粉川哲夫の【シネマノート】
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2006-01-31

●プロデューサーズ (The Producers/2005/Susan Stroman)(スーザン・ストールマン)


◆かなりの人。エレベータのドアがしまらないでいらいらしている若い女性が、ゆっくり乗ってきたある有名な年配女性にあたる。彼女が乗って、ドアが閉まりかけたら、また開いたのだ。「カバン引いてください!」、若い方が言う。でも、ドアが開いたり閉まったりするのは、誰かが外で押したからなんですがね。あんまりあせっても、どうしようもないよ。
◆この映画を製作しているメル・ブルックスは、かつて同名の作品(1968年)を監督している。「俳優」としての彼が、初めて脚本を書き、監督をした作品だ。それはアカデミーの脚本賞をとった。メルは、今度は製作にまわっている。旧作について彼は、ジェイスン・E・スクワイヤ編『映画ビジネス 現在と未来』(小田切慎平訳、晶文社)のなかで、こんなことを書いている――「この作品は私が実際に見聞きしたことに基づいている。かつて私の同僚に、真夜中にオフィスの古ぼけた皮張りのソファで、非常に高齢のご婦人方相手に激しい情事を重ねている男がいた。彼は映画をプロデュースすると嘘をついては、彼女たちから金額未記入の小切手を巻き上げていたのだ」。旧作ではユダヤ臭い名優ゼロ・モステロが演じ、今度は、ネイサン・レインが演じているマックスのモデルである。若い弁護士役は、旧作ではジーン・ワイルダー、今度は、『フェリスはある朝突然に』のマシュー・ブロデリックが演じている。
◆1998年になって、デイヴィッド・ゲフィンの薦めでメルは、映画版『プロデューサーズ』のミュージカル化に着手し、2001年にブロードウェイでミュージカル版が公開された。この舞台は、同年のトニー賞を獲得する。今回の映画バージョンでは、監督に、ブロードウェイ・ミュージカルの翔び翔びコリオゴラファー、スーザン・ストローマンを起用し、ブロードウェイ・ミュージカル版のさらなるバージョンアップをはかっている。これは、見事成功し、前作とはちがった趣が出しただけでなく、ミュージカル映画としてもなかないい作品に仕上がっている。歳をとったら、若い人といっしょに仕事をするのがいいのですな。
◆メルの作品ではいつもそうだが、ここでもあいかわらず、彼の反ナチズム反骨とユダヤ性へのこだわりが横溢しているのに出会う。当たらないミュージカルを作れば、スポンサーから集めた製作費を合法的に持ち逃げし、金儲けができるというので、たまたま訪れた若い弁護士レオ(マシュー・ブロデリック)を巻き込み、徹底的にダメな脚本を探す。そのあげくに発見したフリッツ・リープキン(ウィル・フェレル)なる人物は、ヒトラーの心酔者で、ブルックリンの彼の家の屋上に鳩小屋を作り、鳩を飼っているが、その鳩までが、「ハイル・ヒットラー」の身ぶりをする。このネオナチ男を起用し、役者はゲイリー・ビーチとロジャー・バートらが演じる「ゲイ俳優」をあて、最初から破綻が予想できる舞台を準備する。
◆ニューヨークで「ネオナチ」は最大の顰蹙ものだし、「オカマ」ゲイの舞台も差別的という批判を受けるものだが、この顰蹙を買うことをねらった舞台が、予想に反し、「ナチとゲイ差別のパロディ」だと解釈され、大当たりしてしまう。「脚本家」のリープキンが、舞台稽古を見て、しびれを切らし、自ら「名演技」を披露してしまうひねりは最高だが、老人や人種やゲイの差別ぎりぎりの、いかにもメル・ブルックスらしいユーモアも飽きさせない。
◆ソングがなかなかいい。ウィル・フェレルは、ちょっとしか歌わせてもらわなかったが、歌唱力は相当のもの。ユマ・サーマンは、「かわいい女」をうまく演じているが、歌はへた。
◆最後に、「『わが闘争』を読みなさい。バーンズ&ノーブルで売っていなければアマゾンで」というメッセージが出るが、これはメル一流のギャグ。
◆毛布の切れ端を話さないレオ・ブルーム。これも、メルがよく使うフロイト批判的なギャグ。
◆マックスとレオが、山ほどある脚本のなかから、絶対に当たらないものを探す作業のなかで、カフカの『変身』を脚色したブックをとりあげ、「こりゃダメだ」とマックスが言うのも、メルの好み。メルのカフカ好きを裏返したギャグ。
◆親衛隊やヒトラーを出す舞台パートは、ナチの美学の際どいところまで肉薄しているようなうまさがある。スーザン・ストーマンはなかなかやる。たぶん、彼女もユダヤ系。
◆ブレヒトのスタイルが随所に使われている。このことが、「ブロードウェイ」を異化し、「ブロードウェイ」に若干の距離を取らせることによって、そこで何が起きているのかを示唆する。
◆ブロードウェイのミュージカルを見るときも、この映画のようなブロードウェイ・ミュージカルのすぐれた映画化を見るときも、いつも感じるのだが、ブロードウェイというのは、日本の歌舞伎のように、ある種の「ハレ」の世界で、そこでは、いっとき、「ハレ」の空想世界に遊ぶことが出来る。むろん、こういう世界は現実の日常世界には空想のなかでしか経験できない。それが、劇場のドアを入り、舞台が始まるとワーっとそういう世界に入れるのが、ニューヨークの魅力でもある。ただし、今回の映画は、ブロードウェイを二重化することによって、こういう「ハレ」の世界にひたることと、日常にひそむナチズムの美学と情念とのあいだには、境界線がないことを示唆する。われわれは、ナチを批判しながら、けっこうナチズムが好きなのかもしれないのだ。
(ヤマハホール/ソニー・ピクチャーズエンタテインメント)



