粉川哲夫の【シネマノート】 
    
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5月公開作品短評

★★★★★  4月の涙 (フィンランド内戦の時代に舞台設定し、同じ民族、男女が「白軍」と「赤軍」に分かれて闘う屈折に性のねじれを重ねる描き方、ゲーテの詩「魔王」を暗示的に使うスタイルは、ルキノ・ヴィスコンティを思い出させる)。
★★★★★  アンノウン (【ノート】←「俺った誰?」と自問し、目眩をおぼえる不条理劇的な前半のテンポはなかなかいい)。
★★★★★  ブラック・スワン (【ノート】←詳細/ポートマンがだんだん往年のバーバラ・ストレイザンドに似てきた。その頑張るところが)。
★★★★★  ジュリエットからの手紙 (「ロミオとジュリエット」にあやかり、願望の愛の手紙をお神籤の紙のように置いておくとそれに返事が来る――実は「ジュリエット・クラブ」の女性たちのボランティア活動――イタリアの話にひっかけたメロドラマ。『クロエ』のときより気楽に演じているアマンダ・セイフライド。いつもは恐いヴァネッサ・レッドグレーブも、パートナーのフランコ・ネロと仲良く出演)。
★★★★  レッド・バロン (空中戦がまだレーシングカー・レースのようであった1918年。無敵のドイツ軍パイロット、マンフレート・フォン・リヒトホーフェン――通称「レッド・バロン」のことを知らなければ、テレビの大河ドラマ的には為になる。が、どうせ描くのなら、「敵を撃ち落としたい、殺したい」という彼のあくなき欲望の謎に迫るべきだった。対戦シーンとしても迫力がない)。
★★★★★  ゲンズブールと女たち (【ノート】←ゲーンスブルーにはえらく思い入れがあるので、「ノート」では辛い点をつけてしまったが、けっこういい作品だといまは思う)。
★★★★★  ファースター 怒りの銃弾 (ザ・ロックことドゥエイン・ダグラス・ジョンソンが嫌いならダメだろうが、この「単純さ」を甘く見てはならない。70年代のアクション映画を意識した作り。ガン・エフェクトもしっかりと「古典的」に。トム・ベレンジャーやビリー・ボブ・ソーントンもみな「それっぽい」役を楽しんでいる。惜しむらくは、キラー役のオリバー・ジャクソン=コーエンが弱い)。
★★★★★  アジャストメント (【ノート】←フィリップ・K・ディックを意識しすぎて失敗。ロマンティック・コメディで腹をくくればよかったのに)。
★★★★★  マイ・バック・ページ (【ノート】←川本三郎の原作の映画化。名前は変えてあるが、川本の「私小説」であり、朝日新聞社への痛烈な批判を内在している。心優しい彼は「泣く」しかなかったが、いまの記者は泣くことすらしないのでは?)。
★★★★★  クロエ (【ノート】←最後の5分でぶちこわし。あちこちにレヴューを書いた)。
★★★★  愛の勝利を ムッソリーニを愛した女 (【ノート】←作品にインプットされた以上の解釈が可能であり、ファシズムの本質を鋭くとらえている)。

今月のノート

あしたのパスタはアルデンテ   テザ 慟哭の大地   ハングオーバー!! 史上最悪の二日酔い、国境を越える   マイティ・ソー   メタルヘッド   デンデラ   ラスト・ターゲット  


2011-05-26
★★★  ●ラスト・ターゲット (The American/2010/Anton Corbijn)(アントン・コービン)  

――初老の殺し屋(ジャック/ジョージ・クルーニ)が足を洗おうとするが、出来ないという話かね?

――正確には「殺し屋」というよりカスタムメイドの銃の密売人じゃないの? 銃や水銀入りの弾を作るシーンはけっこう凝っていた。

――しかし、本体のほうはどこかから郵送させて、サイレンサーの部分だけを地元の自動車修理工場のジャンクを使って自作するというのが納得できない。既製品の本体(M14ライフル)を使うのなら、サイレンサーの製作に手間をかけることはないでしょう。仮住まいで道具なんか大してないのに。

――最後にはボール盤まであったよ。

――このへんの矛盾がこの映画の評価につながる。ディテールに凝っているんだが、それが活きていない。が、あえて簡単に活かすようには見せないのかもしれない。

――ジョージ・クルーニーの高額のギャラのために編集や効果の費用をケチらざるをえなかったという噂もある。

――だから、この映画のキャラクターにジョージ・クルーニーはいらなかったと思うんだ。彼は、いい仕事をしているし、動きも的確だが、クルーニーには、どうしても「正義漢」的な雰囲気がつきまとうでしょう。この映画のジャックという人物は、もっとうらぶれていていいと思う。迷路のような夜の路地で殺し屋(スウェーデン人ということになっている)に襲われるが、そいつをスクーターで追いかけて殺すシーンがあるよね。そのあと、ジャックのボスのハヴェル(ヨハン・レイセン)に電話して、「なんで居場所がわかったんだろう?」と言うと、ハヴェルが、「おまえが鈍(なま)ったからさ」と言う。つまり、そろそろ「鈍っってきた」殺し屋兼銃の密売人・・何でもいいけど、が人生の悲哀を感じるドラマなんだ。これは、いまのジョージ・クルーニー向きじゃないな。

