粉川哲夫の【シネマノート】 
    
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10月公開作品短評

★★★★  ワイルド・スピード MEGA MAX/Fast Five (2011)  (アクションやサスペンスを楽しませるのに3Dはいらない。こっちに重たいメガネなど掛けさせないで、映画のなかを多次元化すればいいのだ。この映画は、その点、サービス満点。臭せぇ野郎たちが臭せぇ演技と破天荒なアクションで魅了する。胡散臭いスラムの映像は見事。安い3D映画の流行に反発して1星おまけ)。(10/1公開)
★★★★  幸せパズル/Puzzle/Rompecabezas (2009)  (【詳細】アルゼンチンの平凡な「主婦」が「自立」に目覚める話のような体裁を取りながら、ちょっと違う。マリア・オネットの微妙な表情の変化に感動)。(10/1公開)
★★★★★  ステイ・フレンズ/Friends with Benefits (2011)  (ジャスティン・ティンバーレイクは『ソーシャル・ネットワーク』のショーン・パーカーの延長、ミラ・クニスはあいかわらずケバく、型通りのロマンティック・コメディだなあと思わせながら、デジタル小物の撮り方がしっかりしている。オープニングの大画面液晶を使ったプレゼン、エンドクレジットでのiPone/iPod/iPad風「フリック」「ピンチイン」「ピンチアウト」の感覚を全体に浸透させたら、この映画は新しいスタイルを提唱できたはず)。(10/1公開)
★★★★  ベニスに死す/Morte a Venezia (1971)  (ルキノ・ヴィスコンティの名作の「ニュープリント」版。ヴィスコンティの凄さは映画館で観てこそわかる)。(10/1公開)
★★★★  リミットレス/Limitless(2011)  (【詳細】『ハングオーバー』シリーズで有名になったブラッドリー・クーパーが主演なので、またオトボケなドラッグものかと思ったら、観方が浅い。監督ニール・バーガーは、先端の電子テクノロジーが可能にしたヴァーチャル感覚をおさえながら、一切御託なしにエンターテインメント化した。ニューヨークの使い方もいいセンス)。(10/1公開)
★★★★★  猿の惑星:創世記/Rise of The Planet of the Apes (2011)  (【詳細】ウィル・ロッドマン[ジェイムズ・フランコ]が育てたチンパンジー、シーザーは、言葉がしゃべれないだけ心と心と通わせる「ヒューマンドラマ」の登場人物として効果的。そこにウィルの認知症の父親[ジョン・リスゴー]をからませ、ファミリードラマとしての泣きを入れる。サスペンスとしてもよく出来ており、文句はないはずだが、「猿の惑星」シリーズのテーマをわずかに継承している「文明批判」的な部分がテクノロジーや差別意識への常識的な「批判」の域を出ず、不満を残す)。(10/7公開)
★★★★  レア・エクスポーツ 囚われのサンタクロース/Rare Exports (2010)  (こいつは愉快でユニーク。いかにもフィンランドらしいブラックユーモア。そうか、サンタクロースというのは、少年愛の変態ジジイだったのか)。(10/8公開)
★★★★★  明りを灯す人/Svet-Ake (2010)  (【詳細】最初のスタイルとプロットの方が鋭い社会批判になるのに、後半、いかにもの「社会批判」のスタイルと話になり、残念)。(10/8公開)
★★★★★  地球にやさしい生活/No Impact Man (2009)  (消費をしない、電気を使わない生活を実践する一家の記録なのだが、妻は『ビジネス・ウィーク』のスタッフライターだから、魂胆と野心が見え見え。要するに期間限定のパフォーマンスにすぎない。一応「文明」批判めいたことを言ってみたが、今後もそれを続ける気があるのかは怪しい)。(10/8公開)