2006-01-27

●かもめ食堂 (Kagome Shokudo/uokala lokki/2005/Ogigami Naoko)(荻上直子)

Kagome Shokudo
◆大学の期末試験の「監督」をいやいややったので、解放された気分になったのか、メディア工房でスタッフの人や学生と長話。試写を見に行く時間がせまり、飛び出す。あいにく特快がなく、神田駅に着いたら、6時を過ぎていた。駅からタクシーに飛び乗るが、目と鼻の先の京橋まで渋滞でなかなかたどりつかない。運転手は、気にして世間話をしようとする。あなたが悪いわけじゃないのだから、そんなに気を使わなくてもいいんです。が、乗ったときのこちらのせっぱつまった気迫に押されたらしい。走って鍛治橋通りを渡り、5分まえに到着。座席はほぼ満席。
◆小林聡美は、まだ中国ブームがはじまったばかりのころ、本木克英の『てなもんや商社』(1998)で、中国と貿易をする商社で粉骨砕心するがんばり娘を演じていたので、今回も、そんなノリかなと思っていたが、かなりちがっていた。監督も脚本(原作は群ようこ)もちがうのでから、あたりまえだが、この映画では、小林聡美は、フィンランドのヘルシンキというところで、「がんばる」というよりも、ゆったりと、あせらず、にもかかわらず、開店時にはお客ゼロだった日本食レストランを成功させる。ただし、この映画は、決して成功物語ではない。そこにはポイントがない。それよりも、わたしは、この映画を見て、いますぐにでもヘルシンキに行きたいと思ったほどある種ヘルシンキという都市へのオマージュの映画であり、日本人が主要な登場人物の映画だが、不思議な「国政性」をただっよわせている。
◆ヘルシンキで日本食レストランを開いた主人公サチエ(小林聡美)、世界地図の上に指を乗せて指が乗ったとこがヘルシンキだからやってきたというミドリ(片桐はいり)、長いあいだ両親の介護をしてきてやっと「解放」されたのでなんとなくやってきたというマサコ(もたいまさこ)。みなそれぞれに単純でない「過去」をもっているはずだが、彼女らは、それをエピソード的にしか語らない。彼女らは、たがいに「丁寧語」で話しつづけ、それは最後まだかわらない。そして、実際のところ、彼女らは、たがいの深い部分にはあえて触れない。過去にどんな男とつきあっていたのか、既婚なのか離婚経験があるのか、どんな家庭の生まれなのかは、言葉の端はしから推測はできる程度に示唆はされるが、それらは、各人が他人向きに言っている作り話かもしれない。それはともかく、「個人」の深い部分には「距離」をおきながら3人はつきあっている。
◆「外国」の日本人たちが見せるある種の「白々しさ」が、この映画では、「共存のための距離」として能動的に活かされている。日本人は、海外に行くと、一体に、日本人同士でかたまるか、あるいは、「日本人」を避け、「現地人」とばかりつきあう。後者の彼や彼女らは、「日本人って白々しく、フレンドリーじゃない」と言う。たしかに、日本人は、日本社会でも他人に「距離」を置いている。これは「アメリカ人」とは大違いである。知りあってすぐ、年令にかかわりなく「へい、太郎」なんて日本で言ったら、顰蹙(ひんしゅく)を買うだろう。日本は、「距離」の文化に属している。この「距離」の取り方で対立が起こったり、「日本人」嫌いを生んだりする。しかし、「日本人」を嫌いといっても、自分が「日本人」であることは避けられないから、結局、自分のことも嫌い、自分に「距離」を置くことになる。「遠慮」や「はじらい」は、そういう内的な「距離」から発源する諸現象だ。だが、それが文化であり、「日本人」の身体にしみ込んでいる(日本に30年住めば「外人」でもそういう文化因子が身体に住みこむ)のだとしたら、それと共存することを考えたほうが賢明だろう。おそらく、それが、かつても「遠慮」や「謙遜」の身ぶりだったはずだ。そういうものは、まだ京都には生き残っている(「外部」の者には、京都人の「排他性」として批判されたりもする)が、もし、「距離」の文化をすっかり捨て去ってしまうことができないのなら、それを能動化するしかないだろう。この映画からは、そういう方法の一つが読み取れる。
◆この映画では、「かもめ食堂」という(以前にコーヒーショップだったところを居抜きした)スペースと外の通りとのあいだを仕切るガラスが実質的にもまた象徴的にも重要な意味をもっている。新しい店に興味をもったフィンランドの人々が、そのガラスからなかを覗く。それは、サチコとフィンランド人とのあいだにたちはだかる「距離」である。それは、透明ではあるが、確実に両者を分離している。3人の老女たちは、たびたびなかを覗く。サチコは、なかに入ってくれるのかと思って、会釈する。すると、そのなかの一人は、恥ずかしそうに口に手を当てて、そのまま去ってしまう。最初のお客になり、常連になるバイク青年のトンミ(ヤルッコ・ニエミ)も、最初はガラスごしになかを覗いた。彼は、そのガラスのなかに入ることによって、ガラスの「距離」を取り去った。が、彼は、日本びいきで、日本語をしゃべる。それは、「・・だよ」というようなくだけた日本語ではなく、ですます調の「丁寧語」である。「ガッチャマン」のことでサチコと意気投合するが、だからといって、「節度」的な「距離」は変わらない。
