粉川哲夫の【シネマノート】 Cinemanotes |
エレファント
ゴジラxモスラxメカゴジラ 東京SOS
ラスト・サムライ
ドッグヴィル
タイムライン
ミスティック・リバー
解夏
ハッピーエンド
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2003-11-28_2
●ハッピーエンド (Happy End/1999/Ji-Woo Jung)(チョン・ジウ)
◆最初に1999年の韓国映画としては「大胆」なポルノばりのセックス描写があるので、この男女は、最後に「罰」を受けるなという予想がつく。日本もそうだが、自由に代償がつくのがアジア的な特性だからだ。とはいえ、この映画は、そんな単純なことを問題にしてはいない。別に「儒教道徳」の残っている社会でなくても、そうあらざるを得ないようなギリシャ神話的な運命の強さに支配される家庭人の話だと言ったら大げさだろうか?
◆失業中の夫(チェ・ミンシク)に対する妻(チョン・ドヨン)の「翔びっぷり」はドラマにありがちなパターンで表現されている。彼女は、英会話学校を経営し、家事は夫にやらせ、自分は、密かに若い男(チェ・ジョンモ)とセックスのための(と自分で言う)逢い引きを続けている。それに気づいた夫が妻に制裁を加えるという筋書きだが、その終わり方が韓国風ユムール・ノワールになっている。
◆失業中でひまな夫は、古本屋にいりびたり、店の主人の渋い顔を尻目に読書にふける。店主が、「恋愛小説ばかり読んでいたのに、今度は推理小説かい」と言うのが、後半の展開を示唆する。この古本屋のシーンでは、ハングルの本の棚が見えるが、英語の本ばかりが並ぶ棚も映る。その古本屋の雰囲気が、昔の神保町や早稲田のそれに酷似していて印象的。日本の古本屋は、店売りよりもデパートなどの古本市を重視し、店の棚が貧しくなった。本を読む人口が減ったことも要因。
◆デザイナーか何かをしているというチェ・ジョンモ演じる男の部屋には、真空管式のステレオアンプがある。壁のポスターには、"Entre la terre et le ciel"(天と地のあいだ)という文字が見える。これは、映画のタイトルだろうか?
◆たぶん、チョン・ドヨン演じる女は、身勝手な人間として描かれているのだろう。彼女が、男と会うために子供に睡眠薬を飲ますのなど、映し方が、「やるべきではない」と言っているかのようである。しかし、身勝手な人間ばかり知っているわたしなどには、それがどうしたのという感じがしないでもない。
◆よく出来た作品だと思うが、女性が奔放に生きることにどこか抵抗を感じている男の目が強く感じられてしまう。
(シネカノン試写室)
2003-11-28_1
●解夏 (Gege/2003/Isomura Itsumichi)(磯村一路)
◆小学校の教師をする隆之(大沢たかお)は、目の不調おぼえ、友人から紹介された医者に、ベーチェット病で、やがて失明するだろうと宣告される。ここでちょっとわからないのは、最初彼が小学教師としていかに生徒たちから慕われているかを描きながら、生徒とのディスコミュニケーションに苦しむ夢のシーンと、目の不調を感じるシーンとがだぶるような描き方がされている点だ。彼は、小学校を辞め、生徒たちも悲しむのだが、彼が辞めるのが、目の不調のためなのか、それとも、生徒たちに慕われながらも、内心では生徒たちとディスコミュニケーションに陥るのではないかという不安に襲われ、そうした不安も手伝って小学校を辞めて故郷に帰ることにしたのかどうかがあいまいだ。というのも、決定的な不調は、学校を辞め、故郷の長崎に帰って母親(富司純子)と墓参りに行く階段で発作に襲われるシーンで示されるからである。
◆近年、教師をしている知り合いのなかにも、学生や生徒(むかしは、大学生は「学生」、小中学高校生は「生徒」というのがならわしだったが、いまでは、大学生自身が自分を「生徒」と言う――精神年令[自分を大人だと自覚する年令]は確かに下がってはいるが)とのコミュニケーションへの不安から引きこもりになってしまう者がいる。隆之にもそういう面があったのではないか?
