粉川哲夫の【シネマノート】 
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今月気になる作品

★3/5  アンストッパブル (サスペンスの定石ないしはクリシェを活用して楽しませる。その昔、NYで、ウイスキーのボトルをあおりながら地下鉄を運転している運転手を見たが、この事故の発端を作る乗務員のいい加減さは、見もの)。
★3/5  しあわせの雨傘 (←ウェルメイド・コメディ)。
★2/5  スプライス (B級ホラーとしての見せ場は豊富。が、エイドリアン・ブロディがこんな映画に出ていいのかね?)。
★3/5  ソーシャル・ネットワーク (←ここで書いているほど「つまらない」わけではない)。
★3/5  愛する人 (←「女」のとらえ方が古すぎるが、出演者はみないい演技)。
★4/5  ヤコブへの手紙 (準備中→カーリナ・ハザードは相当ネジケタ女を熱演するが、もっとネジケタままでもよかった)。
★3.2/5  完全なる報復 (←最後に「安全」なオチをつける必要はなかった)。
★2.8/5  グリーン・ホーネット (←3D効果は安く、設定も安いが、まあまあ楽しめる。ジェイ・チョウが演じるKato[日本では「カトー」、映画では「ケイトー」]は、かつてテレビシリーズで段々力をつけていくブルース・リーとくらべても、最初としてはかなりいい)。
★4/5  ソウル・キッチン (準備中→音楽もすばらしい)。
★2.5/5  デュー・デート 出産まであと5日!史上最悪のアメリカ横断 (←『ハングオーバー!』の二番煎じ)。
★4/5  フード・インク (ネスレなどのグローバル食品産業の主が何を考えているか、ありていの批判を加えずに撮る姿勢が鋭い)。
★3.8/5  RED/レッド (←「雑日記」の短評)

今月のノート

マーラー 君に捧げるアダージョ   シリアスマン   グリーン・ホーネット   神々と男たち   ザ・タウン   アレクサンドリア   悪魔を見た   洋菓子店コアンドル   トゥルー・グリッド   ブラック・スワン  


2011-01-28
★4/5 ●ブラック・スワン (Black Swan/2010/Darren Aronofsky)(ダーレン・アロノフスキー)  

◆いずれアカデミー賞候補作品については予想を書きたいと思うが、本作は、おそらく『英国王のスピーチ』と最後まで作品賞・主演賞をあらそうであろう。【追記:→アカデミー賞予想専用ページ】作品の質としては『英国王のスピーチ』のほうが上だが、主演(ナタリー・ポートマンとコリン・ファース)の熱演ぶりは互角ないしは上である。また、本作には、メロドラマ的な泣かせの要素だけでなく、スリラー的な要素、クライマックスに向けてアップテンポで急行する有無を言わせぬリズムがあり、アメリカの観客には受けるはずである。
◆バレリーナのニナ(ナタリー・ポートマン)は、厳しい競争と芸術監督(ヴァンサン・カッセル)の暴力的なまでの注文に追いつめられ、プレッシャーをつのらせていく。ポートマンは、10ヶ月まえから準備し、「バレリーナ」的な体を作るために20ポンド減量した。撮影中には靭帯を切ったり、肩を脱臼して数週間撮影を中断せざるをえないということもあった。そういう苦労もすべて演技のなかに取り込んだかのように、ブチ切れそうな糸のような緊張と内的な苦しみの演技を見事にこなしている。
◆あえていうならば、自傷症的な状態に陥るニナが、次になにをしでかすかという恐れを観客にいだかすスリラー的シーンが頻発するので、全体のトーンが落ちるきらいがないでもない。が、そう感じはじめると、すぐにそれを彼女の幻想であるとみなせるシーンに切り替えるなど、決してマンネリには陥らない。幻想やパラノイアのシーンは、彼女のプレッシャーの強さをうまく表現している。なんらかの形で公演という場に身を置いたことのある者には、身につまされるところが多い。
◆ヴィンセント・カッセルが演じる芸術監督トーマス・ルロイのモデルは、セクハラもいとわない(普通の意味ではセクハラ)。このモデルは、ニューヨーク・シティ・バレーの創設者の一人でもあるジョージ・バランシンだという。ただ、演劇でも映画でも同じだが、身体が直接かかわる行為を指導する者は、弟子の体に触れないわけにはいかないし、その点でルロイがやることは、むしろおとなしく、悪名高いバランシンなどより「紳士的」である、とわたしは思いますが。
◆4~13歳までバレーの練習をしていたというポートマンで、映画はまるで彼女がすべてを自分で演じているかのように見えるが、映画は映画であり、実際には、彼女の身ぶりの一部と、プロのバレリーナ、アメリカン・バレー・シアター (ABT) のサラ・レーンの踊りとをたくみに組み合わせているという。
◆ニナの神経をいらだたせる存在として、ミラ・クニスが演じるリリーという、背中にタトゥを染め、ひとを食った感じのバレリーナがいる。彼女は、「純真」なニナをレズ的手管で悩ましたり、ドラッグやアルコールに誘う(いざなう)女メフィスト的な役割を演じる。そのシーンの多くは、ニナの被害妄想的なパラノイアともとれる両義的な描き方がされる。ねちっこい演技をしたたかにこなすミナ・クニスだが、バレーのほうは、やはりABTのマリア・リチェットが代役を演じている。なお、集団のダンスシーンには、ペンシルヴァニア・バレー・カンパニーのダンサーが多数出演している。
◆この映画には、久しぶりにウィノナ・ライダーが出演していて、嬉しかった。2001年に万引きとドラッグの保持の嫌疑で逮捕されたことによって、それまでの圧倒的なまでのスター性にかげりが出た。その後も映画出演がとだえたわけではないが、本作で彼女が演じているベス・マッキンタイアというバレリーナは、ウィナノの現在の状況と暗黙に関連しあっており、彼女がどういう心境でその役を演じたのかが想像できる。ベスは、ロイのバレー団でトップのバレリーなだったが、年令とアル中問題とで切られる。そして、その鬱積のなか、交通事故の怪我でバレリーナとしての生命を絶たれる。役を切られたときのシーン、急上昇するニナへの嫉妬を露骨に示すシーン、彼女の不幸に複雑な責任を感じてしまうニナがベスを病院に訪ねるシーンの彼女の呪詛(じゅそ)の表情と身ぶり。これは、ウィノナ・ライダー自身が、(すでに克服しているのだろうが)体験したものとどこかで重なる。その迫真的演技は、彼女の転機を暗示しているのかもしれない。そう願いたい。
◆雰囲気が「バレー業界」の人っぽい感じに作っているでので最初誰かわからなかったが、ニナのステージママ的母親を演じているのは、あの大女優バーバラ・ハーシーである。彼女の映画は、スコセッシが監督した『明日に処刑を・・・』 (Boxcar Bertha/1972) から見ているから、なかなか「母親」役というのにはなじめない。が、自分自身が一流のバレリーナで、舞台監督と恋仲になり、ニナを産み、一線を退いたという過去をちらりと明かし、娘の自分の夢を託すステージママと、プレッシャーに壊れそうになる娘を見る母親との屈折したキャラクターを見事に演じている。アカデミーの助演女優賞候補にならなかったのは残念だ。
◆トレイラーで見えるので書いてもいいと思うが、ニナがプレッシャーが嵩じて目が充血したかのように真っ赤になるシーンがある。これは、充血したとしえ受け取ることもできるが、そもそ「ブラック・スワン=黒鳥」の目が赤いことと関係があるのではないか? ニナは、監督のトーマスが最初に言ったように、「純真」な「白鳥」を踊ることはできるが、悪魔的要素を象徴する「黒鳥」のダンスができない。彼女の目が赤くなるのは、ニナが、はじめて悪魔的要素を身につけるシーンである。スタイリッシュな作りのことの映画では、こう考えるのが順当だろう。
(20世紀フォックス映画配給)