――ハヴェルを演じるヨハン・レイセンは、ジェイムズ・ウッドに似ているね。最初そうかと思った。

――『わらの犬』のリメイク(ロッド・ルーリー監督)が終わって、秋に公開だそうだが、『エンド・ゲーム  大統領最期の日』(2006) 以後は、『An American Carol』(2008) があったが、あとはテレビ出演だけだったみたいだね。まだ引退する歳じゃないのに。

――アブルッツォ州のラクイラ県が舞台だが、なんでラクイラなんだろう。雰囲気はよく撮れていたが。

――原作(マーティン・ブース『暗闇の蝶』新潮文庫)にもとづいているんでしょう。2009年の地震を考慮した「復興援助」のためかとも思ったが、それよりまえにここでロケすることは決まっていたらしい。予定していた場所は震災で破壊され、大変だったみたい。だから、不便なカステルヴェッキオまで行かなければならなかった。ここは破壊されていなかったんだ。ネットにその詳細が載っている

――現地人のシーンではちゃんとイタリア語をしゃべらせ、繊細に作っているが、イタリア人から見ると、「作りもの」に見えるらしいね。

――カステル・デル・モンテに着いたときの土地の人の反応とか、神父(パオロ・ボナチェッリ)との話、自動車修理工場をやっている神父の息子(つまり隠し子)ファビオ(フィリッポ・ティミ)とのやりとりなんかがいかにも外国人が見た「イタリア」だという。ジャックが、だんだん惚れ込む娼婦のクララ(ヴィオランテ・プラシド)とレストランに行き、ミネラルウォーターとワインを注文するシーンでも、現地人なら、何年ものの「モンテプルチアーノ・ダブルッツォ」と言うだろうね。まあ、このシーンは、なかなか意味深で、「異星人」的な耳をしたウェイター(フロアマネージャー)が「外国人」のジャックに詮索の目を向けるのをクララがぴしゃりとやって、遠ざけるんだから、「何でもいいから早く持ってきてよ」という気持ちをあらわしているのかも。

――ああ、クララとのシーンは悪くなかったが、そもそもあんな小さな土地にあんな「娼婦館」があるんだろうか? まあ、カソリックの町は、表と裏とが大違いだから、わかりませんけど。しかし、「普通」の女を愛せないジャックが、もの淋しくなるとクララを買うシーンで、もっと「せつない」感じが滲み出たほうがよかった。その点、『クロッシング 』でのリチャード・ギアの警察官と娼婦との関係のほうが感じが出ていた。編集が安いというのは、どういう意味?

――必ずしも「安い」とは思わないが、予算の関係で尺が短くなっているのではないかと思うんだ。クライマックスで、マチルダ(テクラ・ルーテン)がジャックを狙撃するが、銃か弾に仕掛けがしてあって、銃が暴発するよね。このシーン、よほどよく見ないと他から狙撃されて倒れたんじゃないかと錯覚すると思う。わしも2度見てわかったからね。

――なるほど、だからジャックが弾を作るシーンが入念だったわけか。そうすると、ジャックは、最初のシーン、スエーデンの雪のなかで襲われるシーンに出てくる殺し屋も、路地の「スウェーデン人」も、このマチルダも同じ人間から派遣されているということがはっきりするわけだ。ジャックはそれを読み、密かに反撃を仕掛けておいた。ジャックを殺そうとした人物は、すべてが失敗したので、最後に自分で出てくる。

――マチルダを演じたテクラ・ルーテンの母はイタリア人、父はオランダ人だそうだが、マチルダの雰囲気は、スパイ映画に出てくる敵方の「白人女」の典型(こういう言い方自体がそうなのだが)だね。これは、意図的な演出です。出来上がった銃の試射をしに、ジャックが人影のない場所に連れ出すシーンで、この女のサドマゾ的なところを見せる。しかし、もっと性格の悪い感じにしてもよかった。

――あそこも少し切りすぎだと思うんだが、ほかの部分の長さからすると、切りすぎというより、微妙なところを見せたいのじゃないかな? 別れるときに「ミスター・バタフライ」とマチルダが言うでしょう。この名前は、原作でもそうだが、ジャックの渾名なんですね。それは、この映画では、ジャックの背中にバタフライの刺青があるからということになっている。それは、娼婦のクララは知っている。裸を見てるから。しかし、マチルダが別れぎわにそう言うということは、試写のあと、二人がセックスをしたということを示唆しているんじゃないか。そうじゃなければ、彼の背中のバタフライは見えないから。むろん、偶然マチルダの腕に蝶蝶が停まるシーンはあったけど。