◆平行描写的に、隆之の恋人陽子(石田ゆり子)のことが描かれる。これも、ちょっとわからないのだが、彼女は、モンゴルで教育心理学のリサーチをしている。モンゴルのシーンが映るので、いずれは隆之とモンゴルに行くのかと思うと、それだけで終わる。モンゴルを映す意味があるのは、彼女がモンゴルのマーケットで隆之へのおみやげとしてTシャツを買うというだけ。
◆悩める者が、偶然坊主などに出会って決定的な教えを受けるというような設定を入れる映画や小説はみな安易だとわたしは、偏見で思っている。この映画では、すでに失明の運命を知った隆之が、陽子と一緒に訪れる長崎の寺で会う林という仏教学(?)の教授・林(松村達雄)がその役。彼は、筆を取り、「解夏」と書き、これは、「げげ」と読み、梅雨から旧暦の7月15日(8月23日)まで、地上に生い立つ生き物を踏みつけて殺したりしないように、僧侶が寺に籠るが、それが終わる日のことだと説明する。そして、この「解夏」のあとには、恐怖からの解放があり、あなたも目が本当に見えなくなってしまえば、解放があるのだと。
◆たしかに、失明は、それに至る恐怖過程よりも、失明してからの方が奥が深いはずだだとわたしは思う。しかしそれならば、失明し、彼を支えてくれる陽子の顔しか(幻想的に)視覚に映らなくなるまでを描くこの映画は、他の病気を題材にしても出来ただろう。タイトルが「解夏」ならば、その「解夏」の実相をみせてもらいたかった。
◆わたしも視力を失いかけたことがある。いまも、その不安は残っているが、そういう不安を克服しようとしたとき、わたしは、盲目の可能性に思いを馳せた。現在、失明状態にあるナムジュン・パイクは、それでも多少は見えるレーザーを使ったアートに関心を持っているというが、わたしは、失明したらサンドアートをやろうと思った。ラディオ・キネソナスを始めたのもそういうことがからんでいる。幸か不幸か、まだ失明をまぬがれていて、サウンドアートだけがエスカレートしている。
◆隆之が、陽子にささえられて外を歩くシーンがあるが、やたら手探りをする。これは、ちょっと違うと思う。目が不自由になるとある種の「足さぐり」をするようになる。目が不自由になって歩くとき、一番困るのが、道路の高低だからだ。慣れてくると、自然に足が高低を自動的に探るようになり、真っ暗な中で目をつぶってでも歩けるようになる。
◆隆之が陽子と知り会ったのは、大学の恩師・朝村(林隆三)の紹介からだったということになっているが、友人がベイチェット病の「先輩」として紹介する人物(柄本明)同様、別に不可欠の登場人物ではないし、まして林や柄本をわざわざ出さなくてもよかったのではないか?
◆台本の指定か、それとも演技する石田ゆり子の育ちがいいのかはわからないが、彼女が演じる陽子は、隆之の母親に対する敬語がしっかりしている。演技としてでも敬語が出来る方が、利口に見えることは確か。
◆絵に描いたようなカップル関係、「嫁姑」(まだ結婚してないにしても)関係、出来すぎた予定調和(絵画館前で二人が出会うシーンなど)が描かれるが、全体にすがすがしくはある。
(東宝試写室)
2003-11-26
●ミスティック・リバー (Mystic River/2003/Crint Estwood)(クリント・イーストウッド)
◆ちょっと時間があぶなかったが、タクシーを使って駅に走り、たまたま来た快速で間に合う。このごろこんなことばかりしているので、街を歩いていてもフラヌール的な遊歩ができない。まあ東京と都市にますます愛想をつかしているからもあるが、『遊歩都市』や『都市の歩き方』を描いた粉川哲夫はどこへ行った? 試写室では、前の試写がまだ終わっていなかったので待たされる。映写が始まって、『トロイ』の予告が始まったらケータイのベルが鳴り、不思議な雰囲気が生まれた。いい試写室にかぎってこういうトロいやつがいる。
◆16年という年月は人をどう変えるのか? 幼少時の体験はその後の人生にどう影響するのか? 夫が犯罪を犯したとき、それを肯定するのか、それとも「社会正義」に従って夫の罪を否定するのか? いくつかの根本的な問いを残す力作。テンポを押さえ、音楽の入らないシーンを多くし、観客に「思索」の時間をあたえる。