◆わたしは知らないが、フィンランド人も、けっこう「シャイ」だという。フィンランドといってもいまや多民族社会であり、また、ルーツ的にも、フィン人、先日見て面白かった『ククーシュカ ラップランドの妖精』に出て来るサーミ人や、マジャール人、エストニア人など流れがあり、「単一」ではない。が、おそらく、ここには、スエーデンなどとは異なる「距離」の文化があるのかもしれない。3人の老女たちは、そんな側面を体現している。
◆この映画は、いろいろな意味で魅力にあふれているが、料理のシーン(たとえワンショットでも)もなかなかいい。料理のシーンがよく撮れている映画は、絶対に出来がいいというのがわたしのテーゼだが、この映画では、テレビのあふれる「料理番組」のように定型的な「感嘆詞」(たとえば「おいひい」)(女性はだいたいこの発音)と料理のアップで料理を表現するだけで、その料理を食べてどう「しあわせ」なのかを生き生きと描くことはまれだ。が、この映画では、別に三つ星レストランのシェフがつくるような料理が出るわけではないが、料理人がお客に食べさせたいという意識と、それによって「しあわせな」気持ちをいだいたお客の気分がひしひしと伝わってくる。サチコを演じる小林聡美は、映画のなかでもちゃんと料理を作っており、どこかのシェフが代役で作った料理をあたかも自分で作ったように見せているわけではない。
◆図書館でムーミンの本を読んでいるミドリ(片桐はいり)を家に連れてきて、サチコが出す夕食は、大きな器(なぜか16枚の菊の紋が入っている――これは、皇室から褒美としてもらった品物のはずだが、サチコの親か誰かがもらったのだろうか?)に盛ったじゃがいもの煮付け、味卵、みそ汁、3、4種類の野菜の入ったサラダとご飯だ。このシーンでミドリは、白米のごはんを食べ、涙を流す。それは、海外に来て久しぶりに「家庭的」な日本食を食べてからというよりも、サチコが、相手においいしいものを食べさせようとする気持ちにミドリが「共鳴」(レゾナンス)したからである。ところで不肖わたしは、海外の日本人の家を訪ね、せっかく出されたスキ焼きをやっとのことで喉の奥に押し込んだことがある。わたしを接待してくれる気持ちはこのサチコにおとらず深かったはずだったが、わたしは海外で日本食を食べたいと思ったことがなく、とりわけスキ焼きが大嫌いなのである。
◆かもめ食堂に客が入りはじめるきっかけは、サチコが焼いたシナモン・ロールだった。彼女は、「西洋料理」も上手なのだ。その匂いに惹かれてあの3人組がガラスの内側に入ってきたのだ。その後、どんどん客が増えるが、しっかりと(料理番組のようにこれみよがしではなく)映される料理を見ると、これならヘルシンキの人も喜ぶだろうという印象を受ける。それらは、確かに「日本食」なのだろうが、基本が日本的ではない。日本では皿数が多いほどよいというような料理文化がある。アメリカでもヨーロッパでも、庶民の家庭料理では、しばしば一枚の大皿に何品かの料理を盛り分けることが多い。かもめ食堂の料理も、一枚の皿にトンカツ、しゃけ(サーモン)の焼いたものなどをメインにし、それに数品のつけあわせをのせるといったスタイルの料理が目につく。わたしは、こういうスタイルが好きだが、日本では、ごつくて大きい皿自体がそうどこにでもは売っていない。
◆もたいまさこは、昔から「変質的」なキャラクターを演じるパターンになっているが、この映画では、たしかに「普通」ではないキャラクターだとしても、にもかかわらずもたいまさこの定型的な「どぎつさ」を抑え、彼女のうまみを活かしたキャラクターに仕上げたのは、荻上直子の手腕だろう。それから、夫に浮気され、アル中ぎみの怨みを呑んだ目つきでかもめ食堂のガラスの向こうに何度も姿を現し、やっと入って来たと思ったら、注文した「コスケンコルヴァ」(Koskenkorva)を一杯飲むと、そのままぶったおれてしまう女性の使い方がいい。「コスケンコルヴァ」という酒は、38%ぐらいのアルコール含有量のスピリッツだから、小さなグラス一杯で倒れてしまうのは、不思議だが、この女性は、すでの相当量の酒を飲み、目もすわった状態でこの店にやってきたのだと考えれば、納得がいく。こんなことにこだわるのは、この女性リーサ(タリア・マルクスとクレジットされている)の演技が実にいいからだ。倒れて、かごめ食堂の常連トンミにおぶわれ、サチコたちがつきそって送っていった家のなかには、沢山の蔵書がある。夫は、かつてかもめ食堂の場所でコーヒー店をやっていたことがわかり、布石が活かされるドラマ展開(このへんは月並み)があるのだが、この女性がどんな生活をしているのかは、よくわからない。このように、観客が気になる描き方がこの映画のスタイルで、それは、なかなかいい感じだ。
◆この映画は、あきらかに、「スロー・ライフ」的なトレンドを意識していなくはない。映画のなかで、マサコが、「フィンランド人は、どうしてゆったりしているんでしょう?」というような問いを発すると、トンミンが、「それは、森があるからです」と答える。そこでマサコは、早速「森」へでかけるのだが、その森は、ちょっと京都の街から数十分もいったあたりによくある森林の雰囲気だった。少なくとも映画で見るかぎり。京都もまた、「森」にいだかれているから、東京より「ゆったり」しているのだろうか? (映画美学校試写室/メディア・スーツ)



