粉川哲夫の【シネマノート】
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2005-09-30

●ノエル (Noel/2004/Chazz Paminteri)(チャズ・パルミンテリ)

Noel
◆『ラブ・アクチュアリー』も『大停電の夜に』もそうだったが、クリスマス・イヴに孤独な人々は世界中にいるようだ。わたしは、一人っ子で育ったので、「孤独」が常態であって、それが「寂しい」という感情につながらないのだが、かつてニューヨークで生活しはじめたとき、最初のクリスマスには、わたしは「孤独」見えたらしい。わたしが住んでいたのは、60代の女性がオウナーの古い家の一室だったが、「テツオ、クリスマスなのにどこにも行かないの?」と言われ、別にジョークのつもりではなく、「友達がみんなユダヤ人なので・・・」と言ったら、彼女が大笑いした。そのとき、わたしは、イーデュッシ演劇(東欧ユダヤ人の演劇)の「研究」でニューヨークにいたので、知り合いはユダヤ人が多かったのだ。そのときはわからなかったが、わたしにそういう質問をしたリビー(エリザベス)・ライアンという女性(アイリッシュ系)も「孤独」だったのかもしれない。
◆この映画で、スーザン・サランドンが演じるローズは、年頃からいっても、この「リビー」と同年配で、弁護士の夫とわかれ、一人暮らし。児童書の有能な編集者である彼女に、友人は、「グッド・セックス」が必要だというが、毎日痴呆の母親を病院に見舞う彼女は、関心がない。そのこともあって、どこかに「孤独」の影がさす。それに取り入るように、若い同僚マルコ(ダネイル・サニャータ)が彼女をデートに誘い、彼女の方も、食事のあと家まで送ってきた彼とベットインしそうになるが、ふとわれに帰ったように彼の誘いをしりぞける。
◆愛しているが、嫉妬深く、かっとなって暴力をふるう警官のマイク(ポール・ウォーカー)とその彼女ニーナ(ペネロペ・クルス)。病院のクリスマスイヴ・パーティに参加する習癖のあるジュールズ(マーカス・トーマス)は、パーティに参加したいがために金を払って怪我をさせてもらい、入院する。カフェで働く老人アーティ(アラン・アーキン)は、クリスマスイヴの客を旧知の人と思いこむ習癖があり、たまたま客になったマイクにつきまとう。最初ホモなのかと思ったら、そうではないのだった。
◆ロビン・ウィリアムスが演じ、ちゃんとした登場人物なのに、全くクレジットされていないのはなぜだろう? 名をふせる意味が全くわからない。ローズの母の隣室の患者を演じるのだが、ちょっと「生体離脱」的な役割を演じるので、わざとそうしているのだろうか? しかし、誰が見たってロビン・ウィリアムスは、ロビン・ウィリアムス以外にはなれない。
◆映画は、大きなクリスマスツリーのそばで聖歌隊がコーラス(ちなみに映画のタイトル「ノエル」は、クリスマス祝歌のこと)をしているきわめてキリスト教的なシーンから始まるのだが、最後はユダヤ的なものにわずかにもちあげて終わる。ずっと拒否するかのように食事をしなかったアルツハイマー病のローズの母が、食事をふたたびするようになるのは、ユダヤ人の医師のおかげである。この映画は、いくつかのドラマを並行的に描く「アンサンブル」プレイの形式を使っているから、その一点だけをとりあげても、この映画の全体を語ったことにはならない。と同時に、映画の全体を語ることができるような錯覚を封じるという点で、この映画の形式は成功している。
◆いくつかの「孤独」が並行的に描かれるが、それらは、いずれも、「奇跡」のようなものによって癒される。これは、きわめて「ユダヤ・キリスト教」的な発想だろう。その意味で、必ずしも癒されたわけではないジュールズの場合が、一番この映画の舞台になっている「ニューヨーク」らしいという気がした。
◆アンサンブル・プレイの場合、並行的に描かれる各部分が、どこかでまじわったり、全体がつながったりする。この映画でも、ローズとニーナ、マイクとジュールが出会う。こういうのは、全くの定番なのだが、にもかかわらず、わたしは、アンサンブル・プレイのそういうシーンが嫌いではない。ここには、世界はたった6人の関係で結ばれるという「六次のへだたり」に触れる気がするからだ。
(スペースFS汐留/ギャガ・コミュニケーション Gシネマ)



2005-09-29

●アメノナカノ青空 (...ing/2003/Eon-hie Lee)(イ・オニ)


◆受付も女性、お客も女性が多く、ロビーで嬌声が上がる。「あ~ら、来てくれたのぉ」。男性にくらべると、女性たちの連帯力には目を見張るものがあるが、この映画、いわゆる「女性路線」でしかないのだろうか? というわけで、わたしは、少しひねくれた見方をしたくなった。「純愛」というのは、たくらみや仕掛けなしには実現しない。本人たちが「純真」でも、それを映画にして、観客を泣かせたり、「感動」させたりする場合、「純真」でばかりはいられないのであり、演出や計算によって裏打ちされた仕掛けが存在する。
◆不治の病を負い、入退院をくりかえしているらしい10代の娘ミナ(イム・スジョン)。にもかあくぁらず、バレーを踊りたいという夢をいだいたいる。海軍の軍人だった父親は死に、レストランを経営する母親(イ・ミスク)との二人暮らし。裕福なマンション住まいで、家政婦が通ってくる。物質生活には何一つ不自由していないようだが、学校に友達はおらず、あるいはあえて友達をつくろうとしない「ローナー」的な態度を通す。変化は、マンションの下の階に20代後半の青年ヨンジェ(キム・レウォン)が引っ越してきたことからはじまる。彼は、何かにつけミナの気を引こうとする。ちょっとストーカーのような感じもあるのだが、母親は、逆に、つきあってみたらいいじゃない、といった態度。そうなると、かえって拒絶的に出てしまうのがミナの習性。まあ、結果は、最初はすねていた彼女が折れ、彼を受け入れて行く。当然予測されるように、2人の関係がもりあがって行ったところで、悲劇が起きる。それは、予測できるから、そのまえから、観客は、やさしいヨンジェの態度やミナのちょっとスネながらも可憐な反応にほろっとしたりする。
◆韓国映画の近年の変化は、ミドルクラスより上の階級の生活環境を舞台にするものが多くなったことだ。実際の韓国の環境が変わったことも事実だが、映画で見るかぎり、その変わり方は、日本とよく似ている。しかし、それを日本の影響と言うのは、尊大に聞こえるだろう。事実は、アメリカ化なのである。そして、この「アメリカ化」は、アジアの国々だけでなく、東西ヨーロッパも、そしてアメリカをも変えてきた「アメリカ化」なのだ。とはいえ面白いのは、この映画で、ミナは学校から帰ってくると母親の頬にキスをする。そして、あわてて学校に行くミナがそのまま行こうとすると、「何か忘れたんじゃないの?」と言い、キスをさせる。この家では、「アメリカン・ウェイ・オブ・ライフ」を徹底させようとしている。
◆2003年の映画だが、素直に傍観すると、ヨンさまで不動のものとなってしまった韓流メロドラマの1本にすぎないように見えるかもしれない。しかし、この映画は、それだけではない要素を持っている。気を引くサインはいくつもある。ミナは母親を「おかあさん」とか「ママ」とは呼ばず、「ミスク」という名前で呼ぶ。これはなぜか? 海軍の軍属だった父親はどうして死んだのか? 母親は、ミナには内緒で、ときどき彼の遺品の帽子や勲章を出して、涙を流す。これも、つっこめば、謎だ。そして、最大の謎は、ヨンジェの存在である。以下、「ネタバレ」(見るまえに楽しみを奪う記述があるとするパラノイア)を恐れる者は、読まないでほしい。読みたい人は、マウスでドラッグすれば、読める。
◆母親は、娘に、来月ヨーロッパへバレーを見に行こう、と言う。「お店を売ってお金を作ったから」と。むろん、これは冗談だ。また、「あなたのお父さんは、死んだあの人じゃなのの」と深刻な態度で言い、そのあげく、「本当のおとうさんは、宇宙人なのよ」とも。これは、えてして沈みがちなミナの気持ちを明るくしようとする演技なのだが、この母親は、なかなかの「演技者」なのである。これは、一つのサインではなかろうか? 「演技者」であれば、ミナに言わないで事を進めるのも難しくはないはずだ。
◆マンションの下の部屋がたまたま空室になり、そこにたまたまヨンジェが引っ越してきたとミナは思ったかもしれないが、十代の中学生か高校生ぐらいの年令の女の子に10歳以上年上の男が近づくのを少しも恐れず、むしろ、つきあうことをそそのかす母親はめずらしい。子供の命があまり長くないということを知っているためにそうするのだろうか? むしろ、ヨンジェは、この母親の手引きでここに引っ越してきたのではないか? そして、娘の気持ちを高揚させ、彼が好きだというハワイへ彼女を連れて行ってもらうことも含めて、彼女がすべてお膳立したのではないか? そのように見ると、この映画は、単に「アメリカン・ウェイ・オブ・ライフ」を模倣している韓国ミドルクラスのワン・ペアレント・ファミリー(これも「アメリカ」的)のメロドラマを描いているのではなく、むしろ、韓国の「しっかりもの」の母親と娘の話であるという展開ができる。わたしは、そのほうが、この映画のユニークさが活きると思う。

(松竹試写室/松竹)



2005-09-28_2

●同じ月を見ている (Under the Same Moon/2005/Fukasaku Kenta)(深作健太)


◆同じ試写室なのだが、多少時間があるので、外へ。ジャンクフードの店でチーズバーガーをほうばり、コーラーを流し込む。こういう店って女の人が多いですな。一説によると、ハンバーガーのようなユルユルの食品ばかり食べていると、破裂音ができなくなるらしい。現に、いま10代から20代(場合によると30代でも)の女性は、かつて猫を追うときなどに使った「シッ!」という強い破裂音の発音できない。それは、動物愛護からではないだろう。「シッ」が「スィ」(正確には表記できない)となってしまう。が、それは東北弁ともちがうし、東北出身の女性もそういう発音をする。この映画でも、沖縄生まれの黒木メイサは、「どうスィたの?」(どうしたの)、「ハズィめて」(はじめて)、「タンゾョービ」(たんじょうび)という発音になっていた。まえの『まだまだあぶない刑事』の原沙知絵はもっと凄く、「私」を「ワタスィ」、「社長」を「サツォー」、「事業」を「ズィギョオー」、「内」を「ウツィ」、「お話し」を「オハナスィ」、「大至急」を「ダイスィクー」、「違う」を「ツガウ」、「ありがとう」を「アユガト」と発音していた。ちなみに、彼女は、福岡県出身。
◆女一人に男二人の関係を「トライアングル・ラブ」というらしいが、その一人の男に、ある種「純真」な人物をもってきたところがこの映画のミソ。それは、かなり成功している。3人は幼友達だったが、その一人、ドン(エディソン・チャン)は、霊感的な能力と絵の才能を維持したまま育つ。しかし、「出世」はしない。もう一人、鉄矢(窪塚洋介)は、ごく普通に、立身出世のことも考える大人になる。彼は、3人の一人の女、エミ(黒木メイサ)の心臓病を自分の手で直すと子供のときに2人に「誓った」ことを守ろうとして医者になり、研修医になっている。しかし、彼は、成長する過程で、おそらく――医者の道に進んだのだから――受験勉強にはげみ、他を振り切って研修医までたどりついた。その過程で、親もない(どうして育ったのかは描かれない)ドンから離れ、エミを恋人にした。学生の鉄矢が、町で、廃品回収業のようなことをやっているドンと行き違うシーンがある。彼は、なつかしげに鉄矢のほうを見るが、彼は無視する。2人の登場人物は、窪塚とチャンとの対照的な雰囲気が生かされている。
◆最初、ごく日常的にスタートするが、だんだん「ドラマティック」になっていく。それが必ずしもいいわけではなく、もっと「ドラマ」を抑えて描いたほうがこの映画の「同じ月を見ている」というラインがはっきりすると思うが、深作健太としては、アクションがほしかったのだろう。ヤクザがからんでくるくだりで、ボッタクリバーのマスターを演じる山本太郎はなかなかいい。いいというのは、そのアクションではなく、ドンとの出会いのなかで生まれる友情の表現がだ。変な医者の役がオハコになってしまった松尾スズキが、今回は、あまり全面に出ていないせいか、なかなか笑える。
◆窪塚洋介は、飛び降り事件以後、主役としては、復帰第一作だが、なかなかいい演技をしている。最後の最後のシーンで、海辺の病院の近くの防波堤で、黒木メイサと海を背にして座っていて、微妙な表情をし、それから黒木の背に手を回すまでの数分に、この2年間の彼の演技的な飛躍が凝縮されている。そのときの彼の微妙な表情がなぜ高く評価できるかを詳述するには、また「ネタバレ」恐怖症の族(やから)をさわがせなければならないので、今回はやめておく。
◆人は「同じ月を見ている」のだが、境遇は同じにはなれない。それが人生なんだけど、そういうことに無神経な人生を歩んでいる奴もいる。親の経済格差から子供の生活に照射される階級差。ある職業を選んだことによって招来する他者への距離。結婚したり遺産相続することによって選びなおされる階級。それらは、宿命的なものもあるが、そこから、おごりや侮蔑、嫉妬や憎しみが生まれる。わずかに想像力だけが、それらのアパルトヘイト的障壁を越えさせるが、多くの場合は、それらを忘れることのできる特権階級へと上昇する方向が目指される。下にいれば、いつも上が見える。上に行ってしまえば、下に影をつくっても、下を見ないかぎり、何もさえぎるものがない(見えない)。
◆自分がどんなに相手を抑圧しないと思っていても、幼い子供から見れば大人は「怖い」存在であり、刀やピストルをぶらさげている者は、無防備の者には、権力者なのだ。コンピュータや外国語をあやつる奴も、できない者には権力者であり、威圧的な存在である。大人が子供と話すときにしゃがむのは、子供と同じ位置に身を置こうとする意志であり(その振りをする)ゼスチャーであるが、しないよりはした方が、相手は威圧感をまぬがれる。しかし、競争原理で動く社会では、そういう「民主」と「平等」の論理は、ゼスチャー以上には機能しえない。この映画の鉄矢とドンとの別れのようなことが起きる。
◆わたしは、階級無視の人間なので、そういうジェスチャーのたしなみが貧弱なのだろう。先日、かつて首に鎖なんかをぶら下げて暴れ回っていた人に会ったので、ハグしてやったら、相手はえらく当惑し、かつ、「おれはもうそんなんじゃないんだ」みたいなプライドの表情があらわれた。うっかりしたが、いまその人は某大学の教授なのだった。そうそう、かつてゴム草履をはいて書庫のあいだをかけまわっていた人が、びしっとした背広を着ているので冷やかしたら、まわりを気づかってとまどっていた。その人も教授になったばかりだった。いや、別にわたしは、教授に偏見はもっていませんが。この映画のおかげで色々考えた。
(東映第1試写室/東映)