2011-01-26
★4/5 ●トゥルー・グリッド (True Grid/2010/Ethan Coen+Joel Coen)(ジョエル・コーエン+イーサン・コーエン)  

◆非常に完成度の高い仕上がりだ。この作品は、1969年に、同じ原作(チャールズ・ポーティス)にもとづいてヘンリー・ハサウェイが映画化している(邦題『勇気ある追跡』)が、主演のジョン・ウェインにアカデミー賞をもたらしたとはいえ、全体としてはだらだらして退屈な作品だった。本作のような迫力がない。ション・ウェインは、マティ・ロス役のキム・ダービーの演技に不満で、原作に惚れ込んでの出演にもかからず、成功作とは考えなかったらしい。彼の不満は、本作によって40年ぶりに完全に満たされたとも言える。
◆69年版には、10年後に「大スター」になるデニス・ホッパーやロバート・デュヴァルが出演している。ちょっと比較表を作ってみた。
ルースター・コグバーン ジョン・ウェイン ジェフ・ブリッジス
ラビーフ グレン・キャンベル マット・デイモン
マティ・ロス キム・ダービー ヘイリー・スタインフェルド
トム・チェイニー ジェフ・コーレイ ジョシュ・ブローリン
ラッキー・ネッド・ベッパー ロバート・デュヴァル バリー・ペッパー
ハロルド・パーマリー ジェイ・リプリーン ブルース・グリーン
ムーン デニス・ホッパー ドムナル・グリーソン