2006-01-25

●リバティーン (The Libertine/2004/Laurence Dunmore)(ローレンス・ダンモア)
The Libertine

◆ジョニー・デップには、たしかにうってつけの役柄だが、映画自体は、さほど面白くはない。非常にナルシスティックで、要するに「無頼派」の典型が、この映画の主人公ジョン・ウィルモット(ジョニー・デップ)。この手の人物には、必ず、庇護し、「甘やかす」人物が必ずいるものだが、この映画では、ウィルモットが最後まで甘え、無頼でいられるために、そういう役柄の人物の数も多い。腹違いの兄で国王のチャールズ2世(ジョン・マルコビッチ)は、ジョンが、親族のいならぶ席で「カント」(まんこ)や「ファック」を多用した詩を詠んだときは激怒し、ロンドン塔に幽閉したが、じきに連れもどす。妻のエリザベス・マレット(ロザムンド・パイク)は、梅毒で鼻が欠けた晩年のジョンをも親身で介護する「母親」のような存在。ジョンに見いだされ、女優としての才能を開花させるエリザベス・バリー(サマンサ・モートン)も、ある時点で「母親」役をする。彼女は、ジョンの子を宿したが、彼には言わずに育てる。
◆わたしが面白いと思ったのは、ジョン・ウィルモットが生きた1660年代という時代だ。この映画によると、この時代に性的自由が謳歌され、公園では、世ごとにフリーセックスが営まれたという。すでに1620~30年代、イギリスではフランシス・ベイコン、フランスでは・ルネデカルトが活躍し、近代の科学と思考が世の中を変えつつあった。そうした先端思想や価値観が社会一般にひろまるのは、だいたい新思想が生まれてから30年後ぐらいで、1660年代というのは、まさにそんな時期だったのだと思う。ちなみに、デカルトは、1650年に死に、パスカルは、1662年に死んでいる。そして、そういうときには、従来の価値観がドラッスティックに変わり、たいていの場合、セックスの旧弊や固定した習慣が崩れる。
◆歴史は、直線的に「発展」するのではなくて、円環状に螺旋をえがき、反復をくりかえしながら進行する。注目すべきなのは、そうした反復のある切片で、各切片のなかに、過激な相を発見できる。そして、その過激さは、1660年代が1970年代よりもつつましかったとは言えない。だから、この映画のように、過剰なまでにフェリーニな性的蕩尽のカーニバルをみせつけても、歴史を誇張していることにはならない。
◆この映画は、映像よりも、言語への依存が強いので、相当英語がわからないと、楽しさが半減するだろう。わたしは、この映画の英語が半分以下しかわからないやからなので、その意味でも、この映画を正当には評価できないのである。まあ、それ以前に、ナルシシズム系のもったいつけたドラマが根本的に嫌いだということもあるが。
◆冒頭でデップは、観客への「アサイド」表現で、「あなたがたは、わたしを好きになるまい、男は嫉妬し、女は拒絶し、物語が進むにつれて、どんどん嫌いになる・・・どうかわたしを好きにならないでくれ」とのたまう。そして、最後にまた出てきて、「さあ、わたしを好きになったかね?」と問う。大きなお世話ではないか。他人が自分をどう思うかが気になってしょうがない甘ったれ男。本当に冷笑的でニヒルは男は、決してそんな問いを発することはない。
◆ふと思ったが、映画の進行方向とは別に、デップが見事に見せる「冷笑主義」(シニシズム)は、ひょっとして、これからどんどん流行る時代の心情なのかもしれない、と。新シニシズムの時代なのか?
(メディアボックス試写室/メディア・スーツ)



2006-01-23

●マンダレイ (Manderlay/2005/Lars von Trier)(ラース・フォン・トリア)

Manderlay
◆「アメリカには行ったことがない」と公言するラース・フォン・トリアがアメリカを批判する。アメリカ人にとっては、「いまごろ?」という感じかもしれないが、なかなかアメリカ問題の深部をついている。というより、権力自体が後ろに50年ぐらい逆行してしまったのだから、このへんから考え直さないと、どうにもならないのがいまのアメリカなのだ。そういう含みをみなぎらせながら、北欧からアメリカを撃つ。
◆スタイルとドラマは、『ドッグヴィル』を継承しているが、グレース役のブライス・ダラス・ハワードには、ニコール・キッドマンの「高慢」さやいらいらした感じが薄く、連続性は感じられない。が、ここでは、アメリカの「善良」な部部を体現し、それがどんどんくずれていくことを描くわけだから、ブライスのような「お嬢様」ぽい役者のほうがいいのかもしれない。
◆アメリカ民主主義は、見事に「異化」される。マンダレイという場所にたどり着いてみると、奴隷制がとう終わったはずの時代に、ちゃんと奴隷制が存在する。それを廃止しようと尽力するグレース。しかし、その奴隷制はみずからが求めて維持されているものであることが判明する。「アメリカは黒人を解放する準備ができていない」というメッセージは、黒人にだけではなく、アメリカのあらゆる問題にあてはまる。デモクラシーもまた。ならば、そんなものは捨ててしまい、奴隷制や反デモクラシーでやったほうがいいじゃないのというのが、フォン・トリアーの皮肉。いや、そこまで冷たく皮肉ったほうがアメリカにとってはよかったかもしれない。
◆【追記/2006-02-22】劇場公開パンフレットに2,300字ほどの原稿を書いた。単純な原理原則につっぱしる傾向があるアメリカ的「単純理想主義」の両面を素描した。
(ギャガ試写室/ギャガ・コミュニケーションズ Gシネマ)



2006-01-20

●ククーシュカ ラップランドの妖精 (Kukushka/2002/Aleksandr Rogozhkin)(アレクサンドル・ロゴシュキン)

