気持ちがあり、しかし現実には、それが裏切られたり、「おせっかい」になったりすることがあるからである。その点、わたしは、ある時期から、学校でやることは、自分のパフォーマンス公演の一つだと思うことにした。反応が悪るければ、こちらが悪いか、「客」がダメなのだと。ただ、そういう意識で「芸」に精進しても、「舞台」後・外のつきあいというものがあり、そのへんでは、教師は「芸人」に徹するというわけにはいかない。芸人なら劇場の外でさっきの芸をもう一度やらされることはないだろうが、教師は、学外で質問を受けるのを拒否することはできないし、誰かを(教師としての立場で)紹介してくれの、推薦状を書いてくれのと言われれば、家に帰っても教師業を継続させることになる。いや、問題はそういうことをやらされることではなく(なぜなら、学生・教師関係から友人関係になることもあるのだから)、学生や生徒は、そういうサービスを教師に当然のように要求し、そういうサービスをしても礼の一つも言わないといった傾向があるということだ。つまり教師は、24時間労働の「聖人」になるのが好ましいのである。むろんそれはたまらないから、この映画の主人公のようなドラマを観ると、どこかで同情を禁じえなくなるわけである。
◆とはいえ、教師をやっているなかで直面するディレンマや矛盾の面では同感できても、この教師ウィリアムのやっていることを全面的に肯定するわけにはいかない。彼が、主として金持ちの息子ばかりが集まる保守的なハイスクールで教えているローマ史は、英雄史観に立った観点からのものに思え、ウィリアムのようなまじめな教師がいっしょうけんめいにこういう歴史を教えるからアメリカにはジョージョ・W・ブッシュのようなやからが出てくるのではないかとも思った。プレスには、ウィリアムは、「ローマ史の中にこそ、人類の気高い理想と人間の営みの脆さがあると考え」・・・とあるが、「脆さ」に関して彼が強調する場面は見られなかった。そもそも、「帝国」を造るということ自体がダメなのであり、「ローマ史」とは、つまるところ、人類の誤謬の歴史なのだとわたしは思うが、ウィリアムはそんな「過激」なことは言わない。
◆ウィリアムが案出し、この学校の目玉行事になる「ジュリアス・シーザー・コンテスト」は、ローマ史に関する「クイズ」をやり、最後に勝ち残った者がシーザーの衣装で月桂冠をかぶる。そもそも競争(コンペティション/コンテスト)ということが「帝国」を造らせるのであり、こんなことをやっているかぎり、権力願望は衰えない。
◆とはいえ、この映画の核心のドラマをなすこの「ジュリアス・シーザー・コンテスト」は、結果的に、ローマ史の縮図になっているとも言える。そして、そういうふうに観れば、この映画は、なかなか意味深長だ。学校にとっても人気のイヴェントとなり、学生にとっても励みのイヴェントであったこのコンテストが、一人の学生のカンニングによって裏切られるからである。しかも2度にわたって。
◆そうだとすると、前言をひるがえすようでナンだが、この映画は、ブッシュのような人間を生み出してしまうスステムそのものへの異議を歴史をさかのぼって暗黙に批判しているともとれる。時代設定は1976年、場所は、ニューヨーク郊外の有名校。ならば、保守的なのは当然だ。そして、その時代をウィリアムが25年後に回想するという形式をとっているのだから、あまり単純には受け取らないほうがいいだろう。問題の生徒セジウィック(エミール・ハーシュ)は、ベル上院議員(ハリス・ユーリン)のわがまま息子であり、ウィリアムのクラスに転入して来て、ウィリアムの手を焼かせる。他の生徒もセジウィックになびき、混乱状態になる。それをウィリアムがどう収拾していくかが、一つのドラマだが、反抗をくり返したのち、まるで人格が変わったかのように、セジウィックは勉強をするようになる。そして、「ジュリアス・シーザー・コンテスト」の最終決勝の3人の一人に残る。が、コンテストで彼は、父親ゆずりの策略をろうする。