◆ボストンのイーストバッキンガムの小さな町の閉鎖的な(その分自律的ではある)社会の構図。警官(ショーン=ケビン・ベーコン)、前科のあるやくざ者(ジミー=ショーン・ペン)、心に深い傷を負った男(デイヴ=ティム・ロビンス)の3人が、幼友達であるだけでなく、その後もこの社会の構造を象徴するかのように、どこかでつながって(癒着して)いる。
◆クリント・イーストウッドには、レイプとか少女誘拐とかを絶対に許せない、復讐に値するという主張をあらわにした「社会正義」的な姿勢がある。わたしとて、レイプとか少女誘拐を肯定するわけではないが、表現のレベルでは、人間はそういうことも犯すであろうというある種運命論的な気持ちと、そういうテーマを取り上げるのなら、そういうことをする者たちがどうしてそうなったのかというプロセスや環境に関心がある。これは、イーストウッドの場合とは決定的にちがう。しかし、彼は、そういうことへの怒りを主張することが受けるだろうという暗黙の判断があるように見える。しかし、それだと、アメリカ社会を善玉と悪玉とに二分するか、そういう「悪玉」が絶えることのないアメリカを全面否定するしかなくなる。
◆もっとも、本作からただよってくるのは、アメリカへの絶望であり、あきらめの気分である。デイヴは、少年時代に、刑事をよそおった2人の男に連れ去られ、陵辱を受けた。その犯人の一人は獄中で自殺し、もう一人も不遇な死をとげたということになっているが、それでこの問題が片づいたわけではない。刑罰ということでは解決できない問題であり、また、復讐によっても満たされることがないという含みはある。
◆最後の方で、ジミーが妻(ローラ・リニー)に自分の罪を告白する。すると妻は、「あなたはまちがっていないのよ」とあたかも彼を暗示にかけるかのようになぐさめ、セックスをする。これは、ある意味で実にカソリック的(設定はこの一家はカソリック。娘たちの聖体拝領の式[コミュニーオン]のシーンがある)なことであり、また、アメリカがくり返している戦争(侵略)の論理である。ブッシュはカソリックではないのだが、その手口は映画『ゴッドワーザー』シリーズの復讐と女(家庭)を媒介にした自己暗示である。その意味で、深く考えれば、この映画は、アメリカにおける国家と戦争と家族制の関係に光を当ててもいる。
◆ジミー、ショーン、デイヴの3人は、アメリカ社会を構成する基本タイプだとも言える。ポピュリスト的・マフィア的(国家よりも地域や仲間を優先する)なジミー、事実上組織の役人であり、「民主主義」を尊重するショーン(もっとそういう傾向を代表するのが、ローレンス・フィシュバーン演じる刑事)、より自己中心的で情緒不安定になりやすいデイブ。そして、それぞれが、妻との問題をかかえている。イーストウッドは、そのなかでも、ショーンを一番肯定的に描いているように見える。彼の妻は、身重のまま家を出、ときどきマンハッタンから電話してくるという設定。電話をする口から下だけが、何度か映され、和解し、彼の元にもどったとき、全身の姿が映る。
◆ボストンの「WB56」という放送局のテレビが映るシーンがあるが、この映画の舞台は、ボストンの貧民地区イースト・バッキンガムだという。
◆「ヤッピーが来やがって」というセリフがある。家賃が上がった話だが、ヤッピーという言葉をわたしは、しばらく聞かなかった。
◆ショーン・ペンの役は、はまり役のようだが、泣くべきシーンで目に涙が全然出て来ないのは、まずいのではないか? ローラ・リニーは、『ライフ・オブ・デビッド・ゲイル』におとらず、なかなかいい演技をしている。特に、警察の遺体安置所で娘の遺体と対面するときのシーンと前述のジミーを「暗示にかける」シーン。そういう意味で一番光っているのは、ブレンダンという、ジミーの娘の恋人で微妙な立場に陥る青年を演じるトム・ギリー (Tom Guiry)だ。
(ワーナー試写室)
2003-11-19
●タイムライン (Timeline/2003/Richard Donner)(リチャード・ドナー)
◆過去の時代にタイムスリップするという話は、これまであの手この手で映画化されており、別に新しくはないが、タイムトラベルものを見てあきないのは、わたしのなかにそういう欲求があるからだろう。タイムトラベルやタイムスリップには、ただ過去にもどるというだけでなく、過去から現在をみなおすという興味も含まれる。それと、歴史は、いつも再解釈を待っているものであり、ある意味でわれわれがタイムスリップして微調整することを待っているからである。