Kukushka
◆すばらしい映画だ。解放の笑いのなかで涙がこぼれてしまうような感動を味わえる。反戦のテーマは当然の前提としてあるが、じゃあ、人はどうすれば戦わずにすむのかということが思想の押しつけでなく示唆される。
◆ソ連から奪われた土地を取り戻そうとする国家意識が高まり、フィンランドは、ソ連と戦うことになった。フィンランドの最北の地、サンタクロースとムーミンの土地ラップランドでも、対ソの戦いからまぬがれなかったが、ときはすでにナチの崩壊の時期をむかえていた。が、この映画は、そんなことはどうでもいい。どのみち、ソ連はソ連で内部に問題をかかえていたし、フィンランドも、支援してくれるはずのナチ・ドイツは期待できず、内部で矛盾を露呈させていた。そんな屈折した状況の申し子が、ロシア軍の大尉イワン(ヴィクトル・ブィチコフ)とフィンランド軍の狙撃兵ヴェイッコ(ヴィッレツ・ハーパサロ)だ。ヴェイッコは、戦争への非協力的態度の懲罰として、ソ連軍の標的になる岩に鎖でしばりつけられ、放置される。イワンは、反体制的な詩を書いたと部下に密告され、秘密警察に逮捕されるが、輸送される途中、ナチの空軍の射撃にあって、秘密警察の連中は死に、自分は道端で昏睡状態になる。
◆夫を軍で失い、この地に一人で暮らすサーミ人の女アンニ(アンニ=クリスティーナ・ユーソ)は、たまたま、川原の近くで倒れているイヴァンを見つけ、気丈にも自分の小屋に運び、介護する。一方、ヴェイッコは、自力で鎖をはずし、アンニの小屋にとどりつく。回復したイワンと3人の生活がはじまるのだが、その組み合わせと設定が面白い。まず、3人は、アンニがサーミ語、イワンがロシア語、ヴェイッコがフィンランド語しか話せないという設定で、言語による相互のコミュニケーションがなりたたない。また、ヴェイッコは、ナチの軍服を着ており、彼自身は反戦思想の持ち主のつもりでも、イワンは敵としか思わない。
◆この映画には、ある種のサバイバル・テクノロジーの描写が生き生きしている。最初のほうで、ヴェイッコが、岩に打たれた杭の周囲を繰り返し熱し、最後には銃弾から火薬を抜き、岩をくだく。サバイバル・テクノロジーを完璧に身につけているのは、アンニだ。海辺には生け簀があり、潮が満ちると魚が入る。鹿も飼っており、イワンを助けるために、鹿の身体から少量の血液を取り、鹿のミルクにまぜて薬スープを作る。イワンの誤解でヴェイッコを刺してしまい、死界の淵をさまよったとき、お婆さん仕込みのシャーマン的な術で救うのもアンニだ。
◆時代、民族性、特定の土地といった具体性をおさえながら、この映画は、戦争の無意味さ、男の単純さ(うらがえせば女性が一枚も二枚も上手の存在だということ)をユーモアたっぷりに暴露するだけでなく、自然と人間、人間と人間同士のコミュニケーションの深い部分にまで抵触する。
◆それにしても、アンニという女性の存在感が魅力的。70年代にはこういう女性像が、たとえばル・グインのSFのなかで描かれたりしたが、その後はあまりお目にかからない。
◆言葉が通じないので男たちはわからないのだが、「(夫が失踪したので)4年もごぶさただったけど、いっぺんに2人も男があらわれたわ」とアンニがつぶやくのも笑わせる。あとは、見てのお楽しみ。
(映画美学校第2試写室/シネカノン)



2006-01-19

●忘れえぬ想い―忘不了― (Mong bat liu/Lost in Time/2003/Tung-Shing Yee)(イー・トンシン)