◆本作は、表面的には69年版をかなり踏襲しているが、映像のトーンやリズム、細々した身ぶりが異なることは言うまでもない。決定的なちがいは、本作が、40歳になったマティ(エリザベス・マーヴェル)のナレーションで始まり、その「現在」で終わる――つまり観客の目のまえで「現在」進行する映像の背後に確たる「過去形」が隠されている――という形式で作られている点である。
◆撮影技術との関係があることはむろんだが、69年版は、もっぱら昼間のシーンであるのに対して、本作には、夜のシーンが多い。ヘイリー・スタインフェルドは未成年なので、夜の就業許可が降りず、撮影には苦労したらしいが、それまでして夜のシーンを多くしているのも、コーエン兄弟が意図した「時間性」との関係があると考えてよい。
◆いま見れば、過去の多くの映画がそうだが、69年版のトーンは、あっけらかんとしているのに対して、本作は、ぼんやりした映像、どこまでも果てしなく続く遠景を映すロングショットなど、その奥行の深さが、多くのことを想像させ、想起させる。69年版にはそういうところはない。完全に格が違うという感じがする。
◆69年版では、最初にマティの「平和」な家族と父親の存在を印象づけ、そののちに、最初から「悪党」とわかるチェイニーに父親が殺されるという始まり方をする。これにに対して本作は、暗闇の路上に横たわっている死体らしきものを見せるだけで、次の瞬間、列車でどこかへ向かうマティ(ヘイリー・スタインフェルド)の姿がある。最初のシーンと彼女の行動の意味は、あとからわかるように仕組まれている。つまり、観客は、いま「現在」の映像に対して先行する位置に置かれるのである。
◆もう一つ大きな違いは、コグバーンがつけているアイパッチが、69年版ではジョン・ウェインの左目に着けられいたのだが、本作ではジェフ・ブリジスの右目の着いている。ジョン・ウエインはジョン・フォードへのオマージュとして左目に着けたという説がある。ジョン・フォードを尊敬する意味ではコーエン兄弟もそうであるはずだが、ではなぜ、アイパッチの位置を変えたのか? 左目で見るということは、左をよしとすること――つまり「右」より「左」、「右翼」よりも「左翼」――である。ジョン・ウエインは、生前、「右翼」的な姿勢を変えなかった。その意味では、彼が左目を覆ったことは、ジョン・フォードへのオマージュよりも、「左」を黙殺するという点で、一貫したやり方だったとも言える。ちなみに、69年版の脚本を書いたマーゲリット・ロバーツ (Marguerite Roberts 1905?1989) は、共産党員であり、赤狩りでブラックリストの載せられた人物だったので、ジョン・ウェインの周囲は彼にそのことを忠告したらしい。が、彼は、スクリプトが気に入り、意に介さなかったという。時代も60年代の激動の時代であり、ウェインも時代を読んだのだ。
◆映画のなかで「チェイニー」の名前が出るたびに、わたしは、G・W・ブッシュ政権で「史上最悪の副大統領」をやったネオコン政治家ディック・チェイニーのことを思い出さざるをえなかったが、綴りを調べると、映画の「チエイニー」→ Chaney、政治家の方はCheneyで、1文字だけ違うのだった。しかし、英文のネット記事を検索してみると、この映画の悪党チェイニーをディック・チェイニーに引っ掛けて笑っているものがけっこうあるのだった。実際、ディック・チェイニーは、狩猟中に銃で他人を撃ってしまい、重症を負わせたことがあるが、刑罰は逃れた。また、彼が政治家の特権を利用して行なった悪事は数知れずというので、マティのような「純真」な人間が悪党の罪を最後まで追求し、懲罰を加えるというテーマにはうってつけなのである。これは、コーエン兄弟よりも、むしろ製作総指揮のスピルバーグの好む冗談かもしれない。 (パラマウント ピクチャーズ ジャパン配給)



2011-01-24_1
★4.2/5 ●悪魔を見た (Akmareul boatda/I Saw the Devil/2010)(キム・ジウン)  

