粉川哲夫の【シネマノート】 
    
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11月公開作品星評 (5★満点/☆=0.5点)

★★★★  インモータルズ 神々の戦い(Immortals/2011)。
★★★★★  マネーボール(Moneyball/2011)。
★★★★★  孔子の教え(Kong Zi /Confucius/2010)。
★★☆★★  コンテイジョン(Contagion/2011/Steven Soderbergh)。
★★★★★  アンダー・コントロール(Unter Kontrolle/2011) 。
★★★★  ジョージ・ハリスン リヴィング・イン・ザ・マテリアル・ワールド(George Harrison: Living in the Material World/2011) 。
★★☆★★  テイカーズ(Takers/2010) 。
★★★★★  ラブ&ドラッグ(Love and Other Drugs/2010)。
★★☆★★  ラブ・アゲイン(Crazy, Stupid, Love./2011)。
★★★☆  ホーボー・ウィズ・ショットガン (Hobo with a Shotgun/2011)。
★★☆★★  サルトルとボーヴォワール 哲学と愛 (Les amants du Flore/2006)。

今月のノート

スウィッチ   顔のないスパイ   ドライヴ   メランコリア   タンタンの冒険  


2011-11-09
★★★★☆  ●メランコリア (Melancholia/2011/Lars von Trier)(ラース・フォン・トリア)  