2005-09-28_1

●まだまだあぶない刑事 (Madamada Abunai Keiji/2005/Torii Kunio)(鳥井邦男)


◆いやあ、運が悪いという日があるんですね。東映の試写室のスクリーンは小さいので、通常は最前列に座る。が、今日はコンピュータの作業で目が疲れていたので、自然に後方に席をとった。まわりはがらがら。ところが、そこへ「すみません」と言って一人の女性が入ってきて、わたしの膝をひっこめさせた。一応笑顔で足を引っ込めたが、その人、わたしの隣に着席。いっぱい席が空いているのに、暑苦しいじゃないか。その人、着席し、ボトルのお茶をぐいとあおると、ティシュを出し、いきなりビーと鼻をかみはじめた。けっこうつまっているようで、長く音が続く。それからすぐに上映が始まったのだが、その人、ひどい咳をする。胸の奥からこだまするような咳で、風邪だとしたら、まだ病み上がりの感じ。おいおい、そんな状態で出てこないで、家で寝てろよ。かくして、上映中、わたしは、咳のするたびに体をそむけ、映画をななめに見ることになったのだった。したがって、評価は、冷淡になるかもしれない。
◆舘ひろしと柴田恭平がいい味出してるということをのぞくと、どうということはない映画。イントロの韓国、プサンのシーンはなかなかきびきびしていて期待をもたせる。しかし、もったいないなぁと思う。この映画で舘と柴田が見せている味と演技なら、十分ハリウッドで仕事ができる。彼らを活かす場がこの映画のレベルしかないというのは、何とも不幸だ。全体のノリは、結局、「お笑い」なのだ。「お笑い」のノリで作られている。その最たる犠牲者が浅野温子。これがいいという人がいるから、こういう映画が出来るのだろうが、わたしなんかは、気の毒に思えて、泣いたね。浅野は、舘と柴田以上に活かされていない。
◆また「ネタバレ」だぁと騒ぐ族(やから)がいるから、やめる(だけどさ、見ないで「ネタバレ」と言うことはできないわけだから、「ネタバレ」と言う奴の方が「ネタバレ」だぁと言うことによって「ネタバレ」をやってんじゃないの?)が、この映画、舘/柴田世代を立てて、その下の「デジタル」世代をコケにしてるのではないか? コンピュータに強くて、何でもデータベースにしてしまいたい若いオタク刑事を水嶋修一が、銃が持てるので警察に入ったようなガンマニアのやはり「オタク」世代の刑事を、鹿沼渉が演じるが、最後のどんでん返しは、やっぱり差別だよな。
◆しかし、舘と柴田の見識というかセンスというか、そういうものが、映像レベルでは、オタク世代のアンチにはなっていない。彼らなら、オタクを敵に回さない大人の役を演じられるだろう。が、そこまでフォローできる受け皿がねぇんだな。『容疑者 室井慎次』でも、オタクの弁護士は、哀川翔や柳葉敏郎が演じる登場人物からすると敵で、否定されるべきキャラクターとして描かれている。それじゃ、もういかないよ。団塊世代が定年で去り、オタク世代がエスタブリッシュメントになる時代ですぜ。
◆スチルや予告でもよく見る、舘が手放しでバイクを運転しながら銃を撃つシーンと、柴田が空(くう)を飛びながらピストルを撃っているシーンは、たしかにかっこいい。一見にあたいする。舘とくらべると、柴田は、1歳年上なだけ(?)疲れが見えるが、舘の口元の「下品」さはなかなかセクシーだね。
(東映第1試写室/東映)



2005-09-27

●イントゥー・ザ・ブルー (Into the Blue/2005/John Stockwell)(ジョン・スコットウェル)

Into the Blue
◆まえの試写が終わらず、待たされる。試写状も手で受け取らないおざなりな入場。プレスも海外の資料を訳しただけのおざなりなもの。本気で営業する気迫が感じられない?なんて思ってしまう。
◆「善玉」「悪玉」がはっきりしている単純なアクション映画だが、水中のシーンが目を惹く。出演のポール・ウォーカーもスコット・カーンもジェシカ・アルバも、いずれもフリー・ダイビングに慣れている役者だというが、それにしても、素人のわたしには、酸素をもたずに水中にいる時間がやけに長すぎるような気がしてならなかった。
◆コカインを満載したドラッグディーラの飛行機が墜落した地点がたまたま19世紀に秘宝と金をたっぷり積んで沈んだ「ゼフィア号」の場所と同じだったという設定。ハリケーンで秘宝が海底の砂から現れ、ポール・ウォーカーたちがたまたまその一部を見つけ、さらに、その行きずりに飛行機も見つける。彼らは秘宝を引き上げたい。しかし、金がない。飛行機のなかにコカインを発見した彼らは、それを流して金を作り、それで秘宝を引き上げようと考える。
◆その計画は、2つの困難に直面する。1つは、モラル的な問題。スコット・カーンがニューヨークで知りあったばかりでバハマのウォーカ、アルバのカップルのもとに連れてきた女(アシュレイ・スコット)は、金を儲けて何が悪いのと割り切り、スコットも同調し、ポールも揺れるが、アルバは反対し、そのあいだでポールは迷う。もう1つの問題は、この秘宝をまえまえからねらっていたジョシュ・ブローリンとの関係。それにさらに、コカインを売り渡したときの相手の問題。そいつは、問題のコカインの持ち主だった。
◆こういうストーリーをいくら書いても、映画を文字で代替することはできない。むろん、わたしは、文字で映画を代替しようとするつもりもない。それに、映画を見ながら、わたしは、ストーリーを追っていたわけではない。それよりも、こういうストーリーの枠のなかで起こされるアクションやフィーリングの「海」のなかを泳ぎ、スリルを味わったり、ハッとしたり、「う~ん、こいつらけっこうモラリッシュなんだな」と思ったりしたのだ。映画は、ムービー(動き)である。だから、そうした「動き」のなかで、わたしがどう「動いた」か(感動し、体を揺すられた)を書かなければならないわけだが、この映画の場合、やはり一過性で、終わると、その「感動」がどこかへ飛んでいってしまう。エンタテインメントとは、気晴らしであって、残らない方がエンタテインメント性が高いのだ。まあ、その程度の映画。
(20世紀フォックス試写室/20世紀フォックス映画)



2005-09-22

●天空の草原のナンサ (Die Höhle des gelben Hundes/The Cave of the Yellow Dog/2005/Byambasuren Davaa)(ビャンバスレン・ダバー)

The Cave of the Yellow  Dog
◆モンゴルのウランバートルの出身で、現在ミュンヘンにいるダバーの目は、モンゴルに密着しながらも、同時に、微妙に西欧にも片足を置いている。そのせいかどうかわからないが、日本では、モンゴルと日本との親近性を言うが、モンゴルの方は基本的に日本よりも「西欧」との親近性を強くもっているのではないか? この映画を見てそう思った。それは、単純すぎると言われるかもしれないが、室内で靴を脱ぐかどうかの問題である。日本では、室内で靴を脱ぐ。これは、海外で暮らす日本人もなかなか脱することの出来ない根強い習慣だ(別に脱しなくってもいいんだが)。しかし、この映画で、テントに住む実在のバットチュルーン一家の人々は、敷物を敷いたテントのなかで靴を履いたまま暮らす。
◆親と子の関係も、比較文化論的には、日本よりも自律を優先しているように見える。6才のナンサは、大きなカゴをかついで、牛の糞を集めにも行く。糞は、燃料になり、また肉を燻すのにも使われる。また、子供たちは、糞を積み木代わりに使って遊ぶ。ナンサは、この歳で馬に乗り、遠出する。のびのびしていて実にいい。
◆遊牧民といっても、非常にオーガナイズされている。風雨力発電機もバイクがあり、父親は、狼に襲われて死んだ2頭の羊の皮をはいで、それを街に売りに行く。街への「出稼ぎ」から帰るとき、街で売っているものを買ってくるが、そのなかには、ピンクの縫いぐるみなんかもある。このへんに関して、ダバー監督は、「近代化が及ぶことで、安息、無垢、生の根源性など多くのものが失われると考える」と言っているが、では、西欧的「近代」が入り込む以前は、「安息、無垢、生の根源性」がしっかりと根をはっていたのだろうか? こういう考えは、西欧が東洋や「前近代」を見る典型的な見方であるような気がする。そういうものは、どこにも安定した形では存在しなかったのだ。
◆おそらく、「安息、無垢、生の根源性」というようなものがあたかも根をはっているかのように見える場所があるとすれば、それは、ある一定の習慣や技術が、あまり変化せずに一定期間「長い持続」を保つときを見ているからだろう。この映画の最後で、バットチュルーン一家は、テント(ゲル)を解体し、移動をはじめる。そのゲルは、実にうまく作られており、解体し、移動するのに便利に出来ている。風力発電機、ゲルの骨組み(木製)、それを包む皮製のシート、床の敷物・・・それらを6台の牛車に分散して、出発する。ここには、「前近代」というよりも、「前近代」と「近代」のなかなか面白いバランスを感じる。それが、もうじき崩壊しそうである予感はあるが。その意味では、ある一定期間つづいた「遊牧民」の生活が、いま一つの転機にさしかかっていることはたしかだ。
◆ここで使われる音楽がすばらしい。男の低い声が「口琴」のような響きを出し、女のかん高い声が電子楽器のように響く。日本の浪花節は、モンゴルあたりに源流を持つのだろうか?
◆ナンサが偶然洞窟で見つけた犬が、この映画の山場を作るが、このへんは、映画にはストーリーが必要といった前提から要請されたようなところがあって、わたしには、不自然だった。【以下「ネタバレ」恐怖症の人は見ないこと】 この犬は、ナンサの幼い弟が禿げ鷹に襲われそうになるのを助けるのだ。プレスのインタヴューでダヴァーは、禿げ鷹は非常に用心深く、撮影には苦労したことにふれているが、映画のなかでも、基本的にひたすら何かの死骸(これは禿げ鷹を呼び寄せるために撮影用に準備されたもの)をついばみ、チビを攻撃しそうにない。しかし、映画は、こちらを鋭い目でにらむショットを見せるから、あたかも無防備のチビの方が次の瞬間鷹に襲われるのではないかという不安感をあおる。そこへ、犬が鷹に吠えかかるショットをかぶせるから、あたかも犬が鷹を追い散らしたかのような構成になる。こういうやり方は、物語志向がドキュメンタリー志向を殺してしまうような気がする。 (スペースFS汐留/東芝エンタテインメント)