★★★★  ラスト・エクソシズム/The Last Exorcism (2010)  (『エクソシスト』+『パラノーマル・アクティビティ』『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』。ワケありの牧師とはいえ、こんな明るいエクソシスト――悪魔祓いの専門家――にしないと最後が活きないのか? 牧師役のパトリック・ファビアンはミスキャストだと思うが)。(10/8公開)
★★★★★  キャプテン・アメリカ   ザ・ファースト・アベンジャー/ Captain America: The First Avenger (2011)  (【詳細】こんなワンパターンに国家を肯定している映画もめずらしい。アメリカももうブッシュ流ではないのに)。(10/14公開)
★★★★★★  ブリッツ/Blitz (2011)  (【詳細】暴力をふるうことを辞さない刑事との対比で、彼が目の敵にする新聞記者が弱い。あまり「不当」なことをしたわけではなく見えてしまう)。(10/15公開)
★★★★★  カウボーイ&エイリアン/Cowboys and Aliens (2011)  (「エイリアン」を映像として見せなければ、面白かった。あまりにありきたりの風貌のエイリアンでげんなり。だから、エイリアン登場まではいい。ダニエル・クレイグはけっこういい演技をしているのに)。(10/22公開)
★★★★★  ランゴ /Rango(2011)  (爬虫類や動物の皮膚感がけっこう生々しい。映像は素晴らしいから、これは好き好きの問題。が、ジョニー・デップとともに声優で出演しているやアルフレッド・モリーナの台詞を「関西弁」の字幕にしているのは、考え抜いてのことかもしれないが、字幕にはそんなイントネーションなど付けず、中性感覚の方がいい)。(10/22公開)
★★★★★  やがて来たる者へ/L'uomo che verrá (2009)  (【詳細】ナチ=狂気・残虐という図式を抑え込んではいるが、なぜこのような子供を含む771人の虐殺という未曾有の行為が起こされたかという疑問の解明にはなってはいない)。(10/22公開)
★★★★★  三銃士 王妃の首飾りとダ・ヴィンチの飛行船/The Three Musketeers (2011)  (【詳細】バカげた金をかけたB級グルメ。『パイレーツ・オブ・カリビアン』のスタイルで、ダークな奥行きなんかを一切とりはらった「ポップコーン・シネマ」。批判はいくらでもある。が、3Dというのはこういう使い方をすると活きるということを立証したのは新鮮。3Dに娯楽以上のことを期待すると失敗するが、このくらい薄っぺらいドラマでは逆にディズニーランド的な面白さが出る)。(10/28公開)
★★★★  ゴモラ/ Gomorra (2008)  (冒頭は『ゴッドファーザー』の大詰めの暗殺シーンの安い模倣のようだが、その後に展開する<すべてを諦観したかのような>映像とテンポは面白い。ナポリの闇組織「カモッラ」の子供や少年を使い捨てにしての薬物密売と不法廃棄物処理を、感情移入を排した――にもかかわらず「批判的」に白々しくというのでもなく――描くスタイルはユニーク)。(10/29公開)
★★★★  密告・者/The Three Musketeers (2011)  (ジョニー・トーにもつながるスタイリッシュなガン・アクションとカーチェイス。身体を張ることが映画の基本と言うかのごとく『藍色夏恋』のグイ・ルンメイも壮絶な死闘を見せる。すべてが、香港の路地裏のいまは薄れつつあるうさんくささとともに、ノスタルジックでせつない)。(10/29公開)
★★★★★  モンスター上司/Horrible Bosses (2011)  (無理なイジメは笑えるはずだが、イジめる上司に逆襲するやりかたが笑えない。「ユダヤ的ジョーク」だと思えば、そのバランスの悪さもわからくはないが、飛躍のあげくのオチが腑に落ちない。ユダヤ的「泣き笑い」というわけにはいかなかったのか?)。(10/29公開)
★★★★★  フェア・ゲーム/Fair Game (2010)  (『愛する人』ではしたたかな演技を見せたナオミ・ワッツだが、政治的にしたたかな女は得意ではないらしい。彼女が演じる元CIAスパイのヴァレリー・プレイムのしたたかさは、とうていこんなものではなかった)。(10/29公開)