Lost in Time
◆30分まえに行ったら、数人しかお客がいなかったが、開映までには3分の2の席がうまった。婚約している男(ルイス・クー)の死、その幼い連れ子(原島大地)と3人で新生活を送ろうとしていた若く美しい女(セシリア・チャン)が気丈にその子と生き抜こうとする・・・と来ると、泣かせを抜きには描けない。プレスの表紙には、「もう涙は。見せない。」と書いてあるが、そうもいくまい。実際、観客の涙をしぼる演出はあり、離婚して子供との別れを経験した者なんかは、かなりつらいであろうシーンがある。わたしの近くに座っていた女性は、ずっと鼻をシクシクさせていた。ところで、おすぎ氏は、ひところテレビで「泣きましたぁ」という映画宣伝をしていたが、試写室で泣いているところを見たことがない。心のなかで泣いているのだろうか? いや、ずっと見ていたわけじゃないですが。
◆「悲しい」シーンがあるから、あるいは、映画のなかの登場人物が泣いているからそれにつられて泣くのは、お湯をかけられて熱いという反応をするのと同じで、身体のメカニカルなプロセスにすぎない。泣くといっても、もう、そのアクションの真摯さや、なんかわからないが涙が出てしまうというほうが、「高級」であるような気がする。笑いは、その点、もっと知的であり、一点を押せば笑いが飛び出すわけではない。
◆セシリア・チャンは、日本では、この映画よりもあとに発表されたやはりイー・トンシンの『ワンナイト・イン・モンコック』で殺し屋を愛する娼婦のすごい演技を見せている。この映画では、中流の家庭の娘を演じているうえに、1年若いので、かなりちがった雰囲気だ。
◆それにしても、この映画、筋立てには、かなり無理があり、現実のうわっつらをなぞっているようなところがないでもないのに、それが気にならないのは、セシリア・チャンという女優の「徳」のようなもののためではないだろうか? マギー・チャンに比較される顔だちは、たしかに気品があり、ある種「マレビト」的な雰囲気をただよわせている。そういうひとが、ミニバスを運転し、タイヤがパンクして、それを自分で直そうとしたりする。当然、救いの主が現われ、事なきをえるのだが、全然タイヤ交換の知識がないこのひとが、レンチでネジをぎごちないかっこうではずそうとする。全然、腰がすわっていないのだから、はずれるはずもない。もし、実際にこういう女性がいて、パンクに直面したら、絶対にタイヤをはずそうなどとはしないものだ。そして、逆に、もしタイヤをはずそうとするくらい積極的なひとなら、実際にはずしてしまうだろう。このへんが、ドラマなのである。彼女は、最初から、タイヤを直せてはいけない人物に設定されているわけである。
◆考えてみると、この映画の登場人物は、すべて何らかの力によって保護されている。セシリア・チャンは、婚約者と引き裂かれるが、彼の同僚だったラウ・チンワンがいつも保護者的に見守り、欲のない手をさしのべる。幼い原島大地の実母は彼を捨てて去ったので、原島は父親と暮らしているが、その父親が交通事故で死んでも、孤児にはならない。ならない安全弁がほどこされた状態で、彼が寸でのところで孤児になるのではないかと観客を心配させるシーンを作り、涙を流させる。あどけない子供が、それまで母親代わりだったセシリア・チャンを「おばさん」呼んでいるのに、捨てられると察すると、「ママ」と呼び、「ぼくいい子になるよ」というようなことを言って泣く。これなら、メロに弱い観客は絶対に泣く。『チャンプ』も同じような手口で観客の涙をしぼった。
◆香港のタクシーはワイルドであることは知っている。ミニバスは、相乗りのタクシーのようなもので、街で客を拾い、降りたいところで降ろす。停ってはいけないところでも停り、警官に捕まることもある。「組合」は、やくざが仕切っているらしく、組合に入らないで仕事をして、シマを荒らすと、仕打ちを受ける。が、この映画も、そういう面は、どぎつくは描かれない。
◆この映画で面白いのは、電話の使い方だろう。とりわけその留守番(メモリー)機能がうまく使われている。事故で死んだ父親のケータイに、原島大地は、寝るまえに電話して、メッセージを残す。彼が生きていて、ただどこかに旅行しているかのように。セセリアも、いまはなき彼のケータイにときどき電話して、彼の「いま電話に出られません・・・」という声を聴く。ラウ・チンワンは、賭に入れ込んで妻は子供を連れて出て行った。おそらく最後にその妻が入れたらしい留守番電話のメッセージを彼は、ときどきプレイバックして聴く。いずれも、ここでは、録音のメモリー装置が、一つの「意識」や「精神」として生きている。
◆この映画では、彼女や彼らは、最後に、そういう「意識」や「精神」と別れを告げ、電子的な記憶装置を通さない関係に入るのだが、現実にはこれから、電子的な記憶装置が、まさにマックス・ヘッドルームのように、一人歩きし、生身の人間よりも長生きするような時代が訪れるだろう。
(映画美学校第2試写室/ウナイテッド・エンタテインメント)



2006-01-16

●ステップ!ステップ!ステップ! (Mad Hot Ballroom/2005/Marilyn Agrelo)(マリリン・アグレロ)

Mad Hot Ballroom