◆韓国映画には、どのみち「哲学的身体論」とでもいうべきテーマが随伴している。それは、この国の独特の身体文化のせいだろうか? 本作は、まさにそういう面を凝縮したような作品である。ほかには、すぐに思い浮かぶものとしては、本作で殺人鬼ギョンチョルを演じるチェ・ミンシクが主演した『オールド・ボーイ』、パク・チャヌク監督の『渇き』、「殴ることの身体論」とも言える『息もできない』、『黒く濁る村"』などがある。
◆表面的には、この映画は、許婚者(オ・サナ)を惨殺されたスヒョン(イ・ビョンホン)が、殺人鬼ギョンチョル(チェ・ミンシク)に復讐――「死んだあとも苦しむ」ような――をくわえる話である。それは、ギョンチョルとスヒョンとのあいだの知能的・肉体的な闘いとして描かれるが、そこには、映像的に生々しい個々の(ホラー的なまでの)表現を突き抜けて「哲学的」「政治的」な含蓄が感じられるのである。
◆若い女を拉致し、殺すこと――とりわけ彼女に許婚者や親つまりはファミリーがいる場合――それは、その女を殺すだけではなく、ファミリーというものへの悪意ある挑戦である。ここで言う「ファミリー」とは、個々人が支えあって生きるための靭帯(じんたい)であり、かつ「国家」をささえる下部構造的要素でもある。だから、国家権力は、ファミリーをゆさぶる犯罪には厳しく対処する。ただし、この映画の場合、スヒョンは、国家情報院捜査官ではあるが、警察の捜査の一環として殺人鬼に近づくわけだはない。彼がその職にいなければ得られない情報を利用することはたしかだが、むしろこの肩書きは、捜査員として鍛えた闘争テクニックを保証するものであり、警察との関係では、捜査の邪魔をする。つまり、この映画でスヒョンが憎悪するのは、国家権力にとってのファミリーではなく、個々人の実存を保証するファミリーを危機に陥れる者に対してなのである。(このへん、日本で似たドラマが描かれると、国家的ファミリーと実存的ファミリーとがべったり癒着した形になりがちだ)。
◆ギョンチョルは、ではなぜかくまでに婦女子誘拐・強姦・惨殺に憑かれたのだろうか? 映画の後半、ブルジョワの山荘に押し入り、似たような行為を働いている男テジュ(チェ・ムソン)のところへ逃げ込んだとき、このテジュが、かつて二人は「武装集団を組んでいた」ということをちらりと言う。それは、どんな「武装集団」なのだろうか? ギョンチョルは、結婚し、10代の息子がいる。そこから推定すると、40代の初めぐらいの年令である。ケータイなどから判断して、この映画の「現在」が「いま」だとすれば、ギョンチョルは、「光州」世代である。光州については、少しまえ『光州5・18』が作られた。ある意味では、光州事件は過ぎ去った過去の出来事になっている。が、光州世代にとって、それは、機会があれば疼き(うずき)となってよみがえる。その事件がきっかけで、人生が激変してしまった者もいる。ひょっとして、ギョンチョルはとその仲間のデジュは、そんな過去を背負っているのかもしれない。
◆ギョンチョルは、なぜ殺すだけではなく、レイプしたり、虐待したり、死体をバラバラにするのだろうか? 身体とは、「ファミリー」的なものの基軸である。身体を軸にして(核家族であれギャングの徒党であれ、ファミリアーな友人関係であれ)さまざまな「ファミリー」がひろがっている。そして女性は、子供を宿し、生むことができるという点で、その身体のなかに「ファミリー」的機能を内包している。身体を否定することは「ファミリー」を否定することである。彼は、レイプによってジェンダーを否定し、四肢のそろった「個」としての身体存在を否定する。スヒョンの許婚者が、「お腹に子供がいる」と懇願するが、ギョウンチョルにとって、それは、彼の殺害意欲をかきたてる。妊娠した女性は、その「ファミリー」的機能を明白にした存在であり、それは彼にとって否定されるべき存在だからである。だから、「ファミリー」的なものを生む身体をバラバラの肉塊に分断し、最終的に「ファミリー」の基軸そのものを殲滅(せんめつ)するわけである。
◆そういう行為をつづけるギョウンチョルに対するスヒョンの「復讐」は、ギョンチョルの行為とは正反対のベクトルを持つ。最後のシーンについての詳細は省かざるをえないが、ギョンチョルの「最期」に自分の親、子供を立ちあわせる(ないしは加担させる)ことによって、ギョンチョルの行為は、「ファミリー」から切り離されるどころか、逆に「ファミリー」によって記憶され、子供の世代にまで影響を残す。これは、ギョンチョルが否定した「ファミリー」を倍化して生き延びさせることにほかならない。しかし、そういう形でしか存在しえない「ファミリー」とは何であろうか?
◆近代の歴史は、「ファミリー」を利用しながら、それを否定する歴史だった。「個」で済ませるジェスチャーをしながら、「ファミリー」という妥協のパラメーターを駆使しなければならない歴史だった。どのみち相互に依存している「ファミリー」と「個人」との関係を、「個人」を中心に偽善的に再構築しようとする歴史。そのつけが、さまざまな「ファミリー」否定の現象である。そしてその意味ではギョンチョルは、「ファミリー」の否定を誇張し、ややグロテスクに表現しているにすぎない。また、そういう「個」と戦うスヒョンは、「個」しかないかのように振舞う(これまた矛盾した)「個」を攻撃することによって「ファミリー」をわずかに延命させるが、そこに生き残る「ファミリー」は、呪われたファミリー以外の何ものでもない。
◆韓国の現在だけでなく、近代という時代の基本動向と切り結ぶ含みを持った力作である。
(ブロードメディア・スタジオ配給)