★★★★★  ゲーテの恋 君に捧ぐ「若きウェルテルの悩み」/Goethe! (2010)  (「文豪」とか「詩聖」とかいう崇め立てにうんざりさせられる風潮が消えたと思ったらまたぞろ『ゲーテに学ぶ 賢者の知恵』なんて本が出てうんざりしていたところにゲーテをロマンティック・コメディの主人公にしてしまう本作があらわれた。とにかくゲーテを「軽く」とらえているところがいい。リズムもモーツアルト的な軽妙さに溢れ、楽しめる)。(10/29公開)
★★★★★  ハートブレイカー/L'arnacoeur (2010)  (ロマン・デュリスという俳優は、近年二枚目を演じることが多いが、彼の初期の出演作『スパニッシュ・アパートメント』のグザヴィエという青年のように、どこかドジなところのある役を演じるのに向いている。ところが、本作ではドジでは困るイケメンの詐欺師。彼の濃い髭が「無精髭」なのか、セクシーに見せるためのものなのかがあいまいなのだが、どこかシャキッとしないのだ)。(10/29公開)
★★★★★  マーガレットと素敵な何か/L'âge de raison (2010)。(ナルシシズムに辟易)(10/29公開)
★★★★★  ミッション:8ミニッツSource Code (2011) 。(いいシーンはかなりあるが)(10/28公開)
★★★★★  ウィンターズ・ボーンWinter's Bone (2010) 。(「名作」だが、もうちょっと早く公開してほしかった)(10/29公開)

今月のノート

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2011-10-25
★★★★★  ●ニーチェの馬 (A Torinói ló/The Turin Horse/2011/Béla Tarr)(ベラ・タール)  

原題は「トリノで」(A Torinói ló)であって、「ニーチェ」も「馬」も関係ない。追記:のっけから偉そうに書いているが、このくだりは爆笑ものである。親切な読者のかたに指摘されて気づいた。ハンガリア語の原題は、「トリノの馬」以外のなにものでもない。しかも、そのことを次のパッセージで「映画は、その原題通り・・・」と書いているのだから、理解に苦しむ。このノートは、ときにはこういう狂った意識で書かれることがあるので、注意が必要だ。】しかし、最初のナレーションで、この映画が、フリードリッヒ・ニーチェ(1844~1900年)の有名な事件にもとづいていることが語られるので、「ニーチェの馬」という邦題はきわめて適切である。
◆映画は、その原題通り、「ニーチェの馬」つまり、1889年にイタリアのトリノの街頭で狂ったニーチェが馬の首を抱いて泣いたと伝えられる事件から出発する。その際、「ニーチェ」らしき人物を登場させたりはしないところがいい。歴史上の人物を出した最近の映画の例では、『プッチーニの愛人や『マーラー 君に捧げるアダージョ』のような例があるが、いずれも失望感を残した。その点、この『ニーチェの馬』は、映像としての強度が高く、ここからさまざまなことがインスパイアーされる。
◆思想や人物をストーリーや出来事で表現するのではつまらない。思想とイメージとが一体をなし、イメージから思想を浮き彫りにすることができるとしても、イメージのみでも自律しているような映像を提示するのでなければ、映画は「思想」の運搬装置になってしまう。すべての映画に思想がつきまとうが、思想をより強く意識した映画は、<思想=イメージ>映画である。そして、この映画の場合、その思想とは、ニーチェが『権力への意志』に結晶させたニヒリズムと「神の死」についての思想である。
◆ニーチェは、そのギリシャ古典の文献学的解釈の才能を買われ、24歳でスイスのバーゼル大学の教授になる。故郷ドイツを離れ、スイスに移住したことがきっかけになったのか、あるいは彼の「狂える」魂がそうさせたのかどうかはわからないが、以後、彼は主としてスイスとイタリアを行ったり来たりする。1889年にニーチェは、数年まえから長期滞在していたトリノで精神の病が亢進し、路上で警官に保護される。以後ニーチェは、バーゼルの精神病院、イエーナ大学の精神病院へ移され、最後はドイツのナウブルクの母い家で死ぬ。19世紀の最後の年(1900年)に亡くなった彼の遺構『権力への意志』は、その後の世界の本質的な動向を鋭く予見した。