◆25年後、ウィリアムは、いまでは実業家として名をなしているセジウィック(ジョエル・グレッチ)の招待で彼の邸宅を訪れる。迎えはヘリコプター。冒頭のシーンで、豪邸の庭にヘリコプターで降り立つウェイリアムの姿があり、それから、彼が案内されたゲストルームで過去を回想するという形に入る。なぜ彼はヘリコプターに乗っているのかが、最初わからない。セジウィックから届いた手紙には、先生の讚辞と、自分がいかに先生から影響を受けたか、そしてふたたび「ジュリアス・シーザー・コンテスト」を自分のパーティで再演してくらないかということが書いてあった。気乗りのしないウィリアムに、学長は、セジウィックが巨額の寄附を約束していることを告げる。まあ、こういうとき、魂胆があることに気づくべきなのだが、「聖人」ウィリアム先生は気づかない。その結果は、見てのお楽しみの胸痛む事実に直面させられる。
◆わたしが、素直にウィリアム先生に同感できないのは、こんなことは「あたりまえ」だと思うからだ。冒頭で、学生/生徒の勝手さを云々したが、そんなことはある意味では「あたりまえ」だ。だいたい、久しぶりに「同窓会」とか「クラス会」の案内が来たりすると、その言いだしっぺが近々選挙に立候補する予定であったりすることはよくある。だから、わたしは、そういうものには近づかないですが。W先生も、ローマ史に批判的なのなら、そんな集まりには出るべきではなかったし、そもそもそんな学校は辞めるべきだったのだ。
◆セジウィック役のエミール・ハーシュを見て、その面影が若きマルコム・マクダウエルに似ているので、ふと、『 if もしも・・・』(If..../1968/Lindsay Anderson)を思いだした。転入して来たセジウィックは、トランクのなかにポルノ雑誌やマルクス、レーニン、毛沢東などの文字が見える本 、タバコなどを入れていて、同室の生徒を驚かせる。そして、向こう岸に女子校のある湖をボートで渡り、女子校生とナンパしようとする。『 if もしも・・・』では、生徒の学校の厳格な規則やそれを墨守する(ああ、この言葉もいまは死語ですね)教師を徹底的にやりこめるわけだが、『卒業の朝』では、彼らのそういう行為は、決して肯定されない。問題児が仲間をそそのかしたよからぬ出来事として描かれる。つまり、この映画では、生徒の反抗や造反は「善」ではないのだ。ここには、「良心」とか、ある種のキリスト教的な「信仰」を至上のものとする発想が感じられてならない。
◆このノートは、上から下へアドリブで書いているので、段々考えが変わってくるかもしれないが、とはいえ、この映画は、そういう保守的な学校は存在するし、そこで教える教師もいるという現実があり、60年代流の反抗も造反も、何も変えることができなかったるとすれば、そのような環境にもかかわらず、そこから何かが突然変異のように変わることを期待するしかないという教師のぎりぎりの夢のようなものを描いて終る――とも取れなくなくはない。かつてセジウィックとは裏腹に、シャイで奥手だったマーティン(ポール・ダノ)と、25年後、セジウィックの主催したパーティで再会し、彼(スティーブン・カルプが大人役)のなかにウィリアムが自分の真の教え子を見出すシーンがある。父親セジウィックの「不正」を知ってしまった彼の息子が、父親へ批判的なまなざしを見せるシーンも意味深い。最後は、マーティンの息子が、老ウィリアムのクラスに入学してくるシーンだった。ウィリアムは、25年前に彼の父親にやらせたように、彼に教室の壁にかけられた板の碑文を読ませる。そこには、「私はシュトルク・ナフンテ。アンシャンスとスーサの王でエラムの君主。シッバルを滅ぼし、ハムラビの法典をエラムに持ち帰り、神への捧げものとして祀った」と書かれている。それをその子は、すらすらと読む。彼の父は、25年前たどたどしくしか読めなかった。が、面白いのは、この子も、父がうっかり飛ばして読んでしまった個所を飛ばして読む。ということは、この碑文を彼は、父親から教えられたということを示唆する。重要なのは、学校よりも親子間の継承だという示唆でもある。
◆この碑文は、コンテストでも重要な役割をするのだが、この碑文に出てくるシュトルク・ナフンテ Shutruk-Nahunte(原題の「皇帝のクラブ」の「皇帝」はこの人物のこと)は、(いまちょっと調べてみたのだが)現在の「イラク」の南部を支配していた王だという。こうなると、実に意味深ではないか! ウィリアムは、この王が歴史に名をなさなかったのは、彼が「貢献をしなかった」(被征服民に対して?)からであり、「貢献のない征服は無意味である」と語る。ここで、ナフンテをブッシュと入れ換えると、いまイラクで起こっていることへのこの映画の批判が読み取れる。ブッシュは、「貢献なき征服」をしたにすぎないのだ。そう観ると、この映画は、奥の深いアメリカ批判/ブッシュ批判にもなっている。ただし、「歴史に名をなす」ことが「善」であるとみなしているかのような疑問は残る。「ローマ史」への批判的姿勢が弱いのだ。