2005-09-21_2

●僕と未来とブエノスアイレス (El Abrazo partido/2004/Daninel Burman)(ダニエル・ブルマン)

El Abrazo partido
◆ブエノスアイレスというと、わたしの場合は、東欧からのユダヤ人移民のことを思い出す。1970年代にカフカとの関係でイーディシュ演劇を「研究」していたとき、当時イーディッシュ演劇が世界中で生き残っているのはブエノスアイレスだけだというのが定説だったからである。ヒトラーのユダヤ人迫害を逃れて亡命したユダヤ人の行き先の一つだったのだ。この映画の主人公アリエル・マカロフ(ダニエル・エンドレール)は、ポーランドのワルシャワから亡命した祖父母の孫である。
◆アリエルのパーソナリティには、ポーランド系ユダヤ人の監督ダニエル・ブルマンのそれが重ねあわされているが、ポーランド系ユダヤ人の目から、彼をとりまくポスト・エスニックな状況が活写されている。映画の舞台となるユダヤ人街オンセ地区の「ガレリア」(アーケード商店街)は、ユダヤ人を中心としながらも、すでに多民族的な環境になっている。このガレリアには、風水グッズを売る韓国人夫婦とか、イタリア人のラジオ屋とかもいる。また、ボリビア人やペルー人もいる。
◆ユダヤ系の家庭では、父親の存在が重いのだが、アリエルの父(ホルヘ・デリーア)は、アリエルの割礼式のあと(たぶん6日戦争のころ?)イスラエルに戦争のために行き、そのまま帰ってこないという設定になっている。母ソニア(アドラ・アイゼンベルグ)は、ランジェリー・ショップを経営し、彼と兄(セルヒオ・ボリス)を育てた。兄はいまでは雑貨の輸出入をいとなんでいる。アリエルは、ガレリアでインターネットカフェをやっている40女のリタ(シルビーナ・ボスコ)に惚れているが、彼女には、パトロンだか夫だか父親だかわからない一人の老人の影がつきまとう。こういう環境のなかで、アリエルは、ユダヤ人をやめ、ポーランド人になろうと思っている。別にポーランド人にこだわるわけではなく、ユダヤ人としての「ルーツ」を捨てたいと思っている。祖父母が半分ポーランド人なので、そのコネでポーランド人になろうというわけだ。ユダヤ人コミュニティに住みながら非ユダヤ人になろうとしているアリエルは、大げさな言い方をすれば、いまの時代にユダヤ人であるとはどういうことかという問題をこの映画は問うているということでもある。
◆アリエルは、自分の父がモサド(イスラエル秘密警察)なのはないかという疑いをいだいたことがあるはずだ。父は母と別れたわけではなく、毎月電話がかかってくるし、アリエルの「養育費」も送ってくる。で、結局どうなるのか? 父との再会があるが、劇的な終末を迎えるわけではない。そこがまたこの映画のいいところでもある。
(メディアボックス試写室/ハピネット・ピクチャーズ+アニープラネット)



2005-09-21_1

●二人日和 (Futaribiyori/2005/Nomura Keiichi)(野村恵一)

Futaribiyori
◆葵祭を初めとする京都の神社の祭典の衣装装束を作る「神祇装束司」(じんぎしょうぞくし)(栗塚旭)とその妻(藤村志保)の物語だというので、抹香臭い要素があるのかなと若干警戒したが、わたしなどのようなよそ者にも納得できる「京都」が描かれていて、面白かった。「面白い」といっても、妻が「筋萎縮性側索硬化症 (ALS)」にかかり、夫が身の回りの世話をしながら見取るまでの話だから、胸がつまる。年令にかかわらず、家族の誰かが病気になり、その人を見取ったことがある人は、その記憶がよみがえるだろう。そして、カップルが長くいっしょに生きるということはどういうことなのかを考えさせもするだろう。
◆藤村志保が、京都の町家のおかみさん、千恵を演じ、彼女の最高水準の演技を見せる。栗塚旭は、一徹な職人、黒由玄を渋く演じており、いい組み合わせだ。「神祇装束司」といっても、また、最初に神社で水を汲み、帰宅して神棚に手を合わせるシーンがあるといっても、黒由玄という人物は、神道を盾に取るような原理主義的な、あるいは安部や小泉のような神道をあたかも信じているようなふりをして政治をあやつるくわせ者でもない。ごく自然な習慣から彼はそうしている。それに、毎朝神社の水を汲みに行くのは、その水が、彼の好きなコーヒをたてるのに一番適していると彼が信じているからだ。京都では、たとえば錦小路の錦天満宮などでも、庭に沸く水をペットボトルや容器に一杯つめて持ち帰る人がいる。むろん信仰もあるのだろうが、目があうと、その水がおいしいということを口にする。
◆神棚に手を合わせる「神祇装束司」だが、収め先の神社の宮司とは品物の仕上げの路線でもめる。二人が話しているのを見ると、宮司が実に生臭い人物に見えてくる。宮司は、近頃は、神社も実入りが少なくなっているので、若者の「客」を増やさないとアカンので、衣装をハデハデにしてくれという要求を出す。しかし、黒由は、それに抵抗し、伝統と新しさとの拮抗するような色に仕上げて納める。このへんが、いかにも京都の職人らしいという感じがする。東京にもそういう人はいるだろうが、そういう人を生かしておく余地が京都よりはるかに乏しいと思う。
◆コーヒーを炒れるのが好きなように、黒田は、「モダンボーイ」である。冒頭にタンゴのシーンがあり、その意味がやがて明らかになるが、黒田は若いときにはタンゴを踊りもした。年令は明記されていないが、まあ60代の終わりから70代の初めぐらいの年令という設定だろう。この年代の京都の職人や料理人にはこういう人がよくいる。わたしが最も尊敬する料理人の一人である松井新七氏(祇園川上)は、もう少し年令が上だが、クラッシックを愛し、アップルのMacで絵を描く。それも、個展を開くほどの腕前なのだから、驚く。外見は、まさにこの栗塚旭が演じる黒由玄のように言葉少なく、つましい。京都の料理屋は、夫婦がそろって店に出ているところが多いが、彼や彼女らは、黒由玄・知恵のような「つつましく」、「いき」で「モダン」な夫婦であることが多い。
◆日本人――つまり日本という環境のなかで生まれ、育った者――が自然に抱いてきた「ウアドクサ」の一つに、「つつましさ」というものがあるような気がする。フッサールは、かつて、「ウアドクサ」(Urdoxa)という概念を提起し、宗教やイデオロギーとしての「信仰」よりももっと深層の「原信」があることを論述した。身体が無意識に知っている「右/左」「上/下」というような感覚もこの「ウアドクサ」(doxaは「盲信」というような否定的な意味に解されるが、ここでは〈信〉といった意味である)だ。それは、「信仰が失われた」とか「日本人は無宗教だ」とか言っても、その根底で無意識のまま機能している。それが、表面に出にくい時代もあれば、逆に歪められた形で増幅される時代もある。そういう「つつましさ」は、いまの時代、東京よりも京都に、その日常のなかにまだ見えやすい形で生きている。
◆監督がどこまで意識しているかどうかわからないが、京都の「いやらしさ」のようなものも出ていて面白い。その1形態を、千恵の友人役でちらりと出てくる市田ひろみが体現しているのがお笑いだが、そういう押し付けがましく「えげつない」京都もある。華道の家元池坊の45代池坊専永の娘、池坊美佳も、黒由の姪を演じるなかで、京都のある種のエリート的「いやらしさ」をちらりと見せる。こういう「いやらしさ」は、一つの活力でもあるが、よそ者には疲れるときもある。
◆わたしは「つつましさ」をここでは肯定的でポジティヴな意味で使うが、これがゆがめられ、「言うべきことを言わない」、必要以上に自分を卑下・遠慮するという形で現れる場合がある。また、「つつましさ」が内に抑圧された果てに、その反動として、恐るべき露骨さや権威主義が出てくることがある。これは、この100年ぐらいの日本史に思いをはせても納得がいくだろう。
◆「つつましさ」がうまく機能すれば、「相手の人格を究極のところで侵しがたいものとして認める」という態度が出ざるをえない。京都は、そうした「個の自律」を許す環境が東京よりあるような気がする。が、同時に、自分だけの「個の自律」しか考えず、相手のあれこれ押し付ける輩も出る可能性はあるわけで、市田のおばちゃんはそんなキャラを体現していて面白い。
(松竹試写室/パンドラ)



2005-09-21

●世界 (Shiji/the World/2004/Zhang Ke Jia)(ジャ・ジャクー)

2005-09-21
the World
◆中国のいまを象徴するようなテーマパーク「世界公園」、「北京を出ないで世界を回る」その「中華思想」的発想やキッチュ的人工性への批判が込められているといくような批評を耳にしていたので、現物を見ての印象がちがった。ここには、そんな「批判」はないと思う。それよりも、そういう所与的な場を使って1本の映画を撮ったということである。それによってたしかにちょっと風変わりな映画にはなったかもしれないが、それほど飛んでいるわけでもない。逆に言えば、せっかくこんな空間を舞台にしながら、なぜもっとエキセントリックな映画にならなかったのかと、無理な希望をいだいてしまう。
◆まず、「世界公園」という空間が、中国の近代化の滑稽さを象徴しているような暗黙の前提があるが、わたしにはそうは見えない。レプリカを作り、そこがあたかも「ニューヨーク」、「エジプト」、「パリ」等々の場所へ行ったかのような「錯覚」を覚えさせるように出来ているのなら、そういう「批判」も成り立つ。が、ここにある「マンハッタン」や「ピラミッド」や「エッフェル塔」や「ロンドン橋」は、原寸大ではなく、それほど精巧には模倣されていない3分の1の模型にすぎない。ある意味でこれらは「盆栽」であり、それはそれで面白い。そこには、サリーやスチワーデスの服を着た女がいるが、要するに「おままごと」をしているにすぎない。
◆あえて、そのユニークさを問題にするならば、「そっくり」を作ろうとするデジタル・カルチャーにたいして、そこそこであとは想像力で補って遊ぶ「おままごと」的なカルチャーの存在だろう。それを楽しむか拒否するかは、好みの問題であって、最初から「半分ほんと」にしか作っていないのだから、「そっくり」の世界に巻き込んで翻弄する西欧的ヴァーチャリズムの「犯罪性」はない。
◆大笑いで見せられる世界を、このようにどこか悲しげに提示するには、理由があるのだろう。このテーマパークで働いている女性たちは、みな幸せではなさそうだ。いまは別れて、守衛主任のタイシェン(チェン・タイシェン)とつきあっているタオ(チャオ・タオ)は、初めて北京に来て、安ホテルで(寒いので)ビニールのカッパを来て寝たのが忘れられない。というよりも、あの時代の貧しかったが、人格だけは維持していた自分がなつかしい。いまの自分は、今日は「インドの踊り子」、明日は「芸者」やアメリカンな「スチワーデス」と人格を失っている・・・とでも言わんかのように。
◆この映画で、ここは、監督が力を入れているなと思わせるシーンは、タイシェンが弟のようにかわいがっていた、ビルの工事現場で働くアークーニャンが事故で入院し、死に、上京した両親が慰謝料か保険金をもらい、そのあと工事現場でささやかな追悼をする一連のシーンだ。ここには、北京の繁栄の片隅にある貧しさへの怒りや悲しみがよく出ている。しかし、こういう「わびしさ」や「つつましさ」は、あまり活きていない。
◆冒頭、タオが、「バンドエイドない?」とかん高い声を出しながら楽屋をあるいている。この映画を見て思ったが、ロワーなクラスの女ほど、声がかん高いのだろうか? だから、同僚のヨウヨウは、団長に出世すると、声が低くなった。ケータイで電話したが出なかったと猜疑心の強いニューの恋人ウェイは両者の中間。
◆「世界公園」には、ロシアからの出稼ぎのダンサーもいる。彼女らも幸せではない。ヤクザっぽい男にパスポートを取り上げられ、働くだけ働かされる。故郷に小さい子供を残して来ている女もいる。
◆この映画ではみんなケータイを使うが、みなにケイタイを持たせたのは、意図的らしく、たとえばタオからタイシュンに電話がかかってくると、アニメでケータイの画面が映される。これが実に「わびしい」感じで、それが、アークーニャンの死の前後がつながる。
(メディアボックス試写室/オフィス北野+ビターズ・エンド)