◆巨大惑星「メランコリア」が地球に衝突する話であることは、映画を見るまえからわかっているし、イントロでも予告される。が、その映像を最後の最後のシーンで見るとき、深い感動に惹きこまれるのは、そこにフォン・トリアの情念が猛烈な強度で結集されているからだ。
◆惑星の衝突をまえにして、ジャスティン(キルスティン・ダンスト)、その姉クレア(シャルロット・ゲンズブール)、その息子レオ(キャメロン・シュプール)の3人は、8本ほどの枝を組んだだけの囲い(ジャスティンはそれを「魔法の洞窟」magic caveと呼ぶ)の下で「終末」を待つ。その後の数分の短い時間のあいだに3人がのそれぞれに見せる表情と見ぶりが映される。子供のレオは、ジャスティンにいわれたままに観念しているかのようであるが、世才にたけているはずのクレアは最後までおびえを隠さない。他方、映画の最初から「情緒不安定」であり続けたジャスティンだけが、実に平静な表情をしているのが印象深い。地球の終末も生命あるものの死も、所詮は自然のあたりまえの出来事にすぎないといわんばかりに。
◆この映画には、鬱病に悩んだフォン・トリアーの体験と彼の世界観が重ね合わされているらしい。別にフォン・トリアーのような特異性を露骨に出しがちなアーティストではなくても、作品創造には個人的動機がからんでいる。それをデフォルメするか素直に出すかの違いはある。今回、フォン・トリアーは、『メランコリア』の制作を自分のセラピーにしているようなところがある。鬱状態でひとは、日常の些末な出来事を悲観的にとるだけでなく、次第に自分の人生、さらには人類や生命あるものの行く末をペシミスティックに考えてしまう。が、フォン・トリアーの行き着いた考えは、そうした終末や破滅をメランコリックに恐れる必要はない/メランコリア(鬱症)は自然の「あたりまえ」の出来事にすぎない/メランコリアに逆らったり、「治療」したり、抵抗したりする必要はない。そのまま受け入れればいい、というもののようだ。
◆スチルとハイスピード撮影映像をアレンジしたイントロ(ピーター・ブリューゲルの絵「雪中の狩人」も使われる)ののちは、ほぼ最後のシーンまで、「手ぶれ」が目立つ手持ちカメラでの映像が続く。この「手ぶれ」に関しては批判もあるが、意図的であることは言うまでもない。この映画の世界がすべて「主観的」な映像であること、あらゆる「客観性」を拒否していることを考えれば、納得ができる。そして、この点から、この映画世界は、実は、ある人物――おそらくはジャスティン――の「不安定」な意識の産物であり、その意味では、最後の「地球破滅」すらも、彼女の「主観的」なイメージ(つまりは「妄想」)であるかもしれないという解釈可能性が広がる。
◆この映画の最初は、クレアとその夫ジョン(キーファー・サザーランド)の豪邸で開かれるジャスティンとマイケル(アレクサンダー・スカースガード)の結婚式に、バカ長いリムジンでおもむく二人のシーンである。このリムジンには道が狭すぎ、途中で先に進むことができなくなる。このシーンで明らかなように、この映画は、極めてメタファー的な映像を提示する。二人は、背伸びしすぎているのであり、この結婚はうまく行かないだろうという暗示もある。二人は、多数の客が集まっている会場に2時間以上も遅れて到着する。主賓が遅れる結婚式とは「普通」ではない。このへんに、フォン・トリアーの結婚や家庭への否定的な考えを見ることもできる。
◆映画のなかで、車のエンジンがうまくかからないなど、惑星の接近で空気が薄くなっていることを示唆するシーンがあるが、この結婚式がそうした「世界の終末」を前提にしたうえでとりおこなわれるのかどうかはわからない。ジョンが、子供に、惑星は地球に接近はするが、すれ違うだけだと説明するシーンもあるから、必ずしも誰もが地球の破滅を覚悟しているわけでもなさそうだ。福島原発についても言えるし、また今後地球との衝突の可能性があると言われている惑星「2005 YU55」に関してもそうだが、本当に破滅的なことが起こりつつあっても、ひとは意外と平静なのかもしれない。
◆とはいえ、福島の場合に明らかなように、一見「平静」に見えても、社会や日常のどこかにぽっかりと空洞が空き、未来への夢や希望を虚しいものにしてしまう空気が次第に広まることは避けられない。『メランコリア』におけるジャスティンの投げやりな態度は、まさに彼女の心の底にそういう空洞が空いてしまっていることを示唆する。彼女は、広告宣伝会社のやり手ディレクターという設定だが、式に臨席した上司ジャック(ステラン・スカースガード)が彼女を褒めれば褒めるほど、彼女の心の空洞は広がり、またその姿を見るわれわれは、仕事世界の存在そのものが虚しく感じられる。