◆もっと試写を見たいのだが、諸事情でままならない。1月は、いつも最初の1週間はなしになるから、正味20日で、週末と祭日を抜くと、どんなにがんばっても15日ぐらいしか試写に行けない。しかし、そのあいだに「正業」をやらなければならないうえに、雑用の多い月だから、年間では試写室通いが最も少ない月の一つになりそう。
◆ニューヨークへ行くと黄色のバスに出会うが、これは、ニューヨーク市の公立学校(Public School)(「PS150」というようにPSの下に番号をつけてあらわす)のバスで、生徒を家の近くから学校まで送り届けたり、「遠足」に利用したりする。いま日本では、低学年の生徒の誘拐などの影響で、いろいろな防御策が練られているが、ニューヨークでは、30年もまえから、低学年の生徒を勝手に通学させないというのはあたりまえだった。バスから生徒が降りて、生徒が校門(といっても外へ面したビルのドアであることが多い)に入ると、その門は、固く閉ざされてしまい、闖入しようとしても、容易には出来ない。
◆ニューヨークのパブリックスクールでも、地域によって異なる貧富の格段の格差のために、学校によって教育程度は相当ちがう。校長の権限は強いので、各校によって教え方も教える内容も異なる。この映画が描くダンス教室は、1994年に導入された教育プログラムであるが、ニューヨーク市の全公立小学校がこれを導入しているかどかはわからない。プレスによると、現在60以上のPSがこのプログラムを取り入れているという。このプログラムが導入された大きな理由の一つは、非行に対する対策であり、ここでは、そういう問題の多い場所にある公立小学校が取り上げられている。
◆「社交ダンス」(ボールルーム・ダンス)では、男は「ジェントルマン」で、女を「レイディ」としてあつかうのだという。だから、社交ダンスになじめば、おのづから男は「ジェントルマン」、女は「レイディ」の自覚をもたざるをえず、いささかなりとも少年や少女がドラッグや犯罪に走るのを避けることができる、と教師たちは考えている。このへんの深刻さは、ニューヨークのような都市で実感しなければわからないだろう。貧しい家庭が多く、その多くが単親家族であり、親が離婚した経験をもつ家庭の子供。だからそうなるという原理はなりたたないが、10歳をすぎると、犯罪者予備軍であるような地域はいくらでもある。
◆トライベッカのPS150のアリソン・シニアク教員は、ダンスに専念している生徒を語りながら、非行に走る恐れがなくなったと言って泣く。それは、10歳までにその気配がなかった子供らが、学校をさぼりはじめ、やがては街角でヤクを売ったり、かっぱらいをしたりするようになるのを数限りなく見てきた実感がこもっている。
◆「お金はないけど、教師としての自信はある」と語るヨマイラ・レイノソは、ワシントンハイツのドミニカ移民の貧しい移民地区にあるPS115の教員だ。ここでは、指導員のロドニー・ロペスが、ダンスを教えるが、ヒップホップ・ルックのようにシャツをだらっとズボンの外に出している子供らに、まずそれをズボンのなかに入れることからはじめる。しっかりしたポリシーをもっているところは、PS150の指導員アレックス・シャソヴもそうだ。みんなお金はなさそうだが、教育への情熱は高い。
◆教える技術というものがあり、それがあまり露骨に出ると嫌みで、教わるほうもうんざりしてしまうが、たとえば、アレックスが、腕の動かし方を、「腕時計を見ながら、そのまま髪をとかすような感じで・・・」という風に教えているのを見ると、うまいなあと思う。
◆この映画で、子供たちがそれぞれにいっぱしの意見を言うのを見て、場内に笑いがあがるが、英語は、日本語とちがい、いわゆる赤ちゃん言葉や幼児語をしゃべる時期が短いのではないかと思う。語法的にはっきりと、男女の言い方は分離されないし、大人と子供との極端は表現のちがいはない。あるとすれば、それは、大人のなかでもある「知的」な言い方とそうでない言い方との違いである。
◆この教育プログラムの元締めの人だったかが言っていた言葉が印象に残った。「いまの子供は、ジーン・ケリーやフレッド・アステアをモデルにするのではなく、親たちをモデルにする」、と。これは、ダンスを習うときのころだろうか、それとも、一般的に、いまの(アメリカの)子供が、スターやタレントや「偉人」よりも、身近な親を「模範」にしやすいということなのだろうか? というのも、いまの時代が、世界的にそういう方向に進んでいるような気もするからだ。
◆「シネマノート日記」でも書いたが、この映画には、集団で創造する楽しみと喜びを共有する瞬間の記録があり、その点はすばらし。しかし、これは、この映画の問題であるよりも、むしろ、ダンスプログラムの問題であるが、コンテストで勝ち抜くということを目指している点で、結局、競争主義を補強することにこそなれ、それを脱構築することにはならないのではないか? アメリカの問題は、あくなき競争主義である。このダンスプログラムは、別にコンテストを必要とはしない。その学校の内部で、ダンスに習熟し、踊ることの楽しみ、踊ることによる表現をみがき、同時にそれに加わる者全員がいままでとは別の関係をもてるよになるという点にだけ重点を置いてもいいはずだ。映画としては、コンテストのシーンが見せ場だとしても、ここでは、スポーツのドキュメンタリーと大差のないものになっている。
(アスミック・エース試写室/コムストック)