2011-01-20_1
★4/5 ●ザ・タウン (The Town/2010/Ben Affleck)(ベン・アフレック)  
Here
◆役にもよるが、ベン・アフレックは、俳優としてときおり「マヌケ」な表情を見せる役が多いような気がするので、監督などとてもつとめられないという印象を持つ。ところがどうして、2007年には初監督の『ゴーン・ベイビー・ゴーン』(Gone Baby Gone)で、ボストンのワーキングエリアを舞台にしたコップストーリとしても、失踪した少女が帰還するまでの屈折したヒューマンドラマとしても文句なしの作品を作り、数々の賞を獲得した。そして、今回、同じボストンを舞台に、ファーストクラスのギャング映画を作った。端倪(たんげい)すべからざる才能である。ちなみに、本作では、俳優としてもシェイクアップした姿で登場し、「マヌケ」な表情はほとんど見せない。
◆ベン・アレックスの演出は、ハリウッド映画の型をしっかりと把握し、積極的に「クリシェ」を活用するところにあると思う。だから、本作の銃撃シーンとか、ラブストーリー的側面とかを取り上げて、「ありえない」というような批判を加えるのは的はずれなのだ。彼は、他の作品の引用と誇張的(発展的)応用を恐れない。その意味では、ベン・アレックスは、監督としては、極めて「職人」的なのである。
◆人質に取った支店長のクレア(レベッカ・ホール)を解放したあと、ベン・アレックスが彼女に近づくくだりがある。強盗をしたときは、髑髏(どくろ)の仮面をつけていたので、彼女は強盗たちの顔を知らないという設定。その結果は、十分に予想がつく。彼と彼女とのあいだにロマンスが生まれるだろう。そして、いずれは素顔を見せなければならない瞬間がくるだろうと。しかし、だからといって、「先が読める」などと言ってはいけない。ベン・アフレックが出る以上、『偶然の恋人』を思い出さざるをえない。そこでは、空港で知り合った相手に好意で与えた切符のせいで飛行機事故の犠牲者となったことを苦にしたベン・アフレックが、その人の妻(グウィネス・パルトロウ)に、あたかも偶然であるかのように近づく。このグウィネス・パルトロウと、本作のレベッカ・ホールのそれとは、「引用」関係をなしている。
◆『偶然の恋人』は、シャバの世界の話であり、登場人物はフツーの人たちである。が、ラブストーリーの部分の類似性には、ただ型を真似ただけというよりも、『偶然の恋人』がもつ「罪のあがない」的な要素を「引用」していると見たほうがいい。わたしは、そういう面(つまり銀行を襲い、人質に取り、心に深い傷を負わせた相手への「罪のあがない」)がこれ以上強調さらなかったのをよしとするが、監督ベン・アフレックとしては、そういう面への執着があったような気がする。この映画は、最初、4時間を越える長編になってしまったとのことで、カットされた部分は、DVDとブルーレイディスクに収められるという。この4時間バージョンでは、そういう面が強くなっているのではないか?
◆映画には映画内の「内在的リアリティ」があり、既存のリアリティがそれに従うという形ですべてが進む。この映画が、ボストンのチャールズタウンを舞台にしているといっても、この街がこの映画が描くように、銀行強盗が頻発し、犯罪が親から子へ継承されているようなところだということにはならない。それよりも、この映画のなかで、それがいかにも「もっともらしく」ように見えてくることが映画としては重要なのだ。オープニングに出る「ボストンには、世界のいかなる場所よりも多く銀行強盗と自動車強盗が発生するエリアがある」というテロップは、催眠術の懐中時計のようなものだと考えたほうがいい。なお、銀行強盗多発地帯としてチャーズルタウンが有名になったことはあったらしいが、いまだにそうかどうかという点については、ネットでもいろいろと議論されている
◆冒頭、ダグ(ベン・アフレック)、ジェム(ジェレミー・レナー)、スレイン(アルバート’グロンジー’・マグローン Albert 'Gloansy' Magloan)の3人が銀行を襲い、支店長のクレア(レベッカ・ホール)を人質にして逃げるとき、漂白剤を撒く。銀行強盗が実際にこんなことをやるかどうかよりも、含有物の塩素がDNA鑑定を難しくする殺菌効果があるという観念を映像化して、説得力を持つ。また、監視カメラの映像を記録したハードディスクを次々にマウンターからはずし、電子オーブンに入れるのも、データの消去のやりかたとしては、説得力がある。
◆カーチェイスのシーンも、定型を押さえながら、職人芸的にしっかりと仕上げている。ガンショットのシーンも、あんな狭いところで「AK-47」や「AR-15」のようなハードな銃を持ち込んで乱射したら、もっと人が死ぬはずだとかいう「専門的」な批判もあるが、映画の銃撃シーンは面白ければいいのではないか? というより、それは、映像による感情と意志の表現方法であり、「現実」とは関係ないのではないか? なお、最後のほうでジェレミー・レナーがFBIと応戦するシーンで、「AK-47」と「AR-15」が不自然に入れ替わるシーンがあるらしい。「らしい」というのは、わたしは気づかなかったからである。両者の違いは明らかなので、もう一度見れば、気づくだろう。
◆チャールズタウンには、かつて重刑の刑務所があり、そこに収監された囚人の家族が、刑期が終わるのを待つために移住するというようなことがあったらしい。釈放された者のなかには再犯を犯す者もいて、親子2代にわたって同じ刑務所に収監されるということもあったらしい。事実はわかないが、チャーック・ホーガンの原作(『強盗こし、われらが宿命』)は、そういうパターンで物語を構築した。映画のなかで、ダグが収監されている父親に面会に行くシーンがある。父親を演じているのが、ちょい役ながら、クリス・クーパーで、終身刑に処せられ、決して「模範囚」ではないスネ切った老囚人を演じて、存在感がある。
◆2時間以上のフッテージがカットされたことは、クリス・クーパーだけでなく、それぞれに力のある俳優を起用しながら、出演シーンが短すぎるという印象を受けることでもわかる。その最たる例は、ジョン・ハムが演じるFBI特別捜査官フローリーのシーンだ。現行バージョンでは、ダグたちを追うだけの脇役あつかいになっているが、その表情のひとつひとつが、ただの脇役ではない意味深さをたたえている。とりわけ、捜査のために会うクレア(レベッカ・ホール)やジェムの妹のクリスタ(ブレイク・ライブリー)との各シーンにそれを感じる。バーでフローリーがクリスタにFBI捜査官の素顔を明かすシーンのやりとりには、二人が寝ていることが省略されているような気がする。いずれにしても、ジョン・ハムもブレイク・ライブリーも、いい演技をしている。
◆この映画で最も強烈な印象を残すのは、ジェレミー・レナーである。『ハート・ロッカー』で彼が演じた爆破処理の軍曹から「人間味」を取り去ってしまったあとに残る冷血なキャラクター。すでに人を殺して重い刑に服したことがある。人を殺すことに抵抗を感じない。強盗を働いて、捕まることも恐れない。ある種のパラノイアのように犯罪を続ける。仲間意識は強く、この世界に半分嫌気がさしてくるダグの「脱落」を許さない。ギャング映画には不可欠のキャラクターだ。
◆表向きは花屋だが、チャールズタウンの闇世界を、ダグの父親の時代から仕切っている薄気味悪い男を演じているのは、ピート・ポスルスウェイトだ。イギリスのワーキングクラスの雰囲気をただよわせる名脇役。残念ながら、この作品と、近々イギリスで公開される『Killing Bono』が最後の出演作となった。 (ワーナー・ブラザース映画配給)