2005-09-15

●欲望 (Yokubo/2005/Shinohara Tetsuo)(篠原哲雄)

Yokubo
◆篠原哲雄の作品は「シネマノート」でもいくつかとりあげている。『はつ恋』のわたしの評価はわるくなかった。『』も、原作を料理しきってはいないが、色々のことを考えさせる点でわるくなかった。『天国の本屋~恋火』も、なかなかスタイリッシュで楽しめた。『深呼吸の必要』も、オールタナティヴな集団性の問題を考えさせる点でとてもインスパイアリングな作品だった。しかし、今回は、なんかピンと来なかった。大森南朋と、のちには村上淳とセックスシーンを展開する板谷由夏にわたしが全然セクシーさを感じなかったせいかもしれないが、彼女と彼らが奮闘するセックスシーンには全く新味がなく、退屈だった。この映画にかぎらないが、舞踏やダンスの世界でもさまざまな試みがなされているし、またポルノ産業もあの手この手のアイデアでがんばっているのだから、映画のセックスシーンも、もうちょっと工夫してほしい。
◆1982年という「現在」、さかのぼる学生時代、そのあいだの時代の3つの時間がスウィッチされながら展開するが、かなり先が読める。冒頭、安食堂で焼き魚定食を食べているメガネの女性(板谷由夏)。テレビで、ホテル・ニュージャパンの火災が「昨日」あったことを報じている。ということは、この日は、1982年2月9日だということになる。が、食堂にいる客たちが、「え!」といった顔つきでテレビの方を見ているのはおかしい。そこでは事件の新事実が報じられているわけではない。というのも、この火災は、2月8日の朝に起こり、この日は一日中テレビがこの事件を報道し、その翌日には、この事件のことを知らない者はなく、翌日の夜のテレビでそのニュースを聞いて「え!」と思う者は極めて少数だったはずだからである。
◆ところで、わたしは、この1982年2月8日に、オーストラリアに行くため、箱崎東京シティエアターミナルへタクシーを走らせていた。赤坂見附にさしかかると、猛烈な煙が見え、ホテルニュージャパンの火災を知ったのだった。高速道路は現場のすぐわきを通っているから、その光景はありありと記憶に残っている。この旅行の成果が『遊歩都市   もうひとつのオーストラリア』(冬樹社)だが、それはともかく、ホテルニュージャパンというのは、60~70年代には、その後に言う「不倫」や「密会」のためのホテルとして有名だった。いわゆる「ラブホテル」ではなく、アメリカ風のホテルでありながら、なぜかそういう目的で使われるのだった。値段は安くなかったから、カッコつけるのによかったのだろう。
◆映画では、テレビのニュースを聞いて、類子(板谷由夏)がこのホテルで「一度だけ男と情事を交わした」ことを思い出す。その相手は、秋葉(村上淳)である。ただし、ドラマの流れからすると、2人が行くホテルとしてはふさわしくない。類子は、公共図書館の同僚の能勢(大森南朋)と週末には必ずセックスのためのセックスをくりかえしたいる。そんなとき、彼女は、学友だった秋葉に再会する。それは、同じ学友で、いまでは年上の精神科医・袴田(津川雅彦)と結婚している阿佐緒(高岡早紀)の家でだった。その家の書庫を見せてもらっていると、そこに秋葉がいた。彼は、この家で庭師をしていたのだった。・・・などということをダラダラ書いてもしかたがない。ストーリーにも新味は全然ないのだから。
◆困ったことに、この作品(というより原作)は、三島由紀夫への浅薄なオマージュがあり、それがくりかえしドラマの小道具として出てくる。書庫で類子と秋葉が会うのも、三島の本のならんだ棚のまえだ。ちなみに、袴田の自慢の書庫というが、まるで使っている形跡がないような本の並べ方。紀伊国屋書店や丸善に委託して撮影のために「見つくろって」もらった本という感じ。この人物の俗物根性を示唆するためにはかっこうだが、よく知られた画家の画集、ニーチェ全集、エルンスト・クレッチマーとか土居健郎といったつまらない本ばかり。そのなかで三島由紀夫の本だけが目立つのは、「三島由紀夫」がこの映画の小道具になっているからである。
◆おそらく、原作自体にねじれがあるのだろう。ここでとらえられている「三島由紀夫」は、誤解(鶴見俊輔の『誤解する権利』が示唆したように解釈に「誤解」ということはないけれど)というか、つまらない「三島由紀夫」である。あるいは、文字ズラをオタク的に追っているだけの「三島由紀夫」である。ここには、どうやら、彼が生きていたころマスコミがつくりあげた「三島由紀夫」像と、作品のなかのもろもろの人物とを同一視しているような単純さが感じられる。わたしは、津川雅彦が演じる精神科医が、30ぐらい年下の阿佐緒や、パーティの客たちにえらそうな講釈をたれているのを聞いて、生前の三島を思い出した。彼は、変に理屈っぽく、つまらないことにこだわった。やせがまんとわかるのに、悪ぶってみたり、大人になりきれないところもあった。テレビで見る三島はそういう感じだった。「まだやっていないことがたくさんあるからね」というようなことを言うので、インタヴュアーが、「たとえば?」と訊くと、「殺人とかね」と言って笑うといった具合。自作の舞台稽古にあらわれて、女優らに「きみねぇ、演劇というものは虚構性を・・・」などと講釈をたれていたらしいが、そういう感じは、津川はよく出している(別に「袴田」が三島の分身として設定されているわけではないが)。ただし、これは、俗なる三島、マスコミで偶像化された三島のイメージであって、それを彼の作品世界とだぶらせるのは、不毛なことだ。たとえテレビや観衆のまえの「三島由紀夫」は嫌みな人物でも、その作品は、作者(まして偶像化された作者像)とは別物であり、そうとらなけば、作品は閉ざされてしまう。
◆もし、三島に入れ込むのだったら、ひんぱんに三島の本(とりわけ『天人五衰』)などを見せずにやるべきだし、映像世界そのものを「三島的」にしなければならない。類子と秋葉とのセックスは、能勢と類子の「ただやるだけ」のセックスと対照的なものとして描こうとしているが、それは全く出ていないし、三島的なエロティシズムとは無関係である。最大の欠陥は、この映画には、どこにも同性愛的な要素がないし、三島的な「虚構性」もないからである。三島がこの映画を見たら、「あのねぇ、きみたち、真面目すぎるよ。虚構とはね・・・」と言うだろう。
◆類子は、本が好きで、図書館の司書をしているくらいだから、本の世界にのめり込むタイプなのだろう。そういう人間は、「現実」には、職場と孤独なアパートとのあいだを往復する単調な生活をし、その分、意識のなかでは過剰な「夢」を膨らませるものだ。だから、この映画も、北野武の『TAKESHIS'』のスタイルを少しでも薬にすればよかった。フランソワ・オゾンの『スイミング・プール』のあいまいな仮想性が出せたらもっとよかった(まあ無理か)。
(映画美学校第2試写室/メディア・スーツ)



2005-09-14

●イン・ハー・シューズ (In Her Shoes/2005/Curtis Hanson)(カーティス・ハンソン)

In Her Shoes
◆親を安心させない年令は、日本でもどんどん高くなっているようだ。ちなみに、わたしは、40代の終わりまで物書きのフリーターをやり、かつ世界放浪(?)をしていたので、親は、ひとときも心の休まるときがなかったらしい。そのせいか、「定職」を得るやいなや、安心したのか、二人ともたちまちあの世に召されてしまった。
◆しかし、「定職」を得たぐらいで親の心配はおさまるわけではない。心配の種はいくらでも出てくるからだ。だから、心配する親と心配させる子との関係は、相互的であり、子供も子供ならば、親の方も子供に関心を向けすぎるから心配がたえないのである。それは、単なる心配でなく、子供への愛情であり「思いやり」でもあるのだが、そのパワーが強すぎると、裏目に出る。
◆この映画は、ストレートにこういう問題を出しているわけではないが、根底に、ユダヤ・ファミリーの「おばあちゃん」の「家族愛」の強すぎる「弊害」と「恩恵」の問題が隠されている。うっかりすると、日本では、この映画がユダヤ系ファミリーの話をあつかっていることがわからないかもしれないが、この点をおさえないと、この映画のタイトルの意味もわからないだろう。
◆マギー(キャメロン・ディアス)は、30歳になろうとしているのに、腰のすわらない生活をしている。「難読症」(dyslexia)で、字をちゃんと読むこともできず、教養もない。これは、ユダヤ系であることに誇りをもつファミリーではあってはならないことである。ユダヤ系のファミリーは、子供たちの「読み書き」教育に熱心なのが普通だからだ。マギーは、美貌に自信があるのですぐ男が近づいてくるが、2日と関係が続かない。盗むことにも抵抗がなく、家族泣かせの娘である。母は早く死に、再婚した父親(ケン・ハワード)の家にいるが、義母のシデル(キャンディス・アザーラ)とはそりが合わず、泥酔して帰宅し、家から締め出される。そこで逃げ込んだのが、姉のローズ(トニ・コレット)のアパート。彼女は、マギーと対照的に、ちゃんと大学も出て、大きな法律事務所の弁護士をしている。弁護士や学者になるというのは、ユダヤ系ファミリーの模範である。
◆『ミート・ザ・ペアレンツ2』でも触れたが、一般通念として、ユダヤ系ファミリーの母親は強い。マギーとローズの母親は早死にしたが、祖母エラ(シャーリー・マクレーン)は、彼女のジューイッシュ・マザーとして娘を支配し、ふたりの孫のジューイッシュ・グランドマザーとしてのパワーを発散したはずである。それを嫌った父親は、祖母を2人の娘から遠ざけようとした。そのことが2人に影を落とし、父親にもエリーにも心の痛みになっている。
◆この映画の根底にはファミリーの問題があるが、リビングルームで一堂に介しているようなファミリーをまず見せ、それが次第に瓦解していくというようなありきたりの見せ方をしない。すでにファミリーは瓦解してしまっている。通常なら、ファミリーとしての連合を回復することはないだろう。だが、この映画では、マギーというどうしようもない女のおかげで、そのファミリーの消えかかった線がつながりはじめる。最初は決裂の激化だが、それが、次第に癒えていく。が、それは、自然にそうなるのではなく、「おばあちゃん」の、自ら深い傷を負った経験の果ての「聡明さ」のようなものがそれを動かす。
◆マギーのだらしなさは、近年、「日本人」のあいだにも似たものを見いだせるようになっているのではないか?マギーは、冷蔵庫から大きなハーゲンダッツのアイスクリームを取り出し、そこにミルクをかけて食べる。しかし、全部食べるわけではなく、中身を床にこぼしたりする。むろん、その掃除をするわけでもない。ベッドの上は散らかり放題、まあ、いっしょに生活するのはお断りというタイプの典型だ。
◆この映画は、マギーがこうなったのにも理由があることを示唆する。母親の心の病。それに対する父親の態度。母方の祖母エラの存在。むろん、義母との関係や秀才的な人生を歩んでいる姉の存在もある。ただし、この映画の面白さは、だからといって、マギーが「主人公」というわけではなく、登場するローズ、エラ、そして父親が、それぞれに悩み、それを克服していく様を、立体的に描き出しているところだ。
◆マギーが訪れ、祖母エリーに焦点があたるシーンになってから、この映画の基本にある重要なことが明確になる。彼女は、フロリダの養老院にいるが、彼女が親しくしている男性の老人が引き出しを開くと、ユダヤの燭台のマークの入ったナプキンかテーブルクロスが見える。つまり、この養老院の人々はみなユダヤ人なのだ。これは「ネタバレ」だと言うかもしれないが、日本では、『ミート・ザ・ペアレンツ2』がユダヤファミリーの話であることを知らない人もいるので、あえて注意を喚起しておく。そんなディテールに気づかなくても、この映画の終わりの方に出てくる結婚式を見ればマギーもローズもユダヤ系であることがわかる。彼女らの父が再婚した相手のシデルは、「ユダヤのカルトに入信した」と、父親が言うシーンもある。
◆エリートに自足していたローズも、自分の人生を考えなおす。将来を約束された弁護士事務所を辞め、フリータになる。彼女が、たまたま始めた犬の散歩アルバイトで、数頭の犬を連れて階段を駆け上がり、頂上で解放されたような表情をするシーンがすばらしい。この映画の舞台はフィラデルフィア。古い町並みが美しい。ちなみに、この階段は、フィラデルフィア・ミュージアム・オブ・アートの階段で、『ロッキー』でスタローンが駆け上がる階段だ。それまで勉強と仕事ばかりしてきたローズが、元同僚のサイモン(マーク・フォイアスタイン)と再会し、おいしいものを食べる喜びを知るシーンがある。それまでのローズは、そういう喜びを知らなかった。
◆この映画で「靴」は重要なメタファーになっている。まずは、ローズの靴収集。ブランドもの、年代ものをクローゼットの棚にびっしりかざっているローズだが、その靴を履くわけではない。これは、ある種の「病気」である。彼女が晴れの式で自分のブランドものの靴を初めて履こうとする。が、その靴は、マギーがこっそり履いて、ヒールを壊してしまっていて履くことができないことがわかる。他方、祖母のエラは、ちゃんとその式のために自分がかつて履いたヴィンテイジもののハイヒールを持ってきて、ローズに渡す。しかし、「あとで返してね」というせりふを忘れない。このくだり、色々な意味を引き出せる。
◆「靴のなかに」というこのタイトルの意味は、あまりにシンプルすぎてわからないかもしれない。しかし、ジューイッシュ・グランドマザーのパワーの「功罪」を考えると、このタイトルがとてつもなく意味深いことに気づく。エリーは、『ミート・ザ・ペアレンツ2』のようなむきむきのジューイッシュ・マザーではない。彼女は、自分がジューイッシュ・マザーであったことによって結果的にこうむった痛みを十分承知している。だから、フロリダのホームの仲間たちには、「子供はいない」と言ってきた。そういう自制の強いキャラクターを演じるには、シャーリー・マクレーンは最適である。だが、ジューイッシュ・マザーは、その宿命をのがれることができない。孫の靴まで用意してしまうからである。どのみち、ファミリーは、彼女の「靴のなかに」いるのである。なお、in her shoesというフレーズには、「彼女の立場で/に」とか「彼女の境遇で/に」という意味もある。
(ハマハホール/20世紀フォックス映画)