――セルジオ・レオーネの『ウエスタン』がテレビで映っているシーンが出てくるが、最後のシーンがある種の映画の典型、映画の型を意識して撮ったと思う。しかし、それならば、傷ついたわが身に耐えながら、すでに性愛を越えて愛し始めているクララに会うためにジャックが車を走らせるシーンでは、彼のアップの表情にあぶら汗ぐらい追加してもよかったと思う。まあ、ジョージ・クルンーニーでは、そういう「悲劇」性や「せつなさ」を出すのは難しいと思うけど。

(角川映画配給)



2011-05-17
★★★  ●ハングオーバー!! 史上最悪の二日酔い、国境を越える (The Hangover Part II/2011/Todd Phillips)(トッド・フィリップス)  

――今度の原発事故で、日本のメディア環境というのはどうしようもないということがわかったけど、こういう映画を配給するのは大変ですね。今度の事故で、日本のテレビや新聞が東電とその配下の組織によって古典的なまでにコントロールされていることが暴露した。こういう環境下では、この映画のタイトルがずばり「薬で行っちゃてる」という意味だと明示するのはためらわれるでしょうね。

――前回の『ハングオーバー! 消えた花ムコと史上最悪の二日酔い』のときは、ビールにドラッグを混ぜたんだから、「二日酔い」でも許容できたけど、今度は、海岸でビールを飲みはするが、4人がぶっ飛んでしまうのは、またしてもアラン(ザック・ガリフィアナキス)が仕込んだドラッグ入りのマシュマロが「元凶」ですよね。

――前回と同様に「デイトドラッグ」の「ロイプノル」(rohypnol) を使った。「ルーフィーズ」(roofies) とも言うね。医薬名は「ベンゾダイアザピン」(benzodiazepine)と言うそうだが。プレスにはこのぐらいの基礎知識は出してほしいね。「酔っ払って・・・」というような解説が多いけど。こんなこと書いたからって、圧力かけられるわけじゃないでしょう。

――いや、原発のメルトダウンも潰しちゃった風土だから、わかりませんよ。配給とめられたりするかも。現に、『ヒアアフター』も『4デイズ』も上映中止になったくらいだから。まるで「戦中」みたいだ。

――パート2になるとつまらなくなることが多いが、予想以上に面白かった。悲劇が二度くりかえすと喜劇になるというが、前作で使われたセリフがちょっと出てきただけで、笑いが起こった。

――フィル(ブラッドリー・クーパー)が奥さんに電話していて、「We fucked up」というシーンで笑いがこみ上げる。このセリフを言うブラッドリー・クーパーが実にいいね。

――独身最後を無礼講で楽しむという「バチュラー・パーティ」、目覚めた場所が今度はバンコックのホテルで、アランの頭は丸刈り、スチュー(エド・ヘルムズ)の顔には刺青、今度は赤ん坊じゃなくてサルがいる。前夜にセックスをやりまくり、ぶっとんじゃったのは同じ。

――ただし、今回のケンチョンは、つまらなかった。前回はボンネットのなかから素っ裸で飛び出して来るという瞬発の演技で笑わせたが、今回はしゃべりすぎだ。

――ケンチョンは、竹下大阪府知事ににてるね。あの飛び出し演技は受けたからまた使うなと思ったら、やっぱり使った。しかし、氷のボックスから飛び出したのは笑えなかった。

――アランの偏屈ぶりというか「クレイジーぶり」というか、今回、それがまえより強調されている。豪邸に住んでるんだけど、完全に「ヒキコモリ」状態。ヒキコモリは、いまアメリカでも一つの症候群になっているが、アランはその典型だ。

――前回のラスベガスからタイのバンコックに場所を移したのは、薬物に対する厳格な法規制があるにもかかわらず、ゴールデン・トライアングルをひかえて、薬物が手に入りやすい、仏教徒のモラルと外国人観光客の無礼講といった極端な飛躍を使いたかったからだろうね。

――日本公開じゃ切るらしいが、本格的な「シーメール」(Shemale)が一物をさらすシーンがある。スチュが知らずに一夜をあかしてしまった相手。実に笑える。

――「沈黙の誓い」をしてしまって、一言もしゃべらない坊さんも愉快だった。しかし、スチューの婚約者の父親のセリフやしぐさは、かなりレイシズムを感じるな。

――いや、「バチュラー・パーティ」にしたって、いまのアメリカじゃ、一般には通用しないわけで、この映画は、タブーを露悪的に出して、笑わせようとしているんだよ。ドラッグだって、「真面目な」アメリカ人への嫌味だし、いまの「品行方正」になりすぎたアメリカ人を笑ってるんだ。そこが面白い。 (ワーナー・ブラザース映画配給)


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