(東宝試写室)



2004-01-07

●ラブ・アクチュアリー (Love Actually/2003/Richard Curtis)(リチャード・カーティス)


◆首相から子供まで、誰かが誰かを愛すエピソードを9例見せるのだが、その一つひとつがすべて異なるメディアを媒介にしているところがしゃれていて、ニクい。この9つのエピソードは、同じロンドンでくりひろげられ、それぞれがどこかでつながりがあるが、最初バラバラに描いておいて、最後に全員が一同に会するといった月並みな終り方をしないところもいい。ある意味では同時平行的に描かれ、離れ離れのままどこかでつながっているような感じ。もし全体をつなげるものがあるとすれば、クリスマスへ向かって時間が動いていくということか。
◆先日、クリスマスまえの時期をベルリンで過ごしたが、クリスマスが近づくと、にわかに店々が活気づく。クリスマスのプレゼントや食品を買うために街のショッピングモールやデパートに人が集まる。このころになると、人は、恋人や家族との関係をいやでも意識し、近しさを確認したり、淋しさを思い知ったりするようだ。だから、相手のいない人は、急に誰かが欲しくなる。日本では、クリスマスと関係ない時期に公開されることになるが、この映画は、ヨーロッパのクリスマス前のそうした時期にドラマを設定し、かつクリスマス・ホリデイに集客がピークに達するような配慮をして公開されたと思う。
◆失恋中の淋しい作家ジェイミー(コリン・ファース)とメイドのオーレリア(ルシア・モニス)を結びつけるのは、言葉でにならない身ぶりだ。彼は、南仏の湖畔の別荘で新作の執筆にとりかかる。家事まかないのために雇われたオーレリアはポルトガル人で英語はできない。ジェイミーはポルトガル語ができない。が、身ぶり手ぶりでやりとりする2人のあいだにやがて愛がめばえる。オーレリアは、特に「美人」顔をしているわけではない。メイドである「にもかかわらず」気品があるといったわけでもない。また、ジェイミーは、一応世間に知られた作家であるとはいえ、よく映画で出てくるような「かっこよさ」や癖の強さを見せつけるわけでもない。その二人が、何となく惹かれあっていくのが感動的。彼がタイプした原稿が風に舞って湖にまき散らされたとき、その冷たい水に飛び込んで原稿を拾おうとするオーレリアは、ある意味では一途な女という設定なのかもしれない。しかし、その描き方にわざとらしさがない。だから、契約期間が過ぎ、彼女が故郷のリスボンに帰ったあと、ジェイミーが、急に込み上げてきた愛に突動かされ、空港に走り、リスボンに飛び、最後は、『コロコダイル・ダンディ』(Crocodile Dundee/1986/Peter Faiman)でポール・ホーガンとニューヨークの地下鉄駅でリンダ・コズラフスキーとが見せるチープだけれど不思議と泣かせてしまうシーンに似た三文オペラ風に仕上げられても、それが、安くてうまいラーメンのような快感を味合わせる。
◆よく言われるように、たしかにイギリス人の男は、アメリカ人にくらべると、シャイで、はっきり自分の欲求を示さないようなところがある。この映画は、そういう部分をステレオタイプに堕さない程度抑えながら、たくみに描く。いっせいにトランペッターが立ち上がりビートルズの『愛こそはすべて』を演奏するような結婚式で、新郎ピーター(キウェルテル・イジョーフォー)・新婦ジュリエット(キーラ・ナイトレイ)の共通の友人マーク(アンドリュー・リンカーン)がDVビデオを撮っている。結婚式が終って、ジュリエットは、マークのところに行き、結婚式の記録映像が見せてくれと言う。しかし、彼はあれこれ言い訳して見せようとしない。やっと見せてくれた映像は、結婚式の記録というより、ジュリエットを集中的に撮ったものだった。その映像を見て、はっとするジュリエット。彼は、ピータと彼女の結婚を祝福するような態度をしながら、実は彼女に恋をしていたのだった。その彼が、クリスマスの日に見せる「パフォーマンス」が泣かせる。これも一つのメディア・プレゼンテイションだが、口をつかわずに自分の気持ちを伝える「古典的」な方法。それは見てのお楽しみ。