◆冒頭、アメリカの荒野の道路を走る車の前に意識不明の男が飛び出して来て跳ねられる。そのまえのショットで、森林を中世ヨーロッパの衣装に身を包んで馬上の騎士にその男が追われ、剣で突き刺されるショット。救命センターに運ばれた男はすぐに絶命するが、医者はその男の肉体組織がすべて異常なズレを起こしているのをいぶかる。そして、その遺体の受け取りに来たのは、地元の巨大バイオテクノロジー企業ITCだった。
◆場面かわってこちらは(弁士調だね)、フランス南西部のドルドニューにある14世紀の修道院跡の発掘現場。クリス(ポール・ウォーカー)、ケイト(フランシス・オコナー)、アンドレ(ジェラルド・バトラー)らの発掘チームが、そこで、14世紀には存在しえないはずのメガネのレンズと「Help Me E.A. Johnston 1357/4/2」という明らかに現代の文字を発見する。
◆この映画は、こういう「謎」を最初に提示して、それを徐々に解いて行くのではなく、すぐに謎解きをしてしまう。ITC社が時空間転送装置を作り、その実験で、14世紀のフランス(英仏百年戦争のさなか)に職員や学者を送り込む実験をしていたのだ。例のメガネは、クリスの父親で考古学者のジョンストン教授(ビリー・コリノー)のものだった。彼は、イギリス軍に囚われてしまったのだった。主なドラマは、14世紀にタイムスリップした現代人しかも当時の歴史に詳しい考古学者(従ってその歴史的な帰結を知っている)が、14世紀という制約のなかでやきもきしながらも、歴史の運命通りに進まざるをえない予定調和を生きる姿を見せる。このへん、リチャード・ドナーは踏ん切りがいい。変な装置で理屈をつけるよりも、タイムスリップということを一つのボーダー作成装置とみなし、そこから生まれるドラマを楽しんだ方がハリウッド映画らしい。ハリウッド映画にそんなに複雑なことは期待しないのだから。
◆しかし、タイムスリップした先の1357年のドルドニュー地方で出会う人間が、異文化的な距離感を感じさせないのはどうか? とりわけ森のなかで偶然アンドレが出会ったフランス人の女性クレア(アンナ・フリエル)は、まるで現代の女の感じだ。彼女は、英軍と熾烈な闘いを展開するフランス軍を率いるオルノー卿(ランベール・ウィルソン)の妹という設定だが、当時の貴族はそんな感じだったのだろうか? 時代のありがちなフィルターなどどうでもいいのだが、土地や場所がちがえば、なんか距離感があるのが、ドラマのシキタリではないか? だから、見せ場は、おのずからそういうディテールではなく、戦闘や追っかけ/逃走のサスペンスになってしまう。その点では、フランス軍が城に立てこもる英軍を攻めるシーンが見どころ。仏軍が、人力の牽引装置で油を塗り、火を点けた大きな石を飛ばし、迎え撃つ英軍は無数の火矢を空に放つ。
◆クリスたちが、最初に迷い込んだとき、すぐに追って来るのがイギリス軍。その野卑な描き方は、あきらかに、この映画、フランスに見方しているという印象を受ける。近年、アメリカでは、イラク戦争へのフランスの対応をきっかけにフランス批判をあおる動きがあるが、リチャード・ドナーは、それに組みしない。彼は、もともと、例の「赤狩り」でブラックリストに載せられたマーチン・リット(その恨みをはらした傑作がウディ・アレン主演の『ザ・フロント』(The Front/1976/Martin Ritt)のアシスタントとして映画入りをした。『陰謀のセオリー』(Conspiracy Theory/1997)でも、直接は出さないのだが、微妙な社会批判があった。
◆この映画と同じように、現代と過去とを交互に描いているだけなのだが、なぜか、別の時間と空間のなかを動いているという印象が深くなるという意味で印象的だったのは、コニー・ウィリスの長編小説『ドゥームズデイ・ブック』(Doomsday Book/1992/Connie Willis)だった。これも、時代は14世紀だが、場所は、イギリスのオックスフォード。2050年の「現代」には、タイムトラベルの技術が考古学で使われるようになっているという設定で、それを使って14世紀の調査に出かけた女性学者が行方不明になり、その師が彼女を探しに行く。『タイムライン』の原作は、マイケル・クライトンの1999年の作品。ヒューゴー賞を初めとする数々の賞に輝く『ドゥームズデイ・ブック』を読んでいないはずはないとすると、クリトン君、ちょっとずるいぞという感じ。