2011-01-14
★2.8/5 ●グリーン・ホーネット (The Green Hornet/2011/Michel Gondry)(ミッシェル・ゴンドリー)  

◆3Dだが、あまり効果は出ていない。重くて、(使いまわしているせいか)ベトベトするメガネがうっとおしいのと、メガネをかけると画面の照度がかなり落ち、暗くなってしまうので、要所だけ掛け、あとはメガネなしで見た。3Dになると、画面が二重に見えるが、あまり気にならなかった。二重になったらメガネをかけ、立体の具合を見るというあんばい。なぜか、カーチェースのシーンでの3D効果は、全然よくなかった。とにかく、3Dの必要がないという例を提供している。
◆映画技術に強い知り合いによると、本作は、3Dで撮ったのではなく、2Dで撮り、それを3D化した「ポストコンヴァージョン」3Dだという。そして、そういう点では、低コストで非常にいい仕事をしており、今後ポストコンバージョン化の技術が進むならば、この方法の初期の「成功例」になるかもしれないという。
◆ベースに、若きブルース・リーが出演していたテレビシリーズがあることはいうまでもない。そこで、DVDで1966~67年にABCで放映された映像をチェックしてみたのだが、いま見ると、意識のなかで神話化されていたブルース・リーが意外におとなしいのだった。YouTubeでは、そのカッコいい「例外」ばかりがアップされている。いま見ると、「例外」を除くと、やはり「白人」に一歩身を引いている。彼のマーシャルアーツの本領が発揮されるのは、敵がアジア人のときや、「悪」として申し分ない「白人」のときで、いつもあの調子でやっているわけではない(全部見たわけではないのだが)。とにかく、スターになったときのブルース・リーとは大分ちがう。
◆今回のバージョンで「カトー」(日本では「Kato」をローマ字読みしてこう発音・表記するが、映画のなかでは「ケイトー」である)を演じるジェイ・チョウは、悪くない。ブルース・リーよりいいかもしれない。が、このへんには時代の係数が関わる。ブルース・リーがテレビーシリーズに出ていた1966、7年という時代といまでは、アメリカにおけるアジア人のあつかいが全然ちがう。差別はあるが、アジア人俳優が胸を張って働く環境は確実によくなっている。ブルース・リーが実力を持ちながら、どこかで一歩も二歩も引き、黒人でいうところの「アンクルトム」的姿勢を取り、ヴァン・ウィリアムズが演じるブリット・リードを立てていた。これが、本作では、全くちがう。むしろ主演はジェイ・チョウなのだ。
◆ジェイ・チョウは中国語の音楽圏ではすでにポップスターらしい。この映画のエンディングで使われている「ヌンチャク」というテーマソングを歌っているのも、彼。YouTubeにその映像があるが、なかなかかっこいい。こういう、ある種「ヒキコモリ」系の表情の俳優やタレントが、これから売れるのだと、わたしは思う。
◆カトーが全面に出て、ブリット・リードが、どちらかというとボケ役であるというのは、いまのアメリカでは受ける。脚本も書き、制作総指揮もし自ら演じているセス・ローゲンは、このことを百も承知だ。まさに、『40歳の童貞男』のときと同じやりかたである。自分の製作する作品でバカ役を演じられるのは、したたかな奴に決まっている。
◆ジェイ・チョウは、『王妃の紋章』で第2王子・元傑(ユエン・ジェ)を演じていた。 この映画のなかで一人「正義」を抜く役で、最後は、捕らえられて自決する深刻な役柄だった。アクションも悪くはなかったが、ちょっと少年気が抜けていない顔が、チョウ・ユンファとコン・リーの「貫禄」のまえではまだ浮いていた。
◆ブリット・リーは、バカ息子であるが、「偉大」な先代を無駄にしない方法を知っている。ストーリーが進むにつれて、親父もただ「偉大」であっただけではなかったことがわかる。そういうことを知るのも、ひとつの方法かもしれない。
◆ストーリーが相当進んだところでいきなりキャメロン・ディアスがあらわれる。このひとは、もともとオバカ映画が好きだが、なぜか、この出現の瞬間、わたしは、キャメロン・ディアスのそっくりさんかと思ってしまった。話がオバカ路線で進んできたので、いまさら「大物」の登場でもあるまいと思ったのだ。ディアス自身は、レノアという――面接にやってきて、秘書の職を得る――役をノリノリで演じる。これも悪くない。
◆オープニングは、すでに新しいタイプのギャングの時代になっているが、そこに「従来型」のギャングのチェドノフスキー(クリストフ・ヴァルツ)があらわれ、洒落たネクタイ姿のニューウェーブギャングを撃ち殺す。このとき、新がヴァルツに向かって、「黒づくめじゃなくて、もっとカラフルなかっこうをしろよ」というところがよかった。クリストフ・ヴァルツは、今度は「ロシアマフィア」だ。『インゴロリアス・バスターズ』で「ナチのドイツ人」のパターンを真面目に演じなければならなかったが、今度は、気楽にパターンを演じていて、楽しめる。
(ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント配給)