2005-09-13_2

●オリバー・ツイスト (Oliver Twist/2005/Roman Polanski)(ロマン・ポランスキー)


◆大物の監督たちが似たようなことを考える時代になったような気がする。彼らは、いまの時代をトータルに見ることができるような映画を作ることに関心がある。そのために、時代を過去にさかのぼらせるのが一つの流行りになっている。そこでは、ジョージ・サンタヤナが、『理性の生活、コモンセンスの理性』(1905年)に書いた、「過去を記憶できない者は、過去をくりかえす運命にある」というテーゼが、見え隠れする。たしかに、過去を忘れさせ、過去を捏造するのが、支配の技法であるから、過去の記憶をくりかえし更新するのは、支配を脱する重要な方法の一つである。(ただし、すっかり忘れてしまうという「痴呆の戦略」というのもあるが、これは、別の機会に書こう)。
◆しかし、時代をトータルに見ようとする巨匠たちの作品を見ていると(これは、同じような意図の歴史小説でもそうだが)、いま起きていると似たようなことが過去にも必ず起きているのを発見し、それなら、歴史なんて繰り返しであって、革新しようなどと努力しても無駄なのではないかという気持ちになるのも、事実である。その場合、歴史とはディテールが重要なのだ――ディテールでは同じことは一つとしてない――という考えも成り立つ。実際に、歴史は大事件で動くよりも、ディテールで起こったことが、白蟻が大きな家を崩壊させてしまうような形で歴史を動かす。しかし、問題は、その動きが本当の変化なのかどうかだ。堂々めぐりをしているだけなのかもしれないということだ。
◆ロマン・ポランスキーが、19世紀前半の「社会派」作家チャールズ・ディケンズの『オリバー・ツイスト』を取り上げたのは、ポランスキーの妻エマニュエル・セニエの提案によるところが大きいとのことだが、この映画が、カフカの都市プラハで撮られたのは、この映画とカフカとの潜在的な関係を考えて見たい気持ちにさせる。というのも、ポランスキーにとってカフカは特別の存在であり、彼は、スティーヴン・バーコフ演出の『変身』で主人公ザムザを演じている。わたしは、アンジェイ・ワイダの『夜の終わりに』(Niewinni czarodzieje/1960)を新宿のアートシアターで見たとき、カフカにそっくり(背は低いが)の顔をした男がいるのを発見し、あとでそれがアメリカに亡命する以前のポランスキーであることを知った。出身はポーランドだが、当時、ソ連のフルシチョフの雪解け政策で、それまで禁じられていたカフカがつかのま解禁され、東欧ではカフカが大きな話題になっていた。おそらく、ポランスキーは、当時すでに自分とカフカとの近親性を意識していただろう。
◆話がディケンズからそれたが、カフカは、ディケンズをよく読んだ。短編「火夫」、それを拡大した長編『アメリカ』(『失踪者』)は、カフカ自身、日記のなかでディケンズ(『デイヴィッド・コパーフィールド』)の影響をはっきりと認めている。「ぼくの意図はディケンズふうの小説を書くことだった。ぼくが加えたものは、ただ、ぼくが現代から奪い取ってきた、より鋭い光りと、たぶんぼく自身が発した、より鋭い光りだけだ。ディケンズの豊饒さとためらうことを知らない力強い奔流。だが、そのためにかえって、彼が疲れきって、すでに得たものをごたまぜにかき回しているところは、ひどくだらけている」(1917年10月8日)。
◆ディケンズにならって、ポランスキーは、悪党をも、つっぱなしては描かない。底辺に追いやられたがために泥棒をし、人殺しまでせざるをえない状況を、底辺に密着した目で描く。しかし、そういう悲惨な状況のなかで、「人を信じること」や「素直さ」を決して失わない人間がいることを、同時に描く。主人公オリバー・ツイスト(バーニー・クラーク)は、孤児であり、食べるものも乏しい救貧院で育つ。そこでは理不尽な規則やキリスト教を盾にとった権威主義と道徳が横行している。そのタテ構造は、子供たちのあいだにも反復再生され、イジメがたえない。そのうえ、亡き母を侮辱されたことに怒りをあらわにしたことで、オリバーは罰を受ける。結局、彼は、救貧院を追放され、運よく、気だてのよい葬儀屋(マイケル・ヒース)に引き取られる。しかし、ここにも社会のタテ構造は再生されており、理不尽ないじめに遭う。こうして、オリバーは、葬儀屋の家を抜け出し、ロンドンへの旅に出る。といっても、それは、楽な旅ではなかった。
◆70マイルを徒歩でたどり着いたロンドンのシーンは、大都市に初めて行ったときの雰囲気を思い出させるようなリアリティがある。そこには、目を見張るような活気にあふれた街を知り尽くした「シティワイズ」(街ッ子)がおり、街での生活へのイニシエイションをしてくれる。当然、その代償はあり、つかのまの解放感は、吹っ飛んでしまう。しかし、そういう解放感を味あわせてくれるだけでも、都市はすばらしい。「都市の空気は自由にする」。
◆まだ1980年代でも、イギリスやオーストラリアで子供が街頭で新聞を売ったりしているのに驚いたことがあったが、19世紀のイギリスでは、子供が大人といっしょに働いたり、パブでタバコを吸っていたりするのはめずらしいことではなかったらしい。この映画では、ロンドンに着いて半死半生のオリバーを救うのは、フィギン(ベン・キングズレー)という怪しい老人が率いる「少年団」の一人、アートフル(ハリー・イーデン)で、以後、彼は、スリや万引きやかっぱらいをなりわいとするこの集団の一員にされる。
◆街に自由があれば、そこには、少年少女を食い物にする大人がいる。そして、その大人のなかにも支配する者と屈従する者とがいる。したたかなフィギンも、場合によっては殺人も辞さない悪党ビル(ジェイミー・フォアマン)には頭が上がらないし、彼に媚びる遊び人風の男トビー(マーク・ストロング)もいる。階級差はなくならない。ところで、カール・マルクスがロンドンの大英図書館に通って『資本論』を書く時期とディケンズの活動時期とはぴったり重なっている。おそらく、マルクスは、ディケンズの主要著作を読んでいたはずだし、ディケンズの階級観に共感するところがあったはずだ。いずれにしても、当時のロンドンは、近代資本主義の爛熟期であり、20世紀にもちこされるさまざまな矛盾が、見る目を持つ者にはよく見えた。
◆フィギンのもとで売春をやる2人の少女がでてくるが、その一人のナンシー(リアン・ロウ)は、ビルの情婦でもある。ビルがヒモになって売春をやっているわけだ。ところで、ポランスキーは、1977年にハリウッドのジャック・ノコルソンの家で13歳の少女に猥褻行為を犯した罪で起訴され、保釈中にヨーロッパに逃亡したという経歴を持っている。2人の関係には「合意」の部分もあったようだが、相手が未成年であるという点は、弁明の余地がなかった。映画を見ながら、ふとこのことを思い出したが、この映画の少女たちが商売をするシーンはなく、2人とも、ビルからひどい目にあう存在として描かれていたのが、印象的だった。
(イイノホール/東芝エンタテインメント+東宝東和)



2005-09-13_1

●TAKESHIS' (タケシズ)(Takeshis'/2005/Takeshi Kitano)(北野武)

Takeshis'
◆マスメディアで出来上がっている「ビートたけし」というキャラクターと、フリータをしながら俳優になろうとしている初老の男「北野」との2つの人格を行ったり来たりするスタイル。引用的なシーンもあり、スタイル的に凝っているようにも見えるが、基本の発想が単純。もっとフォルマリスティックに見れば、ちがうのだろうが、わたしには豚に真珠である。
◆まず、シーンを「ビートたけし」ないしは「北野」の意識のなかの表象=再現前化(リプレゼンテイション)として提出している点。監督「北野武」は、プレスシートの「Director's Statement」のなかで、この映画の構造を「フラクタル」だと言っている。それは、彼の思いであったかもしれないが、この映画を「フラクタル」として見るのは無理というものである。映像をテキストとして、「シニフィアン」のたわむれとして見る「記号学」的映画論以後、また、「観客」や「社会的コンテキスト」のアスペクトにウエイトを置く「カルチャラル・スタディ」(カルスタ)的な映画論以後、というより、「表象=再現前化」を越えた映像論が常識化したいま、「意外」なシーンがあらわれ、そのあとにその「夢」を見たという設定の「主体」がはっと目覚める――というスタイルは古すぎる。
◆要するに「認識論」が、近代主義(モダニズム)であって、記号学やカルスタはおろか、現象学以前なのだ。この映画の基礎は、「鏡」の認識論である。意識を鏡とみなし、2つの意識が鏡合わせのようにたがいに相手を映し合う。ガタリがジャック・ラカンの「意識/無意識」を批判するのも、このような認識論である。
◆わたしの偏屈な好みでは、この映画におびただしく登場するピストル発射のシーンで俳優ビートたけしが、ピストルの引金を引くときに、音を気にするかのようなひるんだ表情をするのがいただけない。さまざま出てくる銃も、プラスチック製に見える。重みがなく、発射された対象がどハデに壊れても、その弾を撃つ衝撃は全くない。それは、「本物」を使えない日本映画では常套だが、その落差を意識しているようには見えない。だから、ガキがおもちゃのピストルを撃ちまくったいるだけに見える。まあ、岸本加世子は、北野映画では「母」なる存在だから、ガキに見えた方がいいのかな。
◆ドラマの形式としては、一方に「勝者」としての「ビートたけし」を置き、他方に、安アパートで一人暮らしをし、同じアパートに住む(ややシュールな形で粉飾された)寺島進と京野ことみのカップルにバカにされ、ある種のいじめを受けている「ルーザー」を対置する。もてる者ともてない者とのギャップが広がるのが情報資本主義の現代という月並みな構図の応用。で、そこから出てくるアクションも、ルサンチマンの月並みな解消策だから、どうにもならない。
◆この映画では、気にいらなければ相手を撃ち殺す身ぶりがひんぱんに出てくる。それが、テレビタレント「ビートたけし」がスタジオで演るドラマのための「演技」であったり、「夢」のなかのシーンであったりするのだが、他人を「恨むこと、憎むことで生きてこられた」という「世界観」も、この映画の単純な前提の一つだろう。底辺に置かれた者のグチや悪意というものは、そういう機能を持っていることはたしかだが、この映画で設定されているような「階級差」では、というよりも、功成りとげた「ビートたけし」あるいは「北野武」がこの「世界観」をもて遊ぶのは傲慢である。そのようなルサンチマンの哲学は、弱者のさらなる収奪にほかならない。
◆そんなわけで、「幻想」シーンに比して、美輪明宏やTHE STRiPESが出るシーンが突出し、また実際に、北野監督は、この両者にかなり依存している。美輪がこの映画のなかで歌い、見せる「よいとまけの唄」は、ヒップホップやTHE STRiPESのタップサウンドをからませた最新ヴァージョンであり、美輪の歌力と思念のいま行き着いたハイレベルをあますところなく見せ、聴かせる。しかし、美輪がまだ「丸山明宏」と名のっていたころ、低迷からはい上がるきっかけとなったこの曲が当初もっていた「底辺」の人々への共感のようなものは、もうどこにも感じられない。発表当初、丸山のシャンソンの方が好きだったわたしは、急に野太い声までカバーした歌い方をする「よいとまけの唄」の「ど根性」に居直ったような感じがいやでたまらなかった。つまり、それくらいこの歌は、もとは、「社会主義的」(笑い)だったのだ。
(東京現像所虎ノ門試写室/松竹+オフィス北野)