◆ジャスティンの父デクスター(ジョン・ハート)と母親ギャビー(シャーロット・ランプリング)の仲は険悪で、二人はスピーチで火花を散らす。こういう場面でのシャーロット・ランプリングは素晴らしい。意地の悪い、偏執狂的な演技をさせたらこの人の右に出る俳優は少ない。
◆これだけの豪邸に住む人間が、惑星の異常接近という事態に、それほど情報の収集に熱心であるようには見えず、あたりまえの天体望遠鏡で空を覗いたり、子供のためとはいえ、針金の輪を棒の先につけたもので接近の度合いを測るといった呑気なことをしているのが不思議に思えるかもしれない。しかし、これは、まさにフォン・トリアーの好きなブレヒト的な「異化効果」である。
◆スタンリー・キューブリックの『博士の異常な愛情』の最終もそうだったが、『メランコリア』のこの最終シーンも、ある種の官能的な「エクスタシー」を感じさせる。前者では、ヴェラ・リンの「また会いましょう」が効果的に使われていたが、ここでは、 ヴィルヘルム・リヒャルト・ワーグナーの楽劇『トリスタンとイゾルデ』 「前奏曲」に地鳴りのような効果音を加え、地球の終末の瞬間をデモニッシュにもりあげる。
◆キューブリックの場合、音楽は、もともと戦地におもむく兵士を送り出す歌で、少なくとも第一義的には皮肉(「また会いましょう」→二度と会えない)の度合いは薄い。キューブリックは、これを核爆発の映像と重ねることによって皮肉度を高めた。皮肉でありながら、破壊される大地への「惜別」(せきべつ)の情をただようわせる仕掛けも忘れない。が、フォン・トリアーの場合は、「前奏曲」の持つ、ナルシスティックな「未練」(生への、生存への)を極限まで強調する。ここには、そうした滅びへの批判や皮肉はほとんどない。表現されているのは、滅びゆくことへの諦めと恐怖である。、衝突によって人間が瞬時に消滅してしまうことに驚きとある種のエクスタシーを感じるのは、それを傍観している観客のほうである。
◆滅びをそのまま受入れることと、滅びにエクスタシーを感じることとは大いに異なる。終末観を内在する文化には、後者の傾向がある。『メランコリア』は、地球と生命の終末・消滅をあたりまえのこととしてそのまま受け入れているようでいて、未練たっぷりである。それは、ワーグナーの曲によってより強化される。
◆このシーンから類推できることは、終末への願望と恐怖という二律背反である。終末は怖いが、望んでもいる。それは、実は素晴らしいものかもしれない・・・。これは、とりもなおさず死に対する考え方を規定する。フォン・トリアーの死生観は、その意味ではきわめてキリスト教的である。彼は、無神論を標榜しているとしても、その終末への考えからするとそう言わざるをえない。死のあとには何もない――とは考えていない。
◆フォン・トリアーは、自己のメランコリアを「治療」するために地球に終末をあたえた。それは、自分が死ぬのなら、世界も巻き添えにしてしまおうというキリスト教的終末観のパターンでもある。その意味では、彼がカンヌ・フィルム・フェスティヴァルのインタヴューのとき、「わたしはナチだ」と言ってしまったのは、必ずしも嘘ではない。かつてハイデッガーは、ナチズムの本質は、「惑星的に規定された技術と近代人との出会い」だと言った(『形而上学入門』)が、テクノロジーとともに進むいまのグローバルなテクノロジーの果てには「人類」と「地球」(いずれも近代の概念)の「終末」しかない(福島原発事故はその初潮である)。
◆この映画は、テレンス・マリックの『ツリー・オブ・ライフ』の「無神論」版だという論評がある。しかし、わたしがキネマ旬報』(2011年9月上旬号)の短評で書いたように、マリックもキリスト教的終末観を脱してはいない。とはいえ、いま、『メランコリア』と『ツリー・オブ・ライフ』との最終場面を比較してみると、マリックのほうがフォン・トリアーよりも「非キリスト教的」であるように見える。この世への未練をフォン・トリアーほど惜別的には描いていないからだ。以下に『ツリー・オブ・ライフ』評を引用しておく。
キリスト教的神の創造(=グレイス慈悲)とアメリカ的文明の双方に終末を付すディアクロニック通時的かつシンクロニック共時的な詩。キリスト教の神が据えた大地はもはや人間の住める場所ではなくなった。中西部郊外のミドルクラスの50年代アメリカンファミリーの「理想」はつい潰えた。自然に「グレイス恩赦」はないから、人間は自然のなかに回収される。が、その「終末」という観念自体がキリスト教的であることは問わない。その「不徹底」さが、バージョンップした「ディスカバリーチャンネル」ばりの映像にあらわれている?