(よみうりホール)
2003-11-14
●ドッグヴィル (Dogville/2003/Lars von Trier)(ラース・フォン・トリアー)
◆始まるまえ大きなノートを取り出し、ばばーっと音を立てて横文字でDogvilleと書いたのですげぇと思った隣の女性。上映開始後10分ぐらいはペンを走らせる音とページを勢いよく繰る音。が、急に静かになってしまったので、横を見ると、愛らしい顔で眠っているのだった。たしかに、この映画は、眠りを誘う要素がないでもない。観客が積極的に介入しないと、意味を引き出せない(典型的なハリウッド映画のように向こうからマッサージしてはくれない)ような作りをしている。しかし、満員の場内のいくつかの個所から、場面によって笑い(みな女性)がもれたとこをみると、この日の観客の質かなりよかったのではないかと思う。
◆前作『ダンサー・インザ・ダーク』 も完璧にブレヒトの影響を感じさせたが、本作では、より濃厚にブレヒトの叙事詩的演劇の技法が使われている。ブレヒトの「異化効果」は、日本の舞台では「白けた」感じを出すだけに終わっていることが多かったが、この映画では、覚めた笑いをよび起こす。それでこそブレヒトだ。その点で、演劇ではさっぱりだめなブレヒト的技法が、映画で実現されたという感じ。撮影所の土間に通りと家・部屋の区画の線を引いただけのセットは実に斬新。ただし、地面の線だけの仕切りをまたぐとき、登場人物たちは、ドアのノブをつかみ、ドアを開けるしぐさをする。これは、月並み。形式としては、ブレヒト演劇の舞台を手持ちのカメラで撮って、ナレーションをつけたような感じ。
◆『ヨーロッパ』(Europa/1991) ほどではないにしても、ここでもカフカ(『アメリカ/失踪者』と『城』)への意識が感じられる。女主人公グレース(ニコール・キッドマン)は、『城』のKにも似ている。住民と距離が縮まらない感じも似ているし、彼女を終始助けるトム(ポール・ベタニー)は、バルナバスとフリーダとを合わせたような存在。時代は大恐慌の直後という設定だが、人工的に挿入した「距離」と「フィルター」のために、『アメリカ/失踪者』の雰囲気を思いおこさせる。
◆ロッキー山脈の孤立した寒村。貧しいながら自足していた村に身なりのよい女性グレースが迷い込んできたことによって、すべてが変わる。彼女を追って黒塗りの車に乗ったギャングとその親分(姿は見せない)がやってくる。村人は、とりわけ小説家志望のトムは彼女をかばい、グレースは、この村で雑用係のような役を得る。しかし、彼女が何者か(どのみちギャングに狙われている者だろう)という疑惑は深まっていき、最後に村人は、彼女をギャングに売り渡してしまう。しかし、最後に明かされる彼女の本性は、村人たちが予想していたものとは全くちがっていた。
◆この映画は、(閉所恐怖症で飛行機に乗れないので)アメリカへは行ったことのないラース・フォン・トリアのアメリカ観(批判)である。ドッグヴィルをイラクか南米のどこかの国だと考え、そこにアメリカの白人が迷い込んだと考えてみるとわかりやすい。そしてそのアメリカ人が、そこで「非人間的」な扱いを受け、それがアメリカ政府の知るところとなった場合を考えてみよう。アメリカという国は、これまで一貫して、自分の国の国民とりわけ白人が一人でも国外で殺されたり、陵辱されたりすると、その国に復讐するというパターンを踏んできた。イラク戦争もその典型である。この映画の最後のシーンは、まさにイラク戦争を想起させる。