2011-01-13
★3.8/5 ●シリアスマン (A Serious Man/2009/Ethan Coen+Joel Coen)(ジョエル・コーエン+イーサン・コーエン)  

◆冒頭にユダヤのフォークロアの「Dybbuk」(悪霊)にもとづく寸劇が置かれているのが実に印象的だった。コーエン兄弟の映画製作のバックにイーディッシュ(東方ユダヤ)の伝統があったことを彼らがみずから提示しているからである。まさに「そうだったのか」である。彼らがユダヤ的なバックグラウンドを持っていることは知っていたが、彼らがそれをどの程度意識し、映画に使っていたのか、そしてその直接の参照点が何だったのかは、これまではっきりしなかった。彼らが、これまで「ディブック」に取り憑かれた人間たちを描いてきたと考えれば、実にすっきりする。この映画は、その意味で、ジョエル・コーエンとイーサン・コーエンの「詩と真実」なのである。
◆わたしは、かつてカフカを研究するなかで彼がイーデュッシュ演劇の影響を受けたことを知り、初めてイーディッシュ演劇のことを知った。そして、その腐れ縁でニューヨークくんだりまで研究に行ったのだった。イーディッシュ演劇のなかでは、「ディブック」は欠かせない。古代ユダヤに端を発するこのテーマは、魂が取り憑くという点でドラキュラ伝説などとも接点があるらしいが、有名なのは、S・アンスキー(S. Ansky、本名は Shloyme Zalmon Rappaport) が1914年に発表した「Der Dibuk/The Dybbuk」である。これは、やがてイーディッシュ演劇のスタンダードとなり、アレンジも含めてさまざまな形で上演されてきた。1920年代には、当時イーディッシュ演劇が全盛だったニューヨークで、モーリス・シュウォルツが演出し、現代演劇とミュージカルに深い影響をあたえた。
◆コーエン兄弟がデュブックのフォークロアとイーディッシュ演劇としての「The Dybbuk」を意識している証拠は、この映画のプロローグのラビ(実は「悪霊」)役にフィヴッシュ・フィンケル(Fyvush Finkel)を起用していることだ。彼は、ニューヨークのイーディッシュ劇場が凋落するまでイディッシュ劇場の俳優であったし、ブロードウェイ舞台『屋根の上のバイオリン弾き』でまず宿屋の主人、次に肉屋、最後にテヴィエ(ゼロ・モステロの死後か?)を演じた。ちなみに、『屋根の上のバイオリン弾き』は、ショーロム・アレイヘェムのイーディッシュ戯曲にもとづいており、ジェローム・ロビンスがブロードウェイ・ミュージカルにアレンジするはるかにまえからイーディッシュ劇場のスタンダードナンバーだった。フェインケルは、クリーブランドのイーディッシュ劇場で長いあいだ俳優をしていた
◆プロローグで「悪霊」にだまされる夫を演じるのは、アレン・ルイス・リックマン(Allen Lewis Rickman)だが、彼は、コーエン兄弟によって書かれた英語のプロローグをイーディッシュ語に翻訳したという。妻役のイェレナ・シュミュレンソン (Yelena Shmulenson) も、「次世代のためのイーディッシュ劇場」というサブタイトルのある「New Yiddish Repertory Theater」の創立メンバーの一人である。要するに、コーエン兄弟は、プロローグを完璧にイーディシュ演劇のスタイルで撮ったのである。
◆イントロが終わると、ヘブライ語のクラスで後方の席にすわる生徒がポータブルラジオのイヤホーンでジェファーソン・エアプレインの「Somebody to Love」を聴いているシーンになる。このレコードがリリースされたのが1967年ということで、この映画の時代設定が暗示されるというのが、ありきたりの法則だが、まあ、時代は1960年代から70年代の初めにかけてととればいいだろう。クラス風景は、ユダヤ系の子供が行く学校のヘブライ語クラスで、ユダヤキャップをかぶった老教師が黒板にヘブライ文字を書いているが、生徒は退屈しきっている。ヘッドフォンの生徒は、ダニー・ゴプニック(アーロン・ウルフ)で、その後姿をあらわす大学の先生ラリー・ゴプニック(マイケル・スタールバーグ)の息子だ。
◆アメリカは多民族社会だというが、時代と場所によって各少数民族(エスニック・ピープル)同士が排他的に固まる傾向もある。彼らのなかでも、正統派のユダヤ人はその傾向が強い。ゴプニック家は髭をのばし、黒い衣装を身につける正統派ではないようだが、子供はユダヤ系の学校に入れているから半正統派ぐらいなのだろう。ユダヤの儀式はきっちりまもので、子どもにとっては、ユダヤの成人式「バール・ミツバ」はないがしろにはできない。この映画は、ダニーがその式を終え、親たちがほっとするところで終わりになる。しかし、その直後に(アメリカ中西部に特有の)龍巻きが近づき、まだまだ多難であることを暗示してこの映画は終わる。