2005-09-12

●ALWAYS 三丁目の夕日 (Always Sanchome no Yuhi/2005/Yamazaki Takashi) (山崎貴)

Always Sanchome no Yuhi
◆昭和33年(1958年)という時代を映画で描くということは、その時代に観客をタイムスリップさせることではない。そんなことができると思って、どんなに時代考証を厳密にし、セットを「再現」しても、必ずどこかで馬脚をあらわす。賢明な方法としては、くだんの時代に対して多数の人々がいだいている「時代の気分」を作りだすことだ。また、同時代に作られ、受け入れられた映像作品のトーンと同調・共鳴するような映像リズムを作るのも一つの方法だ。この映画は、同時代の物品をそろえ、CGを使って時代を再現しようとしている。それは、同時代を知っている者から見ると、穴だらけである。しかし、結果的にこの映画が「昭和33年」という時代の映画であることに成功したのは、「吉行淳之介」(*)という名の「家なき子」を演じた須賀健太の天才的な演技のおかげ。この俳優は、昭和30年代の暗い、しかし、どこか「純真」で一途な人間の雰囲気を出す。
◆【追記/2005-11-12】(*)の部分について、TKさんから、誤記の指摘をもらった――「気づいたのはあの『憂い顔の童子』とも呼ぶべき、母に捨てられた少年の名前ですが、『行淳之介』ではなく『行淳之介』です。『吉行淳之介』ではそのまんまですよね(^^)。ご訂正をお願いいたします」。この個所、「よしゆき・・」と打ち、変換して、「」だけあとで「」と直そうと思って、忘れたのである。雑で申し訳ない。
◆かつては、マスコミから発信されるしゃべり方、笑い方、泣き方、表情、身ぶり・・・あらゆる点で、政治家は、一部のタレント議員ですら時代的に一歩身を引いていた。組織のなかでは自分を殺さなければならないからである。しかし、それが、いま、小泉純一郎以後、政治家がタレントを上回るようなパフォーマンス度を発揮するようになった。これは、政治の枠組みが変わったことを意味する。ここでは、「アメリカ的」な表情、ファッション、論理性、競争、攻撃性等々がよしとされ、真偽も、「良心」なるものに訊くよりも、訴訟的な論理性で判断する時代になった。「良心」の悩みなんかを無視できる者が成功し、それでもときおり「良心」のうずきを感じたら、セラピストにかかって早急に治療する。それができないでウジウジしているのは、「ルーザー」と呼ばれ、一線から脱落する。むろん、昭和30年代にも、「勝者」と「敗者」はいた。が、世の中の雰囲気、共通認識、通念として、人はもう少し「純朴」であることができた。
◆しかし、そういう時代だからこそ、本当に必要なのは、こういう映画のノスタルジアにひたって過去を懐かしむことではなく、そういうノスタルジアをあざ笑えるような感性を身につけることだろう。あらゆる価値観は絶対的なものではなく、時代とともにあるから、そういう「純朴さ」をよしとし、いまの競争主義や「訴訟有理」を否定するのは意味がない。問題は、いま、これだけ非「純朴」な風潮が強まっているのに、「否定の弁証法」というか、皮肉やアイロニーに裏打ちされたしたたかな感性や価値観が出てこないということだ。「純朴」を尊重する人が、「時代が悪くなった」という代わりに、そんな「純朴さ」のノスタルジーに依存しなくても済むようなピカレスク的したたかさを持つしか、この時代の困難をのりこえる方法はない。ビートたけしなんかは、そういうキャラクターとして登場したはずだったが、それから15年して、国際映画祭で賞をもらって涙を見せるような「純朴」にもどってしまった。
◆立ち上がり始めた東京タワー。これは、日本のマスメディアの本格的な始動の象徴。「鈴木則文」(堤真一)の自動車修理工場は、日本がまだ世界の産業に雄飛するまえの自動車を細々と修理している。街には、日本車よりもナッシュとかヴィックとかのアメリカ産が走り、日本人の車は、たかだかオート三輪だった。ストリッパーまがいの踊り子「石崎ヒロミ」(小雪)がいっとき開く飲み屋の並びには、通りで客を引く女の姿がある。これは、いまでもあるが、女たちの表情はもっと暗かった。
◆それにしても、集団就職で上野駅に到着する「星野六子」(掘北真希)たちの表情はあまりに明るすぎる。身ぶりもあまりにダイナミックだ。オリンピックの選手がドはでなガッツポーズをしたり、勝利の喜びを満面に浮かべて表現するようになったのは、たかだかこの20年。戦前の要素を色濃くのこしていた昭和30年代には、まだ人々の表情は暗く、スタディックで、身ぶりも地味だった。ちなみに、坂上二郎と萩本欽一の「コント55号」がテレビに登場したとき(昭和42年、1967年)、その身ぶりのダイナミックさが新鮮だったし、驚きだった。いまは、彼らの身ぶりや笑いが、ごく普通になった。
◆この映画は西岸良平のコミック『三丁目の夕日』の映画化だから、登場人物の動きや表情が「現実」以上にハデになるのはあたりまえである。しかし、そのデフォルメの仕方が、いまの「現実」にかぎりなく近づいてしまうと、そのコミック的な強調も、強調ではなくなる。コミック的でシュールな強調は、怒ると止まらなくなる堤真一、いつも自転車で雑踏に突っ込んでくるもたいまさこ、何を演っても同じ演技がかえって「シュール」な吉岡秀隆等々に見られるが、あまり成功していない。怪優もたいまさこは、今回は、全然よくなかった。活かされていないのか、ファニーな演技がマンネリになっているからか。
◆戦争で妻と一人娘を失い、一人暮らしの医師「宅間史郎」(三浦友和)が、この映画のなかで唯一戦争の要素を示唆する。昭和33年には、まだ、東京の生活や街のあちこちに「戦争」の傷跡が残っていた。しかし、この映画では、そういう要素はあまり出てこない。小雪が演じている女は、貧しさのために身を売ったり、人身売買的に身を拘束される時代の要素を残したキャラクターのはずだが、小顔で「八等身」(当時プロポーションのよさを示す言葉)の小雪が演じると、そういう要素は吹っ飛ぶ。まあ、その方が「楽しく」見れるけど。
◆時代考証的なディテールに気を使っている作品で、わたしなどは、鈴木オートの店頭に「発動機」が置かれているのがなつかしかったが、昭和20年代との混同や「現代」との交錯もかなりある。そんなことを指摘するのは馬鹿げているが、気づいた個所を少し挙げる。
◆鈴木家にテレビが入り、近所の連中が集まり、大「パーティ」になるシーンで、テレビの上を見ると、室内アンテナがある。あの当時、テレビを室内アンテナで見るのは至難の技で、みなわざわざ屋根に八木アンテナを立てた。映画の舞台に想定されている町は、東京タワーからさほど遠くないようだが、東京タワーができるまでは、そのエリアでも映画に出てくるような室内アンテナであれほど鮮明(力道山のプロレスシーンなど)な映像を見ることはできなかった。
◆電気冷蔵庫が入ると、古い氷の冷蔵庫は外に捨てられるが、当時は、まだ、使い捨ての発想は非常に弱く、使わなくなったものを捨てるというのは例外的なことだった。
◆「吉行淳之介」と鈴木家の息子「鈴木一平」(小清水一揮)が橋の欄干に座っていると、小型のクレーン車が通りすぎるが、これは、「現代」との交錯。こういうクレーン車はまだなかった。
(東宝試写室/東宝)



2005-09-06

●ミート・ザ・ペアレンツ2 (Meet the Fockers/2004/Jay Roach)(ジェイ・ローチ)