◆人は貧しさゆえに卑劣な行為や裏切りに走るのだろうか? それとも、貧しさというものは相対的なものだから、その「貧しさ」が浮き彫りになるような事態が生まれるとき、それを浮き彫りにさせてしまうような人間が登場するときに、悪しき行為が姿をあらわすのだろうか? グレースは、その名 grace が示唆するように、汚れを知らないかのような女性として登場する。むろん、それは、欺瞞であり、彼女の特殊な環境のなかで構築されたものにすぎない。集団にとってよそ者はつねに、その集団的特性を悪しきものにも良いものにも変形させるきっかけを作る。グレースは、ドッグヴィルの住人にとっては、彼らのサディスティックな欲望を充足させる対象となる。自分らとは格の違う身なりをした女を下女あつかいにできると思った瞬間から、住人たちのなかに傲慢さというパラノイアックな欲望が首をもたげて来る。
◆エンドクレジットで、デイヴィッド・ボウイの『Young Americans』の「...do you remember, your President Nixson?」という歌詞が流れ、大恐慌時代の貧民街の光景、路上に横たわるホームレスや酔っ払い、死体、傷を負った男などのスチル写真、そしてニクソンの顔写真が映される。フォン・トリアは、いつも底辺の人々を支持するようなある種「ポピュリスト」的な姿勢を見せる。この映画も、アメリカの貧しさをつくっているのが、富裕な特権階級やマフィア的犯罪集団だという認識があるように思われる。その点では、フォン・トリアは、真正の「右翼」かもしれない。
(ギャガ試写室)
2003-11-13
●ラスト・サムライ (The Last Samurai/2003/Edward Zwick)(エドワード・ズウイック)
◆無理かと思ったが、開映時間の7時をすぎて会場に飛び込んだ。なにせ、6時まで大学でゼミがあり、それから駅まで走り(タクシーの姿は全くなかった)、国分寺駅から電車(特別快速は来なかった)に乗って有楽町にたどりついたのである。こんなこといつまでできるかねぇ。
◆これは、映画としても、日本へのアプローチ(その政治的な姿勢は別にして)としても、かなり高く評価できるだろう。 最近は、アドバイザーがよいのか、アメリカ映画が日本を描くとき、見ていてせせら笑いたくなるようなものが少なくなった。『キル・ビル vol.1』 もそうだったが、日本生活の長いこちらがはっとするようなアプローチがある。とにかく、決定を迷う天皇(明治)をこれだけストレートに出すのは、日本映画では無理だろう。そのうえ、その天皇(中村七之助)が、イメージ的に決して浮いていない。権威性を描きながら、その虚構のかかで迷う天皇個人を描いている。
◆ある意味で、これは、日本に憧れてやってきた外国人のメモワールのようなものである。職業軍人として、インディアンを虐殺してきたことが心の傷になっているネイサン・オールグレン(トム・クルーズ)は、決して、日本を憧れて来たわけではなく、明治維新期の日本の軍隊を近代化するための教官として高い謝礼で雇われてやって来たにすぎなかった。しかし、その後の彼の日本への印象は激変する。
◆ネイサンの経験の根底には、インディアンを畏敬する念がある。彼は、多数のアメリカ人のようにインディアンを「野蛮」だとは思っていない。彼は、白人の方が間違っていたことをその闘いを通じて知っていた。異文化と異民族への彼の感性があったからこそ、彼は勝元(渡辺謙)らと共鳴することがきたのである。
◆しかし、この映画で言われる「サムライ/侍」は、いわゆるサムライとはかなり異なっている。外国人は、日本人のスピリットが侍精神であるかのようにみなしがちだが、侍以外の階級にとって、刀をさしている侍は恐怖と威圧の階級以外の何者でもなかった。場合によっては刀を抜いて襲いかかるかもしれない存在だからこそ、彼らは、侍階級に柔順だったのだ。侍精神というのは、江戸幕府が、巧みに構築した管理と服従のシステムである。
◆勝元は、一面で天皇への恭順を示す。天皇は正しい、おかしいのは彼の側近たちである。原田眞人が演じる大村がその代表である。しかし、天皇は、この映画で、日本の近代化を進めることに積極的である。とすれば、近代的なものを否定する勝元たちと近代化とをどうやって両立させるのだろうか? 勝元らの「名誉」ある死こそが、その方法だというのだろうか? 論理的にはそうかもしれないが、日本にかぎらず、新しい権力は、つねにそういう形で――つまり「名誉」というようなものを捏造することによって古い権力の退陣・抹消を正当化してきたのではないか?