◆1960年代の末といえば、アメリカの都市部では、造反や混乱が高まりつつある時代だったが、この映画の舞台の中西部のミドルクラスの町は変化のない時間が流れていくような退屈さに包まれている。ウディ・アレンが描いたブルックリンのユダヤ・ファミリーとはちがい、その環境は一見「ユダヤ」的ではない。隣家に住むのも非ユダヤ人であり、ニューヨークのウィリアムズバーグ地区の正統派ユダヤ人のように、ユダヤ人だけで固まって住んでいるわけではない。が、イントロのイーディッシュ演劇的環境(ユダヤ人の住むシュテットル)がそうであるように、へんてつのない環境のなかでとてつもないことが起こる。ユダヤ的イマージネイションは、つねにダイナミックで、常識を越えるので、どんなに平凡退屈な場所でもタダでは済まないということだ。
◆平凡そうな大学教師ラリーの周囲も決して平穏ではない。大学では、金持ちの韓国人留学生が単位がほしいといって大金を置いていく。賄賂をもらいたくないラリーはあわてる。息子のダニーは、教室でラジオを没収され、校長室に呼ばれる。それよりも、ゴプニック家の最大の問題は、ラリーの兄アーサー(リチャード・カインド)が居候していることだ。彼は、相当の「ヒキコモリ」で変態ですらある。そんななか、ある夜、妻のジュディス(サリ・レリック)がいきなり別れ話をしだす。「てんやわんや」という日本語は、最近はあまり使われないが、ゴプニック家も、ユダヤ文化のなかにある「てんやわんや」から逃れられないのだ。ちなみに、「てんやわんや」とは、「てんでん」(各自勝手に)「わやわや」(無茶苦茶)の意味である。ユダヤ的「てんやわんや」は、チャプリン的スラプスティックからシュールレアリズムの飛躍、カフカの超飛躍的なフモールをも包含するテイストでもある。
◆コーエン兄弟にとって、こうした「てんやわんや」こそが、彼らのイマージネイションのエネルギーになっているのだろう。この映画の登場人物たちは、どいつもこいつも、「ユダヤ系」というよりも、どこか調子が狂っている。狂っているというよりもオフビートである。その最たる人物がアーサー伯父さんだが、単位を上乗せしてくれと言ってくる学生も実におかしい。妻の恋人のサイ・エイブルマン(フレッド・メラメッド)にしても、「普通」ではない。ウディ・アレンの「ユダヤ人」たちは、たいてい「ユダヤ人」ぽい姿で登場するが、この映画の「ユダヤ人」は、「普通」のアメリカ人のように見えて、そうではないところがおかしい。しかし、彼らの目からすると、「平均的」アメリカ人は、もっとワイルドで恐ろしい――潜在「ナチ」である。狩りが好きな隣家の男ミスター・ブラント(ピーター・ブイライトマイヤー)――役柄も俳優もドイツ系――と息子がそういう典型として描かれる。
◆ラリーが困難に直面するたびに、その相談役として複数のラビが登場する。ラビ(英語の発音は「ラバイ」)は、ユダヤ教の僧侶であり、ユダヤコミュニティの相談を一手に引き受ける。この時代はまだだが、いまでは女性のラビもいる。が、基本的にユダヤ社会(少なくとも「ユダヤ」を捨てた「セキュアー」なユダヤ人を別とする、ユダヤ性を意識するユダヤ人の社会)では、男性優位であり、その父性を統括するのがラビである。そして、そうしたラビのなかには、宗教的な権威性の強いラビもいれば、世才に長けたラビもいる。そのへんが、実にユーモラスかつシニカルに描かれている。
◆ユダヤ文化のなかには、「法螺話」の伝統とでもいうものがあり、その現象形態が「てんやわんや」であり、またシュールレアリズムの飛躍ともつながっているわけだが、この映画で(この映画自体がそういう飛躍の連続だとしても)一番おもしろい「法螺話」が、歯医者の話である。イーディシュ演劇では、嘘とホントが切れ目なくつながるまさにシュールレアリズム的なシームレスネスを特徴とするが、この映画も、法螺話をホラとしては描かないところがいい。歯医者は、まことしやかに、歯のうらにヘブライ文字で「助けて」という意味のことが刻まれている男の話をし、それが単なる話としてではなく、映像として提示される。普通ではありえないことだとしても、それが起こってしまうのがユダヤ文化なのだ。
(フェイス・トゥ・ファイス配給)


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