◆この映画がユニークなのは、「ニーチェ」を出さないだけでなく、トリノでの伝説的なエピソードの馬のほうに焦点をあてている点だ。彼がトリノの路上でその首を抱いたという馬――その馬はどうなったかという問いはこれまで誰も問わなかった。が、ナレーションでは「馬はその後どうなったか?」とは問うが、だからといって馬を追い続けるわけではない。右手が不自由な御者の老夫(ヤーノシュ・デルジ)が、動こうとしない馬を鞭打ち、やっと走り出し、その後ひと気のない荒野を苦しげに疾走する姿をカメラは追う。馬車が向かう先は、イタリアにしては閑散として寒々しいという印象をいだくが、やがてそれは「イタリア」のどこかというよりも、「どこにもない場所」であることがわかる。
◆「馬」は、この映画のイントロ的な<思想=イメージ>だが、この「馬」は最後には何も食べなくなる。「馬」は最後まで(結局は)御者の命令に従って動くが、御者はやがてその轡(くつわ)を外し、解放する。が、これはこの映画の主要なテーマではない。
◆荒野にぽつんと建った一軒家に着き、御者が厩(うまや)に馬を入れたあとは、この御者と(やがてわかる)その娘(エリカ・ボーク)との日常生活が映される。すでに馬車を走らせるときから、風が吹いているが、その風がだんだん激しくなり、風の音と、緩慢に反復するミニマリスティックな音楽とが混じり合う。二人はほとんど話をしない。するとしても、その行為はすべてミニマリズムのパフォーマンス・アートのようだ。その感じは、後ろに行くほど強まっていく。その意味では、この映画の絵柄自体、そうしたパフォーマンスのショットをつなぎあわせた「記録」のようでもある。
◆「1日目」「2日目」・・・「6日目」という区切りはキリスト教の神による世界の創造をなぞらえている。が、その過程は逆向きで、日を追うごとに終末をむかえる。
◆娘は父の服を着替えるさせる。右腕が不自由なので自分では着替えられないらしい。朝、娘はじゃがいもを茹でる。二人の食事は毎回、茹でたじゃがいも一個だけだ。二人はほとんどしゃべらない。しかも、やがて井戸の水が涸れ、茹でることができなくなると、彼と彼女はじゃがいもを生のまま食おうとする。この場合、いもや水が単なる物ではなく、<思想=イメージ>として提示されていることは明らかだ。
◆だんだん強く吹きすさぶようになる風も尋常ではなく、ここに提示されるものが、メタファーつまりは<思想=イメージ>だということがわかってくる。緩慢にくりかえされるような音楽と風の音とが微妙に同じ根源から出ていることにも気づくだろう。世界の終末を暗示するような終わりのシーンでは、風の音に教会の鐘の音がかすかにだぶるように聴こえる。
「2日目」に男がドアーを叩く。蒸留酒の「パリンカ」(Pálinka)をわけてもらいに来たのだが、勝手に神や神々の消滅の「予言」をしゃべって帰って行く。その男の風貌はニーチェには似ていないが、神々の死や世界の破滅を告げる雰囲気はニーチェ的で、その言葉はニーチェからの「超訳」を思わせる。
◆「3日目」に二頭立ての馬車に乗った一団が井戸の水を使いにやってくる。アメリカに行くのだという。御者の男は敵意をもって迎えるが、老人が本を一冊置いて去る。その本は、ニーチェの本であるかどうかわからないが、その内容は「ニーチェ的」な感じ。ニーチェのハンガリー語訳かもしれない。
◆ニーチェは書く――<ニヒリズムとは何を意味するのか? ――至高の諸価値がその価値を剥奪されるということ。目標が欠けている。「何のために?」への答が欠けている>(原佑訳『権力への意志』)。
◆昼間なのに、あたりは暗い。やがてランプも消え、何度点火しようとしても点かない。この明りの消滅という出来事は、ニーチェが書いている白昼ランタンをかざしながら神を探す「狂気の人」(Der toller Mensch)と関係がある。この断章は、『悦ばしき知識』の125番だが、ここには、この映画の「思想」のすべてがある。