◆ネイサンたちとの戦闘で夫を失った「たか」(小雪)は、兄勝元の命令に従い、平静をよそおったままネイサンを家族同様にあつかう。小雪はなかなかいい演技をしている。一度だけ彼女が「もう耐えられない」と兄にもらすシーンがあるが、それ以後も復讐心を示すことはない。これも「武士道」だというのだろうが、すべてが復讐心に単純に収斂してしまう「アメリカ精神」との対比では、こういう強調も許すことが出来る。それは、裏側からアメリカを批判するという意味を持っている。
◆勝元や氏尾(真田広之)に関しては、死への恐れや敵を殺傷したことへの後悔の念は全くないものとして描かれているが、ネイサンは、くりかえし、戦闘の恐怖や悪夢に襲われる。アメリカで彼が酒びたりだったのもそのためだ。しかし、日本の武士とて、敵をうやまい、敵の名誉を重んじてきたわけではない。虐殺の例はいくらでもあった。
◆ネイサンが、船で日本の横浜に着き、上陸するシーンは、西洋人が香港に上陸するときのシーンと似ているが、路地でものを売っている人々や通行人の雰囲気が生き生きしていて、なかなかいい。
◆ネイサンと始めて面会した勝元は、いきなり英語をしゃべりだすが、彼はどこで英語を習ったという設定なのだろうか?このへんはいかにもアメリカ映画。
◆長谷川という役でTogo Igawaが出ていた。なかしい。彼、伊川東吾とは、1982年に初めて会った。内に夢と情熱を秘めている人だった。ラジオ・コメディア杉並というミニFM局を立ちあげるとき、わたしに相談してきた。その後、「主婦」だった福士敬子を扇動して政治家にしたと思ったら、ある日電話をしてきて、ロンドンに行くことにしたという。もともと彼は、アングラ芝居の役者であり、脈のない日本を捨てて本場に出かけて行ったのだった。その後、ロイヤル・シェイクスピアに入り、着実にキャリアを築いていく。脇役では相当の数の国際映画に登場しているのではないか。
◆上映中、ガードマンがドアーを出たり、入ったり。そのそばだったのでいらついた。観客の写真を撮っている女性職員もいた。おそらく盗撮を監視していたのだろう。すでにアメリカでそうだったが、このごろ、試写後数日でDVDが出回るそうだ。モニターするのはむずかしいが、USB接続のウェブカメラを胸ポケットに入れ、本体をバッグに忍ばせて盗撮することは簡単だ。だから、入るとき、持ち物検査もあった。しかし、いまやPDAでも録画できるからね。
(丸の内ピカデリー1)
2003-11-12_2
●ゴジラ x モスラ x メカゴジラ 東京SOS (Godzilla, Mothra, Mecha-godzilla)(手塚昌明)
◆今回はひどい。話にならない。多くの場合、ゴジラシリーズは、少なくとも、日本の保守主義者たちが、日本の防衛や危機管理をどう見ているかというバロメータの一端になりえる要素を持っていた。毎度自衛隊が協力する点でも、自衛隊の暗黙の宣伝意図も読み取ることができた。手塚は、前作『ゴジラXメカゴジラ』でもだめだったが、今回はさらにだめ。前々作の金子修介の 『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣層攻撃』では、キングギドラとモスラとの闘いのシーンなど、映像的に面白いところもあったが、今回は、映像的にも見るべきところは皆無。
◆巨大生物の最初の探知がいつも在日米軍であることが象徴的。そこから最初の情報が伝えられ、自衛隊が動く。
◆いまは、北朝鮮をメタファー的な仮想敵にするわけにもいかず、地政学的に明確な図式が出せないのだろう。そこで、おのずから、方向が宗教的になる。南太平洋のインファント島に住む妖精とかいう双子のような小人「小美人」(長澤まさみと大塚ちひろ)が出てきて、「死者の魂に手をつけてはならない。ゴジラの骨を使ってメカゴジラを作ったのは生命の原理にはずれる、はやく骨をもどしてください」というようなことを告げる。政治がだめなら、エコロジーというのは、わからないでもないが、この「小美人」が滑稽きわまりない。やめてよぉという感じ。
◆おそまつではあるが、モスラの2匹の幼虫が瀕死の親のところまでやってきて、支援するのはほほえましい。なにせ巨大ないも虫みたいな体で、口から綿のようなものをゴジラに吹きつける。何とか見れるのは、このシーンと、モスラを呼び出す記号を言語学者中條信一(小泉博)の孫が、小学校の校庭に机をならべて作るシーンぐらいか。