◆この映画には、どこか、「イギリスはアメリカとはちがうんだ」といった意気ごみがある。ヒュー・グラント演じる独身の首相は、ただお茶を入れるだけの下級秘書ナタリー(マルティン・マカッチョン)が好きになる。その布石として、彼が彼女と同じ下町の出身だという設定がある。実際には、いまのイギリスで、首相が下町に自分の意思で出向くことなど出来っこないが、出来ないからこそ、イギリスの首相というのは、本来そういうものなんだというこの描き方が観客の心をくすぐる。
◆ビリー・ボブ・ソートン演じるアメリカ合衆国大統領は、当然のように茶化されている。彼は、首相官邸を訪問し、すぐさまナタリーに「セクハラ」をする。しかし、グラント自身が非常におとぎ話的な存在だからしょうがないとしても、この大統領はあまりにリアリティがなさすぎる。「良識」あるいまのイギリス人は、アメリカ人はバカだと思っているから、こんなところでいいかもしれない。「いじめっ子の友達はいらない」という台詞は笑わせる。
◆リーアム・ニーソンは、妻を失い、妻の連れ子のサム(トーマス・サングスター)と暮らしはじめるが、サムは部屋に閉じこもって出てこない。気をもむニーソン。やっとわかったことは、サムの悩みは、母親の死や継父への距離などではなく、クラスで密かに恋している彼女にどう自分の気持ちを伝えたものかという悩みだった。それならまかせろと意気ごむニーソン。このあたり、子連れの再婚経験があるひとにはグッとくるはず。ただし、ここでも愛におけるメディアの機能が意識されており、彼は、サムにまず映画『タイタニック』を見せ、くどきのコツを教える。ところでそのサムが恋している少女ジョアンナを演じるオリヴィア・オルソンとは何者だろう? 大詰めの学芸会でこの子がマライア・キャリーのヒットソング「恋人たちのクリスマス」(All I want for Christmas is you) を歌うのだが、その歌いっぷりが堂に入ったもの。小さいのに尋常ならざるアウラが感じられるのだ。今後が楽しみ。
◆会社社長の夫(アラン・リックマン)の浮気に悩む妻カレンを演じるのは、『パーフェクト・カップル』で大統領夫人を演じたエマ・トンプソン。リックマンが浮気相手の会社の女の子(ハイケ・マカトッシュ)のためにデパートで装身具を買うとき、クリスマスシーズンにありがちの「豪華包装」サービスでやきもきさせる店員役がローワン・アトキンソン。リックマンは、妻が別の買い物をしている寸暇にこっそり買い物してしまおうと思っているのに、アトキンソンは、ドライフラワーをおごそかにふりかけたりして包装に手間取る。このシーンにアトキンソンを出すのはもったいにような気もするが、監督のリチャード・カーティスとアトキンソンは、1989年にテレビシリーズの『ミスター・ビーン』をいっしょに始めた仲で、これはまさに友情出演。
◆全体のリード役にビル・ナイが、ドラッグ中毒から復帰した老ロック歌手ビリーという設定でくり返し出てくる。彼は、ハデハデの自己顕示とはうらはらに、クリスマスを過ごす相手として、自分には苦労人のプロデューサ/マネージャーのジョー(グレゴール・フィッシャー)しかいないことに気づく。はっきりとは描かれないが、ビリーはゲイだということか?
『トゥルーマン・ショー』でジム・キャリーのヴァーチャルな「妻」、『ミスティック・リバー』ではショーン・ペンの妻を演じたローラ・リニーは、心の障害のある弟(彼女が電話で話してやらないと暴走する)をかかえて、なかなか自分の相手に集中できない女性を演じる。ここでもケーイというメディアが重要な役をする。
◆日本では、いま、「愛」イコール「ラブ」つまり英語の love はそのまま「愛」と翻訳できると考えられているようにみえるが、この映画は、loveにはメディアや明示的な表現が伴う(つまりはっきり表さなければだめ)ということを示唆する。つなり、日本語では、無表情でボソっと「愛してる」と言っても意味があるかもしれないが、I love you にはもっと明示的な表現とそれを媒介するメディアが必要だということだ。「愛の危機」は、実はすっかりloveに「植民地化」されてしまった「愛」の危機、したがって「愛」のメディアの危機、表現方法の危機であることが日本ではわかっていない。
(UIP試写室)


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