◆ハイデッガーによれば、ニーチェが「神は死んだ」と初めて書いたのは、1882年の『悦ばしき知識』においてであるという(「ニーチェの言葉『神は死せり』」、細谷貞雄訳)。ハイデッガーはここで、『悦ばしき知識』の125章全体を引用してニーチェにおける「神の死」とニヒリズムを論じている。いま読んでも依然、非常にスリリングな論考である。この映画を見る際、この125章を読んでおくことは無駄ではないだろう。その一節はこういうくだりから始まる――<狂気の人――君はあの狂気の人のことを耳にしなかったか、――白昼にランタンをつけながら、市場へかけつけてきて、「おれは神を探している! おれは神を探している!」と叫んだ人のことを>。
◆この映画でだんだんその明りが衰え、最後には消えてしまうランプは、『悦ばしき知識』の125章で描かれる「狂える人」が手にしているランタンにつながる。なお、このイメージの元は、古代ギリシャの「ホームレス思想家」ディオゲネスがやったという「パフォーマンス」を、古代ギリシャの文献学者らしくニーチェが拡大解釈して使ったものと思われる。田中美知太郎訳(『ギリシャ思想家集』、筑摩書房)によれば、彼にはこんなエピソードがあった――<白昼ランプをあかあかとともして、言うことに、「おれは人間を探しているのだ」>と。ニーチェは、ディオゲネスの「人間」を「神」に置き換えたのだ。
◆【追記】iMDbのボードに、ニーチェの「物狂いのひと」の英訳を掲載したとこと、面白い議論が続いた。→Friedrich Nietsche: THE JOYFUL WISDOM, III, 125, 'The Madman'
◆御者と娘の家のまえには井戸がある。これも<思想=イメージ>的なオブジェであるが、その水が枯れてしまったとき、彼は、家財道具を馬車に積んで家を離れる。どこかに別の安住の地があると期待したのかもしれない。しかし、家から離れた馬車はすぐにもどってくる。その戻り方は、道がまるで循環路になっているかのようだ。これも、ニーチェの「永劫回帰」(永遠の循環)を想起させる。
◆ハイデッガーが指摘しているように、ニーチェのニヒリズムは、世の中が悲観的な状況になることを意味してはいない。それよりも、キリスト教的終末論自体が終末に達し、その「完成状態」を無限にくりかえす(ニーチェの「永劫回帰」)ことである。だからハイデッガーは書く――<キリスト教的信仰教義からの転落という意味での不信仰は、決してニヒリズムの本質と根拠ではなく、常にその帰結にすぎないのである。なぜなら、キリスト教そのものが恐らくはニヒリズムの一帰結であり、その完成形態を現しているかもしれないからである>。キリスト教の「完成形態」とは、テクノロジーであり、それによって規定される世界である。その意味では、「世の終わり」というような事態がセンセーショナルに、あるいは情動的に描かれることは、ニヒリズム以前であると言える。
◆ニーチェは、「ニヒリズムの先行形式としてのペシミズム」という言い方をする。その点では、世界の崩壊や終末を恐れる「メランコリア」は、まだペシミズムの段階にとどまっている。ニヒリズムの状況とは、「世界の終末」を恐れ、不安をいだき、おびえるような動的な情念をともなわないだろう。それは、すべての情念をも人工的なものにするだろう。だから、そこにはすべての情念がある。が、ふと気づくと、それは「空無」でしかないような相対化のなかにある。
◆プレスや広告では、監督名を「タル・ベーラ」と記述しているが、これは、ハンガリーの国内慣例にならったもの。しかし、ご本人は、国外では「Béla Tarr」を許している。つまり、ベラ・バルトークというような一般的な慣習にしたがっているわけだ。なお、「Béla Tarr」は、「ベーラ」よりも「ビラ」と「ベラ」の中間ぐらいの発音であり、「ベーラ」ほどには延びない→【参考】

(ビターズ・エンド配給)


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