(ブロードメディア・スタジオ配給)



2011-11-08
★★★★  ●ドライヴ (Drive/2011/Nicolas Winding Refn )(ニコラス・ウィンディング・レフン)  

◆もう使い尽くされたかに見えた映画と車という組合せが、ここでは、まだまだ尽きてはいないことが実証される。たびたび映されるフロントグラスの光景がこれほど美しかったことはあるだろうか。フロントグラスはひとつのスクリーンである。だから、映画が映すフロントグラスのなかの映像は、映画のなかの映画であり、ヴァーチャルな映像だ。この映画は、その意味で、映画の映画であり、目に飛び込むものは、「現実」よりもよりリアルである。
◆カーチェイスもたっぷりある。切れ味のいいガンショット・シーン、残酷なバイオレンス・シーンも強烈なアクセントになっている。こうなると、マチズモの「男」と、そういう「男のための女」が期待されるかもしれないが、そこが一味ちがう。この映画の「男」には名前がない。あるとしても、その名が呼ばれることがない。ハンドルさばきが抜群で、腕っ節も人並み以上でも、「マッチョ」というわけではない。ライアン・ゴズリングにはぴったりだ。クレジットでは「ドライバー」と記されているが、ここでは[ゴズリング]と表記しよう。
◆「女」は、アイリーンと呼ばれるが、その名称はどこにでもある名前だ。美しくなくなないが、むしろ生活を感じさせる「普通」の女である。それをキャリー・マリガンが演じる。彼女の夫は刑務所に入っているから、彼女は「普通」の女ではないのかもしれない。が、夫の出所を待ちながら5、6歳の息子を育てている姿はごく「普通」のシングルマザーである。[ゴズリング]は、彼女と同じアパートビルのエレベータのなかで初めて顔を合わす。その瞬間、アイリーンは、いかにもボーイ・ミーツ・ガール映画の「女」のようにその目に愛をただよわせる。このへんのカリー・マリガンの演技は抜群である。観客は、<この二人はいずれ愛し始めるだろう>と思う。実際にそうなる(と想定していい)のだが、[ゴズリング]のクールさは変わらない。映画は、ありきたりの濡れ場を映さない。だから、彼は彼女の子供を可愛がり、彼女の支えになったりもするが、性的関係はなかった、彼女が目と表情で見せる彼への思慕だけが現実なのだと考えてもよい。
◆[ゴズリング]は、「バイトで」映画のスタントマンをやっている。彼が働いている車の修理工場のオーナーのシャノン(ブライアン・クランストン)も、「80年代に」映画の仕事をしていたという。その友人で闇組織の幹部であるバーニー・ローズ(アルバート・ブルックス)も、その昔、映画のプロデューサーだったという話をする。映画のなかの映画の要素がいろいろある映画である。だから、シャノンもバーニーもある意味での「映画人」気取りだと言えないこともない。つまり、彼らの言動や身ぶりは、「映画化」されているわけである。
◆アイリーンの夫スタンダード(オスカー・アイザック)は、まもなく出所するが、獄中で借金の罠にはまり、そのために出所してからも組織から脅されてヤバイ仕事をしなければならなくなる。それを断って暴行を受ける現場を見た[ゴズリング]は、彼を助けようと決心する。それは、「愛する」アイリーンのためでもあるからだ。その帰結がどうなるかは、予測がつく。それは、それでいいだろう。そのエピソードも「映画のなかの映画」なのだ。
◆出所したあと、スタンダードとアイリーンとその息子と[ゴズリング]の4人が会話するシーンがある。スタンダードが、アイリーンとの出会いを語る。彼が「スタンダード・ガブリエル」という名を名乗ったとき、アイリーンが、こう訊いたという――「デラックス版はどこにあるの?」と。これは、いかにも「映画的」なセリフの決め方だが、全体にこういう遊びのセリフがあり、飽きない。
◆『ヘルボーイ』のロン・パールマンが演じるニーノは、もともとユダヤ人(イズィー/Izzy)だが、マフィアにあこがれてニーノと名乗っている。しかし、途中でイタリア人への人種的偏見が出て、身をほろぼす。彼に[ゴズリング]が復讐をするシーンで、ひと気のない車道の疾走→転落→横転した車からやっと這い出すのだが、カメラが引くと、そこが浜辺で、海から岸辺に波が打ち寄せてくるシーンがすばらしい。
◆虫も殺さないような顔をしていて実は「冷血」な――というこれもノワール映画の型――ボス役のアルバート・ブルックスは、ブライアン・クランストンやロン・パールマンにくらべて、もう癖ある役者のほうがよかった。ゾッとすることをやるのだが、その役柄の心の奥にある怖さが伝わってこないのだ。この役者の人のよさのようなものが見えてしまう。
◆出番は短いのだが、意外とよかったのが、クリスティナ・ヘンドリックス。ギャラが高いので、出番が短かったとのことだが、もっとギャラの安い俳優でもよさそうなとことにこういう俳優(別室に歩いて行く後ろ姿がセクシー)を使うところが、ニコラス・ウィンディング・レフン監督の凝り性。
◆映像としてすばらしいシーンはいくらでもあるが、それは、見てのお楽しみ。
◆音楽の使い方も絶妙だ。すでにサウンドトラックCDが出ているが、曲は以下の通りで、短いクリップはAmazonで聴ける

(クロックワークス配給)


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