◆ゴジラに挑戦したメカゴジラが、ゴジラに倒され、起動不能に陥ったとき、そのメカの修理にたった一人(!?)でおもむいた中條義人(金子昇)が、ケーブルの切れているのをつなぐだけで修理を終えてしまう。そんな程度でなおるのなら、なかで運転している富樫(高杉亘)でも何とかなったはずだし、あれだけの超能力のあるメカゴジラ自身が自己再生できないはずはない。流体素子かなんかで、壊されても壊されても自己再生して行き、最後のどたんばでソフトが壊れ、それを中條が直すというのなら、まだ説得力がある。こうしたテクノロジー的ないい加減さは、映画作りと映像のいい加減さの尺度になる。この点でもこの映画はダメなのだ。
◆今回も総理大臣を中尾彬が演じているが、こういう醜悪な顔の総理大臣を設定しているのを見ても、この作品の美学的レベルが判断できる。
(東宝試写室)
2003-11-12_1
●エレファント (Elephant/2003/Gus Van Sant)(ガス・ヴァン・サント)
◆もうちょっと短くしてくれよと思っていた「アミューズ・ピクチャーズ・スクリーニングルーム」が、アミューズの東芝化によって、「東芝エンタテインメント試写室」となった。まだ長いが、まえよりはましだ。席についたら、隣が今野雄二さんの席だった。タバコを吸いに行ってもどってきた今野さんにばったり。今野さんは、来週とさ来週、わたしの授業でマーク・ロマネク、トレント・レズナー、デイヴィッド・ボウイなどについて話をしてくれることになっている。
◆ガス・ヴァン・サントの作品は、『ドラッグストア・カウボーイ』(1989)と『カウガール・ブルース』(1991)とを見て、好みの監督のなかに入れていたが、『グッド・ウィル・ハンティング』(1997)でその「普通」さに驚き、『サイコ』(1998)では唖然、『小説家を見つけたら』(2000)で、何か裏切られたような気がした。今回、カンヌでパルムドール賞と監督賞を取ったというのだが、そういうことには無関心に試写を見に来た。もう一度確認してやろうと思ったのだ。実は、映画の内容も知らずに来た。上映前、今野さんと別の話をしていたので、プレスも全然読まなかった。しかし、少し見ただけで、先が読めてしまった。カンヌで賞を取った作品にろくなものはない。
◆見るまえに頭に浮かんだのだから、書いてもいいだろう。だらだらと高校生の日常と学校での生活が描かれ、途中から時間が反復する。まあ、こういう日常の描写は悪くない。しかし、そうしたショットになかに、2人の生徒、アレックス(アレックス・フォロスト)とエリック(エリック・デューレン)が迷彩服を着、手に布の大きなバッグを持って校舎に入っていくショットが映る。そのとき、ああそうか、こいつらは、構内で銃を乱射するんだなと思ったら、そうなった。それだけの話だ。1999年4月20日(ヒトラーの誕生日)にコロラド州コロンバイン高校で起こった事件を知っている者には、すぐぴんとくるだろう。最初から、そういう事件が起きる素振りをあえて見せないようにしている演出としては、なんだあの「そっけなさ」と倦怠感(それらがよかったのに)は「フリ」(プリテンション)だったのかと、失望。
◆アレックスとエリックは、通販で手に入れた銃を持って家を出るまえ、シャワーをあびながら、キスをする。「女とやったこともないしな」と一人がつぶやくところをみると、そのキスは同性愛的なキスというよりも代償的なものでしかない。ゲイを宣言しているガス・ヴァン・サントからすると、2人が「真正」のゲイではなかったから、ファシズムに行ったと暗示したかったのかもしれない。
◆無関心を装った視線で映しつづけてきたカメラが、急に情感を込めた感じになる対象がある。それは、やや自閉症的で、性同一性障害を背負っているのではないかと思わせる大柄な少女ミッシェル(クリスティン・ヒックス)。彼女を追うカメラは、他の対象を追う場合よりもエモーショナルである。だから、彼女があっけなく撃たれてしまうと、その魂胆がわかるのである。哀れな感じがするからだが、それは、月並みな表現だろう。こういうテーマを描くのなら、ずっと「非情」に行かなければだめだ。
(東芝エンタテインメント試写室)
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