Meet the Fockers
◆この映画は、ただのドタバタ喜劇として見ても面白いが、主人公がユダヤ系であり、基本にジューイッシュ・ユーモアがあることを知っていると、面白さが倍加する。前作『ミート・ザ・ペアレンツ』でやっと婚約まで進んだグレッグ(通称「ゲイ」)・フォッカーが、相手のパム(テリー・ポロ)の父親ジャック(ロバート・デ・ニーロ)と母親(ブライス・ダナー)を、両親、バーニー(ダスティン・ホフマン)とロズ(バーブラ・ストライサンド)に引き合わせるというのが今回の話。
◆名前がが「ゲイ」というのは、いくらでもいる。が、「マザー・ファッカー」を想い起こさせる「フォッカー」と組み合わさると、かなりやばいことになる。が、この映画は、こういう低次のダジャレ的なユーモアには終わらない。せりふのすみずみに、苦笑から爆笑までの細工が満載だ。
◆グレッグの両親をホフマンとストライサンドが演っているというのも、笑いを誘う。ホフマンは、『レニー・ブルース』(Lenny/1974)への入れ込み方でもわかるようにユダヤ系の俳優であり、『ビリー・バスゲイト』(Billy Bathgate/1991)ではユダヤ人マフィア、『ワグ・ザ・ドッグ』 (Wag the Dog/1997)でも明らかにユダヤ系とわかるハリウッドの映画人を演じていた。前作の『ハッカビーズ』の「精神分析医」もユダヤ的なバックグラウンドを想像させる役だっだ。ウッディ・アレンほどではないが、アメリカでは、「ユダヤ」という臭いを売り物にする俳優の一人である。
◆ストライサンドは、日本では歌手から俳優に転じた経歴に興味が持たれるが、その彼女がなぜ『愛のイエントル』(Yentl/1983)のようなまさにユダヤ人社会をずばり描いた作品を監督・製作・主演したかはあまり知られていない。ここには、女性を排除するイエシバ(ユダヤ人学校)に男装して入学し、自分の才能をみがき、かつそのことを周囲にも認めさせて行く一人の女性の生き方が、強引なまでに描かれている。バーブラ・ストライサンドは、リベラル・ジュイーシュの活動家でもあるのだ。この映画では、典型的な「ジューウィッシュ・ママ」を演じ、セックス・セラピストと整体師という設定だ。
◆ユダヤ系であることが見え見えの前提のうえに、せりふのあちこちで、「ユダヤ性」が強調される。息子がはるばるフロリダ(老後フロリダに移住するユダヤ人は多い)にたづねてきて、強烈なハグで迎えたホフマンが、当惑して見ているデニーロに向って、「ハンサムだろう? こいつは、ジューイッシュ・ヤング・マーロン・ブランドだったんだ」と言う。つまり若いときのグレッグは、「マーロン・ブランドをユダヤ人にしたような色男だったんだ」というわけである。ちなみにブランドは、『ゴッドファーザー』で「イタリア系」のイメージが定着したが、彼自身は、オランダとフランスとアイルランドの家系だという。
◆ユダヤ系であることのほかに、もう一つ重要なのは、ホフマン/ストライサンド夫妻が、60年代後半のラディカリズムの洗礼を受けているという暗黙の前提だ。映画のなかで、さまざまな怒りが心頭に達したデニーロが、帰る!とばかり車でホフマンの家を去ろうとすると、ホフマンが、その車のまえに寝転び、「60年代にはよくやったもんだ」とつぶやく。これは、「ダイ・イン」(Die-In)というデモの方式の一つで、多数の活動家が、核兵器反対などを表明して軍事基地で寝転んだりするのをこう言った。グレッグ(俳優名とごっちゃですまないが)は、そういう両親の「自由教育」を受けて育った。なにせ、彼の父親は、スポーツ競技で彼が「11位」だったということ、つまり「競争」に脱落したことを自慢するのだ。だからグレッグ自身も、競争主義や暴力から身を遠ざけ、女性の職業とみなされてきた看護士の仕事についたのである。ここには、アメリカのメインストリームに対する暗黙の批判がインプットされている。
◆その意味で、彼らとことごとく「対立」を起こすデニーロは、WASP(ワスプ)の代表を演じている。彼にとっては、競争主義はあたりまえだし、強いということは男の義務であり、狩りで動物を仕留めることも辞さない。なにせ、元CIAの職員なのだ。だから、マイアミに住むホフマンらに会いに行くのにも、特性のキャンピングカーで行く。「時節柄飛行機なんぞ危なくて乗れない」というわけで、彼は、ロシアに注文して作られた防弾ガラス付きの装甲車のようなバスをみずから運転。このへんが、深読みすれば、「テロの脅威」とか言って、防衛に無尽蔵の金を費やすブッシュ政権に代表されるWASPの価値観・考え方とつながっている。
◆デニーロはCIA職員だったわけだから、監視カメラを使うのに何の疑問もわかない。しかし、60年代ラディカルズの一人であるホフマンは許せない。2人で監視カメラ論争があるのも、面白い。デニーロは、この旅行に孫を連れてくる。彼は、「ファーバー式」育児法で孫を教育しようとする。「ファーバー式」というのは、赤ん坊と親は別の部屋で寝るべきであり、子供が泣いても簡単に抱き上げてはいけない・・・といったファーバー博士のご推薦の、1950年代ぐらいまでアメリカでスタンダードだった育児法である。これは、いまは、ボディ・コンタクトを重視する育児法に変わってきている。グレッグは、小学生まで両親といっしょに「川の字」で寝ていたという。映画のなかで、デニーロの育児法がことごとく破産し、ホフマン/ストライサンドのボディ・コンタクト路線が効力を発揮するのも、WASP批判だ。いまのアメリカでは、赤ん坊を離さないのがトレンディらしい。
◆女親にとって、息子は、いくつになっても子供なのかもしれないが、ユダヤ系の母親には、そういう面が強い、あるいは、強いというのが一つの社会的通念になっているようだ。この映画でも、ストライサンドが、グレッグの子供のときの写真を出してきて、パムやその母親に見せ、あげくのはてに割礼(これもユダヤ系の典型的な儀礼)で切り取ったグレッグの性器の一部まで見せてしまう。これと似たシーンが、『ニューヨーク・ストーリー』(New York Stories/1989)のウディ・アレンの篇にあった。これは、典型的な「ジューイッシュ・ママ」の話で、『ミート・ザ・ペアレンツ2』のストライサンドも、もう少し歳をとれが、この映画のかあちゃん(メエ・ケステル)のようになるのだろう。
◆最初の方の、グレッグとパムが、デニーロのもとへ飛行機で行く際のエピソードとか、前作で宗教オタクを演ったオーウェン・ウィルソンの使い方とか、前作を見ていれば、爆笑度はさらに倍加する。ブライトな音楽は、前作同様ランディ・ニューマン。
(アスミック・エース試写室/アスミック・エース)



2005-09-05_2

●歓びを歌にのせて (Så som i himmelen/As it is in Heaven/2004/Kay Pollak)(ケイ・ポラック)


◆感覚的に他の国の、というより他の監督とはかなり違う感性を感じる映画。たとえば、ウィーンのコンサートホールで、明らかに有名なと思われる指揮者が指揮をしていると、その白いシャツに血が流れる。指揮の最中に彼が鼻血を出したらしい。彼が倒れ、心臓疾患であることは説明されるが、何であんな鼻血を出したのかはわからない。わたしは、それっぽい映像の方がいいと言っているのではない。むしろ、そういう身体的「意外性」が面白いと言いたいのだ。同様に、彼が、指揮者をやめ、自分が幼いときに7年間だけすごしたスウェーデンの村にもどり、村民とまじわるなかで、彼に惚れる女レナ(フリーダ・ハルグレン)がいる。彼女に自転車の乗り方を教わり、いっしょに近くの湖に行くと、女がいきなり服を脱ぎ、泳ごうと言う。むろん、こういう愛の表現はあるし、映画としてうまいと思うのだが、ヘアまで見える裸体をぱっと見せる身体的「意外性」も面白いと思った。
◆もう一つ面白いのは、この映画の舞台となる辺境の村のような場所でも、いまや変化が起こっているということだ。「マレビト」が外からやって来て、混乱が起きたり、因習が打破されたり、その逆に最後に「マレビト」が追い出されるというのは、ありがちが話だが、この映画は、もほやキリスト教的な教区にもとづく地縁的コミュニティはなりたたないという時代的変化をも描いている。人口の少ない閉鎖的な村でさえも、キリスト教的な禁欲主義的モラルは、タテマエであって、機会たあれば、崩れてしまうということをコミカルに描いてもいる。
◆その意味で、教区の牧師スティッグ(ニコラス・ファルク)の描き方は痛烈だ。有名な指揮者ダニエラ(ミカエル・ニュクビスト)が、今日はウィーン、明日はミラノという多忙な生活を捨て、25年まえに幼い日々を過ごした村の廃校となった小学校の建物を購入して住みはじめると、それまでスティッグが仕切ったいた村の人々の関心がダニエラの方へ向いてしまう。彼に、村の合唱団の指揮をしてくれないかと持ちだすのが、村で唯一の雑貨店の主人というのも象徴的。彼は、ある意味での「村起こし」に合唱団のレベルを上げようとしている。これは、小規模ながら「資本」の論理だ。もはや因習と化したキリスト教的モラルに勝ち目はない。このあたり、牧師の妻インゲ(インゲラ・オールソン)の反応が面白い。
◆折しも、日本では、衆議院選挙をまえにした選挙戦が過熱している。この選挙ではっきりするのは、まだ残存したいると思われている地縁的、血縁的な「コミュニティ」意識が終わったかどうか、それが、日本でも都市部では次第にあたりまえになっている近代資本主義的な人間関係にどの程度移行したかである。この映画では、牧師の因習的な説教や命令はもはや有効性をもたなくなる。それに代わって、都市から来た「マレ人」がもたらす「距離の文化」であり、肉体的欲望を直接解放してくれるような「エンターテインメント」が共感を持つのである。
◆コーラスの指導を頼まれたダニエラが、最初はしぶしぶやるのが、声合わせのワークショップ。これが、なかなか面白い。人とと人とがコミュニケーションするということは、単に情報を交換することではなくて、何かを共有し、身体的なリズムを共鳴(レゾナンス)させることだ。最後のシーンで、そのことをまざまざと見せてくれるシーンが出てくる。
◆この映画が、身体的な要素への独特の目を持っていることは、酒乱の男コニー(ペア・モアベア)が妻ガブリエラ(ヘレン・ヒョホルク)にふるう暴力のシーンとか、精神的疾患を持っている青年の描き方とかにもよく出ている。最初の方で、コニーは、ライフルで獲ってきたばかりのウサギを牧師とダニエラに見せ、いきなり、その(まだ動いている)獲物を壁にたたきつけて、とどめをさす。これは、猟ではあたりまえのやり方かもしれないが、見ている方は、ドキっとする。むろん、これも意図した映像で、ドキっとするのは映画を見ている方だけではなくて、ダニエラもそうだ。そのとき、牧師が平然としているのが対照的なのだが、こういうショットをいきなり出しのが、単にコニーの暴力志向を示唆するだけでなく、新鮮な印象をあたえる。
(東京国際フォーラムD1/エレファント・ピクチャー)



2005-09-05_1

●疾走 (Shisso/2005/SABU)(SABU)

Shisso
◆郊外の都市に関して誰でもが漠然と通念として持っているような風景と気分がよく描かれている。が、それが、割合図式的かつ総花的なので、まてよという気にさせてしまう。わたしには、とりわけ、出てくるキリスト教(豊川悦司が演じる神父とその教会が出てくるだけだが)がうざったい。原作(重松清)があるのだから仕方がないにしても、SABUの映画には合わない。わたしは、『弾丸ランナー』、『ポストマン・ブルース』、『アンラッキー・モンキー』まではあったSABUの映画のユーモアが好きだ。
◆神父ではこの程度しかやりようがない豊川悦司、はまり役の寺島進や大杉漣は別としても、韓英恵をはじめとして若い俳優は、みないい演技をしている。しかし、この映画で最も光っているのは、中谷美紀だ。彼女はすばらしい。前作の『電車男』とは180度異なる「ヤクザの情婦」という役だが、情婦でありながら、年下の10代の子、(福原秀次)に「人のいい」(?)愛情をいだく女を見事に演じている。
◆新興のあらゆる都市が何らかの「傷」を負っている。わたしの独断では、精神病や家族の離反やいさかいの大半は、本人同士の責任であるよりも、環境世界に責任があると考える。都市や村つまりは人間の生活場は、産業構造から切り離せない。むろん、台風や地震のような「自然災害」の突然の襲来によってもそれは激変するが、今回のミシシッピーの被害を考えるまでもなく、「自然災害」とは、実は人災である。「テロ対策」に国費を回したことによって、環境の整備が後回しにされた。イラクに手一杯で救援の部隊の数もたりず、そのあいだに死者の数が増えた。少なくとも「文明」の誕生以来、地球が作ったままの「自然環境」などというものはなかった。人工であるから、それだけ、政治や産業の利害によって、町は傷つき、病む。
◆この映画の舞台は、(岡山県警のパトカーが登場するシーンがあるが)「とある西日本」の「沖」と呼ばれる人家の閑散とした場所。かつて海だった「沖」を、人家の多い「浜」のエリアの人々は軽蔑し、差別している。その確執は、「沖」にリゾート開発計画が持ち上がることによってよりたかまっていく。こういう環境設定は、ドラマの進む先を予想させる。どのみち、この土地の人々は幸福にはなれないだろうということが最初からわかる。
◆「沖」の一軒家に住むシュイチ(手越祐也)の一家。勉強の出来る兄シュウイチ(柄本佑)、酒を飲みながらジグゾーパズルに余念のない父(菅田俊)、平凡をよそおっている母(高橋ひとみ)がいる。学校では、イジメが常態化しており、教師は、「集団の掟」という名のワイルドカードでそれに対応するだけ。というより、クラスのイジメ現象は、もともと、平均化や統合をよしとするポリシーの産物である。人は誰しも、同じではないし、同じロジックに支配されたくないから、そういうものの管理下におかれたとき、仲間をイジめることによって、自分と集団のなかに「ゆらぎ」を作り、平衡をたもとうとする。
◆シュウイチのクラスに、教師の画一教育や周囲のイジメに屈しない少女エリ(韓英恵)がおり、彼女は、ひと気のない広大な土地のどまんなかに神父(豊川悦司)が一人で運営している教会に出入りしている。彼女の両親は心中してしまったという。この教会には、奇妙なことに、他の信者の姿はなく、この神父も、殺人をして死刑まじかな弟がいる。その殺人事件に神父も無関係ではなかった。彼が神父をしているのは、そのことを懺悔するためであるかのようだ。ただ、このあたりは、いかにもつくりものめいている。活字で読む分には、読者のさまざなな想像を加味できるから、そうはならないのだが。
◆わたしとしては、最初少年シュージのまえに、ヤクザ(寺島進)の情婦として、「いかにも」の感じで登場するが、しばらくして再会し、ただの少年と年上の女との関係ではなくなるくだりが、映画として一番うまく描かれていると思う。すべてを見尽くしてしまったといった感じの少女(韓英恵)のくだりは、月並みだ。
(日本ヘラルド試写室/角川映画+エンジェル・シネマ)



2005-09-02

●親切なクムジャさん (Chinjeolhan geumjassi/Sympathy for Lady Vengeance/2005/Chan-wook Park)(パク・チャヌク)