2006-01-12

●ミュンヘン (Munich/2005/Steven Spielberg)(スティーヴン・シュピルバーグ)

Munich
◆早起きして朝の10時に六本木に走った。予約制だったので15分まえに行ったが、すでにかなりの席が埋まっていた。スクリーンが小さいので最前列に座ろうと思って前に行くと、2つだけ空いていた。一つはO氏の隣り、もう一つは一番はじ。O氏の隣はつらいので端の席へ。
◆映画で飯を食うシーンや料理のシーンがしっかりしている場合は、出来のいい映画だというわたしの独断的定式は、この映画でもその正しさが証明されている。一介の秘密諜報員から殺し屋にばってきされるアヴナー(エリック・バナ)は、料理がうまい。それぞれに癖の強い車両スペシャリストのスティーヴ(ダニエル・クレイグ)、事後処理専門家カール(キアラン・ハインズ)、元おもちゃ職人で爆弾スペシャリストのロバート(マチュー・カソヴィッツ)、文書偽造のスペシャリストのハンス(ハンス・ジシュラー)らと食事をするシーンが印象に残る。フランス人の情報屋ルイ(マシュー・アマリック)がアヴナーを「パパ」(ミッシェル・ロンズデイル)の本拠に連れて行くシーンでも、こちらはフランス人だということもあって、チーズなどでやはり食へのこだわりを撮っている。
◆食のシーンはまだ出てこない最初のシーンを見てすぐ、かなり出来がいいのではないかと直感した。かつて『シンドラーのリスト』が公開されたとき、日本で、スピルバーグを親イスラエル派だと非難し、クロード・ランズマンの『ショア』こそがナチ批判の鑑だというような論評があった。スピルバーグも映画業界の人だから、イスラエルを敵にして論陣をはるようなことはしないのがあたりまえである。そんなことをしたら2500万ドルもかかる映画(『シンドラーのリスト』の推定製作費)を作れるはずがない。そもそもそういう批判は批判の基準がまちがっている。ハリウッド映画の基本は商売である。が、批判的な映画評がなすべきことは、そういうビジネスからどのような逆説的余剰があるかを指摘することだろう。マクドナルドを食うことは、グローバル産業を肥えさせることに荷担することであることはたしかだが、じゃあ倍の金を出して屋台のラーメンを食えば、グローバル産業を批判し、それに抵抗したことになるかといえば、そんなことはないし、400円出して屋台のラーメンを食う代わりに、200円のマクドナルド・ハンバーガーを食い、200円で文庫本を買って、新たな発見があったとしたら、その方がよほど生産的な場合もある。
◆『ミュンヘン』の推定製作費は、7500万ドルだというから、その費用の一部が親イスラエル派の企業から出ていないとはいえない。資本主義システムのなかにいるかぎり、国家や企業とのしがらみはのがれられない。だが、どんなコネクションがからんでいるとしても、映画の見方まですべてスポンサーにふりまわされるわけではないし、監督や製作者たちの意図のコントロールからすら自由でありえる。作品とはそういうものであり、見る者、読む者次第なのだ。
◆この映画は、1972年8月のミュンヘン・オリンピックの際、イスラエルの選手を人質に取り、最終的に11人を死に追いやったパレスチナの解放を主張する「黒い9月」の黒幕を追い暗殺するイスラエルの情報機関「モサド」のメンバーの目から描かれているが、決して、殺し屋が敵を追うサスペンスとして描かれているわけではない。殺す者の側からの視点であるが、彼らに次第につのる疑問と苦悩の描写のなかで殺される者の死の不条理さがうきぼりになる。
◆しかし、映画はいきなりハイジャックからはじまるので、彼らは、今日考えられているような「テロリスト」と同等に受け取られる可能性がある。歴史はディテールを問題にしなければ、くりかえしにすぎない。歴史が単なる反復ではないとすれば、それは、ディテールがちがうからだ。「黒い9月」のメンバーは、なぜミュンヘンの選手宿舎を襲い、イスラエルの選手を人質に取ったのか? それは、短期的に見ても、1967年の第3次中東戦争(イスラエルの圧倒的勝利で、6月5~10日の6日間で終わったので「6日戦争」とも言う)にまでさかのぼる。この勝利によってイスラエルは、イスラエルが、エジプト・ヨルダン・シリアの連合軍を破り、エルサレム、ヨルダン川西岸地区、ガザ地区、シナイ半島、ゴラン高原を占領した。こうして、1948年と1955年の停戦ラインはあっさりと破られ、以後、今日にいたるまで、イスラエルとアラブ諸国との桎梏がつづくことになる。もし、イスラエルが停戦ラインを守っていれば、その後に高まる「テロ」や「ゲリラ」活動は起こらなかったかもしれない。
◆イスラエル側は、そんな理屈は認めないだろう。イスラエルをつぶせという活動は、「6日戦争」以前からあり、エジプト・ヨルダン・シリアがそういう反イスラエル活動を支援してきたから戦争が起こったのだと言うだろう。しかし、最初に武装を強化していったのはイスラエルであり、「テロリスト」を最初に殺したのは、イスラエルの方だ。そして、パレスチナ人の居場所を否定してきたのもイスラエルである。「テロ」活動の激化とイスラエル軍の攻撃の激化とは相関関係にある。とにかく、ハマスのリーダが実際に犠牲になったように、敵とみなしたら、ピンポイントのミサイルで撃ち殺してしまうのである。
◆「黒い9月」の黒幕を11人選び、片端から殺して行く手口も、論理のためには手段を選ばない冷酷なもの。ミュンヘンのテロがなければ、モサドによるこのような暗殺計画は実行されなかったかもしれないが、それが実行されたことによって、さらに「テロ」がエスカレートしたのである。そもそも、6日戦争以後、「テロ」活動は激化し、それだから活動家が逮捕されるのか、それとも「テロ」を恐れるがゆえに抑圧が高まり、逮捕者が増えるのかどうかは、どちらとも言えないところがあるが、権力を持っているいるのは、イスラエル国家であって、無産の活動家ではないから、抑圧は国家が始めるのである。そうして、活動家の側は、航空機のハイジャックという新しい戦術を発明する。が、最初は、ゲリラ側に有理だったこの戦術が、戦争以上に悲惨な結果を生むようになる。ハイジャックの成功に対して、イスラエルは、呵責な報復攻撃をし、ゲリラが潜んでいるとみられる村を攻撃し、死傷者を出す。ハイジャッカーを殺す技術が編み出され、ハイジャッカーは航空機を燃やしたり、乗客や乗務員を殺すというところにエスカレートする。こういう泥沼的な抗争のはてに9・11がある。
◆ミュンヘンでイスラエル選手団を人質に取った「黒い9月」は、「イスラエルに捕まえられている200人のパレスチナ人テロリスト、ロッド空港を襲撃して一人だけ生き残った岡本公三、そしてドイツ人アナーキスト、ウルリケ・マインホフとアンドレアス・バーダーの2人の釈放を要求した」(オビッド・デマリス『ザ・テロリスト』)。西ドイツ政府は、ゲリラをアラブ側に飛行機で脱出させるかのように見せかけ、狙撃兵を配置したにち、彼らと人質が飛行機に乗り継ぐヘリコプターを降りたとき、攻撃をしかけた。しかし、ゲリラの全員が降りないうちに発砲してしまったので、ゲリラは選手を殺害することになった。このへんの屈折は、映画だけではわからない。
◆「黒い9月」は、パレスチナ解放をうたう「アルファタ」の下部組織であり、アルファタにはアメリカCIAから金が出ていたという説がある。この点に関しては、映画のなかで示唆する場面がある。
◆11人の「黒幕」の殺害の指示は、当時の首相ゴルダ・メイア(リン・コーエン)が出している。最初の方でアヴナーが会う「おばあさん」である。彼女の政治指導力には問題があったらしいが、それはともかく、サッチャーにしても、女性の政治トップのほうが、男性よりもアグレッシヴになりやすいような気がする。アメリカでは、次期大統領にヒラリー・クリントンがなり、日本では「女帝」が実現し、世界はいよいよ「世界戦争」の時代に突入するか?
◆ラスト・クレジットで、やや高齢のスペッシャリストのハンスを演じる「Hanns Zischler (ハンス・ツィシュラー)」(プレスでは「ジシュラー」)という名を見て、どこかで見たことがあると思った。あとで確認したが、この人は、『カフカ、映画に行く』(Kafka Geht ins Kino)(みすず書房)という実にユニークなカフカ論の著者なのだった。わたしは、この本の翻訳が出たとき、『日本経済新聞』の書評欄に書評を書いたことがある。
◆初めのほうで、ミュンヘン空港での立てこもり事件を報じるテレビニュースで、ハワード・コーセルが出てくるが、この人は、有名なテレビリポーターであり、1971年公開のウディアレンの『バナナ』では、冒頭で、「南米のとある国」で起こったクーデターと大統領暗殺を「実況中継」するファイク映像のリポーターとして登場する。
(アスミック・エース試写室/アスミック・エース)


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