Chinjeolhan geumjassi
◆パク・チャヌクが哲学科の出身であることを意識するのは、彼のすべての映画を見るうえで重要なことだと思う。彼の映画には、映画製作を通じて「哲学」しているという印象がつきまとう。といって、このことは、彼の映画で「観念」が過剰になっているということではない。ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリは、くりかえし、「哲学とは概念の創造である」と言った。新しい概念をつくるということは、既成の観念で現実を再構成することではない。「理論」を「現実」にあてはめて説明や理由づけをすることではない。それは、「科学」のやることだ。しかし、新しい概念は、この世の物体や肉体と無縁の真空のなかで生まれるわけではない。新しい概念は、フィジカルな世界を変えることを通じて生まれる。一個の「哲学者」や「思索者」という場のなかでは、最低限、脳の情報的・化学的変容が新しい概念を生む。しかし、脳は、その個の身体全体から他者の身体、部屋、街、環境世界・・・を巻き添えにしており、一個の脳の変化は、世界の変化ともつながっている。そして、脳は、個人の意志や「念力」で変わるよりも、身体全体や他者や環境の側の変化の過程にまきこまれながら変わるのだから、むしろ、世界が変わることが脳を変え、新しい概念が生まれる、と言ったほうがよい。
◆そうであれば、別に「哲学者」でなくても、概念の創造に荷担しているわけで、実際にその通りなのだが、にもかかわらず、あえて「哲学」や「哲学者」という言葉を使うのは、そのプロセスを意識的になっているかどうかの違いがあるからだ。同様に、カメラを回せば、誰でもフィルムないしは電子記録の諸手段というフィジカルな「映像場」を変え、その過程で新しい概念が生まれる可能性はある。が、にもかかわらず、パク・チャヌクの映画が「哲学的」つまり概念の創造に深く荷担していると言えるのは、彼が、フィルムに定着したフィジカルな「動き」(キネシス→キネマ→シネマ/ムーヴィー)のなかで創造される概念のレベルを強く意識しているからである。ただし、彼は、「哲学者」ではなく「映画監督」であるから、その概念の創造の最終過程は、観客にまかせることになる。
◆こんな言い方をしていると、パク・チャヌクの映画からどんどん離れ去って行くような気がするが、とにかく、彼の映画は、見る者に、概念の創造をうながす度合いが高いのだ。現存する状況を映し取っている要素が強いように見える『JSA 』でも、ここで構築された映像世界は、観客がそこからさらに自らの概念創造を進めるための「素材」であるような要素が強い。この傾向は、『オールドボーイ』になると、もっと過激化する。
◆『親切なクムジャさん』は、一面では、幼児の誘拐と殺害に荷担させられ、罪を背負わされた女「クムジャ」(イ・ヨンエ)が、13年の獄中生活のにち、少女時代から自分を陵辱してもいた英会話塾の講師「ペク先生」への復讐を果たす物語である。個々の描写は、生々しく、そういう「現実」をフィルムのなかに映し取ったようにも見える。やがて、その「ペク先生」が、多くの子供を誘拐し、陵辱して殺してきた幼児殺人魔であることがわかるにつれて、虐待する者と虐待される者/虐待された者の肉親たちのあいだの愛憎のどぎつい表現がこの映画の特質であるかのように見えるかもしれない。しかし、この映画は、「あったこと」や「ありえること」をフィルム映像として「再=現前」(リプレゼント)させているというふうに見ていくと、その世界が、「現実」とは、かなり意図的にずらされている(「異化」されている)ことに気づかざるをえないのである。この映画の上映中に、「深刻」で「残酷」なシーンであるにもかかわらず、観客のあいだから笑いがもれたのは、偶然ではない。その笑いは、「現実」が創造的に変えられたときに出てくる笑いであり、「納得」よりも「驚き」つまりは創造的なものの発見の笑いなのだ。
◆浮気して夫とその女を殺して食べたので「魔女」という渾名のある大女(コ・スヒ)は、同じ集団房に入って来た新人(ラ・ミラン)にフェラチオをさせる。クムジャは、それをじっと見ていて、仇をとってやる。が、ここで、わたしは、「魔女」が「ひどいこと」をし、そのむくいを受けたというようにはとれなかった。それよりも、この大女の独占的な奔放さや、その欲望のほとばしり、それに従属させられる女の心と肉体に食い込む屈辱などがからみあった、欲動の流れそのものを見るような気がした。
◆詳述はしないが、「ペク先生」の被害者の親族が一堂に介する大詰めのシーンでも、「復讐」というような概念にとどまらない、むしろ、集団が一つの観念を共有する瞬間の不条理さ、「復讐」という概念自体の虚しさ、生の欲望と死の欲望とが共存する一つの肉体の不可解さ、同じような場面に実際に接した場合には、絶対に思うことはないであろうような思念・・・をいだいたのだった。
(東芝エンタテインメント試写室/東芝エンタテインメント)



2005-09-01_2

●ミリオンズ (Millions/2004/Danny Boyle)(ダニー・ボイル)

Millions
◆ダニー・ボイルの作品は、『トレインスポッティング』以来、試写で見ているが、わたしは、『ザ・ビーチ』と『28日後・・・』のような割合常識的な「文明論」的批判なの要素をもった作品よりも、『シャロウ・グレイブ』や『トレインスポッティング』のエンタテインメント的な要素のある作品(ただし、『普通じゃない』はいただけなかった)が好きだ。今回の作品は、その意味では、楽しめた。
◆母親が死んで、新しい建て売りの家に引っ越した一家。弟のダミアン(アレックス・エテル)と兄のアンソニー(ルイス・マクギボン)というわんぱくな兄弟をかかえた父親(ジェイムズ・ネスビット)は大変。こういう状況設定だと、父親に新しい恋人が出来るとかして、子供と父親との関係がぎくしゃくしたり、逆に子供たちが父親を助けて、うまく行くコメディタッチとか、パターンはいくつかあるが、手法と素材を統合したシュールな要素をうまく導入したところが新鮮だ。これも、月並みに描けば、ひと気の少ない土地で子供たちが淋しげに空想しているイメージが「現実」とダブルというようなことになるが、この映画は、そうではなく、まさに「手術台の上でミシンとコーモリ傘が出会う」状況をスタイリッシュな映像として作りあげる。
◆そのシュールさは、死んだ妻/母が姿をあらわすだけではない。キリスト教オタクのダミアンの夢想というか脳内記憶というか、あるいは脳内映像というか、そういうイメージのなかで、有名な聖人たちが姿をあらわすのもそうだ。ダミアンは、普通の子より、聖人たちに詳しいのだろうが、キリスト教圏では、「ナザレのヨセフ」はもとより、「ミラのニコラウス」、「アッシジのフランチェスコ」、「アッシジのクララ」、「サン・ロック」といった聖人の名は、人口に膾炙しているのであろう。そういう聖人がスっとダミアンのまえにあらわれ、相談に乗ってくれる。
◆イギリスのポンドが、ユーロに切り替わる寸前という設定で、大量のポンド紙幣を手にした兄弟。この映画には、子供にかぎらず、突然あなたが何百万ポンドというお金を手に入れたら、どうしますか、という問いが提起されてもいる。金だから、それを存分に使いたいという欲望、それを阻止する宗教的戒律や道徳、そういう機会をえた者の階級的違いや年令的違い・・・・。聖人たちがたくさん出てくるのと、子供の目で描いているので、モラリッシュな閉め方をするのかなと思ったら、必ずしもそうではなかったので、安心。
◆兄弟は、線路端にダンボールを集めて作った「家」で遊ぶ。こういうスペースというのは、子供時代には、ユートピアである。いま、日本の子供たちは、そういう場所にめぐまれているのだろうか? そういう時間があるのだろうか?
(アスミック・エース試写室/アスミック・エース)



2005-09-01_1

●ある子供 (L'Enfant/2005/Jean-Pierre Dardenne & Luc Dardenne)(ジャン=ピエールダルデンヌ&リュック・ダルデンヌ)

L'Enfant
◆わたしは、映画のなかの出来事をその映画の舞台となっている特定の国や場所の一般現象として論じる傾向があるが、それは、そういうことも出来るということを示しているだけであって、映画が社会の典型を「反映」(「反映理論」の「反映」)するなどとは思っていない。この映画は、ベルギーのリエージュ地方を舞台に、その街にいそうな若い男女を登場人物にし、彼や彼女がいまという時点でやりそうなことを描いている。しかし、これをもって、ベルギーの若者が、しいてはベルギーに似た産業国の若者が、この映画の登場人物のように、いつまでも大人になれない(つまりは「子供」である)というように一般化するのは、どうかと思う。たしかに、この映画は、「大人になりたがらない若者」、「パラサイト・シングル」、「ピーターパン・シンドローム」などの典型的事例を提供してはくれる。しかし、そういう映画だからこそ、見る側は、逆に、この映画を一般化するのではなく、個別化(「特異化」)して見る必要があるだろう。
◆ブリュノ(ジェレミー・レニエ)は、基本的にいいやつだ。彼の子を生んだソニア(デボラ・フランソワ)は、彼を愛している。子供を生むにあたって、彼女が悩んだかどうかはわからない。ブリュノの方には、「父親」としての意識はなさそうである。しかし、恋人をはらませて、「俺はしらねぇ」と居直るわけでもない。ソニアに言われて、子供を認知しに役所にいっしょに行き、書類にサインしてりもする。それは、いやいやではない。が、それにもかかわらず、故買の女の話をきいて、子供を養子に売り払うようなこともする。しかし、それは、彼が非情だからではない。だから、彼は、そのことを知ったソニアがショックを受け、失神してしまうと、売った子供を取り戻そうとする。
◆日本はちがうようだが、世界の多くの街のストリート・シーンでは、持てるものからは奪うという「自然法則」が存在する。だから、街を歩くときはみな油断をしない。ブリュノは、年下の子を誘って、かっぱらいやひったくりを常習にしている。そうして盗んだものを買い取る故買屋がいる。この映画では、すれっからしには見えない「おねーさん」がそういう商売をやっており、ブリュノに子供も金になるという入れ知恵をさりげなくする。が、みんなこんな感じなのかと思うとおおまちがいで、恐わーい「おにーさん」もいる。そういうのに、ブリュノは暴行を受ける。この映画を見ていると、ブリュノという人物は、そういう街のしたたかな連中の餌食になっているようにも見える。
◆その逆に、ソニアは、一見「非行少女」風に見える感じとは裏腹に、けっこうしっかりしている。うまくいっているときは、ブリュノと子供のように戯れる年頃なのだが、女は、子供を生むと変わるのだろうか? それに比して、ブリュノは、「育つ」のにえらく時間がかかる。ブリュノという男には、「無知の悲しさ」のようなものがある。彼は、十分な教育を受けたのだろうか? 家庭では幸せな子供時代を送ったのだろうか?
◆「いまの若者は困ったものだ」(こういう言い方は、19世紀でも月並み化していた)風の言い方をする者は、この映画は、あとのことは考えずに子供を作る「若者」を非難するかっこうの事例を提供するかもしれない。しかし、子供なんて、「アキシデント」で生まれる場合を排除すれば、地球上の人口は100分の1以下になるだろう。その方が、生態系によいのかもしれないが、計画的に生み、計画的に教育し、成長した本人自身が計画的な人生を歩んだとしても、計画があっという間に崩れることが多い。計画なんて、人であれモノであれ、その存在にそぐわない。にもかかわらず、人は計画に熱をあげ、未来を予想し、予想と計画の通りに生きたいと願う。わたしは、そういうのは、ごめんこうむりたい。しかし、電車のなかなどで、すやすや眠っている赤子を見たり、両親につれられて小さなリックをしょっている幼児を見たりすると、「生まれてきて、大変だね」という言葉が口をついて出そうになるのも事実だ。まあ、そういう意味で、この映画のブリュノのような青年は、途中までは(!?)、気を楽にさせてくれる。
◆全編、テーマ的な音楽を排し、シーンの生音を使う。その使い方が微妙。顔を見せずに金の受け渡しをするシーンで、相手の息づかいと紙幣を数えるかすかな音が緊張感をかきたてる。終わりも、スパっと「途絶」したかのように終わり、エンドクレジットにも音楽や音はつかない。最後は、白い画面になる。見事な演出。しかし、この試写の最中、わたしの隣の老人が、くりかえしカバンのなかをまさぐり、そのたびになぜか乾いた硬質の(銀紙でも入れているかのような)音を出すので、苛立った。さらに、エンドクレジットの「静寂」のなかに、どこかの座席から「マナーモード」の低い唸り音が聴こえ、興冷めだった。何が「マナーモード」だ。
(スペースFS汐留/ビターズ・エンド)

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